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2015-03-25

http://anond.hatelabo.jp/20150325023346

愚行権定義だとか、公共の福祉抵触しない程度に個人の欲望は優先されるとか、自然状態人間社会契約することで社会が成立するだとか

そういう理由でそれに意見することはできるけど、俺が描いていたのは、そういう文脈じゃないんだよ

出発点は「碇シンジがどうしてアスカの首を絞めたのか」「碇シンジの結末はあれで良かったのか?」と言う所

Air/まごころを、君に(以下、旧劇)」での2回の首絞めはどのような経緯だったのかと言うのが不思議だった

そして、どこか自分自身でもその行動に共感する所があったから、色々と調べて、他のエントリでも記述していた

結論から言えば、「碇シンジの首絞め行動には共感する部分があるが、それは余りにも典型化され過ぎていて、それが故に劇的で。劇的であるがゆえに、(アニメからというのがわかっていつつも)その描写に”気持ち悪さ”を覚える人もいると言う気持ちが分かる」と言う感触だった

人間と言う存在を1列にした時に、その端っこの部分にいるような感触がした

もちろん、アニメというのは個性能力も可愛さも格好よさも病理も苦悩も、極端化するものから仕方ないし当たり前だ

人は典型化されるから、分かりやすく特徴が表現される劇的な描写っだからこそ共感する

からこそ、本来であれば碇シンジの個人の人生で賄われるべき事柄に、アニメ描写必要性で以って全人類を巻き込んだ所に気持ち悪さが感じるという意見にも共感すべき所があるという感触だ

さて、細かい経緯を描き並べる

適当に拾い読みしてくれれば良い

碇シンジが首を絞めた理由としては、ここを参考に所が大きい

碇シンジは父親に捨てられたという体験がもとになり、いわゆるヤマアラシジレンマになっている状態だ

自分には価値がないから捨てられる」「捨てられるのは嫌だ、だから最初から関わらない」「人と関わりたいが、捨てられるならこちらから捨てる」という心情である

精神分析で言うなら、自体愛・自己愛の所で止まり対象愛、つまり他者他者として認め愛そうとはできない部分だ

(つまり自分を愛していて、安定しているか他者を愛することで自分も満ちるようにできる、共生的な状態にないと言う事)

旧劇における結末は、どのようなものだったか

描写としては「碇シンジ他者存在必要とし、全人類との一体化を否定してアスカと2人きりになった」という所だろう

すべてを一つにしてしま混沌を母的な存在とするなら、自己他者を切り分けて境界線を引くのは父的な存在である

父的側面の足りない碇シンジ自分とい他者を切り分けられたのは、極端な自己愛から脱却しつつあることを意味する

(なお、旧劇の該当シーンで地球細胞分裂のようになるのは、人が”切り分ける”事を通して分離個体化する事のメタファーとして効果的だったという感想自分は持っている)

人と他者が分離すれば、そこには常に自己愛の危機がある

ATフィールド訳語絶対恐怖領域である事を待たずとも、当たり前のことである

人は他人を受け入れたりもするが、受け入れなかったりもすると言う話に過ぎない

しかし、碇シンジはそうした絶対恐怖領域に耐えられるのだろうか?

碇シンジは旧劇終盤でアスカの首を絞めた

それは、「もしアスカが起きたらまた自分は拒絶される、だから拒絶=殺害したい。でも世界にはアスカしかいない、拒絶したら、もう2度と他者と触れ合えない。でも、でも、でも」と葛藤している所を表している

からアスカが「大丈夫、怯えなくてもいいよ」と頬を撫でると力が緩み、涙を流した

ここでアスカが言った「気持ち悪い」の意味に関しては、本筋とは関係ない上にまだ把握できていないので割愛する

さて、旧劇における首絞めの理由共感できる部分があると思った自分は、その過程(人類補完)と結末(アスカへの首絞め)が碇シンジにとって救いとなっているのか、新劇場版(以下、新劇)が作られたと言う事は、同じ結論にはならないのではないかと思った

(例として、新劇・破における碇シンジ自分個人の理由から綾波を救出し、周りの意見を聞かなかった結果、Qにて自分言葉が届かなくなってしまったなど、旧劇とはまた違う結末になりそうという所だったり)

そして、もし結論が違うのであれば、旧劇の過程結論は間違いだったのかと思った

シンジデストルドーはどのように救われれば良いのか、分からなくなった

そこで、エヴァに関しての考察は停止して、救いとは何かについて別の視点から記述した

結論から言えば、人は完璧世界(他者が居らず、自己愛けが満たされ、幼児的万能感の世界で神になる、自分が傷付かない世界)を目指そうとすれば死ぬしか無くなり、生きることは苦しんで研鑽したり、自己に閉じこもり堕落する事を繰り返し葛藤しながら何とかやっていくことに過ぎないということだ

坂口安吾が「生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか」と言いつつも「だが人間永遠に堕ちぬくことはできないだろう」と言った事と同じである

生きると言うことは決して楽なことではなく、むしろ葛藤を抱え、時に逃避したり自責感に自殺を選びたくなっても、ともかく自分なりの現実を作り生き続ける事に他ならない

そこまで考え、旧劇における結論他者存在がまだまだ希薄だが救いがあると思った

碇シンジ他者を認めつつあり、自分葛藤自分なりに処理していくことができるようになるだおる

しかし、その過程にてエラーがあった

碇シンジは、生きるか死ぬかの所で他の他者すべてを巻き込んでしまった

復活したのはアスカだけである自分は思っている

あの世界では、もう生きようと思っても生きられない

さらに言えば、その過程碇シンジと同じように葛藤を抱えて生きようとした全世界人間の救いを奪ってしまった

そうした自分勝手な行動によって他者の救いを奪ってしまった事、そしてやっと他者を認めつつあるのに、アスカ以外の人間を復活できなかった事から生じる生きられなさ

そういう結論から碇シンジ内面が何の関係もない他者人生世界の命運と”繋がってしまう”というエヴァンゲリオンに「だからエヴァンゲリオンを見た時の気持ち悪さはそこにあるんだと思う」という感触があることに否定が出来ない

いわゆるセカイ系の気持ち悪さと言い換えても良い

現実世界において、どれだけ葛藤を抱えても世界他者が壊れないのと別に

セカイ系においてはそうした葛藤世界他者が結ぶつきやすく、すぐに取り返しのない事に合ってしま

ある意味で、作品世界全部が主人公と一体化しており

それはその作品世界主人公が神になり、幼児的な万能感を得ているような感触を受ける

からこそ、最初エントリでは「だからエヴァンゲリオンを見た時の気持ち悪さはそこにあるんだと思う」と書いた

 
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