カテゴリー 「尼子十勇士」 RSS

2020-02-23

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上月城主となっていた寺元生死之助は、陸路から進軍してきた松永軍を相手に防戦していたが、

そこに海から尼子勝久軍勢が到着したので、生死之助はさっと搦手の門を開いて迎え入れた。

生死之助は、鹿之助に対して何事か策を献じたあと、逃げ帰ったていで富田城に戻り、

松永弾正と尼子勝久とで一万余りに攻められては太刀打ちできず」と申せば、

九郎左衛門毛利を頼るしかあるまいと五千の援軍を借り受けた。

元気づいた九郎左衛門は手勢の八千人も連れて城外に陣を構え、そこに尼子勝久の軍が攻めかかった。

九郎左衛門の兵は、先鋒の鹿之助を取り囲んだが、あっというまに蹴散らされ、城門の内に退がるよりない。

城に籠もられると、さしもの鹿之助も攻めあぐねて、その日は退却となった。

翌朝、尼子勝久軍勢を率いて富田城に攻めかかり、

「悪逆無道の尼子九郎左衛門、はやく馬より下りて首を渡せい」と呼ばわると、

九郎左衛門も「小倅ごときに討たれる九郎左衛門にあらず」と前に出てきて采配を振るう

さらに鹿之助が「こののち三声と叫ばぬうちにその方の生命は寂滅する」と挑発すれば、

九郎左衛門さらに怒り「三声は愚か千声万声でも発してみせるわ、我を生け捕る者があるか」と叫んだ。

その声が終わらぬうち、傍に立っていた寺元生死之助が「汝を生け捕るものはこれにあり」と応えるや、

九郎左衛門を馬上より引きずり下ろしてあっというまに縛り上げてしまった。

鹿之助が下知をかけると、八勇士はいさんで敵陣に突進し、

その隙に生死之助は九郎左衛門を抱えて尼子勝久の陣中に転がり込む。

毛利家の河野四郎は薮中茨之助と戦って斬られ、同じく毛利家の来島太郎は荒波錨之助に首を引き抜かれた。

九郎左衛門配下赤星軍八は皐月早苗之助と、田原兵次は秋宅庵之助と戦っていたが、やがて討ち取られた。

その他の勇士たちも各々活躍し、ついに大勝利と相成ったのである

尼子勝久が城内に乗り込むと、生死之助が縛り上げた九郎左衛門を引っ立ててきた。

勝久は「いまぞ天罰の蒙る時節到来」と自らその首を打ち落とした。

兵たちは勝鬨を上げ、民百姓も多いに喜び、尼子家の再興を祝したのだった。

一方で、勝久の父・尼子義久は毛利領内に囚われていたが、

ちょうど正親町天皇即位があり、毛利元就も上洛して献納品を奉ったところ、

義輝公の母君から尼子と和睦して義久を返してやってくれ」と頼まれた。

やむなく元就は頷き、これで尼子毛利は和睦して、義久は丁重に送り返された。

義久と勝久はついに親子の再会となり、また忠臣義士らを集めて労い、

とりわけ功のあった十名、

山中鹿之助

大谷古猪之助

寺元生死之助

横道兵庫之助

早川鮎之助

皐月早苗之助

高橋渡之助

秋宅庵之助

薮中茨之助

荒波錨之助

ここに彼らは「尼子勇士」とされた。

その後、尼子家は万代に渡って栄え続け、尼子のために働いた者はみな立身出世を遂げて幸せ暮らしたのであった。

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一方、兵庫之助の死体を背負った浮舟は、同じく遊女をしている妹の浮橋のもとに身を寄せた。

浮橋にも愛人の薮中茨之助というものがおり、彼の世話で家を借りてそこで暮らしていた。

ある日、浮舟の夢のなかに不思議な老人が現れ、「白鰻を食べさせれば兵庫之助は治癒する」と言った。

そこで茨之助が白鰻を探していると、川岸百姓たちが集まって騒いでいる。

話を聞けば、白鰻が取れたので売れば十両になるが、他の百姓らは白鰻は神様から逃がせと言うので争いになっているという。

しからばと茨之助は、集まった百姓には一両、白鰻をとった百姓には五両を渡し、半ば奪い取るように白鰻を持って帰った。

それを兵庫之助に食べさせると、すぐさま悪血を吐いて目を覚まし、ひと月もすればすっかり回復してしまった。

兵庫之助は、浮舟を茨之助に任せ、鹿之助を探すために中御門宗教をたずねて京へ上った。

宗教卿へと面会する前に身だしなみを整えねばと床屋へ入ったところ、なんとその床屋は秋宅庵之助であった。

再会を喜んでいる二人のもとへやってきた虚無僧は、何を隠そう高橋渡之助である

この二人は上月城を退去したあと、九郎左衛門暗殺しようと付け狙っていたが失敗し、京まで逃げてきたのだった。

また宗教卿と面会し、皐月早苗之助と会ったことで、鹿之助や古猪之助の消息も知り、兵庫助は大いに喜んだのだった。

さて尼子勝久も、そのころ義輝公の草履取りが鹿之助であることに気付き、

義輝公にそのことを話すと、義輝公・松永弾正はともに驚き、早速、鹿之助を呼び寄せた。

鹿之助は「松永弾正から将軍尼子再興の奏上をしてもらおうと仕えていたのだ」と述べ、涙ながらに尼子再興を訴えた。

松永弾正は感心して、あらんかぎりの軍兵をもって助力しようと約束し、義輝公も松永弾正に勝久の補佐を頼んだのであった。

そこで鹿之助は、兵庫之助に「浮船は京に呼び寄せたほうがいいだろう」と言ったので、

兵庫之助は、茨之助のもとに向かい、浮舟・浮橋を京へと送り、茨之助とともに再び鹿之助と合流した。

ここに尼子勝久山中鹿之助のもと、横道兵庫助や大谷古猪之助らも集い、

松永弾正の三千の兵は陸路から、鹿之助たちは将軍から借りた三千の兵を率いて海路から富田城を目指して出発したのである

ところが、御座船の錨が不思議と重くて持ち上がらないというので困っていたところ、

南蛮鉄の徳蔵」という大力無双の者が一人で引き上げてしまった。

なんという大力無双かと勝久や鹿之助が驚いていたところ、

そこに近づいてきた一艘の小舟から、男がひとり船に乗り込んできた。

怪しい奴とばかり徳蔵が、引き上げたばかりの錨を振り回すと、向こうの男もその錨を掴む。

互いに錨を引っ張り合うも、双方負けず劣らずで決着がつかない。

鹿之助が男の顔をよく見ると、まさしく海に身投げしたはずの早川鮎之助であった。

鮎之助は淡路の岩屋に流れ着き、そこで世話をされて回復したので漁師をしていたところ、

鹿之助の挙兵を聞いて駆けつけてきたということだった。

また鹿之助が、徳蔵の素性を聞いたところ、父は大友家に仕えていた武士だったが、その父が死んだあと浪人していたが、

海賊を退治したことで褒美として船を貰い、それで商売をしていて、このたび尼子の御座船となった次第と言う。

それならばと鹿之助は彼を召し抱え、「荒波錨之助」という名を与えたのだった。

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九重姫は、侍女とともに丹波国境まで逃れ、たまたま見つけた施行宿に泊っていた。

しかし、実はその宿は丹波太郎という人買いの罠であり、九重姫たちは売りものとして部屋に閉じ込められてしまった。

そこに躍り込んできたのが誰あろう大谷古猪之助である

古猪之助は、鹿之助の両親に近況を報告するため信州まで旅しており、いまになって戻ってきていたのである

あっというまに丹波太郎を退治した古猪之助は、九重姫たちとの再会に驚き、それまでの事情を聞き出した。

古猪之助は、ちょうど相木森之助から九死に一生を得るという霊薬を授かっていたので、

それを水とともに鹿之助に嚥ませると、見事に鹿之助は息を吹き返した。

古猪之助は、京へ逃れるよりも有馬温泉養生したほうがよいだろうと進言し、

九重姫も同意したので有馬で四ヶ月ほども過ごしたところ、鹿之助はすっかり回復してしまった。

鹿之助は京へ上り、中御門宗教九重姫らを預けた。

そして「尼子家の再興のため三年の雌伏をする」と告げ、

自らは姿を変えて、将軍足利義輝執権である松永弾正久秀のもとに潜り込んだ。

鹿之助は「早助」と名乗って下働きをしていたが、一年もすれば松永弾正にすっかり気に入られていた。

あるとき、義輝公が銀閣寺で酒宴を開いた際に、にわかに雷鳴が轟き、庭に火の玉が落ちてきた。

火の玉が大暴れしているのを見た早助は、すぐさま庭に飛び込み火の玉を掴んで殴りつけた。

すると火の玉が消えて、現れた雷獣が逃げ出そうとするので、早助はまたぶん殴って、帯で大樹にくくりつけた。

その活躍を気に入った義輝公により、早助は将軍直参草履取りへと取り立てられた。

さて、京には若君・勝丸もおり、兆殿司の教えを受けて文武に優れた若者に育っていたが、

あるとき殿司の描いた勝丸の似顔絵が、義輝公の妹の白縫姫の目に止まり

それに惚れ込んだ白縫姫が恋煩いで床に伏せるにあたり、

義輝公も勝丸の素性を調べて、これならば妹婿に相応しいと認め、二人は結婚することになった。

義輝公が烏帽子親となって、勝丸は元服し、尼子勝久と名乗ることとなったのである

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日の出の勢いの尼子家は、敵に奪われていた月山富田城まで取り返した。

尼子義久は富田城へ戻り、上月城は鹿之介へと与えられた。

さて、尼子一族には尼子九郎左衛門という邪智奸佞の輩がいた。

その性格のため、もともと義久からまれており、対して鹿之助が重用されているのが面白くない。

そのような心情につけこんだ毛利元就は、尼子裏切り鹿之助を暗殺するよう、九郎左衛門に吹き込んだ。

九郎左衛門は、毛利家の来島徳十郎という者を呼び込み、琵琶法師と偽って上月城に潜り込ませた。

酒宴のときに、徳十郎は毒を盛ったので、鹿之助たちはみな倒れ伏してしまった。

ただ一人、義久の近習の寺元半四郎という者だけが下戸だったので、徳十郎を取り押さえることができたが、

既に鹿之助と兵庫之助は息絶え、鮎之助は見苦しい死体晒したくないと海に身を投げてしまった。

半四郎は涙を流しながらも、急ぎ富田城に戻ったが、

すでに城は九郎左衛門によって乗っ取られ、尼子義久は捕らえられていた。

そこで半四郎は「私はいから生死之助と名を変え、生まれ変わったつもりで貴公に仕えよう」と九郎左衛門に申し出た。

そのとき皐月早苗之助という豪傑が、尼子義久の嫡男・勝丸をさっと抱えて逃げ出した。

この男は、五十人あまりが引いても動かない大岩を、少年でありながら一人でどけてしまったという怪力の持ち主だった。

それを認めた義久が家臣として取り立て、村の名前から皐月早苗之助という名を与えたのだった。

早苗之助を追いかけてきた生死之助は、「私は奥方や若君を救うために偽って寝返ったのだ」と事情を話した。

そこに京の兆殿司和尚が現れたので、若君・勝丸を和尚に預けて、

生死之助は富田城へと戻り、早苗之助は上月城に行くことになった。

上月城に到着した早苗之助は、九重姫に事情説明し、京へ逃れるように言った。

九重姫が「夫の亡骸を捨て置くわけにはいかない」と言うので、

早苗之助は鹿之助の死骸を検分したが、どうも生きている感じがする。

兵庫之助の死体についても同様だったので、「養生すれば助かるかもしれない」と九重姫と浮舟に死体を持たせて逃した。

早苗之助はこれで大丈夫だと、自らは勝丸を追って京へと向かった。

一方で生死之助は、富田城に戻って上手く誤魔化し、九郎左衛門上月城攻めを注進した。

既に上月城にはほとんど人が残っていなかったが、ここに高橋渡之助と秋宅庵之助という二人の豪傑がおり、

生死之助を先鋒に九郎左衛門の軍が攻めてくるというので、城を枕に討ち死にしようと立てこもっていた。

二人の忠義に生死之助は感心し、事情説明した矢文を打ち込み、城を退去して京へ逃れるように言った。

あっというまに上月城を攻め落とした生死之助を、九郎左衛門ますます信用したのだった。

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ある日、京の中御門宗教から上月城書状が届いた。

その内容は、明石海賊から大江山山賊への手紙のようなもので、なんともわけがからなかった。

その二ヶ月後、また宗教から書状が届いて、

「先日の手紙の返事がないので、そちらに九重姫を送ったがやはり音沙汰がない、姫は到着したかとある

鹿之助は驚き、明石海賊九重姫をさらたかと合点して、その退治に出かけることとなった。

船頭を雇い、海に出てしばらく進むと、向こうから来るのはまさしく海賊の船だと船頭が言う。

鹿之助がその船に乗り込むと、なんと船底より大谷古猪之助・早川鮎之助・横道兵庫之助が現れた。

古猪之助が語るところによると、まず事の発端は大江山山賊宗教卿の手紙を奪ったこである

それを読んだ山賊は、鹿之助から使者なりすまし九重姫を誘い出し、そのままねぐらに連れ帰ってしまった。

古猪之助は、鹿之助が尼子家に仕官したという噂を聞いて、

約束を果たそうと播州へ向かう途中、大江山山賊に捕まりその手下として働いていた。

そこで九重姫と出会って事情を聞き、姫をつづらに入れて逃げ出したところ、

今度は舞子の浜の宿でつづらを海賊に奪われたのだと言う。

さら兵庫之助によると、大坂の店に送ったはずの浮舟が、

まもなく兵庫之助を慕って追いかけてきたので困っていたところ、

九重姫と共に浮舟も海賊さらわれてしまったので、同じ宿に泊まっていた古猪之助と協力して救い出そうとした。

二人して海賊棟梁に襲いかかったところ、その棟梁というのが実は鮎之助であり、

同じく鹿之助の家臣であることが判明したのだと言う。

鮎之助はと言うと、やはり鹿之助のもとへ向かう途中で海賊に襲われたので、その棟梁返り討ちにしてやった。

そうして棟梁に成り代わっていたところ、他の二人と出会ったのだと言う。

鹿之助は納得して、この三豪傑を連れて帰って尼子義久に紹介し、また九重姫と正式結婚をしたのだった。

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鮎之助と別れて、またどしどしと歩き、兵庫の町に着いた鹿之助は、

そこで女を挟んで浪人と大男とが争っているのを見かけて、仲裁に入った。

浪人に話を聞いてみると、彼はこの浮舟という遊女と馴染みになって放蕩したため、

主君の勘気を蒙って流浪の身となり、仕方なく二人で駆け落ちをしてきたところ、

こちらも浮舟に入れ込んでいた大男が怒り、浮舟を渡すか果し合いをするかと追ってきたということらしい。

そのうえ浪人は、刀さえも売り払って竹光を差していたので、果し合いをしようにもできないのだと言う。

そこで鹿之助が刀を貸すと、浪人は喜び勇んであっという間に大男を斬り殺してしまった。

浪人は浮舟に、これから心を入れ替えて精進し、いずれ名をあげたら迎えにいくから、いまは大坂の店に戻れと言い渡した。

また鹿之助には感謝し、家臣になることを申し出た。

鹿之助は承諾し、兵庫の横道で出会ったということで「横道兵庫之助」という名を授けた。

そして兵庫之助に、浮舟を大坂の店まで送っていくよう命じたのだった。

さて、鹿之助はまた旅を続け、早くも播州上月城尼子義久と面会した。

義久は話を聞いて喜び、すぐさま鹿之助を軍師として遇した。

尼子の家臣たちは、新参の鹿之助を信用していなかったが、あるとき彼が怪物退治をしたことで、たちまち敬服することになった。

この怪物退治については別に申し上げるほどのこともないので省いておく。

また山名配下菊池音八という者がおり、西国に敵う者なしという剛勇無双毛利でさえ手を焼くという大豪傑であると聞いて、

鹿之助は一計を案じ、「伯州の腰抜け・菊池音八を討ち取る者は播州尼子山中鹿之介なり」と高札に大書してあちこちに立てさせた。

音八はもちろん怒り狂い、「舞子の浜にて殺してやるから待っておれ」などといった書状を送りつけてきた。

鹿之助が軽装で出向くと、音八は甲冑に身を固めてやってきた。

鹿之助は笑って「内心、私を恐れているから、大仰な鎧を着てきたのだろう」と挑発した。

腹を立てた音八が鉄棒を振りかざして向かってくるのを、素早くかわした鹿之助は見事に相手の首をはねてみせた。

これにより鹿之助の名は近隣に轟き、容易に尼子を攻めるものもなくなった。

数日後、鹿之助は山名家へ出向いて「毛利家臣、清水三郎である」と名乗り、当主山名氏資に面会を求めた。

鹿之助は、毛利山名との同盟を望んでいると言い包め、氏資が血判をしようと近づいた途端にひっ捕らえ、

そのまま上月城に連れて帰って、降伏を誓わせてから解放した。

こうして山名家は尼子家の軍門に降ったのであった。

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古猪之助のもとを発ち、京へやってきた鹿之助が、たまたま入った居酒屋狼藉者を退治したところ、

その店の女主人が、実は更科姫が昔に助けたことのある、お菊という娘だった。

お菊の勧めもあり、鹿之助はその菊屋に逗留することになった。

またある日、五条大橋の上で、貴族の輿が何やら武士に襲われているのを助けたところ、

その輿に乗っていたのはまさしく中御門宗教息女九重姫であった。

九重姫を中御門邸に送り届けたところ、宗教卿はその人品卑しからぬ鹿之助を気に入り、

さらには宗行の霊夢について語られると大いに喜び、その日のうちに鹿之助と九重姫は内祝言を挙げた。

そして宗教卿は、彼のもう一人の娘婿である播州尼子義久が、毛利龍造寺に囲まれて負け続けであるので、

その武勇で助けてもらえないだろうか、と鹿之介に頼んだのであった。

九重姫を宗教卿に預け、お菊から多くの路銀を貰い受けた鹿之助は、ひとり播州へ旅立った。

途中、大兵肥満の男が大きな板を持って、流れの早い川を堰き止めていた。

男は板を動かして川の水を溢れさせ、泳いでいる鮎を次々に川岸打ち上げている。

そうしておいて川から上がると、男は打ち上がった鮎を残らず捕まえてしまうのである

なんという怪力だと感嘆した鹿之助が声をかけて素性を聞くと、

七助と名乗るこの男は、先祖武士であったものの、いまは落ちぶれて漁師をしており、

竿や網を買う金もないので、こうして工夫して漁をしているのだと言った。

鹿之助は彼とも主従の契りを交わして「早川鮎之助」という名前を与えた。

[]anond:20200223190101

森之助と更科姫は諏訪ヶ原をよく治めていた。

あるとき夫婦山中で道に迷い、たまたま村上家の武芸指南役・井上九郎と再会した。

村上家を出奔したのち隠居していたとのことで、喜んだ森之助は、鹿之助を鍛えてもらえるよう頼みこんだ。

井上九郎のもとで五年ほど鍛えられ、鹿之助は武芸百般に通ずる立派な若武者となった。

その頃、信玄はすでにこの世を去り、武田勝頼が後を継いでいた。

馬場美濃守は己の死を覚悟し、もはや武田家の滅びは避けがたいので城を退去せよと森之助に伝えた。

まさに長篠の戦いにおいて武田大敗を喫し、馬場美濃守が討ち死にするに至り、北条家の軍勢諏訪原城に押し寄せた。

森之助は馬場美濃守の言うとおりに城から去ることにした。

城にはただ更科姫と鹿之助だけが残り、母子北条軍勢をさんざんに打ち破ったあと、二人は落ち延びていった。

ところがその途上、更科姫と鹿之助の夢枕に、承久の乱で亡くなった中御門宗行という貴族の霊が立ち、

鹿之助は見どころがあるので、自分の子である中御門宗教を頼っていけば立身出世は間違いなしである、と告げた。

更科姫は、これぞ霊夢であろうと鹿之助を励まし、鹿之助は惜しみつつも母と別れてひとり京へ向かうこととなった。

東海道を進む鹿之助は、その途中の村にて、盗みをして焼き殺されるところの大谷猪之助という怪力の若者を助けた。

猪之助によると、いまは落ちぶれ、母のために盗みに手を出してしまったのものの、元は武士の息子であると言うので、

鹿之助はいずれ身を立てたのちには家臣として迎えると約して、二人は主従の契りを結んだ。

その猪之助が、鹿之助へ料理を振る舞おうと、大きな古猪と格闘してこれを退治したので、

鹿之助は激賞して、彼に「大谷古猪之助」と改名するよう言ったのであった。

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ある時、森之助の伯父で、先年村上家を出奔して武田家に仕えていた、相木市兵衛という者が塩尻峠を通りかかった。

市兵衛はその山奥で、鹿の背に乗せられ、猿たちに取り囲まれ赤ん坊を見つける。

不思議に思った市兵衛は赤ん坊を拾って帰り、山の中で鹿に乗っていた子供ということで「山中鹿之介」と名付けた。

その赤ん坊こそ、長坂跡部の追手と戦ううちに更科姫とはぐれてしまった、彼女の息子であった。

その更科姫は、はぐれた息子を探すうちに山賊の砦に迷いこんでしまい、彼らを打ち倒して親分の座に収まっていた。

しかも、その山賊の一味だった烏勘左衛門という者が、実は武田家と対立する上杉謙信の家臣・蓑田五郎であった。

二人は協力して馬場美濃守を討たんと、手下を商人変装させて甲府へと送り込んだ。

ところが手下は早々に馬場美濃守に捕まり、一部始終を白状させられてしまった。

馬場美濃守は思案して、私の心底はこの中身を見れば分かると言って、その手下に「長持」を持たせて帰した。

手下から長持を受け取った更科姫がそれを開けてみると、その中から現れたのは死んだはずの森之助であった。

更科姫は、森之助との再会に驚くやら喜ぶやら。

実は、密かに馬場美濃守に助けられていた森之助は、それから馬場美濃守の影武者として活躍していたのだった。

このときすでに村上家は滅び、村上義清は越後へ逃れて、上杉謙信の家臣となっていた。

このまま武田に与して上杉と戦うつもりもなし、世を捨てて閑居しようと語り合い、

簑田五郎山賊たちを任せて、二人は武田家へ向かった。

馬場美濃守に暇乞いをしたところ、

上杉と戦う必要はないので、北条今川の押さえとなる諏訪原城を守ってくれないか

と頼まれしまい、恩人の言うことでもあるので、やむなくそれを引き受けた。

最後ということで伯父の市兵衛とも面会すると、そこにいた赤ん坊ははぐれた更科姫の息子であった。

夫婦は喜び、息子・鹿之助を引き取ると、諏訪ヶ原の城へと向かった。

[]anond:20200223185541

信濃戦国大名村上義清の家臣である楽巌寺右馬助には更科姫という娘がいた。

彼女は絶世の美女でありながら武勇の誉れ高く、また年頃の十七歳となれば縁談が絶えないが、

「私の夫となるからには剛勇の士でなければ」と全て断っていた。

ところで同じく村上家に相木森之助という青年がいた。

当年二十一歳、家中随一の美男であり争いを好まず、といって惰弱というわけでもない。

武芸指南役の井上九郎が「彼こそ信州第一の豪傑」と褒め称えるのを聞いた更科姫は、

彼の姿を見るやたちまち惚れ込んで、すぐさま九郎に取り持ちを頼み、めでたく二人は夫婦と相成った。

たここに牧島大九郎という者がいた。

彼は常から更科姫に懸想しており、彼女の夫となった森之助に恨みを募らせながら、しつこく更科姫を付け狙っていた。

ある日、更科姫の外出を狙って大九郎は二十人ばかりで彼女を襲ったが、更科姫はそれらをことごとく打ち伏せてしまった。

恨み骨髄に徹した大九郎は、かねてより内通していた武田家の長坂長閑・跡部大炊から百名ほどを借りて、

巧みに誘い出した更科姫を取り囲んだが、それでも彼女を取り押さえられない。

それどころか計略を察した森之助まで駆けつけて、武田家の百名は残らず斬り伏せられ、大九郎も討ち取られてしまった。

事情はどうあれ武田家の家臣を斬ったということで、森之助の身柄は武田に送られた。

武田信玄はその武勇豪胆を惜しんだものの、長坂跡部讒言もあり、森之助は馬場美濃守の預かりで切腹となった。

更科姫は、森之助を追って甲斐まで来たが、そこで夫が切腹したと聞いて大いに嘆き、武田家と馬場美濃守への復讐を誓った。

更科姫はたった一人で甲斐に留まり塩尻峠の山腹の小屋に住み着いて、そこで玉のような男子を産み落とした。

[]『武士道精華 山中鹿之助』簡略版

前書き

真田十勇士はまだしも知られてるけど

その元ネタだったらしい「尼子勇士」って

メンバー名前すら知られてないよな

どんな話だったんだろうと思ってググってみたところ

立川文庫の『武士道精華 山中鹿之助』という本が

国立国会図書館デジタルコレクションで読めたので

その内容を簡単にまとめてみることにした。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/891033

Wikipediaによると

勇士人物像について始めて具体的に記述された史料は、文化8年(1811年) - 文政4年(1821年)にかけて刊行された『絵本更科草紙』である

この書は、幸盛の母である更科姫と、尼子勇士による活躍を描いた物語である。書と共にこの話は全国的に広まったようであり、この後には、十勇士を題材にした浮世絵の描画や歌舞伎の上演、また十勇士が描かれた絵馬神社奉納されるなど、世間一般にこの話が浸透していったことが分かる。

明治時代に入ると、先の『絵本更科草紙』と同じ内容で、表題を『尼子勇士伝』とした書が刊行される。明治44年1911年12月、『絵本更科草紙』の内容を簡略化し、大衆向けに噛み砕いた文で表した書、『武士道精華 山中鹿之助』が立川文庫より発行されると、尼子勇士の名は一躍有名になる。

というわけで簡略版の簡略版ということになるが、

わりと長くなったので短く分けてトラバに書いていく。

 
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