もうすぐ、出産を控えている。
そんな今、『母という病』 (岡田尊司)を手にとった。
子を生む前、このタイミングで読めてよかった、と思う。
本書は、様々なケースを紹介しながら、母とうまく関係を結べなかった子どもの不幸を説明している。
個人的には、多かれ少なかれ〝母という病〟は誰でも持っているのではないかと思うのだが。もちろん、私も。
私はずっと、それこそ30になるまではずっと、子どもは欲しくないと思っていて、それは、子どもにとって親は神のような存在になることの恐怖からだった。私の一挙手一投足、一言、だけではなく、存在そのものが1人の人間に影響を与える、そんな恐ろしいことはとてもできないと思っていた。
私は、母とも父とも、関係が悪いということはなく、ただ関係が希薄であり、それは大学から私自ら距離をとったからだ。中学時代から、ずっと早く家を出たいと思い続け、大学でやっと遠方に出てからは、ほとんど帰省しなかった。
母にまつわる幼い頃の記憶は、自分が否定されたことしかない。褒められた記憶はない。
叔父の家で少し癇癪をおこしたら殴られたこと、
友達の否定ばかりされ挙げ句の果てにその友達の前で『お母さん、◯◯ちゃんは嫌いよ』と言われたこと、
弟と一緒にスーパーでふざけていたら、『うるさいしずかにしろ』といわれ『弟のことは無視しなさい』といわれたこと、
父と喧嘩ばかりしており離婚するするといっては結局しないで、さっさと別れればいいのにといつも思っていたこと、
父の転勤話がでているのに自分は行く気は無いと言って小学校に何の連絡もしてくれず、父との板挟みになった私が自分から担任に申告して驚かれたこと、
いつの間にか家族の誰にも言わずに内職を始めており物件情報も集めていて、それを見つけた私に『お母さんは出て行くから』と言ったこと(結局出て行かなかった)、
進路希望を軽い気持ちで相談したら、泣いて否定されその後全力で怒られたこと。
何のきっかけか忘れたが、まだ幼い頃、脅しでハサミを母の腕に押し当てたところ無視され続け、そのまま母の腕をハサミでざっくりと切ったこともあった。
いつも髪をひっぱりあって喧嘩していた。
本書を読んで思ったのは、そっか、私は母に認められたくて、否定され続け、愛着が適正に育たなかったのかもな、ということ。
十代のころから、ずっと生きづらさを抱えていた。中学高校とだいたいの友達はグループをつくっていたが、私は一つに属すのではなくフラフラといろんなグループと付かず離れずでいた。
中学受験で入った学校はイジメなどはなく自由でおおらかな校風だったため、そんな私でも通えていたのかもしれない。
途中から、親もただの人間だと気付き、親に期待するのはやめ、いや、そもそも人に期待すると裏切られるだけだから最初から期待すべきではないという考えに至った。
大学時代は、水商売の世界に足をいれ、似たような生きづらさを抱える人の中に埋もれて安心感を得た。
ずっとずっと、自己肯定感を抱けずにいた。
なにも、私が特別などとは思っていない。こんな家庭はごまんとあるだろうし、こんな生きづらさは誰しも抱えているだろうと思っている。
ただ、親に健全に愛されて育ってきたんだろうな、と思わせるようなクラスメイト達の、会社の同僚達の無邪気さをみては、私はあんな風にはなれないしなりたくもない、と思っていた。
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でも今、もうすぐ子を生むにあたって、我が子には適正な愛着を育んで欲しいと思っている。
不必要な生きづらさは抱えて欲しくないし、自己肯定感を、基本的安心感をもった子に育って欲しいと強く思う。
基本的安心感とは、世界や自分といったものを無条件に信じることができることだ。基本的安心感がしっかり備わっている人は、何が起ころうとどうにかなると、未来を信じることができる。
本書では、ADHDも母との関係によるものだと述べている。もともと持っている子どもの傾向はあれど、それに対して適切なコミュニケーションが取られなかった場合にADHDなどの行動障害がひどくなりやすい、とのこと。(これが正しいのかどうかは私には分からないが)
もともとの子どもの性質は、人それぞれあると思うし、それに対してどう対応していくのか、がこれから親となる私に課されていること。
幼い頃、どれほど愛されたかでオキシトシン受容体の数がきまってしまい、オキシトシン受容体が少ないと子育てに歓びを感じにくく苦痛になりやすい、(つまりこれが負の連鎖なのだということか。)とも本書は述べている。
そうすると、私はオキシトシン受容体が少ないかもしれない、恐れている産後うつになりやすいのかもしれない、などとも思ってしまうが、その理屈を知っているのと知らないのとでは対応の仕方がまた異なる。
辛くなったら、周りに助けを求めながら、子を否定するとなく、暴力に訴えることなく、ダメなものはきちんと理由を説明しながら、自己肯定感を持った子に育てていきたい。
それが、出産を目前にした、今のわたしの気持ちだ。