はてなキーワード: 伝統とは
自分も日本語ラップは伊集院光のARBくらいから眺めてるアラフォーの音楽好き
iTunesのライブラリは70日程度だけど、ヒップホップ系は好きでないので多くない
ラップって黒人DJが野太い声で英語でまくし立ててるとそれだけでなんかカッコいいんだけど
ヒップホップってのはメロディーもなしに直接メッセージの洪水を叩きつけるって
のも重要な要素なので、正しくヒップホップをするなら、母国語ですべきで
とすると、日本語という言語でラップをするという困難な問題が出てくる
日本語のアクセントは、英語のような強弱ではなく音の高低で表現する
「こんにちは」は日本語話者だと「こ↓ん↑にちは」と音程で表現するけど
「コ"ニ"チワ」と「ニ」に音程ではなく強勢を付けた発音をするのは
よく聞くところ
日本語をメッセージが明瞭に伝わる発音で音楽に乗せると、音程差があり
普通に喋るとオケと不協和音になる。英語でも厳密にはそういうのあるけど
不協和音の1音が鳴り続けてもあまり気にならないし、気にするラッパーは
ベースとかに合わせてるみたい
とりあえず日本語ラップの解決法の一つとして、高低の最低2音をオケに乗った
音を選択するというパターン。普通に歌える歌手が曲中にラップを混ぜる場合は
この解決法が多い。バリエーションとしてペンタトニックに乗せて
最初、なるほどその手があったかと思ったけど、しばらく聞いてて
アレ、これってラップというよりお経じゃね? とか思った
中国語だと音程が厳密なのでこの手が使えないとか書いてると話長くなるので飛ばして
本格ラッパーはこっちを選択したみたい
アドリブとかで歌詞考えつつ、オケのコードまで意識してたら死ぬもんね
発声の問題の解決法が色々探られる一方、それでどういうメッセージを伝えるのか
いわゆるリリックの問題。なんか英語のラップは社会問題とか叫んでるらしいけど
日本のポップシーンは伝統的に政治的メッセージと非常に相性が悪くて云々。
で、色々試行錯誤あったらしいのを思い出して書くのがめんどくさいし
結論はネットでネタになってる通り、有線で流れるような商業ラップは
親に感謝、ダチに感謝、お前に感謝って「メッセージ」になりましたとさ
もう疲れてきたので論旨ボロボロだけどまとめると
90年代~00年代くらいで日本語ラップの発声面、リリック面での模索で色々進歩はあったけど
そういう積み重ねを知ってか知らずが、有線で流れる商業色強いヒップホップは
音程を無視したダミ声でダジャレで絆を主張するリリックばかりになりましたとさ
てかね、もうこのご時世。いや、今も昔も、作り手がものっそカネかけて売ろう!
それってたくさん売りたいから、どうしてもマス向けのうっすい曲になっちゃってる
ずっとそればっか聞いてればいいと思うよ。てか俺はそうしてる
人類学って言うのはどうしても「実例」の丹念な積み重ねになるので、その「解釈」つまり読み解き方には差が出る。
で、「物々交換なんか無かったんや」てなエントリーが話題をさらって、それに対する反論に引っかかるところがあったんでソレについて。
人類学の宿命とも言える所に、「やっぱ珍しいところから入るだろJK」問題というのがある。
「日本人って、デートは神社の縁日で金魚すくいで彼女が浴衣を着てくるのが普通なんだろ?」とイギリス人から言われたらどう応える?
まあ、厳密に言えば間違いとはいえないがそれはほぼファンタジーだぞ、という説明は難しい。
例えば、物々交換はあったと言う例でスターを集めているコメントに以下のものがある。
いやいやいやいや。ヤップ島の例だけを根拠に学説を全否定するのはどう考えてもおかしいでしょ。トロブリアンド諸島のクラとか、ポトラッチ(蕩尽)とかどう説明するの。人類学の成果を無視しすぎ。
『トロブリアンド諸島のクラ』とは、ザックリ言えばパプア・ニューギニアの島々で行われている儀礼的な交易を言う。
Kula ringなんかでググると出てくるから省略するが、これはgift economies、つまり贈与経済とされる。
というかだ、仮にも人類学という単語を発するからには、近代人類学の父と呼ばれるブロニスワフ・マリノフスキを避けては通れないし、
彼がその名声を確立したクラをめぐる『西太平洋の遠洋航海者』を読んではいなくても概要ぐらいは触れたことがあるだろう。
単なる装身具にすぎない腕輪や首飾りを交換するためだけに危険な海洋交易を行う理由が、経済的な財物の交換ではなく、政治的な権威とその維持を含めた儀礼的な制度であるという主張だ。
また、『ポトラッチ(蕩尽)』も同様だ。これも「贈り物」が語源とされる北米インディアンの伝統的な贈与経済だと言われている。
ザックリ説明すれば、その構成グループの中でイベントがあると、一番持っているヤツが振る舞うという、風習だ。
簡単に例えよう。
日本には古来物々交換なんぞ無かったと言われて「おいおい、お中元やお歳暮を無視する気かよ」と返しているのと同じだ。
普段のお買い物の話に対して、儀礼的な相互贈与で反論するのは、控えめに言っても筋が悪い。
というかだ、人類学をチョコっとでもかじったことがある人間なら、クラ、ポトラッチとくればピンとくる。
フランスの文化人類学者である、マルセル・モースの代表作とも言える「贈与論」だ。
文化人類学では「お返しを期待する贈り物」を「互酬」と言い、リターンを期待しない「真の贈り物」とは区別して語られる。
で、この互酬のうち、遅延して交換するものは、基本的に儀礼的だったり政治的だったりする。
そして、即時の交換(その場で交換する)ものを、Barterつまり物々交換と呼ぶ。
で、この物々交換をお金の起源として(比較的悪しざまに)主張したのが、アダム・スミスの国富論(The Wealth of Nations)だ。
ただ、さっきまでの話で判る通り、文化人類学者は常々「いや、物々交換って基本的には部外者とのやりとりに使ってただけで、村人同士では儀礼的なものだよ」と言ってきた。
言葉が通じる同じ仲間同士で、物々交換が行われていたという強固な証拠は無い。というか見つけづらい。
が、沈黙交易(Silent Trade)と呼ばれる、言葉の通じない(場合によっては通じても姿を見せない)相手との物々交換が行われていた記録はある。
信用も無く関係性も希薄なので、その場で交換する必要があって、社会的な義務や政治的な権威とは切り離される。
この場合、お互いに価値が有るものとして砂金や塩を用いることはあった。
古代エジプトにおいても、鋳造貨幣は対国家のような対外取引でしか用いられなかった事からも、貨幣は信用と切り離されて当初存在した。
それがそのうちに、「金銀を持ち歩くの危ないから、金庫に入れておいて引き出せる札だけやりとりしようぜ」となった。
これが紙幣発生の一形態だ。(他の発生形態もあるので、調べてみると面白いよ)
つまり、「この札を持っていけば金に交換される」という信用がトレードの基礎になっているのは、
「オレが今日は魚をやったけど、こんど家の建て直し手伝ってくれよな」という顔なじみの村民にある信用と、本質的には同じだ。
その村でその信用を裏切る行動を取れば、適切に制裁されるという「村秩序に対する信用」が、村人間の普段のお買い物の基礎になっている。
譲渡することのできる信用がマネーだと言っているが、人類学はそれに反論はできない。
文化人類学者が積み重ねてきたことは、単純な物々交換とクラ交易とは違うという反論だ。
あるグループ内で通用する単位が、他のグループにおいても通用するとされた時に、マネーが産まれると言われれば、
そういう定義もあるかも知れないな、と思うだけだ。
極端なことを言えば、「1シナモン」という単位を作って、はてなで流通させても良いわけだ。
ある人が「これ釣りか解説欲しいんですけど」→「これは釣り記事です」と解説するのが10シナモンで
ある人が「これほんとかなあ」→「これは科学的にこうオカシイ」と解説するのが5シナモンだとしても良い。
これが、スポンジボブとお姑サンの間で行われている間は、単なる貸し借りの単位でしか無い。
「今回は私が解説したので、3シナモン分相殺ですね」とかできるわけだ。
それが「5シナモンくれたら、Microsoftの戦略について語るよ」とか
そして、そうならないだろうと素朴に想像できることが、お金の本質になる。
シナモンという評価価値は無限に生まれるが、それを適切に流通させるには、信用が必要になる。
この「信用」とは何か、「1シナモン」で記事を依頼したり、記事を書いたりする為に何が必要か考えると、お金とは何かという答えになる。
ニクソン・ショック以降、(正確にはニクソンよりちょっと後だけど)通貨が金本位制でなくなった時点から、お金とは信用とそれを担保する何かによって支えられている。
沈黙交易に代表される「信用出来ない相手との物々交換」は行われていたし、証拠も記録もある。
ある集団内での資産(獣や魚や穀物)を再分配する機能が、巨大化するにつれて歪んだ記録もある。
しかし、クラ交易やポトラッチは、単純な物々交換と異なる「互酬」つまり、信用や政治的な権威を背景にした贈与文化であるとされている。
それどころか、文化人類学者であったモースは、経済的な取引は社会的な価値交換の一部に過ぎなかったとすら言っているのだ。
つまり、大昔に物々交換は無かったのだ!と言われた時に、物々交換はあった!として例示する対象として、全く相応しくない。
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お前は俺か案件ですね。「伝統で言うなら、タブ幅は8じゃないですか?」と言い返したら、「タブ幅は4が標準ですよ。だいたいタブ幅が8だったら、インデントが深すぎて使えないじゃないですか」みたいなことを言われましたよ。
タブ幅に標準規格はねえし、タブはコードのインデントのためにあるんじゃねえんじゃよー、ぎゃわー!
タブ幅は8のほうが伝統的だし8で固定すべきという意見にはそれなりに同意できるんですが、現状としてタブ幅は固定でないし、もしタブ幅が8だとしたら、インデントにタブを使う人は減るんじゃないすかね。
実家の母親の電話いわく、地元の中学校の部活動が強制ではなく任意となったらしい。弟は学校から帰ると、ずっと友達とゲームをして過ごしていると愚痴られた。
僕は、バスケットボール部に所属していた。15時半の授業が終わると、各々は体育着になって体育館に向かう。そして18時半までひたすらドリブルを続けていた。コートの真ん中では、運動とバスケが上手な奴らが陣取り、ひたすら試合をしていた。雑魚である僕らはコートの隅である。たまにボールが飛んでくると、それを真ん中に投げ返すだけの簡単な作業である。
雑魚の中でも、カーストがあった。僕はそのカーストの中で低い方だった。上手な奴らの分に加え、同じカースト内から受けるイジメがった。それもあって、バスケの部活動は苦痛だった。
思い返してみれば酷いものだ。たまに試合を「やらさせてもらう」としたら、笑われるか怒鳴られる。部活の基準は上手な奴らに合わさっているので、雑魚は何をやっても怒られる。
そして、何かと休日は校外で試合をする。雑魚はそれに合わせて一緒に行動し、ボールや荷物を持っていく。上手な奴らの親は我が子が一番可愛いと、どこにでも車を走らせる。ビデオを撮り激励を贈る。雑魚の一人である僕は、横目で冷めた弁当を食べ、サボれる場所を探す。何もおもしろいことなどない。時間を潰すのに必死で苦痛だった。強い強い苦痛を感じた。
僕の中学校は田舎なので、人数は東京に比べたら断然に少ない。一学年に80人はいなかったと思う。そうなると部活動の数も少なくなる。その上、なぜか部活動は強制参加だった。サッカー、野球、そしてバスケットボールのどれかを選ばなければならない。文化部は何か体に問題があるか、家庭に問題がある子しか入部できなかった。
他の部活も大抵同じだったが、野球部は先生が皆平等にシゴいていたので、しんどそうだったが精神的に追い詰められていそうな感じではなかった。サッカーは楽そうだった、これに入れば良かった。友達もノビノビしてたし、試合も半年に一度しかなかったようだ。バスケははっきりとした上下関係というイジメがあったし、顧問も試合に勝つことしか言葉がなかった。
試合の日などでは、他の学校の顧問は常に生徒を怒鳴ってた。頭ごなしに下手糞と怒鳴りつける。生徒は泣く。でも青春なんだと、上手な奴らは語っていた。この空間の何が楽しいんだろうと思った。上手な選手がいて、怒鳴るコーチがいて、あとは奴隷がいた。試合に勝つことが絶対で、失敗しないことが求められ、奴隷は時間を潰すことに必死だ。奴隷は微塵も興味が無いバスケが上達するわけでもなく身体能力が上がるわけでもなく、雑用のためだけにいた。
バスケ部は僕の学校が誇る素晴らしい「伝統」の一つに数えられていた。上手な奴らは誇らしく、青春を感じていたのだろうか。伝統というものは、犠牲の元にあったことを知らなかったのだろうか。
その後、部活動は三年生の夏で終わり、受験勉強と塾で追われることになった。僕は勉強ができたので途端に楽しくなった。その後、受験が始まり僕は進学校に進み、できる奴らはスポーツ推薦、またはスポーツ推薦で落ち大金を払って私立校に進んだ。
何年かして、僕は大学に行き就職して今に至る。「上手な奴ら」の話は一切聞いたことはなかった。そりゃそうだろう、上手な集まりの中で高みに行くのはとても大変だ。しかも、バスケは野球やサッカーほど良いスポーツではない。プロになったとしても食べていけるわけがないだろう。オリンピックも日本の枠はない。上手になっても意味も価値もないスポーツだ。
母と話をしていると自然と昔話をしていた。母親もバスケ部は嫌だったらしい。そりゃそうだろう。休日も早起きをして、何も活躍できない子供の弁当を作ってたのだから。高い名前入りのジャージを買わされ、たまに車を走らせ、遠い学校や施設へ子供を送り迎えにいってやったり。きっと、母親内でのカーストもあっただろう。僕が勉強ができなかったら、もしかしたら母親もイジめられていたかもしれない。
僕は半笑いで聞いていた。遠い昔のことだから、もうそんなに辛くはない。ただ、あの時の時間で何かもっと他の事をやっていれば、きっと楽しかったんだろうなあと思っていた。
その後、あの「上手な奴ら」の話になった。上手な奴らは高校を卒業したあと、揃いも揃って地元で働いているそうだ。田舎なので大した仕事はない、それこそ工場とかしかない。できる奴らのリーダーは工場で働いているらしい。朝の8時から夜の11時まで働き、体中を黒い油だらけにして帰ってくるらしい。給料も聞いたところ、手取りで15万円はいっていないそうだ。それをもう何年も続けているそうだ。
僕は母親との電話を切ったあと、ふと辛かった思い出をつらつらと思い出してみた。一日2時間半、週に12時間半、月に50時間。それが2年と半年、600時間をかける2.5して1500時間。プラス月に2回ほど休日を全日潰される。その時間を、僕がマックスで有意義に使えたかは微妙だが、とても貴重な時間に思えた。
僕は今、残業はあるとはいえ悪くない環境で働き、年齢で見て平均以上の年収を貰い、今のご時世にしては恵まれすぎている生活をしている。あの時の惨めさはもうないのだ。僕は今、立派で、幸せだ。ドリブルもできず笑われ、道具やボールを試合に忘れて怒鳴られ、陰湿な嫌味を言われ続けたあの部活にいた僕は、上手な奴らより恵まれているのだ。
きっと上手な奴らは、僕と低いカーストの時間を奪ってしまった罪を、たった今被っているのだ。僕が苦痛に感じていた時間を、自分の大好きなバスケに費やしてしまったことに対して、惨めな生活をして免罪しているのだ。そしてきっと、その工場は潰れフリーターの生活になるだろう。昔を思い出しながら、惨めな生活を悔いるだろう。青春は犠牲のもとにできていた。輝くためには燃料がいる。カーストの下の奴隷がいて、頂上へ高く登れ、そして輝くのだ。そして今、そのカーストはいなくなり、上手な奴らは地面で頂上にいたときのことを思い出しているのだろう。
別に僕はもうどうでもいいのだ、奴らとは赤の他人なのだから。でも、ああ、やった。苦痛が柔らいだと感じた。
つらつらと書いてしまったが、これで僕の黒い物が掃き出せたと思う。駄文失礼した。
もし、僕みたいな田舎で暮らしていて、同じように部活動とかで惨めな思いをしている人がいたら、反発するべきだ。その代わり、何かに打ち込まなければならない。僕は勉強だった。勉強ができたから頑張ってこれた。
僕は、今の僕が決して良い大人ではないと思う。だけども、上手な奴らに加わらなくて本当に良かった。でもカーストの下にいたことは黒歴史だ。人生は難しい。
追記
コメント全て読ませて頂きました。ありがとうございます。
僕自身はスポーツ自体はとても良いことだと思う。中学生という成長期に、きちんと体と心を育てるのは素晴しい。ただ、「スポーツをしていればなんでもいい」という一辺倒であること、そしてそれを全力で応援してしまう大人、駒を無理やりでも勝たせたいと思ってしまう顧問、これらは問題だと思う。夢を持つなら、それについてライフプランを立てさせるべきだし、駄目な場合が大きいということも教えなければならない。子供は、キラキラと夢を持って青春を演じさせて、大人を夢中にさせるものではない。青春ドラマと現実は違う。
特に顧問を兼ねる中学教師、彼らはスポーツ推薦で高校に入れてしまえばなんでも良いと思ってると思う。その後の事は何も考えてくれない。高校入学を完全にゴールとしてる。そうじゃなくって、きちんと大人への段階を考えさせ、一緒に相談してくれる中でなければならないと思う。今思うと、自分の実績を作るのが最優先だったんじゃないか。
それらが上手な奴らの可哀そうなところだと思う。
でも僕は同上しない。あの部活動は、僕らのカーストには何も施しはなかった。ただドリブルだけやらせて応援という声出しをさせて、徹底的に雑用に使う。何も育たなかったし、育ててくれなかった。僕らがバスケの初歩も分からない屑で、全く運動ができないせいもあるだろう。それなのに、何も指導もなかった。形だけの練習をさせて、問題にならない程度になったら、満足するまで自分たちを可愛がった。
イジメもあった。そこまで壮絶じゃなかったけどね、陰湿な環境に四六時中いるから、どうしても弱いものイジメが発生する。死ぬほどではないけど、辛かったよ。それが2年半。全く無駄で辛い時間だったね。
所帯持ちだったらただの頼れるとーちゃんって感じがする
「頼れる」=「稼ぎがいい」 だ。 労働時間ばっかり長くてもな。
ちょっと勉強するだけで、ものすごく楽な環境に行けるのに、わざわざ底辺に行く奴ってマゾとしか思えないよな。
よっぽど無能なんだと思う。
頼れるとーちゃんになっていればいいよね。その子供は良い人生をおくれますように。上手な奴ら、というより地元に残った組について僕は詳しくは知りません。ぱらぱらと、結婚したとか聞いたりはするけどね。
「上手な奴ら」がきちんとした大人になっているか、っていうのは、僕はそうにはなってないと思う。酷い言いかただけど、多かれ少なかれDQN化してるんじゃないかな、多分。奴らは無能でまともな生活じゃないと思う。
今日日の現実は、大学はFランだろうが最低限卒業しているのがあたり前で、ホワイトカラーが一般家庭の仕事だと思う。上手な奴らがバスケで成功していたらともかくして、工場なんかじゃなく一般企業に勤めて普通の生活と給料を貰っていたら、僕はまた嫉妬なり苦痛を覚えていただろうね。
余談になるけど、労働環境だったり、子供を育てる地域としては僕が地元を離れたときより確実に悪くはなっている。実家帰る度に思うけど、仕事も働けるところも目に見えて少なくなってきてるみたいだし、昔の風景も不安になるような感じで変わってきている。パチンコ屋が増えたり、DQNが好きそうな店が増えたりね。
どうだろう。リーダータイプはいたけど所詮は田舎の大将、井の中の蛙だからね。それに成功するにしても、また新たな惨めなカーストが生まれると思う。
僕の小さな範囲でしかないけど、ほとんどの公立・私立高校であったよ。もちろん限られた数だけどね。高校に入って活躍できそうになくても、適当な理由で一定数は取るのでは。
バスケの上手下手を基準に順位付けられ苦しんだ増田が、勉強ができるできない、収入の大小を基準に人を順位付け優越感を得ている。
収入は結果だけど、それまでの過程で優越を覚えてるよ。低いカーストの奴らを長期間いじめておいて、結局はスポーツで活躍できず、こういう惨めな境遇に落ちつく。
自分でも酷いと感じるけど、溜飲が下がったというか、なんかすっきりした。そのうちにどうにも思わなくなって忘れるだろうけど。
カーストの上位を目指すのは別に主張したいことではなかったが、結局はそうなってたね。
ただ、僕は勉強という純然たる競争があって本当に良かったよ。あのカーストは、いじめと奴隷を育てる環境が機能していたからね。良い競争と失敗したときの逃げ道、これが本当に必要なものだと思った。
http://blogos.com/article/98135/
この質疑を読むに、この議員は決して女性に職業選択の自由を与えるなとは一言もいっていない。
質問はおおむね以下の4つ。
”当法案も「女性の職業生活における活躍」にのみスポットを当て、その対象を自らの意志によって職業生活を営む女性に限っています。「すべての女性が輝く」ために国がやるべきことは、女性らしく生活するための選択肢を増やし、その選択に自信と責任を持てる環境づくりです。
が、当法案は逆に女性の選択肢を狭めて、ライフスタイルを上から押し付けるものです。本法案で女性の職業生活における活躍のみを対象にしたのは何故か。有村女性活躍担当大臣にお聞きします。
現在、若い女性の間で専業主婦を希望する人が増えています。民間の調査で、未婚の女性の半分以上が、出産後は専業主婦になりたいと回答しています。20代の専業希望は58.5 %と特に多いという結果が出ています。また、「自らの意志によって職業生活を営む女性」と法案には書かれていますが、実際に地元を回って、お母さん方と話すと「本当は家で子育てに専念したい。でも収入が少ないので、働きにでなければいけない」と言った声が多く聞かれます。正に「自らの意志に反して職業生活を営んでいる女性」が多く存在します。 ”
”平成15年に制定された「次世代育成支援対策推進法」。この法律は、10年の時限立法として、それまでの少子化対策の取り組みに加え、男性を含めた働き方の見直しや社会保障における次世代支援といった柱を掲げています。本法案と同様に、国の指針を設け、それに基づいて行動計画の策定をすべての自治体などに義務付けたものです。対象を「次世代を担う子供たち」とするか「職業生活を営む女性」にするかの違いはありますが、自治体や企業が策定する具体的な計画まで下りてくると、多くの部分が重なると思われます。有村大臣、先の通常国会で平成37年度末まで延長する法改正が行われたこの法律と、本法案の違いを「次世代育成支援対策推進法」のこれまでの成果と実績をあわせてご説明ください。 ”
”我が国は、昭和60年に締結した「女子に関するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」に基づき、国連委員会に対し、政治的、社会的、経済的および文化的活動に女性が男性と平等に参加することに対し、残っている障害を克服するための処置を報告しなければなりません。これは本法案で、自治体や企業に課している女性の採用比率や女性管理職比率などの定量的目標設定といった内容と一致しますが、国連に勧告されたから本法案を作ったのですか? ”
”この法案といわゆる女子差別撤廃条約、そしてそれを基に策定された男女共同参画基本法との関係をお訊ねします。本来日本は、男女の役割分担をきちんとした上で、女性が大切にされ、世界で一番女性が輝いていた国です。女性が輝けなくなったのは、冷戦後、男女共同参画の名の基、伝統や慣習を破壊するナンセンスな男女平等を目指してきたことに起因します。男女平等は、絶対に実現しえない反道徳の妄想です。女性にしか子供を産むことはできない。こんな当たり前のことに目を背けた政策を続けた結果、男性ばかりか当の女性までが、女性にしか子どもが産めないことをネガティブにとらえる社会になってしまいました。 ”
”いつから女性は弱者になったのか。国の施策において、やたら主語に「女性」を持ってくるようになって以来、どんどん女性が弱者として扱われるようになりました。「男女差別撤廃条約」の破棄、男女共同参画基本法の撤廃を行い、男女がお互いに尊重し合える社会を取り戻すことを日本国の皆さんにお誓いして、私の質問を終わります。 ”
”女性が輝けなくなったのは、冷戦後、男女共同参画の名の基、伝統や慣習を破壊するナンセンスな男女平等を目指してきたことに起因します。男女平等は、絶対に実現しえない反道徳の妄想です。”
”男女共同参画の考え方についてお尋ねがありました。男女共同参画社会とは、男性、女性、共に社会のあらゆる分野において活動、参画する機会が確保されて、均等に社会的利益を享受することが出来、共に責任を負うべき社会であり、男女の区別を否定したり、国の伝統文化を否定したりするものではありません。
いわゆるジェンダーフリーにつきましては、平成17年に閣議決定した「第二次男女共同参画基本計画(※PDF)」において、「ジェンダーフリーという用語を使用して、性差を否定したり、男らしさ、女らしさや男女の区別をなくして、人間の中性化を目指すこと。また、家族や雛祭り等の伝統文化を否定することは国民が求める壇上共同参画社会とは異なる」と明記をされており、この見解に変わりはございません。”
冷戦後の話なのに戦前が良かったのかとかいう見当違いのブコメや法案の中身の話なのに男女共同参画社会という言葉から、らいてうがどうとか言っているブコメに辟易したので増田に残す。
ちゃんと、人の話は聞きましょう。
まったく教義や根拠の違うものを同じだと言い張る方が頭がおかしいとしか。
無駄に知識の無い信徒を使って勧誘しまくるエホ証を正統派だと思うの?すごい神経。
キリスト教伝統クラッシャーとして有名で、自分たちで勝手に翻訳し(もうこの時点で「キリスト教」じゃない)
内容を改変した聖書を片手に「今のキリスト教は全部邪教だ」と言いまくるのが普通だと?
新世界訳の聖書は出版物として日本聖書協会ですら販売できないよ。
受け入れてほしいなら受け入れてほしいなりの動き方がもっとできないのかって思うね。
同じことをした日蓮宗から追い出されたあの創価学会だって丸くなったのに、エホ証は全然変わらない。
異端と呼ばれる団体の方が、主流派よりずっと閉鎖的だし攻撃的。
なんでうちのカトリックにあんなに噛み付くのかわからないね。それにしちゃ正教も知らないし。
主流派の方がはっきり言ってまだ個人に寛容だし、当然人が受け入れやすいようにできている。
もう他の団体に迫害をしませんって言ったの知らない?知らないんだろうね。
自分で調べてね。
戦争は起きないよ、エホ証が来る来るって騒いでる世の終わりを自分たちで再現しようとしなければね。
まあ、それ以前に元エホ証がたくさんうちを含めた主流派に逃げ込んできてるから、空中分解しそうになってるよ。
きっと知られていないだろうけど。聞いたけど集まりの回数を増やして、お互いがお互いを見張ってるんだってね。
平日の午前中にみんなで集まって見張り会。ごくろうさんって感じですね。
どっちもここ10年くらいで急に浸透してきた感じがする。
自分が子供のころはどっちも、「ある地域ではこういう風習があるんですよ」的な異文化にすぎなかったのに。
そんな一地域の文化にすぎなかったものがあたかも、「古来より続く由緒ある伝統でござーい」と言わんばかりに大手を振って歩いているのが怖い。
いや、それ自体よりも「ハロウィンでは仮装するんだよ~」「恵方巻きはこの方角を向いて食べるんだよ~」というノリで追従していってる「普通の人」が怖い。
ここに来た人の中で自分がキリスト教徒であることをはっきり言える人以外は
一度ここ読んだ方がいいね。
特に無宗教決め込んでキリスト教を含めた「宗教」の信徒を馬鹿にしている人は、知らないことがあることを知った方が後々安全。
キリスト教徒でも知らないことあるから、読んでみることをお勧めします。
http://homepage3.nifty.com/yagitani/kurihon/kurihon18.htm
結婚が一度きりに限るとか、教会が実際に結婚について信徒に制限加えるのはそれカトリックと福音派だけだから。異端は知らない。
異教徒と結婚しているキリスト教徒とか、フツーにいるから。完全にそれを許してないのはプロテスタントのうちの福音派だけだから。ロマ書読んだ?
しつこい勧誘をするとか、それ異端だけだから。伝統教派は基本「自分の意思で来る人以外拒む」し、「勧誘をする」のは三位一体や使アタナシウス信条すらアウトにしてる某異端たちだけだから。
堕胎や婚前交渉同性愛、職業選択にうるさくなるのは宗教だけが根本にある訳じゃないから。無宗教を謳う人がこれだけ多い日本で、「倫理」が何故話題になるかわかんないかな。
人類の進化を受け入れなかった、ってそれあの大所帯のカトリックが「すべての人が価値観を変えた」と確認するまでトップが受け入れたことを表明するのに慎重になっていることがわからないかな。
例えば最も保守的な正教会には「七日目」に朝があり夕があったとの記述が創世記に無いからまだ地上が完成したとは結論付けていないんだけど、それはどう考えるのかな。
そういえば、ロマカトとプロテスタント福音派や異端ばかり見てない?
狭い。カトリックの人が書いてるけど、正教も伝統プロテスタント(⇔改革派からは「福音派」と呼ばれる)もサイトあるんだから多少は自分でググってね。
カトリックだってローマカトリックだけじゃないんだよね、日本には無いけど。(つまり東方典礼カトリックを自称する日本の教会はあったら異端ってことです。)
聖書の訳も何種類も出ていて、日本聖書協会が出版していないものは完全に異端だと認めていいことも知らないだろうから、訳も調べてみてね。
お勧めは正教訳といきたいところだけど難しいので、カトリックのフランシスコ会訳と、カトリックと聖公会、ルーテル(と極少数の改革派)が使ってる最大利用者の持ってる新共同訳。
新改訳は「改悪」という評判を随分聞いてるから読んだことがないね。
「キリスト教」と一言で言っても、十戒の最大の禁忌のひとつ「偶像崇拝」の解釈すら教派によって違うから、少し勉強してから発言しないとちょっとしたことでも恥かくよ。
正直見てて痛々しい。
追記:知恵の書2章~3章をキリスト教徒の兄弟姉妹たち、今一度お読みになってください。旧約聖書続編にあるので、手元に無い場合はせめて一度読んでみて。信仰を持たない人の人生観が書かれています。
歴史と伝統があるとされている「ちゃんとした宗教」、特にそれがキリスト教なら当然ある。
気が向いたときに顔を出して、年に何度か行事だけ参加する幽霊部員の部活動みたいなものじゃないならね。
でも何ら教義を教えず、あるいは口当たりのいいところだけ漠然と話して
チャペルで結婚式を執り行ったり、クリスマスにコンサート開いてそれを資金にしている「世俗化された宗教」もあるわけ。
さらに横だが、
戦前の「嫁」なんてまんまそうだろ。夫の家に一方的に尽くして、それで得た利益は全て夫の家に取られる都合の良い奴隷だったわけだ。
女を飼ってやることが、女に対する救済ではあるだろう。
戦前の「嫁」なんてまんまそうだろ。夫の家に一方的に尽くして、それで得た利益は全て夫の家に取られる都合の良い奴隷だったわけだ。
それを女性の社会的救済のためって、「黒人奴隷制度は黒人の社会的救済のため」と言ってるのと同程度におかしいぞ。
こちらこそお返事ありがとうございます。
カルト的な宗教、信仰の仕方をしている人は自己主張が激しいからそうなっちゃうのは致し方ないかもしれませんね。
一般的に自己主張は伝統的な宗教では嫌われる傾向にあるのが現実っていうか。
でも、ここ数年で日本でもキリスト教徒が3%から6%になったなんていう話もあったりなんかします。
ああ、わかるなあ。
12歳の時にあれが起きてから、色々変なスピリチュアルも流行りましたよね、今もそうですけど…。
正直ね、宗教アレルギー起こしてる人の方が何も感じていない人より、変なのにハマりやすいんですよね。
仏教の実践重視のところとか、キリスト教のカルトなあそことか、スピリチュアルなんて一番多いです。
あれ?宗教怖いとか言ってなかったっけ?って突っ込んだら、あの時のわたしはどうかしていた、とか言い出す始末で。
現世利益ちっくな信仰って一番厄介で、その思考になっちゃうと伝統宗教のところにはなかなか入れないし拒否されちゃうから。
実際「信仰に至るかどうかで悩んでるっぽい」似たような感じでうちの教会に来てる人って確かに見かけるんですよね。
話しかけるのがいいのかどうなのかわからないから、まだ話しかけていないんだけど。
書き込みを見て、その人にちょっとだけでも話しかけてみようかなあ、と思いました。
その時になったら「与えられる」ものですよ。
あ、そうだ。
日本正教会 http://www.orthodoxjapan.jp/
ウェブサイト見て、先に知識だけちょっと積んで行った方がいいかも。
できれば、行く直前に電話もしてみたら、教える人もラクかもしれません。
暦が違う(クリスマスが1月)とか、十字の切り方が西方教会(プロテスタント含む)と左右逆とか、
正教で洗礼受けた人じゃないと前の方行っちゃだめとかあります。
(※どこの教会行っても、前の方に行くのはやめた方が無難:聖書朗読する人が座ってます)
他の方が同じ教派のひと同士じゃないと結婚できないとか言ってますが、
寛容なところなら未信徒の方だけ呼んで勉強会をしたり、「こんなことに理解を示してほしい」と要望した上で
あと、堕胎をできるだけ避けるのはどこの宗教でも言われることで、キリスト教に限りません。
水産業界と食肉業界は止めとけって言われて無視して水産の方に行ったけど
想像以上にキツいな。
人が明らかに足りてないのに「ウチは小さな会社だからこれで回すしかない」の一点張りで。
朝5時から現場行って水揚げされた魚を一匹ずつ加工していくんだぜ。
でも新人は邪魔だからって暫く放置された後、何故か滅茶苦茶怒鳴り散らしてくる。
朝はずっとこんな調子で眠気眼を擦る暇もなくてひたすら捌かれた魚肉を機械に通しいく簡単なルーティンワークさ。
時間が物凄く長く感じるし、眠いしでこういうのは経験だって自分に言い聞かせても
夜中にアニメ見てネットで歓談するような夜行性タイプでもこいつはしちゃいけない仕事だって脳ミソが知らせてくる。
長靴が狭くて爪が割れてうっ血して靴下脱いだら黒くなってて俺マニキュアなんかしてたっけ?て思って日々過ごしてたら
凄い事に痛みが感じなくなったんだよ。
多分壊死してたんだと思う。
毎日魚が氷漬けの-20度の冷凍庫に入っては20~40kg量のカツオをまな板脇に持って来てそれを何枚かに捌いて機械に通していく。
死んだ魚の匂いが髪や身体にこびり付いても気にしないでずっと作業する。
ああもうこれ、俺ダメになりそう。
そう思った時、目が変になってた。
正確には視力が落ちてた。
筋を見分けるためにくわっと目見開いて包丁握ってどの部位を切ればいいか思案も出来ずに
ただひたすら指示された部位を切ってそいつを機械に掛けて行く。
人間ってこうして壊れて行くんだね。
新人の俺ですら、この業界が如何に厳しいのか身を以て分からせてくれたんだからね。
びっくりする事にこの業界、辞めるのはそう楽じゃない。
引きとめられる事はないけど、何か未練を感じてしまう。
多分俺と同じ様に入社した先輩たちはこういう誘惑に負けて結局本職としてやり抜いてるんだろうなって
あるいは、精神的な逞しさをそうしたルーティンで覚えさせられていったのかもしれない。
多分俺には向いてなかったんだと思う。
40年後くらいに、音痴が障害として認められるのではないかと密かに思っている。
音痴という表現は差別的とされ、「音ち」などの言い換え案がいくつか出た後、最終的には「広汎性音程障害」みたいな大層な名前がつく。
これにより日本発祥の文化であるカラオケが衰退に向かう。カラオケは音痴の人の人権を侵害するからだ。
かわりに伝統的な歌である和歌や連歌、俳諧が再燃する。みんな酒を飲んだ二次会とかで、季節の歌を歌ったり伝統的な和歌のパロディとかで盛り上がる。酔って短冊や掛け軸に自分の歌を書いたりする。
人間は公の場で放歌することをしなくなる。上手に歌を歌うことは、音痴の人への差別になるからだ。
メディアでは音程をほとんど気にすることのない歌が、当局の現在よりずっと厳しい検査のもと歌われる。
こうして人類の発展とともにあった「歌うこと」は人間の手から離れ、人間は進歩か退化かどちらともとれない新たな次元へ進んでいく。
Physics の青色ダイオードの中村・赤崎・天野の受賞や私戦予備陰謀疑いのほうがさわがしいかもしれませんが,ノーベル生理学・医学賞に関して.
John O' Keefe, May-Britt Moser, Edvard Moser の三名が 2014 年のノーベル生理学・医学賞を受賞した.受賞理由は脳の位置定位系を構成する細胞の発見に対してである.“for their discoveries of cells that constitute a positioning system in the brain”. 視覚や聴覚,触覚で得た物理的な環境のあるいは自己の位置に関する情報は脳内でどのように処理されているだろうか.力学的に考えると,質点と空間座標と時間の成分がありそうなものである.マウス生体での神経科学的な実験で,位置特異的に神経の活動(活動電位の頻度)が上昇する細胞が海馬でみつかった.最近の in vivo の実験で place cell の特性や grid cell の特性,視覚系・運動系との place cell 回路の連絡等がさらに解明され始めている.少し古い神経生理学に関連する著名な科学者では,James Gibson や David Marr が有名かもしれない.聴覚系での位相差からの音源位置推定,視覚系での網膜および外側膝状体 LGN,一次視覚野,高次視覚野の回路等感覚の認知の神経科学はよく調べられてきたが,受賞対象の位置定位系は脳内の感覚と運動を統合する上で重要な具体的な情報表現と情報処理にせまった分野になっている.
ごくごく戯画化した,脳の作動機構は,神経細胞は他の細胞と同様に細胞膜をもちその内外のイオン組成をポンプとチャネルとよばれる細胞膜にタンパク質で糖を燃焼してえたエネルギーを元に維持する.神経細胞が同士が突起を多数のばし接触点を多数つくりそこで,膜のイオンを電位差をより正にする化学分子を放出したり,より負にする化学分子を放出したりする.電位差が十分小さくなると多くの神経細胞では電位依存的なナトリウムイオンチャネルが活発に作動し突起を一次元的に減衰せずに伝わっていく活動電位をおこす.多くの神経系での通信と計算の実体は,この化学伝達と電気伝導の組合せで,静的な記憶は細胞の結合(シナプス synapses)が構成する回路に,シナプスの化学伝達特性や回路水準の論理演算やより高度な情報処理の結果であると作業仮説がたっており,具体的な情報処理の神経回路の機構を解明することは重要である.
位置定位系の回路を構成する要素の place cell は,脳の大脳の海馬とよばれる短期記憶や長期記憶化に重要な部位にあるアンモン角 (Cornu Ammonis)の錐体(神経)細胞 pyramidal neuronである.特定の場所で活動が上昇することが証明されている.脳内の空間情報処理で他の細胞とともにどのような回路をなしているか調べるには,place cell への入力と出力,place cell 間の直接的な結合をさらに調べることになる.O'Keefe, Moser 以後も熱心に研究されている神経科学の重要な問題である.海馬に出力する嗅内皮質 entorhinal cortex の格子細胞 grid cell(環境のスケールに応じた格子を表現するようなユークリッド空間中の格子のような役割を担う細胞),各所の頭方位細胞 head direction cell,時間細胞 time cell も発見されている.物理学的な情報の表現と計算に必要な神経回路の構成要素がわかりその作動機構がわかってきそうな気がしてくる.21 世紀は,人体生理学のおそらく最大で最後の問題である脳の作動機構の同定にかなりせまってきており,先のことはよくわからないが脳のことは今世紀中にはだいたいのことがわかり,計算機でもっとよい知能が実装できそうな勢いである.
ノーベル賞は「物理学、化学、医学生理学、文学、平和、経済(ただし経済分野はスウェーデン国立銀行賞)」の分野で重要な業績を残した個人に贈られる.Physiology or Medicine の分野ではカロリンスカ研究所が選考にあたる.ノーベル賞は,ダイナマイトの開発生産でノーベルが残した遺産を基金としはじまった.現代では,数学の Fields Medal や計算機の Turing Award とならびたつような権威ある賞として,世界中で科学の営みに参加する人々・興味ある人々が注目する伝統儀式を続けるお祭りになっている.医学生理学の分野では生理学的に重要な機構の解明や臨床応用で人類の医学的な福利向上につながる発見などにおくられる.なかなか毎年趣味がよいとおもわれる.繰り返しであるが,選考委員会が示した,今回の授賞は,脳での空間認識の回路で重要な働きをする place cell 場所細胞の発見が理由である.
匿名ダイアリーにこんな言い訳も不要かと思うのだけれど,ノーベル賞委員会の公式アナウンスメントとFundamental Neuroscience か Principles of Neural Science や関連論文や日本語の教科書・一般書等を読めばよい.高校生物に毛が生えた教養程度の神経科学の知識しかない劣等の学部生ながら,今回受賞の対象になった O’ Keefe と Moser 夫妻の神経系における自己位置の表現の神経回路の重要な細胞というテーマに興味があるので駄文を書いた.
脳科学辞典 場所細胞 http://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E5%A0%B4%E6%89%80%E7%B4%B0%E8%83%9E
とあるフリーソフトを作っていて、動作確認のために入れてみた。とあるフリーソフトのブログにおまけとして書くつもりだったけど、やっぱり表立って書きたくないのでここにつぶやいておく。
自動更新が強制オンみたいなので、Windows Updateで仕様がころころ変わっていくと思われる。しばらくすると違うものになっているかもしれない。
以下、突っ込み。
諸説あり。互換性の問題(古いアプリがWindows 9だとWindows9xと誤認識するやつがあるらしい)説、SEO対策説、Windows8.1が9相当説、りんご社に合わせた説(それなら10じゃなくてXじゃないの?という突っ込みはしないように)など。
日本は(金になる)Office以外はどうでもいいということですか。そうですか。
英語以外の提供言語が中国語とポルトガル語だけというのは何とも。中国とかブラジルとかそんなに大事なんかなー。
スタートメニューのAll Appsで出てくるプログラムフォルダーをエクスプローラーで開けないとか、スタートメニューのAll Appsで出てくるプログラム項目からプロパティが開けないとか。
だいたい、何でプログラムフォルダーのコンテキストメニューがExpand(展開)だけなの?名前の変更、削除はどこ?
Start8やらClassic Shellの出番はなくならないのかもな。
あの太い外枠は邪魔以外の何物でもないと感じていた。でも、なんかバランス悪いような。
MSにデザインセンスを求めてはいけない。自社製品ロゴを定規さえあれば描けるようにしちゃった時点でお察しください
というか、さっさとアイコンをMSイチオシのフラットスタイルに統一しようよ。エクスプローラーとかだけじゃなくて。そんな姿勢だから、他社に「妥協の産物」って言われるんだよ。
Windows 8の大改悪の1つ。スタートメニューは復活したけど、これは復活させる気ないんだな。
NT時代から代々受け継がれてきた伝統だというのに、何をいまさら。だが、当然の機能が搭載されたことは悪くない。製品版にも、ぜひ。
まさか、製品版ではやらないでしょうね?更新してもOSをクラッシュさせないという保証ができてはじめてやるべきこと。