はてなキーワード: 武芸とは
初のメジャーバージョンアップですな。とりいそぎ魔神任務報酬まで行ったので感想を書く。原神設定に明るくない人間のインプレッションだよ。
初新国実装だったので情報をシャットダウンして楽しみにしていたけれど、報酬に釣られるとどうしても事前のプレビューが入ってくる。んでもまあ本当にSNSを盛り上げようと頑張っているのは感じるし悪いことじゃないし、黙って裸待機ワクテカする老人なんてコミュニティになにも寄与しないんだよね。
プレビューも力入ってて、そんなに素材の使いまわしを感じなかった。簡素なアートもグラフィティ文化と合っているからよくできていたんじゃなかな。簡素なアートが楽ってことでは全然ないけど。
たまに公式X見ると現実ARみたいな動画が流れてああいうのはワクワクするよね。
ストーリーも手早く済ませると報酬ってのんびりやりたい自分にはマイナスだけど一斉に体験させて盛り上げるSNS手法なのでしかたないね。
運営は本当にSNSに力入れてて、でも自分は原石チャンスがあろうとXやホヨラボまではやってられないなあと再認識。
いつも新しい国には徒歩でいく。というかイベントマーカーと開放ワープポイントが被っているから飛べるの分からなくていつも徒歩しちゃう。
相変わらず国境はスカスカで、スメール砂漠は虚無すぎるからなんとかしてほしい。
初見の印象は、
崖がまっすぐすぎんか?
だった。
直前がシムランカという紙やブロックの人工的な直線が多いエリアがあったので正直既視感・作り物感があった。
でもすぐに他国と異なった切り立った崖のバリエーション、高低差が重要な要素、ウォールペイント文化のために必要と意義はわかったので、すぐに飲み込めた。
カチーナ、ムアラニ、キィニチの3人、とても良かったですね。いや本当にベリーよかった。
部族が競ってるとなると部族間は対抗心バリバリかと思ってたけど、蓋を開くとお互いリスペクト全開で仲がよくていい…すごくいい…。
部族全体も仲がよくて、逆に最初のカチーナの仲間や揶揄してくるアレ(ファデュイの差し金と疑ってたよ)とかあんな部族世界でどうやって生まれてきたのか。シナリオ的である。
他の部族メインの二人もキャラ立っていてよかったですな。チャスカとイアンサならイアンサの方がすき。
振り返ると結束感がすきなのかも。好みとナタの気質があっていた。
地理はやっぱり流泉の衆の南国がね。いいね。FF10も好きだった。
移動のストレスについてはかなり気を遣ったなぁと。
すぐにカチーナが手に入って崖対応してナタにはトランスと回復つけて。
竜憑依は野良敵でOK、落下ダメージ軽減、燃素補給は念入りに配置。
探索が楽とか楽しいとか以前に
出来ておる楠
とウムウムすることしきりである。
部族ごとに地域特徴もはっきりしてて、ランドマークごとではなく地域ごとに"このエリアに居るな"と感じるので3国実装された気分。
海側の棚田みたいな池が好き。逆にランドマーク間の平凡な地域が国の基底な風景なので"ナタらしさ"となると難しいかも。競技場周りの自然はちょっと地味だしね。
連戦イベントも各地を転戦するのが楽しかったなぁ。倒して時間が増える時間制限レース系挑戦は苦手だけど。
快適に作っているゆえに使っていて楽しい。ライドアトラクションなミニゲームも、難易度を上げるのは客層的に難しいので気持ちよさに振るしかないと思っていて、今作はとても気持ちよく出来ていたと思う。とくにスピリットウェイはソニック的で楽しい。老人で言うと万里の超特急。奥スクロールは苦手で障害物によくぶつかるんですけどね。
人型の敵は武器ガジェットをガチャガチャしていて凄くいいね!竜と合わせてたぶんモダンモンハンイメージかもしれないけれど、スタイリッシュ以前のもそもそモンハンしかプレイしてないからどちらかと言えばゴッドイーター感を私は持ったよ。
敵対理由も武芸の手合わせで凄くいい。もう永遠に沸く悪党に襲われるのはうんざりで、サワヤカな世界に仕上がっている。
竜も共存してる設定上、できれば接近で敵対してほしくなかったけど、憑依で敵対しなくなるためにはアリなバランスかな。
仔竜はかわいいし、生活感があるし、ジュラシックパークみたいに眺めるのがとても楽しいね。イベントの写真撮影でいやでも魅力が確認できますな。
精鋭はなかなか手ごわく、まあこの手厚さや運営暦考えればやや古参向けなのかな?結構緊張感があって悪くない。最悪、近くの燃素補給所に竜で居座れば無限回復だから時間をかければ連打で倒せるし。
温泉に座る=入浴することができたらよかったのにね。浮き輪に嵌るとかも。せっかくの温泉街が眺めるだけで少し寂しい。
長期計画のシメを発案者が担う…てなにがありましたっけ。ディアナ様…はちょっと違う?なんかどこかで見たことあるとね。
部族国家もままあるし、帰火聖夜の巡礼の団体戦はフォトナやAPEXのバトルロイヤル系に見えたし、永く続けられた救国の儀式が漸減し限界という話は火と合わせてダクソ3を連想させる。というかこの弱火設定でわりと明るくポジティブな世界が一気に真実を知らない危機感が薄い国民になっちゃって悲しい(アビスの脅威を危機に感じる話はあるけど全体的にね。巡礼儀式がイベント・興行化してるし)
人が代々継いでいく設定にワクワクしたのに、結局ね。神像と現炎神が似てるのも偶然、とか運命的だねって思った気持ち返して。ワンフォーオールならヒロアカみたいに歴代炎神や各年代が重視されてほしかったけど、スジとしては500年前と今だけになっちゃったのかな。意志を継ぐ話は炎神の友人に集約されてしまったね。
スペック上の問題だと思うけど、ムービー以外で群集を描けないんだよね。巨大なコロシアムなのにすっかすかでモブがまばらに居るってのはさびしすぎる。見渡しがいいローマ式じゃなくて手前に壁があって上半身しか描写しなくていい、とかで人の数を増やしてほしい。人の少なさはオープンワールドの宿命と割り切っていたけれど、わざわざ人が集まる設定シナリオにしておいて工夫がなかったのは残念だった。
巡礼の戦闘イベントはそこそこ集団のチーム戦が演出できていたのでよかった。
5人って少なすぎない?謎煙の主が非戦闘部族としてもなんかキリが悪い。
戦争と言うには定期的に選抜して5人で編成して数日間のミッションを行なう、と能動的で小競り合いな印象が拭えない。こっちがシナリオのメインになるかと思ってたらぜんぜん描写がなくてぼんやりしているんだよね。
そもそも原神は神の目という元素を扱う力で一般人と圧倒的な力の格差が生まれる世界で、さらに神の目持ちの中で物語を動かせるのはメタ的にプレイアブル(にできる)キャラクターだけというとても狭い世界。
ナタはそこにさらに大霊に選ばれる古名の選別があって、選ばれし者の中の選ばれし者で流石にやりすぎる。
稲妻とかはそこを逆手にとって神の目を奪ったり邪眼に走ったりを描けていたんだけど、今のシナリオだけではナタでは空気かな。
そも古名持ち=神の目持ちなのか?でも神の目無しで古名持ち、神の目ありで古名無しを考えると、
・神の目無しで古名持ち
元素力を扱えず戦争で復活できるけど戦力にならない(いや巡礼で勝ってるから戦力か。…ムアラニVSカチーナ以上に強いの?)
・神の目ありで古名無し
元素力を扱えるが死んだら復活できない
と、古名を神の目無しの人に与えるメリットが無さ過ぎる。
帰火聖夜の巡礼は神の目持ちじゃないと到底個人戦は勝てないし、戦争に古名無しが行くメリットはないし。
巡礼が神の目持ちが最低ラインなら部族全体の貢献感が薄れるし、一般人参加ありなら団体突破が実質勝利の名誉だけ得るイベント、神の目持ちも個人戦勝ち抜いても戦争は古名持ちに譲ったほうがいい名誉だけ得るイベント、になるよね。
歴史を継いでいく、という設定はとても良いんだけど、炎神も古名もあまり上手く活かせていない・副作用が大きいように思える。
最初に相棒の仔竜と出会って、この子が話の中核かな?と思ったら以後メインストーリーには絡まず。
競技場で二人と出会って3人の話かな?いいやん!キィニチすぐ離脱したわ…。
…あれ?ほっぽってムアラニさんと観光継続ですか。結局アビスとの戦いこっちでするんかい!
これムアラニさんメインキャラだなぁ。(終わったらキィニチでもう一回?)
カチーナそうなるよね…。
炎神!…は別行動なのね。
あぁこれムアラニメインの話だ。
キィニチは不自然に外されて代役の戦争メンバーの懸木の民もすぐ外れて、ムアラニを目立たせたかったんだなぁ。
って感じ。最初に座ろうとしたイスを変えられるのが連続しちゃってムアラニで行くのか!?そうなのか!?と座っていいのか空気イスでプルプルしてた期間が長い。
最初にどっしり「これやります!」って教えてほしい。岩の重さは安心できるから。
どの竜でも竜憑依できるというのが凄く体験がよくない。
人と竜のコンビや竜の親子のセットに対して、成竜に憑依してもう片方に攻撃するってNTRを超えたなにかで罪悪感がひっどい。
人も竜も平和な世界であるが故に逆にプレイヤーの行動の極悪さがきわまる。これが宝盗団や獰猛な竜なら奪っても心が痛まないはずだが…。
絆があるからとかで憑依できない竜を設定するか、事前に絆を結んだ竜しか憑依できないとかにしないと…主人公が憑依できる力を授かった理由とも凄く反しているように感じる。
極論、野良の一匹竜に憑依して解除したら死んだときと同じ状態になるというだけでも生き物をモノ化しててあまりよろしくない。
憑依、言葉通りだけどまさにのっとり・強奪だからね。主人公は人と竜の共存世界、の破壊者である。しかも憑依に騙されるな。実際は即死魔法を連射できるんだよね。
今までハトとか非敵対生物を殺しまくって何を言ってるんだといわれるだろうけど、でも、ね、人格のっとりやゾルトラークは性癖じゃないのじゃー。
あと仔竜を倒すのが普通に辛い。既存のかわいい敵やアベラント幼態とはベクトルが違うじゃない?
緑竜が飛びぬけて便利。
赤竜は段差や崖を無視できる潜行だけど、地味。攻撃モーションも遅く、潜行してるときの攻撃が地上より便利だけど常時燃素消費。
潜行中のジャンプの挙動が独特で、慣れていない今は結構不便。ポイント集めるミニゲームで何度か脱線した。
水面と違って緑竜でいい場面が多く、憑依回数が著しく少ない。
青竜は水面高速移動以外の特徴がない。攻撃は弱くてクールダウンが長いし、採掘も苦手。敵を倒すにはお膳立てされたイカダ壊しの水没ぐらい。移動特化なら燃素ダッシュ速度がデフォで欲しい。燃素補給も岸辺に行かないとだし、海に寄る魅力が薄い。もっとスピリットウェイ増やしてほしいかな。ジャンプ攻撃はもっとリーチを伸ばして気持ちよくさせてほしい。
緑竜は平面移動まあまあ、上下移動よし、戦闘能力ありと万能。一回目のスキル移動に燃素消費ないのは赤竜泣いているのでは?
フレイムグレネード投擲のダメージが高すぎて、他の、いや自分も含め竜の通常攻撃が霞む。他の竜にも似た攻撃手段を用意するべきだったのでは?
緑竜依存症。緑竜とフレイムグレネードがあると雑魚戦闘がとても楽なので、逆に無いとキャラクターで戦闘したくない。
育成できていないとこういう環境依存のスキルはとても助かる。雑魚1撃や2~3撃はとても快適。フォンテーヌもずっと水中で亜種スキル撃ってる。
でもフォンテーヌは地上は絶対、キャラクターで戦う必要があるんだよね。だからしぶしぶ肺呼吸するんだけど…。
ナタは地上で緑竜になれるから、国に居る間ずっと緑竜で居たい。緑竜は移動が楽だ。緑竜でいるならフレイムグレネードがあると戦闘が楽だからフレイムグレネードが無い場所に居たくない。
まあ、便利なものを捨てられない人のさがですね。
人は易きに流れるので…。もっとエリアを厳密に制限するか、いっそ全域に緑竜とフレイムグレネードを配っちゃうか…。
今がこれなら飛べる竜が出たらどうなるのでしょうか。
竜格差だけでなく、エリアの緑竜配置格差・フレイムグレネード配置格差みたいに感じちゃう悪しき心です。
メタ破りのゲーム風ドットキャラなのになんの言及もなくてむずむずする。
あとはまあナタから出国できない理由雑だなとかこだまの子の社会的特色が他に比べてやや弱いなぁとか、ライダースーツはあんまり好きじゃないから炎神さまにはジャック・オーみたいなコミカルさを一縷の望みにしてたけどしっとりしてたな…とか。
ファーストインプレッションは高得点なのにのちのち設定で少し減点される、みたいなのが多かったですね。
でも国全体だけでみたらフォンテーヌより地上はよくなってると思う。シナリオはフォンテまだだからわかんない。ナタも結局すっきりしなさそうだしファデュイが成功しそうだしでなー。
スカっとサワヤカな雰囲気はあったけど結局いつもの原神でしたという感じか。振り切れなかった。
そこもシナリオ完了したら問題は解決してスポーツ文化は続くよ!てなる可能性もあるし。現状でも敵対システム的に平和な国なだけで高得点だし。
フォンテーヌとならんでベスト1,2の国になっているのではないでしょうか。ゲームデザインとしては順当進化と言え、とても褒めたいと思いまする。
元々侍と武士は同じ意味だったが、時代を経ると侍は高位の武士の意味になってる。
侍(さむらい、サムライ)は、古代から中世にかけての日本における官人の身分呼称、あるいはそこから発展的に生じた武士の別名である。
「侍」という言葉は元来は、朝廷の実務を担い有力貴族や諸大夫に仕える位階六位下程度の下級貴族(官人)を意味した
武芸を仕事内容とする技能官人である武士が発達すると、「侍」は武士を指すようになった。
さらに、武士階層の裾野は広がり貴族に連なる支配階層に加え、本来は百姓身分である地侍や徒士、卒、足軽なども武士に含まれるようになると、「侍」は武士の中でも比較的高い地位にある「騎馬戦闘の権利資格を有する階層以上の武士」を指すようになった。
足軽(あしがる)は、平安時代から江戸時代の日本に存在した歩兵の一種。
概念によっては、雑兵(雇い兵)と混同されることが多いが、足軽は正式に登録された下級武士であり、雑兵は戦いがあるたびに金銭で雇われる軍兵のことである。
弥助が侍かどうかの話があるが、そもそも侍の定義を明示してないと話が始まらない。
足軽だったとしても下級武士であり武士=侍の時代の定義に従えば足軽も侍と言うことも可能なので議論する上で当たり前だがそもそも言葉の定義についてはっきりさせておく必要がある。
まず何をしますか?
この質問に答えるのは難しいです。平安時代は日本の歴史の中で非常に重要な時代ですが、現代人にとっては馴染みのない文化や習慣が多くあります。
私は平安時代にタイムスリップしたら、まず以下のことを考えると思います。
自分がどの階層に属しているかによって、生活や行動の制約が大きく変わります。
例えば、貴族であれば宮中や邸宅で優雅な生活を送ることができますが、一方で朝廷の政治や恋愛の駆け引きに巻き込まれる危険もあります。
僧侶であれば仏教の教えに従って清らかな生活を送ることができますが、一方で寺院間の争いや国家の権力との関係に悩むこともあります。
武士であれば武芸や忠義に生きることができますが、一方で戦闘や反乱に巻き込まれる可能性もあります。
また、身分が低い者であれば、農民や奴隷などとして苦しい生活を強いられることもあります。
また、現代の技術や知識を使って時代を変えてしまわないように注意する必要もあります。
例えば、現代の医学や科学を使って人々を助けたり、平和を促進したりすることは善意の行為ですが、それが歴史の流れに影響を与えてしまう可能性もあります。
その場合、自分の時代に戻ったとしても、元の世界とは違う世界になってしまうかもしれません。
平安時代にタイムスリップしたら、現代に戻る方法を探すだけでなく、その時代の文化や歴史を学ぶことも有意義だと思います。
和歌や物語、絵画や建築などの芸術作品が数多く生み出されました。
平安時代にタイムスリップしたら、これらの文化的な側面を直接体験することができます。
以上が私が平安時代にタイムスリップしたらまず考えることです。
もちろん、実際にはもっと様々なことに直面するでしょう。
今年東京進出した大阪吉本芸人3組があちこちオードリーに出ていた
机上の空論城ではクズ扱いだけど(マユリカのおかげでツートライブやさや香等の真摯な仕事っぷりが際立つ)
「東京で成功」っていうと、千鳥やかまいたちレベルのことを言うんだろうから…大変
アインシュタインや見取り図やダイアンその他、近年進出組はすごく有名だけど「成功」と捉えるには足りてないのかもしれない
(「家賃が高い」東京に住んでで食っていければ十分「成功」なのかもしれないけど)
しかし、千鳥かまいたちのレギュラー本数に追いつける芸人が一体どれだけ居るだろうか?
所謂「成功」が、賞レースで良い結果を残したり面白いネタをやったりといった芸人の芯の部分とはあんまり関係無いところがツライとこ
「どれだけ巧く番組を作れるか(視聴者受けするか)」が勝負だから
平場に強くても「プレイヤーとして面白い」じゃ番組持てないってのもあるし(番組内でプレイヤーを動かす側でないと駄目)
公開当初、劇場で見て細田守を見限った作品(大好きな監督からサマウォ以前が好きな監督へ)。でもおかげで未来のミライをフラットに受け流すことができた恩人(恩作?)でもある。そのバケモノの子を7年ぶりぐらいに見ることにした。もちろん酷評となるが、さんざ言われている人間界不要や監督の家族観とかとは違う部分を書こうかと思う。
改めて見た率直な感想がこれだった。
OPのCG、でいいのかな。炎のシルエットで描かれる演舞はとても素晴らしくて、後を知ってる2回目視聴ですら否が応でも期待が高まる。カンフー映画のようなケレン味のあるアクションが味わえるのでは、と。
しかし今作の大きな格闘と言えば鍛錬を除けば序盤と終盤の熊(熊徹)と猪(猪王山)(面倒なので略す)の2回のケンカぐらいだ。そして悲しいかな、これが見ていてさほど面白くない。二人の戦いは剣術はもとより、相撲や闘牛やボクシングといったようなもののオマージュのような動きが散見される。これが良くなかった。自分としては当初これら齧ったようなエッセンスの動きは小手調べだと思っていたのだが、実はまっとうな戦いの組み立ての範疇だったように思える。それの何が悪いって、二人に軸がなくなってしまったことになる。
古典カンフー映画のようなアクションを期待していた身としては、やはり「流派」は大事だったと思う。違う流派あるいは同じ流派の者が対峙して技を競う。それぞれの特徴的な動きの差異が画面に映えるのだ。それこそスターウォーズだってやってる。バケモノの子だと(恐らく)正統派の武術を扱う猪と、師匠も居ない独学の熊との対決で、実に映えやすい。ところがそういうのは確かに所作に現れているものの、お互いあちこちからちょいちょいとつまみ食いした動きにしてしまったためにもう、流派のぶつかりもなにもない「ただのケンカ」になってしまった。もっと言えば観客が居るせいで「興行的スポーツ」。年末格闘技かのようなエンタメになってしまった。「バケモノ」の活かし方が体当たりなのもマイナスだ。
長年練り上げた鍛錬を披露する、思わず唸るような動きではないせいでもちろんナイスバトルも生まれない。
どちらが勝つかわからない。であるとか、敗者をも称える歓声が起きる決着。なんてものは生じるわけがなかった。次期宗師を決める神聖(かはわからないけど)な戦いがリスペクトも生まれない野次馬がたくさんいるケンカに堕ちていたのは残念でならない。
(負けた猪も勝者並に称えられていたら息子も闇落ちしなかったりそれでも闇に落ちる姿が強調できたりしたかもしれない)
九太の応援が余裕で10カウント超えている賛否多そうなシーンもルールが最重要な興行ではなく宗師を決める心も重要な要素の杓子定規でない神事として見ていたので許せたが、その後顔アップで剣を振り回すとかガッカリ。
その主人公の九太なんかも悲惨で、やはり修行以外ではまともに動かない。成長後の図書館のシーンで不良相手に鮮やかに立ち回るかと思いきや、得意の横長のレイアウトのパンを使いつつなんと画面外で音だけでボコるという手抜き。団子ラリーは好きだけどそれぐらいか。バケモノ界は闘争の世界ではないし、武術を習った主人公が人間をボコるのもよくないのは分かる。ただ素直に成長後九太で気持ちよくなれるシーンが欲しかったな。
直近の過去2作だけみてもキングカズマのOZ内移動含めた格闘やおおかみこどもの躍動感ある動きとかセンスは落ちてないはずなんだけどどうしてこうなったのかなあと不思議に感じる。
(剣が震えるところとかは好き)
熊の家を斜め上から見た図と家までの階段の坂道、あとは修行場の廃墟っぽいところ?バケモノの子はだいたいこのイメージ。あと市場か。
渋天街という異世界に居るのに街全体の引きの絵とかがほぼ無いからせまっ苦しい。ワクワクしない。主人公も視聴者も異邦人なんだから、街をそれとなく見せて欲しかった。たとえば熊とケンカして街中をバルクールじみて走り回る追走劇とかはどうだろうか。アラジンの冒頭みたいな感じで。坂の上下を生かすならコクリコ坂もよく時代の雰囲気を醸すことができていたと思う。
バケモノの子はとにかく「今どこに居るのか」がわかりにくい。賢者歴訪のシーンは渋天街に必要だった賢者の住む街の全景が描かれるが、それぞれ1秒未満ぐらいの一瞬しか映らない。振り返ってどんな場所に行ったかと思い出そうとしても難しい。結局思い出としては賢者の対面シーンと道中が繰り返される狭い印象になる。
絵作りができていないわけではなくて引きの絵も多くて背景もモブも全員書き分けるなど緻密なのだが、画面ごとにどうにもキャラクターが支配的で背景が薄味。乾燥地帯イメージな砂色なのがそう感じさせるのかもしれない。逆に夜や昼夜の境目などの暗さと光は非常に美しくて心に残る。
今作は「時空」の時間を重視しているのかと思う。九太の成長自体がそれでテーマだし、同じ場面で季節が流れるシーンや同じ場所が繰り返されるのも時間の流れが見て取れるので効果的だ。あるいはその犠牲で空間が少々ワリを食った形になったのかもしれない。
(季節が流れるシーンやミライの家の書き方は好きなので時間や密室劇的方面が悪いのではなくバランスかなぁと)
バケモノ界はたぶん全体的に武芸を修めることに重きを置かれると思う。そして武芸の強さが絶対の指標じゃなくて弟子を取るとかも重視されてる。熊ですら過去に弟子を取ろうとしたことがある。つまり剣術は人口が多そうだけど学ぶのは剣術の裏にある精神性とかかと。それで九太は賢者の話を聞いて強いっていろんな意味があるんだなと理解したわけ。じゃあ数ある強さの中で熊と同じ道で強さを歩むことを自覚的に選択しなくちゃならん。
当初の九太は選択の余地がなかった。家族を失って一人で逃げ出して置いておいてもらえそうなのが剣術家の熊んところだったわけだ。そこから8年過ごすわけだけど8年後の九太は人間界に重点されてバケモノ界のシーンがすくなるなる。だから8年間かけて(腕っ節以外に)身につけたものがあまり描写されず、思春期や父親周りの不安定さがフォーカスされていってしまう。九太の成長は物語の最後の最後に持ってくる必要があるのはわかっている。でも8年も経ったんだから自主的な強さの理解をお出ししないと漫然と表面だけ模倣していたことになってしまう。それも家庭内で父の真似をする子が似てきたっていうつっまんない閉じた話になっちゃう。
同じく家族を失って別の家庭に入り込む「三月のライオン」では主人公は明確に「将棋が好き」と嘘をつき、契約をして将棋で強くなり続ける代償を払ってきた。そんな主人公も将棋と向き合い続けてやっぱり将棋が好きで自分の意思で将棋の世界に居ることを選択する。成長には同じことをするでも「そうせざるを得なかった」という消極的選択から「それでもしたい」と一歩進む必要がある。
九太にそういった前進要素がないのは必然だ。だって最後は熊を「胸の中の剣」にする必要があるから。上手な二人の父子なら8年の中で教えることができただろうけどお互い不器用な二人ではそれができなかったんだろう。感動のラストのために。九太は親近感がわく普通の青年に成長した。心は普通程度にしかならなかった。武芸を通して技と体は鍛えられたが心の強さは(幼少期の気の強さの引きつぎはあるが)あまり感じなかった。物語の最後には九太は剣を置くことが語られている。胸の中の剣を手に入れて現実の剣を置くのは修めた感がある。最強の剣士が無手となりにゃむにゃむするかのように剣を置くなら悟り・理解を経てするが映えるというもの。でも九太はそんなに到達点に達してないし人間的にも彼女や熊の支えがあってようやくここからって印象の方が強い。そんな彼が剣を置いたってただバケモノ界から人間界に戻ったって記号でしかなかった。
センスが良くていい旅もさせてもらっていい教師も反面教師も居るなかで8年過ごして出来上がったのがただの思春期の不安定な青年って…。すこしも「強さとは」が染み入ってないのが残念なキャラだった。
なんなら熊とそれを見つける物語でもよかったけれど、最後は信頼・絆一辺倒で「父と子」をやっちゃったね。
尺不足…かなあと。もっとバケモノ界やアクションや九太の成長を描いて欲しかった気持ちがとても強い。そして何のせいで尺不足だというと人間界パートになっちゃう。結局、不人気の人間界パート不要論に収束する。ヒロインの楓は細田ヒロインの中でもとても好きなキャラなのだが…。
そんな感じで当時細田にはガッカリしたわけだけど宣伝だけみるとそばかす姫はそこそこドハデで楽しめそうな映画っぽいんだよね。受け流したとは言ってもミライのダメージもそこそこあってまだ見る気が起きないんだけど、評判はいいみたいだし。(変わらない悪い点もあるみたいだけど)
脚本雇えと一言で談じると楽だけどこうやって書いてみて自分がオタクすぎる気もする。ポストジブリなファミリー向けならちょっとクセがあるけどこんなもんなのかな。これが細田監督の味だとも思うから今後の作品も賛否が大量に出つつも売れて行くんだろうね。
それは別段人間は耳を殴られると死ぬとかいうことではなく(その意味だとこめかみのほうが危ない)、昔から人体の急所一覧とか
実戦において狙うべき部位とかに特に理由とか説明されないままひっそりと載っているのを皆よくわからないまま参照しているというのが実情のようである。
思うにこれは「耳をつかむ投げ技が手軽」とか「頭蓋骨の形状の関係で耳から細い刃物を突っ込むと脳に届きやすい」とか「鼓膜はカンタンに破れる割に武芸者は結構聴覚を頼るので」とか
言葉にするとまあまあエグいので濁されるタイプのあれこれが複数あって濁されたまま独り歩きしているんじゃねえのかななどといったところであるが、
そう、鼓膜を破られる夢を見たんである。ついさっき。
俺はなんか男性と屋内で喋っていた。俺とその男性は知人以上親友未満くらいの関係であると認識していたが、起きた今考えると知らない人である。誰だお前
話題は格闘技のなんかであった。選手がというよりこういう技があってねという技法についての話題であった。そして何がどうなってか、ちょっとそれやってみてよみたいな話になった。
俺とそいつは一定の距離を取って向かい合った。と言っても果たし合いの空気ではない。グローブも防具もない。ゆるい感じであった。
そしてそいつは技を繰り出す……前に、あ、ちょっと待ってと離れていった。俺は待った。
すると突然俺は左耳に衝撃を食らって吹き飛ばされた。耳の穴のところに猛烈な張り手を貰ったような感覚であったが、眼前には誰も居なかった。
人間良いパンチを貰った瞬間は時間の流れがゆっくりに感じたりするが、この不意打ちも吹き飛んでいる時間がやけに長く感じた。
倒れ込んだ姿勢から立ち上がって見やると、そこにあった吊り下げ照明の電球が爆裂していた。起きた今思い返すとこの瞬間から部屋の間取りが変わっていた。
俺は殴られたのではなく爆発の衝撃波を食らったのだと理解した。身体に裂傷等は無かったが、左耳が聞こえなくなっていた。
よく夢の中では痛みを感じないなどと言うが、たしかに指先を刃物で切ったり、皮膚の浅いところをつねったりする痛みは夢の中だと感じなくなるものである。
しかし触覚のある夢の中では身体に伝わる衝撃は感じるし、このときの俺は左の首筋の筋肉を痛めたのを感じていた。
俺の意識からは喋っていた男のことは消えて、頭の中は失った鼓膜のことと、病院を受診するかなと言う算段を考える方にシフトしていた。具体的な病院の名前を思い浮かべようとした辺りで目が覚めた。
夢の中のことなので書き出すとディティールのツッコミどころは盛り沢山なのだが、とりあえず俺は過去殴打でも爆発でも鼓膜を失った経験はないということは述べておきたい。
一般に夢は過去の記憶の編纂整理であるとか、無意識に秘めた欲望がとか色々あるけれども、そういう意味では俺は割合わかりやすい夢を見る質であるはずであった。
焦りや懸念事項がある場合には追いかけられる夢を見るし、ストレスがかかっていると隠し事がバレそうになる夢を見たり、等々。
そういうセルフ夢診断のノリで行くと今日の夢は思い当たるフシがない。寝違えたり筋を痛めたりもしてない。(殴られてはないけれど)俺はなぜ殴られた…?
仕事の関係で、しばらく仙台に来ている。会社の手配したホテルに滞在しているのだが、出張先とホテルの位置関係上、どうしても国分町という仙台における歌舞伎町のような繁華街を通らざるを得ない。このご時世あまりそういった場所へ近づきたくないということもあり必ずしも快く思っていなかたのだが、足早にホテルへ帰ろうとする私に声をかけてくる有象無象のキャッチのなかで、ひとりだけ異彩を放っている男がいることにある日気がついた。
だいたいキャッチというものは「キャバクラいかがっすか」「さ、居酒屋の、ご利用は」「お店お探しですか」の3パターンしかボイスの収録がされていないものと思っていたが、その男だけはそれらの聞き馴染んだセリフが一切なく、あまりに独特の語彙、それも妙にかっこいいコピーライティングのような文句でキャッチ行為を行っているのである。この数週間ほぼ毎日のように彼の慧句を聞いてきた中で、とくに印象に残っているものを数点ご紹介したい。
私が彼に着目することになったきっかけである、このキラーフレーズ。いつものように一顧だにすることなくスッ…とかわし、数歩経ってから、え…戦後最大?と思わず振り返ってしまった名作である。彼の基本的な戦略として「振り向かせたら勝ち」だと思っている部分があるようで、このあとうっかり振り返ってしまった私に、彼は雑踏の中で恋人でも見つけたかのように輝かしい笑顔を振りまきながら近づき、延々システムをご説明されたのだった。その口上もまったく落語でも一席聞いているかのように見事な、流れるような心地よさで、この男は只者じゃない。そう思わせる風格に満ちていた。
一日中ひどく雪の降った日だった。さすがにこういう時は休むなり軒下にいるなりしているのかと思いきや、彼は降り積もる雪とコーディネートしたかのような白のギラついたモンクレールのダウンを身に纏い、いつもの場所で元気に客引きを行っていた。その気候を一切感じさせない通常営業ぶりと遠目からも明らかにチャラい服装に半分感心、半分呆れながら歩いていると、素早く私の左横に取り入ってこのセリフ。それこそ”戦後最大のサービス”のような分かりやすいパワーワードで攻めてくる日もあるかと思えば、またある日は渋めの江戸っ子調である。あるいは、『北風小僧の寒太郎』のサンプリングも意識しているのだろうか。こういう思いがけない引き出しの多さ、力で押すだけではない抑揚の効いた客引きテクニックこそ、まさに彼の真骨頂だと思わず感じ入ってしまった。
スタジオジブリ監督作品『キャバクラ』に糸井重里が題するキャッチコピーというような、短い語彙の中にも深い奥行きを感じる名作。ドリルを買いにきた客が求めているのはドリルではなく穴だ…というマーケティング論の有名な言葉があるが、それに近い哲学をさえ感じる。彼のキャッチの特徴として、ほとんど「キャバクラ」という語句を使わず、にもかかわらずしっかりキャバクラのキャッチとして成立しているという点があり、これが他のキャッチとは一線を画しているポイントとなっている。かと思えば「キャバクラを超えたキャバクラを、見たくないですか?」などとキャバクラを前面に出して誘ってくる日もあり、型を離れた型を自分の中に確立していながらも、時と場合によってはそれにすら囚われない…という、ある種の武芸の達人のような趣すら感じられる。じつに天晴れである。
もちろん彼がまともな店に連れて行ってくれる確率は非常に低いだろうし、そもそも条例違反の行為であるためお世辞にも褒めることはできないのだが、どんな仕事であっても大物というものはいる、そして注目に値するイノベーティブな工夫がある、ということは何とも面映いものだなと感じている。たかがキャッチ、されどキャッチ。やがてああいう男が時代を作ってゆくのだろうと考えながら、私は今日も帰り道を楽しみにしているのであった。
キングっぽい被過大評価マンて、考えてみると、歴史上の人物には結構いそうな気がする。でも、その中でも一番「実態あるか不明なのに(当時も今も)過大評価されてそうな人」と言えば、少なくとも日本史では織田信長さんに尽きるんじゃないだろうか?
部下が有能ぞろいだから余計に思うのかもしれないけど、秀吉とか家康と比較しても、信長本人に戦略的才能とか壮絶な政治力とか、まして武芸の才能とかカリスマ的統治能力とか、別にそれほどなかったのでは? 桶狭間なんてぶっちゃけ運で勝ったって最近言われてるようだし、他では戦でそれほど成果上げてないし、宗教人の怒り買いまくって反乱されて対応しきれないから逆ギレで虐殺して一層ひどい目に遭う無能だし、無警戒にヨーロッパ人に教会作らせまくったせいで国を亡ぼしかけたし、人望ないから人に裏切られてしまいには寝首掻かれて死ぬし。なのに、戦国の梟雄として、日本の項羽か何かみたいな扱い受けて今でも妙に人気が高い。まあ、銃に目を付けるとか楽市楽座で経済回すとか海外との交流に積極的とか権威に捉われず明確に統一目指したとか、それなりに頭柔らかかったのがすごいのかもしれないけど、それってむしろ「何の才能も無い無職だけど田舎守護の息子に転生したので現代知識で内政チートしてみた」感しかなくて、信長本人は割とキングだったんじゃね?って思いを深めるんだよね。本人的にはいつそれがバレるかドキドキしてたせいで、あんなに短気な性格になって人を寄せ付けなかったのかも、とか想像してみたら、信長=キング説はちょっと面白い。
以下雑語りです
https://bunshun.jp/articles/-/45917
一市民として悲憤慷慨を隠し得ない
駅周り30分ぐらい適当に歩いてあとはWikipediaの雑引用、かの文春の記者がやることですか?
だいたい駅の話から市の話に自動的にすり替わってるのおかしいだろ お前がやってること、山手線の内側を"ナゾの激坂地域"とか書いて結局目黒駅周辺の話しかしないのと一緒 わかる?
それに自由民権運動の話するならちゃんと自由民権資料館に行って話聞いて来いよ
※自由民権資料館 鶴川駅から徒歩25分。民権運動をテーマにした資料館はここと高知県の自由民権記念館だけ。和風な造りの本館は、民権志士が残した武芸道場を保護・改装したものだ。
文章を順を追って殴りますが、まずね、境川の話が「都県境」で終わるのがもったいなさすぎるんですが…
後々神奈川ネタ出すなら、かつて武蔵国と相模国の国境線が境川だったってところまでやるべきやろ
あとは
(・中世では現多摩市との境界が武相国境であるような認識があったが、太閤検地の際に完璧に河川が国境線になった)
(・検地以前は境でなかったので高座川と呼ばれていた)
までの情報があった方が良かった
・小田急線はもともと南町田や長津田付近を通る予定だったが、地主がゴネて町田を通った
・「デッキを抜けたら地下」な小田急町田の独特の駅構造は周辺の地形に関係している 境川の流域が狭く、川に沿って坂線がある
・"ただ絹の道があったから"発展したと思うな あれは浜街道(八王子と横浜をつなぐ道)沿道でありながら鎌倉街道沿道なので、東京湾に進む人の流れと相模湾・埼玉から来た人の流れが激突することになり、一躍巨大市場になったんだ 相模湾で捕れた魚を乾かしながら町田まで歩いた商人もいて、駅前に乾物屋が多いことのルーツはここにあるらしい(富沢商店ももともと乾物屋)
・絹の道の由来について語るなら、"ただの道を絹の道にした"鑓水商人の話も欲しいし、どうでもいいですが町田市には槍溝(やりみぞ)という希少苗字が残っています
あと民権運動や水源問題は町田が神奈川になった理由の本質じゃないだろ
多摩川・荒川流域じゃあないんだよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
町田市以北の多摩地域のほぼ全域は多摩川流域(八王子、青梅、三鷹等)か荒川流域(東村山、清瀬、武蔵野等)に属します ところが町田市が擁する水系は境川・鶴見川の2系で、多摩川水系の河川はほとんど通っていません おかしいだろ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!流域ごとに郡や地域を区切るなら町田は横浜市や相模原市の一部になって然るべきだろ
多摩川欲しさに東京府が三多摩を合併したのは事実ですが、併合してもなんもいいことない現町田市の地域1町4村まで神奈川県を追い出されたのは"多摩郡に属していたから"ですよ
②武蔵国である現横浜・川崎両市がなんか都心と分離され、神奈川県の枢軸になってしまった
インターネットは③を一生擦ってるってことにはよ気付け
※解説
①https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12203290882 ヤバイなこの回答者、郡史ガチ勢?これを見るに武蔵府中との結びつきって相当強かったんだな でも鶴川以東には国府の権力が及ばなかったのもなんか不思議ー
②https://togetter.com/li/1285652 と https://www.customs.go.jp/yokohama/history/hatten.pdf 神奈川県の成立理由はマジでごちゃごちゃしていて最悪だが、"なんかメッチャ白人(しろんちゅ)がいる嫌な場所"と"俺らの住まい"とをひっぺがしたかったという趣旨
中世のころ、武蔵府中から丘陵の壁を超えて「多摩」の使命を言いつけられたことに始まり→時は流れて近代、なんか横須賀にゲェジンが来たせいで江戸っぽくないところを別県にせざるを得なくなり→水源問題で都心と神奈川が大モメかました挙句過激派活動家が大暴れして「多摩(笑)」一帯が神奈川県を追い出された
もし武蔵国府が調布のあたりにできて鎌倉街道が東にずれていたら、もしペリーが江の島に来航していたら、町田はこんな「仲間外れの市」にはならず、"茅崎県"県央の凡庸な自治体になっていたかもしれないし、はたまた鶴見市や都筑市という巨大な自治体に包摂されていたかもしれないのだ
そしてその世界線でも、ろくでもないライターが「"ナゾの途中駅"本町田駅」とか書いちゃうだろうが、 でもその記事はここの日本ほど多くのpvを稼がず、トレンドにも載らずひっそりと埋もれていくんじゃなかろうか
だから答えるよ
未だに何もわからない
飽きたんだよ
お前らが同じ話ばっかりして肝心な要点を見過ごしてるから不快なんだってば
それにステレオタイプで地域を語るのは地域差別となんも変わらんだろ
(前に町田関連のネタツイを自称リベラルに共感RTされたことがあったけどすごい嫌だった いかなる差別にも屈しないなら町田は東京都って言えよ、民主政治が大好きなら民権運動によって東京都に移管された街に最大限の敬意を払ってくれよと思った)
本当に町田が好きなんだったら、インターネット雑語りをやめて、今日から町田にちゃんと向き合え
ネタで町田を神奈川扱いするならテコンダー朴みたいに歴史的経緯を全部踏まえてやれ 憶測で物事を語るな
あと神奈川県に接する駅といえば町田駅だけじゃなくてつくし野駅も鶴川駅もそうです
にしてもこのブロガァーみてぇーなライタァーは駅前で何を見たんだ?日本初の車いす用バスを見たか?町田街道の向こうに佇む広大な谷戸(注)を見たか?谷底の美術館の収蔵品を調べたか?ジョルナのエレベーターのボタンを押したのか?何もしてない
これをポジティブにとらえると、読者にもっと町田の魅力を探させる余地を与えてくれたってことになる
だからどうか、ここから先はスマホの前のみんなに、町田駅や"町田市"を回ってほしい
限界逆張り地理オタク御用達・源流と坂と県境のテーマパークとして、町田市は今でも多くの廃人を寄せ付けている
町田市は本当にすごい 今や小平にも及ぶブルーベリーの産地だし、南町田にはケンタッキー食べ放題店舗があるし、堂之坂公苑は誰も来ないのに水琴窟があるし、玉学には赤瀬川原平の家も残ってるし、白洲次郎の別荘で食べるオムライスはマジでうまいし、つくし野の急坂はどこまでも続くし、小野路宿里山交流館は江戸末期の旅館を改装した建物だから木造で落ち着くし、野津田の山はクソでかいし、相原にはおいしい卵屋(カトウファーム)とアイス屋(東京みるく工房ピュア)があるし、本町田には北条時行の戦った合戦場があるし、リス園の近くに井の頭公園みたいなでかい池があって夏になると隣のちっこい池でメッチャ蓮咲くし、多摩境には都内唯一のストーンサークルがあるし、大泉寺は谷戸の底にすっぽり収まった寺で春になると桜が参道に咲いてめちゃ綺麗だし、恩田川の桜はもっと綺麗で目黒川より混んでないからいい写真撮り放題だし、木曽町の地名の由来は一般通過木曽義仲
とにかく春先にあの戸場谷戸を尾根の上から見渡した時の、菜の花畑や一本立ちの桜や小さな白いトラック、別の尾根が続いている光景は言葉を失うものがあったから、一緒に行こう。
お前は町田を待ってないかもしれないけど、町田はお前をいつまでも待ってるから。
【あとがき】
https://twitter.com/pededeck/status/1246422466135617537 ←これはインターネットで見つけたわかり手
注:谷戸は谷の一種。底が平たい。上から見るとUの字になっている。海進によって土砂が堆積し、このような平底になったようだ。あきる野の横沢入や稲城の上谷戸は有名。
追記 こんなにたくさんの人々のブクマと注目を集めることができて光栄です。卒論も町田のことで書こうと思っていたので、励みになりました。町田地方史研究会のおじちゃんたちに比べたら、自分は町田について本当にニワカで、話せることも少ないけれど、精進しようと思います。
いま住んでいる部屋は、トイレが極端に狭い。便器と壁の間が30cmしか離れておらず、座っただけで頭が壁につく。普通に立ち上がろうとすると顔をこすりつけてしまうので、体をひねりながら立たねばならない。こんな環境で落ち着いて用を足せるはずもなく、おかげで毎日便秘気味である。
私は無職なので、不動産屋がまともな物件を紹介してくれない。ままよと契約を申し込んでも、保証会社の審査で落とされる。諸事情のため引っ越さざるをえなくなったとき、かろうじて見つけたのがこの物件だった。ワンルームにしては居室が広く、10畳もあったが、6畳間の物件と同程度の家賃だった。暮らし始めてからその理由が分かった。
職がないことがそんなに悪いのか。金がないことがそんなに悪いのか。金がないだけで、なぜこんな思いをしなければならないのか。
そもそも、人間が生きるのに金は必要ない。衣食住があれば十分で、金はそれを得るための手段にすぎない。それなのに、誰もが金を有難がる。金なしでは生きて行けないと思い込んでいる。なぜそんな思い込みが生まれるのか。
私は理由を知っている。それは、政府が税金を取るからである。金を持っている人は政府に税を納めることができる。ゆえに、金は正義である。
たとえば、江戸時代の農民が貨幣にとらわれない生活をしていたように見えるのは、政府が米を税として徴収していたからである。この場合、金を持っていなくても税を治めることができる。ゆえに、金は正義ではない。
では米が正義かというと、政府は他の形でも税を徴収していた。むかし王朝時代には租庸調という三種の税があった。租は穀物、庸は労役、調は特産品である。百姓は米を納め、漁師は海老やアワビを納め、武芸に秀でた者はその技を納める。それぞれの職能に応じて、その生産物を納めさせた。このような制度によって、仕事の多様性が尊重されていたと言える。すべての労働の成果を貨幣という単一の基準で量るのではなく、それぞれの仕事に応じて、その成果物を評価した。これによって、仕事の多様性のみならず、人間の生の多様性が肯定されていたのである。
貨幣は、あらゆる人間の生活を塗りつぶして単一の色に染め上げてしまう。どんな仕事の成果も貨幣によって量られ、その固有の意味は失われる。
その弊害はすでに社会の至る所に現れている。貨幣に基づく税制は、古今未曽有の悪政である。我々は税制の根本的な転換を求めねばならない。