はてなキーワード: エレクトロニカとは
Elskavonというミュージシャンの「Origins」っていう今年出たアルバムにはビックリした。
元々、ポストクラシカルの人だったようだけど、近年では一転してアンビエントやエレクトロニカに傾倒し、その結晶のような作品で。
よくある、ポストクラシカルの作曲手法や手触りはそのままに、デジタルのエディットを取り入れました、という感じじゃなくて、ソングライティングから音色の選定、サウンドレイヤーの構築まで見事にアンビエント・エレクトロニカ・チルウェイブあたりの典型的な手触りを感じさせてくれる。
全体的に、リバーヴを抑えた初期エレクトロニカの音響と、アンビエントと融合したチルウェイブの音響が混ざったような、一見矛盾するようだけどリバーヴの空間処理をディレイやトレモロでコントロールすることで制御しきったような完璧主義を感じさせる音。
ボカコレ2023夏というドワンゴが主催の音楽イベントで、ルーキーランキングで一位を獲った楽曲の一位褒賞である音ゲーへの楽曲採用が、不明な理由により延期されている。
この楽曲には、その作者が前に投稿していた楽曲も含め、ある一つの音楽ジャンルを継承した特徴がある。作曲者から直接の言及はないが、そのジャンルに与する作品として作られており、それが延期となっている原因ではないかという説がある。
ここでは取り敢えず、近年呼ばれるようになった『界隈曲』という名前で便宜的に呼ぶこととして、ここに覚書を残しておきたい。
10年ほど前に、ある人が一部の楽曲を残し他のすべての作品を削除して引退した。その騒動についてはここに書かない。最終的に四つの作品だけ、一定の条件下であれば転載しても構わないとし、最後に『自分について話をするな』との旨を言い残し姿を消した。関連した業界で今なお仕事をしているのか、それとも完全に手を引いたのかはわからない。
そして、残された四つの作品を転載する条件には、使用されていた素材の規約を守ることといった一般的なものに加えて、「作者の名前を明示しないこと」というものがあった。一般的な引用が名前を明らかにしろというのに対し、その真逆を求めた。
こうした奇妙な結論に至るには、様々な騒動が原因となっている。騒動の経緯は全て割愛する。端的に言えば、氏引退の理由は『解釈に対する敵愾心』とでも呼ぶべきものかもしれない。この文章による言及それ自体が、氏に対しての敬意を欠いている。
氏の作った楽曲群は殆どが消えて、正式に残ったものはたった四曲。それすら名前を出さないようにと請われたのに、氏の願いを聞き届けられないほど良いものであり過ぎたのかもしれない。少なくとも、10年以上の時を経てなお、その歌詞が件の作品に引用される程には。
一般に、音楽のジャンルというものはその先駆者の後追い、リスペクトとも呼ばれる音楽が生まれていくことによって作り上げられるものだと思う。実際に、氏の音楽によく似た楽曲が、インターネットに生まれていった。具体的な楽曲名やアーティストを例示することは、ここでは避ける。例えばノイズミュージック・エレクトロニカであるとか、MVに四角形を種とした幾何学模様やドット絵がリズムやコードなどを示すというような特徴を上げることはできても、その根本的な特徴としての模倣性は、結局のところ、作り手側の意図ではなく聞き手側の意識によって観測される。
『界隈曲』という言葉で今括られている楽曲群には、その系譜を明示している作曲者もいれば、暗黙の了解とばかりに仄めかす作曲者もいる。一切言及していない作曲者もいるし、むしろ否定しているケースまである。
問題があるとするのなら、その『類似性』こそが求められたことだったろう。得てして後追いとなった楽曲群は、特にその当初においては、最初の4曲とよく似ていて、むしろ似せることこそが求められているかのようだった。
時を経て、近年は類似させることも緩やかになっている。しかし、むしろその『類似』であること、氏の系譜であることを求めている、という宗教じみた性質は確固たるものになっていった。
その一つの根拠に、今現在のこれらの楽曲群の呼び名である『界隈曲』という言葉そのものがある。
最初は、ある後追い(とされているが、当人の直接の言及がないため、含めるべきでないという説もある)の作曲者の名前を取って『◯◯◯◯界隈の曲』という枕詞で呼ばれていたことがある。しかし、その後追いの作曲者をして名前を示すことへの疑義はあり、時には氏の名前を取って『XXXXリスペクト(ここのXは最初から伏せ字)の曲』のように呼ばれることもあった。海外では、名前を伏せた最初の四曲に対し(楽曲群のモチーフが全て海産物であることから)「海鲜市场」という名前が付けられたり、一部の後追いの作曲者たちを合わせて「Nameless cult」と呼ばれることもあった。
どうあれ、名前を伏せているせいで、だんだん呼び名それ自体の意味が薄れていくうちに、前の言葉は『例の界隈の』『XXXXの界隈の』と曖昧になり続け、最後にはその頭すら取れてしまった。
呼び名がないことの不自由さに対して求められた名前であっても、『界隈曲』というジャンル名が指すものは、前述した通り端緒となった氏の音楽を起点とした系譜だ。
系譜そのものへの人気は歪なほどに高い。ある作曲者が『界隈曲』とされる楽曲をほんの数曲だけ発表した結果、その数曲だけで、それ以外に投稿してきた楽曲の全ての再生数を足し上げた数の、その数倍以上の再生数を叩き出した。
今回の端緒とした件の楽曲は、その要素を明らかに含めている。それがイベントで一位を獲った最大の理由とは考えないが、一定の役割を果たしていたと思うし、それ自体は悪いことではないと思う。
ただ、氏が引退した理由は最初から何も変わっていない。『自分について話をするな』と言って消えたことに変わりはないのに、それでもなお『界隈曲』という名前で、さも継承してきたことが美しい物語であるかのように語り諂うのは、あまりにも無邪気が過ぎるように思う。
好きな音楽だから聞きたいとして、良い曲であるから肯定するとして、その情報の中に態々『界隈曲』という言葉を組み入れ、その系譜を遡って死人の墓を掘り返し死骸を残骸にし尽くしているのは、作る側ではなく聞く側ではないのかと思ってしまう。その残骸の成れの果てを美しいものだと祭り上げて見せびらかすのは、趣味が悪い気がする。
侮辱してでも聞き足りないほどの音楽だからだと言われれば、返す言葉なんて無いかもしれない。
けれど、無邪気に語るのは嫌だなと思ってしまっている。
Kraftwerk「Trans Europe Express」1977
https://music.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_mkw5lnHV_WtzF65IfSBTHqHcj_bvqiBU0
エレクトロニカというジャンルの誕生を世界に知らしめた一枚(最も彼らはテクノポップを自称しているが)。LP表の3曲はショーケース。このジャンルがどういうものかを聴く人間の心に刻み込んだ。ハウスからEDM、トランスに発展していくこの分野の基本要素の全てが既に存在していたことに驚愕するだろう。裏面はアルバムのテーマであるヨーロッパ超特急をKraftwerk流の即物的な音の組み合わせで表現した5曲(編成によっては4曲)。表面1曲目と合わせて一つの世界を構成している。
https://music.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_ktJZ2vcVrtDWpV8iTRPRzKvRpceJNzVq8
国産みを表現した太始・創造から饗宴・黎明まで。古事記の世界観を同じフレーズの変奏を繰り返しながら一つの作品として描ききった大作。ニューエイジの一つの偉大な到達点。個人的には「日本」のテーマ曲はこのアルバム。
「クラブ・エレクトロニカ」という音楽ジャンルは、クラブでかかるようなダンスミュージックを指します。エレクトロニカ的な要素が強く、リズムが強く、聴く人を踊らせるような音楽となっています。このジャンルは、様々なスタイルを組み合わせることができるのが特徴です。たとえば、テクノやハウスの要素を取り入れたり、トランスやデトロイト・テクノのような音楽を作ることができます。また、このジャンルは、DJによるプレイや、ライブパフォーマンスで盛り上がることが多いです。多くの人が踊りまわるフロアーで、この音楽が響くと、聴く人を身体を揺らしながら、心地よい疲れ感を楽しむことができます。
現実的にはダンスミュージックに取り入れやすいエレクトロニカ的要素は、グリッチサウンド的なものだろうか。一時期のAoki Takamasaのようなサウンドと、他のダンスミュージックの要素をミックスする… 普通にありそうではある。(多分、エレクトロニカという言葉を広義の意味で、電子音楽全般を指すように解釈しているのだろう)
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
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00 | 143 | 14804 | 103.5 | 47 |
01 | 70 | 9451 | 135.0 | 40.5 |
02 | 69 | 13973 | 202.5 | 73 |
03 | 33 | 6289 | 190.6 | 28 |
04 | 16 | 1809 | 113.1 | 62.5 |
05 | 14 | 659 | 47.1 | 37 |
06 | 36 | 1823 | 50.6 | 31.5 |
07 | 74 | 5508 | 74.4 | 51 |
08 | 68 | 5943 | 87.4 | 47.5 |
09 | 123 | 12617 | 102.6 | 35 |
10 | 219 | 17421 | 79.5 | 42 |
11 | 193 | 18055 | 93.5 | 48 |
12 | 179 | 13671 | 76.4 | 36 |
13 | 141 | 14648 | 103.9 | 26 |
14 | 119 | 6892 | 57.9 | 32 |
15 | 184 | 20802 | 113.1 | 36 |
16 | 276 | 20305 | 73.6 | 24 |
17 | 218 | 13488 | 61.9 | 41 |
18 | 164 | 15050 | 91.8 | 36.5 |
19 | 163 | 11077 | 68.0 | 33 |
20 | 218 | 19264 | 88.4 | 37 |
21 | 173 | 13611 | 78.7 | 35 |
22 | 215 | 24606 | 114.4 | 32 |
23 | 170 | 15354 | 90.3 | 32 |
1日 | 3278 | 297120 | 90.6 | 36 |
ソシャゲガイジ(7), ヒルベルト(8), ガロア(8), shiba(4), EZ(3), ゲムスパ(3), Spark(3), 茶器(3), 相葉(4), エレクトロニカ(3), 死体遺棄(7), 資本(19), 開会式(20), 転売(25), 直近(12), 五輪(82), 無観客(11), 競技(24), 病床(10), 夏休み(13), 感染者数(19), オリンピック(134), 観客(13), アスリート(16), 死者数(10), 重症(26), 選手(39), 打っ(28), 接種(32), 中止(31), ワクチン(75), 感染者(36), スポーツ(29)
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すげえ自分語り。
元々エレクトロニカが好きな人には非常に有名な話で、「この人音楽はめっちゃいいけど人間はそれ以上にカスだな…」というのはコーネリアスについて話せば一度はする話である。
ただ、これまではコーネリアスの曲を聴いてからこの話を知るパターンが多かったので話を知った人がモヤモヤイライラして終わってはいたが、
今回は曲を知らない状態でこの話を知る人が多いのと、何より悪目立ち続きのオリンピック関連ということでもう何重にも炎上のブーストがかかっている。
実はそうでもない。私は小山田圭吾という人間は心底好きではないが音楽は確実に良いと感じている。
そのため、単純に「いい作品を作るけどカスな人」という認知的不協和の塊みたいな概念について話したいだけだ。
この手の話のときに必ず上がるのが「作者と作品は別」という話だ。
これに関しては、私は「理想として別で考えておきたいが、現実として別けることが難しい」というスタンスである。
なぜなら、芸術作品というのは例えばコンセプチュアルアートでもない限り作品そのものを中心として捉えなければならないからだ。
その作品の世界観に内包されるものだけが語りうるもので作品の評価として正当なものであり、
ここで「でもその人過去に人殺してるんですよ」で作品単体の質が下がることはない。
人を殺している人の絵が下手に見えるというのはただのバイアスでしか無く、
これがまかり通り始めると人種や性別によって作品の評価を上げ下げする輩が出始めるからだ。
現実として「気にする」し、そういったエピソードを聞くと「良くなく見える」のだ。
これは我々が人間という生物である以上逃れられない現実である。
人間である限り、感情を無視した論理は全て現実を無視した夢うつつの戯言でしかない。
そこで私がどう考えたかというと、現実だから正とするのではなく、
これを人間の不具合として捉え現実だが正ではない出来事として捉えることで、
「作品が良いのに人間がカスなときに感じる気持ち悪さは人間の機能だが、社会が発展したことで不具合を引き起こす確率が高くなっている」
と考えることにした。
気持ち悪さを反射的に解消するのではなく、分析して理解することでじっくり気持ち悪さを分解して次のダメージを抑えることにしたという感じだ。
何故なら「悪い人が作るものは良くあってはならない」というのはそれはそれで現実逃避だからだ。
現実として、悪人にも正しいことはできるし、被害者やいい人でも間違ったことや悪いことはする。
その人の属性で行動の善悪が決定すると考えたり、気持ち悪いからという理由で無いことにしてしまうのははあまりにもルサンチマンをこじらせすぎている。
私は小山田圭吾の作品がメチャクチャ好きだが同時に彼という人間は全く好きではなく、
いつか本気の後悔と報いを受けてほしいな~とは思っていた。
なぜなら私はそもそもいじめ被害者であったためだ。そのため、高校のときにこのエピソードを知って大変狼狽したものである。
願わくば人生に覆しようのない瑕疵がつき、その傷跡を残りの人生で眺め続ける羽目になりますようにと…。
しかし、改心までは願うべくもないが、今回は最大級の規模でそれが叶って多少溜飲が下がり、いつもより気持ちよくコーネリアスを聴けている。
Residence of soul(saito hiroto RASETSU2)
自分は音楽について専門的な知識が無いし楽器もできないので難しい話は書けないんだけど
J-POP は最終的に「アイドル」か「シンガロング」に集約されると思ってる。
「アイドル」要素については顔とプロデュース力が全ての世界なので音楽的な視点で語ることはない。
もう一つのシンガロングは英語だと Sing a long になるのかな?「みんなで一緒に歌う」という意味のシンガロングのこと。
誰でも音楽を聴くと気分が高揚したりすると思うんだけど日本人は「シンガロング」するのが好きな人が多い。
だからメロディ重視で曲に展開があって一番の盛り上がり所のサビが必要になる。サビをみんなで大声で歌う。
一方、欧米の音楽シーンの中心はR&B(含むHipHop)とクラブミュージック(エレクトロニカ)になっている。
この2つは真逆の方向に見えて実はルーツは同じリズム重視の音楽で「歌う」よりも「身体を動かす」作りになっていると感じる。
(誰かが「も一度James Brownから聴け」って言ってたよね)
「歌う音楽」と「踊る音楽」の違いと言ってもいいと思う。ここが決定的に異なる。
文化の違いと言えばそれまでなんだけどこれを変えない限り世界に受け入れられるJ-POPは絶対に生まれない。
という感じのことを昔からずーっと前から考えていたんだけど数年前にEDMが世界でも日本でも流行ってさらにこの思いを強くした。
自分はEDMのことを「エレクトロニカ界のJ-POP」と呼んでるんだけど、EDMは曲の構成がJ-POPにかなり似ている。
メロディがあって曲の展開があってビルドアップで気分を上げてドロップで爆発する。まんまJ-POPの構成と同じ。
当方今年三十路。GLAYファンの姉と米米CLUBファンの母の影響で小さい頃から流行りのJ-POPをよく聞いてた。初めて買ってもらったCDは小沢健二「痛快ウキウキ通り」。
高校からバンド始めて、大学生時代は完全に拗らせてしまって、ポストロック〜エレクトロニカからニッチな沼にはまってノイズもミニマルテクノも現代音楽も、聞いたことのない音を探すのが大好きだった。
で、ここ近年の日本のインディシーンのシティポップリバイバルの波にはガッツリ便乗して楽しませてもらったし、洋楽のトレンド追うのも楽しんでたけど、ど真ん中の邦楽シーンは面白くないなぁ(正しくはいくらいい曲でも素直に受け入れたくないっていう拗らせの名残)って思ってた。
あいみょんも最初名前だけ見たときは「はぁ?」って感じだったし、『マリーゴールド』が話題になったときに友人と車中で聞いてみたんだけど「イントロのギターリフの歪ませ具合がまんまマイラバの『Hello,Again』と一緒じゃんwwえ、そこ参照するのww」とか話し合ってたわけ。紅白すごいねー(同じ関西人として)ぐらいだったわけ。
それがさ。
少し前にメンタルやっちゃって今も療養中なんだけど、鬱やらかすと感情の起伏がやべぇんだよね。調子いい時もふとした拍子にアップダウンのスイッチが入っちゃって。
特に(ほんとはダメだけど)アルコール入るとエモさの幅が今まで有り得んかったくらいグワングワンになるわけ。
そんな状態である夜たまたまYouTubeで『マリーゴールド』改めて聞いて、もう信じられないくらい泣いちゃったんだよ。もうBメロ終わりからサビ直前の展開でブワーーーって涙出てきて。
ヤベェ。脳の中で「虚構の青春回想モード」入った。こんな恋愛してねぇのに。マジ涙止まらんってなって。
多分音楽演奏する側に立った人なら分かると思うんだけど、一旦そっちの視点獲得しちゃうと、音楽を基本的にまず演者視点で見ちゃうと思う。
ポップスなら歌詞の展開とコード進行の関係とか、各パート毎の音の質感とか。
そうやって分解してみると、『マリーゴールド』ってマジでクリシェの塊なわけ。
先述の通りギターリフはマイラバだし、ギターロックの系譜を汲んだ90年代邦楽のバンド編成だし、コードも一聴してメジャーコードとマイナーコードだけで構成された一切気を衒わないド直球だし、歌詞は瑞々しい恋愛を歌ったこれまたド真ん中ストレート。
要素の集合として楽曲を見れば「クサすぎる」わけ。邦楽業界が一番潤ってた頃のど真ん中ポップス。ミスチルやスピッツみたいな。何番煎じなんだよって。
いわば拗らせ音楽オタクとしては「絶対こんなんで心揺り動かされてたまるかよ〜!!!!」って反射的に思っちゃうのね(でも拗らせてるからoasisは何度も聞いてその度拳を突き上げたりするんだけど)
なのにさぁ。
もう、ヤバイわけ。あああああーー音楽ヤベェよなんなんこんなベタな曲なのに新しい曲として生まれ変わった途端こんな心動かされるかよ。最高かよってただひたすら思いながらやっぱサビ来るたび号泣。
あえて理由を付けるなら、流行りが一周して90年代の邦楽が参照元として確立されたんだろうなぁってのは思う。周りに聞いてみても「懐かしい感じがする、これってどの世代が聞いても多分イケる音楽だよね」って反応が大多数。
でもぶっちゃけそんなんどうでもいいなー。ただただ新しい曲聞いて感動するってのがポピュラー音楽の一番素晴らしい部分だわなぁ。
またあいみょんの声が絶妙なんだよな。あれはほんとギフト、個人の資質だわ。
あと完全に余談だけど、Official髭男dismが流行ってるのもめっちゃ嬉しい。
個人的にはシングル曲のBメロがすげー黒いのね。オールドスタイルのR&Bや、それに影響された洋楽の美味しい部分を使ってる。で、サビがひたすらキャッチーだから繰り返し聞いちゃうのよね。今年どっちも紅白出ないかなぁ…。
どこでもいいから書きたかった。何か残るところにと、考えもせず書き殴っている。保険をかけておくと、文章を書くなんて何年もしていないししかも最後に書いたのは必死こいてやった卒論だ。私的で深夜テンションで酒も入っているしちょっと無気力な気分だし句読点は正直苦手だからきっと中々入ってこないけれど、それでも書きたかったのだ。そして文章の癖として自分に酔っているような文になる。よし、ここら辺でいいだろう。
今日は久しぶりに昔の曲を引っ張り出して聴いていた。ごちゃまぜのプレイリストから昔に聞いた曲が流れ、青春のようなものを思い起こしては消えてしまいたい欲に駆られていた。ああ好きだったなと曲を聴いては曲名とアーティスト名を検索してもいた。そのなかに、約3年前に亡くなった人がいた。
情報には疎いほうなので当時死んだということを知るのに時間がかかったが何ヶ月経っても新曲の情報が流れてこなかったり急激にカバーが多くなったりとうすうすは感じていたのだと思う。ああ、死んだのか。死ぬということにあまり感情が動かない、というよりその他諸々の感情も中々動かないのだが、実際その程度だった。皆が悲しんでいるのを見て、ああ人が死んだら悲しむのが正解なのかと葬式に参加しなければならないときはいつも感じていたしその時もそう感じていたのだと思う、多分。よく覚えていないや。酒を追加する。
そして今日、ツイッターで名前を検索してみたら多くの人が悲しんでいてさようならとありがとうが溢れていた。各々故人を悼んでいるのだろう、絵や歌詞が呟かれRTやいいねが沢山ついていた。一番多い言葉は「大好きでした」だ。本人最後のツイには多くのリプが来ていたが、今年のものは少なかった。死んだことを忘れたのか、それが日常になったのか。プロフィール画面から遡っていくと、確かにそこに存在し生きていた。
インターネットを検索すると、様々な情報がわかる。その信憑性はまちまちだが話半分で聞いているぶんには面白く、そして時々胸を穿つものが現れる。目を引いたのは「大人になりたくなかったのですね、だから大人になる前にと」
大人になりたくなかった、だから死んだのか。その真偽はどうでもいい。その文が目に入ったとき考えたのは「置いていかれた」だった。
実際には置いていかれるほどこんな一個人ましてやちょっとファンであったやつのことを置いていったとも思ってはいないだろう。ただ単に、大人になりたくなかった自分が絶望しただけだ。
何が言いたいのかわからない。まってろ酒を追加する。
言えるのは、それでちょっと悲しくなって自分は何をしているんだろうとこんなのうのうと死んでいないだけで食料を無駄にして電気を無駄にして物語を終わらせたくないからとゲームを積んでエンディングを見ず作り手の意思を反故にしてまた新しいゲームを買っては通帳の数値を気にして積んで自分が死んだらこの数字は銀行に吸収されるのだろうなとか中学生の時に親に自分の好きな曲を否定されたことを思い出して好きなことを話題に出しては否定されるか変にプレッシャーをかけてきては自分が間違っている気になってしまって親に好きなことについて話すこともなくなって文章を褒めてくれた教授は40も下の男にも女にもなりたくなかったあの子を性的対象と見ていたことを卒業してから言外に伝えることに成功したただの勘違い人間だったし中学生の時友人とみていいのか分からなかった人をフィクションとして書いてどうしてそんなことするのと失望されてひとりになって成人してもなお好きなことや煙草を吸っていることすら周りの人間に秘密にして死にたいという願いを込めて書いた文章は生きたがっているようにみえると言われ学年が上がることに不安になって受験も就職も推薦やらなんやらで周りの大人がなんとかしてくれて本当に自分は資源を無駄にするだけの人間なんだと、改めて思ったということだ。
希望を持ったこともある。二十歳になる前に死ぬと天啓のように思っていて近づくにつれて身辺整理というものをしてみたしどんどん清々しい気分にもなっていたが、後に残ったのは妙に片付かれた部屋と成長しきれない心だけだった。
死にたかった。誰の記憶にも残りたくなかった。でも自殺する勇気も行動力もなくて生命保険のこととか考えてしまって結局布団の中で静かに首に手を当て某児童書の「死ぬとは長い一日の終わりに眠りにつくようなものだ」という言葉に望みを抱いて朝が来ないように祈りながら眠りにつくしかなかった。そして結局ハッピーエンドの物語のように朝は来る。
夢の中では知らない誰かが何度も殺しに来てくれて血の流れる感触を覚えているのにそのまま眠りにつくことすら許されず眩しさに目を開けるしかないのだ。
最悪だ。
いっそ死ぬような病気だったのならと何度考えたことか。きっと物語のように生きたいと願いながら死ぬことができるのだろう。それが羨ましくて仕方がない。社会不適合者であるという点を除いては全くの健康体であるのがもったいない。もったいないおばけがでるぞ。
そうだ、この際気に入っているものを全て言ってしまおう。今は酒の力で無敵である。
ありとあらゆるものが好きだ。人間の感情にぶれぶれな所が好きだ。腐が好きだ。百合も好きだ。じれったいのも好きだし万人と同じくエロも好きだ。あれは感情の振れ幅が大きくて理解しやすい。推理小説は昔から好きだし切なく終わるものも好きだ。つまりメリバというやつだな。バッドエンドだって好きだし魔法学校の物語も好きだしジャンプも好きだ。悪魔や妖怪が出てくるものもすきだ。転生しちゃったりトリップも好きだ。アイドルや魔法少女もしゃべるぬいぐるみだってゴミを固め続けるロボットだってすきだ。国も刀も艦隊も人造人間もヒーローも好きだしグロも好きだ。Rー20なんて足りないくらいだし食人だって好きだ。いいぞ、もっとやれ状態である。ギャグも日常系もそれに人外も好きだ。異形頭は一等気に入っているし一つ目も多目も分け隔てなくすきだ。それにケモナーでもあると言っていい。ベースがきいているものが好きだ。前にしていた部活の影響か裏打ちが好きだ。ジャズもクラシックもすきだ。エレクトロニカも好きだしポップもきく。ボカロは青春と言ってもいいし洋楽は夢の塊だった。歌舞伎も能も好きだ。落語の入り込む時が一等好きだしミュージカルも好きだ。舞台に立つ喜びも知っているからか演劇も好きだ。格闘ゲームはゲーセンでもやるくらい好きだし音ゲーもゲーセンでやるくらい好きだ。パズルゲームも好きだし脱出ゲームなんてやり続けてるしRPGも好きだ。その影響かTRPGも好きだしものを作るゲームも好きだ。ほかにももっともっと好きだと言えなかったものが沢山ある。
つまり、何でも好きなのだ。何でも好きと言うことは何も好きではないことと同義だと考えてしまう。そして、何も好きなことがないということと同じなのだ。
お酒を追加したい。
あのアーティストでさえ死んだことが死んでいると言うことが日常になる日がくる。日々は誰かが死んで出来ている。乗り越えるとかそういうことじゃない、ただそうであるということを受け入れて日々を浪費していくしかない。他人を完全に理解することは難しいしきっと一生無理なことは分かっているが、それでも親に「ちょっとぽっちゃりしたね」と言われて密かに筋トレを始めるような自分とはおさらばしたいし、何か誇れるものがあれば死にたいと思うことは少なくなるのではと少し希望を持ってはいる。大人になんてなりたくなかったけれど過去に戻りたいかと言われれば戻りたくない。温室のような過去に戻りたくはないが砂漠に雪を降らすことも出来ないので、きっと死神の目には見えている寿命を全うするしかない。
3年前に亡くなったアーティストの曲を聴いて勝手に悲しくなってその感情をどうすることもできずにただ書き殴るしかできない酔っ払いの今までを消化できるようお祈りし、悼辞の言葉と代えさせていただきます。おーい!誰もおまえのことなんて覚えていないし考えてもいないからお前が死んでもただ数値が1減るだけだぞー!じゃあな。
体験型なのと、光を意識したキラキラ系のテクスチャが多くて、これならどこかのゲーム製作会社に依頼しても資金があればアミューズメント施設を作れそうな気がする。
韓国も中国も日本もタイも、その他の国も、東アジアは、なんというか、審美眼が弱いというか、本物じゃないものを本物のように持ち上げたりしてて、痛々しい。TED×Tokyoみたいな感じ。新しい本物は作れなかったけど、みんなまだ見たことないものを作って、自分たちで自分たちを褒めておしまい。
俺はこれらの問題は結局、JKとチャラ男が悪いんじゃないかと思っている。「理系キモw」とか「うわダッサw」とか刹那的な生き方しかしてないから芯の通った文化が育たないんだよ。
もっと、やくしまるえつことかにも興味もってよ。アルスエレクトロニカも受賞してるし。クソッ、なんで学校で美術や国語の授業は重要視されないんだ。敗戦で染み付いた負け癖がそうさせてんのか?
作れないだけでしょ
そもそもが、「新しいことやるならポップスとかやるな」「そんなんなら滅びろ」という趣旨なのに
横に逸れすぎ
今はポストクラシカルとかネオクラシカルって言って、もっとカジュアルにクラシックを楽しむムードが出来上がっている
Esmerine - Histories Repeating as 1000 Hearts Mend Colombe Sessions
https://www.youtube.com/watch?v=OYlDQttoTLY
アンビエントやエレクトロニカ、ポストロックを経て、クラシックの楽器の美しさを引き立てる
Ólafur Arnalds - Only The Winds
https://www.youtube.com/watch?v=9eWewdTkghM
だからサントラ界の巨人Hans Zimmerなんかもこのくくりに入ることがある
Hans Zimmer - Time (Inception)
https://www.youtube.com/watch?v=RxabLA7UQ9k
もちろん、今の(海外の)ゲーム音楽もクラシックが現代音楽や映画サントラを経て進化した形と言える
メディアアートは終わったんだ。かつてメディアアートは一部の者にしか作れなかった。コンピュータ自体が高かったし技術は限られた人しか持てないものだった。それが今やどうだ。ツールは進化し技術もArduinoやラズパイなどで大衆化され誰でもメディアアートのようなものを作ることができるようになった。技術で差別化していたアートはコンセプトで勝負するようになった。でもコンセプチャルなアートなど基本的にはオナニーだ。チームラボを見てみろ。難解そうな単語を繋ぎ合わせてタイトルや説明文にしている。何が言いたいのかさっぱり分からない。作ってる本人達も何が言いたいのか分かってないだろう。アルスエレクトロニカはサザエbotを祭った。現在のメディアアートに必要なのはコネと話題性のみになった。メディアアートは終わったんだ。
タイルの目地を狂ったようにタワシで磨く行為を1時間程続けていたのだ。汗が眼に入った。脇から流れた汗がTシャツを通って腰に伝った。今日はよく晴れていて、風呂の窓からは蝉の声がシャーシャー聴こえてきた。頭の位置を変えたら酷い立ちくらみがして、大きく長い息を吐いた。
普段まったく家事をしない。必要に迫られないとしない。そして「必要に迫られている」と感じるのが人よりだいぶ遅いようで、自分でも呆れる位、家事をしない。
今日、年に何度か訪れるこのうっかりゾーンの最中、あることを思い出した。
同居人は家事全般、とりわけ料理が得意だった。事情があって一緒に暮らしはじめ、事情があって家事はあまり分担せず同居人が一手に引き受けていた。家事が好きだから、好きな方がやればいいじゃない、と同居人はよく言った。色んな事情があったので、バランスを取るために自然とそうしていたのだと今では思っている。そして実際うまく機能していたと思う。
それでもたまに、何から何まで申し訳ないなと思うことがさすがにあった。そんなときは今日のように風呂のタイルの目地を磨いたりしていた。家事が苦手な人の特徴なのか、自分の特徴なのかは知らないが、いったんやり始めると今日のようにうっかりゾーンに入る。一時間や二時間、平気でタイルを磨いていた。
そんな時よく同居人が背中から声をかけてきた。「お茶のみませんか」「居酒屋さんごっこしませんか(揚げ物とビールを準備しているとき)」「お蕎麦屋さんごっこしませんか(日本酒と卵焼き、板わさを準備しているとき)」。
背中から鬼気迫るものを感じていたのだろう。無理にとは言いませんけど、区切りませんか、そんなニュアンスだった。そんな時はたいていハッと引き戻されて「するする」と犬のように尻尾を振ってタワシを投げ出して、いい匂いを嗅ぎながらタオルで濡れた身体を拭いた。
今日、タイル磨きをやめるタイミングを掴み損ねて、立ちくらみを味わいながらそんなことを思い出した。
かつての同居人とは、何故かあるタイミングでお互いの事情が一致して暮らし始めた。
性行為は付かず離れずしていたが、恋人ではなかった。友だちとも違った。同じ家で暮らして、一緒に起きて、一緒に食べて、一緒に眠る人だった。子供ができたらいいね、と年に何度か言い合うことがあった。動物として自然の流れでそうなったらいいね、という意味だ。自分も同居人も、お互いについての感情は「たまたま一緒の檻になったライオン」のような温度だった。
恋愛感情が無かったわけではなくて、持っていた頃も多分あった。お互いそうだと思う。ただいろんな事情や理由があって、結婚は選択肢に入らなかった。それぞれが別の異性と遊んだりすることもあった。「浮気してくる」「異性と交遊してくる」と言って出かけることもお互いあった。気をつけてね。何時に帰るの。お互い自分自身をそんなに素晴らしい人間だと思っていない同士、そんな生活に不満は無かった。一緒に暮らし続けた。
もちろん人間の感情はそんなに陶器のようにツルンとしてないようで、色んな諍いはあった。お互い思った事を口に出す人間では無かったので(悲しいことだと今では思う)、喧嘩にはならなかった。言い争いの代わりに、子どもや猫のような抗議をお互いよくした。突然夜中に居なくなったり、家に帰らなかったり、メールに返信せずに心配させたり、寝たふりをして返事をしなかったり、料理をしなかったり、料理を食べなかったり。そんな小さいギザギザは数ヶ月に一度あった。それでも同居人とは同じ檻同士、基本的に信頼しあっていた。お互い求められた通りの心配をした。夜中の公園を真冬に探し回ったり、帰ったら好きなお酒や料理や音楽が準備されていたり、心にもない優しい言葉をかけたりした。どうせ仲直りするのはお互い分かっていた。早くしたいとお互い思っていたのだ。諍いに限らずあらゆる事が、始まり方は子どもでも終わり方は大人だったと思う。
一緒に暮らしてから色んな事が変わった。そして、これは自分にとって驚くべきことなのだが、色んな事を学んだ。
まず、健康になった。皮膚や髪の毛の質、睡眠の質が変化した。これは食事がガラッと変わったので当たり前なのかも知れないが、自分には驚くべき事だった。風邪を引いたり、一日寝て過ごす事も減った。同居人が酒好きだったので、自然と自分の飲む量は減った。酔っ払いが二匹居ては収集がつかないと思ったためだ。伴って体重も減った。
趣味の世界や物事の視野も広がった。同居人にとって当たり前のことは、初めて知る事ばかりだった。色んなモノが世の中にはあること、それぞれの用途のこと。野菜ジュースは野菜の代替にならないこと。直火と炭火焼きの違いのこと。季節の食べ物のこと。いろんなお酒が世の中にあること。いろんな方言のこと。悲しいときは運動をするといいこと。泣きながらご飯を食べられないこと。スーパーで鮮魚を買うと捌いてくれること。沖縄と本州で畳のサイズが違うということ。島の暮らしのこと。革製品の手入れのこと。
そして、自分にとって当たり前のことにも興味を示された。テクノやエレクトロニカのこと。色んな漫画や本のこと。映画や芝居のこと。旅行や海外のこと。色んな動物のこと。身体の変化のこと。変な服のブランドのこと。仏教とイスラム教とヒンズー教のこと。お互いの好きな物を教え合ううちに教えられた方が詳しくなって、それが原因で諍いになることもあった。ばかっぽい。村上龍やキャンプについてはそうだった。だいたい土日の昼間に料理を作っている同居人の周りをチョロチョロしながら様々な話をした。自分がこんなに話をする人間である事や、甘えたがる人間である事、そして人間に救われる人間である事。ある業界の仕事をしていた時期から、人間を信頼することは自分とあまり関わりがないと思っていた自分にとって、これは大きな発見であり変化であった。アルキメデスが浮力を発見した事に次いで偉大な功績だった。ユリイカ!
そんな暮らしの中であっても、人間は変化する生き物なのだった。自分にも、変化のスピードに生活を合わせたいと思う時期が訪れた。それで、同居はやめた。自分が変化したのは同居人との暮らしのお陰だった。それはとても辛かった。それでも、時間が経った今はあの決断をした自分は偉かったと思う。偉大な功績だ。ユリイカはユリイカとして、正しいかは死ぬ時まで解らない。
多分ここまで読んで、同居人との関係性について嫌悪感を示す人もいるだろうと思う。我々は少しネジの緩んだ同士だった。誰にも理解されないような、子ども同士の暮らしみたいな生活が好きだったのだ。毎日親がいない家みたいだった。ヘンゼルとグレーテルのようだった。一般的に理解できないものを受け入れることが、わりあい得意な人間同士だったんだろうと思う。人間は変化するので、多分いま暮らしても同じふうにはならない。でも、かつての同居人は今でも家族のような感じがする。かつての同居人もそう思っている気がする。うまい言葉が見当たらないが、belongしあっているという感じ。今でもたまに顔を合わすと、たまに会う親戚のような顔をされる。元気にしてるの、ごはん食べてるの、ちゃんと洗濯してるの。言葉にはしないけれど眼から発信されてくる。
先日、会社の女性に「彼氏と同棲しようかなって話してるんです」と言われた。相談ではなく背中を押して欲しいだけなんだと表情から伝わった。なので、「同居はいいよ」と無責任なことを言った。こいつの責任を持つ筋合いはない。「同居はいいよぉ、まいンち、楽しいことしかないよ」。
家族になるっていいよ。
同居をやめたのは、今日みたいな夏の暑い日だった。突然ひとりにした。突然ひとりになった。「素直に言ってくれてありがとう」という言葉。「がんばったね」。依存しあうものが無くなったあの開放感と、途方もない悲しさ。同居人が見えなくなるまで距離を取ってから階段でめちゃくちゃに泣いた。部屋に入るまでもたなかった。汗と涙と鼻水がごちゃごちゃになった。蝉の声がシャーシャー聴こえてきた。鼻の奥がずっとツーンとして、酸欠になって頭がくらくらした。一人にしないで一人にしないでと布団の中で喚いた。相手のほうが思っていただろうと思う。だから相手には言えなかった。血縁上の家族以上に大切だった。人工の家族だった。相手が可哀想だから、という感情は共依存だと知っていた。お互いの変化を阻害すると知っていた。だから行動に移した。自分のために手放した。相手を理由にするのは相手を一番傷つけると知っていた。対等な人間関係でありたいと願う、自分に残った唯一の正義だった。
何を見ても同居人を連想する日々が続いた。何をしても楽しくなかった。食事の質が落ちたせいで体調も変わった。それでも不思議と、死んでしまいたいとは思わなかった。悲しい事に集中すると、他の事に集中しすぎずに済んだ。なんていうか色々捗った。ロボットのように仕事や食事や人付き合いをこなした。こんな辛いことを乗り越えたのだから、何があっても生きていけるだろうと、直感で理解した。悲しいときは運動をした。泣きそうになったらご飯を食べた。あれからだいぶ時間が経った。何かを見て同居人を思い出すことは、今では殆ど無くなった。
人間の記憶はすべて熱量だと思っている。同居をやめてから、変化に対応していくなかで、たくさんの記憶の熱量をエネルギーに変換して生きてきた。変換したら消えていく。記録と事実は残るが、涙が出るような、胸が痛むような熱量は、失ったら二度と戻らない。
あらゆる事について、もう少し若い頃はこの「失っていく感覚」「燃えていく感覚」を怖いと思っていた。なるべく残したくて、よくテキストにしていた。いつからかそんな執着は無くなり「燃えているな」「もう二度と会えないんだな」とまっすぐに見つめるようになった。何かを決断した自分が得た変化の一つだ。燃えたエネルギーを、これから別のなにかに注ぐ事。もう二度と出会えない分だけ、新しい事が入る余地が出来るんだろう。望むと望まざるに関わらずだ。
もう思い出す種火が少なくなっているのかもしれない。タワシを洗いながらそう感じた。消える前の焚き火を思い浮かべた。少しくらい残したっていいだろう。それくらい愛していた。自信をくれたのだ。自分で作った人工の家族の思い出の事。嘘は一つも書いていないが、自分と同居人の性別や年齢や重要なことは書かない。