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2020-11-02

全国の小姑の皆さんへ

「遠くの親戚ほど文句を言う」(だったかな)とはよく言ったものですが

金もさない手も貸さないのに要らぬ口ばかり出すのは本当にやめましょうね

あなた方が放り出した親の介護やら寺関連の諸々やら親戚付き合いやらですが

文句があるならご自分がやればいいんですよ

だいたい挨拶してもシカト、たまに口を開けば嫌味しか言わないような人に

人の道なんか諭されたくないんですよ

今日義母四十九日法要

お寺に早く着き過ぎて時間が余ったので、墓地の隣にある公園を夫と散策した

夫も何十年かぶりだそうで「だいぶ変わっちゃったなー」などと言いながらも懐かしそう

公園中央にある小さな丘は、子供の頃ママチャリで駆け下りた思い出深い場所だそうだが

夫は現在進行性の難病で歩行が日々困難になりつつあって「登ってみたいけど無理かなぁ」と寂しそう

「せっかく来たし登ろうよ!」と励まし、えっちらおっちら2人で何とか登り切った!

から景色はだいぶ変わってしまったそうだけれど、この眺めはしっかり脳に焼き付けようと思った

次来た時にはもうこの高いところから景色は望めないかも知れないか

天気もよくて、いい思い出になったなぁ…

と、とてもいい気分だったのに、小姑のアレコレで台無しだよ!

明らかに具合悪そうな夫に労りの言葉をかけるでもなく

供物が安物だの誰それ呼ばないとはどういうことだ(コロナで寺から最小限でと言われていた)だのグヂグヂと…

こっちは夫の病気への対応精神的にも経済的にもいっぱいいっぱいなんだよ!!!!!

思い出したら腹立って寝られなくなってきたのでここに書き殴って義母の魂と共に昇華する

読んでくれて有難う

そして心優しき小姑の皆さん、主語デカくてごめんなさい

2020-10-23

バハムートが死んだ

知恵袋みたいにアンサーが欲しいわけでもなく、でも自分の思いを誰にも知られないのが寂しくて誰か一人でも自分気持ちを知ってもらえたら楽になれるかもしれないと思ってここに書く。

2歳6カ月のバハムートが死んだ。

バハムート平均寿命は2歳〜2歳半だといわれているので寿命を全うしたといわれればそうだし、良くこれまで生きてくれたと思う。

でもやっぱり1日でも長く生きて欲しかった。

予兆全然なかった。

もちろん、ゆったりとした変化は感じ取っていて、例えば回し車で遊ぶ時間は前よりも少なくなったし、起きている時間も前よりは少なくなった。

バハムートは別荘を所有していて、時々放してやった、飼ったことがある人は分かると思うのだが一度放すと中々出てきたがらない。

お家に戻すときにエサを囮にして別荘から呼び出すのだが、前は一直線にエサに飛びついていたのに、最近は時々エサとは別の方向に向かうこともあって、目が悪くなったか、もしくは脳の病気になっているのかもしれないな、と思うこともあった。

でもそれでも、食欲はモリモリだし、下痢したこともあったけど今はそれも治って、歳の割には元気でその日もいつものように別荘出せコール(ケージをガジガジ)をしていた。

それで時間が経っていつものようにエサを囮に呼び出しても全然出てこなくて、探ってみたら、別荘に行き着く寸前のところで固まっていた。

生きている間はあまりじっくりと触れることはしなかったけれど、それをよくよく触ってみると背中の右側が明らかに左側よりぼこっとしていて、腫瘍ができていたのかもしれないな、と思った。

しかし、知恵袋に書いてあるような、くるくる回ったり、歩きづらそうにしていたり、食欲がなかったり、そんなことは一切なく、元気なじじバハムートだった。

2歳6ヶ月まで生きたことは、普通に考えれば、長生きしたね、と言ってもらえる歳だと思う。

でも、何で今日この日に死んだのかが全然からない。

直前まで本当に元気で、いやもしかしたら元気じゃなかったのかもしれないけど、でもケージをかじる余裕はあって、今日もいつも通りの日常バハムートにも私にもあると信じていたと思う。

もっと分かりやすく何か症状が出ていたら、それなりに身構えることができたのかもしれない。余命宣告でもされていたら、もっと、何かができていたのかもしれない。

そんなこともなく、コロッと逝ってしまった。別荘の前で倒れていたから、ケージから放してすぐのことだったと思う。食いしばったような歯で片目は半開きで横たわっていたから、恐らく苦しんで死んでしまったのだと思うけれど、死ぬ間際までそれなりに元気でいてくれたことは良かったとは思う。

そんな風に、予兆なく逝ってしまうのと、別れを予期しながら徐々に逝ってしまうのとどっちがいいんだろうね。

バハムートにとってはいつ死んでもおかしくない年齢とはいえ、やっぱり1日でも長く生かしてあげたかった。

もし、その日その時間ケージからさなかったら死ななかったのかもしれない、その日は寒かったから、ちょっと早いけど暖房もつけていれば死ななかったのかもしれない、1週間前に掃除をしなかったら今日死ぬことはなかったのかもしれない、考えたくないけれど、その日のおやつにははが鮭をあげなかったら死ななかったのかもしれない (でも最後の晩餐が美味しそうに食べていた鮭で良かった) 。

それ以前に、病が原因で死んだとしても、何が分岐点今日死んだのか、分からいから辛い。

まだ、ケージは片付けていない。いつでも戻ってきていいんだよ、居場所はここにあるよ、寂しくないよ、って思っていることを伝えたいから。親から何か言われない限りは四十九日まではそのままにしておきたい。

でも、知恵袋によると、遺品をそのままにしておくとバハムート成仏できないらしい。そしてバハムートの魂は遺品に宿るわけではなく私たちの心の中に宿っているらしい。

そういう、成仏とか魂の話は、尖った言い方をすると生きている側のエゴであって、死んだ側には魂もクソもなく、死骸が腐敗して土に還るだけだと思うのだが、実際自分が大切にしていた人や動物が死んでしまうと、しっかり成仏して天国に行ってずっと美味しいものを食べてくれたらいいなと思うし、天国に飽きたら輪廻転生してこいよ、と願ってしまう。

残念ながら、成仏しようが魂が生まれ変わろうが、私の家にバハムートが戻ってくることはもう二度とないわけで、それはとても悲しい。しかし、バハムートに限らずそれは犬にも鳥にも親にも私にも必ずいつかはやってくることで、死は何も特別なことではない。そう分かってはいても、やはり死は悲しい。

私は今でもケージに向かってバハムートの名を呼ぶし、バハムート匂いを嗅ぎに別荘を覗くこともある。私とバハムート日常は変化し続けながらも、まだそこにある。

ハムスターが死んだ

知恵袋みたいにアンサーが欲しいわけでもなく、でも自分の思いを誰にも知られないのが寂しくて誰か一人でも自分気持ちを知ってもらえたら楽になれるかもしれないと思ってここに書く。

2歳6カ月のハムスターが死んだ。

ハムスター平均寿命は2歳〜2歳半だといわれているので寿命を全うしたといわれればそうだし、良くこれまで生きてくれたと思う。

でもやっぱり1日でも長く生きて欲しかった。

予兆全然なかった。

もちろん、ゆったりとした変化は感じ取っていて、例えば回し車で遊ぶ時間は前よりも少なくなったし、起きている時間も前よりは少なくなった。

ハムは別荘を所有していて、時々放してやった、飼ったことがある人は分かると思うのだが一度放すと中々出てきたがらない。

お家に戻すときにエサを囮にして別荘から呼び出すのだが、前は一直線にエサに飛びついていたのに、最近は時々エサとは別の方向に向かうこともあって、目が悪くなったか、もしくは脳の病気になっているのかもしれないな、と思うこともあった。

でもそれでも、食欲はモリモリだし、下痢したこともあったけど今はそれも治って、歳の割には元気でその日もいつものように別荘出せコール(ケージをガジガジ)をしていた。

それで時間が経っていつものようにエサを囮に呼び出しても全然出てこなくて、探ってみたら、別荘に行き着く寸前のところで固まっていた。

死んでいるとすぐに思った。こんなところで寝るはずがない。

触れるのが怖かった。冷たくなってしまったハムに触れてしまうのがとても怖かった。

生きている間こそあまりじっくりと触れることはしなかったけれど、冷たくなったハムを抱いてみると背中の右側が明らかに左側よりぼこっとしていて、腫瘍ができていたのかもしれないな、と思った。

しかし、知恵袋に書いてあるような、くるくる回ったり、歩きづらそうにしていたり、食欲がなかったり、そんなことは一切なく、元気なじじハムだった。

2歳6ヶ月まで生きたことは、普通に考えれば、長生きしたね、と言ってもらえる歳だと思う。

でも、何で今日この日に死んだのかが全然からない。

直前まで本当に元気で、いや元気じゃなかったのかもしれないけど、でもケージをかじる余裕はあって、今日もいつも通りの日常ハムスターにも私にもあると信じていたと思う。

もっと分かりやすく何か症状が出ていたら、それなりに身構えることができたのかもしれない。余命宣告でもされていたら、もっと、何かができていたのかもしれない。

そんなこともなく、コロッと逝ってしまった。別荘の前で倒れていたから、ケージから放してすぐのことだったと思う。食いしばったような歯で片目は半開きで横たわっていたから、恐らく苦しんで死んでしまったのだと思うけれど、死ぬ間際までそれなりに元気でいてくれたことは良かったとは思う。

そんな風に、予兆なく逝ってしまうのと、別れを予期しながら徐々に逝ってしまうのとどっちがいいんだろうね。

ハムにとってはいつ死んでもおかしくない年齢とはいえ、やっぱり1日でも長く生かしてあげたかった。

もし、その日その時間ケージからさなかったら死ななかったのかもしれない、ちょっと早いけど暖房もつけていれば死ななかったのかもしれない、考えたくないけれど、その日のおやつにははが鮭をあげなかったら死ななかったのかもしれない (でも最後の晩餐が美味しそうに食べていた鮭で良かった) 。

それ以前に、病が原因で死んだとしても、何が分岐点今日死んだのか、分からいから辛い。

まだ、ケージは片付けていない。いつでも戻ってきていいんだよ、居場所はここにあるよ、寂しくないよ、って思っていることを伝えたいから。親から何か言われない限りは四十九日まではそのままにしておきたい。

でも、知恵袋によると、遺品をそのままにしておくとハム成仏できないらしい。そしてハムの魂は遺品に宿るわけではなく私たちの心の中に宿っているらしい。

そういう、成仏とか魂の話は、尖った言い方をすると生きている側のエゴであって、死んだ側には魂もクソもなく、死骸が腐敗して土に還るだけだと思うのだが、いざ自分が大切にしていた人や動物が死んでしまうと、しっかり成仏して天国に行ってこいよ、天国でずっと美味しいものを食べてくれよ、天国に飽きたら輪廻転生してこいよ、と願ってしまう。

残念ながら、成仏しようが魂が生まれ変わろうが、私の家にハムが戻ってくることはもう二度とないわけで、それはとても悲しい。しかし、ハムに限らずそれはお家の犬にも鳥にも親にも私にも必ずいつかはやってくることで、死は何も特別なことではない。そう分かってはいても、やはり死は悲しい。

私は今でもケージに向かってハムの名を呼ぶし、ハム匂いを嗅ぎに別荘を覗くこともある。私とハム日常は変化し続けながらも、まだそこにある。

2020-09-23

せめて母の四十九日まではお花かお供えは絶やさないようにしたい。

隔離生活

アメリカから身内の不幸で日本に戻ってきた。葬儀は無理でも四十九日くらいは参列したかったので。今は都内隔離生活中。感染可能性が低くなるまで直接実家に向かうのは避けた。

時節と理由から日本の友人にも報告せず帰国したので、電話などで話せるのが身内しかいないのだが、これが結構精神的に苦しい。身内との会話は法要相続に関する手続きなど事務的なことばかり。あーアホな話したい。ゲームとか本の話とかさ。人が亡くなったとはいえ、ずっと悲しんでばかりもいられない。そうするには体力も気力も足りないんだ。悲しみに浸るのは体力を使うんだとはじめて知った。薄情なのはわかってる。でも軽い話もしたい。

2020-08-07

母親が死んだ

享年47歳、子宮頸がんだった。

数年間の闘病生活のうえ死ぬまで懸命に生きた。

先日10年経ったが、いくつかの後悔が折に触れて思い出されるためここに書いて供養したいと思う。

家族の形や関係性は多様だと思うので、一個人の感想だと思って読んで欲しい。

先によかったことを書いておくと、母親ホスピスなどに入らず死ぬ前日まで自力風呂に入り、自分の布団で寝て、そして自宅で息を引き取ったので幸せだったと思う。

自分家族全員で最期の看取りができて本当に良かったと思っている。

うちは3兄妹の5人家族雑種の犬が1匹で自分長男。当時高校生大学生スマホはまだ持っていない時代

自分は闘病期間中大学生になったこともあり、長期休暇には病院への送迎や入院中の見舞いなど介助をする時間がたくさんとれた。

海を見にドライブに行ったり、浮腫んだ足をオイルマッサージしたり、手をつないで病院を歩いたり、寝る前に話をしたり、たくさんの時間を過ごせた。

生前母親も見舞いに来た友人らにそのことを話していたらしく、四十九日で来訪した母の友人からそのことを聞いて泣いた。

ここからが本題。

この10年でよく思い出す後悔は2つ。

一つはツナおにぎり

母親から最後メールが「ツナおにぎり買ってきて」だった。

スーパーでの買い物帰りに母親からメールを受信し、コンビニに立ち寄った。その日は母親の好きな手巻き寿司ツナがなく、三角おにぎりツナしかなかったため自分おにぎりを買って帰らなかった。

帰宅しそのことを告げると残念そうな顔をしたが、柔らかく煮たうどんを作ったら美味しそうに食べていた。

その翌々日、母親は亡くなった。

自分最後に来たメールが「ツナおにぎり買ってきて」だったこと、

それを叶えてあげられなかったことがのどに刺さった小骨のように引っ掛かっている。

から私は今でも墓参りに行くとき手巻き寿司ツナを買っていく。

もう一つは車に乗るのを急かしてしまたこと。

当時階段を上るにも、介助をしたうえで手すりを使ってゆっくりしか上れない程になっていた母親に対し、

次の予定があった私はノロノロと車に乗り込む母親につい大きな声を出してしまった。

やっと乗り込んだ母親椅子に座ることも確認せず、スライドドアを叩きつけるように閉めた。

大した予定でもなかったのに、どうして優しくできなかったんだろう。

乱暴に支えた母親の腰周りの感触スライドドアの重みがまだ手に沁みついている。

母親が死んだらもっと楽しく美しいことばかり思い出すと思っていた。

しかし実際は、もっと若いころの話を聞いておけばよかったとか、色んな料理を作ってあげればよかったとか、

目的のないドライブに行ったり、犬をなでさせてあげたり、新しい歯ブラシおろしてあげたりすればよかったとか、

そんな自分を責めるようなことばかりこの10年思ってきた。これじゃ母親もうかばれないだろうと思う。

幸せだったと死んでいった母親に、自分は今こんなに幸せなんだと子を紹介する。

このお盆を節目にしたいと思う。

2020-08-06

助けてくれ~w

お母さんがいなくなった事実じわじわ精神バランスおかしくしている。

今日も元気にじゃがいもを5個揚げてフライドポテトにして一気に食べて少し時間をおいてわざと吐いた。

お母さんの葬式の前日の夜にケンタッキーを6ピース買って全部食べて一気に吐いたことを思い出した。

お母さんが死んですぐはいつも通りの日常を過ごそうと思って、洗濯料理掃除も力を入れて頑張った。

でもここ最近風呂にも入らず自動販売機コンビニしか行ってない。

毎日料理してスーパー野菜を買って、作り置きをしたり魚を食べたりご飯の量をはかったり健康的だったのに最近食べるのは揚げ物とか出来合いばっかり。

昨日も今日と似たような食事内容で、キットカット一袋と出来合いのカツ丼チーズに衣をつけて揚げたジャンキーチーズフライじゃがいも4個分のフライドポテトと大量のマヨネーズケチャップ三ツ矢サイダー・・・

あとほかにも色々食べたけど忘れちゃった。

夜中の12時過ぎにどうしても我慢できなくて自動販売機お菓子を買いに行った。それもキットカット。どんだけキットカット好きなんだよって感じだけど今年に入って初めて食べた。昨日。

全部吐けてる気が全くしないけど、一気にたくさん吐けると気持ちよくてそれが癖になっちゃってやめられなくなってきた。

どうしたらいいのかわからない。

極端なやせ型ではないどころかむしろ太ってるから拒食症でも過食ってほど量も食べてないか病院に行ってもしかたない

というか今かかってる心療内科医者は全く信用できないから言う気はないでも言ったほうがいいのかな。

お母さんに会いたくても会えないし、誰もトイレで吐いてるの心配してくれないし私個人のことを本気で考えてくれる人はこの世に一人もいない。

お母さんは私のことを本気で心配してたように見えたけど最後には自分のことで精いっぱいだったように見えたから本当に一人もいなくなっちゃった。

自分が生まれてこなければお母さんの人生はもうちょっと穏やかだったと思うし、悲しい思いもさせずに済んだし、地震がくるたびに極度におびえて、新しい仕事に行くたびに泣きわめくのを面倒見たりしなくて済んだ。

でも私のことをかわいいって常日頃言ってくれてたしありがとうって感謝の思いでいっぱいだけど、なんで私のことおいてったのという疑問ばっかりでありがとうって言いたい気分にならない。

いつもいろんなところに出かけて、近所だけど。なんでそれなのにお母さんと私は珍しく何週間もあってないなんて不思議で仕方ないし、お母さんは骨になっちゃった。

からまた食べて吐くけど、お母さんのせいじゃないと思う。

トイレににおいがついたかもしれなくて、対処方法がわからない。

体調大丈夫って急に聞かれたからにおいで吐いてるのばれたかもしれない。

でもそれ以上何も聞いてきてくれないから、聞いてくれるように今日も吐いてみる。

吐いたりしちゃだめだよって言ってきてくれないと気が済まない。隠れてこそこそ吐くの疲れた

キットカットとかのごみを片付けたいのにごみ袋がもうなくなっちゃって買いに行かないといけないのにどこに売ってるか知らなくて困ってる。

今日は何食べようかな~って思うんだけどむなしい

コンサートもなにもなくなって明日いいことはおこんないんだろうなーって思いながら寝るのがつらい。

睡眠リズムは今のところ元気だから多分元気なんだろうけどなかなか元気になりきれない。

抗不安薬頓服もらいに行けってキレられてもらったけど結局飲んでない。

昨日もおとといも薬飲み忘れた。今日もまだ飲んでない。

お母さんに会いたいって思うと涙が出てくる

一生お母さんに会えないで生きていかないといけないなんて信じられない。

お母さんに何にも教わらないでいて何してたんだろう

お母さんは私たちの世話だけする人生幸せだったんだろうか

お母さんにいろいろ聞きたいことあるのにどこで聞けばいいんだろう

あの世に行って、あの世でお母さんは私に会ってくれるかわからないし、あの世にいくには私は若すぎるからあの世でまたお母さんに悲しい顔させるの確定しちゃうからまだいけない気がする。

お母さんがどこからかフラっと帰ってきてくれるような気ばっかりしちゃって毎日毎日だらだらしてたら呆れてくれてしっかりしてたら褒めてくれるような気がする。

お母さんに会いたくてももう会えないのがつらい。

お母さんに会いたい。

お母さんの代わりになってくれる人はいないしお母さん以上に大好きな人なんてこの世にいない。お母さんの声が聴きたい。

もう会えないのが受け入れられない。

この前派遣仕事の最終日でもらったお菓子の中に火葬場で食べたお菓子が入ってて嫌だったんだよ。

筋トレも何日もさぼってるんだよ。

おばあちゃん毎日畳に寝っ転がってぼーっとしてるよ

なにも通常通りじゃないよ助けてお母さん

お母さんが戻ってくれば全部解決することばっかりだから戻ってくるなら今しかないよ。

四十九日っていうのがまだだから、みんな今戻ってきてくれたら喜ぶよ。お願いだから戻ってきて

また一緒に買い物にいってうどん食べて、コメダに行って家電屋さんに行っていつも頑張ってるからって言ってなんか買ってほしいんだけどいつ帰ってきてくれるの?

お母さんまた会いたい一緒にかき氷すいか食べよう、回転寿司行っていろいろ食べよう

ブロッコリーのゆで方の写真に顔も入れておけばよかったなー

お母さんに聞かないと何にもしたくない

お母さんに電話したいお母さんにプレゼントがしたいお母さんに会いたい

これから先お母さんがいないなんて考えたくないお母さんがいないのがさみしい

ひとりぼっちじゃないのにひとりぼっちな気がする

からトイレ行く

2020-07-31

祖母の死に水がオロナミンCだったのが悲しい(追記しました)

この冬に亡くなった父方の祖母は、祖父の初婚の相手が病没してからの後添いで、最近後家でもあった。

彼女祖父再婚したとき、すでに父も伯父も成人していたので、祖母を慕うでも疎むでもない、いわゆるおとなの距離感だった一方、私と母は祖母とずっと仲良しだった。

祖母血縁関係がないことを知ったのは小学生時代の半ばだったが、「あ、まじ?」くらいのかんじで、祖母のことは変わらずずっと好きだった

80歳になった頃から認知症が出始めて、以降はちょっと若返り、ずっと79歳で通した。

90歳近くになっても「80歳になったら遺言状を書く」と言い続けていたので、遺言状書くのが潜在意識レベル億劫だったんだろう、気持ちは79歳のまま、91歳で亡くなった。

歳もとしで、生存してる知己も皆無のため、葬儀では町内会長が弔辞を読んで下さった。

会費払うくらいの活動しかしてなかった祖母に対して「〇〇地区の発展のためおおいに尽力されました」は、いくらなんでも高齢者汎用弔辞丸出しだなと思われたから、私が親戚代表でお別れのことばを読めてよかった。

私は次男の娘、しか結婚して姓も変わったというはんぱなポジで、完全に押し付けられたかっこうだけど、彼女のことを好きだったから、そういう人が読んだほうがいいと我ながら思ったのだ。

祖母は私達家族がたずねると、「今くるところと思っとったとよ」と言って迎えてくれ、帰るときは「もう帰るとね。泊まっていけばよかやんね」と送ってくれた。

電話を掛けると、「今かけようと思っとったとこやった。気は心たいね」と言った。

彼女には決まり文句があった。

それが大好きで、もう聞けないと思うと寂しくて仕方ないと、そうお別れのことばをのべながら私は泣き、母も泣き、その後の進行でも泣き通しに泣いていたのだが、式の最後、死に水をとる段(祖母地域では、菊の葉っぱに飲料をつけ、遺体の唇を湿らせる行為)になって涙が引っ込んだ。

死に水がオロナミンCだったのだ。

葬儀場の人がすんごいしめやかにオロナミンCをご用意いたしました」って言いだしたとき、死んでるのに元気ハツラツもあるかよ、と思い、さっきまで泣いていたのに急転直下で笑いをこらえるはめになった。

のちに、伯父が気を利かせて手配したと発覚するのだが、それにしたって死に水がオロナミンCとは……と思うと同時に、私はかすかな違和感を覚えていた。

おばあちゃんオロナミンC飲んでたっけ? 

生前祖母はたしかにこの手の飲み物を愛飲していた。夏場に行くと茶色い瓶を差し出し、増田ちゃんも飲まんね、と勧めてくれた記憶もある。

ならばオロナミンCを飲んでいたのだろう。よく生協からとっていたという記憶もまた、あるにはある。

葬儀後、伯父は、我ながらオロナミンCナイスプレイだった、祖母子さんは(伯父も父も、決してお母さんとは呼ばない)オロナミンCが好きやったけん、と自ら言いまわっていた。伯父は祖母敷地内別居をしていたので、離れて暮らした私よりよほど祖母生活に詳しいはずではある。

そんなわけでオロナミンCで死に水をとったのち、祖母は骨だけの姿にかわり、四十九日を納骨の日と定めて再度集まった。

その日、葬儀ときは訪ねなかった、祖母が亡くなる直前まで暮らした家に寄り、私はそこで、おもいもしなかったものを目にした。軒下に大量の茶色い瓶が置いてある。

あーほんとに大好きだったんだな、おじいちゃんに怒られるくらい飲んでたよな……と思って瓶の群れに近付き、私は雷に打たれたような衝撃をうけた。

瓶が……でかい! 

これは、オロナミンCの瓶ではない……!

とっさに写真を撮って友人にLINEしたら、すぐに

「それはもうデカビタやんか」

とかえってきた。

まさかミルクボーイまさかの全力チャージ

葬儀ときになんとなく感じた違和感の正体はこれだった。いま、瓶を見てはっきり思い出した。

祖母が勧めてくれたのは、小さな瓶のオロナミンではない。

大きな瓶のデカビタだったのだ。

おばあちゃん、死に水をエナドリ(?)にされるという素っ頓狂な目にあったうえに、銘柄を間違われてる……。

そのことがわかったとき、私はほんとうにほんとうに、心の底から悲しくなった。

実子のない後添いの、そして後家の、なんとつらく悲しいことかと思ってしまった。

成人してから出来た継母への興味なんて、そりゃ愛飲しているのがオロナミンかデカビタかもわからない程度のものなんだろう。

だって自分立場に置き換えたらそうなるかもしれない。

それにしたってあんまりじゃないか

町内会長にはなんの罪もないどころか、参列の上弔辞まで読んで頂き感謝しかないが、あの汎用弔辞や、祖父の前妻が眠っているからという理由一族の墓とは別に用意された納骨堂のことも、全部全部悲しく、やりきれなかった。(が、私が祖母なら納骨堂に入りたいなとも思った)

そして何より祖母に会いたくて仕方なくなってしまった。書いている今も祖母に会いたい。

が、あの世に向かって全力チャージしてしまった祖母とは、永遠にとは言わずとも、当面会う事はできないだろう。

どうしていいかからないし、どこにもこの気持ちを持っていきようがないから、とりあえず、オロナミンとデカビタで、利きエナドリ(?)をやってみたいと思っているし、できたら両者区別がつかないといいとも思っている。

という話を、葬儀後、大学時代サークル仲間で餃子パーティをしたときに話した。

その場の人たちは、参加したい、どうせならドデカミンリアルゴールドミラクルVなども加えて盛大にやった方がいいと言ってくれたが、直後のコロナ禍でまだ開催できていない。

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追記

半年以上、祖母の死に水オロナミン事変についてもやもやしてたのもあり、長くまとまらない吐き出しだったのに、たくさんの人に読んでもらえていてびっくりしました。ありがとうございますコメント全部読みました。これからもらえる分あったらきっとそれも読みます祖母を悼んでくださった方、本当に恐れ入ります。これを自分で言うのも野暮ですが、リアルゴ……実話です。

オロナミンはデカビタの上位互換なので大丈夫、という意見散見されてかなりとほっとしました。

1月、家のまえにいた迷子のおばあちゃんをご自宅まで送っていったときのことを増田を書いたら、思いがけずいろんなコメントをいただけて、それを読んで少し気持ちが整理できたということがあった、その直後に祖母が亡くなり、まさかオロナミン事変。

こんどは自分のおばあちゃん葬儀についてなかなか気持ちのか整理がつかず、もう一度……と思って増田に吐き出したら、笑ってもらえたり、やるせなく感じた部分をわかってくれる方もいてうれしかったです。

あと、知らないエナドリ(?)もあがってたから、利きエナドリやるときは買い集めようと思います

2020-07-26

葬式が終わって焼き場から出てきた父親の骨はボロボロで、治療とはいえ長い間薬を飲み続けていると骨がこうなるんだよと教えられてなんとも言えない気持ちになったのを四十九日が過ぎてから思い出した

2020-07-16

関東住まいの父が心配

年末に姉が亡くなった。父と二人暮らしだった。それ以来父はすっかり塞ぎ込んでしまい、仕事自営業なのだがそちらもしばらく休んでいた。

二月中に四十九日も済ませ、四月、五月になったらまた働こうかな、なんて心づもりでいたが、あれよあれよという間にコロナが広まり、気晴らしに出かけることもできず、家で一日中スマホゲームなどして過ごしているらしい。

私は関西に住んでおり、今は行くことも、呼ぶことも難しい。四十九日以来、父とは顔を合わせていない。

2020-06-23

私と信仰

深夜に変なスピリチュアル広告読んでゲラゲラ笑った後に、ちょっと思うことがあったから思いついたから書いただけなんだ。

乱雑だし、プロット作りも推敲も何もしていない。ただずっと抱えていたものを吐き出す場が欲しかっただけなので、とりわけ目立つものもない。

これを書いている私は、いま地方大で歴史を学ぶ大学院生だ。ストレート大学院まで上がった位の年齢だと思ってほしい。

私の専門は歴史だが、そこから興味が広がって宗教や、それに関連する文化の話も好きだ。本来専門ではないけれど、色々本を読んでみたりしている。

そこで思うことがあった。宗教信仰は本当に人の暮らしに密接に関わっていると実感した。そして、勉強を続けたからこそ気付く事や、それまで抱えていた自分気持ちに整理をつけることができた。

この記事はそんな私の20ちょっと人生で触れてきた宗教に関する思い出の覚書だ。

私の家の目の前には、カトリック教会があって、附属幼稚園教会のすぐ隣にある。ミッション系というやつだろう。

からすぐということもあって、私と妹はそこの幼稚園に通っていた。

幼稚園に来たら、シスターたちに挨拶をし、玄関マリア像の前で十字を切る。朝礼やお昼のお弁当を食べる前には「主の祈り(天におられる私たちの父よ~のやつだ)」を唱えたし、クリスマスの時期になれば、年長クラスの子たちがキリストの聖誕劇をやるために練習をしていた。

ああそう、あとメダイちゃんともらっていた。確か聖母子像か、聖母マリアのものだったはずだが、年に数回会うおじいちゃん(どう考えても教会神父だ。園長って呼んでいたけど)から新年度になるたびに名札につけてもらっていた。

そんな幼稚園キリスト教に触れる生活を送っていた幼少期。年長クラスクリスマスに聖誕劇をしていたけど、年中クラスや年少クラだって讃美歌を歌ったり、合奏をしていたので、どこの幼稚園もこういう歌を覚えているものだと思っていた。

卒園式のお祝いには、聖書を分かりやすくまとめた絵本をもらった。絵本といっても結構文字が書いてあるし、ハードカバーの大型絵本だった。聖書の教えも何度か聞いていたはずだが、私がきちんと聖書物語に触れたのはあの卒園式の日だったに違いない。

既に本の虫だった私は、それなりに漢字も読める方の子どもだった。だからその絵本も気になって、天地創造から長い時間をかけて読み通した。

当時6歳の私は、意味はあまり分かっていなかったけど、ところどころの挿絵インパクトは強烈だった。

洪水翻弄されるノアの方舟モーセが海を割るシーン、キリストが茨の冠を被せられ、鞭うたれるシーン。幼い私は、もうそれはそれはびっくりしたのだ。

それから数年経って、小学校卒業して中二病が芽生えるような年になった頃、私はイキってまた聖書に関心を持ってみた。

西洋美術が分かるやつはかっこいいし、その元ネタが分かるとなおかっこいいと思っていた。恥ずかしい話だが。

そこでもう一度聖書ストーリー絵本(今度は妹がもらってきたやつだ。まったく同じ絵本だが)を読んでおさらいし、やっぱり意味理解しないままミルトンの『失楽園』とかを読んでいた。

この後、ぼんやり興味を薄く抱き続けたまま、今一度大学院に入ってからちゃん勉強をしようと思い、現在に至っている。世界史とかは大事な要素だしね。

こうしてみると私はクリスチャンのように見えるのだが、家には仏壇があるし、今の興味の原点がある幼稚園時代にはその仏壇で「まんまんちゃんあん(関西仏壇やお墓でお参りをするときに言う幼児語)」をしていた。祖母は今でも毎朝、犬の散歩から帰ると仏壇の前でお経を上げる。

父方の祖母と同居しているのだが、祖父は私が生まれる1年ほど前に亡くなっている。祖母は幼いころの私の面倒を、共働きの両親に代わって見てくれていたから、幼稚園から帰ると「おじいちゃんにまんまんちゃんあんして、ただいま言うんやで」と言われるがまま、お鈴を叩いて手を合わせていた。今でも何か報告(たとえば大学に受かった時や、卒業認定をされた時)があるとき仏壇の前に座ることがある。

お盆お彼岸には、お墓参りはできるだけしようと思っているし、昨年京都に行ったときは私の家の宗派本山のお寺にもお参りした。これは本当になんとなくだったけれど、行ってよかったなとは思っている。

から私は、今のところは仏教徒で、ごく一般的日本人宗教なのだけど、困ったことに、私はとある宗教3世にあたる血筋でもある。

名前を出すのは少しはばかられるので婉曲的な表現をするが、先述のように私の家は仏壇のある仏教徒の家だ。宗派を言えば浄土真宗

ただ母方は宗派が違い、日蓮宗なのだ。分かりやすく言えば父方の祖母は「南無阿弥陀仏」と唱えるけれど、母方の祖母は「南無妙法蓮華経」と唱える。

この時点で察しの良い方はお分かりかもしれない。母方の祖母はいわゆる「学会員」だ。

から、母方の祖母の家に遊びに行くと某新聞が置いてあったし、本棚を見れば某氏著作が置いてあった。

自身学会員ではない(嫁いでいるし)し、母の姉夫婦もそうでないのは知っている。私自身会員ではない。

から3世を名乗る立場ではないのだが、私は学会員としての祖母の姿を見て、ああいった宗教に対する疑問を抱くようになった。

実際あの学会について「おや?」と思ったのは、私を可愛がっていた母方の祖父が亡くなった数年後だった。

祖父が亡くなった後、葬儀四十九日法要に関しては違和感を感じることはなかった。後になり、伯父がかなり骨を折ったことを知ったのだが。

違和感をはっきりと感じたのは母方の伯母夫婦、大叔母、そして私たち家族祖母が参加した七回忌の法要だ。

いわゆる法事から自分認識では「お坊さんを呼んで、お経を読んでもらって、そのあと親族食事をする」というものだった。事実父方の祖父法事はお坊さんを呼んでいる。

だが、母方の祖父の七回忌法要は様子が違った。

まず、お坊さんを呼んでいなかったのだ。黒スーツに黒いネクタイを締めた見知らぬ男性(見た感じ祖母とそれほど歳は変わらない人だった)が居て、私の知らない親戚かと思っていた。最初は。

いつになったらお坊さんが来るのだろうと思ったら、法事が始まるから仏壇の部屋に来いと言われた。言われるがまま妹の隣に座り、数珠を持っているとその男性が仏壇の前に座って、読経を始めた。

「は?」と思った。なんでこのオッサンがお経読んでるねん。お坊さん来られへんかったん?違和感しかなかった。

どうやら件の学会ではその地区で一番偉い学会員法要読経をするということを知ったのは、さらそれから2年ほど経った頃だ。

ただ法事の時に、伯父が「僕はちゃんとした日蓮宗のお寺に骨を埋めてもらうように言っている」と若干怒気をはらんだ口調で言っていた理由が、理解できた。

母方の伯母夫婦とは、その七回忌の法要以降会っていない。いや、何度か伯母とは会ったが、伯父とはそれ以来もう何年も会っていない。

昔はよく祖母の家にお盆正月の折に触れて来てくれていたのだけど、仕事関係で来れない、と言うのが聞いている理由だ。でも、多分彼はきっと、学会員である祖母宅周辺の人に会いたくないのだろう。少しだけ言い合いになっていたし、伯父が祖父葬儀に口出ししたことで何かがあったのだろう。

同時に、祖母が熱心に読経を一日に何度も行う理由祖母の家にあった新聞書籍がなんだったか、芋づる式に分かってちょっとだけ嫌気がさした。

祖母よりも熱心だったのは大叔母(祖父の姉)で、会合(というのがあるらしいが、この辺りは詳しく知らない)にも熱心に参加していたみたいだ。

別にこの記事批判をしたいわけじゃない。けれど、どうしても伯父の言葉がずっと心に引っかかっているのだ。

「お義父さんの事も、ちゃんとお弔いしたいのにそれが出来ないのはほんまに悔しい」という伯父の言葉が。

いま色々な宗教の事を学び、宗教社会に与える影響の強さを知った上で、私は伯父の言葉同意したい。

信仰自由だ。それはこの日本で認められた権利だ。けれど、大好きだった祖父のことを、あんジジイの安い読経で弔いたくはないのだ。

そしてああ言った新興宗教団体が、親族との軋轢を産んでいることを伯母夫婦の一件で身に染みて実感したのだ。

母方の祖母我が家の仲はいい。祖母はい一人暮らしだし、私も長生きしてほしいと思っている。

けど、少しだけわがままを言うなら学会と縁は切ってほしいかな、と思わなくはない。

少し愚痴っぽくなったが、最後にその新興宗教がらみの話をちょっとだけ聞いてほしい。

大学進学以降そうした新興宗教がらみのトラブルエピソードは少なからずあると知った。友人も巻き込まれたことがあったらしい。

大学の最寄駅前には某証人人達が冊子を配るために立っているし、家にも何回かチラシがポスティングされたり、勧誘そもそも来たりした。迷惑から帰れ、と総スルーかましたが。

去年なんか、右翼おっさん一般人に絡んで暴行しかけた事件証言を、某会の勧誘をしていた女性二人がしていて「情報量が多い!」と内心ツッコミを入れた現場を目撃した。

彼らも、それを信仰するのは自由だけど、私のように嫌悪するまでもないがもやを抱えた人間を周りに産んでいるのではないかな、と時折思わなくない。

スピリチュアル系のトンデモ科学に関するツイートTwitterなどでも話題になりがちだが、そういうのを見ても「ああ、なんというか、かわいそうだな」と思ってしまう。

思ってしまうだけで、それを思いっきネタにして笑い飛ばしているあたり、私はかなり嫌な人物だなと自戒しなくもないが。

何度も言うが、批判する意図はない。あなたがもしここまでに挙げた何かの信者であっても、私は知らない。

ただ、ひとりの学生が格好をつけて、自分は何を信仰しているのだろうな、と思い返すための文章から、大した感想も求めていないのだ。

ここまで読んでくれた奇特な方には、こんな感じで生活を送ってきた学生が一人居るというのを知ってもらえれば幸いだ。

2020-06-02

2020年4月12日藤原啓治さんが亡くなられた。

まずは名優の早すぎる逝去に、改めて心より哀悼の意を表する。

藤原さんの四十九日も過ぎたところで、世の皆様に伝えたいことがある。

それは、病気状態には「闘病中」と「完治」の他に「寛解(かんかい)」という状態があるという事だ。

※なんだ、そんなの知ってるよ、という方は、以降を読む必要はありません※

寛解とは、治療行為により一時的病気の症状(痛み等)が消失したが、いつまた再発・再燃するかわからないので治療

検査継続しなければならない状態の事である

もう再発しないという状態になって初めて完治と言えるのである

何故私がこんな事を言うかというと、2019年の春頃、インターネット上でこんな発言を目にした事があったからだ

↓ ↓

藤原さんは完治してる。でも今の声優が役を手放さないから、野原ひろし役に復帰できない」

この時期、既に藤原さんは「ゴクドルズ」等で仕事に復帰していた。つまり藤原さんが声優界に復帰したのに

ひろし役に復帰しないのは代役の森川智之さんのせいだ、というデマである

病気状態に関する概念を「療養中」と「完治」の2種類しか持っていないから、こんなデマ発言につながるのだ。

藤原さんの病気は癌であった事が逝去後に発表された。一般的に、癌の場合寛解が5年続けば完治である

まり藤原さんは寛解状態であるが完治はしていなかったのだ。退院後少なくとも5年間は、1クール仕事は引き受

けても、長寿アニメであるクレヨンしんちゃんへの復帰は難しい状態だったのである

以上です。藤原さんの出演作の思い出もいろいろ書きたいが、それについては稿を改めたい

2020-04-03

四十九日を待たずして忘れられた100日後に死ぬワニ

南無阿弥陀仏

2020-03-25

ワニカフェなんかやらないで今からガチのワニの葬式しろ

でワニ葬式に参加すると記念品スタンプカードがもらえる

初七日四十九日、百カ日、一周忌スタンプコンプリートしたらワニのレアグッズ贈呈

さら三回忌、七回忌、十三回忌、三十三回忌までコンプリートしたらもう家族認定名前が刻まれ

開き直るならここまでやりきろう

2020-02-25

翳(原民喜

センター試験話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)

底本:原民喜戦後小説 下(講談社文芸文庫1995年8月10日第1刷発行

     I

 私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老い母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。

 その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかにもっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。

 彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。

 岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものノートし、まず文体研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。

 それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。

 私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのもの顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人同棲した暁には、染料の会社設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである

 日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞第一面、つまり雑誌新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見ものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。

 岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。

 たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京文化方面役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズ役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。

 既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活飛込んだのだった。ところが、その相手資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである

     II

 私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇ほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。

 私は妻の遺骨を郷里墓地に納めると、再び棲みなれた千葉借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃であるサイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである

 私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉借家へ移った時のことである私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それから殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。

 私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラ千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴム長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。

「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。

「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、

「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。

 その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。

 私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好おかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。

 目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたそっくり写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。

 冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。

 翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。

 その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである

 そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服青年歯医者挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。

 それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲吏員就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後消息であった。その後私の妻の病気悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。

 その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。

 あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅作品の暗い翳を思い浮べるのであった。

 終戦後、私は郷里にただ死にに帰って行くらしい疲れはてた青年の姿を再三、汽車の中で見かけることがあった。……

2019-08-27

実名報道による二次被害損害賠償

40日も経ってお弔いも終わったので的な言い方してるけど

えええ四十九日まだじゃんと思ったし

これはもうあんなにお願いしま公表はやめてくださいという遺族からの声、会社意向を前振りを知りつつも敢えて大義名分の名の下に報道したのは

報道による二次被害損害賠償を受けて立ちますってことなのかしら

覚悟を持って報道されたのならそのことに対する責任をとる覚悟もあるよね

遺族1件1件にその気力は無くても

会社弁護士遺憾ですいってるくらいだから

組織だってそれぞれの組織に一矢報いることはできるだろうか

2019-08-14

anond:20190626224519

319

四十九日

四十九日大事~~みたいな事聞くけど、葬式やったらはい終わりってなって特に何もやってないパティーン最近は多い気がするんだが、それで極楽浄土に本当にいけとるんかいなって気はする

2019-07-10

ジャニー喜多川が死んだけど

いわゆる「闇」の部分(少年に対するホモセクハラとか、あと、よく知らんけど昭和時代から芸能権力を発揮してきた人が、反社となんの繋がりもないとは考えにくい)とかは、一緒にあの世に持っていっちゃうのかな?

逆に、死んで歯止めがとれたパンドラの箱から、いろいろ飛び出してしまうというパターンも考えられるな。

折しも、吉本あんなことになってるところに、四十九日すんだあたりから、どんどんいろいろ飛び出してきたら、日本テレビ面白いことになりそう。

2019-06-29

さよならが言えない(1)

母が自殺した。

もう3年も前の話だが、私の中では現在進行形だ。

残暑の厳しさが残る、9月下旬の早朝。

滅多に電話がかかってこない私の携帯に着信があった。

いつもならば眠い時間で、無視して必要があればかけ直すのだが、父の名前が画面に表示されたので、何事かと思って電話を受けた。

父の第一声は、「お母さんが自殺した」。

え?お母さん?自殺?え?

一瞬にして混乱の海に投げ出される。

父は続けて「救急車を呼んで、今待っている」というような事を言った気がするが、信じたくない現実に面と向かう事に必死でよく覚えていない。

鮮明に憶えているのは、呼び鈴と同時に入室してくる救急隊員の声と、それに答えて「救急車が来たからまた連絡する」といって電話が切れた事。

切れた電話のツーツーという音を聞きながら、その後どうしたか憶えていない。

夫の話を聞く限り、隣で眠っていた夫が話し声で起きて、どうした?と聞き、私は事情を話したらしい。

とにもかくにも、実家に帰って詳しい状況を聞かないといけない。

夫は会社に欠勤の電話をし、身支度をして二人で車で2時間実家に行くことになった。

私はタバコを吸うのだが、母はタバコタバコを吸う私も嫌っていたので、お風呂に入る時間をちょうだいと言って、急いでシャワーを浴び、髪についたタバコ匂いを落とした。

気持ちとしては、悪い夢の続きを見ているような変な浮遊感でふわふわしていた。

長い道中の事も憶えていない。

義父に頼まれた枕花を持った重さだけが、私を地上に結びつけているような気がした。

実家のある団地群に着き、階段を噛みしめるように登る。

母の自殺が本当だとしたら、第一発見者の父の気持ちは荒れる海の波のようだろうから私はしっかりしないと…と、平静を装おうとしたが、玄関を開け、並ぶ見覚えのない靴を見て、父の兄弟が先に来ている…つまりは母の自殺は本当だと感じた瞬間、涙が溢れ出た。

しばらく泣いて落ち着いたところで、居間テーブルに用意された席についた。

ふと、母が居るであろう場所を見ると、そこには何もない。

父にお母さんは?と聞くと、今は警察署に居ると言われた。

なんでも、救急隊員が駆けつけた際に死亡が確認された場合救急車には乗せられないルールがあるらしい。

そして、自宅での死亡の為、原因の追求をする為に警察署での検死に回されると。

母は一人で冷たい場所にいるのだろうか。

早く会いたい、顔を見たい、それだけだった。

夕方警察署からの連絡で、母の遺体収容する施設に移すという連絡があり、その場に居た全員で手続きに行った。

涙を流さず、冷静に見える父の、必要書類に記入する手が度々止まる。

「妻っていう字が思い出せない、書けない」

ああ、父も心の中は混乱していて、いっぱいいっぱいなのだな、と思った。

叔母が字を教えて、ゆっくり、一画一画確認しながら書類を書く。

必要最低限の言葉けがかに流れる

刑事さんが書き終えた書類確認し、ご面会はこちらです、と案内された部屋に行った。

私は死んだ直後のままの母が居ると思っていたが、既に白装束に着替え、箱に収められていた。

首には吊った後が残っているのであろう。

首周りに綿の詰められたクッションのような物が巻かれていた。

枕花を頭の横に置き、周囲に流されるように手を合わせる。

遺体を見て、事実を認める私と認めない私が行き来する。

これは悪い冗談なのではないかと、そうとしか考えられなかった。

母は自分の兄を自殺で亡くしている。

父も幼少時に祖父(父の父)を自殺で亡くしている。

母は残された苦しみから、「どんなに辛い事があっても、自殺だけはだめよ」と言っていた。

私はその言葉に助けられていた。

長い期間、学校いじめられ続けていた私にとって、生きる事の大切さを教えてくれた母の為にも生きようと、これまで生きてきた。

でも、その母が自殺を選んだ。

母はパーキンソン病で、近い将来介護必要になる事を嫌がっていた節があった。

自分の両親の看病で苦労したからだろう。

その苦労を父や私にかけない為に死を選んだとしか考えられない。

遺書が無いから、そう想像する事しか出来ない。

からって、勝手過ぎる。

苦労かどうか決めるのは私達なのに。

母の葬儀は、式場の都合で一週間程先になった。

それまでの間、毎日霊安室に通い、好きだったカフェオレを供え、なんで死んだの?と疑問をぶつけていた。

母は自分の将来に、綺麗に決着をつけたと思っているだろう。

実際はそうじゃない。

私も父も親戚も夫も、事情を知った全員がそれぞれに苦しんだ。

その罰があたったのか、もうすぐ葬儀だというタイミングで、綺麗だった母の死に顔に死斑が出た。

家族死化粧では消せない死斑。

人前に出る時に化粧は欠かせない母だったから、このまま葬儀には出せないと、葬儀屋さんに頼んでプロの化粧をして貰った。

今思うと、あの時は父のサポート必死だった。

過去の心の傷と仕事ストレスで鬱になった私は、抗うつ剤睡眠薬を長い事飲んでいたが、母の死を知った日から、それらの薬が効かなくなった。

父と母に会う時間の合間にかかりつけ医臨時でかかって、強い抗うつ剤睡眠薬を処方して貰った。

葬儀が終わるまでは、四十九日が終わるまでは、一周忌が終わるまでは…とにかく倒れる訳にはいかない。

それだけで動いていた。

2019-06-09

anond:20190608204005

分かるよ。

でもな、死んでからも、それなりの葬式を出して、

四十九日法要を上げて、お寺やお墓に納骨なりして、

1周忌を上げて、三回忌をやって、、、十三回忌の法要を上げる頃に

ようやく、こうするしか無かったんだよな、

と、しみじみ思えてくるよ。

2019-04-16

おめでとう

おめでとうとお疲れ様

そして、やっぱり寂しいよ。

でも最後に残る気持ちありがとう

すごいよ、最後まで腐らずアイドルやってくれて。

私が見つけるまでそこにいてくれてありがとう

それだけでも嬉しいのに、何から何まで大好きだった。

本当に笑うぐらい外野の人たちが寂しがって縋ってるな、ほんと、本当に笑える。あんたらなんかやってきたのかよ。

こっちは魂削ってやってきたんだよ、それが、この結果ならいいよ。ちゃん卒業の報告させてもらえて、本人が「全仕事しかった」と、「ステージに立つ時間が一番好き」と、そう言えるときに別の才能を見いだされて(見出されたと思ってる)新たな道に進むことになって、新たな道がある中で、それを報告できる立場にあってよかった。すごいよ、本当にすごい。

漠然とした寂しさはある、世界で一番好きな人がいなくなったから。いやいなくなってないけど、概念としてしんだから四十九日すぎるまではバタバタしてて泣けなさそう、えふがしんだときバッタバタしまくって泣けなかったもんなあ。

まだ続けてよって縋る人は、その後の人生想像しているのか。どう考えても今このタイミングが最良でしょう。

ここ数年を考えてみてよ、今が一番前だよ。やりたいことやれてたと思うけど。一番事務所に関心持たれているのは悔しいけど今だ。だから、これがきっと正解だよ。

卒業おめでとう、まぎれもなくあなたが最高の自担

私はあと余生を過ごすよ。そのなかでまたあなたを見かけられたら、あなたの気配を感じられたら、幸せかもしれない。

たくさんの幸せありがとう

2019-04-10

過ぎてしまった現実と、生きている人間エゴとしての葬送

どうしようもないことっていうのは、生きていれば必ず起こる。

しばらく前にいとこが亡くなった。まだ二十歳になる前で自分で命を絶った。自分が嫌になったのか自分以外の全部が嫌になったのか、それとも両方なのか、詳しい動機はきっとこの先ずっとわからないんだろう。

祖母は孫たちのなかでも彼を特に可愛がっていた。彼の家族祖母と家が近くて、一緒にいた時間が長い。祖母も両親である伯父夫婦もきっとわたし想像つかないほど落ち込んでいるだろう。


これだけでも十分に大事なんだけれども、問題が一つある。

私と両親はそのいとこの死を、つい数日前に親戚から送られてきた荷物に同封された手紙で知ったことだ。

私の両親は遠方に住んでいるが、私は祖母達の隣の県に住んでいる。死の直後に知らされたなら、父が間に合わなくともわたしは直ぐに祖母の家に向かって葬儀に出ただろう。四十九日の前に知らされたなら、予定を立てて向かった。

私といとこの仲が悪いということはなかった。いとこは口数が多い方ではなかったけど 私と会えば他愛のない話をした。いとこと最後に会った時は、私と祖母といとこで焼肉を食べた。一緒に焼肉食べた二ヶ月後にそいつ死ぬと思うか?私は全然思わなかったよ。

知らせを聞いてから、いとこに関する何年も思い出していなかったような記憶を思い出す。思い出しても一人暮らしの部屋では共有する相手もなく、ひとりでぼんやり記憶を味わうしかない。そんな思い出を共有して、上手に悲しみを昇華するためにも葬式四十九日あるんだろう。そういう儀式は生きていく人間のためにあるんだと実感する。

その別れの手順を踏めなかったせいか、ずっと心の中でなにかがフワッと浮いている。悲しみと無常感とかだろうか?わからないけど、そのせいで純粋喪失を惜しんだり悲しんだりできていない気がする。それが悔しい。

どうして知らされなかったんだろう。祖母と伯父の身近には何人も親戚がいた。みんな私に優しく、お盆正月に帰ると喜んで迎えてくれた。その全員がずっと茫然自失で連絡できなかったのか?四十九日が終わるまで?向こうの事情がわからいからなんとも言えないのだけど、私は少し怒っている。まあ怒っていることを自覚していれば、実際会った時にキレ散らかすことはないと信じている。

そして両親と話をした結果、週末に父と墓参りに行くことになった。今回の件も親戚と話し合うことにもなった。それが済んだらフワッとした何かがちゃんと着地できるだろうか。すっきりした答えが出るとは思えないけど、せめてどこかに着地点が見つかるといい。

2019-03-29

anond:20190329105547

そういえばこの前、葬式の参列者招待から四十九日料亭手配までトータルに面倒見るコーディネーターがいれば儲かりそうって話を嫁としたな。

本人手続きの物が多すぎて無理じゃない?委任状あればいける?で終わったけど誰かもうやってんのかな。

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