はてなキーワード: 伝統とは
元編プロが口を挟む。
版元=上流プロジェクトマネージャ。予算と納期とざっくりRFPを書いて編プロと印刷会社にお金を回す。終盤で品質チェック(ほぼ主観)することも。
↓
編プロ=現場PM&SE。仕様書と画面遷移図書いて、人集めをして、使用ライセンスとかの管理して、PGの世話をして、デバグして、ビルドデプロイして、プロジェクトを締める。
↓
筆者=PG。書く。
みたいな感じだった。うちのとこは。
あと校閲さんが外注デバッガみたいなもんなんだが、伝統的に版元がお抱えしてたりする。デバッガなんで、企画そのものとかUI画面遷移そのものにはダメ出ししてくんない。それは編プロの仕事かな。あと印刷所&取次iOSアプリで言えばApple(iTS)みたいなプラットフォーマーなイメージ。
自分のコメントにスターをつけてくれる人もいるわけで現実逃避というか、過度な一般化をしているのは認めます。
http://nectaris.hatenablog.com/entry/2015/02/09/034418
ただ、これを見て歴史と伝統に裏打ちされたはてな村の住みづらさがよりはっきりしてきました(笑)
考えてみるとツイッターでも絡みや炎上があるのにはてなだけ何故、こんなにそれが気になるのか自分でも不思議です。
他だと複数のサービスをまたいで利用し、それがバレるような事がないと窮屈さを感じないからなのかもっと別の要素があるのか・・・?
PGは、まず見積もりを依頼されます。この時ほとんどの場合、要求仕様書が無いか、あっても伝聞で情報が欠落もしくはエラーを起こしています。残念ながらエラー訂正機構は装備されていません。CRC、せめてパリティでも入っていればちょっとは違うかもしれません。期待出来ませんが。
ここでプロジェクトマネージャー(又は管理者・経営者等。以後PMと称する)から「最速でやった場合」「割り込みが入らない場合」「君がやった場合」or「部署内で最高ランクのPGがやった場合」「仕様変更が無い場合」という条件が付きます。
底辺PG諸君。ここでこの言葉を額面通りに受け取ってはいけません。
「【最速で】3ヶ月かかります」
と答えたらPMは【普通に】3ヶ月の工程を工程表に書き、見積書に3人月分の金額を書きます。そしてこれは後述する危険と隣り合わせとなります。
この危険を経験したPGは大抵リスクを込みで【黙って】見積もりを伝えます。
しかしPMはお見通しです。「高い」「そんなに時間がかかるわけが無い」と言い、受け付けません。何故なら実はPMの頭の中では既に「3ヶ月」なのです。PMは追い込むために見積もりの詳細を聞いてきます。
ここで素直に「リスク込み」と答えてはいけません。既にPMは前述の前提条件を述べているからです。無下に却下されます。
戦いたいPGかつPMが同じ会社であれば「後学のためにPMの詳細見積もりをお聞かせ下さい」と聞いてみるのも良いでしょう。ただし確実に印象悪化は避けられません。PMが発注元の場合は禁句です。まずキレます。そのまま発注されない事もあるでしょう。発注されなかった事を喜びましょう。
なぜキレるか。それは簡単です。「明確で論理的な理由が無いから」です。理由が無い上に実は既に予算が決まっており、それを超える事は許されません。予算を超えた見積もりはPMがさらに上層部・経営陣から怒られる事を意味するからです。理由が無いから理由をPGに考えさせているのです。PMが仕事をした気にさせるのも底辺PGの役目です。
予算を超えた見積もりはあり得ませんので、答えは「がんばります」しか残りません。しかしPMはそれすらもPGの口から言わせたいのです。でもよく考えて下さい。あなたの脳はオーバークロック出来ますか?
底辺PGが出来る事は、PMやユーザーが分からないように期間と予算を加算するくらいです。
一応、市場原理が働くため、安い方がいいに決まっています。金払いのいいユーザーや元請けってのはあんまり無いです。そして金払いの悪い所ほど後々してやられますので、最初の予算の付け方でどういう所かが大体予測出来ます。
そんなわけで、予算と期間に品質と内容は関わりがありません。もちろん企業の使命として、安くて良い品を、安くても利益を、は追求してしかるべきなのですが、日本の場合質と金額が比例するのは極一部。IT業では基本的に、安くて良い品を出来るだけ高速に、がモットーです。受注しなければ会社がやっていけないのは分かりますが、「安さ」だけしか売り物に出来ない会社は、IT会社として失格でしょう。
かくして、短納期低予算のプロジェクトが組まれるわけです。そのPMの理論からすると、高速バスで東京から新大阪へ行く方が、新幹線のぞみの指定席グリーン車で行くより高く、書留速達の郵便より普通郵便の方が値段が高い、という事になりますが。質、時間、価格の何がIT業と違うんでしょうか。
実のところ発注や作業開始は遅れている事が多く、納期に間に合わせるには発注前に作業を開始せざるを得ない場合が8割ほどです。実はここにも罠が仕掛けられています。
作業に取りかかろうとようやく出てきた仕様書を見ると、見積もり時の時と変わっていたり、追加されていたり、未だに仕様が無い場合がほとんどです。
「こんなものをこんな期間で出来やしない!」と憤慨してはいけません。なぜなら
という答えが返ってくるだけです。PMが見積もらない理由がここです。PMに見積もりを聞いてはいけない理由がここです。これは後々まで効いてきますので注意が必要です。「前提条件と違う」と反論するのは無駄です。PMはそれは忘れています。そもそも考えて発言していないので口が勝手に脊髄反射で言った事であり脳は関知していないのかもしれません。PMにとって最重要な事は「PG自身が言った事」です。そう、工程表にも議事録にも「3ヶ月」という数字のみが記載され、いわゆる「リスク」は何処にも書かれて残っていません。
PMやユーザーは絶対にリスクや前提条件を書き残しません。それがこの業界の伝統ある慣習だからです。
ここで言った言わないの不毛な戦いをしてもいいのですが、確実に査定は最低です。もしプロジェクトから外されたらそれは喜びましょう。
管理者や経営陣等からは「やる前に出来ない言うな。やってから言え」と怒られます。残念ながらこれも真に受けてはいけません。
設計、構築など作業をしている間もどんどん仕様変更・追加は流れ込みます。
PMは工程進捗を把握しているのでは無く、PGが【自ら】工程表や報告書に纏めます。遅延していれば遅延の理由も書き、挽回策があればそれも書きます。しかしPG個人が取れる挽回策などたかがしれています。と言うよりそれが分かっていれば遅延などしません。他の策は既に実行済みなので、挽回策には「残業・休日出勤」くらいしか書く事が残りません。しかしこれは現実にこれしか書く必要がありません。なぜならPMはこれ以外の挽回策は理解不能だからです。
仮に報告をしても「早すぎる。もっとやってみてから」「がんばれ」という答えが返ってくる事でしょう。
遅れを放置するPMもいますが、許容範囲はPMにもよりますがある程度遅れが見えてくるとPMから追求がやってくるようになります。
「なぜこんなになるまで報告しなかった」
そう、報告出来る時期というのは非常に限られています。多分プロジェクト工程(今の例なら3ヶ月)の中の30分くらいです。それより早いと相手にされず、それよりも遅いと怒られます。報告時期を見誤らないのもPG業の技です。
実装が難しかったり、無理難題は多々あり、その上工程が遅延しているので、相談をしに行きます。しかし、それは無駄です。
「自分で考えろ」
「やってから言ってるんじゃねぇ。やる前に言え」
他似たような答えしか返ってきません。非常に非生産的です。理不尽です。時間の無駄と考え報告・相談に行かないPGも多いとか。非生産的ですが、一応相談はしておきましょう。ただし時間は取られないように。
同僚やチーム員に相談してもいいのですが、昨今のプロジェクトは人員がスタンドアロンで動いています。したがって、隣の人やチーム員がが何をやっているのか知らない事が非常に多く、相談出来ない事も多いのです。PGにメンタル病が多いのは実は理由がここにあると自分は思っています。孤立感が半端無いのです。まぁ、元を追えば、そいういうチームを組む事、教育訓練しない事など、実は管理者・経営者が「カイゼン」や「効率向上」を題目に目の前の超短期的コスト削減だけを考えている結果なので、PGとしては何も出来る事はありません。管理者・経営者は中長期について考える必要が無いからです。なぜなら「その頃には自分は満額の退職金を貰って定年退職済み」だから。
実のところ単独の仕事をしていればいい、と言う事はあり得ません。同じプロジェクトの中からも割り込みや、他のプロジェクト・部からも割り込みは多々入ります。
始めに言ったじゃん。どうにかして。というのは無駄です。覚えてないし、「会社員なら当たり前だ」という答えが返ってくるだけです。「15分だけ」「ちょっとだけ」が頻発しますが、塵も積もればなんとやら、です。ちなみにこの件は査定・人事評価には全く影響がありません。
相談すれば「午前中はこの仕事、午後はこの仕事、定時後はこの仕事をすれば並列同時が可能だ」とあたかも新発見超名案を出したかのように返されるのが落ちです。そう、1日が24時間しかない事は忘れ去られ、PGが人間である事は忘れ去られ、思考の分断は効率を激しく低下させる事を知らないのです。
ここで断る勇気を持つのが大事ですが、職場内の雰囲気は格段に悪化します。評価は「人でなし」「自分勝手」「自分本位」「冷たい」。これらの視線に耐えられるのなら断りましょう。こちらからすれば「自分の時間を奪う方がよっぽど人でなしだ」と言い返したい気分です。
テスト工程も始まり、遅延が激しくなる上に、バグが発見されさらに遅延という状況が始まります。
ソフトウェアである以上、バグが無いプログラムなんてのはあり得ないのでバグを出す事自体は不可避です。
ところがPMは激しく怒り出します。バグの発見はPMに一報が行きPMが怒られるからです。
底辺PGはバグを出す毎にこっぴどく怒られます。中には仕様変更の事実がPGまで伝わっていないのにバグ扱いされる事も多々あります。
バグを出すと修正、テスト、再発防止策の考案などの厄介事が増えます。
再発防止策は通常「どうやったら自動的にそうならないか」を考えますが、あまりに根幹すぎるので、底辺PGの身分では権限が無く、出来る事が限られます。そしてPMが理解出来る策を考えねばなりません。結果「テストを増やす」「チェックシートを作る」とかになりがちです。しまいには「チェックシートのチェックシートを作る」などという意味不明の現象に陥ったプロジェクトを何度も見ています。
厳しく、それは厳しく怒られる上に、チームの前でさらし者にされる事、人格を否定される事も多々あるので、PGはバグを出さないように、見つけても出来るだけ極秘裏に解決しようとします。
「恐怖駆動型開発」
というもので、日本の場合ほとんどがこの開発手法をとられていると聞きます。この開発手法は書籍になっておらず、書籍としてよく売られているのはアジャイルな開発手法の本が多いです。知識として持っているのはいいと思いますが、役に立たないと思いますねぇ、恐怖駆動型開発の前には。まわりの人間も恐怖に巻き込まれないようにするため、どんどんスタンドアロン化が加速します。
その上、バグを隠すようになり、バグが出るようなテストを避けるようになるため、短期的に収束しているようにみえます。だから効果絶大と見るようです。リリースしてからが楽しみですね。
PMが空想から覚め、もう救いようが無くなった事が事実と認識出来るようになった時、ようやく、2度目の相談・報告時期が訪れます。ただし、PMの第1声は「どうしたらいい?」です。そんな事が分かっているのなら実行済みなので、黙っているしかありません。
するとPMは「何人入れれば良い?」と聞いてきます。意味が分かりません。IT業を労働集約型産業と勘違いしているのが未だに存在している事に驚きです。頭脳集約型の形態に人を入れて解決しようとはどういう脳をしているのか。一度解剖してみたいものです。多分、高校を受験する中学3年生の受験者が100人集まれば旧帝大の入試に合格すると考えているのでしょう。もしくは1Km走というのは1000人が一斉に1m踏み出せば1Km走った事と同じ記録である、と考えているのでしょう。
脳を電通で直結出来れば若干違うかもしれませんが、IT業の1+1は2では無く、良くて1.5。ましてやこれで増えていくのは3~4人までが限界でそれ以上は人を入れても上がらないどころか、マイナスになる事が常。
PGなら他のプロジェクト、他の部、他の会社に信頼出来るエース級のPGを何人か知っているかと思います。なのでついPMに「エース級を3人」等と提案しがちです。しかしこれは叶わぬ望みです。その提案に対する答えは「そんな事出来るわけないだろ」です。そりゃそうです。予算が無いのだから。
自分の仕事があるのに、何故かこの後から来た人員を纏めるようPMから指示が出ます。PMが指示出来ないからです。破綻は間近です。いや、既に破綻しています。
プログラムが出来上がっていく以上、バグをつぶす速度以上の割合でバグを注入していく事になります。
「混乱しているプロジェクトに人を入れれば、なお混乱するだけ」
という有名な文を実感する事でしょう。なお、実感するのはPGだけであり、PMは実感出来ません。
この辺で思わぬ事態が発覚します。実は発注が遅れていた事です。
発注日以前にドキュメントがあっては監査にひっかかるため、今まで作ったドキュメントを作り直しをしなければならないという、まさに想定外の事態です。ほとんどのドキュメントには作った日付や判子が押されているはずです。それを全部作り直しするのです。納期は間際です。これも納期までに間に合わさねばなりません。
PM(重ねて書くが、プロジェクトマネージャだけでなく管理者や経営者も含む)が発狂し始めます。宛先は底辺PGです。
中には「お前を精神的に追い詰めるしか手がねーんだよ」とストレートに言ってくれるPMもいたりしますが、あまり出会った事は無いですね。
あの手この手で精神的圧迫を始めます。圧迫すれば脳がオーバークロックして作業が進むと考えているからです。残念な事に、脳の別の部位がオーバークロックしてショートしてしまいます。
こういうプロジェクトを経験し、運がいいのか実力なのか、生き残った人達がSEとなり、いずれPMとなっていきます。
不思議な事に日本では、PGが成長してSEに、SEが成長してPMに、とクラスチェンジするものだと考えられている会社が多のですが。
自分としては、座標軸のX,Y,Z軸の様にPG軸とSE軸とPM軸と全く異なるベクトルだと考えています。X軸の先にY軸Z軸があるわけでは無い、と。もちろん、軸に沿っているだけでは無く、他の軸のベクトルも併せ持つのもよいエンジニアでしょうし、ベクトルの方向を伸ばし続けるのもよいエンジニアでしょう。
ところが、クラスチェンジするものだと管理者・経営者は思っているから、給与体系もPG<SE<PMとなっていたりします。この時代錯誤的階級社会はどうにかならないものでしょうか。
自分はPMを否定しているわけではありません。いいPMの元でいい仕事をしたい、と思っているだけです。今までに何度かそういう良い経験をした事はあります。それは成功経験としてモチベーションを保つために必要な事なのです。
PG至上主義でもありません。分業形態として、SEやPMは必要不可欠だと思っています。ただ、PGを粗末に扱っておきながら高品質の製品を要求する風習・慣習が納得出来ないだけなのです。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.tachibana-akira.com/2015/01/6712
これのブ米みると「日本の仏教がデタラメ」に違和感を持つ人がいるけど大乗非仏説すら知らないのか?
日本の仏教はほぼ大乗仏教でその経典は釈迦が死んでから数百年後にでっち上げられたもので原典と内容が全然違うというのが定説
代表的なのが夏のお盆のもとになってる盂蘭盆経で中国の祖先崇拝を仏教風の経典にしてるだけ
有名人が言ってもないことをでっちあげた新興宗教の書籍を嘲笑してる人達は釈迦が言ってもないことをでっちあげた伝統仏教の経典をありがたがるなんてことないよな?
まあもちろん中身が素晴らしいとか言うんだろうけどいくら中身がよかろうと釈迦の教えじゃないなら仏教は名乗るべきではないし
独自の宗派を立ち上げないのは高名な釈迦に乗っかっとけば布教しやすい(消防署のほうから来ました的な詐欺同然の有利誤認)ということでしかない
・同化パリーン→総士の目が金色になってたけど総士さんの身体って今どうなってんだろ…
・160cm45kgってみかみか細すぎない!?
・居心地悪げな一騎さん
・咲良「エースパイロットから激励の言葉があります!」一騎「嫌な命令なら聞かなくていい」
・島を信じられなくなって家出した人は言うことが違うぜ!
・シナスーを性的に見ちゃうの微笑ましい…そんないいもんじゃねえぞ…
・「みみかはあたしの宝物なんだ! おかしいだろ子供に守らせるなんて!」
・生還させられなかったどころか「一騎は皆城総士の仇を取って死ぬつもりだ!」とか見送ってたもんなお前
・痛みは皆城総士の祝福で、命は皆城乙姫の祝福というのがHEでの結論。では真壁一騎の祝福は?
・ああ~ホラ一騎さんの自殺志願始まったよ~総士をはよここへ!
・特にやることないからフラフラして家で土こねてるとかさすが史彦の息子! カレー作ってろお前は!
・KY「姉がこれ同じもの乗らってました! L計画のときに!」芹「」
・みかみかさんこれ最後の晩餐になるやつですねぇ~
・好きな女の写真をお守りに…礼央さんこれあれだわ道生フラグだわ
・鏑木さんち家族関係いびつすぎるだろ…もうこの子は島を守って早々に死んだほうが幸せだよ…
・でも総士がニヒト乗るんだからKYはジークフリードシステムなんだよなあ
小説ではない、と言う人もいる。
ラノベは何と比べて劣っているのか。
単にみんな、印象論で語っているだけなのかもしれないけれど。
ラノベというのは、漫画でいえば少年漫画のようなものではないか。
少年漫画と青年漫画はそれぞれ客層が異なり、それによって表現の仕方も違ってくる。
どちらか一方が「漫画」であり、もう一方が「漫画」でないということはあり得ない。
ラノベは、ストーリーよりもキャラクターで勝負する傾向があり、
設定は荒唐無稽で、文章は誰でも読める程度に簡易なものが多い。
一般小説とは異なるアプローチで、読者の期待に応えているのだろう。
少年漫画も青年漫画も栄えている漫画とは違い、「小説」は衰退していく一方だ。
今時は、ラノベみたいな表紙絵に、
ラノベみたいな誰にでも読める文章で書かれた「小説」もどきが増えてきた。
こんな状況でラノベなんぞを受け入れたなら、我々の愛する「小説」はどうなってしまうのか。
きっとろくなことにならないに違いない。
また、日頃「小説」どころか本さえ読まないような方々でさえ、
私はメニューを見ながら並野菜セットかなぁなどと考えて待っていた。だが先客が妙に遅い。うまく操作できていないようだ。リトライしている様子なので私は放っておいたのだが、そのうち彼は店員を呼んだ。
こういう状況なら「すいませーん、うまく動かないんですけど」とか「どうすればいいんでしょう?」という依頼の姿勢で店員に話しかけるのが“常識”だと私は思う。だがしかし彼はいきなり「おい、これどうなってんだよ。買えないよー」という抗議のニュアンスの言葉を放った。しかも、どちらかというと券売機に向かって。
高校生バイトっぽい店員の女性は、買いたいメニューを確認し金を受け取り操作を代行した。それを見て彼は「ああ、先にお金を入れるのか」と合点がいったようだ(追記:そして私も事情を理解した)。しかしその言葉はどちらかというと対応してくれた店員へのフォローというよりは、でかい独り言だった。客が移動すると店員と私は微妙な苦笑を交わし場は難なく収まった。食券を買い席に座った私は、これが例の問題行動高齢者かと思い、観察を続けてみる事にした。
彼の注文はテイクアウトで、松屋では盛り方の選択肢があり店員が口頭で聞く。彼の返答は、やはりぞんざいな言葉遣いだった。しかし先ほどの抗議めいた棘はなくなっていた。ほどなくして商品が出てくる。店員はセルフで取るショウガなどの案内をしつつ手渡す。彼は「ああ、はい」との言葉を発し無事に店を出て行った。店員への了解返答半分「あ、そうなんだ」という独り言半分という感じだった。
デミたまを食いながら私は観察を反芻する。券売機が使えないならば初めての来店ということだ。いわばアウェーでいきなり抗議のニュアンスはないわー。でも彼は怒っていない。攻撃的な言葉から私が受け取る印象と彼の内面の感情状態にはかなりのギャップがあるようだ。
券売機へのお金の投入が後だと思い込んでいたのはいったい何故なのだろう?(追記:彼の年齢なら馴染みがあるだろう)飲料自販機や切符券売機を考えれば、普通はお金が先だよな。もしかして「メニューから店員に注文してからお金を払う」の習慣からきているのだろうか。にしても終始彼は店員へ向けたコミュニケーションの姿勢を示していない。彼にとって店員は対話すべき対象ではないのだろうか。店員が若い女性であったことには関係があるのだろうか。彼は若いときからそのような姿勢なのだろうか。
総じて、店員の柔軟な対応に依存する伝統的な環境であれば、彼の姿勢は特に問題にはならなかったのかもしれない。だが昨今の人件費を減らす圧力のかかるスマートなシステムにおいては、様々な不整合を表面化させる、とは言えそうだ。
それでも彼は怒ってはいない。むしろ困惑しているのかもしれない。
■本文。
最終回だというのに最初からくどい話になるのだけど、インターネットなどのメディアが、世界が一体化したかのような幻想を生み出す一方で、野放図に拡大される情報社会が、心の繋がりを裁断し続けている。断片的な情報を追いかけることに躍起になるあまり、多くの価値観=ジャンルは求心力を失った。例えば、メディアミックスにしても、それぞれがジャンルという枠による秩序を持っているからこそ、混淆することに意味があったし、一体化の幻想自体が、[かつての全能感]を取り戻すための侵略に他ならない。そして、互いの領域を侵略した結果、秩序という枠組みが曖昧になったことで、インターネット上では無制限に肥大した自意識が互いに衝突を起こしている。情報という麻薬に蝕まれた中毒患者は絶えず全能感と無力感を往復しているが、目の前にある荒んだ光景は認識することができない。
そんな現代において、旧来の世界観に回帰すること=思考停止による癒しが唯一の自己防衛手段となっているケースは多い。そして、箱庭のような偽物の原風景に引きこもることで、飽くなき侵略=拡大する欲望を抑えている。自己言及的な表現を頑なに拒むのも、居場所を自壊させてしまうことへの潜在的な恐怖があるからなのだろう。そして、マッチョイズムとフェミニズムの対立から零れ落ちた層を汲み取る為に、ポルノメディアの特異点……ポルノメディアから遠く離れたポルノとして、美少女ゲームは存在している。マッチョイズムにせよ、フェミニズムにせよ、その論理は自身のセクシャリティ=現実の恋愛やセックスを前提としているが故に、現実と虚構を対比し優劣を決定する方向性で結論を出してしまう傾向が否めない。例えば、フェミニズムの功績としては、男女の恋愛関係におげる規制緩和と自由化が挙げられるが、同時にそれは恋愛における自由競争を生み出したと言えるし、当然、自由競争から弾き出された恋愛弱者も多く生み出すことになった。ちなみに、この構造は、フェミニズムをインターネットに置き換えれば、情報弱者を生み出す構造と同じになるのだが……。
美少女ゲームはポルノグラフィの枠組みから発生したものだが、その論理基盤は[男と女]というセクシャリティを巡るものではなく、[自分と他人]という基準で駆動している傾向がある。言い換えれば、自身のセクシャリティに対する意識が希薄であるが故に、全くの異物としての他者(異性)を認識することが難しく、自己の延長としての他者という方向性で純化されているのだが、同時にコミュニケーションを崇高化し過ぎるという弊害も見られる。その弊害が悪化すると[引きこもり]に繋がっていくのだけども、ユーザーの大半は普通に社会生活を送っている。理由は色々とあるだろうが、スピリチュアリズムに似た信仰システムの機能を、美少女ゲームが持っていることも挙げられると思う。
そして、セクシャリティに対する意識が希薄である=前時代的であるために、恋愛至上主義的な表現が勃興した。例えば『ToHeart』や『ONE』で描かれるセックスはあくまで婚前交渉であって、娯楽としてのセックスではない。娼婦と素人娘が厳然と分かれていて、素人娘と付き合う時は必ず結婚が前提になる時代の価値観が無意識のうちに再現されているので、『Kanon』に至っては、名雪シナリオ以外ではセックスすることを選択しなくてもトゥルーエンドに到達できる。それは、セックスは結婚後に初めて行うものと考える人々が未だそれなりの割合で存在していたということだろう。だから、美少女ゲームの一部は厳密な意味でのポルノメディアから離れつつある。風俗産業の二次元版としてのポルノではなく、結婚相談所の二次元版としてのポルノメディアなのだと考えれば分かりやすいのかも知れない。
さて、現代の物語メディアの多くが単独で成立しにくい原因の一つに、経済やテクノロジーの発達に伴い、物語の消費スピードが飛躍的に加速しているという状況がある。または、物語がパーツ単位で解体された結果、秩序を維持できなくなっていることに起因する。物語がジャンルとしての秩序を失い、単なる情報の集合体として氾濫した結果、その多くは誰もが知っている[お約束]と呼ばれるものになってしまった。そして、[物語を読む]という行為の目的が、疑似体験を介して思索することではなく、氾濫する情報を収集し続け、酩酊状態に導いて思考停止することに変質してしまった。同時に、ゲームというプラットフォームから発信される物語が、作者の意志によって導かれる連続体としての表現ではなく、ユーザー自身が演じる舞台……遊戯空間としての情報集合体へスタイルを変化させつつある。
つまり、他人の波瀾万丈な人生を追体験するのではなく、原風景としての平穏な日常を演じる媒介として機能しているケースが増えているのだ。原風景=楽園志向が悪い訳ではないのだが、美少女ゲームが遊戯空間として完成するにつれ、文化的伝統に回帰するルートとしての側面は失われつつあるように思う。
例えば、他者との関わりは、現実世界の他人や社会といった抽象的な意味で捉えられがちだが、過去から連なる歴史的蓄積という視点も存在する。おそらく『ONE』が特徴的だったのは、『ToHeart』で確立された偽物の原風景=楽園を[かつての全能感]を補完するシステムとしての機能面だけではなく、過去の価値観のレプリカと捉えた上で、同時に時間的な意味での[他者]を再現しようとしていたことだ。一見『ToHeart』の二番煎じと思われるような構造に[過去との接続]という要素を加えたことによって、ノイズと判断される危険性を孕んでいながらも、過去と現在を繋ぐ連続体=物語として作られた『ONE』が成功を収めたことで、物語に対するニーズが未だ潜在的に存在していることを証明している。
また、『Kanon』や『鈴のうたう日』では、胎内回帰的であるために閉塞へ陥りがちだった楽園志向を[共生と循環]という方向へ発展させているし、『フロレアール』『とらいあんぐるハート2』『デアボリカ』といった作品も、それぞれの方法で物語表現としての美少女ゲームの可能性を拡げている。そして、そういった作品が予想外な場所から出現する限り、筆者は美少女ゲームのユーザーであり続けると思う。
■あとがき。
本当はこれから出るゲームを取り上げて、今後の展望を書くつもりだったんですが、本業以外の分野を未来予測するのは、やっぱり難しいので、普通に連載の総括という感じになりました。
とりあえずは療養しながら、積みゲーの数々をクリアしようかと思っております。そういう訳で、今後は体調と相談しながら、不定期で登場するかも知れません。どんな形になるかは今のところ、分かりません……って、別に打ち合わせもしてないので(笑)。あと、FAKEOFFICEのホームページに、このコラムのバックナンバーを順次再録していく予定です。こちらも体調次第ですけど……まあ、そういう訳で一年とちょっとの間、どうもありがとうございました。
■連載のはじめに。
コンシューマー系のギャルゲーバブルも、そろそろはじけかけている今日この頃ですが、アリスソフトというメーカーは、良くも悪くもマイペースで、ギャルゲー(非18禁)とエロゲー(18禁)の境界線を、自由気ままに闊歩しているという印象があります。そして、その分、バランス感覚に気を配っているメーカーでもあると思います。ただ、ギャルゲーもエロゲーも、バブル的な市場の拡大が起こってしまった現在は、同時に多くの価値観が提示されてしまった世界でもあると思うのです。まあ、エロゲーの世界は元々、無秩序・無軌道・反社会的で『仁義なき戦い』のような世界ではあるんですけど、それにしても価値観が乱立し過ぎてねえか、というか、既にレーベル数を、本職の美少女ゲーム誌の編集者が把握しきれない、そんな状況の中で、今後のアリスソフトを占う上でも、『ぱすてるチャイム』は興味深い作品だと思ったのですよ。ええ。
■全体を俯瞰して。
さて、そんな昨今の状況に対して、うっかり中出ししてその後始末を考えるような、ちっともタイムリーで無い、珍妙な美少女ゲームコラムの第一回のお題は、アリスソフト久々のRPG『ぱすてるチャイム』でございます。
もう、発売してから結構経っているので、改めて説明しなくてもいいと思うんだけど、『ぱすてるチャイム』は、育成ものと恋愛SLGの要素を加えた、ダンジョン探索型のRPGです。4人の女の子達と協力して冒険していくうちに、喜怒哀楽がで悲喜こもごもなイベントがあって……というのが、美少女ゲームとしての、一番メインの要素なのだけども、心配していたのは、これらの要素が、一つのゲームとして、まとまっているかどうかという点だった。とりあえず、その辺からゲームを俯瞰していくことにしましょう。
まず、RPG部分に関しては、アリスソフトの伝統的な操作体系を継承していて、かなりプレイしやすいシステムになっている。ただ、作り込んではあるんだけど、昔ながらの経験値稼ぎ系のゲームなので、特に、最近のコンシューマー系のRPGに慣れてしまっている人には、戦闘シーンが、システムに慣れてくるとすぐに単純作業になってしまうあたり、ちと辛いかも知れない。
戦闘シーンのビジュアルが基本的には静止画だけで、キャラクターの台詞でメリハリをつけるというのは、作業の効率という点では好感が持てるんだけど、淡泊というか、単純作業という点を強調してしまった面も。例えば、『ファーランドストーリー』や、アリスソフトだと、『かえるにょぱにょーん』の戦闘シーンにもあった、チビキャラアニメみたいなものがあっても良かったかも知れない。まあ、筆者はそういうのがうざったい、かなりせっかちな人なので、OFFにしてしまいますが、多分。
むしろ、気になった点としては、恋愛SLG部分の方で、ゲーム時間と比較して、イベント数が少ないのだ。一つ一つのイベントは台詞回しなども含めて、よく練り込まれているのだが、一学期から二学期にかけて、シナリオが分岐するまでのイベントが少ない。これは、キャラ固有イベントに比べて、共通イベントが少ないからだと思うし、週末のデートイベントがテキストだけで、しかも、数パターンしか無いってのも、ちょっと寂しかったな。しかも、キャラ固有のイベントは、見逃したら次のイベントに繋がらない……というものもあるので、フラグ立てをしくじると、本当に味気ないプレイになってしまう。まあ、普通は途中で気がついて、途中のセーブデータでやり直すのだろうけど……。
正直、『ぱすてるチャイム』というゲームは、かなりストイックなゲームだと思いました。そして、アリスソフトというメーカーもまた、ストイックなのだと、改めて思いました。確かに、『闘神都市Ⅱ』や『デアボリカ』といった、一見ロマンティックな美少女ゲームに見せかけておきながら、しっかり心にはドスが突き狂っている凶暴な名作群に比べれば、その獰猛さは幾分抑えられています。でも、アリスソフトの濃厚な持ち味は『ぱすてるチャイム』のような、ライトな娯楽作品でもきちんと健在です。深作映画に例えるなら、『闘神都市Ⅱ』や『デアボリカ』が、『仁義なき戦い』『仁義の墓場』で、『ぱすてるチャイム』は『資金源強奪』ですかね?(ますます分かりません)
ただ、プレイする側の考え方は、時代に合わせて変わるのだろうし、独自のスタンスというものが、乱立する価値観の中に埋もれてしまうかも知れない……そんな懸念はあれど、筆者は、昔と変わらない毅然とした態度を維持している、このメーカーをこれからも支持していきたいと思ったのですよ。
ボーイッシュを通り越して、豪快な漢気と魅力を発散する沙耶と主人公の関係は、盃を交わした男同士の友情すら感じさせるのだけど、少しずつその関係性が崩れていくというか、主人公以上に、沙耶の方が、芽生えた感情を制御できなくなっていくあたりの描写が、なんともいじらしくて良い良い良い。
ミュウとコレットのシナリオは割と恋のさや当て的な感じなんだけど、沙耶とセレスのシナリオは、グローイングアップ的な展開が強調されている。特に、H以降の関係性の描写に重きを置いている点は、好みもあるだろうけど、個人的には好感が持てる。Hが最終目的ではなく、Hも含めて、他人との関係性の中で真の強さを見つけていく描写は、アリスソフトの得意とする所でもあります。まあ、『闘神都市2』みたいな、キツイ一発……いや、ハードな展開は無いですけどね。あっても困るけど。
天然ボケで内気で弱気で眼鏡っ娘エルフで、しかも巨乳という、このゲームで一番えろーすなボディのナオン。おまけに、陰湿ないじめに遭っていた所を助けたのがきっかけでパーティーを組むという、まるで、おおばやしみゆきのまんがのような出会いだったりもするのだ(分かりません)。どこか人生を諦め、現実から目を背けていた自分を再び見つめ直す……というのが、この娘のシナリオの特徴。得意技能はスカウトで弓使い。スカウト技能が無いと、探索の時にロクに扉も開けられないので、セレスと組むにしても、組まないにしても、、主人公が1レベルだけでもスキルを取っておくとプレイが楽ですよ。
沙耶
タイマンでは負け知らずな武闘派の戦士で、剣の腕は赤銅鈴之助や隠密剣士以上(予想)、主人公に着替えを見られてもへっちゃらちゃらーな、漢気溢れる美少女である。褐色の肌にスポーツブラが眩しいよ! ただ、時々男勝りな自分への不信感が見え隠れしたりもするのがやはり女の子。そんな沙耶のシナリオは、男勝りで凄腕の戦士というパプリックイメージと、一人の女の子である自分の気持ちの間で揺れ動く、というもの。展開が一番筆者のツボにストライクしたのは、別項の通り。あと、スポーツ少女なので、やっぱり引き締まったいい足してます(どこを見てますかあなたは)。実家はそば屋らしい。
赤いランドセルとスパッツがマニアックでタマランチ会長なロリっ子ハーフエルフ。主人公とは因縁めいたものがあるらしく、転校初日の初対面からフレイムアローでマトにかけるヒットマンぶりを見せる。元気いっぱいで、騒々しさと気の強さでは『仁義なき戦い』の大友勝利にも匹敵する武闘派魔法使いでもある(言い過ぎ)。戦闘時にはキリングマシーンと化して、攻撃呪文を撃ちまくるが、MPの消費も早いので気を付けよう。先の因縁と空白の時間という二つの引っかかりを少しずつ踏み越えていくのがシナリオの主題で、ラストの展開は色々な意味で驚かされます。NPCのステータスが回復できなかったのも驚いたけど。
ミューゼル
ヒロインなので赤毛の犬系キャラ……という訳でも無いんだろうけど、やっぱり幼なじみなのですよ。面倒見はいいし、神術が得意で、詠唱では全国2位。まさに非の打ち所のない正統派ヒロインなのだけど、持ち前の人当たりの良さは、自己主張が控えめでおとなしいということでもあるので、それが時々裏目に出たりもする。でも、武装した生徒で溢れ返っている舞弦学園が『熱笑!花沢高校』にならないのはこの娘のおかげ(かも)。やっぱりヒロインなので、シナリオはきっちり手堅くまとめられてます。主人公との関係性はもちろんだけど、コレットとの友情が、描写として印象的な所が多いのだ。
■あとがき。
なーんか偉そうなことを延々と書いていますけど、元々は某美少女まんが誌のゲームコラム用に買ったという名目はあれど、動機は完全にキャラ萌えなので世の中そんなものです。沙耶沙耶沙耶。『かえるにょ・ぱにょーん』だって、しっかりクリアしたさ!
おまけに、このゲームのレビューを書こうと思っていた、某美少女まんが誌のゲームコラムの方は、書く直前に打ち切られてしまって、危うくお蔵入りになるかと思っていたんだけども、捨てる神あれば拾う神あり。というか、やらんと収入が(中略)。さて、次回の『N.C.P』(←略称)のお題は……えーと、今回の原稿を書いていたら、調子に乗り過ぎて規定の字数を大幅オーバーしてしまったので、『ぱすてるチャイム』の続きと、もう一本は、待望の『ベストプレープロ野球Win版』かな……すいません、うそです。まだ決めてません。では、また。[更科修一郎(FAKEOFFICE)]
自分のやりたいようにやればいいんだよ。
オムライスの作り方なんて人気店の丸パクリなだけで作法もクソもないんだよ
それっぽい人を連れて来て、これがオムライスの作り方なんですって言わせてるだけ。
例えばケチャップをご飯炒めた上に投入してはいけないという話がある。
これは別にどっちでもいい。
どうせ酸味は炒めれば勝手に飛ぶ。
料理酒をご飯の上にどのタイミングで入れても炒火でアルコールが飛ぶから前後どちらでもいいのと同じ。
作法とかマナーとかというのは、勝手な思い込みで、和食全般にも言えるけど、これらは宮廷なんたらって高級料理の作法ってだけだし
しかも中国や欧州の作法をそのまま日本式に入れ替えただけだから皆さんの嫌いなパクリなのよね。
箸の伝統だって出雲風土記まで遡ればどこから由来したものなのかはっきり分かるし、意外と知らない人が多いよね、和食文化の成り立ちって。
その流れから、焼き魚の食べ方、作法を言ってる人達は厚顔無恥にも『和食』というカテゴリから論じてるので呆れて物も言えない。
明確に日本オリジナルと言える食事だって、納豆(醤油入れ)や味噌汁、漬物位しかないんじゃなかろうかと。
肉じゃがは東郷平八郎が留学先で習ったビーフシチューが元ネタで、ソースがないから醤油で代用したのが始まりだって言われてる。
焼肉も某国がウリがオリジナルニダとか言うけど中国では紀元前後には既にあったし意外と和食ってのが少ない。
作法やマナーも岩倉具視使節団が各地で収集した欧州文化を取り入れたものが元になってるから、どこどこの江戸時代から続く家元何代目とかっていうのも
所詮は付け焼刃の技術でしかなく、江戸期以前の和食文化というのがそもそも存在しない。
最近は某国ニダのように色々起源説をでっち上げる事に躍起になっているけど、元々輸入した文化をくっつけただけだから『和食』に作法やマナーなんてのはない。
勘違いあるいは、今テレビ番組によって刷り込まされているだけ。
騙されてはいけない。
著作権を尊重せよとか他人のコンテンツで儲けるのはずるいだとか保守的な考えナンセンス!
やつらも
って概念はなぜ捨てきれないのかって思うんだよな
経営者の立場で口を開けばインセンティブがどーの社の利益がどーの
この概念を捨てきれない限りあいつらもカビの生えた思想の奴隷、伝統的保守派と見なさざるを得ない
クリスマスが終わると、スーパーの売り場は一斉におせち商材へ切り替わります。
そこで目にするのは、普段隅に積まれて安く売られているかまぼこが
やけに高い値段を主張しながら並べられている光景です。
「なんでこの時期のかまぼこはこんなに高いの?便乗値上げなの?」
元食品業界の者としてみんなが感じている疑問を掘り下げてみようと思います。
普段スーパーで300円前後で売られているかまぼこは、コストダウンのため
かまぼこのプリプリとした食感は魚肉をすりつぶしたことによる魚由来のものです。
ただし、魚のすり身は高いので、同じ食感を出せる他の物を足して補うことがあります。
普段売っているかまぼこはすり身をでんぷんなどで置き換えているため、
(他に、食感に寄与する材料として卵白も古くからかまぼこに使用されています。)
かまぼこは、本来ならば魚をすり身にして、それを加工して包装して…という手間が
かかっている分、魚より高くなるのが当たり前の食品です。
この時期だけは「おめでたい食べ物」として本来の材料や製法に近いかまぼこが
売られているため、高く感じるのです。
「リテーナ(成形)かまぼこ」というのは限界まですり身を水延ばしして作ったかまぼこです。
普通、このようなすり身は加熱前はドロドロでかまぼこの形にはできません。
そのため、リテーナという半筒状の型にはめて作るのが「リテーナ成形かまぼこ」と呼ばれるものです。
一方、「蒸しかまぼこ」は伝統的な本来のかまぼこの製法で、板の上にすり身を盛り付けて蒸して作るかまぼこです。
魚のすり身の比率が高くなければ作ることができません。
一般的に「蒸しかまぼこ」の方が高いですが、製法によるものではなく、材料の違いに由来する値段の違いです。
普段から本来の材料や製法のかまぼこを売っているお店もありますが、
練り製品全体の消費者離れが進んでいるため、普段から高いかまぼこを買う人はほとんどいません。
しかし、この時期しか本来のかまぼこを売り、買ってもらうことができないため、
メーカーは張り切ってかまぼこを作っています。そのため、この時期かまぼこの価格が高騰して見えます。
元食品業界の者としては、できればこの時期だけでもいつもよりちょっとだけいいかまぼこを
食べてみて欲しいな、と思います。
とは言っても、1本2000円もするかまぼこを、普段かまぼこを食べ慣れていない人が買っても
味や食感の違いは実感できません。(むしろまずいかな?と感じることもあります…。
味や食感の滑らかさに寄与する添加物を入れないため。また、魚臭さが出てしまうこともあるため。)
食べきれるくらいの量の、いつもよりちょっとだけ高いものを一本買ってみるのがおすすめです。
赤と白は色がついているだけで配合は同じです。
白よりも赤の方が若干混ぜる時間が長いため食感が弱くなることがあるかもしれませんが、
色が付いている上の部分だけの違いなのでそれを感じられる人はかなり稀でしょう。
激安かまぼこ以外で合成着色料を使用しているものはほとんどありませんので、
色はお好みで選んでみてください。
紅白2本を買うのは大変、という人は、あらかじめ左右で赤と白に塗り分けられている
また、この時期しか売っていないかまぼことして「切り出しかまぼこ」というものがあります。
普段のスーパーでは子供向けのキャラクターの絵が入ったかまぼこくらいしか
見かけませんが、この時期は干支や松竹梅などたくさんの絵入りかまぼこが販売されます。
お気に入りの絵入りのかまぼこを探してみるのもいいと思います。(違いは色・模様のみで味はほぼ変わりません)
「忙しい人のための」w、一本に松竹梅が全部入ったかまぼこもありますw
かまぼこだけを切って食べる際は11mmの厚さのスライスがかまぼこの食感を
よく感じられる厚さと言われています。
逆に言うと、どんなに高いかまぼこでも、これより薄く切ると台無しです。
年越しそばなどに載せる場合は薄く切ることもあるかもしれませんが、
この場合は逆に、でんぷんが多めの練り物である「なると」を載せた方が相性がいいです。
なるとは薄切りで大丈夫です。あたたかいつゆに入れると一層おいしくなります。
なるともこの時期「寿」の文字入りのものや赤いものなど種類豊富ですので試してみるといいと思います。
ちなみにリテーナかまぼこは水分が多いので冷凍すると す が入って大変なことになります。
1年の中で年末が最も多忙なため、忘年会をせず新年会をします。
誰しも一度は想像しうる、拘禁した美少女スパイへの変態行為。もう想像の中ではやりたい放題である。
凌辱するとか傷めつけたりとか、そういうありきたりなことをやりたいのではないのは要注意だ。さあ行ってみよう
スパイは拘束されてから尋問が行なわれる部屋まで輸送されてくるわけだが、勿論この間お風呂に入ることは叶わない。足が蒸れていたり、ちょっと匂っていたりするかもしれない。
靴を脱がして、靴下を脱がして、……ここでそのまま舐めるのは素人の行なう営為である。
拭く。デオドラントシートで拭く。足を丁寧にデオドラントシートで拭く。丁寧にだ。
そして舐める。これで当局が匂いフェチというより足フェチであることを際立たせる。
要は変態行為のエッジを効かせるということ。まぁ舐めるときちょっと匂いを嗅ぐんだが。
まず再び確認したい点はスパイちゃんの衛生状況だ。拘束から移送までお風呂に入ることはできない。体がべたべたしているかもしれない。
目的を達成するためにサウナに入ってもらうわけだが、そのまま入れるのは素人の行なう営為である。
まず沸かす。風呂を沸かす。そして風呂に入れる。さっぱりさせる。
サウナをよく使う人は解るだろう。一風呂浴びないでサウナに入ると皮膚が熱でひりひりするのだ。
皮膚に充分に水分をなじませてからでないと長時間のサウナは望めない。そこでまずは入浴が大切になってくる。
そしてサウナに入ってもらう。巨大な漏斗状の集水器具を用意し、汗をためよう。
充分にたまったら、霧吹きを用いて、任意の段階でスパイちゃんの任意の箇所に吹きかけよう。
汗かいているときでもいいし、汗引いてからでもいいだろう。ここらへんのエッジの効かせ方は各個人のセンスに担われているといって過言ではない。
仕上げは歯磨きである。もう敢えて贅言しないが、スパイちゃんは歯をしばらく磨いていない。
そこで審問官の出番である。スパイの口を開けよう。そして歯を磨く。この際素人とかそういうのは無い。丁寧にだ。磨く。シャカシャカ。
スパイちゃんの歯並びの良い口腔内を楽しもう。のどちんこ(なんて卑猥な!)なんかも観察できる。磨き残しもチェックしたらいい。
上級者になると、乳児用の歯ブラシを用いる。解るだろうか? あの毛が付いていないゴム状の塊のような歯ブラシだ。
そしておい出ましたよ!!小林製薬の「糸ようじ」ッッッ!!!!!!!!みんなおまたせ!!!!1伝統の6本の糸が歯垢を絡め取る。
スパイちゃんがどのように抵抗するかを含めて、エッジの効かせ方に幅があるのがこの歯磨きという営為である。
仕上げはコップを用意し口をゆすいでもらうのだが、ここでもスパイちゃんがどうするのか楽しみである。
そのままゆすいで、「ぺ」ってするのか、あくまで抵抗して異端審問官に吹きかけようとするのか、それともしおらしく飲み込むのか? 想像は膨らむ。ヒャアアアアアアアアアアア!
皆さんはもしスパイを捕まえたらどんなことをしてみたいですか?
9ヶ月にわたった戦いも、はや過去のこととなり、わが清水エスパルスは、今やその任務を果して、ここに今シーズンを終了することとなった。
しかしシーズンは終了しても、そのために我らサポーターの務めや責任が、軽減するということは、決してない。
この残留で収めた成果を、永遠に生かし、さらにチームを強豪にするには、シーズン序盤、終盤の別なく、まずもってチームの主力層に対し、
重要な役目を持つ若手・ユース層が、常に万全の戦力を保持し、ひとたび事あるときは、ただちに、その危急に対応できる構えが必要である。
ところで、その戦力であるが、戦力なるものはただ年俸や名声の物や数によってだけ、定まるのではなく、
百発百中の砲は、一門よく百発一中、いうなればスタジアムに毎節行くサポーターは年間に1度しか応援に来ないサポーター34人と対抗することが
できるのであって、この理に気づくなら、われわれサポーターは無形の実力の充実、即ちリピーターに主点を置かなければならない。
先般わがエスパルスが残留を得たのは、もちろん大榎監督の奮励によるとはいえ、一面また危機的状況下のサポーターの応援によるものであって、
それがあのような事例をもって、将来を推測するならば、たとえ戦いは終ったとはいえ、安閑としてはおれないような気がする。
考えるにクラブの一生は戦いの連続であって、その責務は優勝争いであれ、残留争いであれ、
その時々によって軽くなったり、重くなったりするものではない。スタジアムで試合があれば、声を枯らして戦力を発揮するし、
試合が無いときは、チームの状況を見つめ、ひたすらその本分を尽くすことにある。
過去数ヶ月かの間、風雨と戦い、寒暑を冒し、しばしば強敵とまみえて生死の間に出入りしたことは、もちろんたいへんなことではあったが、
考えてみると、これもまた、長期の一大演習であって、これに参加し、多くの知識を啓発することができたのは、サポーターとして、
この上もない幸せであったというべく、なんで残留で苦労したなどど、いえたものであろう。
もし選手が太平に安心して、目前の安楽を追うならば、補強の外見がいかにりっぱであっても、それはあたかも、砂上の楼閣のようなものでしかなく、
ひとたび引き抜きにあえば、たちまち崩壊してしまうであろう。まことに心すべきことである。
むかしJリーグ創立当初無敵の強さを誇っていたヴェルディ川崎が、数年間は日本を代表するチームであったけれども、一たびオーナーが手を引くと、
たちまちこれを失い、また近世に至っては、ジュビロ磐田が太平になれ、世代交代をおこたると、数人の主力の扱いにもフロントが苦しみ、
また過去様々な下位チームは資金力のあるチームから主力をねらわれても、これに立ち向うことができなかった。
目を転じて西洋史を見ると、スペインサッカー初期から存在するレアルマドリードは、毎年一人はビッグネームを獲得することで強豪チームをゆるぎない
案泰なものとしたばかりでなく、それ以後、下部組織の後進が相次いで、よくその能力を維持し、世運の進歩におくれなかったから、今日に至るまで永く
伝統を守り、名門を伸張することができた。
考えるに、このような古今東西のいましめは、チームのあり方にもよるけれども、そもそもはサポーターが平安な時にあっても、戦いを忘れないで、
チームを愛しているか、どうかにかかり、それが自然にこのような結果を生んだのである。
われ等残留後のサポーターは、深くこれ等の実例を省察し、これまでの応援の上に、残留の体験を加え、さらに将来の進歩を図って、
時勢の強豪チームにおくれないように努めなければならない。そして常にスタジアムに足を運び、ひたすら奮励し、万全の実力を充実して、
時節の到来を待つならば、おそらく、永遠に王国の大任全うすることができるであろう。
神は平素ひたすら鍛錬につとめ、戦う前に既に戦勝を約束された者に、勝利の栄冠を授けると共に、一勝に満足し、太平に安閑としている者からは、
昔のことわざにも「勝って兜の緒を締めよ」とある。
ひとつ嫌になると何もかも嫌になる僕はまた家から出られなくなった。
4限の授業はおそらく中間テストがあるので行かなきゃまずいなあと思いながらこれを書く。
大学生になった今、中学高校を思い返しては「あのときああしていれば」「ああするんじゃなかった」と思っている。
思い返せば、高校生の頃は「中学の時ああしていれば」中学生の時は「小学生の時ああしていれば」と思っていた。
そんな考えは何も生み出さないことはよーくわかっている。
だけど、そう考えずにはいられないんだ、いつも、なぜか。
毎日30分くらい弾いていた。嫌いなわけではなかったけど特別好きなわけでもなかった。
たぶん親にやるように言われていたからやっていたんだと思う。
中学生の部活で、オーケストラ部に入った。そこでバイオリンを始めた。
オーケストラ部の中には、ピアノが上手い人がたくさんいた。自分なんてヘボだった。
それまで近所や自分の出身の小さな小学校の中では多少うまい自信はあったけど、そんなの比べ物にならなかった。
聞けば毎日2時間とか練習していたらしい。絶対音感もある。和声やなんちゃらもよく知っている子ばっかりだった。
好きで、楽しくってやっている感じだった。
でもそのとき僕はそんなことには気がつかなかった。
そのとき僕は「小学生の時もっと真面目にピアノを練習していたらなあ」と思った。
「なんでもっとちゃんとやらなかったんだろう」と思った。
それからオーケストラ部で5年間(中高一貫だったのだ)バイオリンを弾いた。
大学オケの中ではそこそこの伝統がある方からなのか、(アマオケなんでたかが知れているが)レベルが高い良い環境なオケだ。
中高では比べ物にならないくらい、すごい人がいた。ほんとに学力でこの大学に来たの?と思うくらいの人が普通に居る。
自分は13歳の頃から部活でこのバイオリンを弾き始めたけど、高校始めとか、大学はじめの3年生のとかの方がよっぽどうまかった。
そう、お察しのとおりここでもまた僕は思ってしまったんだ。
「中高生の時もっと真面目にバイオリンの練習をすれば良かった」
「なんでもっとちゃんとやらなかったんだろう」
「あの5年間もっと真面目に取り組めば良かった」
自分のために言い訳するならば、確かにこの5年間も真面目に練習していたわけではなかった(と思う)
オーケストラ部は小さなゆるい部活で、はじめの1年こそ先輩に時々見てもらえたものの後はただ個人で練習して合奏をして発表をしていた。
大半の部員は部活より趣味やらほかの習い事と両立したくてこの部活に入っているようなもんだったから、切磋琢磨する雰囲気なんて、正直なかった。サボりたいやつは勝手にサボり、練習中もお話している方が楽しかった。
だけど、たしかに友達の中にはぐんぐん上手くなったやつもいた。上手くなりたいやつはレッスンに通ったり地元のジュニアオーケストラに入ったり、独学で上手くなっている奴もいた。
僕はたしかにバイオリンの練習をするのは好きで、部活にも真面目に参加していた方ではあったと思う。
でも、そういう積極的な人たちを「すごいなあよくやるなあ」と思いながら何もしなかった。
…なにか矛盾している気はするけど、自分はそういうスタンスだった。
僕は、そういうぬるい環境の中で生きていた今までとは違い、真面目に練習したくてこの大学オケに入ったのだ。
実際入部してからもう半年以上経ったわけだけど、それなりに真面目にやってきたのだ。
だけど、練習するにつれ、他人とのレベルの差に嫌気がさしてくる。
そのたびに思うんだ。「中高のときに真面目に練習していれば」って。
過去を考えてもしょうがない。いまできないから、できるようになるために、練習するのにね。そんなことは分かっている。
だけど、どうも、そんなうまくいかないのだ。
そうしていま家に引きこもっている。
タイトルは広く付けちゃったけど、書くにつれ音楽の話に偏ってしまった。いま自分の心を占めている話題がこれだからだろう。
だけどこの話題に限らず、僕はどうも「ああしていれば」と考えてしまいがちのようだ。
今うまくいかない原因を、全部過去のせいにして、逃げている。
だから僕はいつも自分の過去を肯定して生きることができない。どうりで生き辛いわけだ。
…音楽に関していば、もっと楽しむということをしたほうがいいんだろうけど、どうやったら楽しめるのか全然わかんないんだよな。
まあ、単に、向いていないのかもしれない。
円安になって景気がよくなる…。
そんな単純な話ではないでしょう。
このサイクルに入って景気が上向くのが経済の基本。
需要の増加が伴っていません。
そして、給料は上がらず物価が上がるという状況になっています。
しかし、円安にしても輸出は伸びませんでした。
バブル崩壊(日米とも)によって銀行のバランスシートが毀損したときに
金融緩和(非伝統的な手法による量的緩和)は非常に効果的でした。
しかし、サブプライム危機では日本の銀行はリスクをとっていなかったので
バランスシートは毀損していなかった。
(逆に欧米の銀行は不良債権を抱えていたため、量的緩和の効果があった)
しかし、現在の黒田バズーカは過剰なまでの国債市場に介入して買い占めることで
短期的にはそれに仮儒(投資や各国のインフレ率など)が加わることになります。
しかし、黒田緩和がなくても日本は東日本大震災以来貿易赤字国になっており円安圧力がかかっていました。
さらに、米国の量的緩和のテーパリングを行っていたためドル高の下地はできていたので黒田緩和がなくてもドル高円安になっていたでしょう。
しかし、今回の量的緩和で円の信認を毀損してしまったために想像以上の円安になってしまいました。
そして、それが輸入物価の上昇という形で悪影響を及ぼしています。
また、景気回復はアベノミクスのおかげといった論調ですが、阿部政権が誕生した時には米国の景気回復は確かなものになりつつあったのでどのような状況でも景気回復していたと思います。
サブプライム危機のとき円高になったのも日銀が金融緩和しなかったためではなく
調達通貨として売られていた円売りポジションが解消されて円高になったためです。
そして量的緩和を行わず円高不況を招いたとありますが、日銀は売られすぎた資産に対応するために
REITとETFの購入を始めており、何もやっていないわけではなく十分すぎるほど動いていました。
結局サブプライム後の円高不況の原因は、右往左往を続けた民主党政権の経済運営がひどかったためと思います。
通貨高で採算が取れなくなることはよくあることです。しかし、企業努力をしてより付加価値の高い代替のない商品を
作ることで通貨高を苦にせず商売ができます。実際、円高でも円安でも輸出が変わらなかったということは、
今日本に残っている企業はそれを達成した企業であり、企業努力の賜物だと思うのです。
しかし、逆に円安になって採算が取れるようになればどうなるでしょうか。
円安という麻薬により企業努力をしなくなり技術革新が遅れて最終的には他国に抜かされることになるでしょう。
重要なことは通貨の価値を高めて国民の購買力を高めることが国民の生活に質を高めることになると思うのです。
問題は通貨高を生かすような政策がこれまでなされてなかったことではないでしょうか。
人口減少による総需要の低下は避けられないので、デフレ圧力からは逃れられないのです。
だからといって円を刷って政府が国民の代わりに株(ETF)や不動産(REIT)を買ってインフレを起こすなどといった
歪な方法は即刻やめた方が良いでしょう。最初のうちは株価や不動産が上がって賞賛を受けるかもしれませんが、
次の危機のときに大幅な損失を抱えて日本の年金が吹っ飛ぶことになると思います。
そうしたら残るのは債務だけなので本当にインフレで全部チャラ(財政破綻)にするしかなくなります。
デフレ脱却はお金を刷れば解決といった単純な話ではないと思います。
結局は少子化対策もしくは移民の検討などから地道に始める必要があります。
そして何より需要の創造が必要です。需要がなければ企業は設備投資もしないですし、
内部留保も増えます。それにケチをつける政治家は企業に文句を言うのではなく
規制緩和をして新しい需要の創造のために真剣に取り組むべきです。
結局のところアベノミクスの泣きどころは、成長戦略がまったく期待はずれだったことです。
政府にできることは人の金で相場を張ることではなく規制緩和を行い企業活動が円滑に行うことができるように法整備することだけです。
私は経済学についてきちんと修めたことはありませんが、これらの内容は日々の金融取引の中で学んだものです。
結局のところ私は相場屋ですので今後の動きについてお話して終わりにしたいと思います。
米国の景気回復は確かなものですので、それに付随して日本も景気回復することになります。
当然、株価も上がり日経はバブル最高値の38000円を超えるでしょう。何せ親方日の丸が提灯をつけているわけですから(苦笑)。
しかし、成長戦略の第3の矢は放置されることになると思うので、庶民の生活はあまり変わらないと思います。
むしろ悪化するのではないでしょうか。恩恵にあずかるのは国民の10%と見ています。
為替相場は常に行きすぎるものです。黒田バズーカの弊害で160円ぐらいまでいくでしょう。
2020年東京オリンピックあたりに高値をつけて日経38000円、ドル円160円あたりでしょうか。
ただこの後、大きな危機が起きて日本の年金は吹っ飛ぶでしょうね。
そして125円ぐらいまで円高になったあと大幅円安になって破綻する可能性が高そうですね。
もし破綻しなくてもその後高インフレで苦しむことになるのではないでしょうか。
NPO法人の代表者が、小4年生になりすまし自民党に対して批判的なサイトを作った今回の事件。なぜ慶應生がこのような極めて幼稚な嘘をついたのか。誰もが首を傾げることだろう。
しかし、私はこのような事件が「慶應生」によって起こるのは自然だったと思っている。私は慶應義塾大学に数年前に一般入試で入学したものだが、私が在学中の頃から、一般入試入学の者はこのような事件が起こることを危惧していたように思う。
ご存じの方はあまり居ないかもしれないが、某小学4年生が在籍していた慶應法学部の入学者の、実に6~7割近くが推薦入試を経て入学しているのである。この比率は日本の大学でもトップクラスであったように記憶している。そして、特にAO(FIT)入試では、御存知の通り「面接」「論文」などで合否の大部分が決まる。海外の大学のようにSATなどの筆記試験は存在しない。すると、受験生はどれだけ面接で「取り繕うか」を覚える。取り繕うことが出来た人ほど、合格につながるからだ。
しかし、ただ取り繕うだけではダメである。ちょっとした「ばれないレベルの嘘」を織り交ぜることが大切なのだ。例えば、親戚の家の雪かきをしたことを「ボランティア活動で雪かきを行いました」などという、そのような「嘘」を織り交ぜることが合格の秘訣なのである。
活動の中身なんて殆ど無い、名ばかりのNPOに所属し、面接では大きな顔で「NPO法人で高校3年間、活動しました!」と主張すれば合格に一歩近づくということだ。
面接のみが重視されるということはすなわち、「いかにバレない嘘をついて自分を大きく見せるか」の試験になってしまっているのである。そして、その試験に晴れて合格した慶應生は「嘘をつく」ことの味をしめてしまう。努力もせず、適当に自分を「大きく盛る」だけで、人生がうまく行ってしまったのだ、そう思うのも当然だろう。
さて、三年になると、彼らは自分の経歴をどれだけ美しく見積もるかに、再び全力を尽くす。入試対策と、慶應での2年間で培ってきた能力はここでも遺憾なく発揮される。中にはTOEICなどのスコアを偽る人も出てくる始末だ。先輩達からの情報が豊富なので「○○という企業はTOEICのスコアシートを提出させないから嘘をついても大丈夫」などという具合に、情報が至る所でまわってくるので、嘘をついても「ばれない」自信があるのだ。
これが慶應の就職が東大より良いと言われる"からくり"である。
自己弁護をしておくと、私達一般入試組やセンター入試組はわりとこのような事を忌み嫌っていた人が多いように思う。実際に外部組はTOEICなども高得点を比較的楽に取ることができていた。なので偽る必要もなかったのだ。
しかし、残念なことに、「どこまで嘘をついても大丈夫か」をAO入試で入った慶應生は研究する。サークルの先輩などからの情報を集め、「ギリギリセーフ」のエントリーシートを作成することに躍起になる。彼らにとっては良い就職こそが正義であり、嘘をつく事に対しては何の良心の呵責も感じないのだ。
当然である、彼らは面接で慶應に入学してきたわけである。そこでは、自分を粉飾し、大きく騙ることこそがよしとされてきた。そのような入試形式を経て入学してきた生徒なのだ。どうして、自分を「大きく飾る」ことに疑問を持てようか。
海外の大学などでは確かに人物中心入試が行われては居るが、これらはSATやGREなどの学力試験と平行して行われている。面接と学力。総合選抜を行っているのである。これは慶應のAO入試とは全く違うものであると断言できる。今でこそ、多くの学校で導入されたAO入試だが、元々AO入試は慶應で生まれ、慶應で育ったものである。面接だけの学力無関係入試は、慶應が作り上げたものなのだ。つまり、嘘をついて自分を大きく見せる事は、あえて言うならば「慶應の文化であり、脈々と受け継がれてきた伝統」とも言えるだろう。
教授達は「面接で嘘は見抜ける」と考えてこのような制度を行ってきた。しかし、見抜けていないことは誰の目にも明らかだろう。とある塾などではNPOに入ることで自分の経歴「飾り」を行う事を推奨し、AO入試でラクラク慶應に合格させていくという。
出来上がるのは、実績もない、学力もない、有るのはただ「自分を大きく見せる」という嘘つきの能力だけを持つ学生である。悲しいかな、一般入試で入学した人は「自分を以下に偽るか選抜」で合格した人と机を並べて学び合うのである。
この事件をきっかけに、面接選抜のようなAO入試が廃止され、学力と人物どちらともを評価できるような入試を慶應義塾が導入することを、慶應出身者としては祈るばかりである。
近年の日本社会はエロスをタブー視しすぎですよホント。ろくでなし子事件もおかしいです。まんこデータ配った人逮捕して誰得ですか?
実在児童に関する児童ポルノ法改正はまだ分かりますよ。性犯罪抑止に効果があるかは別として、被害者がいますから。
けど、わいせつ物陳列罪って何やのん?意味わからんでホンマ。法学者の中でも疑問視する声が根強いねんて。ええ加減考え直したらどうなん?
.
.
学校教育でも「風紀を乱す」という謎の理由で短すぎるスカートを禁じる伝統がある。なんで短くしたらあかんの?
年頃の男性器の射幸心を煽ると学業がおろそかになるから?w健全な青少年の育成を阻害するから?
知識と価値観が未熟なのに「不純異性交遊」に及ぶのがまずいって?ぶっちゃけこじつけだよなw
.
まあ青少年のうちは百歩譲って分からんでもないけどさ。なんで社会一般にエロスがタブー視されてんだ?意味わからんよ?誰かkwsk。
.
西洋ではキリスト教の戒律の関係で性がタブー視されてきた歴史がある。西洋では基本的にみんなが宗教を信じていて、日本人からすれば「また神の話してる」状態。
無宗教は「どこの馬の骨かも分からん奴」と見なされる風潮がある。そして、宗教の大半がキリスト教である。
ニーチェは100年以上前に「神は死んだ」と言ったが、未だにキリスト教は根強い。どこ行っても金太郎飴のようにキリスト教。
そのキリスト教が「えっちなのはいけないと思います」と言っているから、fuckなどの語は「卑猥」とされ多くの州で法規制がなされている。
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まあそれらもそれらでツッコミ所満載なのだが、日本も日本でどうよ?
君達も知っているように、もともと日本は性にオープンだった。夜這いに盆踊りックス最高。なのにどうしてこうなった。
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海外の人達のFAQに「日本ってHENTAIでKENZENな国だろ?なのに何故草食系が多いんだ?」というものがある。
理由はカンタン。日本文化には「ハレ」と「ケ」の両極性がある。「ハレ」がhentaiで「ケ」が草食系なのだ。
そんな文化背景があるため、「大人しそうな顔して変態」という日本人のイメージはだいたいあってる。
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だいたいあってるのだが、ここ数十年は少し事情が違ってきた。ずいぶんと性が抑圧されるようになり、性が弱体化した。
従来日本人の性の奔放さつまり「ハレ」には、日本人の規範意識の強さを同調圧力でさらにガッチガチに固めたような「ケ」を中和する役割があった。
そのバランスが近年は崩れてきて、「ケ」ばかりが前面に現れ、「ハレ」が弱体化してしまっておる。
それが少子化や性交渉頻度の国際比較データにもモロに出ている。また、日本の成人男性の4割がEDという専門家の見解もある。
勃起不全なんて昔は還暦まぢかのオジーサンがなる病気だったのに、今の日本では20代のEDも珍しくないという有様で、他国には類をみない。
ちなみにオナ禁については、海外でも宗教的理由や科学的理由から盛んで、Nofapという大きなWebサイトもあるくらいだが、
そこを見れば、性への後ろめたさからオナ禁に走るのはやはり日本特有だということがよく分かる。
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そもそもエロスとは生殖本能という獣性の美化でね(ちなみにグルメは食という残虐性の美化である)、その化粧がはがれてきただけとも言えるんだけどね。
いかにHENTAIが生命の本能であろうとも人間は美を好むから、醜悪なエロスには真顔になり「猥褻」と言ってのける。
日本人は特に自主的な規範意識が強いから、規範や常識から外れると下品とみなす傾向が強い。現に、外国人はエロスを分かってない、
下品だといったことを平気で言う日本人は多い。だけどそれは、日本では非常識だから化粧で美化できないというだけなんだよね。
その美化できる範囲がどんどん狭まって、それに調子づいてモラリストや規制派が元気になっているのが今の日本というわけだ。
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エロスとは所詮は化粧による美化であり、文化相対的なものにすぎない。この観点は、性を固定観念から解放する上で重要である。
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日本はもうそろそろいい加減潮時とちゃいまっか?日本でのエロスのタブー視は、宗教的・科学的根拠の何もない有害無益なシロモノなのだから、
もうちょっとゆるめてもええんとちゃうん?そりゃ何でもありというわけにはいかんかもしれまへんけど、ちょっとくらいゆるめてもらうわけにはいけへんやろか?
なあ?あんたもそう思うやろ?