真田十勇士はまだしも知られてるけど
どんな話だったんだろうと思ってググってみたところ
その内容を簡単にまとめてみることにした。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/891033
Wikipediaによると
十勇士の人物像について始めて具体的に記述された史料は、文化8年(1811年) - 文政4年(1821年)にかけて刊行された『絵本更科草紙』である。
この書は、幸盛の母である更科姫と、尼子十勇士による活躍を描いた物語である。書と共にこの話は全国的に広まったようであり、この後には、十勇士を題材にした浮世絵の描画や歌舞伎の上演、また十勇士が描かれた絵馬が神社に奉納されるなど、世間一般にこの話が浸透していったことが分かる。
明治時代に入ると、先の『絵本更科草紙』と同じ内容で、表題を『尼子十勇士伝』とした書が刊行される。明治44年(1911年)12月、『絵本更科草紙』の内容を簡略化し、大衆向けに噛み砕いた文で表した書、『武士道精華 山中鹿之助』が立川文庫より発行されると、尼子十勇士の名は一躍有名になる。
というわけで簡略版の簡略版ということになるが、
わりと長くなったので短く分けてトラバに書いていく。
信濃の戦国大名・村上義清の家臣である楽巌寺右馬助には更科姫という娘がいた。 彼女は絶世の美女でありながら武勇の誉れ高く、また年頃の十七歳となれば縁談が絶えないが、 「私の...
ある時、森之助の伯父で、先年村上家を出奔して武田家に仕えていた、相木市兵衛という者が塩尻峠を通りかかった。 市兵衛はその山奥で、鹿の背に乗せられ、猿たちに取り囲まれた赤...
森之助と更科姫は諏訪ヶ原をよく治めていた。 あるとき、夫婦は山中で道に迷い、たまたま村上家の武芸指南役・井上九郎と再会した。 村上家を出奔したのち隠居していたとのことで、...
古猪之助のもとを発ち、京へやってきた鹿之助が、たまたま入った居酒屋で狼藉者を退治したところ、 その店の女主人が、実は更科姫が昔に助けたことのある、お菊という娘だった。 お...
鮎之助と別れて、またどしどしと歩き、兵庫の町に着いた鹿之助は、 そこで女を挟んで浪人と大男とが争っているのを見かけて、仲裁に入った。 浪人に話を聞いてみると、彼はこの浮舟...
ある日、京の中御門宗教から、上月城に書状が届いた。 その内容は、明石の海賊から大江山の山賊への手紙のようなもので、なんともわけがわからなかった。 その二ヶ月後、また宗教卿...
日の出の勢いの尼子家は、敵に奪われていた月山富田城まで取り返した。 尼子義久は富田城へ戻り、上月城は鹿之介へと与えられた。 さて、尼子の一族には尼子九郎左衛門という邪智奸...
九重姫は、侍女とともに丹波の国境まで逃れ、たまたま見つけた施行宿に泊っていた。 しかし、実はその宿は丹波太郎という人買いの罠であり、九重姫たちは売りものとして部屋に閉じ...
一方、兵庫之助の死体を背負った浮舟は、同じく遊女をしている妹の浮橋のもとに身を寄せた。 浮橋にも愛人の薮中茨之助というものがおり、彼の世話で家を借りてそこで暮らしていた...
上月城主となっていた寺元生死之助は、陸路から進軍してきた松永軍を相手に防戦していたが、 そこに海から尼子勝久の軍勢が到着したので、生死之助はさっと搦手の門を開いて迎え入...