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はてなキーワード: 大発見とは

2021-03-22

おまたせ

多分それは一種精神病ででもあったのでしょう。郷田三郎ごうださぶろうは、どんな遊びも、どんな職業も、何をやって見ても、一向この世が面白くないのでした。

 学校を出てから――その学校とても一年に何日と勘定の出来る程しか出席しなかったのですが――彼に出来相そうな職業は、片端かたっぱしからやって見たのです、けれど、これこそ一生を捧げるに足ると思う様なものには、まだ一つも出でっくわさないのです。恐らく、彼を満足させる職業などは、この世に存在しないのかも知れません。長くて一年、短いのは一月位で、彼は職業から職業へと転々しました。そして、とうとう見切りをつけたのか、今では、もう次の職業を探すでもなく、文字通り何もしないで、面白くもない其日そのひ其日を送っているのでした。

 遊びの方もその通りでした。かるた、球突き、テニス水泳山登り、碁、将棊しょうぎ、さては各種の賭博とばくに至るまで、迚とてもここには書き切れない程の、遊戯という遊戯は一つ残らず、娯楽百科全書という様な本まで買込んで、探し廻っては試みたのですが、職業同様、これはというものもなく、彼はいつも失望させられていました。だが、この世には「女」と「酒」という、どんな人間だって一生涯飽きることのない、すばらしい快楽があるではないか諸君はきっとそう仰有おっしゃるでしょうね。ところが、我が郷田三郎は、不思議とその二つのものに対しても興味を感じないのでした。酒は体質に適しないのか、一滴も飲めませんし、女の方は、無論むろんその慾望がない訳ではなく、相当遊びなどもやっているのですが、そうかと云いって、これあるが為ために生いき甲斐がいを感じるという程には、どうしても思えないのです。

「こんな面白くない世の中に生き長ながらえているよりは、いっそ死んで了しまった方がましだ」

 ともすれば、彼はそんなことを考えました。併しかし、そんな彼にも、生命いのちを惜おしむ本能丈だけは具そなわっていたと見えて、二十五歳の今日が日まで「死ぬ死ぬ」といいながら、つい死切れずに生き長えているのでした。

 親許おやもとから月々いくらかの仕送りを受けることの出来る彼は、職業を離れても別に生活には困らないのです。一つはそういう安心が、彼をこんな気まま者にして了ったのかも知れません。そこで彼は、その仕送り金によって、せめていくらかでも面白く暮すことに腐心しました。例えば、職業遊戯と同じ様に、頻繁ひんぱんに宿所を換えて歩くことなどもその一つでした。彼は、少し大げさに云えば、東京中の下宿屋を、一軒残らず知っていました。一月か半月もいると、すぐに次の別の下宿屋へと住みかえるのです。無論その間には、放浪者の様に旅をして歩いたこともあります。或あるいは又、仙人の様に山奥へ引込んで見たこともあります。でも、都会にすみなれた彼には、迚も淋しい田舎に長くいることは出来ません。一寸ちょっと旅に出たかと思うと、いつのまにか、都会の燈火に、雑沓ざっとうに、引寄せられる様に、彼は東京へ帰ってくるのでした。そして、その度毎たびごとに下宿を換えたことは云うまでもありません。

 さて、彼が今度移ったうちは、東栄館とうえいかんという、新築したばかりの、まだ壁に湿り気のある様な、まっさら下宿屋でしたが、ここで、彼は一つのすばらしい楽たのしみを発見しました。そして、この一篇の物語は、その彼の新発見に関聯かんれんしたある殺人事件主題とするのです。が、お話をその方に進める前に、主人公郷田三郎が、素人探偵明智小五郎あけちこごろう――この名前は多分御承知の事と思います。――と知り合いになり、今まで一向気附かないでいた「犯罪」という事柄に、新しい興味を覚える様になったいきさつについて、少しばかりお話して置かねばなりません。

 二人が知り合いになったきっかけは、あるカフェで彼等が偶然一緒になり、その時同伴していた三郎の友達が、明智を知っていて紹介したことからでしたが、三郎はその時、明智の聰明そうめいらしい容貌や、話しっぷりや、身のこなしなどに、すっかり引きつけられて了って、それから屡々しばしば彼を訪ねる様になり、又時には彼の方からも三郎の下宿へ遊びにやって来る様な仲になったのです。明智の方では、ひょっとしたら、三郎の病的な性格に――一種研究材料として――興味を見出していたのかも知れませんが、三郎は明智から様々の魅力に富んだ犯罪談を聞くことを、他意なく喜んでいるのでした。

 同僚を殺害して、その死体実験室の竈かまどで灰にして了おうとした、ウェブスター博士の話、数ヶ国の言葉通暁つうぎょうし、言語学上の大発見までしたユージン・エアラム殺人罪所謂いわゆる保険魔で、同時に優れた文芸批評家であったウエーンライトの話、小児しょうにの臀肉でんにくを煎せんじて義父の癩病を治そうとした野口男三郎の話、さては、数多あまたの女を女房にしては殺して行った所謂ブルーベヤドのランドルーだとか、アームストロングなどの残虐な犯罪談、それらが退屈し切っていた郷田三郎をどんなに喜ばせたことでしょう。明智の雄弁な話しぶりを聞いていますと、それらの犯罪物語は、まるで、けばけばしい極彩色ごくさいしきの絵巻物の様に、底知れぬ魅力を以もって、三郎の眼前にまざまざと浮んで来るのでした。

 明智を知ってから二三ヶ月というものは、三郎は殆どこの世の味気なさを忘れたかと見えました。彼は様々の犯罪に関する書物を買込んで、毎日毎日それに読み耽ふけるのでした。それらの書物の中には、ポオだとかホフマンだとか、或はガボリオだとかボアゴベだとか、その外ほか色々な探偵小説なども混っていました。「アア世の中には、まだこんな面白いことがあったのか」彼は書物の最終の頁ページをとじる度毎に、ホッとため息をつきながら、そう思うのでした。そして、出来ることなら、自分も、それらの犯罪物語主人公の様な、目ざましい、けばけばしい遊戯(?)をやって見たいものだと、大それたことまで考える様になりました。

 併し、いかな三郎も、流石さすがに法律上の罪人になること丈けは、どう考えてもいやでした。彼はまだ、両親や、兄弟や、親戚知己ちきなどの悲歎や侮辱ぶじょくを無視してまで、楽しみに耽る勇気はないのです。それらの書物によりますと、どの様な巧妙な犯罪でも、必ずどっかに破綻はたんがあって、それが犯罪発覚のいと口になり、一生涯警察の眼を逃れているということは、極ごく僅わずかの例外を除いては、全く不可能の様に見えます。彼にはただそれが恐しいのでした。彼の不幸は、世の中の凡すべての事柄に興味を感じないで、事もあろうに「犯罪」に丈け、いい知れぬ魅力を覚えることでした。そして、一層の不幸は、発覚を恐れる為にその「犯罪」を行い得ないということでした。

 そこで彼は、一通り手に入る丈けの書物を読んで了うと、今度は、「犯罪」の真似事を始めました。真似事ですから無論処罰を恐れる必要はないのです。それは例えばこんなことを。

 彼はもうとっくに飽き果てていた、あの浅草あさくさに再び興味を覚える様になりました。おもちゃ箱をぶちまけて、その上から色々のあくどい絵具をたらしかけた様な浅草遊園地は、犯罪嗜好者しこうしゃに取っては、こよなき舞台でした。彼はそこへ出かけては、活動小屋活動小屋の間の、人一人漸ようやく通れる位の細い暗い路地や、共同便所の背後うしろなどにある、浅草にもこんな余裕があるのかと思われる様な、妙にガランとした空地を好んでさ迷いました。そして、犯罪者が同類通信する為ででもあるかの様に、白墨はくぼくでその辺の壁に矢の印を書いて廻まわったり、金持らしい通行人を見かけると、自分が掏摸すりにでもなった気で、どこまでもどこまでもそのあとを尾行して見たり、妙な暗号文を書いた紙切れを――それにはいつも恐ろしい殺人に関する事柄などを認したためてあるのです――公園のベンチの板の間へ挟んで置いて、樹蔭こかげに隠れて、誰かがそれを発見するのを待構えていたり、其外そのほかこれに類した様々の遊戯を行っては、独り楽むのでした。

 彼は又、屡々変装をして、町から町をさ迷い歩きました。労働者になって見たり、乞食になって見たり、学生になって見たり、色々の変装をした中でも、女装をすることが、最も彼の病癖を喜ばせました。その為には、彼は着物時計などを売り飛ばして金を作り、高価な鬘かつらだとか、女の古着だとかを買い集め、長い時間かかって好みの女姿になりますと、頭の上からすっぽりと外套がいとうを被って、夜更よふけに下宿屋の入口を出るのです。そして、適当場所外套を脱ぐと、或時あるときは淋しい公園をぶらついて見たり、或時はもうはねる時分の活動小屋へ這入はいって、態わざと男子席の方へまぎれ込んで見たり、はては、きわどい悪戯いたずらまでやって見るのです。そして、服装による一種錯覚から、さも自分が妲妃のお百だとか蟒蛇お由よしだとかいう毒婦にでもなった気持で、色々な男達を自由自在に飜弄ほんろうする有様を想像しては、喜んでいるのです。

 併し、これらの「犯罪」の真似事は、ある程度まで彼の慾望を満足させては呉れましたけれど、そして、時には一寸面白事件惹起ひきおこしなぞして、その当座は十分慰めにもなったのですけれど、真似事はどこまでも真似事で、危険がないだけに――「犯罪」の魅力は見方によってはその危険にこそあるのですから――興味も乏しく、そういつまでも彼を有頂天にさせる力はありませんでした。ものの三ヶ月もたちますと、いつとなく彼はこの楽みから遠ざかる様になりました。そして、あんなにもひきつけられていた明智との交際も、段々とうとうとしくなって行きました。

2021-03-01

固いペットボトルキャップをいつもより楽に開ける方法

人生40年生きてきて、地味だけど大発見をした。

もし目の前にペットボトルがあったら実際に試してみてほしい。

そのペットボトルキャップが固いと想定して掴んでみてくれ。

右利きの人は、左手ペットボトル右手の親指と人差指でキャップを掴んでいるはずだ。

このとき右手の小指はペットボトル側にあるだろうか。それとも、ペットボトルとは反対の空中にあるだろうか。

よくわからないという人は、開けやす方法を直接説明する。

まず、ペットボトルを立てて置いてほしい。

そうしたら、右手親指が下を向くように手首をひねる。(親指を伸ばせばちょうどブーイングのポーズになるような感じ)

そのままの向きでペットボトルキャップをつかみ、あとは左手本体を押さえてぐいっと開けるだけだ。

ちなみに左手キャップを開ける人には逆効果になってしまう。あくまで、右手キャップを開ける人に限る。

最近飲んでいる炭酸飲料ペットボトルキャップが異様に固くて、どうにかならないものかと考えていたとき発見した。

そんなことで?と思うかも知れないが、理由を聞けばすぐに納得できるはずだ。

ペットボトルキャップは、向かって反時計回りにひねる必要がある。

もしペットボトルを置いた状態で、右手の親指が上になるような手首の角度でキャップを握った場合右手反時計回りにひねろうとすると親指の関節は手から離れるような力がかかることになる。

関節は引っ張られる方向の力には弱いので、力が十分に伝わらないどころか、関節に大きな負担がかかることになってしまう。

しかし、先述の通り、右手の親指が下に向いている状態ペットボトルキャップを掴むと、親指の関節には手に押し込まれるような力がかかることになる。

そのため、親指の握力がしっかりと伝わり、キャップが楽に開けられるようになるというものだ。

左手場合は親指が上になるような角度で握ったほうが、反時計回りにひねったときに力がかかりやすくなるので、手首を返してしまうと逆効果になってしまう。

最近飲んでいる炭酸飲料キャップがやたらと固くて、腱鞘炎みたくなってしまたことでどうしたものかと考えていたところ発見した。

これはつまりペットボトルキャップを開ける動作に限らず、おおよそ「ひねる」という動作において、親指方向に力がかかるようにすることで最大限の力を伝えることができるということでもあります

言われてみれば柔道の授業でそんな話を聞いたような気もするけど、まさか日常レベルで役に立つ知識だとは思ってもいなかった。

ひねるときは親指方向に力をかける。

老化によって色々な力が失われている今後において、大事知識として覚えておきたいと思います

2021-02-24

昨日、家のバルコニー作業していて突然、あっ!バルキリーってバルコニーのもじりだ!絶対!、と大発見して興奮したのだけれど、すぐにいや違うだろと冷静な脳みその部位が北欧神話云々言い始めたから、つまんねーやつと思った。

2021-01-21

ホットクック運用状況(初心者編)

(下にちょっと追記した)

 

独身一人暮らし30代女。

 

1年ほど迷って、去年末ホットクック(1.6L)を購入。

以来、一ヶ月ほどほぼ毎日使っている。

 

きのこ

 スーパーで、キノコを4種類ほど買ってくる。

 レギュラーメンバーは、エリンギしめじエノキ・舞茸。

 一口大に切ったり裂いたりして鍋に入れる。

 総量の0.8%の塩を入れる。

 オリーブオイルをひと回し。

 メニュー:キノコ佃煮 で30分。美味い。

 調理中もキノコの良い匂いがしてテンション上がる。

 出来上がったらジップロックコンテナで保存。

 勝間和代レシピの2次紹介記事みたいなのを見て実践

 今までキノコほとんど食べなかったのに、美味しすぎて常備菜となった。

 

サラダチキン

 言わずもがな。美味いやつ。

 鶏胸肉の重さに対して塩1%+砂糖小さじ2にしてる。

 甘いは美味い。

 面倒なので漬け込みとかはせずに、アイラップに肉と塩と砂糖オリーブオイル10ml入れて、そのままホットクックへ。

 夜ご飯食べ終わったあと仕込んで、調理時間1時間10分。

 粗熱取れたら冷蔵庫に入れて、翌日夜に切ってジップロックコンテナへ。常備菜とする。

 キノコジップロックコンテナを半分食べて、空いた部分にサラダチキンを入れてお弁当に持って行ったりするようになった。

 バルサミコ酢を加えるとアクセントに。

 これからハーブ追加などを試したい。

 あ、卵を一緒に入れておくと温泉卵出来るよ。

 

豚の角煮

 一回作った。テンション上がったけど、胸焼けが優ったので、次回は少し先になりそう。

甘酒

 米麹と同じ量の水を入れて6時間休日に作って、平日の朝ごはん代わりとかにしてる。

 甘いは美味い。

 甘すぎるので割って飲むのがちょうど良いくらい。

あんこ(改)

 米麹甘酒の甘さをあんこに応用できるのでは?

 これはもしや大発見なのでは!

 と思いついて調べたら既に「発酵あずき」という名でこの世に存在していた。

 つぶあんレシピ砂糖入れる前まで進める。

 60℃以下まで冷まして、米麹を入れてメニュー:甘酒で6時間

 甘過ぎないあんこが出来上がる。最後に煮詰めるモード温度を上げて発酵を止めておくのがいいと思う。

 計9時間ほどかかるけども、大量のあんこテンション上がるのでまた作る。

パスタ

 最近ここらのスーパーで見かける、冷凍のお惣菜おつまみ(フライパン調理するような、ガーリックシュリンプだとか牡蠣アヒージョだとか)、

 凍ったまま鍋にin。パスタ、半分に折って鍋にin。

 オリーブオイル大さじ2くらい。水100mlくらい。

 20分でシーフードパスタの出来上がり。

 味が足りなければ塩を足す。

 いっつも、スープパスタみたいになっちゃうので水の量は検討余地がある。

 パスタ糖質カットのを使って、罪悪感を軽減させている。

 

まとめ

 今まで、冬場は鍋かカレーを作って数日運用、夏はスーパーのお惣菜で済ませていたのだけれど、ホットクックのお陰で食生活がガラッと変わりました。

 健康的な食生活が続いてるのに、全然痩せないのはなんで。食べ過ぎかな。。

 1.6Lがちょうど良くて、一回で食べ切れるか、少し保存出来るくらいの量を作れるのがとても良いと思う。

 分量を測ることと温度管理意識し始めたのも良いポイント。当たり前だけど味が安定する。

 勝間和代が言ってるように、調味料がほぼ塩とオリーオイルになったので、ちょっとお高い塩とかに手を出すのもありかなと思ってる。

 天邪鬼なので、代表である無水カレーはまだ作ってない。

追記

色んな反応貰えて嬉しい。狙い通り(?)良さそうなレシピが集まってきてもっと嬉しい。

料理の話だとみんな優しいよね。

  

ブクマコメントにゆるい返信

牛丼良さそう!作る!

アクアパッツァ、美味しいとよく聞く。魚の調理ほとんどした事ないけれど、やってみようかな。

・無水カレーは今週末作る予定。

・肩ロースで角煮。こないだ安く売ってて買おうか迷ったのに〜

シャトルシェフレシピ流用可とは良いこと教えて貰った。検索範囲が広がるね。

・今のところ、2台は必要ないと思ってるけど、あんこ(改)作ってる間は、マックに行ったよ。

 

ちょっと失敗したレシピ

・鶏レバーの低温調理(65℃)とローストビーフ

 横着して一緒に調理したらローストビーフが硬くなってしまった。レシピブックは57℃と書いてあった。

 低温調理帯の8℃の違いは大きいらしい。

 鶏レバーは美味しかった。レバーそんなに好きじゃないのを忘れていたのを差し置いても。 

サツマイモ(まるごと)

 蒸し野菜20分だと加熱が足りず。

 もう一回20分掛けてちょうど良くなった。

 40分は長いかなぁ。次は蒸しじゃなくて茹での方向でやってみる。

2021-01-01

anond:20210101103545

政府が出すのはその通りだと思うが、どこに出すかの目利きが壊滅的。

予算に限りがあるので選択と集中をするのだけれど、目利きするやつがポンコツなので、すでにした成果をベース選択をしてしまう。

こうなると、昔一発当てた老害に金が集中してしまうことになり、どんどん衰退していく。老害はもう生み出せないからな。

次の大発明大発見投資すべきなのに、過去の実績ベースにしてるとそりゃダメだよね。

2020-12-09

模写・模倣贋作・習作・パロディ海賊版二次創作について

美術専門家でも著作権専門家でもありません。

ただ少しばかり知識を蓄えた二次創作愛好家です。

正直愚痴です。

どこのジャンルでもある程度母数がいれば往々にして発生するトレパク問題が身近で起きました。

しか公式絵の事実上トレス

厳密には計測の上描き写すタイプの模写のようですが、やり過ぎて線が重なるので実質トレスです。

言い分としては、行為自体トレスではなくあくまで模写なのだからセーフだ、とのことです。

というわけで私は今、私達が美術系の漫画アニメ漫画研究会などで当然のように触れて身に付けてきた知識や知恵を全く知らない二次創作者が少なからずいることに不安を感じています

なのでここで、そうした経験から学んだなぜ模写・模倣問題視されるのか、について吐き出そうと思います

ぶっちゃけ下手な模写なら問題無いんですけどね。

そこそこ上手いんですよ。

そこんとこ素直に褒められてると受け取って承認欲求満たして自己肯定感上げてとっととステップアップしてほしいです。

もし本当にただの無知なら。

まあここで言って本人に届くとは思ってませんが。



さて、本題に入ります

無名絵描きがいたとします。

無名絵描き練習(習作)としてとある有名画家作品の模写に取り組んでいました。

最初そっくり同じに写しとっていました(模写)が、ある時「この画家の描いたネコも見てみたい」と思うようになりました。

その有名画家イヌ派だったので、お手本はイヌの絵ばかりだったのです。

そうして無名絵描きは、有名画家作品模倣(いわゆる絵柄パク)しながらネコの絵を描いてみました(パロディ二次創作)。

それはまるで有名画家の描いたネコのように見えました。

無名絵描きは嬉しくなって、近所の人達に見せびらかしました。

「上手に描けたよ!」

無名絵描きを知る人々は、口々に褒め称えてくれます

「すごい!」「本物(有名画家の絵)みたい!」

そこへ通りがかった画商が「素晴らしい!その絵を買わせてくれないか?」と持ちかけました。

無名絵描きにとっては初めての実績です!

「絵が売れた!売れたぞ!」

無名絵描きは喜びました。

近所の人達もお祝いしてくれました。

画商は無名絵描きから買った絵を画廊に飾り、新聞社電話をかけました。

大発見だ!あの有名画家の描いたネコがあった!」

なんと無名絵描きの描いたネコの絵は、有名画家の絵と間違われてしまっていたのです!

無名絵描き無名ですから、画商は無名絵描き絵描きだということすら知りませんでした。

ですからたまたま出会ったそっくりな筆使いのネコの絵を、有名画家作品と疑いもしなかったのです。

とはいえもちろん画商も目利きです、並大抵の模倣では騙されるはずなどありません。

無名絵描きはそれほど完璧に有名画家模倣していたのです。

そうしてネコの絵は、有名画家の未発表作として多いに世間を沸かしました。

意図せぬ贋作海賊版)のできあがりです。

そういうことです。

から模写や模倣は習作と呼ばれ、公にするものではないとされているのです。

パロディ二次創作)が成立するのは、それがパロディであると受け取り手にとって明らかな時だけです。

絵柄が違えば一目でパロディであると示せます

商業的なパロディ作品場合は適宜許可取りや原案表記をしています

そこそこの年齢の二次創作愛好家は知っているでしょう、青いタヌキの二次創作が訴えられた事例を。

あれは決して二次創作を締め付けようだとか見せしめだとかのためだけに訴えられたのではありません。

それを本物、公式だと勘違いした一般人がいたから海賊版の扱いをせざるを得なかったのです。

海賊版とは、公式権利者)の商売邪魔になる商品のことです。

コピー品に限らず、著作権者に無許可で売買される、著作物を利用した製品は、全て海賊版です。

よく二次創作イラスト海賊版グッズに利用されるという被害が出ていますが、絵柄が公式とある程度異なっていれば、二次創作に関連する知識のない一般人にも容易に混同されることはありません。

逆に公式そっくりな絵柄だった場合ライセンス料の分安い当該商品は売れに売れてしまうかもしれません。

公式にとっては営業妨害どころじゃ済みませんね。

有名絵師だって同じです。

憧れた二次創作者がそっくりな絵柄で二次創作をしたとします。

二次創作者本人を知らない人がたまたまそれを見かけたとしましょう。

制作者の注意書きの及ばない無断転載を含みます無断転載もしてはいけないことですが、避けようがありません)

「有名絵師さんってご自身の手掛けた作品二次創作も描かれるんですね!」

絵師さん大慌てです。

特にゲームアニメなど集団で作る作品場合絵師さんにライセンスはほぼありません。

公式絵師非公式二次創作をする場合ほとんどのケースではまず公式許可を取る必要があります

そして多くの場合公式の目の届く範囲で、非公式と注意書きを添えた上で公開しています

この辺りは私は詳しくないので深掘りはしませんが、公式絵師非公式二次創作ファン公式同然に受け取ってしまい、トラブルになりかけたこともあります

公式絵師自身の関わる作品に関して、一般二次創作者以上に慎重を求められるのです。

公式絵師の絵柄を模倣するということは、その責を公式絵師に負わせるということにもなりかねません。

ところで、先だって二次創作漫画無断転載サイト運営者が二次創作から著作権侵害で訴えられ有罪判決となりましたが、ご存知でしょうか?

原作サイドではなく二次創作からの訴えですので、二次創作作品に関して二次創作者の著作権が認められたおそらく初めての判例です。

二次創作者の権利が認められた理由として

二次創作自身の絵柄であったこ

二次創作者の考えた公式ではあり得ないようなストーリーがあったこ

の二点が大きく挙げられます

専門家解説記事リンクを貼っておくので、詳しくはそちらを読んでください。

https://t.co/SXknUu2fRf


少し大袈裟なところもありますが、とにかく二次創作公式模倣はまずいってことがもっと浸透することを願ってやみません。

偶然絵柄が似ていることも世の中にはありますが、二次創作をする際にはあえて公式から絵柄を遠去けることが暗黙の了解と言われている程です。

二次創作にまつわるリスク回避方法が少しでも伝わっていれば幸いです。

というわけで、模写・模倣は非公開の練習に留めましょう。

場合によってはトレスよりも厄介なことになりますよ。




○おまけ

イタコ漫画家はどうなんだとお思いの方もいると思いますが、大抵は知識コネを持っています

十分な知識があり、上手く立ち回れるのでしたら、頑張ってみればいいんじゃないですか?

そこまでしてやりたいのなら、ですが。

2020-10-19

ナスカの地上絵ってさ

実はなんの大そうな目的もなくて

暇つぶしに描かれたって説ないの?

描写?の技術が低かったにせよ、明らかに雑に描いとるやんね

それで、ずっと昔に暇つぶしに地上絵描いた人の幽霊が今頃大発見されて世界中に見られて「ハズカシイハズカシイ」って顔赤らめてるの想像ちゃう

2020-10-09

暴力に囚われていないという幻想

 それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。

 我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。

 何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである

 暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分暴力主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。

 「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?


 ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科世界史の授業で、「人間万民万民に対する闘争状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。

 でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである

 誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明ことなのだ。

 勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。

 でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである

 俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである

 そう、つまり、俺もあの上司根本的には一緒じゃないか、と。

 自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。

 まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである

 まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。

 そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――


 そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ

 ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。

 中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。


 話が脱線している、閑話休題

 とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。

 我々が今日まで辿ってきた歴史を振り返ればいい。

 我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子ボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。

 我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子ボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。

 当然ながらその歴史暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。

 我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かからまれ続けてきたと思う。


 だってそうじゃないか

2020-10-08

暴力に囚われていないという幻想(改稿)

 それは幻想に過ぎなくて、我々は常に暴力行使する側であり暴力を甘受しなければならない側でもあるんだな。

 我々は常に暴力を振るっているし、そして常に暴力に晒されている側でもあるんだな。

 何というか、そういう単純な地平が思いのほか人々には見えていないようなので、僕としてはビックリすること頻りなのである

 暴力を使ったことのない人間などいない。暴力は我々の内部に根差しているし、我々は暴力行使する。我々はそれによって何かを成そうとする。それが人間という生物基本的な行動パターンじゃないかと思う。何故世の中の人はそういう理解から遠ざかっているのか、自分暴力主体ではなく暴力をただ甘受する哀れな人間であると何故誰もが名乗るのか。僕としてはその辺が不思議でならない。何故あんたたちは暴力主体であるという意識を持てないのだ? 我々は暴力普段から行使しているではないか、誰かを貶め誰かを踏みにじり誰かを圧殺することを通してでしか自らの繁栄を築き上げることなんてできなかったじゃないか、何故その意識から逃げるのだ? などなどと思う。

 「我々は被害者だ」という文言は勿論限定的文脈においては成立する。例えば、道を歩いている時に突然誰かにぶん殴られたとして、「俺は加害者だ!」などと宣う人間はいかにも不自然である。勿論、そういう文脈において人は被害者に成りうるし、俺も別にそれを否定しているわけではない。しかし避け難く我々は被害者であると同時に加害者であるのだ――それを誰もが理解していないということに対して原初的違和感を覚えざるを得ない。何故皆はその共通普遍認識から遠ざかるのか? 何故我々が加害者であるという意識を誰しもが持たずに生きているのか?


 ホッブズの『リヴァイアサン』。その書物をご存知だろうか。多分、殆どの人々がかの書物最初から最後まで読み通したことはないと思うのだけれど、社会科世界史の授業で、「人間万民万民に対する闘争状態にある」という著作中の警句を大いに聞かされた人は多いのではないだろうか。勿論これは事実でありまた慧眼である。いや、少し違うな。勿論、我々は皆お互いにお互いのことを殴り合っているわけではない。勿論、我々は皆が皆お互いのことを殺したり犯したり盗んだり騙しているわけではない。常にそれを行い続けているというわけではない。勿論、そのことくらいは俺にだって分かっている。でも、問題はそうじゃないんだ。我々が、この世界において、そういう具体的な行為に及んでいるわけではない。勿論それは分かっているのだけれど、でも、問題はそうじゃないんだ。僕たちはそれと分かるような暴力行為に出るわけじゃない。勿論、誰もが誰かの門前で誰かを殺したり誰かを犯したり誰かから盗んだり誰かを騙しているというわけじゃない。勿論、そうなんだけれど。

 でも、結局のところ我々は誰かから盗まなければ生きていけないのである

 誰かを、騙さなければ生きていけないのであるし、誰かを犯さなければ生きていけないのであるし、誰かを殺さなければ生きていけないのである。それはとても自明ことなのだ。

 勿論、我々は誰も殺したことがない。そうだと思う。俺もそう思う。俺は誰も殺していないし、誰からも盗んでいない。誰かに関して騙したことはあるかもしれないが、よく覚えていない。

 でも誰かを傷つけたことはあるし、誰かを貶めたことはある。勿論それはそうだ。誰をも貶めず誰をも傷つけずに生きている人間などこの世にはいない。有り難いことにそれは明々白々の事実で、俺も例外なく誰かを貶めたり傷つけたりすることを、かつて息をするかのように行っていた。俺は誰かを踏みにじり、誰かを貶め、誰かを傷つけ、誰かの価値を下げていた。何らの見返りがあったわけでもない。そのような行為を冒すことによって自分自身に対して何らかの報酬があったわけではない。でも、俺はそれを毎日のように行っていたのである

 俺はある時にふとそのことに気付いたのだけれど、特にショックと言うべきショックはなかったと思う。一応きっかけと言うべきものはあって、それは当時俺の身近にいたパワハラ上司に対して憎悪の念を燃やしていた時であった。あの上司には価値がない、あいつには生きている価値がない、あいつは自己反省のできない俗物だ――そんなことを考え続けていた時に、何となくそのことが、ストンと腑に落ちたのである

 そう、つまり、俺もあの上司根本的には一緒じゃないか、と。

 自分のことを振り返ってみれば、自分だって誰もを貶め傷つけてきたじゃないかと。それをさも当たり前の行為のように行ってきたではないかと。

 まあ、仕方ないよな、と。そう思ったのである

 まあ、仕方ないよな、だって、俺は俺だもんな、と。だって、俺は俺なのだから、誰かを貶めたりするくらいのことはするだろうな、と。

 そんな風に思ったのである。俺は俺だから、俺は多分当たり前のように誰かを貶めたり傷つけたりするだろうと、自分としてはそれは明々白々の事実だと、ふと思ったのである。ある時に俺はそれに気付いた。まあ今更そんな青臭い自己発見について長々と語ることに些かの恥ずかしさがあるのだけれど、でもそれは個人的には大発見だったし、その発見について自分はこの数年間というもの忘れたことがない。俺は誰かを――


 そう、人は誰かを貶めなければ生きていけないのである。そのことは明らかなのだ

 ずーっと昔、多分十五年くらい前なのだけれど、俺は猟奇殺人犯の伝記を読むのが好きだった。とても好きだった。彼らは変わった人物で、我々とは少し違ったものの考え方をした。

 中でも印象に残っているのは、かの有名なジョン・ウェイン・ゲイシーで、彼の残したある一言が俺はとても好きだ。俺はその一言をここに書いてみることはしないけれど、でも、俺はその彼の一言がとても気に入ってしまったのである。その一言を聞いて、俺は、素朴にそうかもしれないな、と思ったのである。それはまるで、俺自身無意識の内に誰かを貶め誰かを傷つけ続けて生きてきたことを、ある時ふいに直観したのとまるで同じくらいに、臓腑に染み込んでくる言葉だったのである。ああ、そうかもしれないな、と俺は思ったのだ。その言葉に。


 話が脱線している、閑話休題

 とにかく我々は日々誰かを貶め誰かを傷つけ、時には犯したり殺したり盗んだり騙したりしながら生きている。それはあまりにも自明のことじゃないか、と俺は思う。

 我々が今日まで辿ってきた歴史を振り返ればいい。

 我々の人生はどこから始まったのかと言えば、当然二十年前であり三十年前であり四十年前なんだけど、我々の祖先はどこからやって来たのか、という話をした時に、辿ることのできる歴史には果てがない。我々は遺伝子ボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。

 我々の中にある遺伝子の声を聴く時に、そこには声にならない声がある。我々はその声に耳を澄ませ、そしてある程度言語化された呻きを聴くことができる。我々は、その微かな声を頼りに、歴史を辿ることができる。我々は遺伝子ボートに乗って何千万年も旅をしてきた、あるいは、何億年と旅をしてきた。

 当然ながらその歴史暴力と共にあった。恐らく、そこには絶えざる暴力連鎖があった。我々は多分誰かを殺し続けてきただろうし、誰かを犯し続けてきただろうし、誰かを騙し続けてきただろうし、誰かから盗み続けてきたことと思う。

 我々は誰かから犯され続けてきたし、誰かから騙され続けてきただろうし、誰かからまれ続けてきたと思う。


 だってそうじゃないか

2020-09-12

anond:20200912214640

ジェンダーギャップ指数も結果だけでなく過程評価することはできないの?

できれば結果の平等だけで評価しようとなんてしないよ。

結果は見やすいけど、その過程客観的評価するなんてそうそうできるもんじゃない。

から成果主義」がただの賃金カットの口実になりやすいし、元増田出世性別関係あると思っていた。

男性の方が下駄を履かされまくってる、って現実

って言ってる増田がいるけど、「現実」って言いきれるほど具体的に示せるなら世界大発見からぜひ手法を発表してジェンダーギャップ指数を「改善」してほしいもんだ。

(念のためいうが、男が有利でないと言っているわけではない。)

2020-06-20

大発見

エロ画像プリンター印刷するといつもよりエロく感じる

一度やってみてほしい

まじで抜けるから

2020-05-10

寝落ちするときは、あくびが出ない

大発見である

それとも俺だけなのか。

2020-05-05

凄い大発見をした

酒を飲んでからヒーリングミュージックを聞くと吐きそうになる。

1回目はたまたまかと思ったが、2回目も同じようになったので再現性はあるようだ。

もともと酒には強くないんだが、飲んだ後に気持ち悪く無くても音楽聞いてるだけで吐き気が長時間続く。

リラックス、とか疲労回復、みたいな音楽Youtube検索してみてくれ。

系統で違う音楽で同じようになったので、なんかこういうゆったりした音楽ダメっぽい。

吐きそう。

2020-03-19

anond:20200319214809

マジかよ俺4歳くらいやぞ。

大発見だった。

2020-03-07

自分モラハラ体質だったと自覚した

※主に頭の整理と吐き出しのために書いています。見苦しい文章申し訳ありません。

今まで恋人からモラハラに傷付き続けてきた。

付き合いは長い方だと思う。

出会って少し経って、お互い近くなればなるほど、ずっと喧嘩続きで心をかなり病んでしまっている。

まり心が強い方ではなかったらしい。睡眠障害接触障害を起こし、体も弱り、会社も辞めてしまった。

彼は、少し揉めるとかなり強い口調で一方的に話をし、自分の非を認めようとせず、過去に遡ってでも何かあらを見つけてはお前のせいでこうなっているんだ、もうお前なんていなくなってしまえ、と怒り始める。たまに手が出ることもあった。

そうなると、私が何を言っても無駄だ。謝罪をしてもそんな言葉響かないと跳ね除けられる。何も言わないと何か言うことも無いのかとさらに責められる。

思ってもいないことをお前はこう考えている、と決めつけられる。信じてもらえていない。すごく悲しい。

それでも、私は彼と一緒にいたいと考えているので、縋りついてきた。

ごめんねと言い続け、できるだけ負の感情が湧いても抑え、怯えて、顔色を伺い続けてきた。

それでもやっぱり人間なので、感情がある。限界もある。耐え切れず爆発して更に喧嘩になる。

数少ない心許せる友人に相談すると、それはモラハラだ、そういう人からは離れるか諦めるしかない、と言われる。

彼のことはとても大切だし素敵な人間だと思っているからこそ好きなので、あまりモラハラという言葉を使いたくないのだが、確かにその特徴に当てはまるし、まあ難しい定義とかは分からないがここではモラハラという言葉表現するのが伝わり易いのかなと思う。(罪悪感)(ごめんね)

と、そうやってずっと悩んできたのだが、例の如く喧嘩をし、どうしたら仲直りできるのか、納得・理解して貰えるのか、どこを直すべきなのか、とぐるぐる悩んでいた時、ふと気付いた。

私も彼に対してモラハラをしていた。

私も感情的になると一方的に考えをぶつけてしまうところがある。

但し、彼と違い、感情が溢れると涙が止まらなくなり会話できなくなることが殆どなので、LINEなどの文章一方的に送りつけてしまう。長文とか連投のLINEって嫌ですよね。分かっています

そして、彼の言動によって傷付いたとき、彼の気持ちを全て自己完結して決めつけ、今までの伝えてくれていた気持ちまでも否定してしまう。約束を破られたりしたら勿論謝ってほしいし、それは人として大切な事だと思っています言葉だけなら誰にだって何とでも言えるし、行動によって示されるべきこともたくさんあるはずです。

とまぁ他にもあるのだが彼に対してどうして?と理解できなかった、傷付いていた部分が、全て自分にも返ってくることにやっと気付いた。

私もモラハラをしていたのだ。

今まで私は手は上げていないが、モラハラ一種DVのようなものである

お互いなにかのきっかけで傷付いて、(このきっかけは普通喧嘩と同じようなものだと思う)、感情的になりモラハラして、また相手が傷付いて更にモラハラして、最終的に必要以上にお互い傷付いてしまっている。だいたい口が下手で考えを伝えられない私が泣きついて終わるのだが。昔よりもお互い短気になったし、感情の爆発具合も酷くなっていると思う。こんなの負の連鎖だ。

ついさっきこれを自覚した。私はただの心の弱いモラハラ被害者だと思っていた。同じことをしていのだ。大発見だった。彼はきっとまだその自覚は無いんだと思う。勢いで手を上げてしまうことに対しては反省しているようだが。

もっとお互いに必要以上に傷付け合わずに、健やかに生きていけるようになりたい。

勿論これからもずっと一緒にいたいが、もしこの先別れることがあったとしても、周りの人間や大切な人を必要以上に傷付けるような人間であってほしくない。私もそういう人間のままでいたくない。

モラハラ同士、どうすれば上手くやっていけるのだろうか。治せるのだろうか。

未だに喧嘩中なのでこのまま謝罪を受け入れて貰えずに仲直りする事が出来なければこれで関係は終わってしまうかもしれないが、二人で一緒に治して、より良い人として生きていけるといいな、と思う。

どっちもモラハラってあるんだな。難しいな。

2020-02-25

翳(原民喜

センター試験話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)

底本:原民喜戦後小説 下(講談社文芸文庫1995年8月10日第1刷発行

     I

 私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老い母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。

 その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかにもっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。

 彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。

 岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものノートし、まず文体研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。

 それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。

 私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのもの顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人同棲した暁には、染料の会社設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである

 日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞第一面、つまり雑誌新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見ものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。

 岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。

 たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京文化方面役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズ役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。

 既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活飛込んだのだった。ところが、その相手資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである

     II

 私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇ほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。

 私は妻の遺骨を郷里墓地に納めると、再び棲みなれた千葉借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃であるサイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである

 私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉借家へ移った時のことである私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それから殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。

 私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラ千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴム長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。

「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。

「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、

「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。

 その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。

 私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好おかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。

 目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたそっくり写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。

 冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。

 翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。

 その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである

 そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服青年歯医者挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。

 それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲吏員就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後消息であった。その後私の妻の病気悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。

 その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。

 あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅作品の暗い翳を思い浮べるのであった。

 終戦後、私は郷里にただ死にに帰って行くらしい疲れはてた青年の姿を再三、汽車の中で見かけることがあった。……

2020-01-30

これは性器大発見なのでは?

「T君」とか「Tさん」って書かれると

田中(たなか)とか

寺田(てらだ)とか

富田(とみた)とか

「た」「て」「と」から始まる名字を思い浮かべがちで

「ち」「つ」から始まる名字だとは思わなくない?

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