はてなキーワード: 出版物とは
こういう活動を今の日本でやってる連中がいたとして、昔ほど好き勝手やれないだろうなと思えるだけ世の中良くなってる。
作品が人種差別であると抗議文をあちこちに送りつけている団体の実態は当事者でもなんでもない一家で「書記兼会計:小学生」と、PV集めて小銭稼ぎたいネットの有象無象にリアルタイムで晒されるから。
後から見ると本当に馬鹿げた騒動なんだけど、昔はこういう真相は作品が自主規制に追い込まれて何もかも終わった後に週刊誌がチョロっと記事を載せるだけだったんだよな。本当に酷い時代だった。
今ならついでに、活動家がSNSに残した黒歴史も根掘り葉掘り晒されるだろう。黒人差別を糾弾をするその口で過去にこんな差別発言をしていたあんな暴言を吐いていたと。
ナントカ特権をナントカする会をしばき隊のように、お前ら在日外国人には優しいのに女の扱いは酷いな(笑)みたいな犯罪案件も掘れるかもしれない。
出版社も「なんだ物狂いのクレームか」で無視できる。正しく言えば世間は活動家を叩くのに忙しくて、出版物が差別的云々は無視されるといったところか。
雙葉学園は、フランスのサンモール修道会の会員が1875年に設立した築地語学校を祖とする、私立の学校法人である。
雙葉学園はその長い伝統において、「徳においては純真に、義務においては堅実に」という校訓のもと、幼稚園から高等学校にわたる一貫したカトリック教育を行ってきたが、雙葉女学院大学の設立により、さらに4年間の大学過程をふくむ一貫教育が行われることになった。
というのも、雙葉中学校・高等学校は、東京大学をはじめとするいわゆる旧帝国大学や、慶應義塾大学などの難関私立大学に合格者を多数輩出し、全国有数の進学校と呼ばれるようになっていたが、多数の生徒父兄が、単なる学力の追及ではなく、カトリック教育のさらなる徹底を望んでいたこと、卒業生の多くがカトリックの信仰を保持していない現実を嘆くサンモール修道会の強い推薦により、2002年に大学過程を行う教育機関の設立が決議されたのである。その後、文部科学省の認可を受け、雙葉高等女学校の設立からちょうど100年となる2009年、開校に至った。
私が雙葉高校を卒業したとき、もしこの大学があったら、このエスカレーターに乗っていだろうか。キーボードを叩く手が止まり、ふと自分の過去を反芻した。
中学受験に成功し、晴れて雙葉の門を潜ることはできたものの、入学後は成績が低迷し、人生の目的も見出せないまま、あるいは、先生がたがおっしゃっていた、神に与えられた使命を感じることもなく、特に受験勉強もせずになんとなく大学受験をした私は、願書を出した中で最も無名な、平凡な私立大学に行くこととなった。
パッとしない4年間の大学生活の間、やはり人生に意義を見出せず、大学卒業後は、飲食店や塾講師などのアルバイトを転々としたのち、25歳で、あるカリスマ英語学者の執筆アシスタントとして雇われることになった。
受験生向けから社会人のやり直し英語のための参考書まで、様々な英語関連書籍を多数執筆し、そのほとんどすべてがベストセラー、2005年からは教育テレビでレギュラー番組も放送されている、クリストファー・トンプソン、その人である。
誰もが認めるカリスマ英語学者のアシスタント、ベストセラーが約束された数々の出版物の編集作業。やっと使命が見つかったかに思えた。
が、それもつかの間のことだった。
最初の数ヶ月で気づいたことは、クリス・トンプソンは執筆作業のほとんど全てを、彼の『アシスタント』に任せているということだった。それでも、はじめのうちは、英語学者である彼の理論を専門家でない一般大衆向けに落とし込むのに、アシスタントが最大限の貢献をしているのだろうと好意的に考えていた。
働き始めて半年が経った頃、主力の『アシスタント』が結婚・出産を機に退職することになり、私がその立場を引き継がなければならないとなったとき、彼女から真相が告げられた。カリスマ英語学者、クリス・トンプソンは、自分ではなんの理論も持っておらず、彼の博士号はディプロマ・ミルから得られたもので、彼のアイデアと言われるものはすべて、彼女の作品だったのだ。
『徳においては純真に。』私は、彼が世間を欺き続けるのを手助けすることはできなかった。
代わりの職を求めた私はその後、27歳にして都内にある無名の私立高校の英語教師として採用された。
須藤智くんとの出会いは、私がその学校で働き始めて3年目のことだった。
高校といえば雙葉高校しか知らなかった私は、おそらく世間では平均的であろう、学習意欲のない生徒たちを前に、教師として戸惑っていた。そんなとき入学してきた須藤くんは、『教え子』と——おこがましいが——呼びたくなるような、優秀で向上心の高い、私の初めての生徒だった。
彼はすべての科目の定期試験で満点を取り、全国模試では偏差値が80を超えていたので、瞬く間に教職員のあいだで評判になった。
彼の非凡な才能は、主に自然科学の理解に向けられているようであったが、彼の言語に対する洞察も、単に受験勉強ができるというレベルを超えているように思われた。
それは、彼が二年次に進級し、私の授業を受けることがなくなった新学期のことである。珍しく残業もなく、夕方6時に山手線新大久保駅で帰りの電車を待っていた私の元に、彼が歩み寄ってきた。
突然そう告げた彼は、意表を突かれてうろたえる私の返事を待つことなく、ノートを広げ、彼の発見を説明し始めた。
私は彼の理論を即座に理解することができた。なぜなら、中性子、陽子、原子核、電子といった、化学のアナロジーを用いているものの、それらの用語を適宜『主要部、内項、外項、句、付加部』という言語学の用語に置き換えれば、それは現代言語学の父、ノーム・チョムスキーが1970年に発表した、エックス・バー理論そのものだったからである。
彼はきっとエックス・バー理論をどこかで読んだのだろう、そしてそれを、自分の慣れ親しんでいる化学のアナロジーで理解したのだろう、と私は考えた。
しかし、彼は、これは紛れもなく自分でたどり着いた理論で、とっかかりになったのは、クリス・トンプソンの『60億人の英文法』にある「日本人は名詞が主でそれに冠詞がくっつくと考えがちだが、冠詞がまずあって、そこに名詞がくっつくというのがネイティブの感覚だ。」という記述だと言う。
ともかく、私は彼の話を信じた。そして、彼が自分の発見を教えてくれたお返しに、私も自分の『発見』を彼に打ち明けた。こうして彼は、クリス・トンプソンの秘密を知る、部外者第一号となるのであった。
秘密を共有した私たちは、ときどきメールを交換する仲になった。話題は主に、言語学。彼は初め、原子力工学の話をしたがったが、私がついていけないということに気づくと、言語学を中心に、私が理解できる話題を選んでしてくれるようになったのだ。これは私にとって、10年遅れて訪れた青春の一ページだったが、彼にとってはたぶん、相手が先生だから、気を使って付き合ってくれていただけだったのかもしれない。
私は一度、言語学の道に進みたくはないか、と彼に尋ねたことがある。彼がチョムスキーほどの天才かどうかはともかく、才能があることは間違いない。しかし、彼は原子力工学をやるといって譲らず、ワシントンにあるベルビュー工科大学を単願し、同校に進んだ。なぜマサチューセッツ工科大学や、スタンフォード大学を目指さなかったのだろう、あるいは、ワシントンならなぜ同州トップのワシントン大学に行かなかったのだろう、願書くらい出しておけばよかったのに、と当時も思ったが、きっと彼なりの理由があったのだろう。
メールのやり取りは彼が高校を卒業した後もしばらく続いたが、彼が希望通りベルビュー工科大学に進学すると、須藤智という天才を失ってただの無名な私立高校に戻ったその場所で、張り合いのない授業を続ける私が、なんだか取り残されたように思えて、劣等感からメールを送るのが億劫になって、やめてしまった。
須藤くんとのメールをやめた私は、高校教師の仕事もやめた。また人生に迷ってしまったと思った私は、以前のように求人情報をチェックしたり、履歴書を作成したりする気もなくなって、目白のアパートに引きこもった。
そんな張り合いのない生活を続けるうち、あるとき新聞の広告欄に、雙葉学園が、大学新設にあたり職員を求めているという求人情報が載っているのが目に留まった。行き場を失った私は、まるで蜂が巣に戻るように、こうして古巣に戻ることになった。
私はいま、雙葉女学院大学の国際交流課で、4年ぶりに須藤くんへのメールを書いている。雙葉女学院が日本の大学として初めて、ツー・プラス・ツーのダブル・ディグリー協定を海外大と結ぶことになったのだが、なんの因果か、その協定校第一号が、ベルビュー工科大学だったのである。そして、私が留学カウンセリングを担当した学生が、第1期生として派遣されることになったのだ。
彼女は聡明な女性だが、単独で海外に行った経験はないと言う。現地に信頼できる知人がいれば、少しくらい世話を焼いてもらってもばちは当たらないだろう。
キズナアイの件、だんだん疲れてきたので自分の見解をまとめることにする。
文章化しておかないと区切りがつかなくて永遠に頭の中グルグルしそうなので。
論点は二つあった。
1. は個人的には問題ない。というか、フェミニスト側からは批判してはいけない部分だと思ってる。
2. が今回の主戦場。
年代や階級、普段二次元表現やVR界隈に触れているかによって感覚が違っているようだとは感じた。
批判側の意見としては、男性が講師役・女性が生徒役という枠組みが旧来のジェンダーロールを再現しており、女性を萎縮させるとのこと。
世の中が完全に男女平等になっていれば、たった一つの例に目くじら立てないが現実はそうなっていないという意見を見た。
なんとなく納得できそうなところと、でもなーというところとあり、未だに整理できていない。
このくらいのことで、本当に女性は萎縮してしまうのか?と思ってしまうが、それは自分があまり抑圧を受けずに育ってきたからかもしれないし。
公的な性格が強い媒体ではポリコレに則って多様性に配慮した表現をするべきだ、という理屈はある程度納得できなくはないんだけど、
などなど疑問点や不安な点がいっぱいある。
そもそもそういう表現を公的な場所から狩ろうとすることは、長い目で見るとポリコレに反する表現を絶滅させることに繋がるんじゃないか?という懸念が拭えないわけで。
「ポリコレに反するから隠す。存在自体が許せないのではない、悪ではないが場所をわきまえてやれ」
これが、容易に
「隠されるものは悪いもの。悪いものは細々と裏で楽しむべき→悪いものはなくなるべき」
に変わっていくんではないか?大多数の人は「存在自体が悪い訳ではない」と思ってくれるのか?
多様性に配慮した表現も大好きだけど、多様性クソ食らえ!な表現も大好きなんだよ。
ポリコレ絶対を突き詰めていく先に、多様性クソ食らえ表現が狩られる未来しか見えないんだよな。
本当は楽観的でありたいんだけれども。
でも、ゾーニングは規制だし、ゾーニングのやり方によっては容易に表現の場が失われてしまうこともある。
個人的な理想としては、ある表現をなくして目立たなくするのではなく、自分がいいと思う表現をどんどん作ったり推したりしてそれらの存在感を上げていく方向が建設的でいいと思う。
子どもができたら「これは良くないから見るな!」って言うより、「こっちにはこういうのもあるよ」って接したい。
その上で、親が眉を顰めるようなものに触れてしまうのも当然だしそれは成長の一部だと思う。
親が全部管理なんてできやしねぇしするべきでもないし。
全部ひっくるめて子ども当人の人生で、自分で自分がよいと思うものを選び取れるようになってほしい。
そして今回、一番衝撃だったこと。アカデミックなフェミニズム側がジェンダーロールの再生産を非常に問題視しているという点。今更なんですが。
今回、1.の論点を重要視してるかどうかでフェミニズム側は分かれていたように思う。前述したようにこれをフェミニストと自称する人が問題視するのはどうかと思うので、ここでだいぶフェミニスト側を分類できた。しかし、性的だとはしない/もしくは問題視しない人々でも共通していたのは、あれが旧来のジェンダーロールの再生産であり若い女性を萎縮させる、ということだった。個人的に、アカデミックなフェミニストの中で信頼がおけると思っていた人も、ここは強く問題視しているようでかなり衝撃を受けた。
かつて自分が被ってきた女性差別を生々しく思い出して重ねてしまう傾向が一定の年代以上の人や女性差別が酷かった業界の人には多いということなのかもしれないが、それ以上にフェミニズムの中で長らく重要視された観点っぽい。そこまで確固たる共通見解となっていたというのが驚きというか。それを各種表現にここまで簡単に当てはめることに躊躇がないんだな、と。
個人的にはうなずける部分もあるが、女性差別のみを特に重要視して男性に対するジェンダー的な抑圧を無視する傾向がある気がするし、私が育ってきた中では幸運にもひどい女性差別を受けては来なかったこと、そして自分はジェンダーロールの再生産になりそうな作品もそうでない作品も両方楽しんで育ってきたことなどから、そこまで切迫感を持つことができない。私とそういう人たちとの間に断絶がある。
女性差別って私が想像する以上に酷いものがまだまだあると思うし解消に向けて動くべきだし動きたいんだけど、私は上記の理由からこの方向の活動にはどうしても同意できないな…。この方向で頑張ることによって、そういう酷い女性差別が改善していくとは思えない。
ちなみにVtuberやVR界隈に対しては、既存のジェンダー観でははかれない技術革新がもたらした今までとは違うジェンダー観が存在すると思っている。キズナアイも見た目は女性だがAIという設定で性別はない。ガワと中の人の性別が違うなんてざらにあるし、自分が望めばなりたい性別やセクシュアリティになれる・それを当たり前のように受け入れてもらえるという土壌がすごくいいと思っている。
あまりVtuber界隈詳しくなくて今回初めていろいろ調べてみた程度なのであまり語れないんだけど。バ美肉とかは、すごい革新的すぎて興味持っている。みんなもっとチャレンジしてジェンダーの壁を軽率に越えるべき。
参考:おじさんを美少女化したテクノロジー 先端心理学が語る「VRの世界」
https://withnews.jp/article/f0180401000qq000000000000000W00g10701qq000017020A
1~2の派生で、千田氏の炎上から社会学などの研究成果評価システムにまで話が発展したのは大変興味深かった。
というあたりか。それぞれの分野に合ったシステムがあって、外野から簡単に口出せるものではないと思うが、若手の方々がより良い方向を目指して試行錯誤されているらしい、ということは分かった感じ。
metamix 英語論文なぞいらん日本語で事足りるって話はまあいいけど、理系なら学部生ですらやらされることを文系だと教授クラスでもやらなくていいんだーフーンみたいな感想
お互いの分野で必須タスクが違うだけだろ……英語以外の外国語を読まなくていい理系はずいぶん楽ですね,って言われたらどう思うよ? 私は修論書くにあたって複数のヨーロッパの言語読んだし,東洋史だと修士でも複数の現地語+複数のヨーロッパ言語を読むのが当然みたいな分野もあるけど,理系は英語だけ読んでりゃいいんだっけ? ふーん.
dot 学術言語は一理あるとも思うけど、査読有りが理系のローカルルールという言説には面食らう。記述言語も査読有り無しも最終的には学術論文としての品質をどう担保するのかというところに帰結すると思うんだ。
slimebeth この問題、英語も査読も不要、理系が絶対と思うなみたいな捨て台詞をいろんな人が吐いてくのに「では代わりにどういう制度や方法論で研究の質を担保してるのか」を未だに誰も一言も言わないの底知れぬ闇感すごい…
本当に疑問なんだけど,こういう主張するひとたちって「まあ最近は文系も査読が重要になってきているし,若手は査読つき業績を増やしたがっているけれど,査読がつかないからダメとは限らない,ってだけの話.当たり前だけどダメダメな論文は後発の研究によってちゃんと批判されるか鼻にもかけられず無視される」っていう箇所が読めてないの? 査読つき雑誌はある,査読つきの業績は重要である,しかし査読がないからといってダメであることを意味しない,ってそんなに難しい話かね.
ていうかこういうひとたち,普段は査読通った論文なら無批判に盲信してるんですか? 論文は批判的・懐疑的に読まれ,瑕疵があれば後発の研究によって批判されたり乗り越えられたり無視されたりするものだ……というのは文理を問わぬ学問の常識だと思っていたのだが,「査読がないとどうやって研究の質を担保するの?」などと吐かす一部の理系はどうやら査読を通ってさえいればアッサリと先行研究を信じてしまうらしい.どっちが権威主義なんだか.
reuteri ペレルマンは査読されてないが多くの人から批判的にチェックされるでしょ?そのチェックの有無が科学にとって重要で、「学界の権威が言っているから正しい」という世界は科学ではないのですよ。日本語については同意
藁人形叩かれても困るんですよねぇ.
theta 日本には日本のXX学、米国には米国のXX学、印度には印度ののXX学があって相互に互換性が無いのなら、それは普遍性のある学問なのかなという疑問がある。
こういうレベルの説明から始めなきゃいけないの本当に馬鹿げてると思うんだけど,日本の西欧研究なら西欧諸言語の先行研究は当然追いかけているし,英語圏の日本研究者は日本語の先行研究読んでますよ.ドイツ人のドイツ史研究者と日本人のドイツ史学者は同じ学問に従事していて,同じ問題意識を共有している.ただ,日本の西洋史研究は日本の歴史学という別の文脈の中にも置かれていて,そちらから影響を受けて「日本の西洋史研究」独自の色を出すこともあるし,アメリカでは日本研究者と東南アジア研究者が共同プロジェクトで独自の問題意識を深めているかもしれない.そういう意味で各国の研究には多かれ少なかれその国の事情に根ざした独自性があるわけ.そして,時には「本国」以外での研究潮流が「本国」での研究に影響を及ぼすことだってある(たとえば前世紀末から今世紀初頭にかけてのアメリカのソ連史研究が典型的かな).日本の中国学はフランスや台湾の中国学と微妙に違っているかもしれないけれど,それでも同じ中国学なんだ.
kingate だとして。最先端は何処よ?学術・研究論文で最先端に批評貰う必要があるんじゃねぇの?ローカル内容でも批評貰わんと正否は出ないでしょ、総論として。で、あの学者モドキはその総論に後ろ足で砂掛けたの。
分野によるとしか言いようがないし,別に最先端は複数あってもいいんじゃないかと思わなくもないが.たとえば私が研究対象にしている地域については間違いなく英語でのショボい研究蓄積なんかよりも現地語での研究が最先端だけど,私は現地での最先端の研究をフォローしているし,現地人の使っていない資料とかも使って彼らと勝負しているつもりでいるよ(現地人だからこそ盲点になってる資料みたいなのがあるんだよなぁ).
iyochoo 国内のアカデミアを重視するか、世界のアカデミアを重視するか。両方の言語で書いてくれると助かる人が多いです。
「世界のアカデミア」なんて幻想で,各国別のアカデミアが併存してるんだよなぁ.もちろんそれらの間に橋を架ける必要はあるけれど.
(……)恐らく査読文化のないという文系の分野では、被参照数によって論文の質を予測するというように思うのですが、被参照数というのは流行の研究をしている事で他の研究者が参照しやすい環境がないと伸びにくい物です。ニッチな分野の研究をしているが、優れた研究であるのに査読も行われず、誰も参照してないという論文があるとして、研究を行う者はその論文を如何にして見つけて評価するのでしょう?文系の研究者は、研究を開始するまでに、かなり無駄な調査時間を必要とするのだろうなという事を想像しますね。(……)
ぶっぶー.ぜーんぜん違います.ろくな知識もないひとがテキトーに想像しても頓珍漢な答えに辿り着くだけなんですよねぇ.
そもそも,査読はあるし重要だが,査読がなくても良い論文であれば評価の対象たりうる,という話を少なくとも私はしていたわけで,それを「査読文化がない」と要約されても困惑するわけですが,まあ全ての論文が査読を受けているわけではないという状況を「査読文化がない」と書いているのだろうと好意的に解釈するとして.
当たり前ですが文系でも「レベルの高い査読誌」「査読はないがレベルの高い雑誌」「レベルの低い査読誌」「無査読紀要」ではチェックの優先順位や論文の重みは違います.当たり前ですね? 査読はしていないけれど,その分野では定評がありよく読まれる雑誌,というものが存在し,たとえばそのへんの査読をつけた院生向け紀要とかよりも圧倒的に読まれる,というような状況がある中で,査読がないからといって無価値扱いするのは不当だ,という話を私はしていたわけです.
なので,ニッチだけど優れた研究をしている人は,よく読まれる媒体に論文を投稿すればよろしい.というか人文系の研究対象って,研究水準の深化に伴ってどんどんニッチになっていく傾向があったりしますしー.
そもそも人文系の多くでは被引用数を重視する文化はあまりありませーん.理由のひとつとして「正確な被引用数を測定するのが困難」というのが挙げられます.著書も業績になり得る上に各国が自国語で研究する世界において,外国語も含めた紙の本での被引用数なんて管理しきれないのでー.私も自分の論文の被引用数なんて知りません.外国語で書いたやつは3ヶ国語くらいで引用されて,日本語のやつも紙の本に1回引用されたかな? でも他にも引用されてるかもしれないので,これは最低限の数字っすね.周りで被引用数なんて気にしてる人見たことないなぁ(私に指摘されて初めて自分の論文が他人の著書に引用されてることに気づいた先輩とかいたっけ).そもそも,引用されてむっちゃdisられてても1回引用とカウントするわけですよね? それ本当に論文の質の指標になるんですか?
(……)一方で世界の社会学者は、インパクトファクターの高い査読付き国際学術誌に投稿している様ですね。アメリカだと、テニュアになるためには当たり前の様に要求される実績の一つですし、それが世界標準でしょう。(……)
それはアメリカの社会学者が自国語で論文を書いているだけでは……?
というか,日本語圏の社会学者でも英文学術誌に投稿してる人はいますし,英文学術誌に投稿してる非英語圏の学者でも,それとは別に母国語の論文書いてたりしますし.英語以外の言語での論文が載ってる社会学の学術誌,探すとあちこちにありましたよー.
韓国語> http://www.ksa21.or.kr/kjs/
中国語(簡体字)> http://sociology.cssn.cn/xskw/shxyj/
中国語(繁体字)> http://tsa.sinica.edu.tw/publish_01-1.php
ロシア語> http://www.isras.ru/Sociologicalmagazine.html
フランス語> https://journals.openedition.org/sociologie/index.html
ポーランド語> https://www.ceeol.com/search/journal-detail?id=240
リトアニア語> https://www.ceeol.com/search/journal-detail?id=1027
カタルーニャ語> https://www.raco.cat/index.php/RevistaSociologia/index
ところで日本社会学会は和文雑誌の『社会学評論』以外にもちゃんと英文の学術誌持ってるんですよねー> https://onlinelibrary.wiley.com/journal/14756781
いやほんと,テキトーな知識でよその学問分野に軽々しく口を出して,正しいこと言ってるならともかくめっちゃ的外れとか,生きてて恥ずかしくないんですかね?
death6coin “ぶっぶー.ぜーんぜん違います.ろくな知識もないひとがテキトーに想像しても頓珍漢な答えに辿り着くだけなんですよねぇ.”攻撃的ですねぇ
理系の研究事情や査読制度を知りもせず「理系の研究は権威主義だ! 定説にとらわれて思考が硬直している!」とかわめく連中に,これまで理系のひとはどんな目線を向けてきたっけ? 冷ややかな目線を向けて嘲笑ってきたよね.もちろんそれはまったくもって正しいよ.理系の事情を知りもしないのに思い込みで的外れな批判をするのは愚かな行為であり嘲笑に値する.文系に向けて似たようなことをわめく連中にも同様の態度を取らせてもらうというだけ.
これは本当にそう.最近だと三元社なんかが琉球諸語・日本語対訳の出版物を出していたりするけど,言語復興運動家の著書とか学術誌のコラム止まりで,琉球諸語で書かれた学術論文は残念ながら見たことがない.琉球諸語は最近書記法の整備とか色々進んでいるから,今後はそういう方向に期待したいよね.もちろん琉球諸語で書かれた論文を査読できるひとはそう多くないと思うけれど,査読なしで論文を発表することも許されているという文系の事情を積極的に活用して中身のしっかりした琉球諸語論文を発表していくひとが出てきたらいいなと思う.
それに対しては2つの論点から応答したい.1点目に,「日本語は過去の豊かな蓄積を持ち,現在も多くの学術論文を生産し続けている言語である」という前提条件を忘れてもらっては困るということ.日本について研究している学者は日本語で論文を書くわけで,この点が方言とは違う(大阪弁を研究する者のほぼ全てが標準語で論文を書いているし,山形弁で書かれたヨーロッパ史の高度な研究は現段階では存在しない).
第2に.もちろん書いていいです.少数民族が独自の民族として生き残っていこうとするには何らかの形で文章語を持つことが(必要ではないが)望ましく,実際にヨーロッパでは人口数万人の少数民族でも自分たちの言語で書かれた学術誌を持っている場合もある(もちろんその場合,当該言語や当該言語で書かれた文学,当該民族の歴史といった限られたテーマについての論文を書くので精一杯だったりするのだが.ちなみにそういう少数民族の学術誌に少数言語で論文を載せてる日本人研究者もいる).それに,言語と方言とのあいだに本質的な違いはなく,たまたま政治権力を持ち規範が整備された言語変種が「言語」とされ,「言語」と見做されなかった地域的変種が「方言」と見做されているだけ,というのが社会言語学の常識であり,実際に気仙沼方言は方言ではなく独自の「ケセン語」だと主張して聖書を翻訳したお医者さんなんかもいる.上で書いたように,宮古語と日本語のバイリンガルのコラムを載せている学術誌もある(コラム止まりで,論文ではないけど).なのでたとえば,鹿児島大学で薩摩弁を公用語にした紀要が出版されてもよいと思うし,もしその紀要に優れた論文が次々に掲載されたとしたら先行研究を読むために薩摩弁を学ぶひとも出てくるかもしれない.そしてそれは,悪いことでは決してない.
きゃーお恥ずかしい.ご指摘ありがとうございます.訂正しました.
2.「性犯罪としての痴漢」ではなく「アブノーマルな性的欲求」として引き合いに出してる。
「叩こうとした」までは億歩譲って同じとしても(実際には小川論文は反撃でシュナムルは先制攻撃と言う重大な差異がある)、その求めるところには決定的な違いがある。
小川論文はLGBTの規制は求めてないのに対して、シュナムルは規制を求めた。さらにその一派には「自民党に依頼して法制化」などと言うことを言うものまでいた。
LGBTの件はフェミがどうとかは考えてない。Twitter等ではどうも同じ層の人たちが叩いてるように見えたが。
LGBTの件は「自称人権派、自称リベラルとLGBTが疑問を呈した人間を(人権と言うのは建前の)お気持ちを理由に弾圧、排除した人権侵害の問題」と捉えている。
これについては「実在すら怪しい幼女を代弁したフェミが自分の気に入らない表現をなんら根拠なきお気持ちで弾圧・排除しようとしてる」と捉えている。
実際にはオタクであるかどうかは関係がない。消費者たるオタクだけでなく、該当の出版物に関わる全ての人の問題だ。
変わらない。
変わる理由がない。
提示されてない。
クッパ姫を任天堂に公認させようとかいう意味不明な話が流れてきて、あー海外発だとコンテンツに評価が付いたらビジネスとして盛り上げなければいけないという話になるからそうなるよね、と思って見てたわけですが。同人は公式の黙認で成り立ってるからやめろって反対が起こるわけですよ。文化的背景から言えばそりゃそうだ、やめろ、と思うわけですが。
「公式の黙認」ってなんだよと。同人は若手が勝手に絵を描いてプロになる下積みとして機能しているわけじゃないですか。お前ら公式はどこから来たの? と。1980年代には宮本茂は死ぬ思いでマリオをゼロから創作したかもしれないし、手塚治虫はディズニーの丸パクリから全く新しい世界を築いたかもしれないし、彼らはPixivに版権絵をうpして絵を覚えたわけではないだろうけど、今の中の人は同人作家ばっかりじゃん。お前ら古巣の同人界に戻ってきてフリーライドしてるじゃん。
同人黙認システムが機能してるのは公式絵師が苦痛に思うからではなくて、既に「内容は把握しているし想定通りだし何も問題ないけど版権処理がめんどくさいから」「原作者以外のステークホルダーが睨んで止めるから」に切り替わってるよね。なんで止まるかって損するかもしれないからっていう反ビジネス的発想のせいだよね。オポチュニティの喪失ですよこれは。川上稔なんか自作のオンリーに申し込むんだぞ何買ってるのか知らないけど。
「販売する予定はないし、版権元にライセンスする気もないし、どこにも痕跡を残す予定もない。だから消せ。配るな。売るな。儲けるな。わたしを干せ」という主張は、不正な著作権の主張だ。著作権ってのは中世欧州において出版社が割れを売り捌く現象が多発したせいでできた権利だ。印刷所が薄い本を勝手に再生産して勝手に薄い書店に卸し著作権者が印税を干されて死ぬような事態が横行したか何かだ。そのために著作権者がまず正当な印税収入を確保するための出版物の独占的な発行権、つまり著作権を得て、金銭的収入を保護されることになった。もちろん現代では無尽蔵に拡大されて著作物の配布まで制御できるようになりそして同人黙認や同人誌のDMCA取り下げといった機構を提供するに至っている。だが、著作権は金銭的収入の保護のための権利だ。原理主義的には金銭的収入や社会的地位を得ない方向への制御は目的外の利用だ。「望まない形で公開されると盛り上がりが薄れる」はOKだが「盛り上がりすぎると困るので控えろ」は著作権概念の精神に反していて必ずしも保護される意志ではないのだ。
同人黙認グレーゾーン機構は、その核心に「このコンテンツをビッグにしたくない」という自死願望を組み込んで動いているために、現実的には機能しているが理論的に破綻しているのだ。このグローバル化の時代にあって(いつの言い回しだ)は早晩崩壊を免れない。それが日本から始まるのかコミケが海外のコンベンションに規模と薄い本の質で負けて海外から輸入されてくるのかは分からないが、いい加減になんとかならんのかこれ。
独特のリズムを伴った美しい文章を読むたびに、どうしたらこのような物語やエッセイを書けるのか、いつも感心するばかりです。
さて、ワールドワイドに活躍されている村上様ならばきっとご存知かとは思いますが、新潮45という雑誌がLGBTを明確に差別する意図を持った議員や文筆家と称する輩の愚劣な文章を掲載し、世に出してしまいました。そんな掃溜のような雑誌を出版した新潮社という会社から、村上様の出版物を購入するのは、何物にも変えがたい苦痛を感じるのです。どうか、どうかお願いです。新潮社以外の出版社から物語やエッセイを出していただけませんか?
かくいう私もLGBTのはしくれです。これまでも新潮社の雑誌の中には下劣で低俗なものもありましたが、今回の剥き出しの悪意と差別意識に、恐怖すら感じました。村上様は、このような声にきっと耳を傾けていただけるものと信じています。よろしくお願い申し上げます。
id:envs です。
増田なのに名前を明かすこと、ご容赦頂きたい。
トラックバック構造が見やすく、建設的な議論が成されやすいというのが増田というプラットフォームを選んだ理由です。
https://www.huffingtonpost.jp/2018/09/18/shincho45_a_23531748/
新潮45の件の記事には極めて反対。しかし私は言論の自由が民間にも認められるべきだと考えているので「廃刊にしろ、回収しろ」とは言わない。当然「廃刊にしろ、回収しろ」と言っている人の主張を批判する訳でもない
id:timetrain id:envs 例えばSNSの違反報告のシステムにも反対するのなら、主張に一貫性はあると思う。さらには名誉棄損や誹謗中傷、肖像権の侵害、著作権の侵害も言論の自由と言えるのなら。
以上の流れでした。100文字制限は主張を開陳するにはちと厳しすぎる面があるので、ここで私の言論の自由に対する主張を挙げておきます。
「成された表現」に対しては批判もOKだし、なんなら民事訴訟を起こす権利もあるし、あるべきである。
しかし「まだ成されていない表現」に対し、今までの著者の表現等から来る他者の権利侵害の蓋然性を基に、表現の手段を奪うようなことは、公的機関が行うのは極めて特殊な例外に限られるべきだし、民間企業が行うのは慎重さが求められると私は思う。
私はSNSの違反報告システムは嫌いです。
他者の権利を侵害している(これも裁判を経ていないので基準が曖昧であるが)投稿を削除するならまだしも、アカウントごと削除・凍結して、表現の機会自体を奪う方法には怒りすら感じます。
例えば岡口基一氏のTwitterアカウントが凍結されたことなどは、本当にそれで良いのかと疑問を呈せざるを得ません。
当然SNSは民間企業のサービスでありますから、アカウントをBANするのも別に一企業の方針なら仕方がないと思います。新潮社が新潮45を廃刊にしようが回収しようが、そういう方針なのだな、と思うだけです。
しかし私個人の見解としては、批判を多く受けた言説を掲載したからといって、さあ垢BANだ廃刊だ回収だとなる社会の方が、なんだか恐ろしいな、と感じてしまうのです。
"さらには名誉棄損や誹謗中傷、肖像権の侵害、著作権の侵害も言論の自由と言えるのなら。"とのことですが、これらは基本的に表現が成されたあとで紛争を解決すべきものであると考えています。名誉毀損や誹謗中傷が極端な場合は、裁判に訴えることで、事前抑制が例外として可能であるという判例もあります。しかしこれは特殊な場合だと考えるのが自然でしょう。基本的には訴えるのは表現の後で、というのが原則だと考えています。それほど言論の自由・表現の自由というのは私の中では重たく考えているのです。
事前抑制
もっとも、ある制度が検閲にあたらないとしても、事前抑制として表現の自由(21条1項)の侵害にあたらないかどうかが問題として残る。事前抑制は絶対的に禁止ではないが、厳格な要件でそれが表現の自由の侵害にならないかを審査する必要があるとされている。
この点につき、事前抑制の合憲性の判断枠組を示したのが、北方ジャーナル事件(最大判昭和61年6月11日民集40-4-872)であった。本判決では、民事訴訟法の定める名誉毀損的な出版物の事前差止めの仮処分が、1.検閲にあたらないか、2.事前抑制にあたらないか、が問題とされた。本判決ではまず事前差止めは検閲には当たらず、21条2項には反しないとしている。その上で、事前抑制が許される極めて例外的な場合にあたるかどうかを次のように審査している。
さくらももこの死に対しては、その思いはひとしおだった。
「憎まれっ子世にはばかる」の通り、さくらももこは長寿を得て、90歳、いや100歳まで生きるものだと考えていた。
大往生を遂げるまでは、殺しても死なないものとさえ思っていた。
生きて、生き続けて、いつかはその醜悪な性格がようやく世間にも明らかになり、老害として皆から嫌われて、それでも生き続けて、死ぬときには「ようやく逝ってくれた」と全員が胸をなで下ろし、喜ばれる、そんな死に方をしてほしいと願っていた。
その願いは打ち砕かれた。
食や健康に関するデタラメを書き飛ばし続け、どれだけそのデマが否定されても頑として認めず、さらにデタラメを書き飛ばし続けている船瀬俊介のせいではないか、と疑っている。
「ヒカルランド」の出版物は以下の通り。著者をざっと眺めれば、どういう出版傾向かは分かるだろう。
「船瀬俊介とガン(治療)」に関しては、googleで検索してもらうのが一番早い。
リンクをここに貼りたくないので、ここでは貼らない。
さくらももこは船瀬俊介と小林健の共著のカバーイラストを描いている。
さくらももこ 公式ブログ - 白鳥さん62歳。 - Powered by LINE
こうしたつながりの中で、さくらももこは船瀬俊介に吹き込まれたのではないだろうか。
ガン治療について、デタラメを吹き込まれたのではないだろうか。
さくらももこは船瀬俊介から吹き込まれたデタラメなガン治療もどきによって死んだのではないだろうか。
さくらももこは死んだ。
船瀬俊介は生きている。
船瀬俊介には「憎まれっ子世にはばかる」の通り、長寿を得て、90歳、いや100歳まで生きてもらいたい。
大往生を遂げるまで生きてもらいたい。
殺しても死なないでもらいたい。
生きて、生き続けて、今でさえその醜悪で下劣で誤った思想は世間に明らかになっているけれど、なお老害として皆から嫌われて、それでも生き続けて、死ぬときには「ようやく逝ってくれた」と全員が胸をなで下ろし、喜ばれる、そんな死に方を、さくらももこの代わりにしてほしいと願っている。
まずそもそもの話誤字脱字だのTypoだのがない文章を書くってのは不可能で、まずは書いてみてその後問題箇所を修正するというワークフローになります。
そして誤字脱字の発見コストって一箇所あたりが等価ってわけではなくて、同じ書籍に1000箇所誤植があるとき960箇所(−40箇所)にする発見コストと、100箇所あるとき60箇所(−40箇所)にするコストでは、後者のほうが圧倒的に高いわけです。これは散らばってる範囲のうち問題箇所が少なくなるに連れ見逃し率が上がるという事実の反映です。それに対して「読者が見つけた誤字脱字の報告がアレば直せるだろう」という声もあるのですが、その場合報告の取りまとめコストが高騰します。誤字脱字が少なくなればなるほど、なお見つかったそれを直すコストは跳ね上がるってのをイメージしてもらえばわかりやすいと思います。
そんな現実を踏まえた上で、現在の出版のビジネスモデルとしては「できる限り直すんだけど、ある閾値を超えた時点で残りは放置」って言うことになっているわけです。大事なのは、今の出版物の提供数や提供速度や提供価格は、そういう見きったビジネスモデルを前提に組み立てられているということです。
誤字脱字が今よりもずっと少なく迅速に修正されるモデルも理論上は組み立てられるのですが、その場合出版物の点数や速度や価格もまるで別のモデルになるわけで、それはビジネス的な判断で見送られているわけです。
もちろんこれは出版社擁護でも居直りでもなくて、ユーザーの圧倒的多数が誤字脱字を1%減らしてくれるなら値段三倍でも出すっていう意見になればそういうビジネスになると思います。既存出版社がアホ面で旧モデルにしがみついてても、新興の外資とかIT系とかがそういう需要を汲み上げていくでしょう。そうなればそれが正しい企業と顧客の関係だと思います。
という主張を見かけた。
確かに人の名前を間違えるのは失礼なことだし、出版物だったら編集や校閲はきちんと仕事しろとクレームを言っていいことだと思う。
だが、人種的偏見に基づく嫌らがせと言いきってしまっていいのだろうか?
これが、「太郎」を「郎太」と間違えていたら、「ろうた」で変換されないし、嫌がらせの可能性も出てくる。
しかし「明秀(あきひで)」も「秀明(ひであき)」も日本人の名前として普通にある名前で、デフォルトで変換される。
ミスとしては十分ありうるだろう。
ハンロンの剃刀「無能で十分説明されることに悪意を見出すな」と考えるのが妥当だと思う。
むしろ、単なる無能にまでヘイトのレッテルを張ってしまっては、ヘイトの重みが軽くなってしまう。
それは本当にヘイトで苦しんでいる人たちの問題の解決を遠ざけてしまうだろう。
もう一度言おう「無能で十分説明されることに悪意を見出すな」。
ところで上のパラグラフの中に一か所、文字を入れ替えたところがあるけど気付いただろうか?
もし気づかなかったら、あなたも「ヘイトを行っている!」と糾弾されてしまうミスを犯してしまうかもしれない。
そんな世の中は嫌だ。
追記