9ヶ月にわたった戦いも、はや過去のこととなり、わが清水エスパルスは、今やその任務を果して、ここに今シーズンを終了することとなった。
しかしシーズンは終了しても、そのために我らサポーターの務めや責任が、軽減するということは、決してない。
この残留で収めた成果を、永遠に生かし、さらにチームを強豪にするには、シーズン序盤、終盤の別なく、まずもってチームの主力層に対し、
重要な役目を持つ若手・ユース層が、常に万全の戦力を保持し、ひとたび事あるときは、ただちに、その危急に対応できる構えが必要である。
ところで、その戦力であるが、戦力なるものはただ年俸や名声の物や数によってだけ、定まるのではなく、
百発百中の砲は、一門よく百発一中、いうなればスタジアムに毎節行くサポーターは年間に1度しか応援に来ないサポーター34人と対抗することが
できるのであって、この理に気づくなら、われわれサポーターは無形の実力の充実、即ちリピーターに主点を置かなければならない。
先般わがエスパルスが残留を得たのは、もちろん大榎監督の奮励によるとはいえ、一面また危機的状況下のサポーターの応援によるものであって、
それがあのような事例をもって、将来を推測するならば、たとえ戦いは終ったとはいえ、安閑としてはおれないような気がする。
考えるにクラブの一生は戦いの連続であって、その責務は優勝争いであれ、残留争いであれ、
その時々によって軽くなったり、重くなったりするものではない。スタジアムで試合があれば、声を枯らして戦力を発揮するし、
試合が無いときは、チームの状況を見つめ、ひたすらその本分を尽くすことにある。
過去数ヶ月かの間、風雨と戦い、寒暑を冒し、しばしば強敵とまみえて生死の間に出入りしたことは、もちろんたいへんなことではあったが、
考えてみると、これもまた、長期の一大演習であって、これに参加し、多くの知識を啓発することができたのは、サポーターとして、
この上もない幸せであったというべく、なんで残留で苦労したなどど、いえたものであろう。
もし選手が太平に安心して、目前の安楽を追うならば、補強の外見がいかにりっぱであっても、それはあたかも、砂上の楼閣のようなものでしかなく、
ひとたび引き抜きにあえば、たちまち崩壊してしまうであろう。まことに心すべきことである。
むかしJリーグ創立当初無敵の強さを誇っていたヴェルディ川崎が、数年間は日本を代表するチームであったけれども、一たびオーナーが手を引くと、
たちまちこれを失い、また近世に至っては、ジュビロ磐田が太平になれ、世代交代をおこたると、数人の主力の扱いにもフロントが苦しみ、
また過去様々な下位チームは資金力のあるチームから主力をねらわれても、これに立ち向うことができなかった。
目を転じて西洋史を見ると、スペインサッカー初期から存在するレアルマドリードは、毎年一人はビッグネームを獲得することで強豪チームをゆるぎない
案泰なものとしたばかりでなく、それ以後、下部組織の後進が相次いで、よくその能力を維持し、世運の進歩におくれなかったから、今日に至るまで永く
伝統を守り、名門を伸張することができた。
考えるに、このような古今東西のいましめは、チームのあり方にもよるけれども、そもそもはサポーターが平安な時にあっても、戦いを忘れないで、
チームを愛しているか、どうかにかかり、それが自然にこのような結果を生んだのである。
われ等残留後のサポーターは、深くこれ等の実例を省察し、これまでの応援の上に、残留の体験を加え、さらに将来の進歩を図って、
時勢の強豪チームにおくれないように努めなければならない。そして常にスタジアムに足を運び、ひたすら奮励し、万全の実力を充実して、
時節の到来を待つならば、おそらく、永遠に王国の大任全うすることができるであろう。
神は平素ひたすら鍛錬につとめ、戦う前に既に戦勝を約束された者に、勝利の栄冠を授けると共に、一勝に満足し、太平に安閑としている者からは、
昔のことわざにも「勝って兜の緒を締めよ」とある。
横オレンジ旋風ですが、Jリーグ発足当時のエスパルスは市民によるクラブチームだったのに今では地元の企業が協賛だったりして、例えるなら共産党を支持してたらいつのまにか自民党...