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チューリッヒのじどおしゃほけんっ♪
マリッサはヤフーCEOになった2か月後に子供産んでいるんだが?
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Marissa Mayer, 2011 Interview (crop).jpg
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国・ウィスコンシン州ウォーソー
マリッサ・アン・メイヤー(Marissa Ann Mayer、1975年5月30日 - )は、アメリカのIT業界の実業家。Lumi Labs共同創業者[1]、Yahoo!の元CEO、Googleの元副社長(検索製品およびユーザーエクスペリエンス担当)[2]。Googleの顔の一人で、インタビューやイベント出演が多かった[3]。
経歴
メイヤーは、1975年にウィスコンシン州・ウォーソーでドイツ系の血を引くフィンランド系アメリカ人の家庭に生まれた[4]。母は美術の教師、父は水道会社で働いていた[5][6][7]。1993年に高校を卒業後、ウエストヴァージニアで行われたNational Youth Science Campに参加[8]。
スタンフォード大学からシンボリックシステムの学士号と計算機科学の修士号を受け、人工知能を専門分野としていた。
スイス・チューリッヒのUBS研究所(Ubilab)やカリフォルニア州メンローパークのSRIインターナショナルを経て、1999年に従業員数20人程度の規模だった[9]Googleに数少ない女性エンジニアとして入社した。人工知能とユーザインタフェース設計の専門家であり、これまでGoogleウェブ検索、Googleニュース、Gmail、Orkut、Google マップ、Google Earth、Google Health、iGoogleなどの構築に携わった[2][10]。
2008年、『フォーチュン』誌が毎年選定する「50 Most Powerful Women」(最もパワフルな女性50人)で第50位に選ばれた。これまでに最も若い女性としてランクインしたことになる[10]。
2009年、検索事業に関する仕事の功績により、イリノイ工科大学から名誉博士号を授与された[11]。
2012年7月17日、Yahoo! CEOに就任[12][13]。 同年9月30日に男児を出産 [14]
2013年2月、ヤフーの就業制度について、従業員の在宅勤務をオフィス勤務に転換する方針を示した[15] 。このことについて、在宅勤務をしていた従業員などからの批判が起こった。[16]
2013年4月、ヤフーでの育児休暇制度を変更し、育児休暇期間の延長と育児休暇に伴う賞与を与えることにした[17]。この制度変更についてCNNは、FacebookやGoogleなどのようなシリコンバレーにある企業の制度に合わせたものだと伝えた[18]。
2017年1月9日、Yahoo!の中核事業をVerizonに売却する契約が正式に結ばれた後にYahoo!役員を退任する、と発表された[20]。
2017年3月、Yahoo!の中核事業売却後、CEOを退く際に2300万ドル(約26億円)の退職金を受け取ることが明らかになった。ボーナスについては辞退した[21][22][23]。
2017年4月、ベライゾン・コミュニケーションズへの中核事業売却で約1億8600万ドル(約205億円)を手にすることが、米証券当局への届け出で明らかになった[24]。
スペインはそんな感じだったんだ
俺はドイツの南の端っこのほうにいたんだけど
ホテルで朝起きて朝飯食いにラウンジに下りてきたら受付の姉ちゃんが「貴方、日本人だったよね!日本が大変なことになってるよ!」
とまくし立てられてなんのこっちゃと思いながら指さされたTVをみたらちょうど仙台空港に津波が押し寄せてくるところだった
それ以上はどうということもなく、仕事先で会うドイツ人みんなにご愁傷さま的なことを言われたけどとりあえず午前中は家族と連絡をとる時間に充てて午後からは普通に仕事してた
その2日後、帰国することになってチューリッヒ空港で日本行きの飛行機を待っていたら、スイスの緊急援助隊が乗り込むというので定刻から1時間遅れになって
↓この件
https://nordot.app/803904012476612608?c=39550187727945729
どうやら、システムは人が横断歩道前にいるからと停止したのに、オペレーターが横断しない"だろう"と判断して停止指令をオーバーライドして発進したということらしい。
どうしてこのようなことになったのか。
オペレーターのせいと言えるのか。
考えられる理由は「システムが歩行者の存在を取りこぼしてしまったときに車を停める」ことだ。
なら何故、オペレーターは発進指示をできるようになっていたのか。
それは、システムではどうしても判断できない状況があるからだと思う。
システムのみの場合、横断歩道前で人を待っていたり、立ち話をしている人がいたらその人がその場を離れるまで車は横断歩道前で止まり続けることになる。
他にも、昔天下一品のロゴが進行禁止の道路標識と似ているため車が天下一品の前で一時停止するようになったという事例もあった。
https://www.j-cast.com/2021/02/03404261.html?p=all
このように、システムが誤認識したり、進めるかどうか判断できない状況はどうしても残る。
そのようなときにはシステムより人の判断を優先しなければ車は永久に進めなくなる。
なので、オペレーターの役割は(乗客確認関係を除いて)以下の2つ
おそらくオペレーターはオリンピック(健常者)で慣れていたオペレーションをパラでそのまま実行してしまったのだろう。
健常者のオリンピック選手は今まで仮に横断歩道を渡ろうとしていたとしても車の存在を認知して止まってくれていたのだろう。
また、オリンピックの時はオペレーターが発進判断をした後に選手が突然横断歩道を渡り出す危険な状況があったときも大体は最後の砦の自動ブレーキで止まれていたのだと思う。(これは後述する制動距離で説明する)
ただ、システムでどうにかできたのではないだろうか。
システムが歩行者を瞬時に認知したとしても、認知したタイミングが制動距離以内だったら車はぶつかる。
ただ、eパレットは超ノロノロ運転(最高速度19km/h)なので、制動距離はかなり短いはずだ。
かなり重い車のはずなので初動10km/hとして簡易的に計算すると、
=(10×1000/3600(m/s))^2/(2x0.8x9.8m/s^2)
=0.49m
停止判断をするまでの空走距離については、システムの認知判断スピードは一瞬だと思うので、制動距離と合わせて1mもあれば自動ブレーキで止まることはできたと思う。
そのため、オリンピックの時は仮にオペレーターが発進判断をした後に歩行者が歩き出しても車は自動ブレーキシステムで歩行者の前で止まれただろうし、また歩行者も車が自動ブレーキで止まれないような状況(自分と車の距離が1m未満)で道を渡ろうとしなかったのだと思う。
ただ、今回は目が不自由な方が被害にあった。目の不自由な人はその距離感がわからない。
おそらく、ノロノロ運転の車が止まれないくらい近距離で横断を開始してしまったのだろう。
トヨタの社長が会見で「もっと音が出るように改善する」と言っていて、それだけかよwって思ったが、考えれば考えるほどそれしかないように思える。
障がい者に車の存在を伝えて、自分と車の距離が1m未満の時に横断を開始しないようにしてもらうしかない。
システムを優先する改善を行うと自動運転車は横断歩道を渡らない歩行者がいたら永遠にその場で止まることになるからだ。
結局、車は何故"動いてしまった"のか。
それは、
オペレーターの歩行者がこの距離では渡り始めない"だろう"と思い込んでいた"だろう"運転と、
その"だろう"が実現されない車(目の不自由な歩行者が車の存在を認知できないような静かな車)だったからだと思う。
余談だが、このシチュエーションが市道で発生した場合、どう対応すればいいのだろうか。
市道では40km/hと4倍ほどの速度で車は走っている。
速度の二乗で制動距離は伸びるので8m必要ということになる。(チューリッヒのサイトでは11mと書いている)
おそらく障がい者は仮に車から爆音が鳴ったとしても8m先の車を認知できないので、今回のような事態が起きたら確実に轢かれる。
となると自動運転車は信号のない横断歩道付近に人がいたら、仮に立ち話をしていてどう考えても渡る気配がなかったとしても車の存在を障がい者に伝えられる距離(1m)で自動ブレーキシステムを使って緊急停止できる速度(10km/h)まで車の速度を落とすことになる。
そうなると、おそらく現在の運転者は「遅ぇ」と自動運転機能を切るだろう。
自動運転を普及させるには技術だけじゃなく、運転者の意識も変えないといけないだろうなぁ、と思うと自動運転が技術的課題の解決とは関係なく遥か遠くの技術のように思えてしまう。
戦力差が10倍以上のもののみ取り上げています。随時更新中 ★は(戦術的)勝者側
多くのコメント・ブクマありがとうございます。 コメントで私が知らなかった戦いについて教えてくださった方ありがとうございます。https://anond.hatelabo.jp/20210708183653こちらも参照ください
B.C.480 ペルシア戦争 ギリシア軍7000vs★ペルシア軍30万以下
スパルタ王レオニダス指揮下のギリシア連合軍がペルシア軍の大軍と激突した。狭い地形を活かし、3日間の激戦を繰り広げるが、背後から攻撃され敗北した。この戦いでギリシア軍は1000人、ペルシア軍は2万人の兵士を失った。
・彭城の戦い
漢軍が彭城を制圧した事を知った項羽は精鋭部隊を率いて漢軍を襲撃した。攻略に成功したことから油断し、酒宴に明け暮れた漢軍は突然の事態に太刀打ちできず20万人以上が戦死した。
23年 ★緑林軍1万vs新43万
劉秀率いる緑林軍が新軍に包囲される。劉秀は脱出し、外側から新軍を襲撃して壊滅させた。
ブーディカ女王率いるケルト人がローマの支配に対して反乱を起こした。ローマ軍は反乱軍を狭いワトリング街道に誘い込み、これを破った。ローマ軍の死傷者はわずか400人であったのに対し、反乱軍の死傷者は8万人であった。
・博望坡の戦い
劉備軍と曹操軍が宛で対峙する。劉備は撤退したと見せかけ、誘われた夏侯惇を撃破した。李典の援軍が来るとみた劉備は兵を引き、曹操軍も撤退した。
383年 五胡十六国時代 ★東晋軍8万5千vs前秦軍117万
華北統一に成功した前秦が東晋征服のために大軍を派遣する。前秦軍は敵軍を誘うため、先鋒を退却させる作戦をとるが、兵が混乱して退却を止めなかったため、そこを突かれて敗北した。
・チェラーミの戦い
アラブ人の支配下にあったシチリアにルッジェーロ1世率いるノルマン人が侵入、イスラム教徒を撃退した。アラブ軍は戦力の7割を失ったとされる。
・黄天蕩の戦い
韓世忠とその妻梁紅玉率いる南宋軍が金軍を打ち破り、2万5000人を討ち取った。
屋島で破れ、志度寺に立て籠もった平氏を源義経が追撃した。平氏は大軍が後に続くとみて敗走した。
・下赤坂城の戦い
楠木正成は下赤坂城に籠城し、幕府の包囲にゲリラ戦で1ヶ月以上抵抗した。城は陥落したものの、幕府は楠木正成と護良親王を討ち損ねた。
1333年 元弘の乱 ★楠木軍1000vs鎌倉幕府2万5000
千早城に立て籠もった楠木軍は幕府軍に包囲されるも、3ヶ月に渡って抵抗した。気が緩んだところを奇襲するなどの奇策で消耗した幕府軍は攻略を諦め、撤退した。
・船上山の戦い
1333年 元弘の乱 ★後醍醐天皇軍150vs鎌倉幕府3000
後醍醐天皇が隠岐の島から脱出すると伯耆国の武将名和長年が挙兵し、隠岐国守護佐々木氏を攻撃した。名和軍は数百の軍旗を見せつけて威嚇する、暴風雨に乗じて攻撃するなどの戦法で幕府軍を破った。
倭寇に悩まされた朝鮮はその本拠地と見なした対馬へ討伐軍を派遣するが、宗氏の抵抗に遭い撤退する。対馬側は100~200人、朝鮮軍は3000人ほどが戦死した。
・ビルスの戦い
1444年 旧チューリッヒ戦争 スイス軍1500vs★フランス軍3万~4万
スイス軍がチューリッヒを包囲したことにより、フランスと戦争に突入した。スイス軍は数で勝るフランス軍と死闘の末に壊滅するが、フランス軍は2000人の損害を被った。この戦いによりスイス人の勇敢さがヨーロッパ各地に知れ渡った。
・土木の変
1449年 ★オイラト軍3万vs明軍50万
明の正統帝は自ら大軍を率いて、オイラトの征伐に向かう。しかし、食料配達の困難や大雨により明軍は士気が低下しており、そこをオイラトに奇襲された。明軍はほぼ全滅し、皇帝も捕虜となった。
・九頭竜川の戦い
越前制圧を目論む一向宗と朝倉軍が九頭竜川を挟んで対峙、朝倉軍は夜襲により一向宗を撃退した。
・セントラの戦い
1519年 スペインのメキシコ征服 ★スペイン軍410vsマヤ軍1万~4万
征服者コルテス率いるスペイン軍がマヤの大軍と交戦。マヤ軍はスペイン人の軍馬に恐れをなして敗北した。スペイン軍の犠牲はわずか2名だが、マヤ軍は800の犠牲を出した。この戦いでコルテスは後の妻にして翻訳者としてアステカ征服に貢献するインディオの女性マリンチェを得た。
・オツンバの戦い
1520年 スペインのメキシコ征服 ★スペイン・トラスカラ連合軍 7~800人vsアステカ軍4万
アステカ軍はスペイン軍の侵略を一度退けることに成功した。その後、大軍を率いて追い打ちを試みる。しかし、初めて見る軍馬の威力に恐れ戦き、指揮官を含む大勢が戦死したため敗走した。この戦いの後コルテスはアステカを滅ぼした。
・プナの戦い
1531年 スペインのペルー征服 ★スペイン軍168vsプナ先住民3000
スペイン軍がインカ帝国征服へ向かう途中、プナ島で先住民と交戦するが、銃と馬の威力でこれを打ち破る。
・ディーウ包囲戦
1538年 オスマン・ポルトガル戦争 ★ポルトガル軍600vsオスマン・クジャラート連合軍2万2000
ポルトガル軍が連合軍に包囲されるも、3ヶ月の籠城戦の末にこれを退けた。ポルトガル軍の死傷者は40名に対し、連合軍の死傷者は3000名。
・スィゲトヴァール包囲戦
1566年 ハンガリー軍2000~3000vs★オスマン軍10万~30万
ウィーン遠征へ向かうトルコ軍がクロアチア総督ズリンスキ率いるハンガリー軍を包囲。1ヶ月にも及ぶ激戦の末に防衛軍はほとんど全滅したが、トルコ軍にも2万人の犠牲者が出た上、スレイマン1世が陣没したため、撤退を余儀なくされた。リシュリューはこの戦いを「文明が救われた戦い」と称えた。
・今山の戦い
1570年 戦国時代 ★龍造寺軍5000vs大友軍6万~8万
佐賀城に籠城した竜造寺隆信を大友宗麟率いる大軍が包囲する。攻防戦は4ヶ月にも及び、落城は目前に迫ったが、大友軍が勝利を確信して宴を催したところを奇襲し、これを破った。
・木崎原の戦い
島津軍は数で勝る伊東軍を伏兵に背後を突かせることで破った。島津軍は275人が犠牲となったが、伊東軍は指揮官の伊東祐安含む800人以上が戦死した。この戦いは後の島津軍の戦いにおいて参考にされ、九州制覇に貢献した。
信長は石山本願寺に味方する雑賀衆の討伐を試みるが、雑賀衆は1ヶ月にも及ぶゲリラ戦でこれを退け、両者の間に和睦が成立した。
・天目山の戦い
1582年 戦国時代・甲州征伐 武田軍43vs★織田軍3000~4000
織田軍に追い詰められた武田軍の最後の戦い。武田軍は奮戦虚しく壊滅し、武田勝頼は自害したが、織田軍にも900人近い死傷者が出た。
・沖田綴の戦い
1584年 戦国時代 ★島津・有馬連合軍6000vs龍造寺軍6万
連合軍は数で勝る龍造寺軍を釣り野伏せで破った。この戦いで総大将竜造寺隆信は戦死した。
・岩屋城の戦い
島津軍は筑前を攻めた際、高橋軍の籠城する岩屋城を攻略した。高橋軍は講話の提案にも応じず、激戦の末に全滅した。島津軍は4500以上の死傷者を出した。
・忍城の戦い
1590年 戦国時代・小田原攻め 成田軍2000vs★豊臣軍2万~5万
石田三成ら率いる大軍が忍城を包囲し、水攻めを行うも、成田軍はそれに耐え、北条氏が滅亡した後に降伏した。
・四川の戦い
1597年 慶長の役 ★島津軍2000vs明・朝鮮連合軍10万
島津義弘率いる日本軍が明軍に包囲されるも、これを返り討ちにした。日本軍の勝因として、鉄砲を使用したこと、明軍の食料庫を焼くことで短期決戦に持ち込んだこと、連合軍の統制がとれなかった上に圧倒的な兵力差故に慢心していたことが挙げられる。
田辺城に立て籠もった東軍を西軍が包囲するが、東軍には文化人細川幽斎が居たため、西軍は積極的な攻勢が出来ず、2ヶ月ほど釘付けになった。最後は後陽成天皇の命で開城したが、西軍は関ヶ原の戦いには間に合わなかった。
関ヶ原へ向かう徳川秀忠指揮下の東軍が真田昌幸率いる西軍と交戦した。足止めを食らった東軍は関ヶ原に間に合わなかった。
1762年 七年戦争 ★スペイン軍100vsイギリス軍2000
イギリス軍がニカラグアの処女降誕要塞を包囲するが、スペイン軍は19歳の少女ラファエラ・エレーラの指揮下で奮戦し、砦を守り抜いた。
・アラモの戦い
1836年 テキサス独立戦争 テキサス軍200vs★メキシコ軍4000
当時メキシコ領であったテキサスに移住したアメリカ人がメキシコに対して反乱を起こした。アラモ砦に籠城したテキサス軍はメキシコ軍の包囲に対し13日間持ちこたえた末に全滅した。
・雨花台攻略戦
湘軍によって要塞化された雨花台を太平天国軍が5ヶ月にわたって何度も攻撃するが、落とせず1万の兵力を失った後に攻略を諦めた。
サビーネ湖とメキシコ湾を繋ぐサビーネ・パスを防衛する南軍が北軍の攻撃を受けるも、これを撃退する。北軍は100名が死傷し、350名が捕らえられた。
・カマロンの戦い
1863年 ナポレオン三世のメキシコ出兵 フランス外国人部隊65vs★メキシコ軍2000
65名の外人部隊は現金300万フランを輸送する部隊の護衛を任されていた。メキシコ軍の大軍の前に破れ、43名が戦死、19名が捕虜となったが、輸送部隊は目的地へ現金を届ける事が出来た。
1879年 ズールー戦争 ★イギリス軍150vsズールー軍3000~4000
ロルクズ・ドリフトの伝道所跡に築かれたイギリス軍の砦をズールー族の大軍が襲う。イギリス軍は2日間の激戦に勝利し、ズールー軍は800名以上の死傷者を出した。
・アブ・クレアの戦い
1885年 マフディーの乱 ★イギリス軍1100vsマフディー軍1万2000
ゴードン将軍の救出に向かうイギリス軍とマフディー軍が激突し、マフディー軍は1100人の死傷者を出して敗北した。
・アブ・クルの戦い
1885年 マフディーの乱 ★イギリス軍1200vsマフディー軍1万4000
ゴードン将軍の救助に向かうイギリス軍がマフディー軍と交戦し、勝利した。マフディー軍の損失は明らかではないが甚大であるとされる。
盧溝橋付近で日本軍の夜間演習中に日本兵一人が行方不明になる。日本軍がこれを理由に中国軍を攻撃し、破った。この事件が熾烈な日中戦争のきっかけとなった。
・タラワの戦い
1943年 太平洋戦争 日本軍2600vs★アメリカ軍3万5000
タラワ環礁ベティオ島を防衛する海軍部隊とアメリカ海兵隊が激突した。島は3日で陥落し、守備隊は玉砕したが、米軍も3000人が死傷し、軍への志願率が一時的に減少した。
・拉孟の戦い
1944年 日中戦争 日本軍1300(うち傷病兵300)vs★中国軍2万
日本軍と中国軍が3ヶ月にわたって交戦し、日本軍が全滅した。中国軍は8000人が死傷した。
・騰越の戦い
日本軍と中国軍が3ヶ月にわたって交戦し、日本軍が全滅した。中国軍は2万人が死傷した。
・アンガウルの戦い
1944年 太平洋戦争 日本軍1250vs★アメリカ軍2万1000
日本軍歩兵第59連隊第1大隊が守備するアンガウル島をアメリカ軍第81歩兵師団が攻略した。1ヶ月以上にも及ぶ激戦の末に日本軍は玉砕したが、米軍も2000人死傷した。
・一江山島戦役
1955年 第二次国共内戦 国民党軍700vs★共産党軍7000
人民解放軍が一江山島に侵入、2日で占領した。台湾軍は全員が戦死するか、捕虜となったが、解放軍にも2000人の死傷者が出た。
・ロングタンの戦い
1966年 ベトナム戦争 ★オーストラリア軍108vsベトコン2500
ベトコンがオーストラリア軍を襲撃するも、撃退された。オーストラリア軍は42名、ベトコンは600名が死傷し、双方が勝利を主張した。
参考作品「デンジャー・クロース 極限着弾(クリフ・ステンダーズ監督)」
・ロンゲワラの戦い
1971年 第三次印パ戦争 ★インド軍120vsパキスタン軍2000
ラジャスタンのロンゲワラ村でパキスタン軍とインド軍守備隊が交戦。インド軍は航空機の支援を得て、パキスタン軍を破った。パキスタン軍の死者200名に対し、インド軍の死者は2名ほどであった
1993年 ソマリア内戦 ★多国籍軍160vsソマリア民兵2000
アメリカ、マレーシア、パキスタンからなる多国籍軍が、民兵のリーダーであるアイディード将軍の側近二人を逮捕すべく派遣され、民兵と交戦状態になった。民兵は数百人が死傷し、多国籍軍は目的を達成したが、100名以上が死傷した。
参考作品「ブラックホーク・ダウン(リドリー・スコット監督)」
今年の初めに結婚する予定。
ようやく正規の公務員になったり、彼女が再就職したりとバタバタしていた2019年だったけど、ここから本格的にお金のことを考えないといけないと思ってメモする。
来年これを読み返して改めて考え直そうかと思ってる。
[俺]
・ドコモ
[彼女]
・同居 軽自動車あり(ローンなし)
・ドコモ
[住居]
・1LDK 6万/月
[保険]
[銀行]
[クレカ等]
[家計簿]
・zaim
お金関係は俺が担っているので、俺のやりやすい形にしようと思う。基本的に家賃は俺の口座から引落とし、電話代等に関しては家族カードでいいだろう。彼女名義の家族カードを今後作り、それは電話代等にのみ充てる予定。
銀行口座は双方が所有していて振込手数料が無料になるSBI銀行が適当だと思われる。これに紐づけているミライノカードで家賃・光熱費・保険・通信費を支払う。簡易計算で年100万を超えるので、今度ゴールドカードにしよう。年会費をペイできる上に旅行の保険が自動付帯する。それにSBI銀行の無料枠は捨てがたい。地方都市なのでメガバンクが近隣になく、コンビニで使えるネット銀行は大変重宝するのだ。
残念ながらミライノカード(JCB)には家族カードがない。Masterの方にすることも考えたけど、年会費1万が果たして妥当か怪しい。保険料と考えるなら3000円のJCBでいいと思える。ので、JCBをゴールドにして引続き使用したい。
そうすると家族カードをどこにするかが悩む。といってもこれ自体はどこでも良い気がする。なぜならどこのカードもポイント還元は似たりよったりで、しかも○○PAYに力を注ぎすぎだから。各種Payは静観を決め込んでいるし、日常で使うのは専ら近所のスーパーとホームセンターくらい。なので現在のdカードで家族カードにしてしまおう。dカードゴールドはポイントが魅力だけど、キャリア系はそろそろ解約するべきかと思っているのでシルバーで継続。
携帯キャリアはどちらもdocomoなので家族割を使う予定。現在加入の料金プランも9500円程度と割高なので、ギガホにした方が良いのだろう。尤も、MVNOに切替えるのも視野に入れているが、通信量やGPSの正確性を考えるとキャリアが合っている気がしている。ここは今月中に決めよう。
保険は、自動車保険に二人がそれぞれ入り、俺が死亡保険とがん保険についこの間加入した。まあガンは時期尚早かもしれないけど。
彼女の保険は親名義なのでできるだけ早めにこちらに移す予定。しかも彼女の医療保険?はカンポらしい。なんでや。
まだ若いから定期保険で充分だろう。終身は10年後からスタート。いちおう俺が公務員なので医療保険は特に定めていない。
問題は家賃。今の家は6万弱の1LDKでかなり快適な設備なのだけど、さすがにこのままで結婚すると手狭になりそうだ。というかベッドが1個しか置けないので俺が布団を使っている状態。来年の更新に合わせて2LDKに越したい。
二人の手取りが合わせて35万程度しかないので、7.5万前後を狙っている。それでもやや高いかもだけど、駐車場2台分を含めた金額なので妥当ではないか?
食事関連は俺がメインで作るので、必然的に食料の調達も俺が行なっている。月3.5万以内をキープできるようになっているのでこれは継続。
子供関連だけど、未知数すぎてどうしようもない。二人とも親元から離れているから子供を預けるのは難しい。できるだけ貯金をしなければ。
大雑把すぎるけど、こんなところかな。
後継者講習会なるものに参加して来た。(http://www.tenrikyo.or.jp/yoboku/kokeisha/)
これは、20~40歳までの男女が3日間で教理を学ぶ合宿みたいなものだ。私も実家の流れには逆らえず今回参加した。
似たような行事(学修・リー講)にはよく参加はしていた。にもかかわらず大して得るものもなくなあなあで続けて来た信仰だが、今回の3日間では色々思うところがあった。
私の実家は教会で、生まれてからずっと天理教の教育を受けていた。毎日のおつとめや神名流し・路傍公演など経験させられて来た。しかも、管内の学校でがっつり教理を学んでさえいた。
だが私は釈然としない。本当に神様などいるのだろうか、いたとしてもコテコテの関西弁をしゃべるような神様なのだろうか
実家の教会を継ぐこともあり得るようなポジションにいる私だが、幼少のころの実家の貧乏な惨状を覚えているので、自身の子供に同じような経験をさせたいとは到底思わないし、性格がねじ曲がっているので教会長を引き継げる気もしない
あくまで天理教を否定しているわけではない。しかし信じてはいない。宗教は社会的にはセーフティネットであり、個人レベルでは内的なスタビライザーとして機能しているのだ。私はその一つとして天理教を見ている。
そんな状態で講習に参加した。
色々な講師のお話を聞いていると、どの講師も同じような話しかしていない。「夫婦仲良く」や「陽気ぐらしは自分がやればみんなに広がる」など、自明なことをつらつらと数十分と語っていることに改めて気づいた。天理教の教理のトピックは幾多にもあるはずだが、幼少から様々な講話や教理を勉強している私にとってはどれも何処かで聞いたような話(しかも自明的な内容)である。それゆえ眠くなっても仕方ない。最初の5分ほど講師の話を聞くといつもまぶたが落ちて来ていた
これは1意見だが、20~40歳の男子女子がそんな好んで教理を聞くだろうか?もっと面白い話や、エッジの効いた弁士オリジナルの教理の解釈を話せば良いのでは?と気になっていた。もし解釈が他人と大きくずれていてもそれでいい。ずれが聞き手に疑問を残す。疑問が議論につながる。議論こそが思考を引き起こす手っ取り早い方法なのではと思う。
また、気になったのがグループワークだ。
このような講習では、毎回知らない人とグループを組み、教理について色々議論する時間がある。3日間でトータル5時間ぐらいだろうか、
参加者は20歳を超えているから一部の大学生とその他大勢の社会人のはずで、前で人が喋っている時にベラベラ喋ったり、出会いを求めにギラギラした目で女性を見る輩はいないだろうと思っていた。
しかし実際は各班30人のうち、一人はそんな輩が存在していた。いったい何をしに来ているのか?天理教の教理を知っていながらどうしてああも横暴がでいるのか、「八つのほこり」を頭にきざみこめ低脳め。
講習中は基本的には各部屋での飲酒が禁止されているのだが、ゆうづとめが終わると、大勢の受講者が近くのファミマでカゴいっぱいの酒を買っている。部屋で消灯を過ぎても飲んでいるzちゅ後者を見ても監督者は見て見ぬ振り。過去には鍋や焼肉も宿泊部屋で行われていたらしい
私としては、同じ部屋の仲間と仲を深めれて楽しかったが、学修やリー講の時は厳しかった門限やその他ルールと比べると、後継者講習会はルールというものが全く機能していない。
おそらく社会人になると、いうことを聞かない適当な大人が増えているのだろうと思うと悲しくなった。
働きながら信仰をしている有名な方もたくさんいることに驚いた。
チューリッヒのCEOや万田酵素の社長など、大成しているひともいらっしゃるのだ。こういう大人になりたいものだと私は思った
1918年、スイス・シュヴィーツ生まれ。シェーネック神学大学卒業。
20才頃から神学を通して日本の宗教、歴史、文学に興味を持ち、30才頃から本格的に研究を始め、ロンドン大学に留学、
日本文法コースを履修した。'51年来日。岩手大学、東北大学、東大講師を経て、’58年より上智大学文学部で教え、
その間チューリッヒ大学に留学’61年に宗教哲学研究で博士号を取得した。専門は神道、日本古典劇で、大学で講義するほか、
ジャーナリストとしてスイス、ドイツなどの新聞、雑誌に日本文化に関する記事を書いている。
主な著書に、「Japanese Theater」(’75年)、「Schattentheater Asiens」(’79年)などがあり、能や宗教学などの論文も多くある。
http://www.y-yamasita.com/diary.cgi?no=110
通学路は、学校や家庭では学ぶことができない子供の社会性を成長させる貴重な場であると考えます。
家と学校の移動だけではなく、家と地域、地域と学校とを結ぶ活動の場でもあります。
小学生のとき、通学路の思い出が心の原風景となっているというお話もお聞きし、地域で共有できる記憶としても重要なものと考えられます。
日本は、世界と比較して公園が少ないと言われてきましたが、かつては道路が子供の遊び場でした。
5歳児が自宅の前の道路で遊べるか否かが、その子供の成長と発達に重大な影響を及ぼすという意見は、チューリッヒ・スタディーとして有名であります。
しかし、柏市内では、自動車の交通量が多く、歩道も車道も狭く、ガードレールのない通学路もあります。
伸びた草木枝や落ち葉、ごみでふさがれ、児童が車のすぐわきを歩かなければならない歩道や路側帯もあります。
見通しの悪いカーブや、制限速度が守られずに、子供たちのすぐわきをトラックが通り過ぎていくような通学路があります。
抜け道として利用され、朝の通学時間帯に自動車が飛ばして走っている通学路もあります。写真を使います。
これは、ある小学校付近ですが、この歩道に枝が伸びていて歩きにくくなっていましたり、このように歩道が狭くなってしまっております。
そういうところに、この大きなトラックが通ったりすることもあります。
また、学校のそばの交差点なんですけれども、このように狭い道路もありまして、大きな車がすれ違うときは、ちょっとはみ出てしまって、なかなか、本当にすぐわきを車が通ってしまうような状況です。
これは、手賀の杜から40分から50分かけて、手賀西小学校に通っている児童も通る通学路であります。
そういった状況の中で、京都の亀山市や千葉県の館山市、愛知の岡崎市などで、通学中の児童が巻き込まれてしまうという痛ましい事故が起こっております。
これらの事故は、遠いほかの地域の出来事ではありません。柏市でも一刻も早く対応して、事故を未然に防がなければいけません。
保護者、教員によって、通学路に立ち安全指導が行われてはいます。
その負担もさることながら、いつ事故が起きるかもしれないという不安は大きなものです。
大切な子供の安全な通学路の確保は、最優先の課題であると考えます。
そこで、通学路の歩道の整備、ガードレールの設置、速度制限と大型車の交通規制など、通学路における安全確保について、柏市の考えをお聞かせください。
また、歩道、路側帯の草や木、枝葉などの伐採について、歩きやすい通学路の整備についてもお答えください。
◆三問目 山下洋輔
細かい現実的ないろいろな調整しなければいけないことというのがたくさんあるというのも、お話をお聞きしております。
そういった全体の流れであったり、基本的な道路をどうあるべきか、そういった考えは、先ほどお答えしていただいたような人間中心に移り変わっていくような、
そういった理念を持って、これからも続けていっていただきたいなと思いまして、ここで一つ紹介させてもらいたいことがあります。
デルフト宣言といって、子どもにやさしい都市環境に関するデルフト宣言というのがこのフルタイトルなんですけれども、
ここで子供に優しい都市は、すべての人に優しい都市であることを考慮するということを念頭に置いて、以下のことを提案していくというような宣言があります。
これを、紹介いたします。
「過去数十年の間に世界じゅうの子供たちは、伝統的に子供たちの屋外の居場所とされてきた空間の多く、
このような居場所の喪失は、多分に自動車の増加によってもたらされてきたものである。
子供にとって家庭環境は、健全な発達を遂げる上でも基礎となっている。
国連子どもの権利条約では、すべての子供が身体的、心理的、精神的、道徳的、社会的に発達するための適切な生活水準を享受できる権利を認めている。
そして、192カ国がこの条約を批准しており、各国政府はこの権利を実行に移す責任を認めている。
この宣言は、ロンドン宣言に基づいている。
ロンドン宣言というのは、政策の決定、立案及びそれらの過程への関与方法を考える上で、小さい児童や若者が有している物理的、
社会的環境に関する権利を十分に満たすことを優先して取り組むべきである」
ということが含まれている文章です。
私たちの大人であったり、社会、経済のそういった利便だけに流されずに、
未来を担う子供たちがすくすくと健全に育っていけるような社会を築くために、
私たちはいろいろな障害だったり難しい状況というのがあると思うのです。
そういったことに対してもできないということではなく、
全力でいろいろ知恵を絞って、ここにいる議員であったり市役所の皆さんであったり、
シリコンバレーで新卒採用でソフトウェアエンジニアとして働く先輩として,君たちにN○Tよりシリコンバレーで働くことを勧告したい.理由は大きく3つある.
一言でいうと,シリコンバレーでエンジニアとして働くことはとても幸せで充実しているからおすすめしたいということなのだが,何に幸せを見出すかは人それぞれ違うので,特に思いつく以上の3つのメリットをもう少し詳しく説明するので,一つでも興味が当てはまるのならいいから黙って話を最後まで聞いて欲しい.
大まかにいって,20万ドルから30万ドルの年収が期待できる.これは日本でサラリーマンとして働くことに比べると大変高給だと思う.
別に高給だから偉いというわけではないが,一日の多くの時間を費やして労働という形で給与を得る立場である以上,給料は最も大切な要因の一つであると思う.
それに,高給だと生活に余裕がでるし,贅沢も多くできるし,何より気持ちに余裕ができる.
それほど重要な要因である以上,誤魔化さず明確に数字を示すことが大切だと思うので包み隠さずいうと,僕の場合だいたい5年目までは以下のような給与カーブをとった.
1年目:15万ドル
3年目:21万ドル
5年目:26万ドル
6年目〜:僕も未知の領域なので詳しくはわからないが,30万ドル付近に一つの壁はあるように感じる.そこをいつ超えられるかどうかは完全に実力と出世次第.早い人なら5年目の時点で既に超えていると思う.
もちろんパフォーマンスによって変動する部分もあるし,昇進のタイミングによっても変わってくるが,君の給料もプラマイ10%から大きく見てプラマイ20%以内には収まるだろう.一時,某ゲーム会社で新卒年収最大1500万円というのが話題になったが,シリコンバレーでは皆が新卒で普通に貰える給料なのである.
僕のケースは大企業なので,ベンチャーとなるとまた話が変わってきて,僕の友人を見る限りでは,現金で貰える基本給・ボーナスが低い分,ストックオプションが貰えるようである.もし上場でもしようものなら,ストックオプションは大変な価値になるだろうから,より変動のある給料といえる.ただ基本給が低いとはいっても,新卒で10万ドル程度もらっていた.
税金は日本でフルタイムで働いたことがないので,詳しい比較はできないが,調べる限りではそう大きく差はないように思う.
よくシリコンバレーは家賃が高いという指摘があるが,実際その通りで,だいたい月の家賃は2000ドルから3000ドルのレンジである.独身でルームシェアを厭わないのであれば,もちろんもっと節約することは可能だし,ルームシェアも日本よりずっと多いが,20万ドルを超える給料を貰うと,正直なところ月2000ドル3000ドル程度の出費たいして痛くはなくなる.なぜなら平均した月の手取りが例えば11000ドルだとして,家賃に2500ドル払って,残りまだ8500ドル残る計算であるからだ.
なお,それ以外の生活費,例えば食費などは別段日本と変わらないか誤差の範囲内である.
日本人的感覚だと高給取り=過労 and/or 首切りというイメージがあるが,こちらでは全くそんなことはない.そもそもプログラミングのような集中力がいって頭も使う仕事そうそう何時間もぶっつづけでできるようなものじゃない.また仕事は極めて合理化されているので,この時間無駄だなと思う時間が全くない.実際僕の一日の実働時間は4〜5時間位だと思う.実働時間といったのは,リフレッシュのためにチームでテーブルサッカーをしたり,会社で用意される軽食やらお酒やらを楽しんだりする時間もあるからだ.それでもだいたい平均で一日会社にいる時間は7時間もないと思う.
また,働く時間と場所についても相当に柔軟である.いつ会社に来ても,いつ会社から帰っても,また家から働いても,カフェから働いても,最終的に仕事さえやっていれば基本的には誰にも文句は言われない.もちろん,何の申請もいらない.例えば,最近では,ワールドカップがあると,ワールドカップの時間だけ家に戻って家族で楽しんでまた会社に戻ってくるなんてのが普通に気兼ねなくできる.
この辺の正確な塩梅は会社やチームによって変わってくるが,ワールドカップ見に家に帰る,毎週金曜日はWFH (Work From Home) するという程度のことが許されないのはあまりない.さすがに,毎日WFHするのでそもそもアメリカにもいませんなんてのが許されるレベルになるとだいぶ少数派になると思うが.
有給も言うまでもなく自由に取れる.僕は今のこの就労環境を正直天国だと思っている.それくらいストレスを感じることなく自由に仕事ができる.
ちなみに念の為に言っておくと,リストラもない.数として0ではないが,よほど仕事しない限りない.
これもその通りである.日本で日本語で日本人と働いているだけでは,よほど君に突飛な才能がない限りグローバルな人材にはなれない.嘘だと思うなら,日本の会社で働いている数年上の先輩に,世界中どこへでも転職できると思うか聞いてみるといい.殆どの人がNoと答えるだろう.別にそれは彼らに世界中で働ける資格や能力がないというわけではない.単に世界で働けるか知らないし知らないから自信がないだけだ.シリコンバレーは世界中から有能なエンジニアが集まっており,当然英語で仕事をする.そこで実際に仕事をして身につくもっとも大切なことは,自分は世界で見ても一人前のエンジニアであるということを知れることである.別に僕は何も特別な存在ではない.心配しなくてもこれだけ高度な教育を受けられる日本で優秀な君たちは世界的に見ても優秀だ.しかし実際に身をもって体験しているかどうかという差は極めて大きい.実際に,僕はシリコンバレーで働いて世界のエンジニアのレベルは平均では思っているより低いと感じた.でも,それをいかに僕が説明しても恐らく君の自信には繋がらないだろう.なぜなら僕と君は当然違う人間だし,そもそも君はそれを実際に体験・体感していないからだ.シリコンバレーで実際に世界のエンジニアと働き,自分と比べ,その中で世界での自分のレベルを知れることは本当に有意義である.僕は,数年シリコンバレーで働いて,決して特別優秀ではないものの,一人前のエンジニアであると自信をもって言える.当然,英語も話せるようになった.もし,僕がアメリカでの生活に飽きたとしても,世界中ソフトウェアエンジニアの募集がある所なら,ロンドンでもチューリッヒでもドバイでもブラジルでも,どこででも働ける.
(一応,誤解なきよう言っておくと,あくまで平均の話であって,世界で超トップレベルのエンジニアは想像以上に凄い.本当に凄い.今でも空想上の生き物にしか見えない.)
以上を踏まえて,ここまで興味を持って読んでくれた人は是が非でもシリコンバレーで働くべきである.タイトルは学生だけに限っているが,当然既に日本で社会人としてプログラマとして働いている人も対象である.日本の学生や社会人として会って話してよく聞くのは,もう少し日本で鍛えてから来たいとか,英語ができないからまず英語を勉強してから来たいとかだが,はっきり言って両方とも馬鹿げている.日本で働けば働くほど,世界で働くエンジニアとは差が付くし,当然英語の成長も遅い.自分が働きたい環境にそえるようになってから働くのではまったくもって遅いし効率も悪い.働きたい環境に自分を投げ込んで,自分を成長させるほうが遥かに効率がいいし正しい方法である.目標が人を成長させるのではなく,環境が人を成長させるのだ.折角,大学を出たばっかりの君はまだ優秀なんだから,無為に時間を過ごすのではなく,黙ってシリコンバレーに身を投げ込めば,嫌でも仕事して生きていかないといけないのだから,何でもできるようになる.
僕自身,英語の勉強が大嫌いでアメリカで働きでもしない限り英語を話せるようにならないだろうというふざけた理由でアメリカに来た.当然,最初はろくに意思疎通すらできず,苦労したが,所詮僕らの仕事はプログラミング.何も外に物を売りに行くわけでもない.自分がやらないといけないことさえ分かれば後は黙ってコードを書いておけば最初はなんとかなる.半年も経てば意思疎通はできるようになる.一年も経てば業務上問題無い程度に話せるようになる.
アメリカのCSの学生は普通に卒業してシリコンバレーで働いているのである.シリコンバレーには星の数ほどIT企業が存在して,全くソフトウェアエンジニアは足りていない.そうすると良くも悪くも必要とされるレベルも下がる.率直に言って,こんなレベルでよく採用されたななんて学生がアメリカの大学を出ているというだけで山ほどいるのである.日本でプログラマで待遇のいいところなんて,某検索エンジンの会社とか一部の外資系に限られていて,採用も限られているので,ほとんどの人はああいうソフトウェアエンジニアとしての生き方は優秀なひとにぎりの学生のためにだけ存在すると考えているかも知れないが,それは大きな間違いである.某検索エンジン社は日本では指折りの待遇だと思うが,それでもなおシリコンバレーの給与水準から見ると低いし,何もそんな狭き門をくぐらなくても,十分シリコンバレーでは働いていけるのである.凄く大雑把で主観的な意見だが,君が東大や京大の情報系で上位半分にいるなら,まあ問題なく働けるだろう.プログラミングができない?アメリカのCSの学生も日本と結局は似たようなカリキュラムで勉強しているのだから,心配しなくても彼らも同程度にできない.だいたいプログラミングなんて働いてから勉強しても遅くない.CSの基礎ができているなら,すぐ書けるようになる.むしろ大切な能力は未知のことを学び,物にし,アウトプットするというサイクルがどれだけ速く多くできるかということなのだが,本題から外れるのでここでは話さない.とにかく,敬遠せずにどんどん挑戦して欲しい.ただ,人手不足ではあるものの,基本的にこちらの面接は保守的であるように思え,つまり,この人は確実に役に立つ,やっていけると思った人しかとらないように見える.また,会社によって積極的に採用している時期もあればそうでない時期もある.だから,仮に面接に落ちてもそれは全くもってそこでやっていけないことを意味しないし,実際面接も一定の期間をおいて何度でも挑戦可能であるし,知り合いにも3回目の挑戦で受かった人がいるので,仮に落ちたとしても何度も見なおして挑戦して欲しい.
繰り返しになるが,こんなに楽しく自由な環境で,こんなに高い給料がもらえて,こんなに成長できる環境は世の中のあらゆる仕事を探してもそうはないと思う.せっかく情報系に入ってソフトウェアエンジニアになれるチャンスと資格があるのだから,ぜひそれを活かしてほしい.健闘を祈る.
P.S. 匿名にて投稿してありますが,本文書は僕個人の意見を表明したものであり,所属する或いは所属した組織や団体の意見を表すものではありません.