はてなキーワード: 希薄とは
最近大分マシになって来たんですけど、どうも欲望が元に戻らないんですよ。
あれ欲しいとかこれしたいとかそういう欲望がどうにも希薄なんですよ。
あったらあったでいいけど、なくても別にいいかって思っちゃうんですよ、本でも漫画でもゲームでも。
そこでそうならずに欲しいってなったら動くことに繋がるかなーとか思うんですよ。
ぐだぐだ言ってねえで働けやっていうご意見もあるかなと思いますし、至極ごもっともだと思うんですよ。
でもそれで、お金入ったときのことを想像して、「あー、じゃああれ買おうかな」(欲しいものがないわけではない)とか思っても「あー、でも、別になくてもいいや」って思ってしまうんですよ。
素朴な疑問として伺いたいんですけれど、欲望って、何でしたっけ?
今年入籍した。
今は結婚式の準備や新生活で忙しいけど、そのなかでイラッとしたことがあった。
友人2人の二次会の出欠の返事が来ない。欠席ならまだしも、返信すら来ない。
その2人は高校時代の仲良し6人グループ(うち4人既婚で自分は4人目)のうちの2人で、先に結婚している。
自分はその2人の結婚式にも参加したし、他の4人とお金を出し合ってお祝いも送った。
「私はちゃんとお祝いしたのに!」と思って、怒りがわいた。
でもふと考えてみると、怒りしかわかなかった。悲しい、とかはない。
なぜか考えてみた。
確かに高校時代は仲良かったかもしれない。けれど卒業後、1人目の結婚式で全員呼ばれるまで(今考えれば人数合わせだけど)、再会しなかった。
再会を機に近所に住む子(例の2人ではない)とは頻繁に飲みに行くようになったけど、6人で会うのは結婚報告か結婚式でしかない。普段連絡も取らない。
つまり、結婚式だけの関係だったということ。別に仲良くないのだから、お祝いしてもらえなくても当然かもしれない。
その2人にとっては、私は友人ではないってことだと思う。私にとっても。
今は二次会に招待してしまったことをとても後悔してる。5人のうちで、仲の良い子だけ呼べばよかった。
5人全員呼ばなきゃって思い込んでいたけど、よく考えれば、別に仲良くない人を呼ぶ必要ってない。
その一方で、呼んだら喜んでくれた人や、お祝いまで贈ってくれた人もいた。
俺は全く判らない。
「福山ロス」と騒いでいる女の人たちに聞きたいし、教えてほしい。
男性のファンの人たちにも教えてほしい。
福山雅治のどこがいいんだ?
確かに、カッコいいとは思う。
けどカッコいい男なんて、他にもいっぱいいるだろ?
俺はすごく音楽が好きだ。日本のフォーク、ロック、ヒップホップ、渋谷系、パンク、アニソンと、いろんな音楽を聴いてきたと自負している。
外国の音楽もいっぱい聴いていきた。テクノやハウス、エレクトロとかプログレッシブなんたらといったジャンルまで、一通り聴いた。
個人的には、渋谷系とかハウスとかの音楽が好きになったんだけど。
そんな風にいろんな音楽と比べてみて、福山雅治が作っている楽曲が、すごくいいとは思わない。
確かに、たまに「squall」とか「桜坂」を聴いたりしたら「あっ、懐かしいな~」「いい曲だな~」とか、思ったりはするんだけど。
基本的に、ギターしか使ってないんじゃないのか?いや、俺の勘違いだったら訂正してほしい。
しかし俺が思うに、ギターで作れる楽曲の世界観には限界があると思う。
渋谷系や外国のクラブミュージックには、打ち込みの音でも生演奏のような繊細なメロディを複数重ねて、
それにヴォーカルを乗せて、いろんな音色が複雑に絡み合って、何年聴いてても聞き飽きないような楽曲になってたりする。
いやもちろん、「人の音楽の趣味は人それぞれだから、どの曲が優れてるかっていう判断基準なんてないよ」っていう相対論も共感出来る部分はある。
俺が気になるのは、福山雅治の音楽に対するスタンスについてだ。
本当に音楽が好きなのであれば、ギターと自分の歌声だけで勝負するんじゃなくて、堂本剛とか岡村靖幸とか山下達郎みたいに、ギター以外の
いろんな音色を自分の楽曲の中に取り入れようといった好奇心や努力を積み重ねるんじゃないのか?
それが福山雅治には感じられないんだよ。
音楽に対して、さして好奇心がないんじゃないのかって感じるんだ。ビジネスとして売れるかどうかという考えの比重が大きいんじゃないのかって。
その音楽に対する情熱の希薄さのようなものを感じて、どうも好きになれない。
いや、福山雅治の歌をいっぱい聴いているわけじゃないから、フォークっぽい楽曲以外もあると思うし、打ち込みを多用したり、ギターに
サックスやキーボード、ストリングスとか加えた編成とかで、「It's only love」「家族になろうよ」等の有名なバラードからは想像もつかない
ような前衛的な曲もあるかもしれない。
だからファンの人には「福山雅治はほんと、音楽が好きなんだな」って思うような曲を、俺に教えてほしいんだ。
福山の歌はいいんだってことを、プレゼンして、俺を納得させてくれ。
それとも俺の勘違いで、「歌じゃなくて、俳優としてのましゃが好き!」っていう理由とかか?
そういう人の方が多いか?
個人的には、そんなに悪くないと思う。
でもやっぱり、何か、鬼気迫るような感じとか、激しい喜怒哀楽の噴出とか、物足りない。
個人的な持論になってしまうが、2枚目も3枚目も演じられる俳優の方が、カッコよくないか?
「愛なんていらねえよ、夏」でシリアスな役柄も、「ストーカー逃げきれぬ愛」で変態役も演じた渡部篤郎とかの方が、
俳優として振り幅があって、カッコいいと思わないか?
岸谷五朗のように、渋い表情をした刑事役も、育ちの悪そうな教師役も出来る俳優の方が、カッコいいと思わないか?
アクションも出来る佐藤健やウォンビンとかイ・ビョンホンの方が、カッコいいと思わないか?
つまり結論を言うと、俺はあんまりいい評価を下していないんだ、福山雅治について。
音楽アーティストとして、俳優として、もっと優れていてカッコいい人はいると、個人的に判断している。
そして、バラエティ番組にあまり出ないだろ?その値打ちこいている感じも気に食わないんだ。
歌も俳優もバラエティもやるっていう方向性なら、何も文句はない。
だが「バラエティタレントじゃないんだぞ俺は」と、アーティスト・俳優としての見栄を切ってるんだから。
音楽アーティストとして、俳優として、評価の俎上に上げて、いろいろ言ってるんだよ。
いったいみんな福山雅治のどこが好きなんだ?
福山雅治をdisりたいわけじゃないし、disる目的で日記を書いたわけじゃないんだ。
間接的にdisることになってるかもしれないけど。
けど、しょうもないやっかみで福山雅治を非難しているわけではないってことを、理解してほしい。
俺は判らないから、納得したいだけなんだ。
単にマスコミが騒いでいるだけで、本当はそんなに福山ファンいないんじゃないのか。
ビジュアル?歌がいいのか?演技力?総合力?さらっと下ネタ言えるところ?
教えてくれ、福山雅治の魅力を!
http://anond.hatelabo.jp/20151005175917
の続き
「心が叫びたがっているんだ」を語るにあたって、最も欠かせない部分。それは学園パートではなく、家庭でのシーンにあると思う。
意外に思ったはずだ。学級会議で突然歌い出した成瀬に対するクラスメイトの人間的にまっとうすぎるリアクション。そしてそもそも成瀬のような生徒がいじめられていないクラスという環境。最初の印象は「やさしい世界」そのものだった。
しかし一方で、私はこのクラスの環境について、全くのファンタジーだとも思わない。私自身、近い環境は経験したことがあるからだ。私は高専という5年間同じクラスで学生が生活をし、工業系ということでオタクばかりが集まった中で学生生活を送ったことがある。それがちょうどあのクラスの環境に似ていた。いわゆるリア充やスポーツマン、根っからのオタクなどその中でもカテゴリは存在していたものの、それぞれに学園ヒエラルキーが適用されるのではなく、お互いに棲み分けを行うような形で折り合いをつける。結果、異分子的な存在に対しても特に働きかけることもない一方でいじめのような状況は発生しない(しなかったと思っていると付け加える)。
おそらく「ここさけ」の舞台の学校も、近いような環境、学力的にステロタイプに表すなら、偏差値が高いほうではある一方で、エリート校と言うほどではない奇跡的な案配といったところなのだろうと想像した。
ともかく、「やさしい世界」的に描かれた学校のシーンは、とても淡泊なものとなった。これはいじめ描写を除外することでその他のドラマに描写を注ぐためだったのだろうと思う。(本当は少し違うと思うのだが、後述する)
そのドラマとは当然青春ラブストーリーもあるが、それよりも重要なのは家庭のシーンだったと考えている。
まずは描写も直接的でわかりやすい成瀬の家庭について説明する。
まず、女手ひとつで子供を養うために母親が就いた仕事が「保険の勧誘員」というところ。ある程度年齢がいった女性が中途で採用される職業で、比較的安定しており生活が成立する収入を得られるものとして、典型的なものだ。彼女らの仕事は半歩合制であることが多く、望む収入によって仕事の量が変わってくる。夫婦共働きなら昼間だけつとめれば良いが、一般的サラリーマン並みを一人で稼ぐとなると残業は当たり前で、劇中のように帰りが遅くなることが多いだろう。
そして、母が在宅していない時、成瀬一人で自宅にいるときの「明かり」の付け方。あれもものすごく写実的だ。リビングのうちシステムキッチンの明かりだけつけて最低限の明かりを確保するだけ。ひどくリアルだと感じた。これは単に成瀬の暗い性格を表す演出というだけではなく、親が出かけており子供一人で留守番をしている光景として、典型的なものだと思う。電気代を節約して家計に貢献だとか、そういうことでは恐らくない。単に子供一人にとって、一軒家が広すぎるからだ。どうしても明かりは最低限となり、家全体で見たとき、点々と明かりがぼんやりとついているような状態になるのだ。何も片親だった人だけでなく、夫婦共働きの子供だった人なら思い当たるところがあるだろう。
車の音やインターホン、他人や親の気配を感じてびくりと身構えるあの感じも、そのものを写し取ったかのような正確さだと思う。
片親の親、あるいは子。共働きの親なら胸が張り裂けるような描写であっただろう。
登場人物のうち、自宅の描写があるのは成瀬と坂上だけだが、坂上が昔ながらの一軒家の形式に対して、成瀬の家が異なっていることはすぐ気づくところだと思う。
彼女の家はいわゆる分譲住宅だ。幼少期の描写ではぽつんと一軒成瀬の家だけが建っていたところから、現在では周囲に家が立ち並んでいるところをみると、成瀬の父親は転勤族であり、新しくできた分譲住宅に飛びつくような形でやってきた新参者だったのだと想像できる。
そこでまもなく彼女の意図しない密告により、両親の関係は決裂してしまうことになる。母親は子供を養うために働きに出るしかなく、自動的にご近所づきあいは破滅的に。地域性というバックボーンがない新参者のために、塞ぎがちになった成瀬に対しても「近所のガチンチョ」だとか、「面倒見の良いおばちゃん」のようなケアは存在しなかった。
建物一つの描写をとっても、このように彼女が今に至るまでで、そうなってしかるべきであったという状況が、写実的に示されているのだ。
この状況は、成瀬本人にとってはもちろん、母親にとっても過酷だ。母は成瀬に対して辛く当たるひどい親として描写されてはいたが、彼女の立場に立ってみれば、同情を禁じえない境遇といえるだろう。
坂上家で成瀬の母が「娘がおしゃべりで電話代がたいへん」なんて見栄を張っている描写もあったが、恐らく彼女は仕事場でも同じ嘘をついている。
典型的な母親のつく仕事である「保険の勧誘員」という職場において、子供の話題というのは避けて通れないものだろうから。
「心が叫びたがっているんだ」という映画。うわっつらはありきたりで平和な青春ラブストーリーであるが、このように少し掘り下げるだけで緻密で残酷な描写がちりばめられている。
しかしこれだけではない。行間に隠されてはいるが、物語の読解に重要なもう一方。勝るとも劣らない残酷な描写がある。
それはもちろん坂上の家庭環境だ。
坂上は父方の祖父母の元で生活している。そこは父親の実家であり、本宅でもある。しかし父親は家には寄りつかず、事実上は別宅みたいな扱いになっている。坂上の両親も成瀬の家庭と同じく離婚しており、母親が居ない片親の環境。子供の世話は父の両親、坂上からすれば祖父母に任せっきりだ。
以上が物語上で語られ、描写された内容ほぼすべて。祖父母が居ると言うことで、成瀬の家とは異なり暖かい明かりに包まれており、表面上とても平和に描写されているし、事実、平和なのだろうと思う。
しかしこれらの「行間」には、特に現役の父親にとって、致死量のカミソリが仕込まれているのだ。
それは、直接的には描写されない坂上の父親の影を追っていくことで明らかになっていく。
まず、成瀬が初めて坂上の家を訪れたとき通された父親の部屋。あれで一気に、坂上の父親の像がはっきりする。
普通の一軒家に見える家屋の二階に突如出現する、完全防音の音楽室。典型的な趣味人の部屋だ。防音設備など普通のサラリーマンでは考えられないような出費を伴うものだ。そもそもがあの家自体、広大な土地がある北海道において「坪庭」など、まさに道楽者そのものだと言える。※坪庭というのは家屋の中に四角く切り取った庭をこしらえたもの。本来は土地の限られた京都などのような所でふさわしいものだ。
そこから推測できる父親像はつまり、かなりの収入を得ている人物。さらに推し量ると恐らく音楽関係の業界人。それも相当名の高い人物と考えられる。
坂上は幼少期いやいやピアノを習わされた。しかし次第に夢中になり、ピアノに専念したいから私立校に進学するのはいやだと母親の勧めを突っぱねることになる。彼を擁護する父親、反対する母親。それが坂上の両親の離婚の原因になったという。しかし言葉の上では確かにそうかも知れないが、少なくとも現代の日本において離婚はまだそこまで軽々しいことではない。子供の進路についてもめることはどこの家庭でもあることだし、私はそこまで致命的な問題ではないと思う。
恐らく坂上の母親は、その件がきっかけで堪忍袋の緒が切れたのだ。家庭を顧みず、父親ではなく趣味人としてしか生きない男に。
男の片親。子育てを彼の両親に一任して自分は仕事に専念する。頼れる両親の健在な父親にとって、至極妥当な選択かつ、リアルなものに感じる。恐らく音楽の業界人ならば、仕事は都心のことが多いだろうし、それは当然家庭にほとんど寄りつかなくなるだろう。それに、当人にしてみれば、苦言を言う妻という存在がなくなり、以前よりよりいっそう父親の任を感じることなく趣味の延長のような仕事に没頭できるようになったのだ。坂上の祖父母はとても温厚だ。孫相手だというのもあるだろうが、坂上父のこれまで推察した人物像から考えれば、彼もまたこの二人に甘やかされて育ったのだろう。
今の彼は、もう一度独身貴族を楽しんでいるような感覚でいるかも知れない。「お子さんいるんですかぁ?信じられなぁい」なんて言われたりして。
父親が習わせたピアノで、坂上は母親を失うことになった。少なくとも表面上の因果的には。
しかし恐らく、父はそれについて罪の意識は抱いていない。そもそも、ピアノを教えたことが正しかった、間違っていたの葛藤すら抱いていないと思う。
ピアノを習うことは彼にとって当然だからそうしただけのこと。彼は自分が息子に与えた影響というものを全く意識していないのだろう。そもそも、父親としての自覚が希薄だから。
息子の坂上自身について考えてみよう。公式サイトにおいての彼のキャラクター紹介はこうだ
まるで平凡で人畜無害な子供のような説明になっているが、本編を見れば明白なとおり、事実とは真逆だ。
まずクラスでの立ち位置。無口でエアー的に振る舞う様は説明の通りではあるが、実行委員に選抜されたあと、坂上は学級会議の司会を堂々とつとめている。それを受けてのクラスメイトの態度、そして平時からのDTM研での扱い。これはいわゆる「表立って目立つタイプではないが一目置かれてるタイプ」の生徒のそれだ。成瀬や仁藤を除いても、もう一人や二人くらい、彼を思っている女子がいてしかるべき立ち位置に彼は居る。これは上で説明した彼の家柄によるものと考えることもできるが、彼の振る舞いを観察すれば、なんとなく推測できるところがある。
まず、その人格が常軌を逸している。言うなれば英雄的なところ。
完全に異常者である成瀬に対して、彼は最初から一切、一ミリも物怖じすることなく接した。普通にできることではない。彼の異常性というか、異端、あるいは抜きんでた人格を表していると思う。
「やさしい世界」のクラスメイトも成瀬に対して差別的な態度はとっていなかったものの、進んで接触するようなことはそれまでしなかった。
そのハードルを素知らぬ顔で乗り越える。というより、彼自身の異常性のためその特別さに気づいていないだろうところ。彼が一般人とはかけ離れている描写だと思った。
そして音楽の才能。
彼は「作曲はできない」と謙遜してはいるものの、ミュージカルの曲目において、それぞれのシーンを象徴する完璧と言える選曲を行った。そして即興でクラシックのマッシュアップさえしてみせたのである。それも、もう一つの結末の案を成瀬から聞いてたった数秒の逡巡の後にだ。才能があると言うほか無い。
つまりそこに集約される。クラスから一目おかれ、常人離れした振る舞いをし、音楽の才能がある、彼はいわゆる「天才」である。
ここで先ほど挙げたシーンに立ち戻ることができる。
「あこがれのお城」での彼の涙の理由について。
彼はもちろん、彼が説明するとおりの理由で涙した。「坂上拓実」と連呼する彼女の言葉に聞き入りながら。
奇しくもミュージカルの最終幕の歌詞をなぞらえるように、音の上では名前を呼んでいるだけのそれが、「愛しています」と聞こえてくるその芸術性に感じ入って涙したのだ。
言葉はその意味を越えて話し手の気持ちを投影するものなのだと。
あの切迫した状況においてである。天才の感受性と言うにふさわしい。
さて、彼の父親は誰だったか。
音楽業界において有力な人物である。彼もまた、音楽の天才と言えるのだろう。こんな自覚が希薄な男でも、坂上にとって彼は間違いなく「父親」であった。
彼の影響下の元、彼と同じ家庭環境に育まれ、坂上は父親の人格をしっかりと継承しているのである。いくら自覚がなくても、子供は親の影響を受けて育ち、それらを継承してしまう。
ところで、ここまで一切触れることはなかったが、仁藤の人格についても考えよう。
チア部のリーダーで責任感が強い。ラストのミュージカルで急遽代役を務める事になったときの態度からも読み取れるように、背負い込み、気負いすぎる性質を持っている。
私には彼女がある人物に重なって見える。
それは成瀬の母親だ。彼女は頼れる両親がいなかったのかもしれないが、どちらにしろよそに頼ることなく、女手一つで子供を育てる選択をした。再婚もせず、もちろん育児を放棄することもなかった。
彼女もまた、責任感が強く、背負い込み、気負いすぎる性質を持っているといえるだろう。
一方坂上はといえば、父親としての役目を全うできない道楽者の生き写しである。
ここまで考えると想像せずには居られなくなる。
彼らが結ばれ、子供をもうけるようなことになったとき、待ち受けている結末について。
そうならないと信じたい。
交流会を通しての経験から何かを得、成瀬や田崎のように坂上もまたその業からぬけだすことができるのだと。
以下は蛇足になる。
ここまで残酷で緻密な描写ができる監督、脚本家というのは何者なのだろう?と考える。もしかしたら、彼、あるいは彼らもまた、過酷な家庭環境で育ったのではないだろうか。そうでもなければ、ここまで緻密な描写など不可能なのではと思えてならない。
そして劇中の「やさしい世界」としてのクラス。部活でもクラスでも一目置かれる坂上の立場。
彼は過酷な家庭環境をもつ一方で、その救いを学校生活に見いだしていたのではないだろうか。
さらに推し量るなら、彼の担任教師の高校教師らしからぬ立ち振る舞い。そして文化祭の主役という立場を、スケープゴートとしてしか捉えない大人びた生徒達。彼の原体験は、大学生活にあったのではないか(あるいは高専?)と想像してしまった。
そして家庭シーンの原体験は成瀬と坂上の家庭の合いの子。きっと彼は「坂上と仁藤」の間に生まれたのではないだろうか。
そして彼は「父」になることを恐れているのだ。
ここまで書いたが、実は以上の内容、ほとんど筆者である私が気づいたことではない。
私はこの映画を、友人たちと連れだって見に行ったのだけれど、そのうちの一人の境遇がまさに、「片親という家庭環境で育ち」「現在父親」というものだった。
彼はその境遇故に、この映画の行間に仕込まれた凶器すべての気配を感じ取り、とても傷ついていた。一方で私ともう一人の友人といえば青春ラブストーリーとしてみていたので平和なものだったが。
彼は「もう二度と見たくない」とは言っていたが、その理由を聞いていくうちに、「心が叫びたがっているんだ」という映画の全体像を捉えることができた。私はこのことにとても感動したので、彼にぜひブログポストするように勧めたが、とてもできないということだったので、許可を得てこの文章を書いている。彼の現在の家庭は幸いにして、父親である彼と母親、両方かけることない家庭を築けている。(今のところ)
しかし彼の反応を観察するに、とても子を持つ親に勧められる作品とは言いがたいのかも知れない。
下衆の勘ぐりが正しいとすれば、この作品はつまり「サマーウォーズ」対抗軸、家庭という環境、父、母という存在を否定し、子供は学校などの社会でその人間性を開花させていくものだと説いたものなのだから。
事実、子供である成瀬に対して救済はあったが、彼女の母にそれはなかった。ミュージカルのシーンは母への救済と取ることもできなくはないが、今の私には罪と向き合い自分の無力さに泣き崩れる母親に見える。
ともあれ、ここまで読み解いてみてつくづくこの映画の凄さ、恐ろしさを感じる。
「青春ラブストーリー」としても、「核家族ホラー」としても、核心の部分をすべて行間に潜め、合致する感性を持つ人、あるいは何度も繰り返し視聴した人が、ここまで深く読み解くことができる作りになっていることがだ。
「心が叫びたがっているんだ」は傑作というほかない。
そういえばあの作品どうなった?確か去年アニメになった…皆で馬鹿にしていた…えーっとなんだっけ、ほら、そうだ
カゲプロだ。
ファンが若年層ということもあり根も葉もない低能な悪口が蔓延していたカゲロウプロジェクト、最近では全くその話題を見かけなくなった。そもそも私はカゲプロの総本山と思われるニコニコ動画にもアニメ最新話の配信をチェックしに行くのみで、ユーザーの投稿動画なんて滅多に見ない。そして去年の夏、その最新話をチェックするリストにカゲプロのアニメ「メカクシティアクターズ」も入っていた。一応全話見ている。しかし本筋のストーリーが驚くほどに存在しない上に、設定だけ事前にチェックし期待していた能力バトルもほぼ皆無(最終話付近に少しあるがしょぼい…なにこれ…アクション監督つけてくれよ!!!えっ予算的に無理?そうかごめん…)で、なんていうかかなり落胆した。でもそれは「カゲプロに失望する」ということとはどうにも違う感じがしたのだ。私はその答えを導き出せないまま、こうして一年が過ぎようとしていた。
しかし最近、何故かこの落胆に対しての答えがふっと出たのだ。多分一年ぶりにアニメを見直したせいだと思う。
視聴し直した後、私はメカクシティアクターズにまた落胆した。
だって中高生があんなに夢中になっていてさ、きっと自分のほんの少しのお小遣いやお年玉をつかってカゲプロのCDや漫画を買っていたに違いないでしょ、そういう作品なわけでしょ。自分の親に自分の好きなキャラのこと熱く語っちゃったり、学校に行く途中でカゲプロの曲をipodで聴いて自分のこと最強だって思っちゃったり、アマチュアで趣味で音楽を作り絵を書いていた人達が事務所と契約して作り上げた数々のMVを見て、自分もこういうことがしたい!とかクリエイティブなことに目覚めちゃったり、そういうキラキラしたものを若い子達にきっと与えていた作品なんでしょ。キラキラした世界をすごくすごく身近に感じられていた作品なんでしょ。そのアニメがこれ。本当に落胆した。
カゲプロはきっと若い子達の夢だったんだと思う。夢を見させるなにかだった。そしてその夢がみんな大好きだった。それが意図も簡単に崩れるところを見せられた気がしたのだ。
「君達が夢を見ていたカゲプロはこんなに中身の無い作品で、アニメにするとほらね、どうしようもないレベルの作品なんです。大人達もそうレビューしているしね。」
とてもとても居たたまれなくなった。
なんでもっといいアニメにならなかったんだろう…。ツイッターで単語検索をすると中高生ですらもうカゲプロの話はしていない。黒歴史だと語る者まで居る。カゲプロはもっと凄くなる、カゲプロを好きでよかったと若い子達に思わせるだけのアニメになってほしかった。
きっとそれは色々なところに要因があるのだろう、これは殆ど私の推測でしかないが、原作者の物書きとしての経験不足、話題性と即効性を重視したのであろうアニメ化企画、キャストを含めたスタッフへの説明不足、他にも色々あるのだろうね、わかるよ。なんかもうね、悲劇のカタマリって感じのアニメ化。誰もあんな出来は望んでなかった感じすごくした。試しにオーディオコメンタリーなんかも聴いてみたわけだけれど、これも凄いこと言ってんだ。原作者がアニメ見て「このキャラこんなだったっけ!?」と驚いた話をしたり、出演者が設定資料集見ても「全然話がわからない」って言ってたり……いやもう……ここまでユルい作品初めて見たよ。話がわからないとかそれもはやカゲプロのお家芸のようだけれどね…駄目でしょそれ…駄目でしょうよ!
私はきっとカゲプロを好きだった若い人達の夢をメカクシティアクターズに守り続けてほしかったのだ。
カゲプロを作ったじん(自然の敵P)氏もしづ氏も驚くほど若い。2人ともまだ二十代前半だろう。
メカクシティアクターズの出来と評判はある意味この2つの若い芽にお灸を据えてやったという雰囲気もあってイヤなのだ。
しかしその一方でカゲプロがこうした未熟な部分を剥き出しにされ晒されてしまった作品になってしまった要因についても私は考える。それは前述したように原作者と事務所側の単純な実力不足、経験不足だろう。興味本位でカゲプロの小説や漫画を読んでみると、やはりその物語の希薄さにもどかしさを感じる。だってカゲプロが若い子達に夢を見させたのは、紛れも無い事実なのだ。その夢を実現させられるのが経験豊富な出版社の編集の手を借りて作るそれらだったのではないか?アニメ制作のプロの手を借りて作るメカクシティアクターズだったんじゃないか?でも現実はそうじゃないわけだ。そうじゃなかった。商業主義とか流行とかそういう色々なものが頭を駆け巡る。私の夢想が甘いことも察する。
じん氏もしづ氏も若い。数年前のtwitterでの発言やニコニコ生放送の内容を調べると「ひえ…」と声をあげたくなるほどにこの二人は"若い"。そしてそれらを"痛い"とだけ処理して突き放し見下すことは大人側の私はどうにも厭だった。だってあの"痛さ"は私たちが過去に持っていたもの、持ち得ていたものだからだ。
メカクシティアクターズの放送が終わり、今月で一年経とうとしている。二人の"痛さ"はメカクシティアクターズの放送以降すっかりナリを潜めているように見受けられる。
2人もまた"大人"になり始めているのだろうか。
カゲプロ、実はまだ完結していない。小説と漫画がいまだに展開中なのである。
今年発行された 小説6巻 は感触としてかなりのBLなのだが(余談だが腐女子のファンの比率は恐ろしいほどに低い)、サトリ世代真っ只中の登場人物が現状を受け入れ思考停止し運命に謀殺されていく様子は、じん氏の現状を物語っているようにもとれて興味深い。
ファン達が夢を見なくなったカゲプロ、これからが作品にとっての正念場なのだろう。にわかファンながらそう強く感じている。
この崩れかけた夢を、両名が今後どのように再建していくのか見守っていきたいと、今は思っている。
誰かが刺激され、現代の若年層における現実の味気なさや不安に対抗するためのよりどころの特徴について考察してくれたら嬉しい
結局、誰もがレールをしかれて機械みたいに生産され続けてると、生きている意味を見失うんだろうな
結局、そういう実存とか生の感覚とかリアルさとかを浮き彫りにするための道具なんだろうな
酒やドラッグやセックス、喧嘩やリンチ暴力やいじめ、犯罪や虐待や戦争や人類の危機などなど
全部が全部、真剣に向き合わざるを得ないような事ばかりで
だからこそ人の目を惹くんだろうが
80年代の砂のような時代からは、どの漫画も希薄な現実を打ち消すような作品が多かった気がする
いわゆるヤンキー的な文化がもてはやされたし、現実でもそういうのが多かった
現実の味気なさに耐えきれない若年層のよりどころとして存在していたんだろうと思う
現実にそれを求めた時にヤンキーになり、作品に求めた時にサブカルチャーになるだけで
00年代ではそれがエヴァや最終兵器彼女のようなセカイ系に取って代わられたわけで
10年代はどういうものが現実の空虚さに耐えるためのよりどころとして存在してるんだろうか
全体的には、おそらく00年代を通過した事で「外出すること」が少なくなった気がする
他者とのつながりに、救いを求めるような傾向が減ってきている感覚がある
行動化をしない代わりに、より鬱屈とした集団が出来上がっている
もしかすると、その源流にある薄ら暗さはオウムであるかもしれないし、酒鬼薔薇かもしれない
原型としては、意外と村上春樹なのかも知れないが
ひたすら自己に潜っていくという意味では、村上作品を聖典とする世代が今の若年層のメインなのかもしれない
そういう意味で、いわゆる00年代から萌芽した新ジャンルスレやSSスレが読み解くカギなのかもしれない
また、小説家になろうなどの小説コミュニティもその一端を握るだろうし
ニコニコ動画でのストーリー付き楽曲についても、影響力があるのかも知れない
それらに共通するテーマこそが、今の若年層のよりどころとなっているのだろう
初めて誰かのことを好きになったから、何かあっても何もなくても混乱する
ずっといじめられっこで馬鹿にされてパワハラにもセクハラにもあって、男の人どころか人間が怖かった
仕事以外の人間関係が希薄な会社に転職できて、ようやく心穏やかに毎日淡々と生活できるようになってほっとしてたのに
お酒飲んだりでかけたりしてそれはたのしいんだけど、嫌われてるんじゃないか影で笑われているんじゃないかっていつも考えてる
そんなことないよ、って思えば思うほど、じゃあもし嫌われてしまったらいったいどうしたらいいんだろうって思う
なんとも思っていなかったときは気にならなかったのに、好きかもしれないって思ってから、いろんなことが気になる
年相応に振舞えているか、人並みのメイクができているか、変な服装になってないか
どれもこれも今まで気にしたことがなくて、人に笑われても仕方がないってくらいに自信がない
私と一緒にいるせいで嫌な気持ちになったりするんじゃないかって思うと誘ってくれてるのに会うのが申し訳なくなる
だからさっさと嫌われて楽になりたくて、好きです本気です、って伝えたのに、まだ答えが出せないけど気持ちは嬉しいなんていわれて。
またご飯食べにいったりしようって言われて、けっきょく何も解決しないままずるずると会い続けてる
私のことなんて早く嫌いになればいいのに、って思って、どうでもいいようなメールしてみたり、休みの日に呼び出してみたりして。
そういいながら、態度がそっけなかったら多分落ち込むし、メールの返事も顔文字も、いちいちどういう意味なんだろうって考えてしまう。
実際はくだらないメールしても、どこに誘っても、迷惑じゃないよ楽しかったよまた出かけようねって言われて、この人botなのかもしれないとか思う。
人の視線が怖くて、目を合わせて話すのが苦手で、だからいつも目があってもどうしていいかわからないから、いつも顔が見れない
男の人は顔を見ながら話すのが普通なのかもしれないけど、なんかいつも見られてるから、あら捜しされてるんじゃないかって思って怖い
探すまでもなくあらだらけだしあっちは私より八年分長く生きてるだけ女性経験だってあるんだろうし珍獣かなにかだと思われてるのかもしれない
なんかもうはっきりと友達としては好きだけど付き合ったりする好きじゃないって言ってくれたらいいのに
ただ、それを聞く勇気もないし、勇気が出てもなんて聞けばいいのかわかんないし、ただこのままはっきりしないのはなんかつらいしどうにかしたい
法的な問題の話なんてしていませんし、そもそもデザインを「トレースする」のではなく「パクる」というなら著作権的にも問題ありません。
デザイン業界で仕事するならもっと勉強されておいた方がよいのではないでしょうか。
自分を被害者のようにして業界擁護されているようですが、あなたの言う自分の身の回りのデザイン業界で働く人があなたのいる会社と業界のように
パクリや無断使用をコスト削減という自己都合による目的で行っているとは限らないということも知っておいてもらいたいです。
まじめに著作権に向き合い将来的なリスクを考えた業務運営をされているデザイン事務所はむしろ当然のように無断使用をとらえているデザイン事務所について怒りを感じているということです。
フォトグラファーだけど、この考えには反対。
反対というよりは、理想論だけどもうそんなことを守ることが不可能な時代になってきていると思うということ。
デザインと同じく、相手に対して理解や勉強を求めるのは、それはお門違いな問題だと思うんだ。
広告全てが常にオープンに展開されていくわけではなく、実にクローズドな世界で実に即日的に消費されていくことのほうが多いわけだから、コスト激化の時代において利害関係が希薄なインターネットの向こう側の写真を使うことに躊躇しないデザイナーは多いと思う。
毎日のように投函される地元店舗のチラシを見てみればそれが日常だということがすぐに分かるはずだ。
それら全てをチェックして、それら全てに対してロイヤリティを請求するなんてできるわけがない。
例えば、一点もので展示会を開けるような写真芸術家であればその作品一つ一つに対してのコピーライトを守ることがイコール写真家の価値を守ることになるとは思う。
でも、自分レベルのフォトグラファーであれば、それよりも一つでも多くの作品が消費されて、より世の中に出て行くことのほうが重要だと思っている。
以前、本城直季の真似をしたミニチュア写真が世の中に溢れかえった時がある。
あのブームは、彼の写真をいいと賛同したからこそ、皆が模倣して色々な作品がさらに生み出された好例だと思うんだ。
模倣と盗作は当然異なるものではあるけど、それならあの時に全員が全員彼に対する敬意を持っていたかというとそれは別だ。
それによって彼が自分の作品が次々に蹂躙されている!と思ったかというと、それも別なはずだ。
おそらく彼はすでに次の作品を見据えていただろうし、ある意味ではブームの火付け役としての余裕もあったのかもしれない。
まだまだ一点ものの作品だけが評価されるようなレベルではな自分にとってみれば、生み出した作品の価値を頑なに守っていくことに縛られるくらいなら、さっさと価値を捨てて次の作品作りに突き進んでいくことのほうが重要だと思うんだ。
むしろお金を払ってでも、一人でも多くの人間の目に触れさせたいって思ってるくらいだ。
それでいつか技術も評価も実績も伴った時、その時代にあった考え方で自分のコピーライトを守ればいいんじゃないかな。
あなたがどれほどのフォトグラファーかもわからないし、あなたの考えを否定したいというわけではなくて、これからの時代の版権は自分くらいでは守られないことを前提に考えていかなくてはやっていけないということを言いたかっただけ。
佐野氏を擁護するわけではないけど、彼の審美眼とそれまでの作品を認めてきた世の中が確かなら、彼に選ばれた、彼の生み出したものと同等のコンセプトと完成度があったってことは自分の評価に置き換えていいと思うのだけどね。
最近よく昔の幼馴染がよく夢に出てくる
家がとても近くて(隣だった)小さい時からよく遊んでくれて、
幼稚園も違うクラスだったけれどたまに見に来てくれてたりした。
自分はきょうだいがいないからその子は同級生なんだけれど誕生日は早かったから
お兄ちゃんみたいでその子の妹が自分の妹ちゃんみたいにずっと過ごしてた。
感謝してもしきれないくらい、良くしてもらった。
今でも幼馴染のほうは夢に出てくる。というか引っ越してから出てくるようになった。
昔は日常的に遊んでたしそこまで何も感じなかったけれど
引っ越してから新しい学校での人間関係がかなり希薄になってから
なんかよく分かんないけれど好きになってしまった。
引っ越してから何回かは会ったけれど、ここ3~4年は会ってもいなければ見かけてもいない。
元気してんのかな。たぶん元気だとは思うけれどな。
夢に出てくるたびに会いたくなるんですが…
いつか会えないかな。
というのも、生まれた瞬間から日本国民として生きることを背負わされてしまい、
もちろんその選択には「無国籍」という選択肢があっても良いんじゃなかろうかと思う。
日本国民であったから良かったことだってたくさんある。例えば、日本国民であったから
憲法上、自然権が守られているという事実もあるし、日本国籍で、日本の経済圏にあるから
現在、生活するのに充足する収入が得られているという点もある。
だがどれもこれも自分が選択して日本国籍者となったのなら、より納得がいくということが言いたい。
日本という地域で暮らしているという意識はあるし、日本列島への愛着もある。
日本語という言語が好きだし、この言語の元で発展した文化諸々も愛している。
これは愚にも付かないただのポエムだ。それ以上でもそれ以下でもない。増田にありがちな、特に読む必要の無い、駄文というものだ。登場するものはイニシャルとかではなくただの連番を振ることにする。
僕は心が壊れてリタイアをしたことがある技術者だ。今の会社にはちょっとした縁があって拾われた。技術自体は多少は持ってるもの実質未経験な上、コミュニケーションに難があるがそれでも良いということで採用された。
入社してすぐ上長である1.から「ほんとごめん」っていきなり謝られた。当時はいやな予感はしたものの全く何を謝られているのか理解できなかったが、配属されたプロダクト2.のことだった。2.はとにかくスピード勝負で立ち上げられたもので、度を超えて醜悪で、かつ誰も全容を把握していないという度しがたいものであった。
もちろんこれには事情もあって2.が立ち上がった時点で主流だった3.というプロダクトはかっちりしているものの開発スピードが極度に遅いモノだった。仕組み・制度・人員様々な事情はあったが、おそらくはプロダクトに対する依頼者4.と開発部署の人間関係に起因するものではないかと僕は推測している。推測する理由は、その後に深まる部署間の対立と、2.が度々抜け穴として使われていた事実からだ。
2.のプロダクトのリーダーをやっていてつらかったのは、プロダクトの実情と、周りの認識の乖離によるものだ。2.は抜け穴として扱われる以外にもスピーディな開発ができると期待されるものだった。だが、実際には極度の複雑性を持つために、何かを犠牲にしなければ高速な開発など到底望めないものだったのだ。しかも、なぜか「簡単」という印象も先行していたこと、そもそも僕自身がリーダーという未経験の業務を社会復帰直後に負わされたこと、前任担当者と入れ替わり入社したこともあって実質引き継ぎがなかったこと、ほぼ人員が割り当てられない (一時期は担当者が僕一人になっていた) こと、重要な機能を実現するにはふさわしくないにもかかわらず、3. の連携プロダクトとして、重要な機能を実現してしまったことなど…。書くにはきりが無いのでここらへんにしよう。
後ほど2.から離れた後に何人かから2.に関する外的な評価を聞いたが、「どうしてあんな簡単なプロダクトに苦労するところあるの?」みたい話に帰結していた。ぼくの評価に関してははまぁそのようなものだろう。1. からは「好きなようにしていいよ」と言われていたので、本当はチャンスだったのかもしれない。ただ、僕にはそれを好きなようにできるだけの経験が全く無かったのだ。またコミュニケーションの問題もあって、復帰直前などは対人恐怖が強かったのもあって、ステイクホルダーがあまりにも多く関わる2.のプロダクトを切り盛りするにはふさわしくなかった。
2.のプロダクトに関わっている間に社内情勢はがらりと変わる。技術者の部署が分割され花形となる主流派と傍流に散っていくことになる。また、給与レンジの変更があったときに実質引き下げを行われ、僕の給与は高卒と同程度となった。詳しいことは特に書く気はない。まぁ僕はつじつまさえ合っていればいいといういい加減な人間なので給与に対する不満はあっても、曲がりなりにも生活できてるのならそれでいいかと考えていた。
僕の不満はむしろ待遇に対するものだ。選択肢がどんどん狭まっていく労働を強いられているということが我慢ならないのだ。主流派には興味深い技術も多い。僕は最近悟ったのだが、技術的チャレンジに意欲が極度に強い反面、平凡な糞くだらない開発には全く興味もわかないのだ。そして、興味の無いことに対する作業効率がきわめて悪いのだ。まぁ一端その話は置いておこう。
2.のプロダクトから離れた後部署内の様々なプロダクトを転々とすることになる。あるプロダクトのリーダー5.は10歳年下だったが、僕のことを最初から見下して「○○君」と呼んだり「こんな程度の引き継ぎ、教えなくてもわかるだろ」と言ったりしていた。後ほど上長8.から窘められたのか「○○さん」と呼ぶようにはなっていたが。またプロダクトのメンバー6.には質問をしたときに「あうぇあうぇうぇうぇうぇー」とか意味不明な奇声を上げたりされた。詳しい台詞はもう覚えてないが、とにかくすごくふざけた感じの返答しかしてこなかった。別に6.は他の人に対してそのような言動をしていることは全く無かったのだが。
実際のところ、僕が今の会社でトラブルのあった人間関係としては、5.と6.と給与実質引き下げの直前の部長くらいしかなかったが、実は僕が認識していないだけでもっとあったのかもしれない。後ほど語る7.とは人間関係のトラブルはあったものの仕事では全くからみがなかった。
話を戻すが、5.と一緒に働くのはとにかく苦痛だった。思い出すだけで吐き気がしてきてつらいので詳しいことは書かないが、僕はとにかく精神的に荒れていてSNSに愚痴を吐露し続けたり、会社を休職しようかと思っていたが8.に相談をしたときに「休職すると、現時点ですでに下限の給与がアルバイト並に引き下げられることになるし、とにかくやめておけ。なんとかがんばって出社しろ」と言われた。8.との幾度かの面談で、大体2.や僕の評価について知ることになる。
もう詳しく覚えていないのだが、このタイミングだったか、入社以来友人関係のあった7.と喧嘩別れをした。7.の日頃の考え方、言動にとにかくムカついて反感を感じていたのだ。日頃から7.はSNSで僕に対する当て付けをエアーリプライで飛ばしまくっていた。まぁ7.の言動などから推察するに、彼も僕には反感を抱いていたのだろう。お互い、ソリの合わなさを我慢して友人関係を続けていたのだが、この時に「我慢をし続けるのは本当に良くない」と悟った。ただ、一つだけなるほどと思ったことがあった。
当時、待遇の不満に対して、転職を考えていたのだが、そのことを知る7.に「転職しても根本解決しないのでは?」と言われたことだけは確かにそうなのかもしれないとは思っている。後に別の人物にも近いことを言われたし実際そうなのだろう。もう一つ印象深いことを言い残していて「おまえは本当に開発が好きなのか?」と。先ほども書いたが僕が好きなのは技術的なチャレンジであって、平凡な開発には興味の欠片もないのだ。「コードを書いてさえいれば幸せだ」というタイプの人種とは全く違う。
さて、話を戻すと、僕はなんとか欠勤することもなく出社を続けた。その後、5.は別チームに飛ばされ、一時の心の平穏を得ることになる。この平穏な時期はほとんど「死にたい」と思うこともなく生きていられた。
だが、最近また精神状態が悪化することになる。実はそのトリガーが何だったのかを全く思い出せない。平穏期に意図的に待遇に対する不満を忘れていたのが再度噴出することになる。時期だけは覚えていて、大体6月末だ。7月以降、僕は考え方を切り替えた。「我慢すると、いつか破綻を来す」睡眠時間を削ってオフタイムに技術的なチャレンジをすることになる。
僕は人格的には最悪なタイプだ。客観的に見て僕は僕と仲良くしようとは欠片も思わないだろう。コミュニケーション能力は無くはないが、きわめて偏っているので、コミュ障と言ってもいいだろう。仕事に関する能力にしてもさほど高くはない。頭が良いわけでもないし、あまり効率的ではないし、何より興味の無いことに対して僕は露骨すぎる。狙ってやっているわけではないがどうしてもそうなってしまうのだ。
技術的チャレンジだけでなんとかやっていけないだろうか?と、考えている。ここで問題になるのが僕の学歴のなさだ。ドロップアウト組なので学そのものが無い。だが、僕は技術的なチャレンジにしか興味を持てないのだ。友人からは「贅沢な悩みだなー」と言われた。実際そうなのだろう。仕事をえり好みするというのはきわめて贅沢な悩みなのだろう。部署の壁もある。
さて、僕の生きる理由の希薄さについて説明せねばなるまい。僕は生きる理由が希薄なのだ。ドロップアウトした頃の後遺症なのか、未だに希薄なのだ。存命の父親に迷惑をかけたくない、痛いのはいやだ、技術的チャレンジをしたい位しか生きる理由もないのだ。趣味はなくもないが、生きたい理由になるほど強くもない。生きることに必死になれないのだ。贅沢な悩みで、死を選んでもいいかなと考えてしまう程度には。
僕はリミットを定めている。それは借金が限界まで行ったらというものだ。最近手持ちの金が尽きて、最大200万円のカードローンを契約した。これが限界までいったら、その時はもういいかなと思っている。それまではがんばろうという思いなのだ。
駄文につきあってくれてありがとう。別に何か取り立てておもしろみのある事件があったわけでもない。無能な男が、平々凡々な日々のやりとりや、しょうもないことに心が摩耗してしまって、心が悲鳴を上げていたので、誰かに聞いてほしくて文章を書いた。ただそれだけのしょうも無い駄文につきあってくれて、本当にありがとう。
下心が恋とはよく言ったものだと思う。
大学生くらいまでに恋だと思ってたのはたぶん大方がセックスしたいというだけのものだったと思う。
結局まともに誰とも付き合えないまま29まできてしまった。
20代最後の年。
もう今となっては楽しい恋をすることはできないだろう。
何をするにしても結婚がちらついて純粋に他人と付き合うような時間も余裕もない。
女性に比べたらまだマサイなのかもしれないけど。
あずにゃんがいればいいや。
でもぶっちゃけ個人のことでいっぱいいっぱいだもんなー。
昔馬鹿にしてたいわゆるDQNのほうが、たくさん子ども育ててたりして、世間一般的には貢献してるんだよなー。
ゴミはこっちのほうだわ。
たかがウンコをするだけで好奇の目で見られ、吊し上げられ、仲間外れにされる。漏らしたわけでは無い。個室に入ることでさえ学校ではタブーなのだ
仲の良い友達でさえ手のひらを返したように、向こう側、いじめる側に行ってしまう。味方は誰もいない。先生はそれこそ「たかがウンコ」だ
子供が残酷というのは、このことを言うと思う。たかがウンコで汚いものと仲間外れにされからかわれる。いじめている方はこっち側の大勢だし、たかがウンコなので罪の意識は希薄なのだ
学校という狭い組織での仲間外れとは、生きていけないということだ。日本人の気質、陰湿な気質
いじめられた子供は一生心に傷を負おう。いじめとはどういうものかは、いまさら言及しないが、たかがウンコに
排便体操だと?食生活を見直そうだと?ふざけるな!浅はかな大人の考えそうなことだ。せめて、子供になぜトイレに行かないか聞かないのか?
便秘で死ぬ子供が出るまで、こんな馬鹿々々ことでいじめられて心が傷つく子供がいることを世間は気付かないだろう
少なくとも高校生の頃までは、定期考査、に限らないんだけれど、学校のテストが好きだった。なんで高校生までかというと、大学のテストでほとんど良い成績を取った記憶がないからだ。
理由のひとつは、テスト期間は授業がないこと。パパッと問題解いちゃえばあとは寝放題だったのは良かった。午前中とかで終わるし。
もうひとつは、大学のテストは前述の通りなのだけれど、高校までは逆に、あまり悪い成績を取った記憶がないということ。高校の時は廊下に毎回上位者の結果が貼り出されてたんだけど、三年間そこから脱落したことはなかった(と思う)。良い結果に終わることがある程度わかってるから、テストに対する危機感とかネガティブ意識みたいなものが希薄だった。
何より、答えがあって、点数がついて、順位がつくというのが良かったと思う。一番上が見えて、平均が見えて、自分がどこにいるのかが見える。良くも悪くも明確に、明朗に、明白に、数字で評価されるというのは、存外に悪くないシステムだったと今になって思う。
大学以降は、解答欄をたったひとつの答えで埋めるということが滅多になくなった。思考力を問われ、論述を求められるようなテストが多くなった(文系だったからかもしれない)。僕は昔からそういう曖昧なものを求められるのが苦手だったし、嫌いだった。作文とか読書感想文とか、今もなお総じて不得意分野だと言っていい。
だというのに、社会に出てみれば右も左もその不得意分野で溢れていて、否応無しに仕掛り、仕上げなければならなくなる。学校の勉強が役に立たないという弁は、こういった点においては真だと思う。
かと言って、社会は社会で、会社は会社で、人を数字で評価する仕組みがあるし、その結果如何で一喜一憂もあると思う。学校と違うのは、如何に教科書を、問題集を理解しているか、公式を暗記しているかではなく、僕が不得意とする『曖昧なもの』を元にしてその数字がはじき出されているということだ。苦手だと自覚しているものについて、改めて指摘されるというのは居心地がいいものではない。学校の勉強が苦手な人は、あるいは苦手教科がある人は、すでにそのことを身をもって感じたことがあると思う。誰しもあることと思う。しかしそれが『曖昧なもの』に基いていなければ、ひとつの指針になることも事実だ。
学生時代のような評価を受ける機会がなくなってからこそ、例えば資格だったり、何かの問題集だったり、明白な解答があるものに臨むと、意外とやる気が呼び起こされたりするのでおすすめしたい。良い点をとって自己満足を得ることは、存外に悪いことではないのだ。
さて、加齢した。なので、加齢による気づきでも書いてみよう。
まず肉体だが、これは思ったよりガタ来ない。知り合いのおっさんによると50歳超すとやばいそうだ。ガタが来ないといっても個人差もあることだし、なにより継続してずーっと体力その他は落ちていくので、あまり自覚しなくて済んでいるだけという可能性が高い。朝がきつくなったりとか徹夜がだめになったりとか、まあいろいろあるんだけど、継続して朝がきついんだとそれが日常の一部になるんで「まあ、そういうもんか」と思って行動するようになったりもする。
体力のなかでは瞬発力がいちばんやばい。体を支えられるかと思った無理な体制で膝がかくっと行ったりとか、しゃがんだ状態から立ち上がってダッシュでどこかかけつけるみたいなときに、あれあれ?みたいな感じで下半身がいうこときかない。
でもまあ俺が運動不足すぎることもあるので、これほんとはある程度継続して運動してればそれほど気にならないことなんじゃないだろうか。
肉体関連でいちばん明確にガタ来てんなーと思うのは、歯。40歳越したらほんとは定期的に歯医者通わないとだめだねこれ。あと歯周病の恐怖な。このあいだドラッグストア行ったときに、ディスプレーで「五十代が歯を失ういちばんの理由は歯周病」とか言ってて、いまんとこ俺は平気だけど、その兆候は随所にあって、そろそろ歯医者通い始めようとかなーと思ってるとこ。
あと老眼な。俺は40歳越してからようやく来た感じだけど、いまのところはさほど気にならない。文庫程度なら読めるのもそうなんだけど、Kindle買って以降は、ふつうに文字の大きさを調節できるので読書に関して問題はまったくない。これも遠からずどんどん進んでいくんだろうが、字のほうもそれにあわせてどんどんでかくできるわけなので、まあとうぶんは戦えるでしょう。疲れ目のほうはいかんともしがたいけど。
というわけでですね、40歳になる前にできることは、歯医者通いと体力の維持です。軽い筋トレやってある程度散歩とか自転車乗ったりしてれば充分に四十代五十代も戦えるんじゃねーかと思います。
あとは精神的なもんですよな。最近どこかの増田で「新しいアニメとか見るの億劫」みたいなの見かけたけど、あれは確かにありますな。感情が動くのが面倒っていう。生きるのがつらいとかだるいとか、まあ理由はいろいろあるんでしょうけども、つまり「自分以外の人間がたくさん存在するこの現実というもの」との大小さまざまな軋轢がストレスとして蓄積していくわけですよ。年食ってくると「自分の及ぶ範囲」みたいなのがわかってきて、その範囲内での自分のふるまいってのもある程度は定型化してくる。そうすると自分の存在そのものが定型化してくるわけで、その状態でも充分に金稼いで食ってくことがある程度は可能になるわけですよ。つまり「変わらない」ことがいちばんストレスない方法になってくる。
安定してるってのは、別の側面から考えれば、自信があるということでもあります。人間黙って寝てると死ぬわけで、メシ食ってかなきゃいけないんで、四十代まで生きてるってのは生きるためにさまざまなことをしてきたということです。つまり「ただここにいる」ということが自信の根源になったりするわけですよ。ほら、おっさんって基本的にうざいじゃないですか。死んでないってのは生きてるってことで、生きてることに関して成功者なんですよ。「だから」自分は正しい。正しいっていっても、別に全能の神であるっていう自信まで持ってるわけじゃないので、正しさを脅かすものには鋭敏なんですよな。つまり、自分の正しさを否定するものを否定する。最近、与謝野訳の源氏物語読んでるんですけど、源氏物語にも出てきましたよ、若者叩き。あと源氏の君が平安レイパー伝説GENZIすぎて引いた。若紫の思春期ボディそんなにすごいのか。すごいんだろうなあ。
なにかを否定しないと成立しない正しさって、実はそれ正しくないじゃないですか。生きるためにいろなことをしてきたってのは、実は正しくないこと、後ろめたいこともしてきていて、それゆえに否定が必要なんですよな。おっさんのうざさっていうのは、そういう部分にも起因してると思いますん。
そうやって、なんだ、適応ですか? 適応してきたにしても、それはそのおっさんが生きてきた時代にあわせて適応してきたわけで、その後もアップデートを続けるなら、不断に自分の正しさとやらを疑いつづけなきゃいけない。それは十代や二十代の人たちが社会とやらいう巨大なものと向き合ったときに、社会が悪いのか自分が悪いのか、あるいはもっと別の悪いことがあるのか懊悩したりするように。主観的には「ただ生きている」というだけで成功者の立場にいるおっさんが、疑うことを続けるのはえらいつらいことではあります。ひとつの価値観、文化にくるまれて生き、死んでいくというのは幸福のひとつのかたちであると司馬遼太郎は言ってましたけど、その意味ではグローバル化ですか? そういう世界に生きているということは不幸の源泉なのかもしんないです。いまや日本人を共通して覆う価値観みたいなものもかつてと比較すれば希薄になってきていることですし。そういう意味ではおっさんがうざいことはある意味でしょうがないことなのかもしんないです。
ただ思うんですよね。この年齢になってみて。
俺も思考が柔軟じゃなくなったり、新しいものへの食いつきが悪くなってきたり、ガハマさんは肉体にしか興味もてなくなったり、いろはすに振り回されていいように扱われたいなあと思うようになったり、いろいろするわけなんですけども、それって、たとえば肉体が衰えていくのと同じように不可避なことなのかなって。俺は同年代のおっさんの知人があまりいないのでなんともいえないんですけど、インタビューしてあるいてみたりしたいですよね。本当に自覚もなく、なんとなく現状あるような自分になっちゃったの?って。そして現状ある自分がもっとも正しいと思ってるの?って。
そんなことはないはずなんですよ。これじゃよくないと思ってること、こうなりたいと思ってること、いろいろあるはずで、あとは死ぬまでそのままだからしょうがない、こういうもんなんだって思ってるだけなんじゃねーのか。
まあ他人のことなんでね、それを変えろとかいうことは俺にはできないんで、あとは個人の趣味の問題かなーと思います。たとえばスクールカーストみたいなものがテーマの一部として内包されてるラノベに新鮮な共感を持つこととかはもうできないはずで、そりゃ学生だったのが30年近くも前の話だからあたりまえのことなんですよ。でもだからってガハマさんがえろいことを否定する必要はまったくない。ああガハマさんの肉付きのいい太ももが汗だくになってるところに腕突っ込んだり抜いたりしたらすごいだろうなあとか妄想する余地は残されている。
そういうことだと思うんです。
どういうことなんだろう。
民主:安全保障問題と労働法制。自民の安全保障に反対するのは良いけど、根拠が希薄に感じた。
具体的に書いて貰えたら嬉しいんだけど。
社民:トップページが…檄文?とにかく戦争反対、憲法改正反対。経済とかその辺にはあんまり触れていない。
共産:こちらも戦争反対だが、社民の後に見たからか一瞬落ち着いたデザインに見えた、一瞬だけ。
この2党は政党というより、単なる戦争反対運動家の集まりじゃないか。
反戦に重きを置き過ぎて、その他政治や経済・外交に言及が足りないから奇妙に見えるんだろう。
民主は野党の中ではまだマシだが、やはりアンバランス感がある。
全体でバランスが良いのは自民かな…でも、うーんやっぱり違和感が。
政治・経済・国防・外交に対する、目標と現状認識と政策内容と想定している結果を
目立つところになるべく簡潔に書いて欲しい。
正直どこのHPも分かりにくい。
元だけど投票には行ってるよ。野党に入れる。本当はその野党のことも好きじゃないんだが、抑止力になりえるものが他にないからね。
だからこそ野党の先生方のアホさ加減に改めて絶望していたところだよ。
強行採決が違憲かどうかについて私は特に言及していないけれど、どうしたのかな。
そしてなぜ、他人事のようだと断罪されねばならんのかね。君、手頃な対象を見繕ってはケンカふっかけるのが好きな年頃の高校生か何か?
君と私はたぶん目指す方向自体は同じなのだと思うが、そういう無駄な軋轢を生むような言動はやめたほうがいいね。生産的じゃないから。せっかく同じことを考えている人間同士がそんなふうにケンカしてどうすんの。
で、現状についてだけど、近々戦争で日本人が死ぬ。これはもう避けられない。
君の言うとおり、与党に投票したり棄権したりした人間のせいでもあるし、また、そうならないようにできることをしてきたつもりだったが結局力及ばなかった私達ひとりひとりの責任でもある。
日本は本質的に先進国になりきれなかった。根底にある精神は発展途上国のまま、戦争に負けた、当時のままなんだ。
今私達がいるのは、そういう国なんだ。
選挙に無関心な人々の意識を変えることは、少なくとも私にはできない。
目の前のひとりを変えることならできる。
しかし、5人、10人は無理だ。
これは君の憂慮にまったく共感する。
君や私のように一票の価値を知っている人間がみんな、まず目の前のひとりを変えることに努めていれば。
このままではいけない、と思いながらも、周囲と話そうとする人間がどれだけいるかというと意外に多くない。
デモや座り込みをする人々は、基本的に相手方と「対話」をする気はない。
彼らの中にごく少数ではあるが手段が目的になってしまっている人が存在し、そしてデモを主導するのは往々にしてそのような人々であることが少なくないからだ。
家庭で、学校で、職場で、世間話としてではなく我が身に迫る重大事として、たとえば反抗期の親子関係、住宅ローンや介護について、上司との折り合い、リストラの噂、そういったこととまったく同列に真剣に顔突き合わせて与党の政策について意見を交換し、熟考する場がどれだけあるか。
うちの父は新聞記者であったが、そういう家庭環境でも政治の話は世間話レベルから発展することはなかった。そもそも父も実際あんまりよくわかっていなかったようだったし、母は夕食時に政治の話をするのを嫌った。
これを変えることは至難の技だと思う。
実際に自分や家族が命の危険に晒されて初めて事態の深刻さを理解するのだろう。
これから起こりうることを想定しながら、できるだけの備えをしておく。
できることはそのぐらいだ。