はてなキーワード: 考察とは
http://www.tm2501.com/entry/2016/06/11/192000
https://twitter.com/tm2501/status/741700789794574337
データベースという言葉の意味を分かって使っているのだろうか。
はてな村のアクティブユーザー数を考えてみれば、各ゾーン50人程度は抽出しないとデータベースとして機能しないのではないだろうか。
読者登録数は客観的な事実であるが、人格の考察に関しては青二才の主観でしかない。
そもそも抽出しているブログが青二才の巡回先?であるだけで主観に偏りすぎている。
「飯をおごりたくなる」?
「カリスマ性がある」?
「読んで役に立つ」?
頭がおかしい。
https://kakuyomu.jp/works/4852201425154963487
先に断っておくことですが、自分が読んだのは
時候の挨拶とか書けないのでさっさと始めてガンガン褒めていきます。
どの作品を取っても、舞台は現代日本をベースにしています。それを大きくプッシュするつもりはありませんが、わかりやすいことは良いことです。
しかしあくまでそれは「ベース」です。例えば「疾風怒濤商店街」、このタイトルでありながらメインテーマは「ドラゴン討伐」。商店街がある世界にドラゴンなんか来るのか。ドラゴンが居る世界に商店街なんてもんがあるのか。つまり、現代日本ひいては地球に「みんな知ってるファンタジー」が融合する世界観です。「消防庁から派遣される聖騎士団」とか「勇者になるため日々鍛錬している女子高生」とか、そんなんワクワクしちゃうだろうがー!!!
とにかく、そういった要素が、上記作品の中では常識なことが多いです。現実世界の私達が「ユニコーン?は?ごめん何言ってんの?ゲーム?」なのに対し、作品世界では「ユニコーンっすか、うおー珍しい」みたいな感じです。現代日本を舞台にするからには、私達の生活イメージを壊さないレベルで、ファンタジー要素が点在しています。この距離感は素晴らしいと言えます。
バカです。
その、「キャラクターについて一項目設けよう」と考えた時に、当然色々なキャラクターが浮かび、その色々な魅力を語ろうとしたのですが、それらを総括してタイトルに据えられたのがこれでした。ほんとバカ。
バカバカ言っていますが、それもまた良いことです。というか【ロケット商会】さんは意図的に登場人物をバカであることにしています。なぜなら、キャラクター性におけるバカさとは、カワイイことと直結するからです。
また付け加えるならば、上記作品群におけるキャラクターは、どちらかと言うとチンピラめいた性格であることが多いです。考える能力が無いタイプのバカというより、全うな教育を受けていないタイプのバカです。いわゆる「育ちが悪い」人達。こうしたバカな人物達は、純粋で、無鉄砲で、欲望に正直で、あまり面倒なことを考えません。この性質は、読者には読みやすさとキャラクター(=作品)への愛着を与え、作者にも展開の妥当性や派手さ、スピード感を与えるものとして、大きな効果を担っています。
ちなみにですが、当然ながら(比較的)に賢いキャラ付けな人物も登場します。しかしこの作品群におけるバカの方々は頭脳がバカなのではなく性格がバカなので、マリファナに依存していたり、一人の時間にカッコつけた仕草を練習したり(※推定)しています。もう全員カワイイで良いですね。
そしてアツい要素として、バトルの描写も欠かせません。「勇者のクズ」に至ってはジャンル名「現代アクション」を冠しておりますから、大変重要なポイントです。 しかしながら、この見出し文に違和感はおありでしょうか。「超クレバー」て。「賢い」とか「利口」とかそういう言葉やぞ。お前さっきまで登場人物をバカバカ言うとったんちゃうんかと。・・・なんでですかね。(投げた)
説明に入りますが、各作品内での戦闘描写は主に白兵戦です。少なくとも主人公は剣を使います。現代日本においてそれをやる理由付けみたいなものは当然あり、かつ納得できる内容になっていますが、自分は「まあ目的ありきでいいじゃんそういうのは」とか言っちゃうタイプなのでここでは特に書くつもりはありません。
とにかくは近接で刀剣で緊迫で刹那なバトルです。当然のことを言いますが、そういった場面での決着というのは常に一瞬です。極端な例で言えば、その一瞬に向け、時には剣戟さえしません。駆け込む所から、相手の迎撃を予測し、いなし、隙を作り、一撃。実際にはそれぞれの動作と応酬には動機も含めたもう少し微細な描写が盛り込まれ、その一瞬の妥当性を裏付けます。それは読みやすい上で、とにかくカッコいいの一言に尽きます。実際に、読んでる最中何度も濡れました。嘘です。
ここまでで「スッキリ超クレバー」の「スッキリ」です。マジで言ってます。
その一瞬へ辿り着くために、キャラクター達は考察を重ねています。特に各作品の主人公がそうで、目的のために静かに動くことが出来るタイプです。(あるいは舞台の状況が彼らをそうさせます)
いかに相手の不意を突くか。いかに相手の弱点に剣をブチ込むか。いかに散乱した戦場で安全を確保するか。読者が知らない方法で、手順を踏んで、その瞬間に出来ることを選択していく。時に防がれ、上手くいき、そのそれぞれが論理的で、心地よく納得した感覚で読み進むことが出来ます。(実在するかは知りませんが)現実の技術や武術になぞらえた表現での解説も入ることがあり、その側面からも地に足の着いた戦闘描写を感じられます。
ぶっちゃけ具体例については読んでください。
曖昧なことを言いますが、文字でしか表現できない文章の世界で、「存在の雰囲気」を表すのはまずその名前です。固有名詞に、センスが輝いています。この意味では、作中で名前くらいしか出てこない存在だとか、そういうものに対して威力を発揮します。
《新桜庭ゴブリンズ》・・・疾風怒濤商店街。主人公所属の草野球チーム。メンバーの半分は口癖が「クソが」「殺す」みたいな人達。ちなみに作中に「ゴブリン」という単語はこれ以外に出てきません。
《細川まる子》・・・疾風怒濤商店街。もしかしたら《まる美》かもしれない。舞台の市長の娘。基本的にお邪魔系のキャラ。リクルートスーツが似合いそうな高圧的アホ。
《琥珀の茨》卿・・・・勇者のクズ。魔王の一人。ヤク中気味で脆さがある。自分の能力が名前に現れている。
《嵐の柩》卿・・・勇者のクズ。魔王の一人。《琥珀の茨》さんよりかなり格上。《琥珀の茨》さんみたいな単純な命名ではない。(※作中で名前について語られた事がある訳ではありません)
《七つのメダリオン》・・・勇者のクズ。作中で主人公達がハマっているカードゲーム。ルールについては全く言及されない。よくわからんカッコ良さと、なんか深そうなゲームっぽいぞというのが多分に感じられるネーミング。
・・・とかとかとか。これはまあ、かなり自分の主観が入っていると思います。どちらにしても、ネーミングに限らず、場面と作品世界の雰囲気作りに余念がないということです。意識してもしなくても、ガンガン入ってくる要素ですので、すぐに楽しめます。
少なめ(に感じる)容姿描写、とでも言ったほうが正しいかもしれません。読んだ後の感覚としてなのですが、「描写量の割にイメージが沸く」「しかも他の人の描いたファンアートが俺の思ってたのと近い」ということがありました。描写の費用対効果が高いとでも言っていいかもしれません。
当然ですが、そういった描写というのは言わば説明パートで、読みやすさのハードルを上げる側面があります。これが費用です。恐らく【ロケット商会】さんはそれを操り、物語冒頭で登場するヒロインくらいにしか、一度で詳細な描写をしていません。他のキャラクターに関しては、上記の命名や行動により醸し出す雰囲気、シーン毎のちょっとした追加情報でイメージを構成させ、大きな効果を生んでいます。
また憎いことに、主人公に関しては一切の描写をしません。だいたい性別くらいしかわかりません。年齢さえ、
「高卒らしくて、二十歳はいってるっぽい」「高校生だけど学年がわからない」「もしかして三十行ってる・・・? 無いか」といった有様です。(3作品各主人公)
ただし性格に関してはしつこい程に読み取れるので、読み手たる我々は都合よくニヤニヤすればよいものと思います。
■
・・・ふう、これくらいにしておいてやるぜ・・・(書き慣れない文字を連ねすぎた)
ええと、長々と書いておいて最後に言うセコい手法なのですが、正直な所自分は普段ほとんど小説を読まず、評価のポイントなどというものはまったくわからん身であります。他作品と比較して~なんてことは到底出来ない程度の経験です。なので、おそらくめちゃくちゃ普通で当然のことを並べてるんだろうなあ、という自覚を感じながら書いておりました。
それでも、久しぶりに小説というものを読んで「やべーなにこれ楽しい」ってなったので格好をつけました。というか、「勇者のクズ全部読んじゃったよおおおお」って言ってたら「何らかの感想行為をしたりしたらもしかしたらロケットさんのモチベが上がるかもしれんぞい」って言われたのでなんか表現しようとしてこうなりました。はい。もっと私に続きを読ませてぇ!!
エンターテイメントがしぬかもしれないはなしの続き。
前回は2000年〜2010年あたりのアイドル、ジャニーズ、お笑いのジャンルでなにが起こっていたのかということをさらっと(わたしの十代の記憶と共に)振り返った
では現在虫の息である若手俳優の世界でなにが起こっていたのかということも一応書き記しておく
まさに2.5次元ミュージカルの王様(なぜ若手俳優の舞台はつまらなく、客席が埋まらないのかおたくが真剣に考えてみたブログ参照)であるテニミュが初めて上演されたのは2003年のことである
当時の話はパイセンたちからのお話でしか聞いたことがないけれど、はじめは客席が埋まらないのでキメ様のライブをおわりにやったりして、キメ様のおたくとかでがんばって埋めていたらしい
ちなみにみんな大好き氷帝学園、いまをときめく斎藤工が出演していた氷帝公演が行われたのは、2005年の話であるから、テニミュ(若手俳優)の世界も前述の通り、やっぱり2010年に向かって右肩あがりの時代だったんだと思う
それでは今度こそ2010年以降、おたくの世界になにが起こってきたのかをふんわり考えてみようと思う
現状として、大きくふたつの問題がエンタメおたく界の中に発生している
ひとつは、村社会としてのおたく世界におけるおたく高齢化社会、ふたつめは、生産的おたくの少数化である
変な話だと思うかもしれない。今日本は国として、ずっと偏見を持たれて消極的に虐げられてきた「おたく」という異常な世界をひとつの国民性としてピックアップしていって、それを日本の特色としてビジネスにしようとしている
そして、おたくではない人たちがおたくの世界に土足で踏み込んできて、自分たちが興味を持った部分のみを取り上げて「これがおたくなんです!」とテレビや雑誌なんかで言っちゃってる
元々こういうサブカル推しの政策になるまでにおたくになっている人たち(わたし含め)は昔の閉鎖的なおたくの世界の中での「みんな違ってみんなとりあえずよし」というのに慣れているからあんまり気にしてないかもしれないけれど、
新規参入してきたおたくの人たちはひょっとしたら、マスコミたちが取り上げた「おたくの世界のひとつの側面」を見て、自分でなにか実体験として掴み取ることもせずにこれがおたくなんだとぼんやりと捉えているだけなんじゃないかとわたしは危惧している
村のコミュニティーの中に入れていようが、村八分されていようが、そこに存在する限り、とりあえず全員村民である
例外ももちろんあると思う。
例えばワンピースが好きだったとして、毎週ジャンプを買い、単行本を買い集め、アニメを視聴し、自分なりに設定についての考察を行う
これをネットなどに発表することなく、誰に見せることもなくひたすらノートに書き綴っていたら、自己完結しているので、他者から村民として認知されることはないと思う
けれど、この人が例えばホームページを立ち上げて自分なりの考察を世界に発表したら、例え誰かと交流を持たなくても、わたしは村民として世界に存在していることになると考えている
他のワンピースのおたくは誰かしらそれを読むだろうし、感想をメールする人もいるかもしれないし、リンクフリーと書いてあったら、リンクページやブログにその考察サイトのURLを貼るかもしれない
かたや、HPを立ち上げたもののアクセスがなかったら、自らサーチに登録するかもしれない
こうして、村の中へと入っていくのである
村の中には色んな人がいる。
一流企業で働いているエリートもいれば、ニートに近いフリーターもいるし、学生もいれば、子持ち主婦もいる
けれど、暗黙の村の掟というものがおそらくどのジャンルのおたくの世界にも存在して、もちろん可視化されたものではないので、最初はわからないのだけれど、どの村にも、RPGゲームで話しかけてくる村民みたいなやつがいて、
これはこうすればいいんだよ、これがどうなんだよ、とふんわりと村の掟を教えてくれていた
物事というものは、完全にゼロから創造されることはない
そこになにかが存在して、そして、基礎とされるルールが存在して、初めてそこからなにかが生み出される
ことにおたくという生き物は、おたくという側面においてイチからなにかを創造する生き物ではないと考える
何かが存在して、それになにかアレンジを加えて、別のなにかに変化させるのがおたくだと思う
おたくというのは、創造されたなにかを完成させる上で不可欠な存在ではあるが、まずはじめは受け手だ
受け手として、その世界に存在するにあたって、どんな世界にもルールがある
けれど、情報化社会の中で、おたく世界の中の村という概念が何年も前から崩れている
これは、若い子に限ったことではない。
マスコミが取り上げたおたくの世界を見て、おもしろそう!と新規参入してきた年配おたくも同様である
そうすると、どういうことが起こるのかというと、新規参入おたくたちはSNSなどのツールばっかりは立派に持っているのだけれど、RPGゲームで話しかけてくれるおたくがいないものだから、
レベル上げの方法を知らずにずっとマサラタウンの横の草むらでコラッタやキャタピーや同じようにそこに留まって地図を持たないおたく同士で、これがおたくなんだー!たのしー!となっている(もちろん例外もいる)(自ら見つけていけるんだから、わたしと違ってまじ天才的だと思っている)
村民おたくとマサラタウンおたくとのおたくの分離化が進む中で、旧型のおたくの高齢化が止まらない
⚫︎「生産的おたくの少数化」とは
どのジャンルにもいると思うのだけれど、ツイッターに常駐していて、キチガイを名乗っている若い自称おたくの子たちがわりと一定数いる
これは本当にかわいそうだ。
なぜならなんの生産性もないツイッターに常駐して時間を無駄に浪費しているということはおたくでもキチガイでもなんでもなくて、生産性の低いただのかまってちゃんだからだ
けれど、それでも時間が潰せるものだから、若い子たちはきっと常駐してしまうんだと思う
ツイッターがリアの頃に普及していなかった世代からすると、完全に異常なので、正直積極的にリプを飛ばして関わり合いになろうとは思わない(自分のことを棚に上げてこんなことを言っているがわたしも相当別のベクトルでやばいヤツなので、関わり合いにならない方がいいと思う)
わたしが若い頃は、ツイッターがなかったので、ひまだったらもっぱらブログを更新するか、様々な匿名掲示板を眺めるか、仲間内でチャットやメールをするか、などしか暇つぶしツールがなかったのだけれど、完全に村社会だったので、
なぜかそんなわたしを見ておもしろそうと思ってくれた色んなお姉さんが色んなことを教えてくれて、暇つぶしの中でも生産性のある暇つぶしツールを与えてくれたというか、
ジャンルやおたくの先輩として、例えばこのライブはどのアーティストのどのライブの影響を受けているから、そっちも見ていた方がいいだとか、
この作品を見て、こういう感想を持つなら、きっとこの作家のこういった本が好きだろうから、読んでみたら?だとか様々なアドバイスをもらった結果、
10年以上かけて、こんな神の視点からブログを書くような高尚おたくに育ったのである
(十代の頃から3歳から10歳以上年上の友達とばかり遊んでいたので、地方の女子高生の身分で東京の女子大の講義にこっそり潜りこんだりしているような変な女子高生だった)
はっきり言って、おたくはおたくとして存在している時点で9割は凡である
だから、自分でなにかを創造することはできないと思った方がいいし、レベル上げの最も簡単な近道は先人に教えを乞うことである
素晴らしいことなのか、残念なことなのか、若い子たちはどう捉えるかわからないが、テニミュというコンテンツが好きでファーストから通っているおたくはたくさんいる
DVDで当時の公演を振り返ることは不可能ではないが、ネルケは財布をしめていくことを決して許さないので、きっと過去の公演のDVDまで買いあさるなんてなかなかできることではない(それに残念ながら逮捕者がでている公演のDVDは発禁になっている)
ひとりそういうババアおたくと仲良くなって、そういう話を教えてもらって、自分の中にインプットして、そこに自分なりの仮説と解釈を加えるだけで、高尚おたくになれるのに、
ツイッターを眺めていると結局同世代同士でつるんでいるのが多い気がする
その点において、タレコミとかで叩かれているような痛いおたくの子たちの方が結局現場で昔からいるババアたちと顔を合わせて、情報戦で勝てないババアたちといかにうまくやっていくかという課題と直面しているので、
よっぽど要領がいいというか、低姿勢で吸収力があるなあと個人的には思う(ババア側の人間)
ここまで読んで、どうして生産性の低いおたくだとだめなんだ、ツイッターで同世代で楽しくつるんでなにがだめなんだ、痛いワタシみたいな高尚おたくになる必要性がどこにあるんだ、と思った人が多数だと思う
なぜダメなのか、
まずひとつめは、マサラタウンの草むらには何年もいられないということ
ふたつめは、マサラタウンの草むらにいただけではポケモンをプレイしたとは言えない
ので、布教ができないということである
例え話だとぴんとこないかもしれないので、それぞれについて解説していく
まず、ファンではなくおたくとして存在する以上、ただ消費するのではなく、消化(昇華)できるおたくにならないと、自分でなにがおもしろくて今コレに時間とお金を費やしているのか、わからなくなるときが絶対くる
おたくを自称するくらい、何かが好きなのだから、どうして自分はそれが好きなのか、それにはどんな魅力があるのか、その魅力は他のものと比べてどう秀でているのか、せめてこれくらいは言語化できた方がいい
というか、これをきちんと言語化できる人は、ロジックツリーなんかに頼らなくてもたいていのことは物事の本質と原因を分析できる人になるから、生きていく上でもたぶん役に立つから便利だと思う
何年もおたくをやっているババアは絶対たいていは厄介なので、積極的に関わり合いになれとは言わない
けれど、ロム専だとしても(もはやロム専という言葉は死語かもしれない)(黙って眺めてヲチっているという意味だと思ってください)自分でなにか発信している人は見ていた方がいい
そこには自分と異なる考えがあるので、自分の考えと比較対照することができ、自分の考えがどういったものなのか、再検討することができ、より強固なものにすることができる
なんでそんな難しく考えなきゃいけないんだろう、ただの趣味なのにと思う人もいるんだろうなあと思う
けれど、よっぽどの天才ではない限り、エンタメを作る側もいきなり完璧なものを作り出すことはできない
特に制作側の人間はおたくが少数派なので、おたくの「これがこうだったらもっと好きになれるのに」ということをことごとく外すことにおいて、才能に溢れている
自分が何かを楽しみ続けるとなったとき、舞台だったらアンケートを書くなり、アイドルだったらツイッターで運営のエゴサにひっかかるようにあーだこーだ言うなり、直接現場で制作に話しかけるなりしないと、
自分の中で、あれ?と思ったもやもやは解消されない
そういうことをしないとエンタメ側もレベルアップしないんだと思う
だいたい、大きくなりすぎたエンタメが衰退する理由として、ひとつはエンタメがおもしろくなっていくということに関して現状のツールでは絶対に限界がくるときがあるということ、
そして、大きくなりすぎたエンタメは、ビジネス化されすぎていて、「こうなったらいいのにな」というおたくの考えの届かないことろへいってしまっていることがあげられるんじゃないかとわたしは思っている
おもしろいエンタメがあると、どうしてもそこにお金が集まってしまうので、ビジネス化されてしまうのは、仕方のないことなんだと思う
けれど、今の日本においてそれが悲惨なのは、たまたま様々なエンタメのジャンルが同じようなタイミングでピークを迎えてしまい、エンタメ世界が、大爆撃でもあったのかという惨状になってしまっていることだ
しかもその間におたく側も情報化社会の中で変形していって、おもしろいエンタメを育てていく体力のあるおたくが少数派になってしまった
アイドルの世界は戦国時代が終わって、きっとこれからあの2009年〜2010年のドラマに溢れたAKBのような盛り上がりを見せてくれるアイドルはもうしばらく現れない
仕事や現実に疲れたアイドルおたくを癒すために様々なハコやショッピングモールで特典券を武器に細々と生きていくアイドルたちとおたくの世界になってしまう
モーニング娘。がミスタームーンライト愛のビッグバンド以降ハロプロの世界に帰ってしまったように、元々アイドルおたくだったひとたちのためのエンタメとしてきっとこれからは存在していく
お笑いも今、バラエテイこそあるものの、若手が芸を披露する場がほとんどない
バラエテイでの面白さなんてその場にはまれば誰でもおもしろいので、お笑い芸人である必要性などなにもない
芸人はなんでもやって当たり前なんだから、それと比べて木村佳乃がなんでもやった方
がおもしろいに決まっている
お笑いのジャンルは今、現場難民(芸人側の) に溢れている結果、おもしろい漫才どころではないんじゃないかという印象だ
ジャニーズも、嵐の人気はおそらく今よりでることはないだろう
そんな中で、わたしたちの青春だった若手三組がそれこそ大爆撃を受けたみたいにメンバーが半分くらいに減っている中で、じゃあその下にくる平成ジャンプが元気なのかというと、最近伊野尾がようやくその美少年さを世間に認識され始めたが(といっても伊野尾はわたしと同い年なのでもう少年ではない)
セクゾもメンバーが増えたり減ったりするので、正直ジャニヲタあがったババアはついていけない。デビューしたユニットでそんなことありえます?よくわからない
じゃあウェストはというと、今の関ジャニくらいになれたらいいねーくらいの認識でしかない、わたしの中では
ファンのひとは怒るかもしれないけれど、こう見えて一応彼らがジュニア時代に松竹や梅芸でお仕事していたときにそれなりに見ていたので、ブチギレするのは超古参のお姉さんたちだけで勘弁してほしい
関西ジャニーズの抱える問題と可能性と闇については触れ出すと話が終わらなくなるので割愛
けれど、上記ジャニーズたちが決して売れないと言っているのではなく、現状の悲惨なエンタメ界を今すぐ引っ張っていく力があるかと考えたときに今すぐは無理だという話なので本当に怒らないでください
若手俳優の世界はおそらく痛みを伴う革命でも起きない限り、もう無理である
アミューズがドリフェスとかやり始めちゃった時点で、あー事務所もそう思ってんのかなーとわたしはおもったぜ
大したビジネスでもなかったのに、いろんな大人がよってたかってダメにした感がある
たぶんこれからたくさんの失業者が発生するというか、まあ引退する子たちがどんどん増えていくと思う
まあ若手俳優はあんまり稼げるお仕事ではないので、その点においては大丈夫かなあと思っているけれど、元ジャニヲタとしてはジュニアが引退したのちに逮捕される流れにはうんざりなので、ちゃんとそれぞれに生きていく道があればいいなと思う
それがエンタメの世界だったらどんなにいいことかとは思うけれど、今若手俳優の世界にはそんなに飯のタネがないので、なにも言えない
結局、若手俳優のあとに台頭してきた読モジャンルも、KPOPも若手俳優よりも早くマイナーの世界へ帰っていってしまったので、
今どこでなにが元気で盛り上がっているのか、わたしの目には見つけられない
それがおそろしくて色んなおたくにこの話をして、今なにが盛り上がっているんだろうと聞いても、みんな首をかしげる。
広告で働いている男の子にもこの話をしてみたけれど、スポーツなんじゃない?と言われてしまった。
残念ながらわたしはスポーツには一切興味がない。あとオリンピックに向けてスポーツが盛り上がるというのは、長らく当たり前のことなので、それはこれまでのエンタメに取って代わるものではないし、
そもそもエンタメではないんじゃないかという疑念が拭いきれない
だいたい女ヲタの世界において、あの人どこにいったの?という話をすると、二次元だと聞くことが最近は多い
けれど、二次元も絶対すぐ今の異常な熱は終わるんじゃないかと思っている
なぜなら今の二次元の盛り上がり方はグッズ収集だが、グッズの収集という盛り上がり方は、これ以上の発展があるんだろうかとハタから見ていて思うからだ
わたしは本当に理解できない、これだけお金をかけるくらいこのキャラが好きなんです!みたいな競争をするくらいだったらホストじゃだめなんだろうか、きっと何回か寝れる
若手俳優のおたくをやっていて同じことを何十回も言われるので、もちろんそれじゃだめなことはわたしもよくわかっているが、俳優と違って二次元のキャラは特別扱いしてくれないし、そもそも概念でしかないので、非常に難しい盛り上がり方だと思っている
しかし、その一方でわたしみたいな変なタイプじゃない女子の欲求を満たしていることも理解している
みんなでこのアニメならこのキャラが好き!みたいに推しを分けてみんなで朝から池袋やらスカイツリーやらTSUTAYAやらに並ぶのが楽しいんだろうなというのは知識としては知っている
団体行動好きの女子にはたまらない「みんなで一緒になにかをしている!」感なんだろうなと思う
だからかなり前の記事になるが日経MJとかはグッズ収集女子を特集する際にもっとそのへんに重きを置いて取材をするべきだったと思ったよ
そもそものそういった子たちの行動心理ってたぶんそこなんだから。
現地で交換したりとか、そういうのが楽しいんだと思うよ。
表面上はキャラへの愛でこんなことになっちゃうくらいこのキャラが好きなわたし!ということになっているが、実際半分くらいはグッズ収集に付随する様々なことを楽しむタイプの女子が大多数のはずだ、女の子は自分を思い込ませるのがうまい
でもそれはもはやアウトドア的な楽しみ方であって、エンターテイメントではない
水道橋に行けばいつでも誰かしら友達がいる!みたいなテニミュなどのアウトドア的側面がピックアップされた趣味だと思う
このままエンターテイメントはなにも新しいものが生まれることなく、これから冬の時代を迎えて、大勢がなにかに熱狂することがない時代になるのだろうか
わたしはそういった大盛り上がりジャンルに身を置いているタイプではなかったけれど、このままなんの盛り上がりもない状況というのはとても不安になる
そして、なによりエンタメを作ってきた側のひとたちが、この危機的状況に気づいているのかしらと非常に不安になる
わたしはエンターテイメントがなかったらこの年まで生きてこれなかったかもしれない。
本当にどこかで尽きて死んでいたんじゃないかと思う
今の若い子達にわたしがエンターテイメントに救われたようになにか別の救いがあるんだったらいいのかもしれないけれど
ストレス社会と呼ばれて久しい日本で、現実逃避ツールの代表格であるエンタメがしにそうだ
そして、みんな違ってみんないいという考えを浸透させたせいなのか、国民が多様化すると見せかけて、思考停止した人たちを量産しているだけな気がする
若い子たちと働いていて本当に思うのだけれど、「どうしてこうなんだろう」ということを考える力に欠けている子達が多すぎる
このままだと日本のエンタメどころか、日本自体がいつか沈没するんだろうなと思う
このままだと日本は確実にヤベエ
同僚が貯金ないとかほざいてたので、新卒時代に手取り16万で年間100万貯めた時にやったことをまとめる。
ざっくりだが
・酒飲まない
・タバコ吸う
・車無し
・恋人なし
・手取り:16万
・てか残業はほぼなしだった
・家賃:3.9万
・管理費込み
・光熱費:1.3万
・ガス代:平均1万
・電気代:平均2〜3,000円
・通信費:1万
・奨学金返済:2万
・食費:1.5万
・ざっくり価格
・お小遣い:1万
・ざっくり価格
残金は全て貯金
毎月大体5万貯金して、年間60万
んでブースト金
・ボーナス:40万
・夏:寸志5万
・冬:寸志5万
・春:30万
結果:100万
といった感じだ。
各項目を考察していく。
給料は端数切り捨て。
家賃は栃木のど田舎のため、10帖+8帖キッチン 風呂トイレ別 鉄骨のアパート(築年数は忘れたが、リフォーム物件で見た目はキレイ)。
相場よりやや安い程度だ。
光熱費はガス代だけアホみたいな金額だけど水道代考えるとちょい高いくらいだと思う。
栃木のど田舎のため、都内と比べ家賃は格安だが、都内なら新卒1年目で最低でも手取り19万くらい行けるはずだから家賃6.9万として想定し、家賃+通信光熱費+返済で11.2万すると上記の金額は決して特別な金額ではないことが分かるだろう。
で、食費とお小遣い。
食費、娯楽費と上記していたが実際は、
・実際は1日1,000円しか使わない
という制約を課していた。
飯は自炊鉄則。
土日は食事抜くこともあった。
1日1,000円のお釣りをため、週に一回買い出しで3,000円くらいをまとめ買いしていた。
基本酒は酒を飲まない派だったのでこの金額がいけたのだろう。
タバコは吸っていたものの2日で1箱、当時400円時代、月6,000円。
普通に飲みにいって1回3〜5,000円掛かること考えれば、可愛いものだ。
娯楽もマンガ買うくらいで可能な限りネットの無料コンテンツでまかなっていた。
週末にどこかでかけないのか?と思われるかもしれないが、車もないど田舎で一人で飼い猫と遊ぶくらいだった。
友達?いねーよ。同期が仲悪くて悪くて。。。大学の友人もみんな近場にいなくて。。。
寂しかったよチキショー。
他にも通信費も変動あって使わない時は7〜8,000円程度だったと思う。
衣服もあまり買うタイプではなかったので、なんとか行けたのだろう。
ボーナスは珍しく年3回でる会社で、新卒1年目のため夏冬は寸志だったが、春は30万くらい出た。
通常新卒2年目だと毎回30万くらいなので、年二回でそこそこのレベルの会社なら同等金額はでるので普通レベルだと思う。
やったことをまとめると、
・上記実行するために使える金額や使い方に制約を設ける
・食費の節約
・交遊の断絶(これは望んではいなかったが。。。)
正直ここまでストイックに娯楽を削るのはお勧めできないが、貯金できないやつは何かちょっと我慢すれば貯金絶対にできるはず。
娯楽と食費を極限まで削って実現できた貯金ではあるが、それ以外は特別切り詰めた金額ではないことはご理解いただけているのではないだろうか?
仮に食費1.5万、娯楽3万としても、家賃+通信光熱費+返済の8.2万と合わせて、12.7万。
手取り16万ー12.7万=3.3万、3.3万×12+40万=79.6万も貯められる。
てかもっと制約甘くして、ボーナス使わないだけで40万貯められる。
どうだい?
http://anond.hatelabo.jp/20160604234004
あの女児向けアニメみたいなちょっと古臭いへにゃっとしたキャラデザとのバランスを考えたあの絵的に重量感の薄い戦車、現実味をできるだけ出さないようにする砲撃戦、ディティールの簡略化
マンガ的な演出(ジャンプする戦車、戦車がジェットコースター、旗出したり)、ひたすら美術面をリアルに追求することを正義とするこの考察は的外れと言うしかない。
改カードがでる法則性が見えるまで統計出せる程に掘り続けられる程のプレイ回数もお金もないため、
インターネットに溢れている説と自分の経験から改カードが出る法則性を推測する。
http://wikiwiki.jp/kancolle-a/?%B4%CF%CC%BC%A5%C9%A5%ED%A5%C3%A5%D7%B5%D5%B0%FA%A4%AD%2F%B4%CF%BC%EF
この説が事実だとすると金剛型の改カードを求めてるのに金剛型のでない1面や3-4とかを回るのは無意味という事になる。
2-2で隼鷹改(Lv14)[ダブりなし]
2-4で金剛改(Lv30)[ダブり5枚] 加賀改(Lv25)[ダブりなし]
……という感じ。
隼鷹は空母がなかった頃に相当使ってた序盤の制空の功労者なので、使用回数は影響するのかもしれない。
あと金剛が3枚くらいダブりだしてから、金剛がドロップできるステージに出すと結構金剛が出るようになった。
いまや金剛だけ6枚ある。カードをたくさん重ねて出撃するともしかして、
重ねた艦が出やすくなるとかそういうのがあるのかもしれない。
努めて8年程度の会社。
当初から上司がダメすぎだったので、少ない指示のもと自分で考察し仕事をしてきた。
ミスもなくそつなくこなしてきたが、上司からは特別な評価をされなかったが「まぁあついはダメ上司だからな」と思って仕事をこなしてきた。
昨年から私が部署異動となり、私のポジションに女性二人が配属された。
その女性からは上司は罵詈雑言の嵐だった。確かに新しく配属された人からしてみればそこまでしてやる義理もないししょうがないのかなとも思った。
上司はダメさが浮き彫りになり今は自律神経がイカれてしまうくらいストレスを感じているよう。
考察系ブログを書きだしたハロプロヲタがジャニヲタになったり、ジャニヲタがその文化を覗いて
よく見てたら内容が似通ってるの知ってるんじゃ?
あとジャニヲタの規模考えたら
最近、多少揶揄的なニュアンスと予防線を込めて政治的正しさ、あるいはPCについて言及されるケースをいくつか目にした。
なるほど、確かに過度な政治的正しさへの配慮は自由闊達な表現を陰に陽に萎縮させるものであろうし、形骸化された政治的正しさは単にナンセンスだ。
しかし他方で、「それとは全く別の問題として」、多くのことがらがある種の正しさをめぐって回っているように僕には見える。
たとえば(誇張した表現になるが)経済原理主義者は最適化・あるいは効率化こそが正しさを担保すると考えているフシがあるように思えるし、
過度にアニメの制作者サイドに寄り添い「楽しんでる!」と必死なタイプの消費者はあたかも楽しむことこそが正しさを調達するとでもいいたげなように感じられる。
(注意:僕はここで経済原理主義者や全肯定的アニメ消費者を批判したいわけではない。正しさの調達パターンをいささか戯画的に書き出してみたいのだ。
また、前者であれば最適化・後者であれば肯定的なスタンスが無意味であると断じたいわけでもない。
むろんそれぞれの立場から有益な結果・知見が引き出せることはあるだろう。
ただ僕は、あるタイプの信念・行動からある正しさへの意志をピックアップすることは「権利上」可能であるだろうという前提の上で思考実験してみたいのだ。)
さて、人がある物事に大して価値判断を下す際、無数の観点をとることができるように思えるが、ここでは大きく「正しさ」「効率性」「面白さ」の三つに分けられるとしよう。
たとえば学問では正しさが重視されるし、通常の社会では効率性が重視されるし、共同体では面白さが重視されるだろう。
(注意:学問的な「正しさ」と政治的「正しさ」とでは「正しさ」の意味するものが異なるのでは?というのは正当な指摘だ。
ここでは政治的正しさというフレーズに引きずられてこう命名したが、「真理」とラベルを貼れば言語ゲームの癒着は多少解消されると僕は考えている。
とはいえ、これでもまだ混同が起きているという疑問はあるだろう。しかしここはこれで議論を進めるのでご容赦いただきたい。)
しかし、学問で正しさを追求することが「楽しさ」を帯びることは多くの人が多かれ少なかれ知っていることであるし、
ある種の「面白さ」が正しさを担うことも趣味に熱中したことがある人なら知っていることだろう。
するとつまり「経済原理主義者」は「効率性」を追求することによって「正しさ」を調達するように見えるし、
「全肯定的アニメ消費者」は「楽しさ」を追求することによって「正しさ」を調達しているように思える。
(注意:ここで「そんな深いこと考えていないよ」というのは一旦はそうだ。
とはいえ、現に「そう見える」しこれはある種の無意識の考察だと考えてもらって差し支えない。)
ここで僕が言いたいのは「なぜ素直になれない!」ということだ。(もちろん僕がこの指摘をまぬがれているというつもりはない)
正しさを追求したいのであれば正しさを追求すればよいし、それ以外の効率性や面白さがウエイトを占めるケースであれば全力でそれに没入すればよいではないか。
いそいで付け加えておくと、僕はこのような「正しさ」の追求が悪であると言いたいわけではない。
しかしながらそこに、ある種のねじ曲がった欲望を見て取ってしまうのだ。
なぜ、ストレートに正しさや効率性や面白さを追い求めることができないのだろうか?
程よく住み分けることはできないのだろうか?
これは裏を返していえば、あらゆる価値判断のメタレベルには正しさをめぐる判断があり、結局全て(これはレトリックです)は政治であるということなのだろうか?
しかし、全てが政治であるとして、その裏側には欲望が張り付いているのだとしたら、それを上手く調節したり整流することも可能ではないのだろうか?
こんな記事を読んだ
http://www.e-aidem.com/ch/jimocoro/entry/miwa04
初めに述べておくけど私は発達障害者だ。
発達障害ならではのどうしようもなさ、うまくいかないしんどさをかれこれ長い事味わってきた。
そうこうするうちに、なんとなく発達障害の人についてはピンときて、この人は自分と同類ではないのか?と鼻が効くようになった。
なったところで何も役に立ちはしないけれども。
発達障害と診断される人は年々増加の一途を辿っている。
というのも発達障害の診断基準がはっきりしてきたのはここ20年くらいのことで、それ以前に子供だった人はかりにその特性があったとしても発達障害と認識されなかったからだ。
そういう、ある程度年のいった発達障害の人はどのように生計を立てていたのか。
おそらくだが、小規模の小さな商いをひっそりとやっていたのではないか
小規模の自営業者であれば、調子が悪いときは商売を休むことも可能だし叱責してくる上司もいない。
ところで1990年には全国の自営業者は1395万人だったそうだ。これが2011年になると541万人へと減少する。(総務省調査)
この中の何割かは高齢化によるものであったと考えられるが、自営業者をとりまく経済環境が厳しいものへと変化したことを裏付けている。
資本力のとぼしい小規模の自営業者は不景気とか消費税だとかそういった変化のあおりに耐えられないのだ。
もちろん店主自身の高齢化などもある。地方経済の衰退にも原因はあるだろう。いずれにしろ減っている。
時代が進み、人々はより快適なオートメーション化された安価なサービスへと移行していった。
低級国民として働く人たちは、マニュアルの下で歯車になることを強いられる
悲しいかな発達障害の人は優秀な歯車になることができない。能力があまりにも凸凹すぎるからだ。
自営業者の人が1400万人近く存在したのは景気がよかったからだ。まわっているお金があったからだ。
少し年配の人なら「どこにも雇ってもらえなかったしラーメン屋でもやるか」という話はどこにでも転がっていたんだけど、
このところラーメンもどこもかしこもレベルが上がってとんでもなく敷居が高い。
人々は価格以上のサービスを当たり前と思い、提供されるものは質が高くなければ消費者は不満を言う。
安価で質の安定したサービスを提供するためには、ある程度の規模のシステムを構築する必要があり、それを個人商店に求めたら破綻してしまう。
そしてその安定したサービスのため必要とされるシステムには、凸凹の歯車は順応できないのだ。
こうして高齢フリーターの数や非正規労働者の数は増え、さらにsnepと呼ばれる呼び方が出現した。
やはりこういった弱者と呼ばれる層へ否応無く吸収されていったのだろうと推測する。
さて最初のところへ戻ろう。
ここの店主はおそらくなにがしか発達障害を持っているだろうなと個人的には思う。
自分も発達障害なのでわかるのだが、おもしろいことにその凸凹の部分を強烈に気に入ってくれる人が存在する。
発達障害に不具合を見いださず、いびつさを愛してくれる人が実際に存在するのだ。
地方都市にぽつぽつ存在してきた「やる気のない店主がいる汚い店」というのは、肩に力が入らず来るものをホッとさせるところがあって
私はこのような店が日本のあちこちに残っていて欲しいと思う。「そんなに頑張らなくていいよ」という無言のメッセージであるからだ。
http://anond.hatelabo.jp/20160409094753
「Ken Kiyoshi」という人物がいる。
彼の所在地は以下の通り。
Ken Kiyoshi ICIJ Offshore Leaks Database Connected to 1 address Connected to 20 entities Linked countries: Japan Data from: Offshore Leaks https://offshoreleaks.icij.org/nodes/117463 "281809";番号281809 "ADDRESS";"Room 1009, 4-20-2 Ebisu Shibuya-ku Tokoyo 150-0013 Japan"; 所在地 〒150-0013 日本国東京都渋谷区恵比寿4丁目20番2号 1009号室 https://offshoreleaks.icij.org/nodes/281809
パナマ文書が示す「〒150-6010」は、2016年現在の郵便番号区分では
恵比寿ガーデンプレイスを除く東京都渋谷区恵比寿を示す地域区分。
当該所在地の高層建築物は「恵比寿ガーデンテラス弐番館」に特定される。
「恵比寿ガーデンテラス弐番館は、1994年8月築、地上13階地下2階
建総戸数220戸?の大規模マンション。
「恵比寿ガーデンテラス弐番館10階」の賃料は、公開されている
あたりでは、2LDKで42.2万円、41.4万円、1LDKで34.6万円、1Kで
http://www.plus-home.co.jp/rent/6509/
http://www.marycorp.co.jp/detail_marycorp_1_marycorp_2_271
http://www.rnt.co.jp/building/detail/1576/
http://concierent.jp/rent/333/48434/
恵比寿ガーデンテラス弐番館を所在地とする法人は以下の三法人。
http://www.houjin-bangou.nta.go.jp/
3011001064749 株式会社CONTAINER 東京都渋谷区恵比寿4丁目20番2号恵比寿ガーデンテラス弐番館
法人番号3011001096420と5010401017455は
パナマ文書が示す部屋番号1009とは異なるので、
韓国人12人に活動している日本の男性アイドルグループApeace(エーピース)
https://ja.wikipedia.org/wiki/Apeace
企画・制作:株式会社CONTAINER/Golden Goose 特別協力:サミー株式会社 協力:文化服装学院 / メイクアップアーチスト学院 衣装協力:NAVAL ■日程 2011年6月18日(金)~ロングラン公演 ■会場 K THEATER TOKYO 東京都渋谷区恵比寿4-20-2 恵比寿ガーデンプレイス内 ■座席・料金 ロングラン公演:¥4,600(税込)
特ラ連レポート122
新規加入会員紹介コーナー
(平成23年6月~7月)
http://www.radiomic.org/activity/backnumber/No122/newkaiin.html
株式会社 CONTAINER(K-Theater) 会員番号030-0616 代表取締役 田村孝司 入会:7月25日 移動 AKG … 4本 シュアー … 12本 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前4-12-20 担当 支配人 斉藤昇三 TEL 03-5421-7062 FAX 03-5421-7063 〔ひとこと〕厳しいレッスンと数々のオーディション審査より キャスティングされた精鋭達21名によるエンターテイメント グループ、「Apeace」が、K-Theater Tokyoでロングラン 公演をおこなっております。
この情報ではCONTAINERの所在地が神宮前になっている。
国税庁の法人データベースには当該所在地に8件の法人があるようだが
K-Theater Tokyoは恵比寿ガーデンテラス弐番館の
恵比寿ガーデンシネマの跡地につくられた日本初のK-POP専用劇場。
今は映画館になっているようだ。
http://www.houjin-bangou.nta.go.jp/
東京都/渋谷区/神宮前4丁目12-20/登記記録の閉鎖等含める/商号等
8件 見つかりました。
1011002035263 有限会社アートビートパブリッシャーズ 東京都渋谷区神宮前4丁目12-20表参道ヒルズゼルコバテラスW405
2010401095900 株式会社アルファ・アンド・カンパニー 東京都渋谷区神宮前4丁目12番20号W406
4011001005116 株式会社オモテサンドウ 東京都渋谷区神宮前4丁目12番20-W304号
9011001050347 株式会社幸和画廊 東京都渋谷区神宮前4丁目12番20-105号
4011002034898 有限会社後藤繁雄事務所 東京都渋谷区神宮前4丁目12番20-405号
4011001072577 ミストラル株式会社 東京都渋谷区神宮前4丁目12番20号
ちなみに特ラ連は特定ラジオマイクの利用者が設立した非営利団体で
イベント関連会社等は無線を使う関係で特ラ連とは利益共有の関係にある。
http://www.differ.co.jp/schedule_20150425.html
ApeaceLIVE2015♯3~Back to the Future~ 日付 4月25日(土) チケット料金 8500円 FC先行特典付き 開場/開始 開場 13:45/18:15 開演 14:30/19:00 お問い合わせ先 株式会社CONTAINER http://apeace.jp/ 0570-064-257 平日14:00~18:00まで
このイベント告知を見ると、
株式会社CONTAINERの問い合わせ電話番号は0570-064-257になっている。
0570-064-257という番号は、
コネクトプラス株式会社または株式会社ロム・シェアリングの連絡先と同一だ。
特定商取引法に基づく表記 NU'EST JAPAN OFFICIAL FANCLUB
http://www.nuest.jp/info/law.html
〒106-8011 東京都港区六本木3-16-35 イースト六本木ビル
〒106-0041 東京都港区麻布台2-3-5 ノアビル 1F
電話:0570-064-257(平日14:00~18:00)
つまり、株式会社CONTAINERと株式会社ロム・シェアリングという法人は
実体として一体的に活動しており、ソニー傘下で仕事をしている。
上記NU'EST JAPAN OFFICIAL FANCLUBサイトのプライバシーポリシーの管理は
ソネットエンタテインメント、すなわち日本、台湾、香港で運営している
そのSo-netを2016年に完全子会社化した親会社の企業名は
パシフィック・センチュリー開発(Pacific Century Development / CCD)
というグローバル企業があり、
その日本法人である日本パシフィックセンチュリーグループ株式会社で
パナマ文書に書かれていた名前Ken Kiyoshiと姓名の読みが同一だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/PCCW
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%98%89%E8%AA%A0
李沢楷 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%B2%A2%E6%A5%B7
http://timetide.way-nifty.com/jprofile/2013/07/post-07d0.html
PCCW&CCC カルチュア・コンビニエンス・クラブ(株)H19有報時の役員抜粋 取締役 日下孝明 サンレジャー:港区参照 ご近所シリーズ05参照 取締役 喜吉憲 Ken Kiyoshi 国際基督教大学出身 1971年4月-(株)日本興業銀行 入行 1997年4月-同行 香港支店長兼IBJ Asia Limited 副会長 1998年3月-日本パシフィックセンチュリーグループ(株)代表取締役 2003年4月-カルチュア・コンビニエンス・クラブ(株)顧問 2003年6月-同社 常務取締役 2004年6月-同社 代表取締役副社長 管理部門管掌 2006年3月-同社 取締役管理本部長 2006年7月-同社 取締役社長補佐 取締役 三木谷浩史 三極委員会メンバー 取締役 角川歴彦 取締役 奥谷禮子 ■考察 国際基督教大学出身といえば、神政連の一押し→有村治子議員 →(公財)ドナルド・マクドナルド・ハウス・チャリティーズ・ジャパン 理事 PCCWといえば→パシフィックセンチュリープレイス丸の内
日下孝明はワンダーコーポレーション代表というより
パナマ文書に日本の政治家はいないという話が独り歩きしていたが、
ほらほら、やっぱり出てきた。
だがこの人とパナマとの関係性を考えるにはさらなる調査が必要。
不逮捕特権を持つ人物相手の捜査となると特捜以外に考えられない。
CCCW Japan Limitedがしっかり入っている。
CCCW Japan Limitedの資本の源はもちろんCCCW Limitedだ。
PCCW Japan Limited | ICIJ Offshore Leaks Database
https://offshoreleaks.icij.org/nodes/131516
Ken Kiyoshi | ICIJ Offshore Leaks Database
https://offshoreleaks.icij.org/nodes/117463
グローバル企業ソニーの系列傘下の芸能イベント会社の所在地は、
日本政界とも関係があるかもしれないPCCW役員&CCC顧問の名前と同一。
『レヴェナント』を観た。
監督の前作『バードマン』に比べて難解で、現段階ではテーマがさっぱり分からないのだが、主に海外サイトの議論を参考に、テーマの考察をまとめておくことにした(これを踏まえてオーディオコメンタリーやインタビューが出るのを待つことにする)。
そこで以下、結論、難解な理由、様々な視点からの問題提起、現段階で考えられるテーマ(妄想)の順に書いていくことにする。
考えながら書いたので、思ったより文章が長くなってしまった。結論を先に書いておく。
『レヴェナント』をそのテーマに基づいて要約すると次のようになる。
主人公グラスは、その人生の全てであった息子ホークを殺されたことで、生きる意味を見失い、死亡する。 しかし、息子を愛する気持ちにより、死と再生を繰り返し、野生動物に生まれ変わってまで生き残り、宿敵フィッツジェラルドのもとにたどり着く。
最後の戦いではフィッツジェラルドに瀕死の重傷を負わせた末、神の代行者リーによる神罰を引き寄せ、息子の敵を討つ。 息子を失い、復讐という目的も失ったグラスの精神は崩壊し、(ブチャラティ的な意味で生き延びていた)肉体もついに死を遂げる。
本作のテーマは、親が子を愛する気持ちがいかに強く、大きいものか、ということである。
『レヴェナント』のストーリーを単純に言えば、「復讐心に捕らわれた男が、大自然の中で死闘を繰り広げるが、最終的に復讐をやめる話」である(図式的に表現すれば、『大いなる勇者』+『デルス・ウザーラ』である)。
このストーリーを見たとき、すぐ連想するテーマは、①復讐のむなしさであったり、②大自然と対比された文明の批判である。
しかし、①復讐のむなしさがテーマだと言い張ることには疑問が多い。というのも、(後述するように)復讐をやめた後の主人公の表情は発狂寸前のそれである(復讐を完遂して破滅するか、中止して救われるかの方がテーマとしては明確なはずである)し、監督自身インタビューで復讐の物語を描くこと自体には興味がないと答えているからだ。
さらに、②文明批判がテーマだと言うのも苦しい。というのも、この映画には文明に対する疑問が提示されることがないからだ(『デルス・ウザーラ』のデルス、『大いなる勇者』のジョンソンのように、文明と対立する人物が出てこない)。
ということで、『レヴェナント』は単純なテーマで理解することが困難である。
『レヴェナント』は昔の映画からたくさん引用をしている上、宗教的に意味ありげな要素がたくさん散りばめられている。さらに監督の過去の作品との整合性まで考慮に入れるとすると、どの要素にどの程度力点を置いて物語を解釈すれば良いのか分からないという問題があり、これがテーマ理解の妨げとなっている。
(2)と関連するが、『レヴェナント』ではタルコフスキーの諸作品(『僕の村は戦場だった』、『鏡』、『ノスタルジア』、『アンドレイ・ルブリョフ』)からの引用が多数なされている(これを分かりやすくまとめた動画がある:https://vimeo.com/153979733)。
しかしタルコフスキーの作品と言えば、それ自体が難解映画の筆頭である。そこからの引用となると、どういう意図なのか(タルコフスキーの意図をそのまま継いでいるのか、ただタルコフスキーの表現が気に入ってやりたかっただけなのか)が皆目検討がつかないのだ。
そういうわけで、『レヴェナント』は難解な映画なのだが、海外のファンサイトでいくつか有力な問題提起がなされていたことから、これをいくつかまとめておく。
まず、イニャリトゥ監督の過去の作品では、「うまくいかない親子の関係」が描かれることが多い。
監督の前作『バードマン』では、監督そっくりの父親が、娘に全く愛されず尊敬もされていないことに気が付き、悩む様が描かれる。また、デビュー作『アモーレス・ペロス』では、マルクスそっくりの元反政府活動家が、活動のために家族を捨てたことで愛する娘と会えず、悲しむ様が描かれている。
これらの作品に比べ、『レヴェナント』は異質である。というのも、主人公グラス(ディカプリオ)と息子ホークの関係は互いに愛し合っているからだ。
この点をどう評価するのかがまず1つの問題である(問題点α)。
前作『バードマン』で、主人公は、演技に悩んだ末、舞台で拳銃自殺をする場面で、拳銃に実弾を込めて自分のこめかみに発射する。その死を賭した演技が絶大な評価を受け、主人公は自らの弱さの象徴であるバードマンを打ち倒すことに成功する。
こうした死と再生のイメージは、映画でよく用いられるモチーフである(『鏡』、『8 1/2』など)が、『レヴェナント』ではこれが3回(数え方によっては2回とも4回とも)も行われる。
① 熊に襲われ瀕死となり、フィッツジェラルドに埋葬されるが、立ち上がる。② インディアンに追われ、川に流されるが、生還する。③ 崖から落下したのち、馬の中に隠れ、回復する。
ではそれぞれ、何に生まれ変わったのだろうか。前作『バードマン』で主人公は、拳銃自殺ギリギリのことをすることで、弱さ(バードマン)を克服した強い人間に生まれ変わった。では本作ではどうか。
これについて、海外サイトに面白い考察があった。グラスは死と再生を繰り返すたびに、野生動物に生まれ変わっているというのである。
まず最初にグラスは熊に生まれ変わっている。その表れとして、グラスは熊の毛皮を着て、首に熊の爪のネックレスをしている。さらに川で魚を手づかみにし(木彫りの熊)、それを生のまま食べている。
次にグラスは狼に生まれ変わっている。その表れとして、インディアンにバッファローの肉をもらう際、四つんばいになって人間にへつらっている。そしてインディアンが肉を投げると、これを貪るように食っている。
さらに、グラスは馬に生まれ変わっている。これは冷たい夜を生き抜くために、馬の死体の中に隠れ、後に這い出ていることから明らかである。
最後の戦いにおいて、グラスは牙と爪で戦う肉食獣に生まれ変わっている。これは、銃を放棄し、斧(牙)とナイフ(爪)で戦っていることに表れている。
上記の見方はそれ自体面白い見方だと思うが、これによって何が言いたいのか、というのはまた1つの問題である(問題点β)。
なお、グラスが当初の瀕死状態から山を走るところまで回復するのは、死と再生を何度も繰り返すからだという見方があった。
先に貼った動画(https://vimeo.com/153979733)から明らかなように、『レヴェナント』ではタルコフスキー作品からの引用が非常に多い。
そのうちよく解釈に影響を与えそうなものとして挙げられるのは、「宙に浮く女性」、「ラストシーンでグラスがこちら(観客側)を凝視する表情」、「鳥」、「朽ち果てた教会」、「隕石」である。
このうちここで取り上げたいのは、「ラストシーンでグラスがこちら(観客側)を凝視する表情」である。他の引用は解説が面倒くさすぎるので各自ぐぐってほしい。
この表情の元ネタは、『僕の村は戦場だった』である。この映画の主人公イワンくんは、ソ連の少年兵であるが、母と妹をナチスによって殺害されている。問題の表情は、そんなイワンくんがナチス軍相手に戦闘を仕掛けるシミュレーションを1人でしていたときのものである。
つまり、この表情は、純粋で愛に満ち足りていた少年の心が、ナチスへの復讐心で歪み、壊れかかるときのものである。
これをそのまま『レヴェナント』のグラスに類推するならば、グラスの心は最後の戦いの後、壊れかけていたことになる。
しかし、『僕の村は戦場だった』と違い、『レヴェナント』では復讐を止めた後にこの表情をしている。そのため、イワンくんの内心をそのままグラスに類推していいものか、グラスは最後にどういう心境だったのか、という問題が生じる(問題点γ)。
イニャリトゥ監督はインタビューで、目指している映画として以下の5本を挙げている。
① 黒澤明『デルス・ウザーラ』② コッポラ『地獄の黙示録』③ タルコフスキー『アンドレイ・ルブリョフ』④ ヘルツォーク『フィッツカラルド』⑤ ヘルツォーク『アギーレ/神の怒り』
共通点は、いずれも撮影に困難が伴った映画であるということである。
①『デルス・ウザーラ』では秋の風景を撮るはずが雪が降ってしまったためソ連軍を動員して人口葉を木に付けた、②『地獄の黙示録』では台風でセットが全て崩壊した、③『アンドレイ・ルブリョフ』ではソ連当局の検閲が通らず製作から公開までに10年以上の歳月を要した、④『フィッツカラルド』では実際に巨大蒸気船を滑車を使って山越えさせた、⑤『アギーレ/神の怒り』では撮影の過酷さから引き上げようとした俳優を銃で脅した、などなどの多数のエピソードがある。
そうすると、「テーマとかどうでもよくて、むちゃくちゃつらい撮影がしたかっただけなんじゃ・・・」という疑念が湧いてくるのである(問題点δ)。
これはグラスが途中で出会った一匹狼のインディアンの言葉だが、意味は正直言ってよく分からない。
ただ、ラストシーンでグラスが復讐を委ねた相手はインディアンのリー(誘拐されたポワカの父親)である。このことから海外サイトの中には「リーは神の手、すなわち、神の復讐の代行者である」との解釈が多く見られた。
イニャリトゥ監督の作品のテーマはいずれも生きる意味にまつわるものであるが、この点に関してグラスが2つの重要な言葉を残している。
“All I had was my boy... but he took him from me.“
「私にとって息子は全てだった。しかしフィッツジェラルドは私から息子を奪った。」
“I ain't afraid to die anymore. I've done it already.”
「私はもう死ぬことを怖れていない。私は既に死んでいる。」
息子が全てだったという台詞は、グラスの生きる意味が息子にあったことを示している。そしてこれは、デビュー作から親子の関係を描き続けてきた監督自身の言葉でもあるだろう。
息子がフィッツジェラルドによって殺害されたことで、グラスは生きる意味を失う。代わりに「復讐」という意味を見出したかのようにも見えるが、それによって再生した姿は上述したように、野生動物の姿である。
このことからすると、私は既に死んでいるという台詞は、「生きる意味を失ったことで、人としては既に死んだ」ということを意味するのではないだろうか。
海外サイトの掲示板などで最も熱く議論されている論点は、グラスは死んだのか?という点である。
これが問題となる理由は、①復讐モノの物語は復讐者の死で終わる場合が多いということと、②戦いに勝利したとはいえグラスも致命傷を負っていること、③スタッフロールが始まってもグラスの吐息が聞こえること、といった事情があるからである。
さらに映画外の理由であるが、④前作『バードマン』においても主人公が最後に死んだのか死んでいないのかで論争があったこともこの議論に影響を与えている。
死んだ説に立つ人は①②の事情を挙げ、死んでないよ説に立つ人は③④の事情を挙げている状況にある。
しかし、これもテーマとの関係で考える必要がある(問題点ε)。
これらを踏まえて、現時点で筆者なりに『レヴェナント』のテーマについて考察してみたいと思う。
結論:
「親子」というテーマは『レヴェナント』においても依然として維持されている。
その根拠は、(a)グラスの息子ホークというキャラクターは史実に存在していないのにわざわざ登場させたこと、(b)監督がインタビューに対して、息子を登場させたのは親子関係を題材にすることで物語がより複雑で充実したものになると考えたからだと答えていること、(c)デビュー作から前作まで延々親子関係をテーマにしてきた監督が、ここに来て生涯のテーマを捨てたとは考えにくいこと、である。
② しかし、「親子」というテーマに対する切り口が、前作までとは違う。
前作までの切り口は、分かり合えない親子の問題をどう解決するか、というものであった。『レヴェナント』はそうではなく、子供を生きる意味としてきた親が、子を喪失したとき、どうなってしまうのか、という切り口で「親子」というテーマに迫っている。
その根拠は、(a)グラスが息子ホークが人生の全てであったと言及していること、(b)グラスが息子を失ったことで一度死んだと(解釈しうる)発言をしていること、である。
結論:息子ホークを失ったことで、グラスが生きる意味を喪失し、結果、人間としては死んだということを表現している。
その根拠は、(a)野生動物へと生まれ変わるタイミングが、息子ホークを失ったことをグラスが認識した時点からであること、(b)グラスが息子を失ったことで一度死んだと(解釈しうる)発言をしていること、である。
結論:グラスの精神が壊れ(かかっ)ていることを意味している。
その根拠は、(a)元ネタである『僕の村は戦場だった』のイワン少年がやはり精神が壊れかかったときにこの表情をしたということ、(b)息子ホークという生きる意味に加え、復讐という一応の生きる目的さえ失ったグラスには、これから生きる意味が何もないこと、である。
結論:グラスは死んでいる。
この問題は前作『バードマン』で同様の問題が争われたときと同様、作品のテーマから考えなければならない。
前作『バードマン』で主人公の生死について争いになったとき、生きている説が有力となった理由は、作品のテーマが「『中年の危機』を迎え、娘ともうまくいっていない父親が、この先どう生きていけばいいのか」というものであったという点にある。つまり、主人公が死んでしまうとこのテーマとの整合性が取れないのだ。
しかし『レヴェナント』では、主人公は既に自分は既に死んでいる旨を明言し、生きる意味を新たに獲得した様子も認められず、その心は壊れかけている。
ここからは解釈が分かれるところだが、『レヴェナント』のテーマは「親が子をいかに愛しているか」という点にあるのではないか。
グラスは本人が言うように、息子ホークの死亡を確認した時点で、死んでいた。それにもかかわらず死と再生を繰り返し、フィッツジェラルドのもとにたどり着いたのは息子を愛する精神の力(つまりジョジョ5部のブチャラティ的な意味で生きていただけ)によるものではなかったか。
フィッツジェラルドを打ち倒し、インディアンのリーによる神罰を引き寄せた時点で、彼の精神は崩壊し、肉体的にも精神的にも死亡したのではないだろうか。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23488282
彼は社会学者としての立場から法律や改憲論者と論壇で登って答弁しているわけだが、オレには佐藤氏と古市さんとの間で話がまったくかみ合っていないように思える。
正直、この佐藤という人を含め、古市さんを叩いてる人にはマーケット感覚がないんじゃないか?と思うんだが、具体的にどうやってそれを示したらいいのか見えてこない。
山本みずき氏との論壇でも同様だと思う。山本みずき氏にはマーケット感覚がない。一方で古市氏にはマーケット感覚がある。
議論のレベルがかみ合ってない。山本氏も佐藤氏も、社会の泥臭い面や言葉通りにいかない部分が見えてない。古市氏の方が社会を間接的に知る手段が豊富で信頼できると思うんだが
同じように思ってる人はいないのかな。。。
一応個人的に考えてみた内容をまとめてみたので、知見のある方々の指摘や修正がほしい。
是非論駁してみてくれ。
個人的な思考なんだが、『佐藤氏』と『古市氏』のバックヤードに目を向けてみた。
ソースはwikipediaくらいしか簡単に示せるものはなく、佐藤氏のことはオレはほとんど知らないので、あまり知ったようなことは言えないんだが・・・
『佐藤氏』
『古市氏』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%B8%82%E6%86%B2%E5%AF%BF
佐藤氏の両親は政治学者と弁護士。つまり歴史と法に重きを置く典型的な法学部タイプ。日本は法治国家で資本主義として成功した社会主義タイプなので、佐藤氏は典型的な右派で保守的なタイプ。
一方で古市氏は環境情報から社会学へと転向した。つまりバックヤードとなる知識や感性は科学者タイプ。
ゆえに、古市氏の論じる分野には必ず〝マーケット〟がある。お金と結びついて物事を考える発言がきちんと身についている。またそこに時価がある。
ここで勘違いしてはいけないのは〝経済〟や〝金融〟ではない、ということだ。要するに〝政治色〟が薄い。よく言えば庶民的。別の言い方をすると〝資本主義的〟。
また彼は友人に起業家を持っており、堀江貴文を含め、財界との繫がりも多い。ほりえもんちゃんねるなどにもよく登場する。
これを〝強い者に擦り寄る〟と表現するものもいるが、そのあたりの〝評価〟は置いておいて、マーケット感覚を得られる環境にいることは間違いない。
http://blogos.com/article/154867/
例えばここで古市氏は『すき家は企業が社会にもたらした社会福祉のひとつ』と述べたことで叩かれているが、なにが間違っているのだろう?と思う。
マイクロソフトをはじめとする新時代の新興企業の多くは、既存の制度を上手に利用して新しい形の報酬を従業員に還付している。
(※その代わり徹底的に税金を逃れている! ←善し悪しは置いておいて、事実そうである)
どの国に所属しているかよりも、どの会社に所属してその会社が与える福利厚生を受けられるか
ストックオプションを行使できるか、金融資産を持てるかどうかが豊かさへと直結する時代になったのに、いったい何故古市氏の述べていることが的外れなのだろうか?
シリコンバレーでは福利厚生を提供するサービスを行っている会社がYコンビネーター出身者によって起業されている。
ケータリングサービスやタクシーチケット、社宅システムなど、上げればきりがないと思うのだが・・・
http://asread.info/archives/722
日本に自衛権があることを古市氏は知らなかったと述べているが、これもある意味で間違っていないと思う。
実際のところ、実質的に自衛権を行使できなかったことには違いない。
・ミサイルを発射されながらもそれを撃墜できるのは日本に駐在している二機の米軍潜水艦のみであること。
・敵国が領空侵犯をしても命令がなければ撃墜できない。引いては物理的に〝敵飛行機を押す〟という意味不明な対処しかできない
これらの現行法の脆弱さをどれだけ学者やSEALsは理解してるのだろうか?
http://trafficnews.jp/post/46566/3/
自衛権は認められているが、〝実質的に言って認められていない〟ことと一緒。
であるにも関わらず、古市氏が『日本の自衛権って認められてるんだ…』という発言を〝知識がない〟〝教養が無い〟と評価する論調はいかがなものか。
一方で佐藤氏にはマーケット感覚が無いといえる理由はここにある。つまり法律や政治に関する学問を背景にしているところに問題がある。
この手の人間がやっかいなのは、やたらと知識や雑学は多く言葉に言葉を返すのは上手いのだが、思考回路に多くの前提条件や知識条件が抜け落ちていることが多い。
言ってしまえばマリー・アントワネットのタイプだ。
古市氏の発言が法学や政治に強い識者から叩かれやすいのは何故だろうか。
それは叩く者たちが〝歴史の変遷〟が、実は〝市場の変遷〟であること、をよく分かっていないからだ。
市場経済はより自然科学的だ。お金は政治や法律によって生まれたわけではない。自然に発生して、それが整備されて整えられた。実は人類が進化の果てに手に入れた概念だ。
軍事力と経済力のふたつは大国の力を現す両輪と考えられるが、実は歴史を手繰ると三番目の車輪があったことが分かる。その名も〝宗教〟。
鎌倉幕府の台頭に現れているように、歴史的に見ると既にこの頃から宗教の力は徐々に衰えを見せており、政治と軍事力の二つが世界を動かしていたと言える。
表の世界での政治はほとんどが宗教と密接に関わっており、もっぱらここが市民と政治の大きな接点であったと言える。
一方で軍事力は実質的な世界の掌握と統治を行う役割を担っていた。
少なくとも、日本においては明治維新でサムライが不要となるまではそうだったのだ。
しかし第一次世界大戦、第二次世界大戦に代表されるように、軍事政権は失敗を迎えた。
正しい仕方で行使されなかった軍事政権は、共産主義や社会主義を生み出したからだ。
一方で米国のような市場経済を中心として発展した国は一定の成功を収めた。士・農・工・商のうち、最後に勝ったのは商人というわけだ。
マーケットは〝国の力が弱まりつつある〟ことを明らかにしつつある。既に鎌倉幕府の時代から、政府が持つ立法の力は軍事力か経済力のどちらかを担保にしており、宗教はアイドルでありスケープゴートであったに過ぎない。
そして過去〝政(まつりごと)=宗教〟が中心だった国家は、現在政治の中心を〝経済〟へと移している。
軍事政権が実質的な掌握を行っていた政治は、現在では財界が実質的な掌握を行う社会へと変化した。そしてそれは加速していく。
実際、国が提供する福祉よりも企業が従業員に提供する福祉の方が優れている場合が多い。しかもマーケットに従った結果なので、相応の人材を兼ね備えており、無駄が無い。
パナマ文書にも代表されるように、国家の枠組みを超えた企業にとっては国境など存在しないも同然。
スターウォーズの通商連合のように、もはや国とは独立した別の政治形態と言って差し支えない。
戦後70年の間で形成されてきた常識などいくらでも覆る。今後の歴史は大転換を迎えると考えてまず間違いない。
その意味では、いまだに全時代的な歴史の踏襲と繰り返し論議を重ねる、マーケット論の無き法学者や政治学者が出る幕は実質的に言って存在しない。
宗教がその存在を弱めたように、政治もまた本質は思想であり宗教であるから、その実質である軍事力や経済力のいずれかに依存せざるを得ず、結果として時代に取り残される。
軍事力の台頭は世論が許さないだろうし、世界もそれを望んでいない。よって、これから重要になるのは、〝個人がどの市場経済に所属しているか〟である。
世界を牽引してきたのは技術革新と金融だ。宗教を背景にした政治はストーリーを創り出す力があったが、現代ではその力は失われている。
闇雲に政治を追いかけても歴史を追いかけても真実は見えてこない。
必要なのは産業界の歴史を追いかけること。経済史の発展と衰退の繰り返しの中に答えがある。
古市氏がどういう器なのかは知らないが、少なくとも歴史と現状を比較して将来を占う上で非常に恵まれた立場にいることは間違いない。
彼は川上の最新情報にアクセスできることが可能で、新時代のリテラシーも十分持っている。
法学者も歴史学者も、企業の間接部門でしかない。プロフィット部門ではない存在の者たちがとやかく言う論壇や議論に意味はない。
その点は古市氏も同様だが、彼は自分の立場が弱者であることを自覚している分、市場に対する的確な論壇を展開できる下地がある。
叩かれるのがその証拠だ。叩いてる奴らのほとんどはマリーアントワネットばかりなのだから、叩かれている姿を見てむしろ安心すべきだ。
**誰かみんなの主張のまとめを作ってくれないですか?** (まあそれこそお前がやれよって話かもしれないので、誰もやってくれなかったら私がしますが。。)
最近、JQueryはもはや不要でReactさえあればOK,みたいな記事をよく見ますね。
論旨としては、どうせトランスパイラ使ってるんだからもっと便利な書き方しようぜ!ってことなんだと思います。(virtual DOMがメインだ!という話もあったけど、じゃあ何でReactなの?というのは聞きたいかな。メジャーだから?)
ちなみに私は昔coffeeとbackbone.jsか何かで業務用のページ(SPAではなかったような気がする)を作るお仕事をしたことがありますが、フロントエンドエンジニアというわけではないです。どちらかというとサーバー管理とかのほうがよく知っていると思いますが、Javascriptもそれなりには書くくらいの感じの人です。Reactは不幸にして一度も触ったことがないので、以下の文章はすべてコードサンプルをみたうえでの感想です。
まずこれ。正直そんなにたくさん動的にがりがり書き換えているページをあんまり見ない気がするんですよね。その上正直そういうウェブページ、あったとしても大体使いづらいです。
世の中のページが全部FBならいいのかもしれませんが、具体的にはどんなところで使ってるんでしょう。業務ページとかですか?あと、なぜSPAにしなければいけないのかもよくわからないです。画面遷移するのだめなの?という感じで。
トランスコンパイラを使うのって、結局「将来的には全部ES6になるのだから、今のうちからES6で書いておけば将来のメンテナンスコストとかも減ってうれしいよね!」っていうことなんだと思います。
こういう例、JS以外にもいろいろあって、例えばboost、Androidのsupport library, Pythonのfrom __future__ importなどなどあると思うんですが、どれもやっぱり将来的なコストを見据えて、非標準のライブラリ・記法を使いましょう、ってことですよね。
でもJSXってそういうのじゃないじゃないですか。いわばsupport libraryを使うのとmonoで全部書くのと、位の違いがあるように見えます(そこまでは違わないかw)。そういう考察を一切入れずに、「どうせトランスパイラ使ってるんだから拡張記法使っちゃおうぜ!!」っていうのはかなり危ういように見えます。
そもそも、JSって結構独特な言語ですよね。もちろん今はnode.jsとかあるわけですけど、まあやっぱりスクリプト言語の標準の座ってPythonやRubyですよ。世の大多数の人はそっちのが使いやすいとおもってるんでしょう。ということでそもそもトランスパイラ通すんだったらもっと普通の言語から変えるようなソフトウェアが流行ってもいいんじゃないかなあとか思いますけど、そういうのがないのも謎です。dartとかどうなってるんですかね。(まtypescriptとか一種それだという話もあるか)
五年、十年あとにReact.jsって流行ってるんでしょうか。例えば五年前はcoffee scriptが結構流行ってましたけど、たしかもうサポート打ち切りとかになっちゃったんですよね。もちろん営利企業がバックなので、そこまで急になくなるかはわからないですけど、五年したらみんなまた別のライブラリがすごい!!みたいに言ってるんじゃないでしょうか。
まあだからこれはフロントエンドエンジニア業界全体の問題なのかもしれませんが、そういう将来的な保守コストをどう考えているのかが気になります。特にもし業務ページであるなら、せいぜいがなるべく枯れたライブラリ(≒JQuery)と、テンプレートエンジンあるいはフォーマットストリングでも使ってpure ES6で書いたほうがいいんじゃないでしょうか。そうすると結局SPAにはしないですよね。
まあこれを突き詰めるとじゃあetaxもactivexで、銀行のシステムはcobolで、マシンはpc98で、、、とかなっちゃうかもしれないんで、難しいところではあるとは思いますが、、、
とりあえずこんなところで、有識者の皆さんよろしくお願いします。
React.jsでした。angularと混ざりました。。あと特に喧嘩売ってるつもりとかは全くないですがそう見えたらごめんね。
id:murishinai 主張は単純で、せいぜいES6+トランスコンパイラ(+JQuery)とかでいいんじゃね、遷移はサーバー側でやったほうが楽じゃない?という感じです。
id:wordi virtual domが最大のメリット、ってのはよく見る意見ですね。例えば実際どんな場面で(どのくらいの規模のプログラムで)domの改変コストが効いてくるのか、みたいな実例を教えてくださると助かります。(もちろんFBとかはそうでしょうけど、もっとなんだろう、身近な例でお願いしたいです。)なんかReactががりがり(かつユーザー目線から見て有効的に)使われている例がイメージ出来ないのが問題な気がしてきました。
id:logic ええっと、それはそうなんですけど、なんだろう。標準のもので、少なくとも今後10年はあるだろうと言うもの(たとえばES6+フォーマットストリング)があるのにも関わらず、今後5年持つかもわからないライブラリを全面に押し出すの、ちょっと怖く見えるなあという気持ちです。
id:erukiti 具体的に頭の悪い点をご教授くださるとたいへんありがたいです。小規模だとそもそもvirtual domのメリットもなさそうですし、ES6標準でええんちゃうのんという気がしてならないのですが。
id:manaten もちろんFBやGMailをJQueryだけで作るのは不可能だと思います。だからFBはReactを、GはAngularを作ったのでしょうが、逆にそんなに気軽に使うようなものにも思えないのですよね。それこそ何百ブクマも付くのやべえなあ、と。(ところで私にはReactよりAngularJSのほうがずっと気持ちよく見えます)
SPAが使いづらいってのは言いすぎかな。正確には、「ページ遷移型のUIに比べて、SPAであることのメリットが明らかに生きているページって少なくないですか?」ということです。もちろんFBとかGとかtwとかは例外だと思いますけど、DOMを1000個とか10000個とかいじくり回しているページばっかあるようには思えない。もちろんどーーしてもSPAじゃなきゃダメなんだっていうならこの手のライブラリを使うといいとは思うんですが、どっちかというとニッチな需要じゃないでしょうか。
あとなんか保守点検に関する意識がちょっと違うのかなっていうコメントが散見されたんですけど、うーん、一発書いて書きっぱなしっていう案件そんなにあるんですかね?ちょっとそこがよくわかんないです。一度書いてもやっぱりn年先、さらにもっと言えば自分がその職場からいなくなった後のことまで考えてプログラム書くべきだと思うんです。そうすると、例えば数年後のプログラマにとってのReactは今のprototype.jsになってるかもしれない。そういうリスクが怖いです。勉強すればいいじゃんっていう意見もそうなんですが、なんでしょう、どちらかと言うと保守を気にしているので、そっちじゃないです。まあ幸いにして私は人の書いたJSをいじくり回した経験はないので、ただの推測なんですが。
それともしかしたら「枯れた技術」あるは「標準化」という意識があんまりないのかなとも思いました。まあ確かに「Webの世界は日進月歩!」ってことなのかもしれないんですが…。別のページのブコメとか見ても、「枯れた技術を使う」=「不勉強」みたいなのがあって、不思議です。。
あとcoffeeのころ、っていうコメントありましたが、あの頃はみんな夢がありましたよね。AltJSが世界を救う!みたいな。翻って今はどうか。それを思うと、やっぱり何でもかんでもReactじゃ、という意見には違和感を感じるんですよ。
増田に書いたのは単にみんなが見てくれるというだけの理由です。そもそも今諸般の事情でお仕事としてのエンジニアはしていないですし。ほんとに純粋な質問だと思ってもらえればうれしいです。
まあ長くなってきたので私のブログにまとめ直してもいいのですけど。
そういえばモバイルという話も出ていましたが、先日のandroid instant appsって、アレ「HTMLでモバイル向けに軽快なリッチUI作るの無理だからやめような」ってことかと思ったんですが、どうでしょうか。もちろん今現在は必要ですけど~。
■おそ松さん (172395件)
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山姥切国広 10772件
薬研藤四郎 10054件
大倶利伽羅 8809件
同田貫正国 5799件
鶯丸 4392件
※非公式人気投票から上位10人選出(全部見るのがめんどくさかった)
http://twisen.com/election/index/3418
三日月宗近 22442件
■私見
総数が同じくらいでも内訳は違う
コース内料金のみで遊ぶ事ができる。
1.嬢が客を攻めるコース...客は受け身。嬢は下着、嬢へのおさわりは禁止。フェラなし。
よって嬢がリードせねばならず嬢のSとしての実力がもろに出る。
料金設定が安く一番利用人数の多いコース。
2.客が嬢を攻めるコース...基本嬢が受け身で、嬢からお客様にサービスするのは「ご奉仕」。
嬢への身体負担が大きいため値段設定は高い。
3.攻めたり攻められたりを楽しむコース...攻められたいし、嬢を脱がせて体も堪能したい人向け。
まず客層は圧倒的に1番の「嬢が客を攻めるコース」が多い。
安いコースで遊びたい人、あわよくば安い料金で嬢を攻めて楽しもうという人も来るため。
【見た目オス感の強いタイプ】
単純に背が高かったり、筋肉隆々とした巨漢だったり、
大手企業のやり手の営業マンだったり、一見男らしく気を張るタイプ。
だがSタイプのようにかたくなに心を閉ざす感じでもない。
こちらの質問に静かに答えながら、出方を伺っている。
こちらのSとしての実力を認めないと、なかにはS転する人もいる。