はてなキーワード: 青年とは
anond:20200315214945 さんに便乗して…
あんまり知ってるバンドいないからランキング形式って感じでもないんだけど、アルゼンチンのバンドもいいぞ スペイン語圏のバンド色々聴いてみた中で国として一番好みに合う ロキノン系ぽい?というか…
「奴は機械化警官を殺した」みたいな名前のバンド(映画ロボコップの台詞からとってるらしい) 「水中、それは苦しい」みたいなノリを感じる
奇をてらったバンド名からしてキノコヘアの若者みたいなやつがやってんのかと思いきや熊みたいなオッサンがボーカルなのが面白いところ
https://m.youtube.com/watch?v=FKuiJoT7GVM
いなくなった犬を探してるんだ、犬なしじゃやってけないよ、どこにいるんだい…というような内容(かわいそう)
Busco a mi perro perdido…オッオッオッオッ-っていう出だしがかなりいい
https://m.youtube.com/watch?v=x8NxfAml-a4
エキセントリックな感じの「君」と幽霊屋敷に行って帰ってくるという謎の歌詞
基本同じメロディの繰り返しだから盛り上がりはあんまりないけど、だからこそ鼻歌とかにいい
https://m.youtube.com/watch?v=O7LqP7tmQjU
直訳で「僕の次の動き」 この曲からハマったので一番思い入れがある
たぶんゾンビクライシスを描いていて、そんな中ライフルを持って自分ちの屋上に出た主人公が「さあ次の動きをやるぞ」つったところで終わる 戦うのか自殺するのかわからないところがクールでいい
映像は生演奏版だけどサビの高音が苦しそうなのが逆にすごくいいんだよなあ
https://m.youtube.com/watch?v=1xp4abUwzWw
失恋ソング 振られちゃって完全に気力がなくなってもう家から出たくない、音楽すら聴く元気がない!って歌詞
このライブ版のボーカルさんがすごい可愛いんだよな 歌は正直あんまうまくはないけど、だからこその良さがある
「君のものがいくつかわたしの部屋に散らばってて、どうしていいかわかんないや」って歌い出しが切ない
https://m.youtube.com/watch?v=HFmAwKDaoV0
公式でフルアルバムをあげてる(アルバム名が「チンポ舐めろ」で酷い)んだけどこれの二曲目が好き
拗らせた高校生くらいの男が自分に興味を示さない女の子を一方的になじってる感じの歌詞 ただ曲っていうより歌詞とか雰囲気を楽しむ系のバンドな気もするからスペイン語の素養がないとアレかも
https://m.youtube.com/watch?v=4GTRPMrSYFM
たぶんチリの歌をアルゼンチン人の青年がカバーしてYouTubeにあげてるやつ
アマチュアなんだけど俺はなんなら原曲越えしてると思う 迫力がある 最初の方に「この曲実は前にも上げてたんだけど自分で聴いてみたらマジで酷かったから消した、誰も聴いてなくてよかったよ、でも本当に酷かった、恥ずかしい…」って言っててかわいい
曲名は「シアン(化化合物)」 社会への不満みたいなのを歌ってる内容で、「僕はツバなんて吐くようなやつらのいる学校の出じゃないけど、最近はこのうんざりするような世界に唾を吐くようになった」って歌詞が結構好き 出身の良さを出してくるな
私の膀胱が尿を隠蔽している疑いがある。脱税ならぬ脱尿である。
陰茎が強烈な尿意を主張するので厠に立ったのが一時間前だったのだが、一度ならず二度、三度と主張をしてくる。
最初の方は普通に排尿していたが、何度も続いているうちに水滴が出るか出ないかという、飲み干したあとのペットボトルのような有様になってしまった。にも関わらず、陰茎は尿信号を送ってくるのである。
過度な水分補給を行ったわけでもないのだが、未だに催している。新型ウイルスの影響による催し物の自粛ムードへ反発しているのだろうか。
それとも本当はまだあるのに、もう出ないなどと膀胱が虚偽の申告を行っているのを、陰茎が告発しているのだろうか。
高齢者には排尿でトラブルが多いと聞くが、私はまだ十代後半の青年だ。
なればと青年期特有の性慾が思い当たるが、この数時間は何かへ劣情をいだき興奮しているわけではない。そもオーガズム欲求と排尿欲求は別の感覚である。
医学に通じているのではないのに、尿意伝達を行うホルモンの異常、もしくは尿の隠蔽を疑い始めている訳なのだが多分こんな文章を書いていないでさっさと寝たほうが良いと思う。おやすみなさい。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4682386438714765538/comment/segawashin
segawashin 本物なのかな?まあ後は当人同士の問題、震えて眠れとしか。/それにしても本件、殆どの反表現規制反対派がだんまりを決め込むどころか一部には同調さえしてた連中がいた点、予定通りの反応とは言え醜悪でしたな。
あんま笑わすなよ。
「一部には同調さえしてた連中がいた」は確かにその通りだね。どこにでも一部アレなひとはいるものだ。
以下は
[B! togetter] 赤木智弘氏、北守氏、Simon_Sin氏などのアカウントが凍結される - Togetterから。
HILOKI-T 何が「表現の自由戦士は批判しないのか」だ、この措置が不満ならまずは自分たちがこれまで散々やってきた「気に入らない者の口を塞ぎ表現を凍結させてきた」ことを反省しろ。絶対しないだろうが。
big_song_bird 北守は不必要に相手を見下して煽っていたから、両手両足だけでは足りないくらい敵も多いだろう。そんな輩に同情するほどお人好しじゃないのw。
chiguhagu-chan 表現規制賛成派が表現規制食らったのなら本望なのでは?さんざ規制規制言っといて都合のいい時だけ「規制反対派は助けてくれますよね?」とかキッモ
sunechamacell いやあお前らが普段やってたことじゃん。お前らの主張通りの結果になったんだから甘んじて受け入れろとしか
kawano_chan 難癖つけて表現規制しようとしてた面々が難癖付けられてTwitter規制されるっていう落語みたいなキレイなオチ 因果応報って奴だな
こんなところかな。
余談:以下は自分に正直な人
tattyu DMCAテイクダウン使わないと凍結出来ないのはクソだし酷え事するなと思うけど北守はそのまま永久に凍結されてて欲しいと言う気持ちもある。
tukanpo-kazuki 表現の自由を大切にする立場としてTwitter Japanの行動には反対だけど、それはそれとして表現規制を叫んでた人の表現が叩き潰される様子には「ざまぁ!」という感想を持ってしまう。人間だもの。
でもね、
「それにしても本件、殆どの反表現規制反対派がだんまりを決め込む」は、ねーわ。お前の目玉はどこについてるの、マジで。
※筆者注:「反表現規制反対派」は「表現規制反対派」の間違いだと思うので、その筋で書いていく。つうか、「表現規制反対派」を自分の対立軸として語るって、ようは自分は「表現規制派」ってことだろ。すごいね。自分の表現が規制されるなんてみじんも思っていないんだね。君らが「ネトウヨ」ってレッテル貼りする属性と同じ思考だね。
以下、だんまりを決め込んでいない証拠。このうちどの程度が「表現規制反対派」か知らないが、筆者視点で、表現規制反対派だと目しているidは多数含まれている。
CocoA 表現の自由の戦士は擁護していると思うけど、揶揄している人たちは何を見ているの。山口貴士弁護士、青識亜論さんなど反対していること知っているでしょ?
clamm0363 虚偽の権利主張で言論を封じようとする輩も、ここぞとばかりにイキリ散らしてる向きも、害悪であるという点では同じ。表現の自由の敵。
kenjiro_n 短文投稿サービスに十全な言論の自由を任せるというのも変な話なので通報はバンバンやるべきだという立場だけど、DMCA虚偽報告という手法で安易に凍結を狙うようなことはあってはならない。
dpdp こういう口の塞ぎ方は許し難い
filinion 私は反表現規制派のオタクであり、無論このような言論弾圧を憎む。これに「表現の自由戦士何してるのー?(チラッチラッ」しか言えない党派主義者は恥を知るべき。チベット問題を反中国ネタとしか見ない輩と同列。
hapze-23_45 虚偽による凍結であれば当然認めてはならない。
tikuwa_ore 相手が誰であれツイート内容を問題とされて凍結されたのならば自業自得。しかし、虚偽の通報によって凍結させられたのであれば被害者。この認識は公平性を保つためにも絶対必要。
starlet01 こんなん駄目に決まってるじゃん。反論すればいいんだよ。口を塞ぐのは卑劣で一番やっちゃいけないことなんだよ。そしてこういう時まず怒るんじゃなくて表現の自由戦士を煽りに行く性根の薄汚さが凄いと思いました。
inatetu 最悪…どれだけ嫌だとしてもこれやったら負けや、人として
littleumbrellas よほど明確な差別発言をしたとかでなければ発言の機会を奪ってはいけない。無能な敵は生かしておけ。新しいアカウントをミュートする手間がかかる。いろんな意味でこんなことはするべきではないししてほしくない。
dambiyori アカウント停止機能自体相当例外的なものとして取り扱われなければって個人的に思うけど、これ論外だよなぁ。
tenkinkoguma 気に入らない言論の人の口を虚偽申告で封じるのは反対します。ただこの方面疎いのでそれ以上の言及はできません。
sumika_09 表現の自由を守ろうぜ。言ってることには賛同できんが、それを言える権利は守らなきゃいけない。騙りで他者を陥れる卑劣な行為は許されない。
stand_up1973 主張は違っても、こういう割とまともな論敵がいなくなったらtwもはてなもつまらない所になってしまうよ。。
gryphon こんな方法があると知らなかったが普通に違法、犯罪では。被害者にお見舞申し上げ、法的措置を求めたい/ブクマ&コメント欄見ると「表現の自由を重視される方の公平性を証明」感(id:kyo_ju さんらもお手本にできる)
筆者注:後半部は「id:kyo_juさんらにとって、表現の自由を重視される方の公平性をお手本にできる」の意味だと思うのだけど。
nagaichi DMCA(デジタルミレニアム著作権法)の虚偽申告か。これはあかん。
Dragoonriders 誰に対してもDMCA悪用はダメ。歴史の消去。犯人は罰せられるべき。ただ、DMCA運用に各アカウントが合意している建前だから発生は避けられないのが現状でしょ? いきなり誰かのせいにする煽りはどうかと思います。
the_sun_also_rises 北守氏も赤木氏も僕はこれっぽっちも評価していないがだが言論の自由は守られねばならない。いかにクソな意見多しとはいえ発言を守ることは重要な人権を守ること。ツイッター社はもっとまともな運営を行うべき。
b4takashi 異論反論あるのは分かるが、DMCAの悪用が反論手段として正しいわけないだろう。それはそれ、これはこれ。表現の自由を守るべきと思う私はもちろんこれにも反対である。
Zephyrosianus こういう時にも「言い方が気に食わない」とか、凍結された人を揶揄するような人には決してなりたくないと思いました
peta0227 絵師凍結の時と態度が違う人は軽蔑する。だいたい非表示になってるけど。不当な手段で言論封殺するのはよくないよ。この手の責任を負うにはTwitter社には荷が重いか。
iheettkun 言論がどうとか以前に普通に違法行為なので裁かれてくれ。ていうか赤木智弘とかどちらかというとフェミ批判側では。
noki32 悪評隠蔽などの目的で行われることが多いDMCAの悪用。毎日膨大な数の申請があり審査が甘いようだが本来著作権を守るためのものでどんなに気に入らない人でもこのようなことはするべきではない。
nakakzs 言説が気に食わない相手であったとしても、Twitterの中で収まっている言論である以上はいかん。じゃないと同じ方法でまた別方向で表現規制をやられてしまう可能性が高まってしまう。
kagerou_ts なんかなしくずしに例のポスター擁護派が犯人扱いされてるけど、事実としてそうなの? どちらにせよDMCAの悪用で口封じされてるのだとしたらTwitter社運用しっかりしろよって思いはするけど。
Ri-fie 立場などは関係なく、相手をうそで貶める奴は軽蔑する。今回の件が虚偽申請であるならば、申請した者は適切な罰を受けてほしい。
GluttonousSeals 私は保守だけど、この表現規制には反対だな。Wantedlyが上場手前で火消しに走るのも反対。
筆者注:私はリベラルだと自認しているし、表現規制には反対だな。というか、保守派って表現規制派多いのかな?
sirobu DMCAの悪用ダメ、絶対。Twitterの対応がガッバガバなのは今に始まったことじゃないのに、日本青年所ガーとか的外れなことを言うのも悪。アイツらも青少年健全育成派だから表現の自由の敵
nemuiumen 自分はこの人たちが大嫌いだけどこれはやっちゃいけないことだと思うよ。今大喜びで「自由戦士はさぞやこれに対してあれ?怒ってない?ww」的な反応してる人たちの中には逆の時意思表明すらしない人もいたようだけど
morikakeokawari 「私はお前の意見に反対だが、お前がそれを言う自由は守る」だっけ? それ思い出せよ、虚偽報告した野郎どもは
knok これはいかんでしょ
tobalno1 虚偽申請で口を噤ませようとするのはどちらの陣営にしてもダメだろう。Twitterは炎上までいかなくても数人の個人レベルでこういうことができるシステム上論戦するのにはとことん不向きよね。
kamm 好感を持ってない人ばかりだけど、こういうやり方はしてはいけない
suimin28 虚偽申請による凍結には反対するが普段ネトウヨやオタクへのヘイト垂れ流して表現の自由満喫してる連中が表現規制反対派を揶揄してるのはギャグか何か?
Rootport 党派性に従ったコメントにスターが集まっていて、暗澹たる気持ちになります。派閥を問わず、気に入らない言説を凍結で黙らせるのはダメでしょう。次は私やあなたかもしれないのに。
zaikabou 赤城智弘、北守、Simon_sin、イナモトリュウジ、森哲平、の各氏。虚偽DMCAなら不当な措置。あと、コメント欄の『ログも消えるから過去のやらかしとかも掘れなくなる』は、確かになー、と思った
kotobuki_84 案件自体は最悪で、制度上仕方ない部分もある様だけど、早急に解決して欲しい。/「表現の自由戦士」という括り(蔑称)で当て擦りしてる連中がその上を行く最悪。仲間(?)の被害すらマウンティング遊びの道具か。
sewerrat 自分の気に入らない相手の自由を認めてこそ表現の自由に意味があるんだよな。気に入らないからって相手の口を封じてはいけない。
ton-boo 表現の自由戦士って括りは意味不明で嫌いだし自分がその括りに入ってるものかどうかもよくわからないけど、twitterのこの雑な対応は昔から本当駄目だと思う/DMCAって本来の目的での利用と悪用と比率どれくらいなんだろ
tomoya_edw ファミニストの暴力を担ぐような輩はこの程度ガタガタいうな、お前ら決まりに守ってもらいたいのかぶっ壊したいのかどっちだよ…とは言うが、DMCAの悪用はダメだ。プロセスを見直してほしいが…無理なのかな。
murishinai 単なるブコメではなく、ちゃんと意思表示したいと思うのだけど、これが DMCA テイクダウンの悪用によるのであれば悪用した者をちゃんと罰して欲しい。これによる経済的損失も発生しうるでしょ、この知名度の面子なら。
t-oblate こういう場外でケリをつけようとするやり方ほんとクソ。ぼくは北守やイナモトなんか大嫌いだけど、こんなやり方で発信する機会を奪われるとか許されざるよ。つかJCの件といい、Twitter仕事しろ案件。
hobo_king 虚偽DMCA報告臭いって? もしそうならやった連中を軽蔑する。個人的に意見が合ったり合わなかったり色々な人ばかりだが、口封じは何よりも表現の自由の敵だ。
Fuggi 反対。クソは批判されなければならないが、声を奪ってはならない。
wideangle DMCAtakedownでの嫌がらせまだ有効なんだな。それはだめだ。(それとは別に名前の上がってるような人たちの暴言は目に余るものはあったぞ……。)
anmin7 DMCAの悪用ほんとクソ。俺はこいつらが大っ嫌いだが、こんな形で口をふさいで何になる。抗議のやり方しらべてちょっと入れてくるか。"Twitterがその申し立ての正確性、有効性、完全性をチェック” してねえよ。
ryokusairyokusai 虚偽の通報は論外。目的が正しければ何をしてもいいといふのでは、はてな村のうすらばかどもが激賞してゐるどこぞの医師と変はらん。
Sarutani 相手が誰であれ、こういうときに「今どんな気持ち?」みたいに煽るのは皮肉のつもりでも大人げないからやめような。加害者そっちのけで被害者を嘲笑うのは筋違い。
malasumasu id:kyo_ju 実際声を上げている人はいるわけだし、こういう皮肉めいたこと言ってさも誰もいないかの様に見せかけるの止めません?
colonoe まだ誰のせいなのかわからない段階で犯人を決めつけてる人がいるな。こういう人が地震の後に死者が出たら「朝鮮人が井戸に毒を入れたせいだ」とか言うんだろうな
oshisage なんで表現の自由を重要視してる人間はこれに抗議しないことになってるんだろうな。藁人形とは言わんけど属性まとめ過ぎでイラッとするわ。
sanam 数百単位でブクマされてるにも関わらず批判的な意見が無いのなら表現の自由戦士は~にも納得いくが、一発めからそういう事書いても反発呼ぶだけだし普段あちら側が性犯罪系の記事でフェミにやる事の真似にしかならん
niwaradi id:kyo_ju氏やid:segawashin氏らの期待に答え、自由派としてブクマ並びに抗議の声を上げさせていただきます。ニセ科学やヘイトの発信源かつ、以前から恣意的な凍結をしてきたtwitterには元々信頼などないわけですが。
【追記】
fut573 当選してない……
すまねえ…。
fut573 ブコメで上がっているクラスタの犯行なら、フェミニストが先に全滅してそうな感もある。時間差なのかもしれんけど
同様の理由で、
himakao キチ集団ラブライバーを敵にしたら滅茶苦茶な反撃がきた巻。表現界隈が実行してたらとっくの昔にフェミニストがこうなってるし、別の集団と推測するのが自然だけど頭悪い人だらけ
も外した。
(センター試験で話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)
底本:原民喜戦後全小説 下(講談社文芸文庫)1995年8月10日第1刷発行
I
私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫の魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老いた母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。
その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかに、もっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初「孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。
彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身の青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予で最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。
岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものをノートし、まず文体の研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。
それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。
私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのものを顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部に入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人と同棲した暁には、染料の会社を設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである。
日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線へ派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞の第一面、つまり雑誌や新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見たものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院で殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。
岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。
たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌に掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初の召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京で文化方面の役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズは役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。
既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活に飛込んだのだった。ところが、その相手は資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである。
II
私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに、満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇のほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。
私は妻の遺骨を郷里の墓地に納めると、再び棲みなれた千葉の借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃である。サイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである。
私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉の借家へ移った時のことである。私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それからは殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。
私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラと千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴムの長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。
「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。
「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、
「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。
その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。
私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日、八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋の小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊の姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好がおかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋の小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから、豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。
目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたとそっくりの写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。
冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥は簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。
翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真が満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。
その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体で台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである。
そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服の青年が歯医者に挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年も助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。
それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲の吏員に就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後の消息であった。その後私の妻の病気は悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。
その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。
あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境や機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか。親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客の歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅の作品の暗い翳を思い浮べるのであった。
信濃の戦国大名・村上義清の家臣である楽巌寺右馬助には更科姫という娘がいた。
彼女は絶世の美女でありながら武勇の誉れ高く、また年頃の十七歳となれば縁談が絶えないが、
「私の夫となるからには剛勇の士でなければ」と全て断っていた。
当年二十一歳、家中随一の美男であり争いを好まず、といって惰弱というわけでもない。
武芸指南役の井上九郎が「彼こそ信州第一の豪傑」と褒め称えるのを聞いた更科姫は、
彼の姿を見るやたちまち惚れ込んで、すぐさま九郎に取り持ちを頼み、めでたく二人は夫婦と相成った。
彼は常から更科姫に懸想しており、彼女の夫となった森之助に恨みを募らせながら、しつこく更科姫を付け狙っていた。
ある日、更科姫の外出を狙って大九郎は二十人ばかりで彼女を襲ったが、更科姫はそれらをことごとく打ち伏せてしまった。
恨み骨髄に徹した大九郎は、かねてより内通していた武田家の長坂長閑・跡部大炊から百名ほどを借りて、
巧みに誘い出した更科姫を取り囲んだが、それでも彼女を取り押さえられない。
それどころか計略を察した森之助まで駆けつけて、武田家の百名は残らず斬り伏せられ、大九郎も討ち取られてしまった。
しかし事情はどうあれ武田家の家臣を斬ってしまったということで、森之助の身柄は武田に送られた。
武田信玄はその武勇豪胆を惜しんだものの、長坂・跡部の讒言もあり、森之助は馬場美濃守の預かりで切腹となった。
水溜りボンドのファン層って、おおむねは仲良しでおもしろい2人をきゃっきゃと見守る女性視聴者たちで平和だなあと思ってみています(割合でちょっと熱すぎるファンがいるのはどこもおなじとして)。
いつも平和な彼らの動画が、NON STYLE井上さんとのコラボですこし荒れている。
私も該当の動画をみたとき「いつもの前向きな気持ちで終われる動画ではなかったかな」と思いました。おもしろポイントも多々あったのにね。
荒れてる、の内訳はざっくりわけると
・井上さんに怒ってる
・水溜りボンドらしくないと悲しんでる
井上さんは嫌われていることがおもしろになっているタイプの芸人だけど、中にはガチで嫌いな人もいる。それはもうどうしようもない。この人たちの反応を水溜りボンドは気にしなくていい。0にはできないから。
後者の悲しんでいるタイプの人たちは過去にもカンタがメインで動画にしてまで釘を刺した「過保護な視聴者」。
いやな人に会ってほしくないし、やりたくないことをやらないでほしい。
毎日投稿される楽しい動画が少しでも色を変えると、心配と同時にこれじゃないという感情がとまらない。
水溜りボンドを好んで観る視聴者の多くは、過激なお笑いをやらずにおもしろを追求する2人に惹かれているんだと思います。
何かを傷つけたり、貶したりしない。
だから当然2人も誰かから傷つけられたり、貶されたりしてほしくない。
そういう気持ちがふくらんで、気付いたら過保護になってしまう。
その視聴者たちに悪意はないんです。誰よりも応援したいと思ってる。
それゆえに盲目的なところがあって、他者を攻撃する人も出てくる。これも0にはできない。カンタとトミーは本意でないにしても5年間でそういうファンも育ててきた。
それで、じゃあこの騒ぎって視聴者が悪いの?と考えるとすこし複雑で、水溜りボンドも視聴者も「そんなつもりはなかった」でメビウスの輪みたいになってると思います。
もともとお笑いサークル出身で賞レースにも挑戦していた彼らが、M-1王者であるNON STYLEさんと同じ画面にうつる。
緊張もするだろうけど何よりうれしいだろうな、すごいな。YouTubeは夢があるな。
というシチュエーションのはずが、井上さん自身もチャンネルを持ちYouTuberとして活動していたことで視聴者はややこしい気持ちになる。
YouTuberとしては紛れもなく水溜りボンドのほうがめちゃくちゃ結果を残してきている。えらいえらくないとかではなく、事実として。
なのでYouTubeコンテンツを楽しんでいる視聴者は、水溜りボンドにこの文化の代表としてもっと堂々としていてほしかった。そんな感情がうまれたように思います。
日ごろから特に芸人さんへの尊敬の意を示している彼らが、かつてテレビでみていたトップクラスの芸人さんとコラボする。
どれだけ今勢いがあっても動画クリエーターという皮一枚をはいだらお笑い好きの青年なので、萎縮もするしいつものホームとまったくおなじに伸び伸びと撮影するのはむずかしくて当然だと思います。
そういう点で、以前のカジサックさんとのコラボはカジサックさんがほんとうに研究と配慮をしてくれていたことを再認識しました。
だからといって今回の井上さんが悪ではなく、要するにこのスタイルをカンタとトミーが捌けなかったってだけだと思っています。
井上さんの毒舌スタイルを、彼らのお笑いではにこにこ受け入れるしかできない。
彼らのクリエーターとしての姿勢も、元の人柄としても、残念だけど相性はよくなかった。
やろうと思えばできるにしても、彼らがゲストに強めのツッコミをしたらそれはそれでびっくりする視聴者がいますよね。本来の最適解はそこにあった気がするけど、彼らは今回できなかった。
その結果うまれた画が、一部のひとたちに「見たい水溜りボンドじゃない」という悲しみをもたらした。
カンタの編集がわるいわけではないし、井上さんは井上さんの仕事をした。
演者としてのカンタとトミーも、相手を最大限敬いながら企画を楽しく進めてくれた。
ただ、彼らの芸風が噛み合わなかった。
シンプルにそれだけなんだと思う。
動画投稿から数時間、過保護派のコメントがどんどんいいねを増やしていくのを見ていました。
やがてカンタによる概要欄での補足が更新され、気付いた視聴者の「カンタくんごめんね」「このお笑い理解できてない人が多い」「2人が楽しいならいい」「私は楽しめた」という論調が増えてくる。
そして肯定的なコメントへカンタがいいねをつけ始めたことで彼らが言ってほしい感想が浮き彫りになり、その意思に沿ったコメントがもっと増えた。
更には序盤に支持を集めていたいくつかの過保護コメント(便宜上こう呼びますが、正面から否定されるような攻撃的な内容ではなかった。あからさまに井上さんにアンチ的なコメントをしているものは、さすがに評価されにくい空気はちゃんとありました。)が削除された。
非難されそうな動きではあるものの、相手があることなので、多少の検閲っぽい動きは仕方ないかな、と思います。
私も自作についたちげえんだよなあってコメントは削除することもあるし。それは自由です。
コラボした相手の価値が下がるチャンネルであってはならないと、これもまた繰り返しトミーが言っていることなので。
動画の受け取り方の齟齬はこれまでも何度かあって、今回もきっとカンタはすごく気にしているしいろいろ考えてる。
笑って視聴してグッドボタンを押せなかったひとりとして、申し訳ないなと思います。
水溜りボンド2.0、今年は挑戦の年、新しいことは批判される。
彼らはそう言っているので、今回のこともそのうちのひとつとして処理するかもしれない。ちょっと違うんだけどな、という気持ちはあるけど、きっとそうなる。
どんなに2人が「すごく楽しかった」と言っても、私はなぐさめのような「楽しかったよ!」は言えないなと感じる動画であったことは事実です。
相性だけはどうしようもないんだよ!誰もわるくない!気に病まないで!!
って言いたいだけなんですけど、うまくまとまらなくてこうなりました。
人を楽しませるってほんとうにむずかしいな。
https://twitter.com/shiso_ume/status/1226865261652762624
双極凝固鑷子 on Twitter: "「1910年、韓国の皇帝のお願いによって日本は韓国を併合しました」これが日本青年会議所HPにあった「みんなで考える日本の歴史授業」プログラムに書いてあるウソ。Twitter Japanは今後も歴史修正に邁進していきますという宣言だな。通報案件だな。… https://t.co/lrRsjqQPJq"
ゆずの2人が公式でVtuberみたいな事をやっていて先週から土曜日に生配信をしている
ゆずの2人はMIZUというグループ名で19歳の青年という設定
その配信の中で披露された曲「水色」は夏色のような歌詞だけど普通に良い
初期のゆずの身近にあるような曲を歌ってくれたのが嬉しい
接客業をしている。
先日、一組の家族がやってきた。
その一家の中に、自閉症・多動・知的障害の30代の男性がいた。
その青年をぱっとみたところは、寝ぐせのついた頭をした、よくいる身なりを整えることに関心の薄い男性だった。
ただ座っているだけなら、どこにでもいる30代男性だ。特に印象にも残らない。
しかし彼はじっとなんてしていない。来場してから帰るまでの間中ずっと動き回っていた。
閉じているドアを開けようとする。立ち入り禁止区域に入ろうとする。
気に入った場所では踊ったり座り込んだりする。
幸いなことに、注意をするとその場を離れてくれたのだが、それは、注意されたからどいたというより、背景が急に音声を発してびっくりして動いた、という感じだった。
それでも、大人の男性の姿をした人物が、支離滅裂な言葉を発しながらウロウロ歩き回る姿に恐怖を感じた。
そして、恐怖を感じたことに罪悪感も覚えた。
正直な話、多様性だの社会での受け入れだの言われても、怖いものは怖い。
急に襲い掛かってくるかもしれない、そういう考えを抑えられないし、成人男性の力で暴れられたらそれを抑えるのは困難だ。
仕事だから、付かず離れずの距離を保ちながら目を離さず必要な時には声もかけたれど、私的な時間に出くわしていたなら、速やかにその場を離れたと思う。
だからといって、施設に閉じ込めておけというのも、それは違うと思う。
でも、どうしていいのかわからないんだよなぁ…
おそらく表現規制の最前線にいる人しか分かってないと思うので&『窮鼠はチーズの夢を見る』の修正が話題になっているので。
(太字強調は筆者による)
わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。
電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。
[児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律 第7条第6項]
児童ポルノを不特定若しくは多数の者に提供し、又は公然と陳列した者は、五年以下の懲役若しくは五百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。
電気通信回線を通じて第二条第三項各号のいずれかに掲げる児童の姿態を視覚により認識することができる方法により描写した情報を記録した電磁的記録その他の記録を不特定又は多数の者に提供した者も、同様とする。
つまり、わいせつな文書・図画や、児童ポルノに関する罪を問われるのは製造者や所持者だけではない。法律上は、販売した者も罪に問われる場合がある。
が、店員にとってみたら『わいせつっぽい物を販売したらある日突然逮捕されるかもしれない』は恐怖である。
そのような販売店の恐怖が『それっぽいものは全部売らない』になるのは商業的にも文化的にもマイナスなので、
ビデオ・映像関係の年齢表示や、成年向けコミックのマークはそのような販売店の声に対し、『自主規制団体が、刑法および児童ポルノ法に違反していないことを確認したと責任を負います』という意味がある。
だからこそ、数年に1度程度の割合で『AV女優が実は18歳未満だった』という事件があるが、そのAVを置いていたツタヤの店員が全て逮捕されるわけではないし、
以前薄消しが流行ってビデ倫の関係者が逮捕されたことがあるが、問題になったビデ倫の作品を扱っていた販売店の関係者は逮捕されていない。
逆に言うと、そういう団体を通していない、いわゆる裏ビデオを分かっていて売ったら店員が逮捕される可能性もあるはずだ。
ちなみに刑法175条が保護しているものはわいせつな図画を見たくない人の見たくない権利……ではなく、『最低限の性道徳』ということなっている。(この解釈については流石に時代錯誤を指摘する声は複数あるし、筆者もおかしいと思うが前提として現時点ではそうなっている)
上で書いたような『わいせつな文書・図画』や『児童ポルノ』は世間で広義で用いられるような意味ではなく、たとえ18歳以上にしか売っていないとしても、売った人は逮捕されるような物の話である。
では、一般的に「18歳未満には販売できません」で書店やアマゾンで売っている商品はどのような法的根拠で売っているか。それが条例上の理由だ。
第九条の二 図書類の発行を業とする者(以下「図書類発行業者」という。)は、図書類の発行、販売若しくは貸付けを業とする者により構成する団体で倫理綱領等により自主規制を行うもの(以下「自主規制団体」という。)又は自らが、次の各号に掲げる基準に照らし、それぞれ当該各号に定める内容に該当すると認める図書類に、青少年が閲覧し、又は観覧することが適当でない旨の表示をするように努めなければならない。
まどろっこしいが、要は『一定の倫理基準に該当する物は、青少年に閲覧・販売できないように努力せねばならない。(そして、成人に販売する分には問題ない)』ということである。
"18禁"などに関する(映像作品やゲームではR-15も一応は存在する)法令上のもっとも重要な(もしかしたら唯一の)根拠はこの前後の条文だ。
この条文があるからリアルでもネットでも、18禁などの作品は自主規制団体や出版元が自らマークを付け、また販売店がそれらを売る際には専用のゾーンを設けなければならない。その区分が雑だという話(特にネットにおいて)はノーコメント。
2で書いたように、自主規制団体または出版社が自ら成年マークをつけたものは『表示図書類』として扱われる。それとは別に、『指定図書類』というものが条例には存在する。
第八条 知事は、次に掲げるものを青少年の健全な育成を阻害するものとして指定することができる。(以下略)
第九条 図書類の販売又は貸付けを業とする者及びその代理人、使用人その他の従業者並びに営業に関して図書類を頒布する者及びその代理人、使用人その他の従業者(以下「図書類販売業者等」という。)は、前条第一項第一号又は第二号の規定により知事が指定した図書類(以下「指定図書類」という。)を青少年に販売し、頒布し、又は貸し付けてはならない。
いわゆる『有害指定』である。“成年マーク付きのものは有害指定されない”と明記されているわけではないが、条文上『表示図書類』と併記して扱われているので事実上棲み分けている。
そして、『有害指定』の対照となるのは、「成年マークをつけなくても大丈夫だろう」と自主規制団体や出版社が考えた本の中で、青少年健全育成会議で指定された本である。(ちなみにエロ以外でも、犯罪や自殺を推奨しているとして指定される場合はある)
さらに言うならば、『表示図書類』は書店やアマゾンでも売っている。だが、『指定図書類』は流通が扱わなくなるため、事実上販売できなくなる。公式サイトからの通販などは可能なのかもしれないが…。
そもそもこのような自主規制団体が生まれたのは1950~60年代に『低俗な本・雑誌が溢れた』ことに対する世論の批判とそれを受けての条例(2や3で書いたのは東京都の条例だが、同様の条例は全ての都道府県に存在する)制定の動きに対してであり、
ビデオやゲームが出た後も法規制の動き(もしくは実際の逮捕事件)を受けてから出版の団体を参考にして自主規制団体が生まれている。
もっとも、出版と映像では少なからず差がある。最大の違いは、出版は成年マークのついていない書籍については一切の表示がないのに対し映像やゲームでは(ほぼ)全ての作品について「審査の結果、年齢区分はこうなりました」という表示があるということだ。
世の中において『私の考えるこれこれの思想・道徳に反する本は全て排除せよ』という日本国憲法ガン無視の全体主義者は少数だが、
「たとえ低俗な出版物であっても、他者の権利を侵害していないならば全て認められるべきだ」というガチの一元的内在制約説原理主義者もまた少数であり、
「低俗な本に対する一定の倫理的歯止めをする制度は必要だよね」という中庸な人がおそらく最大多数だ。
(酒鬼薔薇の本など典型例だ。私の倫理観はあの本が出ることを嫌悪するが、あのような本の出版をどうやって規制するのか、というと非常に難しいよなと思う部分はある)
そういう人たちに対して「いや、一定の倫理的歯止めはかけていますよ」というアピールをして、ひいては条例・法律上の規制をするような世論に持っていかせないという存在としても自主規制団体は役立っており、
民主主義の世の中においてそのような団体の存在意義は一概に否定するものでもない。
今の日本で、『わいせつな図画』(=刑法175条的なアウト)と『18禁コンテンツ』を区分ける基準は”性器をはっきりと描写しているか”である。
法律上明記されているわけではないが、事実上そのようになっている。
これに関しても過去には(主に写真集絡みで)争いがあった。具体的には以下のような流れだ。
警察「アンダーヘアが見えたらアウト」→写真家「じゃあパイパンならOKですね」
→警察「性器が完全に露出していたらアウト。なお、アンダーヘアも性器の一部とする」 →写真家「じゃあパンツはかせます。アレ、少し透けてるような気もしますけど、着てるからセーフですよね」
→警察「じゃあアンダーヘアはOKだが性器そのものが見えたらアウト」 →写真家「ヘアヌードはOKですね」 →警察「一応セーフにしておくか」
ということで、現在では成人を撮影した物については性器そのものは写さない、もしくはモザイクなどの修正があればセーフということになっている。(児童ポルノは別である)
だからAVやエロ漫画では性器にはモザイクをかけなければならないとなっているし、
逆に性器が写っていないヘアヌード写真集はわいせつな図画には該当しない(から、書店で普通に販売されている。18禁ゾーンの先であることが基本であるとは思うが。)
ちなみにこの点において男性器と女性器は平等であるから、AVなどでは女性器だけでなく男性器もモザイクがかけられている。(ちなみに2020年1月末現在、肛門はセーフのはずである。)
また、保護するものはあくまで『最低限の性道徳』であるから絵であってもアウトであり、だからこそエロマンガやエロゲでもモザイクは必要になっているが、十分に抽象化されていればセーフである。
初期のドラゴンボールは悟空のチンコを一応描いているが、それが理由でわいせつ図画に該当することは価値観の大転換でも起こらない限りは無い。
一方、『18禁』と『18禁ではないけどエロいコンテンツ』の区切りがどこにあるかはよくわからない。
上述したように最終的には東京都の指定を免れることができればそれでいいものでしかないので結局は東京都と版元の空気読み合いだが、
性器をモザイク付きで描写しているか、肛門が描かれているか、それを含めて性行為が描かれているかなどが一つの目安だとは思う。
ちなみに上で例に挙げたドラゴンボールではブルマ(キャラ名)が何度か脱がされているが、股間部には特段、何かを描いてはいなかったはずである。
”女性の股間部に何も描かない”というのはドラゴンボールに限らず、Toloveるや青年誌(ヤング〇〇掲載作品)などR-18ではない男性向けちょいエロではしばしば採用される手法である。
BLやレディコミではその辺どうなっているのかは知らない(筆者が男性であるため)が、謎の光などを描いて男の股間に何も描かなければ、BLでもR-18指定は免れ得るはずだ。
これは無論、”性器をリアルに描いているものは全てわいせつ図画であり、刑法175条違反だから作成・販売自体が違法”ということを意味しない。
当たり前の話だが、医学書は実写で性器を掲載してもわいせつ図画にはならない。
とまあ、医学書ならば流石に目的ははっきりしているが、”芸術”と”性欲”を厳密に線引きすることは困難だ。
悪徳の栄え事件の最高裁判決でも「文学性や芸術性が性的刺激を緩和することはあり得るが、文学性や芸術性がある文書(・図画)が同時にわいせつ性を持つことはあり得る(意訳)」としている。
Q1:エロ同人は?
A1:性器を無修正で描いたらわいせつ図画になりますが、コミケット準備会は警察とほぼ同様の基準に従って修正させています。無修正・修正が甘いと見本誌を提出したときに販売停止になるはずです。
Q3:裏ビデオは?
Q4:無修正の性器が違法でない国からの、インターネットを介した配信は?
Q4:サーバーの所在国の法律で取り締まるのが原則だとは思いますが、正直なところ何ともいえません。
Q5:ろくでなし子さんは?
A5:『でこまん』はセーフで3Dプリンターのデータはアウトなんでしたっけ? 増田はでこまんを見たことが無いのではっきりとしたことは言えないのですが、流石にでこまんは最低限の性道徳には触れないという判断だったんでしょうねえ。
A6:流石にアレは性欲を刺激しないという扱いなんでしょう。
作者のブログに今回の決定について書いてある。
増田はコミックの方の中身は見たことがないが、現在販売されているものも含めてどうも元々年齢指定は無かったようである。
それがR-15で実写映画になり、それに伴って若い読者が増えることを想定してコミックの方も性描写の修正を強め、旧バージョンは今後は販売しないという扱いらしい。
男性向けで例えるなら、『ふたりエッチ』がR-15で実写化され、それに伴い今以上に修正を強化し、旧修正バージョンは今後は販売しないようなものである。
正直、そこまでする必要があるのかと言うならば疑問ではある。
ヤングジャンプやヤングマガジン掲載の性描写ありラブコメ、たとえば『源君物語』や『なんでここに先生が!』がR-15で実写になったとして、集英社や講談社はそこまでしないだろう。
青年男性向けで小学館が出しているマンガならば、というと増田は現時点でビッグコミック系雑誌を定期購読していないのでそのような『性描写あり恋愛もの』が掲載されているのか自体を知らない。
どのみち、タイトルの後ろに『for Ladies』のように付けて旧修正版も併売すれば良いのではないか、と思うが、出版社がどのような理由で今回のような判断をしたのかはわからない。
『BLを実写化するならもうちょっと原作も修正を考えろ』という東京都青少年健全育成審議会からの無言の圧力があり、出版社が忖度したのだろうか?
いちゲーオタ中年男性のハートのど真ん中の最奥部に抜けないほど深く突き刺さった「テン年代ゲーム」10本をランキング形式で挙げていきます。お付き合いください。
のっけから「特別賞」から始めることをお許しあれ。ランキング発表後だと、1位よりもスペッシャルな空気を醸し出してしまいそうで。それを避けたかった。
でも、本作がとくべつな1本であるには違いない。だから悩んだ挙句の……「特別賞」。まんまでごめん。
個人的には『ノベルゲー」って昔からあんまやらないんです。ノベルゲーやる時間あったら小説を読むほうが(たいてい)有益だろう、という長年の思いこみ集積のせい。でも、『Doki Doki Liteature Club』は例外。ゲームらしいインタラクティブな要素があるわけじゃないのだけど、小説でもマンガでもアニメでもこの表現は絶対不可能。
本作の凄さについてはもはや語り尽くされている感があるし、強く深い思い入れを持っている方が世界中にいらっしゃることも存じておりますし、まだプレイしていない方のためにも、内容については何も言いたくない。
でも、これだけは言わせてほしい。
本作は「神は存在を愛している」ってことをギャルゲー/ノベルゲーのガワで見事に顕してみせた一大叙事詩である。ここには生があって、性があって、詩があって、死があって……愛がある。さらには現象学的「彼方」をも開示してみせる。
その(一見)破天荒、かつ強烈な内容に憤怒するかもしれない。ショックのあまりマウスを壁に叩きつけるかもしれない。号泣するかもしれない。戦慄するかもしれない。でも最後にはきっと宇宙大の愛に包まれる……絶対。
ああ、すっきり。
では、こっから心置きなく2010年代・心のベスト10を発表させて頂きます。
「……なんか妙に懐かしいな。子供の頃、お前と行った鵠沼海岸をまざまざと思い出したわ」
ゲームと本の山でとっ散らかった僕の部屋にやってきて、このゲームをしばらく遊んだ君は、いかにも重たいPSVRヘッドギアをつけたまま、そう呟いた。
僕はかなり潔癖症だから、君が顔じゅうに汗をたっぷりかいてることがひどく気になって、除菌ティッシュ片手にそれどころじゃなかった。
けどさ、あの頃君と一緒に見つめた空と海の青さに、まさかVRの新規アクションゲームの中で出会えるとは夢にも思わなかったよ。
ハタチん時、『スーパーマリオ64』を初めてプレイした時の驚きと、海辺で自分の子と君の子が一緒に遊んでいるのをぼんやり眺めてるような、そのうちに自分たちも同じくらい小さな子供に戻って、一緒に無邪気に冒険してるような……切なくて温くて微笑ましい気持ちがじわじわこみあげてきた。そのことに、僕は本当に心底驚いたんだよ。またいつでもやりに来てくれ。
「あー、なんかシャベル持ったナイトのやつでしょ。古き良きアクションゲームへのオマージュに溢れる良質なインディーゲーって感じだよね、え、あれってまだアップデートとかやってんの? なんかsteamセールん時に買って積んでんだけど、ま、そんな面白いならそのうちやるわー」
あなたが『ショベルナイト』をその程度のゲームだと思っているのなら、それは大きな大きな間違いだ。
プレイ済みの方はとっくにご承知と思うが、本作はレトロゲーもオマージュゲーもとっくに越えた、誰も登れない山頂に到達した類い稀な作品である。アイロニーと切り張りだけで作られた、この10年で数えきれないほど溢れ返った凡百のレトロ風ゲームとは、かけ離れた聖域に屹立してゐる。
そして3つの追加アプデ(大胆なアイデアに溢れた全く新規追加シナリオ。今月でようやく完結)によって、本作は10年代下半期にリリースされた『Celeste』や『ホロウナイト』の先駆けとなる、傑作2Dアクションとしてここに完成したのだった。さあ、ショベルを手に彼の地へ赴け。
このゲームの印象を喩えて言うなら、
久し振りに会って酒でも飲もうものなら、いちいち熱くてしつっこい口論になってしまう、共感と嫉妬と軽蔑と相いれなさのような感情を腑分けするのが難しいくらい綯い交ぜになっている面倒きわまりない幼なじみ、みたいな。
正直、ランキングにはあまり入れたくなかった。が、初プレイ時の衝撃をまざまざと思い出してみると、やっぱり入れないわけにはいかぬと悟った。
もし未プレイだったら、このゲームはできればPC(steam)でやってみてほしいとせつに願う。当方バリバリのコンシューマー勢なので、ゲームでPC版を薦めることは滅多にない。だが、コンシューマー機ではこのゲームの持つ「鋭利なナイフ」のような「最後の一撃」が半減してしまうだろう。
作者トビー・フォックス氏は、かつての堀井雄二や糸井重里の系譜に連なる倭人的王道シナリオ(コピー)ライターと感じる。
確認のために本作の或るルートを進めていた時、初期ドラクエと『MOTHER』と『moon』が携えていた「あの空気」が30年ぶりに匂い立ってくるのを感じて眩暈がした。会えば会うほど凄みを増す狂人のような作品だ。
2020年内に出る(であろう)2作め『DELTARUNE』において、トビー氏は堀井/糸井が書け(書か)なかった領域に確信犯的に踏み込んでくるにちがいない。それが半分楽しみで、半分怖くて仕方がない。
その山の森の奥には古い洋館があった。
庭は川と繋がっていて、澄んだ水が静かに流れていた。
君は川沿いにしゃがみこんで1輪の花を流していた。
俺は黙って君を見つめていた。
君は俺に気づかない。
俺は木に上ったり、柱の影から君を見守ったり、触れられない手で君の髪を撫でたりしているうちに……君の可愛がってたシェパード犬がこちらにひょこひょこやってきて、ワン、と小さく吠えた。
ああ、なんだかこのゲームやってると批評的目線がどんどんぼやけていくのを感じる。まるで透明な死者になってしまったような、奇妙で懐かしい感覚に否応なしに包みこまれるような……。
本作は「VRで描かれた古典的AVG(アドベンチャーゲーム)」であると言われている。個人的には、そんな持って回ったような言い回しはしたくない。
VRでしか描けない世界と情緒に対して、あまりに意識的な本作。その手腕はあざといくらいなんだけど、実際に本作をやってみるとあざといどころじゃない。泣くわ。胸の内に熱いものがこみあげてくるわ。
『Deracine』はプレイヤーの原風景をまざまざと蘇らせる。かつて失ってしまった友人を、失ってしまった動物を、失ってしまった思い出を、「ほら」とばかりに目の前に差し出してくる。そのやり口はほとんど暴力的でさえある。
もしVR対応しなかったら、知る人ぞ知る良作(怪作)止まりだったであろう本作。
かくいう俺もPS Storeで見つけて何となく買った時は、まさか2010年代ベストに入れることになるとは思わなかった。怪しい仮面被ったバレリナ少女がサイケ空間を飛び回ってんなあ……製作者はドラッグでもやってんのか?くらいの。
しかしPSVR対応した本作を再度プレイして驚愕した。怪作がまごうことなき傑作に生まれ変わっていたのだ。あるいはコンテンポラリーアート作品としての本質を露にしたとも言える。ああ、VRというハードではこんな事態が起こり得るのか……。
画を作っているサンタモニカ・スタジオ(ゴッド・オブ・ウォー、風ノ旅ビト他)の仕事はいつだって凄まじいクオリティでため息が漏れるのだが、VRとの相性は抜群だ。とりわけ今作での仕事は白眉と言える。
とにかく、思わず自分と少女の頬をつねりたくなるほど美しい。少女が、景色が、色彩が、確実に「もうひとつの世界」(夢、とは言いたくない)を現出させている。
そして本作は本質的な意味で——究極の恋愛ゲーでもある。誰も認めなくても、俺はそう強く感じる。あの少女と過ごした時間を、あの少女が内に秘めていた闇の部屋を、あの少女が戦っていた怪物を、そしてこの狂気と色彩にみちみちた世界を日常生活の中で思い出す時、この胸に去来するのは——それは「恋」としか言い様のない儚い感情だ。
書き始めるまで、本作がここまで自分内上位に食い込むとは思わなかった。
が、確認のために軽くプレイしてみたら、やっぱりとんでもなかった。
実験施設内部に、そして自分の内側(Inside)に展開するめくるめく不穏な景色。ディストピアの先にある、吐き気をもよおさせると同時に、穏やかな安寧に包まれるような、唯一無二のビジョン——を完璧に描ききった本作。
終盤の怒濤の展開と比類なき生命体描写のインパクトに心奪われるが、本作の真骨頂は木々や空や雲や雨、海などの自然情景(それが何者かによって造型されたものであれ)の美しさだと思う。荒んだ世界の中、思わず立ち止まって、天に祈りを捧げたくなるような敬虔な心持ちを強く喚起させる。
俺にとって『INSIDE』とは、自己の内面に深く潜るための潜水艦、あるいは哲学書のページを繰っても繰っても掴めない、自分と世界との乖離を自覚するための尖った注射針であり、神なき世界の宗教である。
灰色にけぶった空の下、雨降るトウモロコシ畑で無心で佇んでいた時のあの安寧と絶望感に、これから先もずっとつきまとわれるだろう。
人の生には「もっとも幸福な時期」というものがたしかに存在するようだ。そして、それは必ずしも幼少期だったり青年期だったりする必要はない。
俺にとっては、傍らに愛猫がいてくれて、WiiUと3DSが現役ハードで、仕事から帰ってくると毎日のように今作にあけくれていたこの頃が——生涯でもっとも幸福な時期だったと言いきってしまいたい。なぜなら、幼少期や青年期と違って、その記憶ははっきりと想起できるから。
そして後から振り返ってみて、その時期がどれほどありがたいものだったかを確認し、やるせない気持ちに包まれるのだ。「ああ、やっぱり」と。
総プレイ時間は生涯最長となったし、この作品を通じて(自分にしては珍しく)老若男女多くの「オンラインフレンズ」ができた。
が、続編『スプラトゥーン2』は発売日に購入したものの、ろくすっぽプレイしなかった(できなかった)。
その理由は(おおざっぱに書くと)3つ。
ひとつは『2』発売時、先に述べた、俺にとってもっとも幸福だった時代が過ぎ去っていたこと(ごく個人的な理由だ)。
ふたつめは、初代スプラトゥーンが持っていた、俺を夢中にさせるサムシングが『2』には欠けているように感じられたこと(批評記事ではないので、それについてここでは掘り下げない)。
3つめは、次に挙げる同じく任天堂開発の対戦ゲームの登場である。
それは35年前に夢見た未来の『パンチアウト!!』だった。そして20年前に夢みた『バーチャロン』と『カスタムロボ』の奇跡的融合であり、同時にそれらとは全く別次元に昇華された「理想的格ゲー」であった。
『スプラトゥーン』で「共闘」の愉しさを味わった俺に、本作は「見知らぬ相手とサシで戦う」ことの妙味と厳しさをばっちり思い出させてくれた。
そして画面内のキャラをこの手で操る——そんなあまりにも原初的な「ゲーム」の喜びが本作には隅々までみちていた。こればかりは「Just do it」(やるっきゃない)。
やがて俺は日々のオンライン対戦では飽き足らず、リアルの大会にまで足を運んだ(あっさり敗退してしまったが……)。そんなゲームは、おそらく生涯最初で最後だろう。
余談だが、Joy-con特性を生かした「いいね!持ち」による操作こそが本作の革新性であると信じているのだが、革新性よりも「合理性」と「勝率」を求める猛者たちには殆ど浸透しなかった。
「いいね!持ち」メリットをうまく調整できてさえいれば、本作は『e-sports』ゲーム初の従来型コントローラーから離れた(両腕全体を用いた)操作形態を実現していたはずで、それについては至極残念だが、現在開発中であろう『ARMS2』に期待したい。
2010年代下半期は、俺にとっては「VRに初めて触れた年代」としていつまでも記憶されることになるだろう。
2017年冬、とにかく『Rez infinite』をプレイしなければならない——そんな義務感でPSVRを勇んで購入した。配線がややこしい機器をPS4に繋げ、想像していたよりもさらに重たいヘッドセットを被り、本作をプレイすると——すぐに「ここには未来がある」と思った。いや、正確じゃないな。「未来に至る——今の時間と自分」をばっちり感じたと言うべきか。現在は可視化され、360度方位に顕在し、俺をユニバーサルに包みこんだ。
AreaXを初めてプレイした時の、重たい身体感覚から自由になり、魂だけが全宇宙に放りこまれたような未曾有の感覚は、ゲームなるものと関わってから過去30数年を振り返ってみても、5歳の時に生まれて初めて電子ゲームに触れた時の体験と並ぶ、あるいはそれを越えかねない、空前絶後の体験だった。
これだけ長いこと「ゲーム」なるものを続けてきて、ゲームからそのような感覚を初めて得られたことに深く感動し、ラストではほとんど泣いていたことがつい昨日のように思い出せる。
そして『Rez infinite』の「次の体験」を今か今かと待っている。
『Rez infinite』からのまさかの……自分に驚き、何度も自身に問うた。
あれだけ昔から『どうぶつの森』嫌いだったお前が。とび森を。テン年代1位に。据えるつもりか?
お前はそんなにぶつ森好きだったのか? ありがちな中年男性みたいに「しずえ萌え」になったのか? それとも親子くらい歳の離れたフレンドと時々会えるからか? おいおい、かあいこぶってんじゃねーぞ、と。
だが本作を1位にした決定的な理由——それは、テン年代初頭に放たれた今作から「仮想世界」における、人間存在の理想的な在り方の萌芽をひしと感じたからだ。
一発で脳内に凄まじいヴィジョンを注入した『Rez infinite』と比べると、まるでアリが餌塚に砂糖を運ぶようなゆったりとした足取りだが、本作は確実に世界中のゲームファンに「もうひとつの世界」をキュートな顔つきと口調(しずえ嬢のような……)でじわじわと浸透させ、人々の無意識をしれっと変容させ、もうひとつの生活を愉しませ、ネット接続により文字通り「飛び出させた」。
『どうぶつの森』は今年3月に発売する次作『あつまれ どうぶつの森』においてさらなる大きな広がりと変化を見せてくれるだろう。
が、俺は本作をとくべつに、個人的に、偏執的に、限定的に愛しているのだ。
それは故岩田社長が生み出した『3DS』というハードへの偏愛と、ゲーム機では3DSだけが備えた「裸眼立体視」——ARとVRを折り合いし、先取りした——唯一無二の機能によって『どうぶつの森』というクローズドな世界をまるで飛び出す絵本のごとく彩り、「夢の中で他者の森を訪ねる」という奇妙かつ魅惑的な通信世界を生み出し——
要は、全シリーズを振り返っても今作『とびだせ どうぶつの森』だけが持ち得た、この奇妙で牧歌的で神秘的なアトモスフィアに由るものだ。
カフカ『城』や村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』主人公のように、俺はある時、この森の中に、夢の中に、村の中に、これからも留まり続けることを選んでいた。
そういうわけで、本作を迷わずにテン年代1位に据えたいと思う。
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長々とお付き合いくださって本当にありがとうございました。
余談ですが、最初は「順不同」にしようと考えていたのです。これほど自分にとって大切なゲームたちに順位なんてつけるのは相当失礼な気がして。
でも、敢えてつけてみた。並べてみたら、なんとなく自分内重要度みたいなものがぼんやり浮かび上がってきたので。
異論提言はもちろん、よかったらあなたのテン年代ベスト(5本でも20本でも1本でも)教えて頂けると、いちゲームファンとしてめっぽう嬉しいです。