はてなキーワード: まごころを、君にとは
パチンコ:175.9万台
パチスロ:54.4万台
合計:230.3万台
仮に1台1万円だと230億円、5000円だと115億円の収入
新世紀エヴァンゲリオン | 2005年9月 | (2.3万台) |
新世紀エヴァンゲリオン まごころを、君に | 2007年7月 | (9.9万台) |
新世紀エヴァンゲリオン 約束の時 | 2008年9月 | (9.0万台) |
新世紀エヴァンゲリオン 魂の軌跡 | 2010年3月 | (8.4万台) |
ヱヴァンゲリヲン 真実の翼 | 2011年3月 | (7.7万台) |
ヱヴァンゲリヲン 生命の鼓動 | 2012年2月 | (4.6万台) |
EVANGELION | 2013年2月 | (5.7万台) |
ヱヴァンゲリヲン 決意の刻 | 2014年2月 | (1.3万台) |
ヱヴァンゲリヲン 希望の槍 | 2015年6月 | (2.6万台) |
ヱヴァンゲリヲン 魂を繋ぐもの | 2015年12月 | (1.5万台) |
ヱヴァンゲリヲン 勝利への願い | 2017年2月 | - |
新世紀エヴァンゲリオン ~まごころを、君に~2 | 2018年2月 | - |
EVANGELION 30ΦMODEL | 2018年1月 | - |
パチスロ ヱヴァンゲリヲン AT777 | 2019年2月 | (1.4万台) |
新世紀エヴァンゲリオン 暴走400 | 2019年3月 | - |
エヴァンゲリオン フェスティバル | 2020年3月 | - |
※フィールズ株式会社の財務・企業関連データ 2021年3月期 第1四半期
https://www.fields.biz/ir/j/files/press/2020/press_20200806d.pdf
タイトルの通りである。今更感のあることを偉そうにと思われるだろうが、自分の気持ちの整理のためにも映画を「観る前」の記録として残しておきたかった。もちろん本作については、何のネタバレも含まない。
私は30歳である。エヴァンゲリオンの第一話はリアルタイムでテレビで見た。見たが、なにせ当時5歳である。新しいロボットのアニメが始まるんだ、という程度の認識しか無い子供が観て楽しいお話しでは全くなく、なんかこわい、という感想とともに一話でドロップアウトした。私はあまり子供のころのはっきりした記憶はないのであるが、これについては、不思議と覚えている。そこから時が流れ、大学生になってようやく本格的にエヴァを観始めた。そういう意味で歴は浅いし、リアルタイムで熱狂した人間ではないかも知れないが、アニメ版、旧劇場版、漫画版など様々な作品を何度も観て、いろんな考察を考えたり見たり、サウンドトラックやフィギュアも買ったりと、一つコンテンツを深く楽しんできたという点において、自分にとっては、かけがえのない作品の一つである。
その中でも何か一つ取り上げるとすれば、私は旧劇場版「Air/まごころを、君に」が好きである。鬱々とした展開であり、非常に難解、いや難解というより、もしかしたらそもそも解は不在なのかも知れないが、それでもこの映画を観た後の心の感覚が好きで、何度も観てしまうのである。一般的には、謎を解き明かすことなく抽象的な展開とともにぶん投げた、後味が悪い、観客にダメ出しするなんて何様だ、などと酷評も多いが、この映画が自分には響くのは事実である。もしかすると、決められたレールの上で、常に自身を大多数の側に置くことで安心してきた自分が、周囲の人間の声とは無関係に自分はこれが好きでいいんだ、と声を大にして言える作品に出会えたことが嬉しかったのかもしれない。
そういう思い入れがある作品だけに新劇場版ももちろんチェックしてきた。破については劇場で3回ほど観た。旧劇場版とは確実に別のベクトルの話であるが、これもまた自分の大好きな作品である。しかし、そこから急にエヴァンゲリオンに対して、距離ができた。Qが公開されたときは大学4回生で、公開日から1か月ほどは海外におり物理的に見れなかったが、帰国後もまだまだ上映期間中だったし、お金も時間も余裕があったので観ようと思えばいくらでも観れた。しかし、この時は世間のあまりの酷評に足が向かなかった。勢いで公開と同時に観てしまえばよかったのかもしれない。しかし、破があまりに好きすぎて、その続編に対して勝手に抱いていた自分の「こうなって欲しい」という期待を大幅に下回ってそうだ、ということを受け入れられなかったのである。この子供じみた感情によりそれっきり観ることがなくなってつい最近まで至ってしまった。仲の良い友人と些細なケンカをしたとき、どちらともなくすぐに謝ればまた仲直りできるのに、どっちも意地を張って謝らないと、どんどん謝るタイミングを失っていき、ついには口も利かなくなってしまう。そんな風にして、エヴァンゲリオンに触れることもどんどん少なくなっていった。さすがに漫画版の完結は見届けたが、それでもQを観る気にはならなかった。
そんななかでついにシン・エヴァンゲリオン劇場版が公開されることになった。「これでエヴァは完結」という点だけで観に行くしかない、という気持ちになった。大仰に言うと、自分の中で大切な作品にちゃんと区切りをつけるにはちゃんと見届けるしかないと感じたのである。今や家族がいるので好きに観に行けるわけではないが、許しを得て序から復習を始めた。まだ自分が一人暮らしだったら、アニメ版の一話からだらだら総復習したのだろうな、などと思いながら。序、破、ときて、いよいよQである。完結作続いていて、もうすぐ観れるのだ、という心の余裕もあり、落ち着いて観ることができた。結果、旧劇場版とは別の意味で難解な展開であったが、思っていたほど支離滅裂とは感じなかった。むしろこれまで気になっていた新劇場版の世界観に対し、ある程度の解が提示されたことで、次が期待でき、悪くない、いやむしろ良い、と思った。同時に、自分としてもエヴァンゲリオンの完結にちゃんと近づけたような気がした。もちろん今日シン・エヴァンゲリオンを観るまで話は完結していない。ただ、それまで勝手に喧嘩別れした気になっていた作品に対して、自分があれから歩んできた人生でもって改めて向き合い、理解し、申し訳ないという気持ちになり、整理をつけた、ということである。これで心置きなく物語の結末を観ることができるのだ、という思いになれて嬉しかったのである。そしてそれをここに記したかった。
シン・エヴァンゲリオン劇場版を観終えた後は自分の中でゆっくりと咀嚼して、完結した事実を受け入れていくのだろう。今はただその時が楽しみである。30歳にもなって楽しみで眠れないことがあるだけでも、幸せというものだ。
自分から考察とかしてる人じゃなくて単なる人の書いたのを読んだだけだけど答えてみる。
明示されてない。
漫画版読むとユイの事が好きだったらしいからユイの息子を助けたかったとか、ユイ自身の思いを継いだとかそんなところ?
メタ的な視点では真希波=デウスエクスマキナ(機械仕掛けの神:ギリシャの演劇で終幕のためにオチをつける役)じゃねーのって言ってる人もいる
漫画読んでないから詳しく知らないんだけど、マリは冬月先生のとこの学生さんだったらしいけど、じゃあなんで一人だけ老けてないの?
エヴァに乗ってると老けないみたいな設定?だったけど、マリがエヴァに乗ったのってQの最初の方で加持さんと一緒にいたところが初めてじゃないの?時間軸が違ったの?
それともエヴァパイロットだから老けないって言う設定とは別の設定があるの?最初からカオルくんみたいに人間じゃなかったってこと?
これも明示されてない。
綾波、式波がクローンだったから~波なマリもオリジナルマリのクローン説とかある。
カオルくんはループしてるみたいな話だったような気がするけどループしてるってどういうこと…?
Qで死んだカオルくんとは別のカオルくんも色んなところで死んで、また月みたいなところの棺桶から同じ姿で生えてきて、死んだあとの時間軸にカオルくんとして登場してくるってこと?
生命の書っていうのに名前を書いているとやり直しても記憶を保てるとかなんとか。
メタ的に言えば旧劇場版や、その他の展開の記憶を持っている、くらいでいいんじゃね。
冬月先生は何がしたかったの?自分のとこの学生がヤバい道に進んで取り返しがつかなそうだから一蓮托生で最後に刺し違える気持ちだったってこと?
刺し違える気はなかったと思う。
マリがエヴァをたくさん食べて、シンジくんを迎えに来たときにエヴァの姿が色々切り替わってたけどあれはどう言う意味があったの?
俺が覚えてないから回答できない。
アスカのシーンで、回想しながら沢山のアスカの写真が一枚ずつ消えてったのに、レイの説明の時には一枚しか写真が残らなかったのに、アスカの時には最後に2枚残ってたのはなんでなの?
惣流と式波で2枚?じゃあ惣流ってどこで何してんの?出てこなかったよね?
式波のオリジナル説と、惣流アスカラングレー説を見かけたけど惣流でいいんじゃね?
破で第九使徒に浸食されたのを封印柱で使徒化しないように封印してた。
加持さんがサードインパクトを止めたって言う話だったけどどうやって止めたの?
破の最後で起きたニアサードインパクトは月から投げたロンギヌスの槍で途中で止められた。
一方Qでは槍が2本刺さってたからカシウスの槍で止めたんだと思う。
槍ってなんだよ!
そんなもんはねぇ!
なんかみんな満足とか不満足とか判断できるくらいには理解できてるみたいだし、アラサーアラフォーのオタクの共通言語的な雰囲気の作品みたいだし見てみるか〜って今年になってから見た私みたいなにわか知識では全然理解できないシーンばっかりだったけど、多分、シンジくんはお父さんと和解?できて、中学生の頃の初恋みたいなものにもケリがつけられて、自分が不幸にした世界でも頑張って生きてる同級生を見て立ち直る決心をして、ハッピーエンド的な感じで大団円ってことで良いんだよね…?
アラサー、アラフォーオタクの心にしこりになって残ってたのは、テレビ版、旧劇場版(Air/まごころを、君にとかEoE)で3回も物語に決着がつかなかったことなんだと思う。
特に旧劇場版は監督のメンタルがやられてたせいで「他人はいないといけないけど、近くにいると傷つけあう。それでも現実に戻らないと」みたいな結論になって、その結果アスカの「気持ち悪い」で締めることになった。
それが今回のシン・エヴァンゲリオンでは前向きなメッセージで終わることが出来たから、エヴァを追ってきた人は成仏できたんだと思う。
そこに至るまでのシナリオが陳腐だとか、アクションシーンが序、破に比べてQ、シンはイマイチとか、俺/私はアスカとシンジ/カヲルとシンジのカップリングが見たかったんだよ!みたいな嘆きも一部残ってはいるけどね。
庵野よ、聞け。
お前は「卒業式」をやってるつもりだったんだろうが、みんなはとっくに『新世紀エヴァンゲリオン』なんて作品は卒業してたんだ。
お前が作ったあのどうしようもない投げっぱなしの『Air/まごころを、君に』とかいうエヴァ完結編があったろ?
お前が宮村にフられたからってアスカをズタボロにしたり、自分の作品を否定したオタクへ意趣返ししようとしたあの作品だよ。
お前があの映画でみんなに伝えた「現実に還れ」というメッセージはきちんと俺たちに伝わったよ。
アニメや漫画の登場人物たちに「自己投影」することは無くなった。
「感情移入」はするかもしれんが、キャラクターを自分だと思い込んだりはしない。
キャラクターはキャラクターのまま楽しむし、キャラクターを応援する。
アニメや漫画、ゲームのストーリーを自分の人生だと思うことだってない。
エンタメはエンタメだって、作り物だってそれを分かった上で楽しんでる。
「まるで自分が描かれているようだ!」と錯覚したお前の素晴らしいエヴァからそうやってみんな卒業していったんだ。
なんて書いてたか覚えてるか?
『誰もが楽しめるエンターテイメント映像』を目指すって書いてたんだ。
もう卒業したエヴァだったけれども、お前の私小説じゃないエンタメ作品としてのエヴァが見られるかもと思ってワクワクしたよ。
ついでに終わって8年かそのくらい経って久しぶりに語りたくなったのもあったよ。
序は良かったよ。
あの時の映像を今風にするとこうなるのかーって素直に感心した。
破も良かったよ。
中盤まで第十二使徒以降暗くなった本編をエンタメに寄せるとこうなるのかと感心して、最後のシンジが決意を決めるところはEOE以降なんどもシンジがそうなる二次創作を書いてきた俺には報われたような気持ちになったよ。
「同窓会」は大盛り上がりだ。
なんでか知らんがそこから入ってきた奴らに得意げに昔のお前の投げっぱなしを語ったりしたよ。あの投げっぱなしも良い思い出になってたんだ。
昔から見てたやつらは、エヴァの後にハマったのは何か?で大盛り上がりしたよ。
もちろん俺も好きだったよ。
良い同窓会になるって本気で思ってたんだ。
ゴジラだ、ウルトラマンだと好きな道で遊べそうなのに「早くエヴァを作れ」と言うオタクが嫌だったんだろ?嫌いだったんだろ?
ムカついたんだろ?
ガイナとエヴァの権利関係で揉めて、「エヴァンゲリオンがあるからダメなんだ」と思ったんだろ?
今まで一人のキャラクターだったシンジにまたお前が乗り移ったのをQで見たよ。
なにをしてもうまくいかないと厭世的になってる。
Qからきちんと伝わってきたよ。
お前、鬱だったんだな。
そしてシンだ。
嫁ちゃんという現実に救われたお前にとって、虚構のエヴァでオタクを縛ってしまったのを申し訳なく思った。
作中のシンジの言葉を借りるならば「落とし前」をつけるべく「卒業式」をやろうとした。
しかも二度と戻ってくる気力が湧かないように全部を瓦礫に戻して。
現実を生きてきたんだよ。
そうじゃなかったのはお前だけだ。
エヴァの監督と紹介されることが多かったからなのか、エヴァ以上を作れなかったからなのか「エヴァの呪縛」に苦しんでたのはお前だけだ。
お前だけだよ、未だにキャラクターをキャラクターと思えずに自分や誰かのアバターだと思ってるのは。
昔好きだった女の宮村=アスカを、作中のオタクだったケンスケに渡したのは俺たちへのご褒美のつもりだったのか?
庵野=シンジが昔好きだった宮村=アスカに「好きだった」って言うところなんか気持ち悪くて泣きそうだったぞ。
みんな幸せにしてたラストの駅のシーン、アスカだけ一人だったのは離婚してる宮村への当て擦りか?
そんなにフラれたのがムカついたのか?
まぁもうどうしようもない。
庵野よ、聞け。
お前は「卒業式」をやってるつもりだったんだろうが、みんなはとっくに『新世紀エヴァンゲリオン』なんて作品は卒業してたんだ。
お前が作ったあのどうしようもない投げっぱなしの『Air/まごころを、君に』とかいうエヴァ完結編があったろ?
お前が宮村にフられたからってアスカをズタボロにしたり、自分の作品を否定したオタクへ意趣返ししようとしたあの作品だよ。
お前があの映画でみんなに伝えた「現実に還れ」というメッセージはきちんと俺たちに伝わったよ。
アニメや漫画の登場人物たちに「自己投影」することは無くなった。
「感情移入」はするかもしれんが、キャラクターを自分だと思い込んだりはしない。
キャラクターはキャラクターのまま楽しむし、キャラクターを応援する。
アニメや漫画、ゲームのストーリーを自分の人生だと思うことだってない。
エンタメはエンタメだって、作り物だってそれを分かった上で楽しんでる。
「まるで自分が描かれているようだ!」と錯覚したお前の素晴らしいエヴァからそうやってみんな卒業していったんだ。
なんて書いてたか覚えてるか?
『誰もが楽しめるエンターテイメント映像』を目指すって書いてたんだ。
もう卒業したエヴァだったけれども、お前の私小説じゃないエンタメ作品としてのエヴァが見られるかもと思ってワクワクしたよ。
ついでに終わって8年かそのくらい経って久しぶりに語りたくなったのもあったよ。
序は良かったよ。
あの時の映像を今風にするとこうなるのかーって素直に感心した。
破も良かったよ。
中盤まで第十二使徒以降暗くなった本編をエンタメに寄せるとこうなるのかと感心して、最後のシンジが決意を決めるところはEOE以降なんどもシンジがそうなる二次創作を書いてきた俺には報われたような気持ちになったよ。
「同窓会」は大盛り上がりだ。
なんでか知らんがそこから入ってきた奴らに得意げに昔のお前の投げっぱなしを語ったりしたよ。あの投げっぱなしも良い思い出になってたんだ。
昔から見てたやつらは、エヴァの後にハマったのは何か?で大盛り上がりしたよ。
もちろん俺も好きだったよ。
良い同窓会になるって本気で思ってたんだ。
ゴジラだ、ウルトラマンだと好きな道で遊べそうなのに「早くエヴァを作れ」と言うオタクが嫌だったんだろ?嫌いだったんだろ?
ムカついたんだろ?
ガイナとエヴァの権利関係で揉めて、「エヴァンゲリオンがあるからダメなんだ」と思ったんだろ?
今まで一人のキャラクターだったシンジにまたお前が乗り移ったのをQで見たよ。
なにをしてもうまくいかないと厭世的になってる。
Qからきちんと伝わってきたよ。
お前、鬱だったんだな。
そしてシンだ。
嫁ちゃんという現実に救われたお前にとって、虚構のエヴァでオタクを縛ってしまったのを申し訳なく思った。
作中のシンジの言葉を借りるならば「落とし前」をつけるべく「卒業式」をやろうとした。
しかも二度と戻ってくる気力が湧かないように全部を瓦礫に戻して。
現実を生きてきたんだよ。
そうじゃなかったのはお前だけだ。
エヴァの監督と紹介されることが多かったからなのか、エヴァ以上を作れなかったからなのか「エヴァの呪縛」に苦しんでたのはお前だけだ。
お前だけだよ、未だにキャラクターをキャラクターと思えずに自分や誰かのアバターだと思ってるのは。
昔好きだった女の宮村=アスカを、作中のオタクだったケンスケに渡したのは俺たちへのご褒美のつもりだったのか?
庵野=シンジが昔好きだった宮村=アスカに「好きだった」って言うところなんか気持ち悪くて泣きそうだったぞ。
みんな幸せにしてたラストの駅のシーン、アスカだけ一人だったのは離婚してる宮村への当て擦りか?
そんなにフラれたのがムカついたのか?
まぁもうどうしようもない。
庵野よ、聞け。
お前は「卒業式」をやってるつもりだったんだろうが、みんなはとっくに『新世紀エヴァンゲリオン』なんて作品は卒業してたんだ。
お前が作ったあのどうしようもない投げっぱなしの『Air/まごころを、君に』とかいうエヴァ完結編があったろ?
お前が宮村にフられたからってアスカをズタボロにしたり、自分の作品を否定したオタクへ意趣返ししようとしたあの作品だよ。
お前があの映画でみんなに伝えた「現実に還れ」というメッセージはきちんと俺たちに伝わったよ。
アニメや漫画の登場人物たちに「自己投影」することは無くなった。
「感情移入」はするかもしれんが、キャラクターを自分だと思い込んだりはしない。
キャラクターはキャラクターのまま楽しむし、キャラクターを応援する。
アニメや漫画、ゲームのストーリーを自分の人生だと思うことだってない。
エンタメはエンタメだって、作り物だってそれを分かった上で楽しんでる。
「まるで自分が描かれているようだ!」と錯覚したお前の素晴らしいエヴァからそうやってみんな卒業していったんだ。
なんて書いてたか覚えてるか?
『誰もが楽しめるエンターテイメント映像』を目指すって書いてたんだ。
もう卒業したエヴァだったけれども、お前の私小説じゃないエンタメ作品としてのエヴァが見られるかもと思ってワクワクしたよ。
ついでに終わって8年かそのくらい経って久しぶりに語りたくなったのもあったよ。
序は良かったよ。
あの時の映像を今風にするとこうなるのかーって素直に感心した。
破も良かったよ。
中盤まで第十二使徒以降暗くなった本編をエンタメに寄せるとこうなるのかと感心して、最後のシンジが決意を決めるところはEOE以降なんどもシンジがそうなる二次創作を書いてきた俺には報われたような気持ちになったよ。
「同窓会」は大盛り上がりだ。
なんでか知らんがそこから入ってきた奴らに得意げに昔のお前の投げっぱなしを語ったりしたよ。あの投げっぱなしも良い思い出になってたんだ。
昔から見てたやつらは、エヴァの後にハマったのは何か?で大盛り上がりしたよ。
もちろん俺も好きだったよ。
良い同窓会になるって本気で思ってたんだ。
ゴジラだ、ウルトラマンだと好きな道で遊べそうなのに「早くエヴァを作れ」と言うオタクが嫌だったんだろ?嫌いだったんだろ?
ムカついたんだろ?
ガイナとエヴァの権利関係で揉めて、「エヴァンゲリオンがあるからダメなんだ」と思ったんだろ?
今まで一人のキャラクターだったシンジにまたお前が乗り移ったのをQで見たよ。
なにをしてもうまくいかないと厭世的になってる。
Qからきちんと伝わってきたよ。
お前、鬱だったんだな。
そしてシンだ。
嫁ちゃんという現実に救われたお前にとって、虚構のエヴァでオタクを縛ってしまったのを申し訳なく思った。
作中のシンジの言葉を借りるならば「落とし前」をつけるべく「卒業式」をやろうとした。
しかも二度と戻ってくる気力が湧かないように全部を瓦礫に戻して。
現実を生きてきたんだよ。
そうじゃなかったのはお前だけだ。
エヴァの監督と紹介されることが多かったからなのか、エヴァ以上を作れなかったからなのか「エヴァの呪縛」に苦しんでたのはお前だけだ。
お前だけだよ、未だにキャラクターをキャラクターと思えずに自分や誰かのアバターだと思ってるのは。
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庵野=シンジが昔好きだった宮村=アスカに「好きだった」って言うところなんか気持ち悪くて泣きそうだったぞ。
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まぁもうどうしようもない。
庵野よ、聞け。
お前は「卒業式」をやってるつもりだったんだろうが、みんなはとっくに『新世紀エヴァンゲリオン』なんて作品は卒業してたんだ。
お前が作ったあのどうしようもない投げっぱなしの『Air/まごころを、君に』とかいうエヴァ完結編があったろ?
お前が宮村にフられたからってアスカをズタボロにしたり、自分の作品を否定したオタクへ意趣返ししようとしたあの作品だよ。
お前があの映画でみんなに伝えた「現実に還れ」というメッセージはきちんと俺たちに伝わったよ。
アニメや漫画の登場人物たちに「自己投影」することは無くなった。
「感情移入」はするかもしれんが、キャラクターを自分だと思い込んだりはしない。
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エンタメはエンタメだって、作り物だってそれを分かった上で楽しんでる。
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なんて書いてたか覚えてるか?
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もう卒業したエヴァだったけれども、お前の私小説じゃないエンタメ作品としてのエヴァが見られるかもと思ってワクワクしたよ。
ついでに終わって8年かそのくらい経って久しぶりに語りたくなったのもあったよ。
序は良かったよ。
あの時の映像を今風にするとこうなるのかーって素直に感心した。
破も良かったよ。
中盤まで第十二使徒以降暗くなった本編をエンタメに寄せるとこうなるのかと感心して、最後のシンジが決意を決めるところはEOE以降なんどもシンジがそうなる二次創作を書いてきた俺には報われたような気持ちになったよ。
「同窓会」は大盛り上がりだ。
なんでか知らんがそこから入ってきた奴らに得意げに昔のお前の投げっぱなしを語ったりしたよ。あの投げっぱなしも良い思い出になってたんだ。
昔から見てたやつらは、エヴァの後にハマったのは何か?で大盛り上がりしたよ。
もちろん俺も好きだったよ。
良い同窓会になるって本気で思ってたんだ。
ゴジラだ、ウルトラマンだと好きな道で遊べそうなのに「早くエヴァを作れ」と言うオタクが嫌だったんだろ?嫌いだったんだろ?
ムカついたんだろ?
ガイナとエヴァの権利関係で揉めて、「エヴァンゲリオンがあるからダメなんだ」と思ったんだろ?
今まで一人のキャラクターだったシンジにまたお前が乗り移ったのをQで見たよ。
なにをしてもうまくいかないと厭世的になってる。
Qからきちんと伝わってきたよ。
お前、鬱だったんだな。
そしてシンだ。
嫁ちゃんという現実に救われたお前にとって、虚構のエヴァでオタクを縛ってしまったのを申し訳なく思った。
作中のシンジの言葉を借りるならば「落とし前」をつけるべく「卒業式」をやろうとした。
しかも二度と戻ってくる気力が湧かないように全部を瓦礫に戻して。
現実を生きてきたんだよ。
そうじゃなかったのはお前だけだ。
エヴァの監督と紹介されることが多かったからなのか、エヴァ以上を作れなかったからなのか「エヴァの呪縛」に苦しんでたのはお前だけだ。
お前だけだよ、未だにキャラクターをキャラクターと思えずに自分や誰かのアバターだと思ってるのは。
昔好きだった女の宮村=アスカを、作中のオタクだったケンスケに渡したのは俺たちへのご褒美のつもりだったのか?
庵野=シンジが昔好きだった宮村=アスカに「好きだった」って言うところなんか気持ち悪くて泣きそうだったぞ。
みんな幸せにしてたラストの駅のシーン、アスカだけ一人だったのは離婚してる宮村への当て擦りか?
そんなにフラれたのがムカついたのか?
まぁもうどうしようもない。
庵野よ、聞け。
お前は「卒業式」をやってるつもりだったんだろうが、みんなはとっくに『新世紀エヴァンゲリオン』なんて作品は卒業してたんだ。
お前が作ったあのどうしようもない投げっぱなしの『Air/まごころを、君に』とかいうエヴァ完結編があったろ?
お前が宮村にフられたからってアスカをズタボロにしたり、自分の作品を否定したオタクへ意趣返ししようとしたあの作品だよ。
お前があの映画でみんなに伝えた「現実に還れ」というメッセージはきちんと俺たちに伝わったよ。
アニメや漫画の登場人物たちに「自己投影」することは無くなった。
「感情移入」はするかもしれんが、キャラクターを自分だと思い込んだりはしない。
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もう卒業したエヴァだったけれども、お前の私小説じゃないエンタメ作品としてのエヴァが見られるかもと思ってワクワクしたよ。
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序は良かったよ。
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破も良かったよ。
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「同窓会」は大盛り上がりだ。
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昔から見てたやつらは、エヴァの後にハマったのは何か?で大盛り上がりしたよ。
もちろん俺も好きだったよ。
良い同窓会になるって本気で思ってたんだ。
ゴジラだ、ウルトラマンだと好きな道で遊べそうなのに「早くエヴァを作れ」と言うオタクが嫌だったんだろ?嫌いだったんだろ?
ムカついたんだろ?
ガイナとエヴァの権利関係で揉めて、「エヴァンゲリオンがあるからダメなんだ」と思ったんだろ?
今まで一人のキャラクターだったシンジにまたお前が乗り移ったのをQで見たよ。
なにをしてもうまくいかないと厭世的になってる。
Qからきちんと伝わってきたよ。
お前、鬱だったんだな。
そしてシンだ。
嫁ちゃんという現実に救われたお前にとって、虚構のエヴァでオタクを縛ってしまったのを申し訳なく思った。
作中のシンジの言葉を借りるならば「落とし前」をつけるべく「卒業式」をやろうとした。
しかも二度と戻ってくる気力が湧かないように全部を瓦礫に戻して。
現実を生きてきたんだよ。
そうじゃなかったのはお前だけだ。
エヴァの監督と紹介されることが多かったからなのか、エヴァ以上を作れなかったからなのか「エヴァの呪縛」に苦しんでたのはお前だけだ。
お前だけだよ、未だにキャラクターをキャラクターと思えずに自分や誰かのアバターだと思ってるのは。
昔好きだった女の宮村=アスカを、作中のオタクだったケンスケに渡したのは俺たちへのご褒美のつもりだったのか?
庵野=シンジが昔好きだった宮村=アスカに「好きだった」って言うところなんか気持ち悪くて泣きそうだったぞ。
みんな幸せにしてたラストの駅のシーン、アスカだけ一人だったのは離婚してる宮村への当て擦りか?
そんなにフラれたのがムカついたのか?
まぁもうどうしようもない。
登校拒否をしていた14歳の頃に、入れ替えのない田舎の映画館で、朝から晩まで座って劇場版を見ていました。親も何をやっているのか心配だったのでしょう。ある日、ふと後ろを見ると父が座っているのに気づき、恥ずかしさと嬉しさを感じたものです。父は映画の感想を何も言いませんでしたし、14歳の自分にも、なぜこの映画を何十回と観ているのか分かりはしませんでした。当時の私の部屋には、すべての壁にエヴァのポスターが貼ってありました。
そして、結婚をして2児の子宝に恵まれ在宅勤務と子育てを両立している今日、嫁に頼み込み、仕事終わりの夕方に1人で映画館に行って参りました。もちろん子供のお風呂は先に入れております。
私はようやくアスカにフラれた気分です。いつも心のどこかにいた彼女の幸福を心から祈ってやみません。
14歳の頃の私はシンジ君をどう思っていたでしょうか。不登校児の僕ですら情けないと思っていたように覚えています。もし僕がパイロットであれば、みんなを救っていただろうと。今日の彼は、親の気持ちを理解し、周りの人間を助け、社会へと踏み出しました。大人へと歩み出した彼を新入社員のように見守っています。
そして、碇司令の独白に何を感じたでしょうか。親として、孤独だった子供から愛する人間に出会えた大人として、彼の願いが叶って本当に良かった。
営業時間短縮で夕飯が外で食べれなかったので、冷食とストロングゼロ2本を買って家で食べております。テレビでは、Air/まごころを、君にをNetflixで流しながら。何十回と観た当時の気持ちは薄れてしまったことを寂しく思いながらも、今日までエヴァンゲリオンが好きで本当に良かった。今まで本当にありがとう。
前置きが長いので、ここから本題です、というワードまでジャンプしてください。
からの
たっましいのるふーーらーーーーーん
自分の家はわりかしダメな父親の影響で色々あって色々あるんだけど、
シト新生の頃は嵐の前の静けさじゃないけど、まだまともで
そこで見た、あの終わり方、当然ニュータイプ大好きアニメインタビュー大好きな父親は夏に続編が公開されることを知っていたため、
見に行こうと約束していた
だのに、父親が抱える問題の色々が頂点を迎えたのは、Air/まごころを、君にが公開した直後だった
だから、自分の中のエヴァンゲリオンは未だに量産型エヴァが空から降ってくるシーンで終わっている
あのテレビ版のあとがどうなるのか?
どうなるんだろう?
ということで、考えて見ました
ここから本題です
有馬は自分を虐待していた母親と向き合い拒絶することでイニシエーションとしての恋愛の終わりを迎えることになる
それを見つめている浅葉の心情は?
なんと彼はトリハロンとベリンの間に生まれた子供、そのものであった
そう彼もまたカイエンと同じように受精卵の状態でセントリーに預けられた
その時代に生まれてはいけないもの、そしてまたこの時代にも居場所がないものであった
彼のその生い立ちにに何故か幼き頃みた天照の姿を重ねてしまうアイシャ
なんだかんだでいつのまにやらボーイズラブアニメ監督として一定の地位を確立した望月智充
しかし、未だに宮崎駿のあの態度を思い出すと腸が煮えくり返ってしまう
そんな彼にまたとない復讐の機会が訪れる
次回、実録ジブリの闇、第40話「ともみの素敵なプロデューサー」
セラフィムコールの川田妙子のメイン回ってえげつないほどにエロかったよね
読子リードマンをみた! 読子リードマンをみたんだ! とつぶやきながら神保町を徘徊する倉田英之
漫画作品であることをいいことにぶっちゃけ鉄血よりも大概な展開を続け原作をないがしろにし続ける千葉智宏
その大概なあれよりはましだしここ最近頭にビルドナックルを食い続けたかのような黒田洋介
スタジオオルフェの面々は最早誰もがある種の終わりを迎えようとしてたその時
真下耕一が美少女ガンアクションの最新作の構想を提げやってきた
次回、清水愛のプロレスがんばるあい、第1話「あいぽんよりはまだまし!」
あーあ、フォールアウトのプレイ日記書くだけであんなに人気者になれるなら、俺もダビスタのプレイ日記かいてじゃじゃグルのはずみにしてーなーゲームしないけどー
しかしそれは、玉ねぎを食べても死なないタイプの犬の策略であった
チョコレートを食べても死なないタイプの犬がゲームをしているだけで一向に義理の息子の小説を読もうとしない態度に、ついに彼らが立ち上がる
アオイホノオで高田明美、伊藤和典、横手美智子の三角関係が描かれるって本当?
ハヤテのごとくが終わったなら、それが声優! に集中できますね! と意気揚々とネームを切り続ける浅野真澄
しかし、エクセルにまとまったハヤテのごとく年表がどういう結末を迎えたかを考慮すれば、そんな目測が甘いのは自明の理であった
はたしてエクセルにまとまったハヤテのごとく年表は実在したのだろうか?
そして、アド アストラ ペル アスペラはどうなるのか?
次回、鷲崎健のヨナヨナ「六月のマンスリーゲストはこのかた! 吉野紗香! あと何分の初期のときにやったことがあるだけだから、十何年ぶりですね」
ジャッキー・チェンの映画見たらその後数日はカンフーをしたくなるが、
ドラゴンボールはそういう根源的なアクション欲求を満たしてくれる作品だったと思う。
主人公だし!
この頃の好きは単純だったように思う。
ギャグが面白くて好きだった。後、ククリからニケへの好意の描写も多くてよかった。
この作品はアニメ終了後も単行本をずっと追いかけてずっと好きだった。
単行本は終盤の絵柄が好きじゃないとか言う人がいるけど俺は気にならなかったし、
初めて買ったCDはEDの「Wind Climbing 〜風にあそばれて〜」だった。
もちろんククリも好きだが、やはりニケのボケ、ツッコミはこの作品の肝だ。
この作品を知ったのは親父が映画「Air/まごころを、君に」を借りてきたからだった。
OPが非常に好きだ。
あの全部理解させる気のない圧倒的情報量、スピード感はこの作品を象徴していたように思う。
敵も毎回色んな形態、シチュエーションで、全ての話数で飽きさせない、先の読めない展開の連続だった。
BGMのクラシックが非常に印象的で最高の盛り上がりから最後のカヲルくんを握りつぶすタメまで、息の詰まるというか、
心拍数が上がるというか画面の中に意識を囚われて、終わった後も戻ってこれない感覚を味わった。
傾向として、物静かなヒロインより、自己中心的だと捉えられることも多いが、
自分の意見を言う、他人に不利益が例えあったとしても自分の意志を通す、欠点のある人間らしいヒロインの方が好きなようだ。
思うに放送局がNHKでどの地方の人間でも見ることができて、何度も何度も再放送されたことがこの作品の地位を築き上げていると思う。
さくらちゃんは可愛いし、小狼くんと打ち解けていく過程がいいです。
この回は小狼からさくらちゃんへの好意が明確に描かれた回だった。
この作品はそういう視点で見ていたので、この回が印象に残っている。
当時はツンデレという言葉はなかったが、振り返って考えると当時からツンデレキャラが好きだった。
小狼くんはクロウカードを集める関係上敵対的な態度を最初取るが、どんどんさくらちゃんに好意を寄せていく事になる。
最初の印象はポケモンアニメの亜種という感じだったがポケモンアニメがサザエさん的なのに対して、
デビモン編では各キャラクターの紹介。
ダークマスターズ編では提示された欠点の再描写と解決となっている。
デジモンワールドと現実世界を何度か行き来するが、時間の流れが違うおかげで、
デジモンワールドに戻った時に状況がガラッと変わっていて、新たな問題の提示と困難度が劇的に表現されていた。
FF6の崩壊後の世界とかそういうシチュエーション好きなんです。
基本的に各編のボスと主人公勢との間には圧倒的な力の差があって、ボスから逃げつつ、
勝つ手段を探すような感じで、敵の強さの描写とその敵を倒したときの爽快感はすごくよかった。
何だかんだで主人公勢が勝つだろうと安心して見ていたそれまでのアニメと違って、
本当に勝てるのか?という感じで展開が読めない所がよかった。
この回はとにかく異色だった。
当時はアニメ、ドラマ、映画等の面白さはシナリオの面白さのみに依存すると思っていた。
合奏における指揮者は棒を降っているだけで誰がやっても同じだと思っていた。
厳密言うなら、この回を演出した人が監督を手掛けた映画「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」を見て、
その人は今でこそ知らない人はいないほど有名になった「細田守」で俺の中では宮﨑駿と同列になった。
この人が有名になってトトロのように金曜ロードショーでぼくらのウォーゲームが流れることを切に願っていた。
なんか妙な色っぽさがあった。小学2年生なのに。
全部21話が悪いんです。
けど、元気なヒカリちゃんも好きです。
愚行権の定義だとか、公共の福祉に抵触しない程度に個人の欲望は優先されるとか、自然状態の人間が社会と契約することで社会が成立するだとか
そういう理由でそれに意見することはできるけど、俺が描いていたのは、そういう文脈じゃないんだよ
出発点は「碇シンジがどうしてアスカの首を絞めたのか」「碇シンジの結末はあれで良かったのか?」と言う所
「Air/まごころを、君に(以下、旧劇)」での2回の首絞めはどのような経緯だったのかと言うのが不思議だった
そして、どこか自分自身でもその行動に共感する所があったから、色々と調べて、他のエントリでも記述していた
結論から言えば、「碇シンジの首絞め行動には共感する部分があるが、それは余りにも典型化され過ぎていて、それが故に劇的で。劇的であるがゆえに、(アニメだからというのがわかっていつつも)その描写に”気持ち悪さ”を覚える人もいると言う気持ちが分かる」と言う感触だった
人間と言う存在を1列にした時に、その端っこの部分にいるような感触がした
もちろん、アニメというのは個性も能力も可愛さも格好よさも病理も苦悩も、極端化するものだから仕方ないし当たり前だ
人は典型化されるから、分かりやすく特徴が表現される劇的な描写っだからこそ共感する
だからこそ、本来であれば碇シンジの個人の人生で賄われるべき事柄に、アニメ的描写の必要性で以って全人類を巻き込んだ所に気持ち悪さが感じるという意見にも共感すべき所があるという感触だ
さて、細かい経緯を描き並べる
適当に拾い読みしてくれれば良い
碇シンジは父親に捨てられたという体験がもとになり、いわゆるヤマアラシのジレンマになっている状態だ
「自分には価値がないから捨てられる」「捨てられるのは嫌だ、だから最初から関わらない」「人と関わりたいが、捨てられるならこちらから捨てる」という心情である
精神分析で言うなら、自体愛・自己愛の所で止まり、対象愛、つまり他者を他者として認め愛そうとはできない部分だ
(つまり、自分を愛していて、安定しているから他者を愛することで自分も満ちるようにできる、共生的な状態にないと言う事)
描写としては「碇シンジが他者の存在を必要とし、全人類との一体化を否定してアスカと2人きりになった」という所だろう
すべてを一つにしてしまう混沌を母的な存在とするなら、自己と他者を切り分けて境界線を引くのは父的な存在である
父的側面の足りない碇シンジが自分とい他者を切り分けられたのは、極端な自己愛から脱却しつつあることを意味する
(なお、旧劇の該当シーンで地球が細胞分裂のようになるのは、人が”切り分ける”事を通して分離個体化する事のメタファーとして効果的だったという感想を自分は持っている)
ATフィールドの訳語が絶対恐怖領域である事を待たずとも、当たり前のことである
人は他人を受け入れたりもするが、受け入れなかったりもすると言う話に過ぎない
しかし、碇シンジはそうした絶対恐怖領域に耐えられるのだろうか?
それは、「もしアスカが起きたらまた自分は拒絶される、だから拒絶=殺害したい。でも世界にはアスカしかいない、拒絶したら、もう2度と他者と触れ合えない。でも、でも、でも」と葛藤している所を表している
だから、アスカが「大丈夫、怯えなくてもいいよ」と頬を撫でると力が緩み、涙を流した
ここでアスカが言った「気持ち悪い」の意味に関しては、本筋とは関係ない上にまだ把握できていないので割愛する
さて、旧劇における首絞めの理由に共感できる部分があると思った自分は、その過程(人類補完)と結末(アスカへの首絞め)が碇シンジにとって救いとなっているのか、新劇場版(以下、新劇)が作られたと言う事は、同じ結論にはならないのではないかと思った
(例として、新劇・破における碇シンジが自分個人の理由から綾波を救出し、周りの意見を聞かなかった結果、Qにて自分の言葉が届かなくなってしまったなど、旧劇とはまた違う結末になりそうという所だったり)
そして、もし結論が違うのであれば、旧劇の過程や結論は間違いだったのかと思った
シンジのデストルドーはどのように救われれば良いのか、分からなくなった
そこで、エヴァに関しての考察は停止して、救いとは何かについて別の視点から記述した
結論から言えば、人は完璧な世界(他者が居らず、自己愛だけが満たされ、幼児的万能感の世界で神になる、自分が傷付かない世界)を目指そうとすれば死ぬしか無くなり、生きることは苦しんで研鑽したり、自己に閉じこもり堕落する事を繰り返し葛藤しながら何とかやっていくことに過ぎないということだ
坂口安吾が「生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか」と言いつつも「だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう」と言った事と同じである
生きると言うことは決して楽なことではなく、むしろ葛藤を抱え、時に逃避したり自責感に自殺を選びたくなっても、ともかく自分なりの現実を作り生き続ける事に他ならない
そこまで考え、旧劇における結論は他者の存在がまだまだ希薄だが救いがあると思った
碇シンジは他者を認めつつあり、自分の葛藤を自分なりに処理していくことができるようになるだおる
碇シンジは、生きるか死ぬかの所で他の他者すべてを巻き込んでしまった
あの世界では、もう生きようと思っても生きられない
さらに言えば、その過程で碇シンジと同じように葛藤を抱えて生きようとした全世界の人間の救いを奪ってしまった
そうした自分勝手な行動によって他者の救いを奪ってしまった事、そしてやっと他者を認めつつあるのに、アスカ以外の人間を復活できなかった事から生じる生きられなさ
そういう結論から、碇シンジの内面が何の関係もない他者の人生や世界の命運と”繋がってしまう”というエヴァンゲリオンに「だから、エヴァンゲリオンを見た時の気持ち悪さはそこにあるんだと思う」という感触があることに否定が出来ない
いわゆるセカイ系の気持ち悪さと言い換えても良い
現実世界において、どれだけ葛藤を抱えても世界や他者が壊れないのと別に
セカイ系においてはそうした葛藤と世界・他者が結ぶつきやすく、すぐに取り返しのない事に合ってしまう
(鈴木敏夫のジブリ汗まみれ 2010年1月12日 庵野秀明ゲスト回その2 続き)
鈴木:何なんですか。
庵野:まあ、目標みたいなもんですかね。設定のひとつですよね、目標設定の。到達点じゃないんですよ、それがゴールではないんですよ。
鈴木:ゴールではないんだ。
鈴木:あ、そうなんだ。
庵野:人としては較べようがないんで、やっぱり作ってる作品になると思うんですけど。超える超えないっていうのは。そういうのは、何をもって超えるかとかそういうのはありますけど、まあ、なんだろう……意識ゼロじゃないですね。
鈴木:宮さんを仮想敵にしたのは、作品で言うと何やってたときなの?
鈴木:ほお。
庵野:ちょうど師弟対決とか世間で言われてたとき。『エヴァ』の前の映画(『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』)やってたときに『もののけ』がやってたんで。
鈴木:なるほど。
庵野:あのときは殆ど同時だったんで。興行では勝てる気はなかったですけど、中身では勝ちたいと思ってましたね。
鈴木:どうだったの。
庵野:……。
鈴木:まあ、そんなに簡単には言わないだろうけど。
庵野:まあ、言わんとこうと……。
庵野:それはもう過去の自分だったりするわけです。いまの『ヱヴァンゲリヲン』がそうですね。前の『エヴァンゲリオン』よりいいものを……いいものっていうか、いまの自分が入っている分。12年分を出して、別のものにしようと。「誰か」って最終的にスタッフになっちゃうんですけどね。スタッフが頑張ってるから自分も頑張らないとになりますね。
鈴木:後身の育成ってどう思ってるんですか。
鈴木:今度のね、米林(宏昌)ってのが面白いよ。いまのこの『(借りぐらしの)アリエッティ』やってるんだけど。シナリオは宮さん中心にやってるんだけど、コンテは全部自分でやってるから。だからいわゆる芝居は彼が、演出は。それでそのコンテ、宮さん見てないから。
鈴木:だいたい上手な人って、ふつう教えるのって苦手だよね。宮さんだって必ずしも上手じゃないもの。
庵野:そうですね。宮さん、何もないところで人に教えるのは難しいんじゃないですか。
鈴木:実際の作品作りながらだったら、ね、色々出来ると思いますけど。
庵野:そっちのほうがいいと思います。『エヴァンゲリオン』、テレビが終わって僕はボロボロで一回ガーッと落ちて、そこから跳ね上げてくれたのも宮さんのお陰で。
庵野:だったと思います、いま思えば。本当に引き篭もって、本当にあのときはこのまま生きててもしょうがないな、みたいなこと考えてたときに、電話一本くれて。「とにかく休め」と。半年ぐらい休んでも大丈夫だから、自分がそうだから(笑)。そういえば宮さん、3年くらい休んでたなあ、とか。あれでちょっと立ち直りましたね。やっぱりアニメが好きだったんですね。やっぱりアニメを作りたいなっていう風に戻ったんじゃないかと思いますね。
鈴木:宮さんのとこぜひ来て下さい。宮さん元気になるから。だって、庵野のこと好きだったものね、宮さん。いまでも本当によく話すよ。どうしてるって話を。
おわり