はてなキーワード: 出版物とは
献血宇崎ポスターを問題視して刃牙BL消費をガンスルーするフェミは結局どこを論点にしてるのか分からないので説明してくれない?
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1910/23/news105.html
「独歩さんが克巳の体型について「うっすら脂肪を残し」って説明してるのがなんかエッチ」
https://twitter.com/rtyuiotyuijn/status/1186685863377289217
「女性を勝手にエロコンテンツ化して売り、それによって男子の様に堂々と肌を出せなくなる、肌を出すならエロコンテンツ扱いされる事を覚悟しなければならないような状況をつくった、②のような存在が一番の問題」
「イラストにおける女性表象も「女性をその内面性から切り離し男にとっての快楽の手段(鑑賞物)として切り取ろうよ」という提案なので、紛れも無く②に該当」
献血宇崎ポスターがフェミから批判されているわけだけど、「イラストであろうと性消費するなら悪!」と主張するなら刃牙をBL消費するのも同様に批判しないとダブスタじゃない?
ねとらぼ記事のブクマを見ると「ねとらぼは「公共」なのか案件 」って言ってる人がいる。
結局フェミの主張は「公共で性消費するな」ってことでいいわけ? それとも「日赤は認可法人だから公に準ずる機関だから批判しているんだ!」って感じかね?
https://anond.hatelabo.jp/20191021020100
ここに今までフェミが批判してきた萌え表現?(女性表象の性消費?)が並んでるわけだけど、『境界線上のホライゾン』なんかは私企業の出版物でかつラノベ棚にゾーニングされているラノベだから本来は問題なかったのに無理筋で批判したってことでいいんかね?
角川は私企業だから日赤のような批判はあたらないってことでそれはいいよね?
公共か否かについては『境界線上のホライゾン』はラノベ棚に陳列されてるからそれで充分じゃない? それとも不特定多数の人が出入りできるからゾーニングされてるとはいえない、公共空間だということになるんだろうか?
https://twitter.com/nissystaff/status/1027123304526540800
ではこれはどうだろう。老若男女が利用する駅構内での「anan愛とSEX」。「NissyのMVような華のあるエロさ」「情熱的な西島隆弘を堪能」「相手の女性も綺麗で色っぽい2人の絡み」などと感想が並んでるわけだがフェミは何故これを「公共で性消費するな」と批判しないのだろう?
「そんなもんそっちが勝手に批判すればいいだろ!」という感じだろうか?
『ゆらぎ荘の幽奈さん』を批判したときは「子どもが見るジャンプでするな!」みたいな論調だったけどけっきょく子どもがどうというのは建前にすぎず、自分が不快なものを批判するために子どもをダシにしたってことだろうか? だって子どもも利用する駅構内での「anan愛とSEX」を批判しないというのはそう受け取らざるを得ない。
フェミは一人一派とか、ただ女性だというだけで性消費される苦しみを理解しろといったお気持ち論に終始するんじゃなく、他者の表現の自由を制限しようとしている自覚をもってフェミはどこを論点にするのか、どういう状況なら萌え表現と折り合えるのかそろそろまとめてほしい。
出版物の内容なら表現の自由だし、それだけで済むけど、公共掲示物は表現の自由とはまた別だろ。
そこの議論がなされてないんだよ。
ちゃんとゾーニングに合わせて修正されたエロ漫画を出版するのは自由でも、それを駅に貼り出していいのか、って話だよ。
そこは別問題だと思うよ。
モフモフ社長( id:shields-pikes )です。
shields-pikes『批判対象の理解が甘すぎて、批判の根拠が主観でしかないのが、非常に残念。そもそもあの表情がは煽り顔で、アヘ顔(性的絶頂の表情)でないことは明白なので、漫画文脈の読解力も低く、無駄に議論を混乱させてる。』
と、このようにブコメにも書きましたが、この人は意見があまりにも拙くて、反論どころかフェミニストの味方を背後から誤射しているレベルです。
https://anond.hatelabo.jp/20191016150214
しかし、作品としての表現が許容されるかどうかと、公共の場に掲示されるべきかどうかは全く別の問題である、という論点はしっかり議論されるべきだと思うので、このまま有耶無耶にしてしまうのはもったいないです。
ということで、論点を整理しつつ、検証してみます。結論から言うと、論点は6と8のみです。
1.漫画作品としての表現と出版の適切さについて → 法令を遵守しているし、全年齢向けとして露骨な性的描写もなく、雑誌や単行本としてもゾーニングされているので全く問題ない。女性を性的に消費している表現は実際のところ存在するので、作品に対する意見や批評の余地はあると思うが。
2.この作品がコラボ企画としてポスターに起用されることについて → 人気漫画なので、グッズがもらえるコラボキャンペーンでそのファン層を献血のターゲットにしたいのだろう。関係各所が問題視していなければ問題ない。ちなみに、セリフ以外のイラストは3巻の表紙の流用である。
3.このキャラクターが起用されることについて → ウザ絡みしてくる後輩の巨乳女性である。胸が非常に大きい点が目立つが、それだけで不適切なわけではない。キャラクター自体が犯罪者や変態性欲者などの公的に不適切な存在というわけではない。
4.このキャラクターがこのセリフで起用されることについて → 原作の世界観とキャラ設定に則ってネタ消費されている。ポスターとしては若干攻めている表現。献血未経験者に対して、上から目線の煽りで多少の毒があるが、ファン向けの話題作りとしては問題ないレベル(そもそも今回はそこが論点ではない)。
5.このキャラクターがこの服装で起用されることについて → 黒のシャツワンピ?もしくはワイシャツ&スカートにエプロン姿。カフェ店員の制服として、特に扇情的な服装ではない。
6.このキャラクターの服装や身体の描き方について → 大きな論点。シワの描き方は一般的で、性的な要素はない。しかし、かなりタイトでピッタリしたサイズ感の着こなしで、胸が大きすぎるのでその部分が強調されているのが気になる。リアリティ描写としては、胸のボタンの間に隙間が出来るはずだが、それをあえて書いていないのはもしかして性的な要素を減らすためかもしれない。そのため、いわゆる風船のように膨らんだ乳袋っぽくなっているが、形状はそこまで不自然ではない。もし胸部をリアルにシワを書いていたら、より性的に見えていたはずだ。また、乳首などを表す陰影もない。手や顔などの部位も総じて、性的に描かれているわけではない。ただ、性的魅力をアピールするようなイラストもしばしば描く作者が描いているものなので、色っぽさの残り香のようなものはあると思う。そこが批判の対象になっていると思われる。
7.このキャラクターがこの表情とポーズで起用されることについて → あれはアヘ顔ではなく、ウザ絡みしてる時のニマニマ煽り顔。少し頬を染めているのは煽りで興奮気味なのと、話しかけてる相手の先輩が好きだから。これ自体には特に問題はない。ポーズも相手を馬鹿にしてる時の芝居がかった一般的な表現だが、公共ポスターとしては若干攻めているかもしれない。
8.総合的に、このキャラクターが公共の場に掲載されることについて → ここが最大の論点。秋葉原の献血所のみに掲示するのであれば、文脈を含めて特に性的なものではないと理解されやすいが、いわゆる萌え絵(死語)的なイラスト表現に慣れていない人も多い他の地域に掲示されるのは意見が分かれると思う。15年ほど前までは、そもそもマンガ表現を広告クリエイティブとして公共の場に出すこと自体の是非もあったが、今はアニメや漫画がひとつの文化としての市民権を得ているとされている。しかし、ここの前提は「市民権を得た」「慣れた」で済まさずに、もっと議論すべきだと思う。
まとめると、
8.= このような画風のイラストを公共の場に掲載するべきか?
の2点が重要です。そして、この2つは密接に絡み合っています。その他の議論はノイズなので捨ててください。
6は、漫画に慣れている人にとっては、これなら特に性的というほどでもない、という意見が大半ですが、このような画風や記号的表現や文脈に慣れてない人にとっては誤解を生みやすい。逆に、漫画ばかり読んでいる人は性的な表現文脈に慣れすぎて麻痺してしまっているのだ、という反論もそれなりに説得力があります(後述します)。
8は、6と直結するのですが、慣れてない人にとっては若干不適切で性的な表現と誤解されやすい表現を公共掲示物で使うべきか、ということになります。万人受けする無難なものだけを狙うなら、コボちゃんやアンパンマンなどのイラストを使えばいいでしょう。しかし、それでは若年層のオタク向けの広告としての効果は低い。2.や4.で指摘した通り、ここはターゲット層を獲得する目的とのトレードオフです。
一方で、仮にあのイラストが性的な視点を含むものだったとして、それを掲載することが生む具体的な問題とは何か、という点も議論が必要です。
困惑する、不快感を覚える、性的消費を連想させてトラウマが蘇る、性的消費を助長する、子供に見せたくない、教育上不適切である、などの意見があるでしょうか。
これ、難しい問題なんですよね。人によって判断基準が違う。無修正画像でも平気な人もいれば、サザエさんのワカメちゃんパンツでも困惑する人もいるわけです。
出版物であれば、この線引きはR15、R18などの年齢指定のゾーニング基準に任せるのが一般的ですが、公共掲示物のゾーニング基準は、それよりも少し厳しい基準で別途で設けた方がいいかもしれません。
この「公共掲示物専用のゾーニング基準を作ること」こそが、この文中での最大のソリューション提案です。
最後に、漫画ばかり読んでいる人は性的な表現文脈に慣れすぎて麻痺してしまっているのだ、という反論について。
ここは、本来は原作の作品や編集姿勢、漫画業界の歴史と今のトレンドをフェミニストとして真っ向から批判するべきなんですよ。
ただし、公共掲示物で使うべきか云々という論点といっしょくたに批判すると論点がズレます。判断基準がより厳しくなってしまうので。
なぜか、ポスターの批判をする人は、ゾーニングされた作品や原作を趣味で読む分にはいいんですよ、という人が多い。
柔軟な姿勢を見せて理解を示してるつもりかもしれませんが、まずそこが不可解です。フェミニストなら、まずそこを批判すべきなのではないですか?
男女同権を推進するスタンスなら男性の性的消費もさらに促進すべきですし、
性的消費表現を規制するスタンスなら男女同時に性的消費を助長する表現を批判するべきです。
ルッキズムを批判するスタンスなら、ダイバシティ文脈も踏まえて、美形だけでなく多様なキャラクターのエロを出すことを推進すべきです。
また、児童への偏った性的嗜好への偏重を憂えるなら、フェチズムではなくストレートな性行為のみを描くべきだと、主張するでしょう。
さらに、身体性の復権を求めるなら、局部表現の規制によりフェチズムに傾倒した業界を正すために、無修正表現の解禁を推進するでしょう。
会場の警備、海外観光客の誘致、交通整備など様々なところで税金が使われてるかと思いますが。なんなら同人誌自体も申請すれば助成金もらえるわけですし
https://b.hatena.ne.jp/entry/4672598644092735426/comment/nunnnunn
会場の警備
自腹だそうだが
https://togetter.com/li/1139197
仮に呼んでたとして別に呼ばなくても成り立つからコミケ側としてはどうでも良いと思うんだが
どうせこれのこと言ってんだろ?
https://www.google.com/amp/s/nlab.itmedia.co.jp/nl/amp/1804/04/news096.html (同人誌の印刷製本費を助成!? 名古屋市の制度、どんな同人誌が対象なのか市役所に聞いてみた)
担当者によると、助成の対象となる出版物は「文芸作品」または「名古屋の郷土研究」を内容とするもの。文芸作品とは小説、評論、詩、短歌、俳句、川柳などです。漫画の同人誌が助成の対象になるのか聞いたところ、ここ3年間には前例がなく明確な回答はできないとのことでした。
おそらく表現規制の最前線にいる人しか分かってないと思うので&早稲田大学エロ漫画研究会の記事がバズっているので再掲。
自主規制団体が必要とされる理由は大きく分けて3つ存在する。1つには、販売店を安心させるため。2つ目は、条例上あった方が有利だから。3つ目は、世論との妥協のためだ。
(太字強調は筆者による)
わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。
電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。
[児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律 第7条第6項]
児童ポルノを不特定若しくは多数の者に提供し、又は公然と陳列した者は、五年以下の懲役若しくは五百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。
電気通信回線を通じて第二条第三項各号のいずれかに掲げる児童の姿態を視覚により認識することができる方法により描写した情報を記録した電磁的記録その他の記録を不特定又は多数の者に提供した者も、同様とする。
つまり、わいせつな文書・図画や、児童ポルノに関する罪を問われるのは製造者や所持者だけではない。法律上は、販売した者も罪に問われる場合がある。
が、店員にとってみたら『わいせつっぽい物を販売したらある日突然逮捕されるかもしれない』は恐怖である。
そのような販売店の恐怖が『それっぽいものは全部売らない』になるのは商業的にも文化的にもマイナスなので、
ビデオ・映像関係の年齢表示や、成年向けコミックのマークはそのような販売店の声に対し、『自主規制団体が、刑法および児童ポルノ法に違反していないことを確認したと責任を負います』という意味がある。
だからこそ、数年に1度程度の割合で『AV女優が実は18歳未満だった』という事件があるが、そのAVを置いていたツタヤの店員が全て逮捕されるわけではないし、
以前薄消しが流行ってビデ倫の関係者が逮捕されたことがあるが、問題になったビデ倫の作品を扱っていた販売店の関係者は逮捕されていない。
逆に言うと、そういう団体を通していない、いわゆる裏ビデオを分かっていて売ったら店員が逮捕される可能性もあるはずだ。
上で書いたような『わいせつな文書・図画』や『児童ポルノ』は世間で広義で用いられるような意味ではなく、たとえ18歳以上にしか売っていないとしても、売った人は逮捕されるような物の話である。
では、一般的に「18歳未満には販売できません」で書店やアマゾンで売っている商品はどのような法的根拠で売っているか。それが条例上の理由だ。
第九条の二 図書類の発行を業とする者(以下「図書類発行業者」という。)は、図書類の発行、販売若しくは貸付けを業とする者により構成する団体で倫理綱領等により自主規制を行うもの(以下「自主規制団体」という。)又は自らが、次の各号に掲げる基準に照らし、それぞれ当該各号に定める内容に該当すると認める図書類に、青少年が閲覧し、又は観覧することが適当でない旨の表示をするように努めなければならない。
まどろっこしいが、要は『一定の倫理基準に該当する物は、青少年に閲覧・販売できないように努力せねばならない。(そして、成人に販売する分には問題ない)』ということである。
"18禁"などに関する(映像作品やゲームではR-15も一応は存在する)法令上のもっとも重要な(もしかしたら唯一の)根拠はこの前後の条文だ。
この条文があるからリアルでもネットでも、18禁の作品を売る際には専用のゾーンを設けなければならない。その区分が雑だという話(特にネットにおいて)はノーコメント。
2で書いたように、自主規制団体または出版社が自ら成年マークをつけたものは『表示図書類』として扱われる。それとは別に、『指定図書類』というものが条例には存在する。
第八条 知事は、次に掲げるものを青少年の健全な育成を阻害するものとして指定することができる。(以下略)
第九条 図書類の販売又は貸付けを業とする者及びその代理人、使用人その他の従業者並びに営業に関して図書類を頒布する者及びその代理人、使用人その他の従業者(以下「図書類販売業者等」という。)は、前条第一項第一号又は第二号の規定により知事が指定した図書類(以下「指定図書類」という。)を青少年に販売し、頒布し、又は貸し付けてはならない。
いわゆる『有害指定』である。“成年マーク付きのものは有害指定されない”と明記されているわけではないが、条文上『表示図書類』と併記して扱われているので事実上棲み分けている。
そして、『有害指定』の対照となるのは、「成年マークをつけなくても大丈夫だろう」と自主規制団体や出版社が考えた本の中で、青少年健全育成会議で指定された本である。(ちなみにエロ以外でも、犯罪や自殺を推奨しているとして指定される場合はある)
さらに言うならば、『表示図書類』は書店やアマゾンでも売っている。だが、『指定図書類』は流通が扱わなくなるため、事実上販売できなくなる。公式サイトからの通販などは可能なのかもしれないが…。
そもそもこのような自主規制団体が生まれたのは1950~60年代に『低俗な本・雑誌が溢れた』ことに対する世論の批判とそれを受けての条例(2や3で書いたのは東京都の条例だが、同様の条例は全ての都道府県に存在する)制定の動きに対してであり、
ビデオやゲームが出た後も法規制の動き(もしくは実際の逮捕事件)を受けてから出版の団体を参考にして自主規制団体が生まれている。
もっとも、出版と映像では少なからず差がある。最大の違いは、出版は成年マークのついていない書籍については一切の表示がないのに対し映像やゲームでは(ほぼ)全ての作品について「審査の結果、年齢区分はこうなりました」という表示があるということだ。
世の中において『私の考えるこれこれの思想・道徳に反する本は全て排除せよ』という日本国憲法ガン無視の全体主義者は少数だが、
「たとえ低俗な出版物であっても、他者の権利を侵害していないならば全て認められるべきだ」というガチの一元的内在制約説原理主義者もまた少数であり、
「低俗な本に対する一定の倫理的歯止めをする制度は必要だよね」という中庸な人がおそらく最大多数だ。
(酒鬼薔薇の本など典型例だ。私の倫理観はあの本が出ることを嫌悪するが、あのような本の出版をどうやって規制するのか、というと非常に難しいよなと思う部分はある)
そういう人たちに対して「いや、一定の倫理的歯止めはかけていますよ」というアピールをして、ひいては条例・法律上の規制をするような世論に持っていかせないという存在としても自主規制団体は役立っており、
民主主義の世の中においてそのような団体の存在意義は一概に否定するものでもない。
私は生まれたときから母に連れられて王国会館や奉仕、大会へ出席していましたが、中学生でフェードアウトした元2世信者です。
所属していた会衆(地域ごとに集会をするJWのまとまり)の長老は、フランクながらも模範的な親権家族(家族全員がエホバの証人である家庭)で、よく成員に声を掛けて励ましていました。
長老は趣味のレジャーを楽しみながら、生活のための仕事をして奉仕や集会ではよく牧羊の活動をしている、理想的なバランスでやっていて、抑圧的でない方が務めていました。
大会ではストイックさが非常に要求される内容の話が多い中、締め付けはゆるいように感じました。
このためか、会衆の雰囲気も集会の前後の交わりで気さくに世間話をし合ったりよかったと思います。
集会の内容は子供が理解するには大変で、時間も長いため集中することなど不可能で辛かったですが、
当時バプテスマを受けていない伝道者(大会で洗礼を受けずに集会や自発的に奉仕活動に出席する立場)として活動していた私は、
奉仕に行くのはいろんな兄弟と話す機会として楽しくやっていました。校区内で知り合いに会うのは本当に嫌でしたが。
私は、エホバの証人の教義自体は信じても信じていなくもなく、特に興味はありませんでしたが、コミュニティとして居心地がよかったのでやめずに続けているという状態でした。
生まれたときからずっと一緒にいる仲間でしたから。成員に恵まれた会衆の方はこのような方もおられることでしょう。
ただ、中学生だった若い私は、集会や奉仕に費やす時間を惜しむようになりました。
勉強をしたり遊んだり…(ほぼ余暇は遊んでいましたが)その中でエホバの証人としての活動をする時間が惜しくなっていました。
もともと、集会の内容は意味不明で、個人研究(集会内ではなく自宅でJWについての勉強をすること)の頻度を兄弟に尋ねられたときも虚偽申告をしていました。
学校の勉強もありますが、学校を帰った後には結構時間があるので聖書通読の範囲と書籍研究の範囲を時間を取ってやっていますなどと答えていましたが、毎週0時間でした。
奉仕は毎週行っていましたので、奉仕報告(奉仕活動の時間や出版物の配布数を提出する)はそこそこのものを出していたと思います。
しかし、奉仕についても表紙しか読んでいないものみの塔や目覚めよ誌を「今回こんなテーマで書かれた雑誌をお渡ししていますー。よかったらあとでお読みになってくださいー」
なんてバラまいていました。子供なのでよく受け取ってもらえるので、いくつか再訪問先もありました。今思うと、家の人も子供相手に断りづらかっただけなんでしょうけども。
ある時、会衆では模範的な伝道者と見えるように行動しながら、外では世(非信者や俗世間のこと)の友達と遊んだり、普通に過ごしているし、信じていない内容を述べ告げ、
読んでもいない雑誌をおすすめするのもどうかな。これはダブルスタンダードというものだよな。と思いはじめて、奉仕に行く機会を減らしました。
土日どちらも出ていたのを、土曜日だけにしたり、今週はお休みにしたりとだんだんと。その後、テスト期間中で忙しい、あるいは体調不良を理由で集会も休む機会を増やしました。
はじめは、仲間をこれまで欺いていたことが明るみに出ていくことが怖くて、母親が集会や奉仕に出かけた後泣いたりもしました。
案の定牧羊訪問(長老が励ましにくる活動)を受けたりしましたが、はい、はいといつもどおりの愛想で返事だけしていました。やがて、完全にブッチするに至りました。
高校に進学した後も時折兄弟姉妹が顔を見せに家にやってきたり、家に置いてある出版物を見るのが嫌で、大学は県外に進学しました。それからは実家を離れて一人暮らしをしています。
会衆を離れてから、いろいろ調べていると、どうもバプテスマを受けたエホバの証人がこのように不活発になって組織を離れると、
場合によっては背教者とみなされて、家族であっても忌避すべき対象となってしまうそうです。
私はそこまで深く考えていませんでしたが、バプテスマを受けていない伝道者というちょうどいいポジションでお茶を濁していたということでしょう。
もし嫌々ながら集会や奉仕に通っていながら、ダブルスタンダードに苦しんでいる方がおられるなら、
ぜひバプテスマを受ける前に離れることをおすすめします。そうすれば、親とは断絶することなくただの子と親の関係、いたって普通の関係は続くことでしょう。
親は一緒に楽園に行けないなんて!これまでやってきたことはすべて無駄になる!
なんて言って泣くかもしれません。でもあなたも信じていないなら、いずれにせよ楽園に行くことはできないと分かっているじゃありませんか。
これは私の考えですが、私は永遠に生きたくはありません。
世の娯楽を楽しみ、世が作ったもので商売をしています。(もちろん、犯罪などではなくまっとうな、JWの方も使っているものやサービスを提供しています。)
この生活が幸せですし、一日一日を大切に過ごして、最後は死にたいと思います。
もちろん、永遠に会衆の成員や家族と幸せに過ごしたいと思えば、それはあなたが教義に賛同しているのですから続ければいいと思います。
「受けるより与えるほうが幸福である」だとか、「隣人を愛しなさい」だとか。
聖書を字義通り解釈して、これら聖書の原則を大切にして過ごしておられるJWの方は、普通にいい人としてこの世に幸せをもたらしてくれることでしょう。
https://www.keigenzeiritsu.info/article/18596
税率 | 適用品目 |
---|---|
非課税 | 土地・建物の譲渡・賃貸、保険、郵便、賭け事、金融、教育、医療・福祉、埋葬・火葬、公的団体による美術館・動物園等の入場料など |
ゼロ税率 | 食料品(人間の食料、動物の飼料は原則としてゼロ税率。ただし適用除外品目が多数)、上下水道、出版物(書籍・新聞・雑誌)、運賃、処方に基づく医薬品、医療用品、子ども用の衣料・靴、女性用衛生用品など |
軽減税率(5%) | 家庭用燃料・電力の供給、高齢者・低所得者を対象とした暖房設備・防犯用品等、チャイルドシート、避妊用品など |
標準税率(20%) | 上記以外の多くの商品、サービスに適用されます。レストランでの飲食、ケータリング、宅配、温かい食べ物のテイクアウトを含みます。また、冷凍菓子類、菓子類(ビスケットを除く)、スナック菓子類、酒、飲料(フルーツジュースとペットボトルの水を含む)などにも適用されます。 |
もちろんイギリスに合わせろって話じゃなくて、
各国とも「必需品かどうか」という基準に基づいて「何を軽減すべきか」を細かく定めてるし、
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見城徹は紀伊国屋パブラインのヘビーユーザーだから、他社の出版物の売上がわかることも当たり前で、実売数はオープンデータだと思っているんじゃないだろうか。
全国各地の拠点に店舗を出している紀伊國屋さんの前日のデータが翌日に見られる、こんなすごいことはない。また、私以上に見城もそう思ったものですから、とにかく、PubLine データに日々かじりつくことになりました。回収した売行きデータよりも、PubLine を見て判断をしていく、というように変わったと思います。慌ただしかった月曜日がなくなり、楽になったと思っていたのですが、それはある意味試練の始まりでもありました。毎朝出社と同時に見城から会社に電話がかかってくるので、1 点 1 点売上の状況を説明するために、頭をクリアにして臨まねばならない。
また、先ほども長渕さんがおっしゃっていたように、他社のデータを見られるという機能がありますので、それも頭にいれておかねばならない。他社が真剣に売っている本を全く把握していないではないか、とよく朝からボコボコに怒られていました。
さらに、当時の PubLine は設置型の端末だったので、会社に行かないと数字が見ることができない。土日も、当時上司だった米原(一穂)と会社に行って、朝一で見城の電話を待つという日々でした。それがさらに盆、暮、正月となってくると、さすがにきつくなってきたので、その後は PubLine 当番なるものを設けて、営業部員で交代して対応していました。そこでまた少し楽になったというのもつかの間、今度は PubLine が web サービスになってパソコンがあればどこからでも見られるようになり、さらにリアルタイムでデータが見られるということになりました。今は、朝の 8 時から夜中の 12 時まで常に緊張の日々です。おかげさまで創業当初は週に 1 度の重版会議を行っていましたが、今は 365 日毎日です。とにかくスピード感をもって判断できるので、私たち幻冬舎は PubLine という装置を大変重宝させてもらっています。
https://publine.kinokuniya.co.jp/publine/pages/contents/publine_seminar_2015.pdf
この講演録に幻冬舎の新刊企画書が載っているが、「PL実数」という欄がある。パブラインの実売数を記入するのだ。
パブラインの数字を見ることで、その著者が過去に(他の出版社から)出していた本の実売数は筒抜けで、「あの作家は売れない」ということが分かってしまい、新たな本の企画が却下されるという話は幻冬舎に限らず他の出版社でも聞く。
それでも編集者の熱意や出版人としての判断で刊行に踏み切ることも当然ある。津原泰水氏の本が実際に出版されているわけで、見城徹が「編集担当者がどれだけの情熱で会社を説得し、出版に漕ぎ着けているか〜」と書いたのもまた事実なのだ。
「日本国紀」を攻撃されて文庫化を中止した経緯から出た発言ではあるが、「あの作家は売れない」という情報を、機密ではなく攻撃でもないと考えていた可能性は高い。
ということでキリスト教思想史研究やってた人が研究不正で懲戒解雇された件について、報告書に目を通した上でちょっと書きます。
この「写し」というのはどういうことでしょうか? 資料そのものを調査委員会が求めなかったのはどういうわけでしょうか?
歴史学者にとっては常識なのですが、他の分野の人にとってはどうかわからないので、解説してみます。
これは人というか研究分野によるので、安易なことは言えません。文学と哲学と社会学と人類学と歴史学と言語学とでは使う資料がぜんぜん違います。
で、この被告発者の研究手法は、近現代を扱う歴史家の多くが採用している手法だと思います。近現代史を扱う人たちは、
を主に史料として使います(「史料」ってのは、歴史を記録したナマの資料のこと。「資料」と呼ぶと後世に書かれた二次文献なんかも含む)。あるいは、上に書いたようなものをまとめて出版した本とかを使います。
これらの史料の特色とは何か……それは、
ことです。
公文書館というのは、「お役所の書いた書類を保管しておく施設」のことです。これはどのくらいかというと半永久的にです。普通の文明国ならどんなに細かな書類でも公文書館に保管されていて、(民主国家の場合は)数十年して機密解除されたり(独裁国家の場合は)体制が崩壊して民主化したりすることによって「申し込めば誰でも読める」状態に置かれます。これによって我々はソ連時代の領収書なんかをロシアの公文書館で読むことができるわけです。ソ連ですら公文書を保管して後世の我々に見せてくれているというのに……いや、これは余談でした。
当たり前ですが、それらはその国(あるいは地方)の公的な記録であって、自分のものにして持ち帰ったりすることはできません。ではどうするか。多くの歴史学者は
などの手段で史料を入手して研究しています(ちなみに写真撮影もカネを取る公文書館は結構ありますね。日本だとどうなんでしょ)。
昔の人が書いたものも、本とかなら古本屋さんとかで流通しているのを買うことができるかもしれませんが、稀覯書でなかなか手に入らなかったり、古雑誌のバックナンバーとか揃えるの無理ゲーだったりするので、図書館に所蔵されているのを使うことが多いです。近場の図書館に置いてない? 相互貸借もさせてくれない? そういう場合は当たり前ですが所蔵している図書館がある街まで行きます。その図書館がある街というのが新幹線が必要な距離だったりパスポートと航空券がないと行けない距離だったりすることも稀によくある(歴史学者の研究費は旅費と本代に消えていく運命なのです……)。そして、辿り着いた図書館でカメラをパシャパシャやったりコピーを黙々と取ったりするわけです(最近はスキャナーが普及してくれてマジ嬉しい)。
なので、調査委員会は「一次資料の写し」を求めたわけですね。たとえ彼が清廉潔白な研究者であったとしても、一次史料の原本なんてふつうは手元にないわけですから。
しかし、本来、彼は「一次資料の写し」を提出する必要などありませんでした。自分の論文を黙って調査委員会に提出すればよかったのです。なぜでしょうか?
もちろん分野によります。心理学みたいに人を対象とした研究だとしっかり実験ノートつけるように言われるかもしれないし、考古学とかは発掘時の状況を克明に記録しておくことが重要だったりするかもしれない。でも、少なくとも近現代史みたいな分野では、実験ノートをつける、という習慣はありません。
私は一度も、理系で求められるような意味での実験ノートを書いたことはないし、書けと言われたこともないし、書いていないことを理由に責められたこともありません。もちろん史料をノートに筆写したりはしていますが、そのノートだって別に厳密なものではない。普通の研究においてノートは使いますが、それは高校までのノートと一緒で、鉛筆で書いてもいいし、好き勝手なやり方で書いていいし、なんなら途中で破ったりしてもいいごく普通のノートです。最近はノートじゃなくてパソコンとかを使って研究上のノートを取ってる人も多いんじゃないかな(手書き疲れるもんね……)。
なぜか? と言われれば、
です。
つまり、「もとになった資料」というのは、理系のように自分の実験室の試験管の中にしかないものではなく、別の誰かが保管してくれているものなのです。
理系の学問において標準化された改竄不可能な形で実験ノートをつけなければならないのは、自分の実験室の試験管の中にしかオリジナル資料がないからですよね? しかし文系の場合は、少なくともここまで説明した近現代史の場合は、オリジナル資料はどこかの政府が管理している公文書館とかどこかの大学の図書館とかに保管してあるわけで、そこに辿り着くまでの情報さえ明記してあればそれで十分なのです。これはドイツ連邦共和国のベルリン連邦文書館の何々というファイルに保管してある何というタイトルの史料だ、とわかれば、チェックのためにはそこに見に行けばよいし、これは19世紀に書かれたほにゃららという新聞に載っていた記事である、と書いてあれば、その新聞が所蔵されている図書館を探して読んでくればいいわけです。
なので、別にどんな方法でノートを取ろうが自由なわけですね。最終的に読者がその元になったデータを見つけられるようにしておけばいいわけだから。
ゆえに、歴史学の論文や著書には膨大な注がつけられます。引用した史料のそれぞれについて「どこに保管されている史料なのか」「なんという本の何ページに書いてあることなのか」ということを書かないといけません。
なかには、史料が自分の手元にある場合もあります。多くの場合それは「昔の人が出版した商業出版物」なので(たとえば、極端な例ですが『わが闘争』)、他の誰かも持っていることが多いです。もしそういう史料で捏造とかしちゃうと「俺もこの本持ってるんだけど、お前が引用してる箇所見つからなかったよ?」という怒られが発生します(なお、捏造ではないですが誤訳指摘は受けたことがあります。コワイ! でも覆面査読なのにこの文献の誤訳を指摘できるってことはあの人しかいないじゃん……ってわかっちゃう! 文系の世界、基本的に狭い!)。「むっちゃ少数しか発行されなかった自費出版の本」とかが典拠になっている場合もあります。こういう史料を典拠にするのも仕方ない場合があるんですよ……典型的には、そこまで有力ではなかった政治家とか在野の知識人とかを研究したい場合、彼らが出してる本は全部自費出版というのがありえます(あと、言語学とかだと、たとえば与那国島の方言を研究したい場合に一番の参考資料になるのは与那国島のお年寄りが自費出版した方言辞典だ、みたいな例がありまして……与那国町が進めてる辞書出版プロジェクトむっちゃ楽しみ)。ごくごく稀に、古本屋で歴史上の人物が書いた手紙の山をまるごと購入できた、みたいな奇跡があって、モノホンの一次史料が研究者個人の所蔵になっている場合があります。これはねえ……もう本当に個々の研究者の良心を信じるほかないよね……若手研究者だと色んな大学を移り歩くこともあるだろうから今所属してる大学の図書館に寄付しろとも言えないしね……原史料出せって言われたときにすぐに見せられるようにしておいてね、定年退職するときは勤務校の図書館に置いていってよ、とお願いするくらいしかできない感じはあるよな……
さて、長々と書いてきましたが、要するに、捏造を疑われた研究者がきちんと注で出典を書いていれば、彼は論文を調査委員会の人たちの前に突きつけて「ここに出典書いといたから、見に行って確かめてこい」と言えばそれで済んでいたのです(それが生データにあたるものなので。実際、今回の調査委員会はドイツに問い合わせたりしていますね)。もっと言えば、彼本人から話を聞く前に、調査委員たちはまず典拠との照合作業を行って、彼が誠実に引用したこと、つまり彼が研究不正に手を染めてはいないことを確認してくれていたでしょう――もしも彼が潔白であったならば。
しかし今回の件では、注に不備があったので調査委員たちは注から出典を辿ることができませんでした。そこで被告発者に「写し」を求めた結果、元となる史料がそもそも存在しない、捏造されたものであることが判明したわけです。
注をしっかりつけろよ! まことにごもっとも。特に今回のケースは注の多い学術書であり、注の不備は申し開きができません。しかし、しかしです、この背景には、日本の出版事情が絡んでいるのです。
今回の被告発者は、学術書のほかに新書も書いていました。多くの新書には、参考文献リストはありますが注はありません。そして日本には、「研究者が書いた真面目な学問に関する本だが、注がない」というのが一定数あります(一応言っておくと、ここではauthor-date方式みたいな「厳密な意味での注じゃないけど、ともかくも出典を示す機能を担っているもの」も含めて注と呼んでいます)。実はこれ、文系のあいだでも問題視されていることなのです。
文系の学者が書いた学問に関する著書には、明白に書誌情報として区分されているわけではないですが、いくつかの区分があります。第一にいわゆる狭義の「学術書」。むっちゃ小難しい語彙で書かれてて、先行研究とか新規性とかに逐一言及して、参考文献を何十ページも載せてたりするやつです。読者は同じ学者、あるいはその卵。これで注を省くのは論外です。第二に「教科書」。これは学生さんとか初学者向けに易しく書き、内容には特に新規性を求められておらず、包括的な参考文献はなくとも読書案内がついていればそれでよし、という感じでしょう。注は別になくたっていい。
そしてこの2つのあいだには、「一般向け」という広大なグレーゾーンが広がっています。
あなたが読書好きで、少々お硬い本にも興味があるのなら、中公新書とか講談社選書メチエとかそういったレーベルを聞いたことがあるでしょう。岩波書店や青弓社や社会評論社といった出版社の名前を聞いたことがあるでしょう。実はこの辺、色々な種類の本が入り交じるグレーゾーンなのです。
これらのレーベルで真面目な学術書を出版する人もいます。講談社選書メチエでも、末尾にビッチリ注がついてたり参考文献リストがあったりするやつあるでしょ? ああいうやつ。一方で、こういうレーベルを一般向けの概説書・入門書を書くことに使う人もいます。よく中公新書で、包括的なタイトルで薄めの本を見ることがあるでしょ? 今回の『プロテスタンティズム』もそれですね。そして、一般向けの解説を書きながら、さり気なくその中で新しい見方を提唱したりする人もいます。学術的な新規性のある内容を、一般受けしそうだという理由で限りなく一般向けの本の体裁で書く人もいます(最近のやつだと『姦通裁判』マジお勧め)。
さて、こういう本を出す上では、内容は著者の完全な自由にはなりません。編集者は、もちろん学術的に正しい内容を求めているのでしょうが、彼らにとって重要なのは「売れること」です。そのために「一般向けにもうちょっと柔らかい言葉遣いで書いてください」とか色々と内容に介入してくるわけです。文体くらいなら別に構わないかもしれませんが、彼らの中にはこんな要求をしてくる人もいます。「注なんてつけたら一般読者に嫌がられます、注は省きましょう」
こうして生まれるのが、「学術的に新規性が高く面白い内容を扱っているのだが、注がない」という一般書の群れです。
もちろんこういった本にも参考文献はあり、「注はないけど、典拠を探しながら読めば典拠がわかるような書き方になっている」本もそれなりにあります(たとえば、はてな太郎の説によれば、と本文中に書いてあれば、注がなくても参考文献リストではてな太郎が書いた『増田の研究』という本を探し出せる)。ただ、やっぱりそれは注がある文献の出典表示の厳密さに比べれば一段劣るわけです。
これに関しては、研究者も出版社もそれぞれに問題があります。研究者サイドは簡単に「注を省け」なんて要求に妥協すべきじゃないし、そもそも「著書を出版する」ことが、博士論文を見るためにはわざわざ学位を授与した大学か国会図書館に行くほかなく出版して書店で流通させることが最も良い研究成果の流通のさせ方だった時代であればともかく、各大学がリポジトリを持っていていくらでもディジタルに研究成果を公表できる時代にあって本当に重視されるべきか考え直す必要があるでしょう(でも、欧米の出版社でも学術出版は盛んなので、これは日本だけの問題じゃないんですよねぇ。今でもオックスフォードやケンブリッジやハーバードやコーネルといった有名どころのUniversity Pressは学術書を出版しまくってます。学術書が研究業績として重視されるのは人文系では割と世界標準なので……)。
一方で、出版社は注をもっと重視するべきです。というよりも、日本の出版社やジャーナリスト、ノンフィクション作家は注をつけなさすぎます。先日、ボブ・ウッドワードがトランプ大統領についてのルポルタージュを出版しましたが、体裁も内容もおおよそ学術的とは呼べない一般書そのものの本なのに、きちんと出典を示す注がついていました。出版社は、学者に注を削れと言うべきではなく、ノンフィクションを書く作家や記者たちに注をつけろと言うべきでしょう。
とはいえこれは一朝一夕にはいきません。そもそも知の折り詰めである「新書」という形態が割と日本独自のもので、そういう一般と学術を橋渡しするレーベルが広く一般読者に読まれていることの重要性というものを鑑みると、簡単になくせとか言えません。私も色々お世話になってるし。人口1億人ちょいの書籍市場ではどうしたって限界があり、色々な本を出すのではなく折衷的な本を1冊出すのが経済学的には最も合理的という考え方だってあるでしょう。ただ、やっぱり一般書にも(それこそ講談社ブルーバックスや岩波新書レベルにも)注を入れるようにする、というのは必要だと思うのですよね。
さてここまで「注がない本」問題について解説してきました。でも何が一番言いたいかというと、
これ。これに尽きます。注はちゃんとつけよう。もしもあなたが捏造者でなくとも、研究不正をしていなくとも、実験ノートをつけない我々の業界において潔白を証明してくれるのは注だけなのだから。注だけが資料の実在を証明してくれるのだから。本の売上よりも、あなたの保身のことを考えよう。あなたが、部屋が汚いとかハードディスクがお亡くなりになったとかパソコンの買い替え時に行方不明になったとかの色々な理由で、史料の「写し」を紛失する日はきっと訪れる。そのときに、これまでのあなたの研究の誠実性を証明できるのは、人文系の学問においては、注だけなのだ。
以上です。駄文に長々と付き合ってくださりありがとうございました。続きはanond:20190511125053で。
https://www.asahi.com/articles/ASM461CLKM45ULBJ01M.html
http://nakajimahiroshi.xblog.jp/article/464365960.html
http://nakajimahiroshi.xblog.jp/article/464290012.html
東北大学を出て日本思想史で近世仏教を研究していたポスドク女性が自死した件。
女性の遺族は遺稿集を出版し、その中で結婚相手が統合失調症であることを隠して結婚した件について、
結婚相手の男性を実名をあげて批判しているが、これは明らかなヘイトスピーチでしょう。
たとえば結婚届を出してから、夫が元在日朝鮮人で帰化した人であることが分かったから、
離婚します、在日であることを伏せて結婚した元夫許せない、と書いてあれば、完全に
ヘイトスピーチです。
しかし、精神病の話となると、同じ構造でもそれが差別だと認識できずに、精神病者の側
精神病者は差別のサンドバッグはありません。差別されない権利があります。
自死した女性がなぜ離婚したのか詳細は分かりませんが、統合失調症であることを伏せて
いた一点が肥大化し、離婚に至ったのであれば、女性も、統合失調症患者の男性を恨む
本を出版している家族も、精神病者への差別心を持っていたと非難されても仕方ないでしょう。
確かに女性の自死は不幸なことです。しかし不幸な出来事に遭遇からといって、
出版物で差別発言(ヘイトスピート)を拡散することは許されません。
私は統合失調症の当事者ですが、精神病者が一方的に不幸の原因と看做されることに反対します。
冒頭の参考資料としてあげたブログを読むと、ブログの書き手(編集者らしい)も、
タイトル通り、いまの出版界はマジでつらいという話をしたい。僕は数年前からある出版社で書籍の編集者として働いている。
出版社はかなりの高倍率で、「人気業界」だとされている。講談社や集英社などは、就活生の入りたい会社ランキング上位に来ていることもある。ただ、これほど「人気」なのに、「不景気」な業界もないだろうなと思う。
出版物の販売額は1996年をピークに年々減少を続け、ピークの半分以下にまで減っている。しかも、昔から本を読んでいる人ならわかると思うが、20年前と比べて書籍の定価は大分値上がりしている。にもかかわらず、販売額は半減しているのだから、「どれだけ本は売れなくなってるの…」という感じだ。
データからすでに悲惨さは伝わってくるが、現場で聞く話は「人の顔」が思い浮かぶ分よりつらい。どこどこが倒産したとか、誰々が転職して田舎に帰ったとか、「限界」を迎えて出版社から姿を消してしまう人がたくさんいる。こうした話を何度も見聞きすると、本当に出版界は限界なんだなと思う。
これからさらに業界の再編が進んでいくだろう。一部の体力のある出版社以外は「足切り」され、淘汰されていくかもしれない。最近はんこ業界が、印鑑廃止に対する国への補償を求めたことが話題になったが、そのニュースを見たとき、出版界だって数年後似たようなことをやらかすかもしれないと思ってしまった。
僕の今いる出版社は、そして僕自身はこれからこの世界で生き残っていけるんだろうか。忙しい毎日を過ごしながらも、その不安が頭の片隅にずっとこびりついている。
ネガティブなことをつらつら書き連ねてしまったが、僕は「この業界から逃げ出そう」とはどうしても思えない。企画を考えるのは楽しいし、著者への取材は刺激をもらえるし、一冊完成したときの達成感はものすごい。それが売れちゃったりしたら脳汁がドバドバ出る。
仕事は楽しいし、本は好きだし、できればずっと続けていたい。でも将来は心配。同じような思いを抱えている人はこの業界には、きっと大勢いるはず。つらくて、おもしろくなかったらこんな悩みを抱えることもなかったのに、なんとも罪深い仕事だなと思う。
4月に入って、街でリクルートスーツを着た就活生を見かけることも多くなってきた。もし、出版社を志望している人がいたら、こう伝えたい。
言っちゃナンだがこれだよな。
>~彼のような発信力のある人が~
の時点で、自分達しか発信力がなかった出版側の寝言にしか思えない。死ぬまで寝ぼけとけ、と。
>~思うところあった~
と言いながら、実際には愚痴ですなんて中堅サラリーマンみたいな業界の言い訳になってるが、それすら電子が伸び続けている現状では作家から搾取する側の責任転嫁にしか見えないのが理解できないのか。
極論を言えば電子作家と出版社の発行物は(webで発信する)情報としては並列であり、相互扶助の精神でお互い無償で情報共有する文化のあったwebは広告による害に頭を悩ませ続けてきた。つまり、邪魔者になっているという認識がまるでない。
個人で見返りもなく自分から発信する情報を盗まれ、編纂され、反論すれば原典は出版物なのだから訴えると脅され、今では検索上位に食い込む為には広告料が必要だとかで『本当に周知してもらう必要がある情報』は金を払っても見て貰えない体たらく。webは広告によってゴミの山と化した。
そんな中にあっても「売るためには仕方ない」と嘯き、内容のないゴシップや竜頭蛇尾のタイトル詐欺、猥褻めいたイラストでその場凌ぎの客集めを止めない出版、報道の類が「上が分かってくれない」と愚痴を垂れ流したところで、一体誰が、どうして本気でどうにかしなければ、等と考えなければならないのか。芸能ゴシップやタブロイドがどれだけ検索のジャマになっているか考えた事があるのか。
なんて事は電子が始まる前から危機感を持っていた人は多かったし、プラットフォームの国産死守が情報発信と文化の保護と同義なのは分かり切っていた事だ。
これは例えて見れば、末端の書店も流通も印刷所も取次も出版社も、総て外資に握られてしまったに等しい。
その後に及んで体質だの無力感だのを言われたところで、正直なところ書き手としても読者としても勝手に滅びろと思うのが当然ではないか。
一人で愚痴を吐き捨てて何の見通しも目標もなく頑張ると締(シ)めるのは好きにすればいい(言ってみれば割付けも印刷も校正も丁合も綴じも流通もタダ乗りだ)が、長くwebを敵視し、既存メディアと共にネガキャンをし、その上で既得権に縋ってきた出版側に対する若い世代の感覚を甘く見ない方がいい。それすら感じない、単なる消費メディアとして動画やニュースやブログですら同列に見る"普通の人間"は、本など滅びても何の感慨もないだろう。
繰り返しになるが、webでの出版社は個人で情報の発信をしている人間にとって敵でしかないのを自覚する事だ。もう、生まれた時からwebのあった人間はとっくに成人している。
そして彼らは知っている。金で話題作りをすれば、必ず注目を浴びるはずだった誰かが消えるのだ。
出版社の使った金は、他の商品に税金の如く加えられた広告費と、ギャランティと言い換えようがなんだろうが中間搾取によって捻出されている。
何かまともな事をやる気ならそれを肌で理解した方がいい。そうでなければそのまま消えてくれ。(死ねとかそういう意味じゃないぞ)
私は宝塚のオタク女ですが,お手紙書くときに気をつけていること,自分用メモも兼ねて書きます。
他の方がどうやって書いているのかも気になっているので,私はこうしているよ!みたいなことがあれば教えてください。
ヅカオタだけでなく,声優さんのオタクの方や舞台俳優オタクの方,ジャニオタの方のお手紙事情もよろしければ教えてください。
公演中は,私はムラ民なので,基本的にムラお茶会,ムラ千秋楽後,東京お茶会,東京千秋楽後,の4回を封書で書きます。あとは,観劇時には入出で葉書を渡しています。
お稽古中は,大体2~3回くらいはお稽古待ちに行きますのでその葉書と,1通くらいは封書を送ることもあります。また,お稽古中にCSや出版物に登場したり,お礼状やサマカなどが届いたときには,なる早で感想や感謝を伝えたいので,お稽古待ちに行けない期間は葉書を郵送しています。
別箱公演中も大体本公演中と同じですが,遠征の場合は遠征したすぐあとと千秋楽後に書いています。
平均すると,月に1~2通くらいになるでしょうか?こう書いてみるとかなりの頻度でお手紙書いていますね〜
まず,便箋や葉書について私のこだわりは,自分が良いと思ったものを使うことと,毎回違うものを使うことです。
前者については,贔屓が好きそうなものを使うという方もいらっしゃると思いますし,私も贔屓が好きそうだなあと思ったらそれを買うのですが,そればかり気にしていると毎回同じようなものばかりになってしまうかなと思うので,完全に自分の趣味で選んでいます。贔屓は男役ですが,私が好きなので「ほわころくらぶ」とか「キキララ」を使ったこともあります(笑)
葉書についても同じです。あとは公演にちなんだものを見つければそれを使います。私の贔屓は公式のポスカが出ていないので,普通の絵葉書を使っているのですが,自分の趣味7割,公演にちなんだもの2割,贔屓が好きそうなもの1割くらいです(笑)まあ,贔屓の好きそうなものとかそんなに分からないし,いろんな葉書とか便箋が来た方が楽しいかなあと思ってのことです。たくさん送ったり渡したりしますしね!
公式のポスカが出ていればいいのにな〜とも思いますが,旅先などでも絵葉書を見たりとか,絵葉書を選ぶのもなかなか楽しいです!
次に,筆記具について,私は現状ジェットストリームの0.38を使っています。色鉛筆を使う以外には,ほとんど黒のジェットストリームしか使っていません。ジェットストリームはインクノリ的にあまりお手紙に向いていないなあと思っているので,あまりお勧めではないです。一番良いのは万年筆かなあと思うのですが,紙質がツルツルしていないと書きにくくてあまり上手に字が書けないと思って使っていません。
私は普段仕事でジェットストリームを使っているので,ジェットストリームが一番上手に字を書けると思っています。ただ,これについては時間ができたときにもっと研究をしていきたいと思っているので,みなさま何をお使いになっているか教えていただけると嬉しいです。
また,私はお手紙を書くにあたって形式面では一番,とにかく読みやすい字を書くということを心がけています。自分で言うのも何ですが,私は結構字が上手い方だと思います。ですので,いつも書きあげた便箋を見て『教科書みたい…』と思う感じの完成度で書いています(笑)まあ,丁寧に,字は大きめに書くと言うことを心がけています。だから,筆記具もできるだけ上手に書けるもの,と言うことを優先して選んで上記のようになっているということです。
次に,装飾について,私は絵を描くのはかなり苦手なので,シールを貼るくらいしかしていません。シールは常時何種類か持っていますが,公演にちなんだもの,組にちなんだもの,ハート,動物,という感じでしょうか。
入出で渡す葉書は,宛名欄は使わないので切手型シールを切手のところに貼っているのと,郵便番号欄をマステで隠すようにしています。葉書には値段がついていることもあるので,これもシールで隠すようにしています。
シールも,便箋や葉書と同様に可愛いと思ったら買うようにしています。minnneとかを使って買うこともあります。選ぶの楽しいです!
そして,下書きについて。
私は,幕間に書いたり電車の中で書いたりできないので,大抵は下書きをしっかりしてから清書をしています。
よく劇場でバインダーを使って書いていらっしゃる方をお見かけしますが,本当に尊敬します。私はなかなか舞台を見た感動を言葉にするのが苦手で,出待ちの葉書も事前に書いて持って行かないと不安です。
よろしければ,どんな感じで書いているのかご教示ください…
下書きは,思いついたときにパソコンやスマホのメモ帳に書き,それを百均の安い便箋や葉書に書き,さらにそれを清書しています。かなり慎重派じゃないかな?と思いますがみなさまいかがでしょうか?
お手紙の形式について,私は「拝啓〜敬具」の形式を守って書いています。これは少数派でしょうか?
私は昔から,年上の方にお手紙を書くことが多かったので,この形式がないと書き出しが難しいなあと思っています。
葉書の場合は,簡単な時候の挨拶,本題,結語,という感じです。
形式面はこんなところでしょうか。文字にすると意外と色々考えてるんだなあと自分で思います(笑)
最初に大体本題で書きたいトピックスを考えます。例えば,公演中なら,衣装のこと,スチールのこと,お芝居のあの場面のこと,ショーのあの場面のこと…という具合です。大抵,舞台の感想の場合は一つの場面で1まとまり,という感じが多いです。もちろん,一つの場面のあの振り付けと,あのソロと,という風に細分化されるときもあります。
そして,入出の葉書の場合は,それぞれのトピックスの長さにもよりますが,大体2トピックスくらいを下書きから選んで書きます。それで,公演を通して入出で書ききれなかったトピックスについて千秋楽後などの封書に書きます。なので,封書はその時によって長さが違います。とはいえ多くても四枚くらいまでしか書いたことないかもしれません。
そして,それらの内容についてまず気をつけていることは,ダメ出しは書かないということです。宝塚のオタクはダメ出し書く方が多いように思いますが,私個人の考えとしては,ダメ出しは多分上級生や演出の方からたっぷりされていると思うので,ファンはとにかく褒めて褒めて褒めまくる方がいいのではないかなあと思うからです。正直,駄作だなあと思う作品とか,あまり上手くないなあと思う場面もあるのですが,そういうのは書かないで褒めて褒めて褒めまくっています。褒める語彙がもっと欲しいといつも思います。
それから,舞台の感想については,なるべく具体的に書くようにしています。例えば,「〜の場面の〜の振りのところ,指先が/表情が/目が/笑顔が〜で,素敵でした。」みたいな感じでしょうか。もしかして具体的じゃないかもしれないです(笑)でも,ただ「〜の場面が〜でかっこよかった」ではなくて,なるべく細かめに書くように心がけています。そのほうが参考になるかなあと思うからです。いや,わからないですけど(笑)
あと,心がけているというか,私がよく書くのは「好きです」です(笑)これは,直接お渡しする葉書には恥ずかしいのであまり書かないのですが,封書の場合は「好きです」ってしつこいほどに書いています(笑)もちろん,「〜の場面の笑顔が好きです」みたいな書き方もしますが,「〜の場面の笑顔が素敵でした。好きです。」みたいな書き方もします。我ながら唐突だなあと思うのですが,好きって気持ちは唐突なものじゃないでしょうか!?(笑)
それと,同じような感じで「ありがとうございました」とかもよく書きます。唐突に。だってそういう気持ちって唐突じゃないですか!ね!?
それと,もっと抽象的に気をつけていることは,無邪気に,素直に書くということです。私の場合は,贔屓が年上の方なので,なるべく斜に構えたりせず,無邪気に素直に書いた方がいいかなあと思うからです。だからこそ「好きです」とかできるだけ照れずに書こうと頑張っています。まあ,普通に年上の方に接するときは無邪気に振る舞うようにするというのが私の処世術だからってこともあります。我ながら計算高いですね〜(笑)
私は,だいたい,舞台の感想→出版物の感想→CSの感想→お礼状などへのお礼,という順番で書いています。特に理由はないですが,強いて言うなら,贔屓のお仕事の中心にあるものから書いていくという感じでしょうか。もっとも,これは上記のトピックスを選ぶ優先度ではなくて,書く順番です。なので,お礼状へのお礼とか,時的要素が重要なものは舞台の感想よりも優先的に書くのですが,お手紙や葉書の最後に書いています。
って言うか,お礼状へのお礼ってもしかして書かないですかね????
これが一番悩ましいと私は思っているのですが,自分のこと,みなさんどれくらい書いていますか?私は,なるべく自分のことは書かないようにとは心がけているのですが,感想を書くにあたって書かざるを得ないこともありますよね。この辺りのさじ加減ってすごく難しいですよね〜。贔屓的には私のこととか知ったこっちゃないだろうし。う〜ん。まあ,書くにしても私は必要最小限です。
だいたいこんな感じでしょうか?また思い出したら書きます!お手紙って難しいですけど書くのとっても楽しくて,便箋や葉書や切手やシールを選ぶところから,私はとても大好きです。
一方的なオタクの自己満足ではありますが,受け取ってもらえるってことが私はとっても嬉しくて幸せに思います。
去年花組でも公演がされました「ポーの一族」,私は原作大好きなのですが,その中の「はるかな国の花や小鳥」と言うお話の中でエルゼリというキャラクターが「行き場があるのはいいわ。バラを受け取ってくれる人がいるのはいいわ」というセリフを言います。これって,本当にそのとおりだなあといつも思います。