はてなキーワード: 四十九日とは
ワイのマッマはジッジバッバが死んだ後も四十九日すら何もしなかったやで
祖父は私のことが大好きだった。
小さい頃は近所の公園まで連れて行ってくれて、もう少し歳が大きくなると自転車の後ろに乗せてイオンまで連れて行ってくれたり、お祭りに連れて行ってくれたりしたことをよく覚えている。
夏休みはほとんど親の実家に帰る家だったから、子供の頃の夏の思い出は大体がこんな感じだ。
私が20歳くらいの頃だ。
祖父祖母父母私で食事に行った。4人乗りの車だったので、私だけ自転車で店まで行き帰りをすることになった。店も自転車で20分くらいだし、仕方ないことなので特に何も思わなかったのだが、車で帰ったはずの祖父は私の帰りを道の途中で待っていてくれた。
心配だったのだろうか?まさか待ってくれているとは思わなかった。いいのに、と思うが同時になんて優しいんだろうと感動した。かなり印象深い思い出の一つだ。
そんな祖父も、近年は認知症を患って周りの人間のことを忘れたり、思い出したりしていた。詳しくないが、進行はかなりゆっくりだったのではないかな、と思っている。
私はもうアラサーになっており、さらに一人暮らしをしている。なかなか祖父と祖母に会いに行くのは難しくなっていたので母が実家に帰ったタイミングでビデオ電話で少し話したりしていた。
母が祖父に「この人誰だか分かる?」と聞いた。私のことだ。「わからん。綺麗だなあ」と言った。
私のことを忘れていたことが辛かったのもあるが、それでもまだ私を褒めてくれるんだなという思いでグチャグチャになって通話を切ってからおいおい泣いた。
私の名前は覚えているけど…と言っていたところもまた嬉しいような悲しいような気持ちになった。
去年会いにいった時は私のことを時々思い出していて、テレビ電話と実際に会うのでは違ったりするのかな?と思った。よく分からないが、たまにでも思い出してくれてたのは嬉しかった。
周りの人のことを忘れたり思い出したりする祖父は、性格こそ穏やかだったし前と変わらなかったように思うが、私と遊んでくれていた頃の前の祖父とは厳密には違う人だったのかもしれない。
でも、あの頃の祖父と会えなくなることと、もう祖父とは会えないことはやはり全く違う。
詳細は聞けてないが、おそらく老衰のような感じなのではないかと思っている。大きな病気はしていなかったはずだ。
それで90近くまで生きられるのはなかなかにすごい事だ。
なので、良かったなあと言う感情で悲しみを和らげることができるのはありがたいことだ。
まだ心の整理はついてないし、ふとした時に祖父との思い出を思い出して涙ぐんでしまう。本当にかわいがってくれていたなあと改めて思う。私も祖父のことが大好きだった。
お葬式には行けなかったが、今祭壇に囲まれる祖父の遺影なんて見ようものなら号泣してしまうだろうから行けなくて良かったと言う気持ちが少しある。四十九日には行く。
父方の祖父は私が小さい頃に、祖母は中学生の頃に亡くなったので、親族が亡くなるのはかなりひさしぶりのことだった。友人や知人を亡くしたこともない。ペットも金魚しか飼ったことがない。それも小学生の時だ。
人と比べたことがないからわからないが、どっちかと言うと死に触れることが少ない人生のような気がする。
私はもういい大人だが、大人になったからと言って辛い事や悲しい事とうまく折り合いがつけられるようにはなってない。
自分は自分の地続きでしかないんだなあと強く思った。当然のことなんだろうが、考えたことがなかった。
50になっても80になっても同じように大切な人の死はつらいんだろう。
だから毎日を大事に生きようとか周りの人を大切にしようとか、やっぱりそう言う結論になるんだけどそれがなかなか。前者は特に。仕事をしてたら無感情のまま1日が終わっている。難しいな。
今の気持ちを書き起こしておこうと思ったので、めちゃくちゃだが終わり。
ある日の深夜、親族のグループラインに「亡くなりました」と連絡が来た。
最初は受け入れられなかったし、実際にその場に行って火葬前に顔を見ても実感がわかなかった。
けど、それからもうすぐ四十九日が終わりそうな今日この頃、もっと会いに行けば良かった、もっとたくさん元気なうちに手料理を食べていれば良かった、写真を撮っていれば良かった、と後悔ばかりが押し寄せてくる。
悲しい。苦しい。私にできることはもっとたくさんあったかもしれないのに。
生きている人は縁が切れようとどこかで会う可能性はあるけれど、死んでしまった人はまかり間違っても会うことはできない。
何も伝えられない。
悲しい。ただただ、今は悲しい。
父の四十九日法要で、母から文庫本サイズぐらいの遺影(なんか物凄くちゃんとしたフォトフレーム入り)を渡された
こ、こ、こ、困る〜〜〜めっちゃ困る〜〜〜〜
いや父のことは好きだったし亡くなって寂しい気持ちは勿論あるけど、ほかのきょうだいと違って未だ独身のクソ狭アパートに置く場所ないよ〜〜〜
そもそも暮らしの中で「写真を飾る」習慣がないんだよ〜〜〜ポスターすら貼らないんだよ〜〜〜
あとついでに言えば遺影の写真、肌とか画像加工強くて、なんというか「父に似た演歌歌手のアー写」みたいで違和感あるんだよな…あの父が毎日目に入るのもキツい
たぶん言い出したのは妹だろうな…情に厚くて子持ちで新築一戸建てのそこらに家族写真とか飾ってるもんな…母は良かれと思ってきょうだい3人分の用意をしてくれただけなんだ…おそらく葬儀社に有料で頼んで…
家族のLINEグループには、すでに妹と兄が「じいじの遺影に手を合わせる甥姪」の写真を送ってきている
いわゆる「何をしているかよくわからない親戚」であるところのわたくしは、包みから出してすらいない父に内心侘びながらちいかわのスタンプをただ送るのみなのであった
1ヶ月前に母親が亡くなって、いわゆる喪中の状態になった。享年59。
ずっと寝たきりで闘病してたから、亡くなったときは結構気持ち的にキツかった。私はまだ22歳。母親をなくすにはまだ若いよなあという気持ちもある。
年の離れた兄がいる。39歳。
葬儀でも特に落ち込んだ様子はなかった。まあ普通に元気だ。超かわいい子供のために、毎日仕事を頑張っている。
問題というか、ちょっとなんかなあ、と思ったのは今日のことだ。
兄の子供(私の甥っ子)が1歳になった記念ということで、家族一同で記念写真を撮りに行った。
参加したのは兄夫婦と義姉の母、私。
(私の父は照れくさかったのか断っていた)
まあ皆で横並びの写真を撮るだけかなと思っていたら、行った写真館が結構「ハジける」タイプの店で、
なんかまあ色んな写真を撮られた。
虹色の光に包まれたり、でっかいハート型のソファに座って笑顔で赤ちゃんを囲んだり。
「はいお姉ちゃんもっと笑って~!」と言われるたび、母親のことが思い浮かんだ。そういや喪中じゃん!
まあ、だからどうということはない。せっかくの1歳バースデー。おどおどしながらも笑顔で撮影した。
無事に撮影が終わり、家に帰ってきた瞬間、何故か寂しい気持ちになった。罪悪感にも苛まれた。
まだ四十九日も終わってないのに、こんな幸せいっぱい!みたいな写真撮っていいのか?
私は最近ずっとブルーだったけど、兄はあっさり切り替えてるんだな…とか。
父には今日あったこと、今日どんな写真を撮ったのかは伝えていない。が、昔気質な父のことだ。内容を伝えたら、ちょっと顔を顰めるだろう。
葬式の時にめちゃくちゃ泣いてた義姉(うちの母と1回しか会ったことないはずだけどなんか泣いてくれてた)は、今日はめちゃくちゃ楽しそうだった。
自分は悲しいからお前もずっと悲しめ、というのは横暴だ。でもなんだかなあ…という気分だ。年取った親が死んだぐらいで落ち込んでるのはお前だけだよ、と言われた気がする。
あー、写真なんか撮りに行かなきゃよかった!家でめそめそしてればよかったんだよな私は。
四十九日終わったらなんとなく実感できるのかな
昔からこういうのの受け入れが他の人より遅くて祖父の死んだのも半年くらい経たないと「もういないんだな」って気持ちにしっくりこなかった
いつでも会えるよ、また来るよって別れてその後しばらくして突然倒れてICUでもう会えなくなってて
ICU出て転院だよって時もどうしても仕事のタイミングが合わせられなかった
頭もぴんしゃんしてた人だったから落ち着いたらお見舞いに行きたいなと思ってたら風邪とかでそのまますっといってしまったみたい
両親も死に目に会えなかったみたいだからそういう予兆も全然なかったんじゃなかろうか
祖父が長患いだったから今回もそうなるんじゃないかってどこかで油断してたんだろうな自分は
死ぬんだよな老人はすぐに
分かっていると思ってて実際のところなんにも分かってなかったんだな
おばあちゃんのドーナツの作り方も紫蘇ジュースの作り方も何にもまだ教わってないよ
今年も桜がきれいに咲いてよかったねって話とかこっちの桜の方が先に咲いたとかそんな話もまだしてないんだよ
でももう起きてこないし話すこともないしなんなら起きてくる生身ももうないんだよ火葬も納骨も終わっちゃったから
なんにもしてないよまだ
そりゃ一個もしてないとは言わないけどまだもっとたくさんできたよ色んなことご飯食べたり猫の話したりとか
お正月のお餅のお米も炊き方細かく覚えてなくてお母さんと一緒に謎の物体でかしたりしてさ
なんでもういないのかな
寂しいとか悲しいとかっていうより穴が空いちゃってもうそれを埋めるための部品の取り扱いがどこにもないような感じが近いかもしれない
知ってる人が亡くなるたびにそういう気持ちになる
これからずっと直す部品がない所をどんどん増やしながら生きていかないといけないんだなと思うよ
みんなそうやって生きてきたんだから私もそうしないといけないんだろうな
長く生きていくってしんどいね
ボクサーを撲殺したのは僕さ
これから満で数つけるわ
ナンを何枚も食べるのなんて、なんでもないよ
新患の新幹線に関する新刊に新館を立てて震撼し信管が作動する。
ケニアに行ったら生贄や
柑橘類の香りに歓喜し、換気を喚起したが乾季が訪れたので、寒気がした。
塗装を落とそうか。
観光客がフイルムに感光させた写真を刊行することが慣行になった。
サボってサボタージュ
景気が良くなりケーキを食べる契機を伺う徳川慶喜(とくがわけいき)
夫を成敗するオットセイ
つまらない妻の話
竹の丈は高ぇなー
餅を用いて持ち上げる
ロストしたローストビーフ
サボテンの植え替えサボってんな
過度な稼働は可動範囲を狭める
伯爵が博士の拍手に拍車をかけて迫真の爆死をし白寿の白人を白紙にもどす。
紅葉を見て高揚する
甲子園で講師をする公私混同した孔子の実力行使には格子窓も耐えられない。
死んでんのか?「心電図を取ってみよう!」
夜祭で野菜を食べる。
信玄餅を食べながら震源を特定するように進言する新元素を発見した人。
蜂の巣(honeycomb)を見てはにかむ
五反田で地団駄を踏む
ようやく要約が終わった
海溝で邂逅
豪華な業
甲板で甲板をかじる
甲板で乾パンをかじる
店頭で転倒
大枚をはたいてタイ米を買う
醤油をかける人「えっっ?」
神田でした噛んだ
少食な小職
牛の胆嚢の味を堪能する
あの娘にはどう告っても(どうこくっても)慟哭する結果に終わるだろう。
キーンという高音の起因が掴めない。
こんな誤謬は秒でわかるだろ
壊疽した箇所が治るというのは絵空事だ
経口補酔液
痴的好奇心
セントーサ島に行くのは正恩が先頭さ
軽微な警備
冬眠する島民
ベットは別途用意してください
The deserted desert in desert desert.
九尾のキュービズム
罹災者へのリサイタル
画家の画架
不納が富農になるのは不能だ
理工がRICOHに利口な履行
I sensed tha it is in a sense sense.
私はそれをある面では扇子だと感じた。
鯖を食べている人と、それを見ている人の会話
鯖 ça va?
ça va 鯖
ça va
ゆめゆめゆめをみるわけにはいけない
早漏で候
凪に難儀
東上線に搭乗した東條が登場
高校を後攻で煌々と口腔で孝行
蝉が転んでセミコロン
道徳をどう説く
写真はフォトんど撮りません
ダリ「絵ぇかくのだりぃなあ」
華美な花瓶のカビに過敏に反応
檻に入っておりいった話をする
夏のおサマー
夜は寝ナイト
渦中のカチューム
渦中のカチューシャ
リスボンでリスがborn
どうないはどないなってんねん
苫小牧でてんてこ舞い
市内を復旧しないと
石狩の石を借りる
おが置いてあるのを見た人「おはおっかねぇーから置かねぇ方がいいぞ」
砂がどしゃーw
東上線に登場した東條が登場
飽きない商い
おなか吹田市
観劇で感激する
側転に挑戦し即、転倒
別件を瞥見
凹地のお家
魚を初めてみた人「うぉー」
カラヤンの頭の空やーんw
豚をぶった仏陀
只見線をタダ見w
菊名でそんなこと聞くなよ
五秒で死んで御廟に埋葬
がらんとした伽藍
有給を使いすぎて悠久の時が流れた
長谷に想いを馳せる
Thinkerの真価
不具の河豚
暗記のanxious
半世紀にわたる半生での藩政を反省
タンチョウが単調増加
ショック死内親王w
カルカッタの石軽かった
天皇のこと知ってんのー
蒋介石を紹介した商会を照会した商會の船で哨戒する
其方のソナタ
先王に洗脳される
防潮堤で膨張した傍聴人
砂漠で鯖食う鯖を裁く
筒に入った膵島
サイコロを使った心理テスト(psychological test)
カラシニコフが辛子個踏んだ
皇帝の高弟が公邸の校庭の高低差を肯定する工程に拘泥した記録を校訂
にようかで酔うか?
うるさい人が売るサイ
どんなもんだい、を、どんなムンバイ、と言い間違える人
透徹した饕餮の眼球
チャカで茶菓を破壊
slimyなすり身
ゆうほど広くない遊歩道
いにしえのイニシエーション
コーランをご高覧ください
K殻の傾角を測定する計画
協賛した共産党員に強酸をかける
負けたのは聖者の静寂のせいじゃ
裏地見るウラジミール
カミオカンデの上に紙置かんでw
県大会がおわり倦怠感を感じる
夕暮れのユーグレナ
ストライキをする公務員に呼びかける人「 Stay calm(公務)」
エド・はるみの穢
祭壇を裁断
腐卵ダースの犬
全然人が集まらないクラブの人「参加数人は我々の十八番ですから。だけに。」
四苦fuck
都バスが人を跳ね飛ばす
怒るカロテン「なにカロテンねん」
嫌がる慰安婦「いやんっ」
かえるがえる帰る蛙
沈厳な青梗菜
トリコロールの虜
布陣を組む夫人
栗けっとばすクリケット🦗
婉容と遠洋漁業
アマルガムで余るガム
ハラスメントの疑いを晴らす
滋賀を書けない人を歯牙にも掛けない
他意はないタイ人の鯛の態度
鯛が蛇足
ダジャレではない↑
割と面白い
ハラッパーの原っぱ
紫に関して思案を巡らす
Huluが夏の風物詩だと思っている人「Huluですなぁ」(風流)
下調べのムニエル
わからないので
意味ない諱
よく分からんリポーター「うわぁ〜美味しそうですね!少なくとも不味そうには全く見えません!」
どうしても下がりたくない人「黄色い線の内側は、境界を含みますか??」
計算ができない人
着ていく服を決めた高橋是清「これ着よ」
enough、enoughは工夫がenough
負け負け山(カチカチ山)
薬師丸せま子
トーマス・マンの書いたふるさと「うさぎ〜おーいし、魔の山〜♫」
その心は
焼結が猖獗を極める
これはstaleだから捨てるか
衒学的な弦楽を減額
完全な勧善懲悪
イボ人の疣痔
イブに慰撫
(訳 ぬるぬるしてるありふれた魚)
盲いるのに飯いるの?
アーヘンで阿片を吸った人「あー変」
毒吐く独白
明借りるアスカリ(車)
丁寧な砂浜「Could you九里浜」
ゴーンと奉公
その心は
サンクチュアリに山窟あり
熟れたウレタンは売れたんか?
清澄な声調を静聴し成長
プエルトリコで増える虜
象さんを増産
兄弟が今die
Dose heで始まる疑問文に答える京都人、Yea, he どす
ソフィカルのソロカル
美人局に筒持たせる
十把一絡あげ
篤信な特進が涜神を得心
これは何という植物かな?ムユウジュでは?あそっか、なるほど。
クートゥを食うとぅいいよ
マイソールで昧爽に埋葬
ドクサは毒さ
暗殺で朝死んだ
クラシックについて語る人をそしる人「弦楽なんてペダンチックだなあ」
凛々しいリリシズム
衛生的な俳人
御髪も亂とはオクシモロンだ
コロナ後の世界を分析する学問→postcoronialism
影響が色濃いイロコイ諸族
あてのあてないアテナイ
https://anond.hatelabo.jp/20221121085518
あっというまに、2週間が経ってしまった。
忌引で仕事を休んだりしたのでまあ周りも知っていることなんだけど、あんまり気を遣われたくなくて、でも誰かに聞いてほしいのでつらつらと書く。おじいちゃんは本当に最後までマイペースだったし、面白い人だった話を、どうか暇な人は読んでいってほしい。
突然つれあいをなくしたおばあちゃんは、久々に孫であるわたしの顔を見て笑ってくれだけど、足取りがおぼつかなくて、ただでさえちっちゃい(身長、145センチしかない)身体がますます小さくみえた。「おじいちゃん、座敷にいるから会ってあげて」と言われたので向かう。布団に、顔にかけられた白い布。それを見たらぐっと目が熱くなった。布を取ると、眠ってるみたいなおじいちゃんの顔。この家で夕ご飯を食べると、おじいちゃんはお酒を飲んで、その後一緒にテレビを見てるといびきをかきながらうたた寝をしてしまう。そんな時の顔だった。声をかけたら起きてくれそうなのに冷たかった。
その日の夜、おじいちゃんの家でお通夜をした。数人だけど親戚も来るということで、玄関を掃いておこうと、箒を探しに納屋に入ると、使いかけの肥料や、明らかに「まあどうせ明日も使うしここら辺に置いておくか」って感じで適当に置いたらしい鍬、何日に白菜を収穫するとか来年の作付をメモしていたホワイトボードがあって、ああ、おじいちゃんにとってもこれは急なことだったんだなとぼんやりと思った。
枕経に来た菩提寺の住職さんは、わたしとそう歳の変わらない、若いひとだった。お経をあげてもらい、納棺をする。旅支度をさせて、花をいれて、孫全員(私含め6人いる)の手紙をいれ、お気に入りだったシャツをいれ……その過程で、ずっとぼんやりしていた祖母が棺に取り縋って泣き出した。まだ祖父が死んだ実感が薄かったわたしも、さすがにその姿を直視できなくて目を逸らしたとき、視界の端で住職さんがしきりに鼻をすすったり、マスクを直すふりをして目元を拭ってるのが見えた。なんでも、婿養子として今の寺に来た時に、ちょうど祖父が檀家の総代をしていて、祖父はそれこそ孫と歳の変わらない若い彼のことを気にかけて可愛がっていたらしい(親戚談)。きっと仏門に入った人にとって、通夜も葬儀も日常茶飯事だろうに、その人がそんな感情に呑まれるくらい、祖父は面倒見のいい人だったらしい。妹や従妹もその住職さんが泣いているのを見たらしく、後々孫の間で「もしかしたら他所にも孫みたいな人が他にもいるのかもね」なんて話した。
その翌日は友引で、葬儀は次の日に延ばし、火葬だけを行った。この日もおじいちゃんはなかなかやらかしてくれた。おじいちゃんを乗せた霊柩車が家を出る時は、集落中の人(ガチの限界集落である)が見送りにぞろぞろと集まって、見送ってくれた。ちょっと壮観だった。
本来こういう時は霊柩車の後ろに、参列者を乗せたマイクロバスがついてみんなで火葬場に行くものだと思う(というかわたしが経験した葬式ってそういうのしかない)んだけど、コロナ禍だし、あとあんまりにも急すぎて来れる人も少なかった(田舎だし、みんなお年寄りなので、足が確保できないと来れないのだ)ので、うちや叔母の家の車3台に分乗して、火葬場に向かった。
しかし、せいぜいどんなに安全運転しても20分くらいで着くはずの火葬場になかなかつかない。道中の信号がうまいこと全部赤で引っかかるのだ。わたしの母は三姉妹の長女で、まだ心ここに在らずな状態の祖母と連名で喪主をしていたため霊柩車に乗っていたが、わたしが「おじいちゃん、よっぽど行きたくないんだな……」と言うと父は「だろうな……」と深く頷いていた。
30分以上かけて火葬場に着いた。そこからはさすがの祖父にももうどうにもできず(?)あっという間で、その後2時間もしないうちに、祖父は骨になった。若い頃(といってもわたしが見た記憶があるのでめっちゃ若いわけではない)に建築業についていて、屋根から落ちて骨折した時に手術していれたボルトがしっかり焼け残っててびっくりした。手先、足先の細かい骨は、年齢もあってさすがに……だったが、大腿骨や肩の骨はがっちりしていた。祖父はこの年齢では背の高い人だった(たぶん170センチ越えてた。祖母と並ぶと身長差がすごかった)のに、結局のところ、最後には母が抱えられるサイズの骨壷におさまった。「こんなに小さくなっちゃうんだね」と母がつぶやいた時は、なんで言っていいのかわからなかった。
帰りはそんな祖父を抱えた母もうちの車に乗って、また3台の車で祖父の家に帰った。霊柩車で来る時に通った道を避けて帰る、ってのは全国共通の風習なのかな……?だから、来る時よりは少し遠回りになる……はずだった。でも20分で帰れた。なんせ信号、全部青。骨壷を渡された時の母の顔はさすがに見ていられなかったけど、祖父の家の屋根が見えてきた時に母は、「帰りはあっという間だったね……」と困ったような笑みを浮かべていた。おじいちゃん、どんだけおうち好きだったんだよ……。
家族葬だったけど、焼香をしにたくさんの人が来てくれていた。みんな、新聞のお悔やみ欄で見てとるものもとりあえず大慌てで……って感じで来てくれていた。「入院してたのか?!聞いてないぞ!」と言う人もいた。病院には1泊しかしてない、本当に急だったということを何遍も説明する母は、最後のほうはさすがに疲弊していた。ちなみにこの日は大雨だった。無口な従弟がぼそりと「未練あり過ぎだろうが」と言っていた。それな、と返した。
式自体は身内だけで行って、このご時世だから会食は無しで折り詰めを持って帰ってもらい、また骨と、遺影と、白木の位牌と一緒に祖父の家に帰った。
とりあえず自分達も折り詰めを食べながら、母は葬儀屋と四十九日の日程をつめ、その後も墓石屋や位牌の手配、この後家に直接弔問に来てくれる人への対応の打ち合わせを叔母たち(と、まだどこか虚ろな顔をした祖母)がやっている時、まだ細々とやることは残ってはいるがひとまずは一通り終わったね、お疲れ様だったね、という空気が流れつつあった。
でも、ここで終わらないのがおじいちゃんだった。突然この家の固定電話が鳴った。
母が電話を取ると、相手は伯父(父の兄。他県で父方祖母と一緒に住んでいる)だった。葬儀に花を出してくれたり香典も出してくれたから、今日が葬儀だったことはわかっていたはずだし、なんだか様子がおかしい。泣いてるのか笑ってるのかわからない声で喋っていた(母談)らしく、何かあったのか母が(たぶん疲れもあって)少し強い口調で問うた。その返事は、
だそうだ。
祖父は交友関係は広いがそれぞれ相手にマメな人だった。うちの父方の親戚に対しても、季節の果物や特産品なんかを折々に送っていた(向こうからもよくお返しも来ていた)。この時期は林檎(ほぼ出身地がバレるな……)を、他県の親戚や知り合いに毎年毎年手配して贈っていて、それが、葬儀をやって当の本人を極楽浄土に送ろうとしていたっていうのに、それがちょうど終わったタイミングで相手に届いた、ということらしい。……それは普段無口な伯父さんも、反応に困っただろう。「○○さんからの最後の贈り物だから美味しくいただく。冬にはこっちから蜜柑を送るからよろしく」ということで電話が終わり、私たちは大きく溜息をついた。「たぶん、この調子だともう何軒か送ってそうだなぁ……」とみんなで笑い合った。
さすがにちょっとしんどかった。
あまりにも急すぎた。呆然とした祖母を見るのが辛かったし、その祖母の代わりに喪主の仕事を引き受けるためにずっと張り詰めた顔をしていた母を見ているのも胸が痛かった。出来ることしか手伝えなかったけど、母から葬儀が終わった後に「あんたら(私や弟妹)がすぐ飛んできてくれて本当に助かった」と言われた時の弱々しさが心配で、結局今いる自分の家に戻って来れたのは11/25だった。
だけど、そうして過ごす中にも、ふと思い出す祖父の話(孫相手に遊びにムキになったり、高校生の叔母が夜遊びしてぶっ飛ばされた話だったり)や、こうして亡くなった後にもなんだか面白いことをしてくれるおじいちゃんのことを話せる相手は、なかなかいない。
でも、顔を知らなくて、こんな長文をここまで読んでくれる人に、ちょっとでも聞いてもらえたらなんだか心持ちが楽になる気がして、あと、悲しいだけではないって気持ちになれると思ったので、こうして文章にしてみた。
読んでくれて、おじいちゃんのことを知ってくれて、ありがとう。
余談。
わたしが今の家に戻る前日、仏具屋に母と行って、位牌のカタログをもらって祖母の家に行った。その後数日、祖母はカタログを見て、あと母が撮っていった店頭にあった位牌の写真も見て、散々悩んだけど、そのお店で一番よく出回る、スタンダードなものを選んだらしい。「それでいいの?」と母が訊いたら、「わたしが死んだ時は、お父さん(祖父のこと)とお揃いの位牌にしてほしいから。これならすぐお揃い作ってもらえるでしょ」と言ったそうな。お揃いの位牌。ちょっとパワーワードだな、なんて思った。でもさぁおばあちゃん、そんな早くいったらおじいちゃんたぶん額に青筋立ててめっちゃ怒るから、もう少し一緒にいてほしいな。お正月には会いに行くからさ。
葬式観ってご家庭で色々どころか人によって色々過ぎて、主催の意向に沿うようにするのがいいんだろうな…
離婚した両親は性格も合わなかったけど、もちろん葬儀観も全然違ってた
うちの父は葬儀も四十九日も初盆も全部家族全員揃わないなんて有り得ない!!!って感じでコロナで忙しい時期に度々休み貰って会社に申し訳なかったし、離婚した妻(私の母)にまで声かけてたのを後で知ってちょっと引いた
母は母で、母方の祖父が亡くなる前にはそろそろだから週末にでも一目会いに来てほしいと言われて施設の窓越しで手振るだけのために日帰りしたけど、祖父の葬儀終わるまで死んだことを聞かされなかったくらいだったし、葬儀自体も母と叔母の二人だけでやったらしい
ネトウヨというか安倍支持者の言うことが「死んだ人にあれこれ文句を言うな」に収束されるのが不思議
安倍晋三氏のやった個々の事績がいいことか悪い事か、その評価・解釈は生きてるか死んでるかに関係ない
生死が関係するのは「悪いことをやったと明らかになったと認定された際に罰することができる/できない」(良いことだとわかったら顕彰はできる)だ
しかしインシデント、アクシデントの概念から延長すれば実行者に罰を与えることは本質的には意味がない
濡れ衣を着せられても死人は弁明できないけれど、生きていれば逆に虚偽の自己弁護も可能だから客観的な真偽善悪の判断に占めるウェイトは少ない
”昭恵さんの気持ちを考えろ”に至っては、なぜそれが検証を行わない理由になるという発想になるのかと不安になる 他人で私人だ
悪いことをしていないと信じているのならそれをまわりの生きている人が証明すればいいだけ
人が内心で何を信仰するかについてはそりゃ自由であるべきだろうし、「サタンの金を文鮮明様の元に取り戻すべし」なんてトンデモも本当にそれを信じたくてそれで自分は救われるんだってんなら勝手にしたらいいと思うけど、それは最初の勧誘の段階でちゃんと「サタンの金を文鮮明様の元に取り戻すってのもうちの重要な教えのひとつですよ」と明言した上で本当にそれに魅力を感じた人だけが入信すべきであって。
信教の自由のうちの「宗教結社の自由」、わけても布教・勧誘については「実態実際に信者に向けて言ってるのと違うこと言って勧誘するのは違法行為」って明確に宣言してほしい。医者とか不動産屋とか金融業者には客に対する「説明義務」ってのがあるけど、それの宗教版みたいな感じ。
統一教会に限らないんだけど、カルトって入り口では全然当たり障りのない道徳的な話とか心理学の小ネタみたいなのを繰り広げておいて、それで心の弱ってる人を引きこんだ後にちょっとずつ「疑いの心こそが不幸を呼ぶのでまずは一心不乱に教祖様を信じるのです」とか「布施と勧誘こそが最速でカルマを清める顕行なのです」みたいなことを吹き込んで最終的には勧誘集金献金マシーンに仕立て上げるんだよね。いわゆるマインドコントロールってやつ。だからこそ、「いやお前最初の勧誘の時はそんなこと言ってなかったよね?なのに中入ったらなんかもうカネカネばっかじゃん!」みたいなツッコミがちゃんと機能するかどうかって、割と重要だと思ってて。
出版物とかホームページとか勧誘の時に言ってきた事とか、そういう「外向けの売り文句」といざ入信した時に実際に内側の信者に対して触れ回ってることがまるで違っていた時に、何人かにひとりでもマインドコントロールの効きが弱くて「あれこいつら入口を偽って引き込みやがったな?」って気付けたら、その人がちゃんとそれをタレ込める窓口があって教団にペナルティかけれる体制みたいなのがほしい。「青春を返せ裁判」も最高裁確定までに二転三転したうえに14年かかってるし、現状はそこんとこのハードルが高すぎる。
もちろん教義の真髄みたいな部分を最初から一般人に理解できるように説明するのは無理だろうし、あと勧誘時の説明がどこまでだったら「ちゃんとした説明」でどこまでなら「まるで違う」になるかって厳密に定義するのは難しいだろうけど、前者については医者とか銀行とかだって同じことで「厳密にはもっと色々あるんだけど嘘じゃない範囲でおおむね必要な分の概要と全体像をきちんと説明する」ってのはやればできる話だし、後者についてはそれこそ裁判で判例を積み重ねていくべき話だと思う。
なにより「入り口で言ってる教えと全然違う事を内側で信者だけに言わない」ってルールはカルトでない真っ当な宗教にとっては何の足枷にもならないはずで、まあ葬式仏教なんかはこれまでその辺の説明を手ぇ抜いてきたきらいはあるけど、法で「義務として今後はちゃんとそれ言いなさいね」ってされたら普通の宗教にとってはむしろプラスですらあると思うんだよね。「実は親鸞聖人は死んだら自分の骨は鴨川にでも捨てろって言ってて四十九日とかもあくまで阿弥陀さんの救いに思いを馳せる為の機会って位置付けなんすよ」みたいな話、今だって真面目な坊さんほど法要の時とかにちゃんと言ってくれるし。
カルトは結局「その内側で言ってる指示およびその指示の根拠となる教義」がだいたい一般社会の道徳感とは相入れなくて、しかも奴らは相入れないこっち(社会)側が間違ってると本気で思ってるから嘘をつくのもマインドコントロール仕掛けるのもまったく躊躇いがない。で、勢力を広げるには何かにつけて金が要って、だからこそ信者にも無茶な献金をさせようとする。来るもの拒まずで本当にただ粛々と信仰してる分にはそもそも家庭崩壊レベルの献金なんて要るわけないし、宗教を信じる自由って本来そういうことなんじゃねえの?って。
マインドコントロールって言葉は1990年代に一度脚光を浴びたけど、改めてもっと周知されるべきだしそのヤバさに社会の側もちゃんと対策を取るべきだと思う。
【追記】
「実態と違うこと言って」ってのがなんかちょっと紛らわしい言葉だったので、「実際に信者に向けて言ってるのと違うこと言って」に変えました。
先日祖父が亡くなって、それなりに色んな人と交流あったから、めっちゃお供えをしていただいた。
食べ物が多くて、四十九日とかで来た人に配って、と、これはまだいい。各家庭でおかきとか余ってると思うけど。
腐らないし、箱も立派な漆のやつとかあるし、昔からお線香をお供えする風習? みたいなのもあるかもしれない。
で、家に一生使い切らんぐらいの線香がある。そもそもお寺さんからとかなんだかんだで小箱の線香も沢山備蓄されていて、ほんとに使い切れない
これって、実は使いまわしていい、とか(他の人へのお供えとして熨斗だけ付け変えて)
お寺の近所に小さな小屋が建っていて、持っていったら換金してくれたりするのだろうか。
それともうちが一日1本使うかどうかって不信人なだけで、昔は大家族でそれぞれが朝昼晩に3本ずつとか消費してたお線香大量消費時代からの名残なのだろうか。
いつもお線香が枯渇しがちで、おっきいお線香もらったら助かるわーって言ってた時代があったんだろうか
いつか、もしかしたら。今の悲しい気持ちが消えてしまうんじゃないかと思うとゾッとするので、どこかに悲しかった証拠を残したかった。
私は27歳。職業はある国家資格を使う仕事。手前味噌だが世間的にはまあまあ立派な職業だと思う。
猫を飼っていた。先月死んでしまった。17歳だった。人生の半分以上をこの猫と過ごした。
毛先が黒色だけど根本が白い、不思議な色をした雑種の猫だった。誰よりも私のことを考え、誰よりも私を愛してくれたと思う。
祖母の実家の地域でやっていたお祭りで、ドブに捨てられていた子猫がいたって騒ぎがあった。実は祭りの一年くらい前に母が飼っていた猫が亡くなっていた。直感で飼った方がいいと思った。まだ小学生で金がなかったため、祖母と母に土下座して飼いたいとお願いした。
今までで土下座したのはあの一回だけだし、やってよかったと思う土下座ももうあの一回だけなんだろうなって思う。
実を言うと親とは仲良くない。親は兄弟を殴ったし、作る料理はまずい。
猫がいなかったらとっくの昔に私は死んでいたし、家には帰っていなかったと思う。
中学時代は本当に幸せだった。友達も多く、学校が楽しかった。そのこともあり学業は非常に伸びた。しかし高校では吹奏楽部というブラックな部活に入ってしまい、週7日部活だった。先生は怒鳴るわ、洗脳じみたことはするわ、テスト近くても大会があれば部活するわで最悪だった。びっくりするぐらい成績が落ちた。今思うとあれは鬱症状だったんだと思う。泣きながら登校し、血尿を流し、声が出なくなるときもあった。あの時は猫の世話を疎かにしてしまうこともあった。本当に申し訳なかった。それでも猫がいたから首を括らずに済んだと思う。
偏差値は低めな大学だが、なんとかして特待生として合格することになった。引っ越しにも猫を連れて行った。実はこの猫5回も引っ越しに付き合ってくれた。猫は犬と違い、基本慣れない場所にストレスを感じる。それでも連れて行かさせてくれて感謝しかない。
大学では成績は上位をキープすることができた。勉強する私の膝には大体猫がいた。猫と一緒に1人暮らしする時もあり、本当に幸せだった。この時点でまあまあ猫はおじいちゃんである。尿路結石になった。まだ車を持っていなかったがなんとか獣医に連れて行った。食事もちゃんと選んで買った。
国家試験が近づくたびに、お願いだから国家試験の時には死なないでくれとお願いした。叶えてくれた。そして無事に留年することもなく一度の試験で合格することができた。
就職した。今も同じ職場にいる。就職も見守ってくれたことに感謝しかなかった。自由に使えるお金が手に入り、猫にはおもちゃを買ったり少しお高めの餌を買ったりした。
帰宅すると猫が待ってくれていて、頭を撫でると嬉しそうに鳴いた。
朝起きると猫が腕の中にいるか、近くに座っている。平日は私を叩き起こすのに、休日はそっと寝かせてくれた。本当に優しかった。
お昼寝する時は額を寄せ合って寝た。
食い意地が張っている猫なので、私のご飯を欲しがった。味が薄めで猫が食べられるものは少し分けたりもした。
尿路結石は食事に気をつけたり、水飲み場を工夫したりした成果か、死ぬまでの5、6年再発しなかった。だから油断していた。
就職から一年たった。仕事も覚えて来て、後輩指導を任され、大変なことも多いが順風満帆だと思った。思っていた。
猫が食事を食べなくなった。といっても全く食べないわけではなかった。通常猫は貰った食事を少し残すが、食い意地のはっているうちの猫は毎回すぐに完食していた。
この時点でおかしいから病院に行こうと思って、平日なんとか定時で帰って病院に連れて行った。末期慢性腎不全だった。もう年齢のせいだろうと、無理に治療するより看取りに入った方がいいだろうと言われた。獣医によると、これから吐き気が出てご飯が食べられなくなるから無理に食べさせないこと、水はたっぷり用意すること、いつもと違う匂いがし始めたらそろそろだということ、死ぬときは苦しまないで高カリウム血症でぱたっと亡くなることを聞いた。
家に帰って泣いた。ものすごく泣いた。鼻水めっちゃ出た。ご飯は食べられなかった。でもそんな私を見て、猫は私を心配そうに私を見ていた。どうしたの?って顔で私のそばにいた。猫自身の方がしんどいくせに。
次の日、猫は箪笥の奥に入るようになった。死ぬ前の猫は普段行かないような暗くて狭い所でじっとする。共倒れだけは避けないといけないと、無理矢理ご飯を食べた。それでも私は2週間で4キロほど痩せた。猫はいつもの餌を食べなくなり、死ぬ2日前にはちゃおちゅーるも食べなくなった。ちゃおちゅーるの封を切って差し出す私に悲しそうな様子を見せていた。
猫としてのプライドを守ろうとした。猫本人の意思でもある。ふらふらになりながらも出来るだけ粗相したくないと自分のトイレに自分の足でいこうとしていた。水飲み場は、すぐ飲めるように引きこもる箪笥の入り口付近にも作ったが、それよりも遠いいつもの水飲み場で水を飲んでいた。
なんとか歩けるようにとペットシーツを部屋全部に敷き詰め、持っていたヨガマットはこけた時のクッションになるだろうと、切ってよく通るところに並べた。お気に入りのヨガマットに爪研ぎされた時にはあんなにショックだったのにおかしい話だ。
獣医に行ってから2週間後。早朝に亡くなった。有給を取っていた朝だった。猫は死ぬ日まで気を遣ってくれた。徹夜してそばにいようと思ったが、看取られたくない、そっとしてほしいという猫の様子に任せた。
その日のうちに火葬した。昼ごろに火葬の予約を入れて、その時間まで久しぶりに猫と添い寝した。葬儀屋の人には、こんなに骨が太く残っていて、腸あたりに食べ物の跡が残っているということは、飼い主と猫本人が最後まで頑張った証だと言ってくれた。会ったばかりの葬儀屋の人の前でもドン引きレベルで泣いた。
火葬して遺骨は粉骨にし、手元供養しようと考えていた。2週間も猶予をくれた猫のおかげで考えはまとまっていた。
もう少しで月命日。一か月毎日泣いている。四十九日が悲しみの折り合いらしいが、四十九日が過ぎても泣いていると思う。100か日が四十九日の次の目安だ。この間に猫はこんなに立派でしたと閻魔様に証明する必要がある。猫のお陰で取れた資格で仕事をし、泣いたり偲んだりすることで証明できるのではないかと思って、今生活している。100か日を過ぎたら猫を追いかけようか悩んでいるところだ。ぐちゃぐちゃの文章だが、記録を残せて良かったと思う。