はてなキーワード: 金字塔とは
https://anond.hatelabo.jp/20220701203714
↑を見て日本のマンガ史の重厚さと幅広さを実感し、媒体レベルでまとめるのは無理だと悟った
せめて出版社、掲載誌レベルじゃないと議論がとっ散らかりすぎるから一旦みんな好きそうなWJで作ってみた(ジャンプ専業とそうでない人の比較においてアンフェアな気がしたので作者単位ではなく作品単位にした)
選考基準は独断と偏見でしかなく、強いて言えば後世の作家への影響、言語化できないジャンプっぽさを重視している。ランキングではなく、連載開始順に並べただけです
黎明期レジェンド枠。現代の観点で言えばいろいろと問題ありそうだけど、サービスエロがジャンプマンガの大きな側面を担っていた事実は否定できないし、そもそもこの作品の売上が無かったらジャンプが存続してたかも怪しいので入れざるを得ない。
黎明期レジェンド枠2。ジャンプ黎明期の売り上げを支えつつ、不良系マンガを一大ジャンルとして確立させた意味で実は物凄く偉大な作品なのでは?という印象。これが無かったら東リべも存在しないよ多分。
ギネス記録である40年にわたる長期連載、そしてサブカルチャー全般を積極的に題材として取り入れたことで現代日本の風俗、文化を凝縮したような史料的価値を持つ作品になった点を評価したい。
黎明期レジェンド枠3。売り上げもさることながら、見開きを用いたド派手な演出の数々や、「荒唐無稽な能力バトル」というジャンルを確立させた点を評価したい。(このジャンルのパイオニアはアストロ球団なのだが、後進への影響はこちらが上かなと思う)
リングにかけろが確立したバトルマンガ路線を、当時の少年たちが大好きだったプロレスに絡めることでさらなる高みへ導いた作品という認識。初めてのジャンプ黄金期を作った作品で、キン消しとか一般社会への影響力もすごい。
あと個性豊かなキャラクターの関係性が面白い。「友情・努力・勝利」の「友情」はほとんどキン肉マンで作り上げられたイメージなんじゃないかな。
勝利や友情といったそれまでのスポーツマンガの王道を抑えるのみならず、サッカーという競技本来のリアルな楽しさにフォーカスすることで、現実社会でもサッカーブームを巻き起こした。マンガ史全体としてはドカベンがそういうジャンルのパイオニアだけど、ジャンプで言えばキャプ翼がそれ。海外で人気が爆発したほぼ初めてのジャンプ作品という点も評価したい。
80年代のジャンプの象徴といえる作品。創刊以来、ジャンプの主たる系統であった劇画タッチやハードボイルドな男向けの作風の最高到達点だと思う。
90年代中盤のジャンプ黄金期を牽引した作品であり、連載が終了してなおもジャンプ、日本のマンガ文化の頂点に君臨する作品。急激な路線変更、無理やり感ある後付け設定と引き延ばしなど、負のジャンプらしさをも象徴している。
国民的作品として定着してきたのはここ数年って感じはするけど、現代の異能バトルマンガはほぼ全てジョジョ3部の影響下にあると思うので入れざるを得ない。
スポーツマンガの金字塔としてやはり外せない。勝利と成長の喜び、敗北と挫折の苦さがこれ以上なく詰まっている。マンガの域を超えて心に響く名言が多いのも特徴だと思う。
特筆して後世への影響や売り上げがずば抜けている印象はないけど、DB幽白スラダン終了後ワンピナルトブリーチが現れるまでの柱としてジャンプ暗黒期を支えた世代の代表として入れておきたい。
ここに入れるのはだいぶ攻めてるような気もするが、集英社における映像媒体以外のメディアミックスとして最大の成功例ではあるのでね。お金は正義。
ラブコメ枠から選ぶならこれかな。ジャンプの主たる読者層である10代の甘酸っぱい青春がこれ以上なく伝わってくる作品。肉感的なエロさを持った絵は典型的な少年マンガっぽくありつつ、キャラクターの内面を繊細に描き出す表現力が見事。
大河ドラマ的な作風であったり、連載中であったり、作画コストが高すぎたりで他作品へ与えた影響がまるで感じられない(マネしたくてもできない)点が評価を迷うポイント。でもなんだかんだ国民的マンガ、ジャンプの看板の地位は譲ってないのがすごい。
残酷で先の読めない展開、異常に複雑で難解な設定、それでいて少年マンガ的なシンプルな熱さを持ち合わせた稀有な作品。「続きが気になるマンガ」を描かせたらなんだかんだ冨樫の右に出るものはいない。
純粋なギャグ枠から一作入れたかった。読者をただ笑わせるパワーにおいて、この作品を超えるものはジャンプ史上ないと思う。
サスペンスを主体としたマンガとしてこれ以上ない完成度。ジャンプ作品って大別するとバトルものスポーツもの恋愛ものギャグもののどれかになると思うんだけど、それ以外のジャンルで最も成功を収めた作品な気がする。
趣味の多様化、出版不況といった逆風を跳ね返せる力がマンガにはまだあると示してくれた功績がデカい。それは単行本の売り上げや映画の興行収入より何倍も価値がある。
今のジャンプ、ジャンプ+がどんどんジャンルレス化している主たる要因はやはり藤本タツキだなーと思う。コンセプチュアルでありながら大衆性、少年ウケを奥底に秘めた感じというか。まだそこまで顕在化してないけど、今後10年でタツキフォロワーが無限に産まれそうな予感がするので入れておく。
リベラルだが、と言いつつも実は保守だったんじゃないかと最近思ったりもするが、とにかく今までは野党側に投票してきた
けれど昨今のクソフェミの増長を見るに、クソフェミとべったりの立憲共産党に票を入れるべきではないなと思っている
赤松以外にもくりしたとかに入れるべきみたいな話もあるが、インパクトがあるのは赤松だろう
今までは主にれいわに入れていたが、大石・くしぶち・よだかれんのクソフェミどもに巣食われているので、例えば大島九州男とか水道橋とかに入れてもよだかれんを利することになるからNG
翻って赤松は、クソフェミが大嫌いな自民を利することになるからクソフェミ共へのお灸になる
経済政策、消費減税とか選挙後増税する予測とか、それは問題だが、ワンチャン岸田が健常者だからそこに賭けたいというのと(消費税減税ありえないという発言は党内での政治的駆け引きであることに賭けたい)、俺にとってプライオリティが表現の自由の方が高いのでそこは今回諦める
税金は次回減税すればいいが、表現の自由は失われたらもう二度と戻ってこないんでね
とりあえずクソフェミに巣食われた野党を「洗浄」する、今回の選挙はそういう位置づけになる
今回野党各党にお灸をすえて、「あっクソフェミとつるんでたら勝てないんだ」ってのを骨の髄まで叩き込むことで野党を正常化させ、三年後の衆院選で改めて経済政策に対する民意を反映させる
anond:20220517213328を見て自分もやりたくなったので今更ですがやらせてください。
キリがないので1アーティスト1曲縛りで。
順位付けしようとしたけど結局好きなアーティスト順にしか並べてないことに気づいて発売順に並べることにしました。
以上、50曲。選曲とコメントで合計6時間ぐらいかかった気がする。でも楽しかった。
POVの金字塔的作品のブレアウィッチプロジェクトはじめ、多くのPOV映画は
・低予算でできる
でその手法を採用してると思ってるんだけど(最近話題になったThe Backroomsもそう)、さよなら絵梨はPOVを漫画に落とし込むことでどんな利点があるか、このストーリーを採用することでPOVがどう生きるか、を考えて、その相乗効果の最大公約数になっているのがスゲーと思った。
これやっぱそもそもの(オマージュ元作品を知っているだけの知識ではない)前提知識が必要だし、そういう意味でもこんな持ち上げられ方は違うよなと。
>”自分がフェイクドキュメンタリーを撮っててすごく魅力を感じてるのは(中略)フェイク・ドキュメンタリーという手法を使えばそういうことをすっ飛ばして、映画の表現をものすごく原始的なものに戻せると思ってるんです”
マジでそう、さよ絵梨はそれを漫画に落とし込んだ、一種ガロの頃のように漫画のいろいろな形が生まれた時の作品に似てる気がする。
「確率って何?」というのは全然難しい話じゃなくて、「これは確率です」というのは「(互いに異なる)状態がいくつかあって、それぞれに1より小さい正の数が割り当てられていて、その数を全部足すと1になる」という構造があるということを言っているに過ぎない。サイコロの目は1,2,3,4,5,6があってp1, p2, p3, p4, p5, p6という正の数(ただし p1 + p2 + p3 + p4 + p5 + p6 = 1となる)が割り当てられている。普通の偏ってないサイコロならp1=p2=p3=p4=p5=p6=1/6と考えるアレだ。「状態」と「状態に割り当てられた正の数」のセット、ただし数を全部足したら1。それだけ。この数が確率であって、これをコルモゴロフの(古典)確率論と言う。これは人間の直感にも合っててよく理解できる。
でも自然現象はめんどくさい奴で、物理的な「状態」、例えばなんかの粒子が位置xにいて速度がvですというな状態だけど、に対して正の数pを割り当てて「状態(x,v)が起こる確率はpです」という風に記述しようとするとどうしても上手くいかないんだな。何かもうちょっと巧妙な記述の仕方をしないといけない。そのために生み出されたのが量子論で、これが信じられないくらい上手くいったというのが20世紀の物理学の金字塔の一つなんだよ。でも量子論の構造はコルモゴロフ的な古典確率論とは大きく異なっていてあまりにも人間の直感に反するものだから(なにしろ「状態」はヒルベルト空間の元でそのノルムが確率ですなんていうものだ。しかも古典確率論と混在して状態が密度行列になったり、観測理論まで行くと作用素値測度がどうとか言い出すことになる)、その有り様をどうにか分かりやすく伝えようとして色々な寓話的表現が行われた。その代表格が(哀れな)シュレディンガーの猫という話。
頭文字D。今もなお伝説的な人気を誇るカーアクションアニメの金字塔である。
現在、第1期であるFirst StageがYoutubeで期間限定(〜2022/1/17)で配信されている。丁度いい機会なので、このアニメの何が凄かったのか。なぜ沢山の車好きが魅了されたのかを、独断と偏見で論じてみたいと思う。
頭文字Dで最も特筆すべき点は、当時最先端のCG技術を用いて作成されたカーアクションシーンだろう。特に、アニメ第1期であるFirstStageのアクションシーンは、今もなお高く評価できるものだと考える。
First StageのCGの描写は、今の水準からしたら非常にお粗末なものだ。曲線は多角形状にガタガタしていて、車体はテカテカ。あらゆるテクスチャは荒くチープで、木やギャラリーは立体的に見えない。
なぜこんな粗末なCGアニメーションが素晴らしいのか。それは、スポーツ走行する車の挙動を、忠実に再現しようと試みたものだからである。
主人公の藤原拓海が、友人イツキの愛車であるトヨタ・カローラレビン(AE85)をドライブするシーン(第11話前半)は、それが分かりやすい。AE85が、コーナリング時に大きくロールしていることが分かるだろう。
イツキのAE85はノーマルであり、サスペンションもスポーツ走行に適さない柔らかいものが付いている。ゆえに、激しいコーナリングをすると外側のサスペンションが大きく沈み込んでしまうのだ。
しかし、こんなことはまだ序の口である。制作陣は、車の挙動を再現するだけでなく、車に「演技」させた。
この「演技」とは何か。それがよく分かるシーンがある。First Stage第4話の終盤、(Youtubeの動画44:20〜)の場面だ。
髙橋啓介が駆るマツダ・RX-7(FD3S)と、藤原拓海のトヨタ・スプリンタートレノ(AE86)の前輪に注目してほしい。コーナー進入時、RX-7の前輪は進行方向左側に大きく切られているが、後続のAE86は前輪の切れ角がほとんどないことが分かるだろう。
この描写は、髙橋啓介がステアリング操作により無理やり車体の向きを変えているのに対し、藤原拓海は車にはたらく慣性力や遠心力のみで向きを変えていることを表現している。両者が持つテクニックの差が視覚的に分かるよう、車の動きが描き分けれられていのだ。
その思想は、後のシーズンにも引き継がれることになる。シーズンが進むに連れてCGの技術は進歩を遂げ、制作陣はさらに細かい表現を盛り込んでいった。
例えば、Fourth stageでは車が細かく上下に振動している描写が描かれるようになる。これは、スポーツ走行をするためにサスペンションを固めている車が、路面の細かいギャップを拾って上下にはねる様子を描いているのだ。
限りある技術の中で、いかに車の挙動を再現するか。車のモデリングや動かし方、そしてカメラワークは、それを考え抜かれた上で構築されている。車を徹底して研究し、本物を再現しようとする思想。そして、ただリアルに車を動かすだけではなく、ドライバーの技量や性格、心理描写に合わせて車の動きを「演技」させる工夫。これこそが、アニメ頭文字Dが多くの車好きを魅了し、今もなお高く評価されている一番の理由である。
さて、頭文字Dには、伝説的な人気を誇る旧作(First stage〜Final stage)と、リメイクされた新劇場版が存在する。
新劇場版は、今まで作り上げられた頭文字Dのイメージをリセットし、再構築するものであった。「現代の優れたCG技術を用いて頭文字Dを作り直したら、きっと素晴らしいものになるに違いない...。」そんな期待をもとに、新劇場版が製作された。
長い間構築された頭文字Dのイメージをぶっこわすために、長い間担当してきた声優の総入れ替えや、人気を博したユーロビートを使わないという判断がとられた。映像は原作の絵が動き出したようなタッチで、FirstStageよりもずっと綺麗な映像になった。
しかし、旧作のファンからの評価は芳しくない。声優の入れ替えやユーロビートが使われなかったことが理由として挙げられるが、それは新劇場版が評価されない本質的な理由ではない。
新劇場版がつまらない理由。それはまさしく、車の描写にある。旧作で徹底された車の挙動と演技が、新劇場版では分かりづらくなっていることこそが、つまらなくなってしまった理由である。
新劇場版では、迫力のある映像に見えるようダイナミックなカメラワークが多用され、原作の絵のように見えるエフェクトが使われた。しかし、それが車の挙動を分かりづらくさせてしまい、迫力やリアリティを削くことに繋がってしまったのである。
カーアクションの迫力は、カメラワークやエフェクトのような小手先の工夫でもたらされるものではない。
いかに本物を理解し、本物を再現しようとするか。それがアニメ頭文字Dのカーアクションにリアリティと迫力を与え、伝説へと押し上げていった唯一の理由だ。
【追記1】
まあネットにはポルノというものが溢れ返っており、我々は無自覚のままポルノを摂取してそれをメインストリームだと勘違いしながら生きている。
例えばスタンダールの『赤と黒』なんかはフランス文学史に燦然と輝く金字塔的文学とされているけど、実際読んでみたら完全にポルノやんけコレ、となる。当時欧州の文学界には姦通文学の嵐が吹き荒れており、玉石混交のグロテスクなモザイク画が出来上がっていたんだけど。まず、その最高レベルのものから言えば『アンナ・カレーニナ』である。貞淑な女性が徐々にぶっ壊れていき、自分の命さえ省みなくなる生々しいまでの過程はリアリズム小説の真骨頂であった。後はエミール・ゾラの『居酒屋』もいいね。首尾一貫した自然文学小説。それから、翻訳で読んでるからかやや粗い印象だけど(そして『赤と黒』同様にややポルノ臭がするけれど)、バルザックの『谷間の百合』。これは疑似姦通小説とでも呼ぶべきもので、母性的なものの没落を示唆している攻撃的な文学なんだ。
でもね、『赤と黒』は申し訳ないけどただのポルノだ。『ボヴァリー夫人』はアンナ・カレーニナより格が一段落ちるけど、『赤と黒』はそのボヴァリー夫人より更に一段下だ。
「おっす! オラ、ジュリヤン! 田舎の材木屋のしがない子せがれで、日々ぶん殴られながら生活してたんだけど、町の牧師に徹底的にラテン語を叩きこまれた結果、町一番の市長屋敷で家庭教師をすることになった! その結果、お屋敷の奥様に気に入られて、話の行きがかりでその奥様を旦那様である市長から寝取ってやった! そのことがほんのり露見したんで、オラ奥様から遠ざかるという意味合いで都会の神学学校に通わせられた! 都会に着いてからは暫く頭を冷やしてたんだけど、話の行きがかりで社交界の重鎮である侯爵家の世話になることになった! やがて侯爵の秘書としてパリの社交界にデビューしたんだけど、その侯爵家の娘さんは聡明な社交界花形の美少女で、最初はツンケンされたけども、最終的には行きがかりでその美少女をもモノにしてやった!」というものになる。
いやポルノやんけと。
というか、もうなろう小説だよね。『材木屋の子せがれの俺、ラテン語は完璧で聖書のありとあらゆる箇所を暗唱でき、市長家のお屋敷の奥様に気に入られてしまうも、最終的に社交界デビューし、侯爵の秘書としてスパイじみた任務をも任せられてしまい、戻ってこいと言われてももう遅い!』的な。
なろうだよこれ、と。
ちなみに同じスタンダールでも『パルムの僧院』は面白いです。まだ読んでる途中なんだけど。ただ、少なくともこの『赤と黒』に関してはどう控え目に言ってもポルノだし、スタンダール自身通俗小説としてこの小説を書いてたと思う。
とにかく、いかに権威ぶられてもどう見てもポルノ、ってものがあるように、いかに厳粛に見せかけてようが、結局は自分の主張を都合よく擁護してるだけのポルノ作品ってネットにはありふれてんだよね。「なろう」作品がポルノであるのと同じで、都合の良いポルノ作品に頭すっからかんにされてるとどうしても認知歪んでくるよね、って話。
「ムクゲノ花ガ咲キマシタ」は敗北主義文学の金字塔よ。あれは、エエぞ。
鬼滅を子供に観せんな!って日記に触発されて、オッサンの子供の頃の話をするよ。
オッサンが保育園児の頃、帰りのお迎えが遅い子たちは男女に分けられてテレビ鑑賞タイムだった。分けられてる理由は単に趣味趣向の問題。(男の子でも希望すれば女児向け部屋に行けたのかとかは知らない)
で、男の子の部屋、つまり幼稚オッサンのいた部屋は基本的にロボットアニメが流されてた。
オッサンの母親はそこの保育士だったので、自動的に帰る時間は子供の中でも最も遅い時間帯になっていた。
突然だが、オッサンは今32歳だ。これでピンとくるオタもいるかもしれないが、当時放送されていたロボットアニメの中でもガンダムシリーズはやはり金字塔だった。そしてこの頃に放送されていたのはVガンダム。
ガンダムなんてよくわかんないよって人にザックリ説明すると、Vガンダムはガンダムの中でも特に戦争のダークサイドにスポットを当てたヤツなんだ。割と当たり前のように人がバラバラになり、主人公の母親が頭だけになってたり、大人のエゴが暴走して主人公相手に児童虐待したり、差別的なニュアンスが仄めかされたり、やたら主人公(たち)が理不尽な目に遭ったりする。正直言ってとにかく暗いんだ。
製作者(脚本家だったかの責任ある人)があの頃はおかしかったと述懐するくらい悪趣味な作品なんだ。一応言っておくと、視聴に耐えられるなら駄作ではないらしい。オッサンは大人になってからも耐えられずロクに観れていない。
そして、中でも多くの視聴者に印象を残したとされる要素の一つがギロチンだ。完全にヤバイ顔とファッションをした女の人がおじいさんをギロチンにかけていた。
その時、首が落ちるシーンが明確に描写されたか覚えていないが、首が落ちたらしき音が流れたのは覚えている。「ゴト、ゴロ」みたいな音だったはずだ。
オッサン自身としては、子供に残虐描写を見せるなとか、昔はもっと酷かったんだよとか言う気はない。
これを見たから人格が歪んだとも、見ない人はもっとまともだろうとかは思わないからな。案外、幼い頃に観るアニメの影響なんてそんなもんだと思う。
おまえが社会に出る時に出鼻をくじかれたのは100%上の世代のせいかもしれないが、その後20数年経った現在の問題の責任の一端はおまえにもあるんだよ
<野球>
・種田仁 特徴的なバッティングフォームは「ガニ股打法」と呼ばれた。
・小久保裕紀 一本足打法の長距離砲。引退後は日本代表監督を務める。
・元木大介 「クセ者」として活躍。バラエティー番組でもおなじみ。
・新庄剛志 傑出したスター性で日米を沸かせた「球界のプリンス」。
・稲葉篤紀 打席に入ると「稲葉ジャンプ」で球場が揺れた好打者。
・小林雅英 ロッテ時代は「幕張の防波堤」の異名をもったストッパー。
・松井秀喜 日本を代表する長距離打者。2013年に国民栄誉賞を受賞。
<サッカー>
・岡野雅行 元サッカー選手で元日本代表。ニックネームは「野人」。
・三浦淳宏 FKの名手であり、日本における無回転フリーキック、ブレ球の先駆者。
<その他のスポーツ>
・高橋尚子 元マラソン選手。シドニー五輪金メダリスト。国民栄誉賞を受賞。
・貴乃花 第65代横綱。兄若花田とともに「若貴フィーバー」を巻き起こした。
・清水宏保 元スケート選手。二つの五輪で三つのメダルを獲得した。
・野村忠宏 柔道史上初、全競技通してはアジア人初となる五輪3連覇を達成。
<アイドル>
・GLAY CDセールス、ライブ動員数など数々の金字塔を打ち立ててきたバンド。
・平井堅 シンガーソングライター。代表作は「瞳をとじて」など。
・YUKI 元JUDY AND MARYのボーカリスト。現在はソロで活動。
・GACKT シンガーソングライター。俳優としても活躍。
・岡本真夜 「TOMORROW」は200万枚を突破する大ヒットを記録。
・華原朋美 代表曲は「I'm proud」「I BELIEVE」など多数。
・松岡充 俳優、タレント。ロックバンド・SOPHIAのボーカリスト。
・常盤貴子 代表作に『愛していると言ってくれ』『ビューティフルライフ』など。
・竹山隆範 お笑い芸人。元カンニングのボケ担当。俳優としても活動。
・塚地武雅 お笑いコンビドランクドラゴンのボケ。俳優としても注目を集める。
・サンドウィッチマン ツッコミ担当伊達みきお、ボケ富澤たけし。
・後藤輝基 お笑い芸人、司会者であり、フットボールアワーのツッコミ担当。
・梅宮アンナ ファッションモデル、タレント。父親は俳優の梅宮辰夫。
その他
・門倉貴史 経済評論家。日本における地下経済学の権威として知られる。
・荒川弘 漫画家。代表作は『鋼の錬金術師』、『銀の匙 Silver Spoon』。
・うすた京介 漫画家。『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』などが有名。
ユークリッドからガウスの手前くらいまでの数学は、我々の感覚から自然に延長された世界の把握の仕方である。
一方、19世紀初頭、リーマン、ガロアあたりから登場した現代数学の基底となったアイディアは、一見、実世界では観察されえないものの、人間のもつアプリオリな思考からは確実に真相を表していると考えられる世界・宇宙のとらえ方である。前者は「悟性」、後者は「理性」に相当するのではないか、と解釈しながら読んだ。
「AはBである」という命題には「分析的命題」と「総合的命題」の2種類あることが示されている。
「分析的命題」は、言い換えのようなもので、Aをよく吟味すれば、Bであることがわかる。「総合的命題」は、「理性」を必要とし、思考の飛躍が必要である。つまりAをいくら眺めたところで、Bはなかなか出てこない。BはAの世界の外にある。
昔、大学初年のころ「数学は単なる式変形や定義のトートロジー(言い換え)であるからつまらない」と言っていた友人がいた。彼はその後数学科から哲学科に転向した。
中学生のころ、速く動くと時間が遅れるとか、空間が曲がっているとか、そういう相対性理論の話を聞きかじったときに、なぜそういうことが人間にわかったのか不思議に思った。
「悟性」の単なる延長上で、数学を進めていっても、数学がトートロジーであったならば、現代物理でわかっている宇宙や素粒子の構造は理解できなかったに違いない。つまり、現代の数学や理論物理は「分析的命題」によるのではなく、「総合的命題」の積み重ねによっている。
この本は、なぜ、このような理解が可能であるか、を説明しようとしている本なのではないか。本書のすごいところは、現代数学や現代物理学が誕生する以前に書かれたにもかかわらず、現代数学の諸概念を考えるきっかけを作ったのではないかと思えるところだ。実際、リーマンやガロアが出現した時代は、この本が出た直ぐ後であり、本書が、まるでその後の現代数学の誕生を予見していたかのように見える。さらに、現実の宇宙がまさに、それらの現代数学によってしか記述てきないものであることを発見したアインシュタインや、物質の状態に不確定性を見たハイゼンベルクなどドイツ系の理論物理学者は、若い頃にカントを読んでいた節がある。
現在では、宇宙が量子場の曲がった多次元空間であり、群の対称性から素粒子とはまさにその多次元空間の変換の規約表現そのものであることが発見され、物質の質量は後天的に獲得されたものであることがわかり、人間の思考と実験によって、「理性」による「総合的命題」が積み重なり、驚くべき宇宙の理解が進んできている。
この現代の数学、物理学の飛躍的発展に、本書が間接的に果たした役割は、かなり大きいのではないか。人類の残した書物の金字塔の一つであろう。
失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫) 文庫 – 1991/8/1
戸部 良一 (著), 寺本 義也 (著), 鎌田 伸一 (著), 杉之尾 孝生 (著), 村井 友秀 (著), 野中 郁次郎 (著)
敗戦の原因は何か? 今次の日本軍の戦略、組織面の研究に新しい光を当て、日本の企業組織に貴重な示唆を与える書。ノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ沖海戦、沖縄戦という大東亜戦争における6つの作戦の失敗の原因を掘り下げ、構造的問題と結びつけた日本の組織論の金字塔。
何もかわってないと失望ばかりしていては何も解決しないので、どうすればいいのかを考えたい
といっても自分が読んだのはこっちのほうです
「超」入門 失敗の本質 日本軍と現代日本に共通する23の組織的ジレンマ 単行本 – 2012/4/6
鈴木 博毅 (著)
→ 戦略を決める
まずはこれ。
これを最高の優先度にして全ての計画を立てる
まあ、オリンピックとの優先度をどうするのか、これを決めて宣言することが大事だよね
っていうか、これだけだよね
やるのって
個人的な備忘録もかねてここ10年ぐらいの「(少なくとも一時期は)ゲームとして成立してた基本無料スマホゲー」の中で抑えておきたいものを整理してみる。
盆栽ゲーの完成形。今や「コツコツ育てるゲーム」という意味で使われる「盆栽」という単語だが、なめこに比べればどこが盆栽なのかと言いたくなる。
ゲームとして成立しているのかと言われれれば「ガチャで引いたカードでデカイ数字が書いてあるかどうかを比べるだけより1000倍ゲームである」と声を大にしていいたい。
通称クラクラ。AIの行動を読んでハックするという遊びはまさにゲームそのもの。
結局は金を積んだやつが強いのは事実だが、強くなるための片輪としてプレイヤーが工夫をこらす余地があるのは極めてゲームゲームしている。
ガチャゲーとしての要素も強いがそれはまずパズルゲームを攻略するのが大前提。
パズドラのライバルみたいな立ち位置だが、より間口が広くガチャから引いたキャラの個性も出しやすく作られている。
でもゲーム性が簡単になるとガチャの重要度が高まるから相対的にパズドラよりゲーム度下がってね?とは思うがバシーンよりは100000000000倍マシ。
今増田で話題の駅メモや、ポケモンGO系作品の中で最も純粋に位置情報ゲームをしていた作品。
やることはシンプルに「日々の生活の中でスタンプラリーをしまくる」というだけなのだが、そこに工夫やプレイヤーの個性が出る時点でガチャゲーより100000倍ゲームである。
眺めてるだけじゃ駄目だもんな。
スマホのクイズゲーム自体はQMAのスマホ版が先んじていたのに、なんかやる気がない作りで勝手に忘れ去られこっちが残った悲しみ。
ぶっちゃけカードの数字が重要なガチャバシーンな所はあるのだが、そうはいってもクイズが出来なきゃバシーンもクソもないのでクイズゲー以外の何物でもない。
タワーディフェンスゲームはコレ以前からあったし、R-18要素ありのブラゲーもあったのだが、ガチャバシーンじゃなくゲームとして成立しているR-18ゲーはアイギス辺りから。
でもアイギスがあったDMMでも本格的に遊べるR-18ゲーは似た路線のガーディアンミストレス(ガーミス)ぐらいだったような気がする。
ちなみにガーミスっていうのは「AV女優×ドット絵の新鮮な世界観で織り成す究極のハーレム堪能型本格エロタワーディフェンスが登場!」という紹介文から分かる通り、コスプレAV女優をドット絵にしたキャラをリアルタイムに操作して戦うタワーディフェンス風面クリア型RTSなんだけど、コスプレAV女優を駒にするというシステムを衣装替えという形でゲームに落とし込んだことで、ガチャゲーが抱えがちな属性相性や射程距離が単なる持ち物検査で終わりがちな部分が戦略性として機能していて、衣装替え中や必殺技発動時の無敵を上手く活かしたり、近接キャラで交戦状態にすることで相手のタゲを1キャラに固定して時間稼ぎやタコ殴りをしたりするといった様々な戦略を練ることが出来て、ガチャ要素のあるゲームの中では圧倒的な「択」の多さを誇るまさに本格的エロタワーディフェンスゲームだったんだけど、そういうゴチャゴチャしたゲームが好きなオタクに限って二次元オタクのロリコンが多いもんだからゲーム性的にメインターゲットになりうる層三次元はグロだからと敬遠されがちだったり、逆にAV女優に釣られたプレイヤーがゴチャゴチャしているからと避けていったり、難易度上昇(特に反射能力を持ったギリメカラ的な敵がキツかった)でプレイヤーが疲弊していったりと、ユーザーが離れる要素も多くていまいちマイナーなんだけど、スマホゲーやブラウザゲーの中ではまさにトップクラスと言っていいゲーム性を誇る作品が何故か三次元コスプレAV女優というややニッチなジャンルから飛んできたことも含めて「超ヤバイゲーム」なんだよな。
まあ色々アレだけどスマホのアクションRPGとしては人気でるのに必要な所は踏んでる。
でもガチャの重要度は高いのでゲーム性そんなでもない気もするが、バシーンバシーンでは流石にないよね。
本格スマホカードバトルを名乗るように、スマホで本格的なカードバトルが出来る時代が来たことを業界に突きつけている。
そこはHearthstoneじゃね?思うだろうが(でも俺ならShadow Eraの名前を挙げるね(ドヤァ)、PCでプレイする前提で本格DCGをやるのと、スマホをメインにして本格DCGをやるのとでは客層に対するアプローチが違うと思うのでこっちで。
いやマジでWoWとかやってた超熟成古参オタクにTCG投げるのと、神バハやグラブルやってるような連中にTCG投げるのは商業的には限りなくて似て非なるものだと思うよ。
確かにレアカードはクッソ強いんだが、ガチャから出たカードの数字がそのままぶつかりあうだけのガチャゲーに比べるとゲーム度は天文学的数字となる。
クイズゲーとトトカルチョの間の子で、未来の出来事を当てるという行為でポイントを競う。
スマホで出来るけど本格的に遊べて運の要素が絡むという非常にナイスなアイディア!だとは思うんだが……いまいちビジュアル面がパッとしなかった。
つうかバトル要素いらねーだろ面倒なだけだぞっていう……いやでもマジで貧弱ゴミスマホでも遊べるゲームを成立させるアイディアとしては正しかったのに色々惜しかった勿体なかった。
ススススススススマホでFPSwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwがオンラインで出来る時代なんだから凄いな(老人感
すまん。
10年振り返るといったんだが、ここ5年ぐらいでグラフィック以外で圧倒的にゲーム性が進化したと思えるのがいまいちない。
アクションRPGやMMOは確かにパワーアップしてきてるんだが、でも結局は初期のアクションRPGからゲームとしての部分で大きな変化があったようには思えないんだよな。
エヴァについて色々質問してくる娘に答える。昔流行ったアニメであること。今も作られ続けていて、今度ようやく完結すること。画面の中で動くキャラの名前と兵器のこと。あれこれと説明していく私の横で、娘は一言こう言った。
「面白い?」
私は答えられなかった。あらためて新劇場版を前にして、序を見ても、破を見ても、浮かんでくるのは「懐かしい」「キャラがかわいい」という感想だけで、「やっぱり面白いな」という感覚が私の中になかったのだ。1995年のテレビ版と2007年の序を観た時には確実に心にあったものが、今はすっかり抜け落ちていた。
一体私は、あのアニメの何を楽しんでいたのだろうか?
1995年当時、エヴァが社会的にヒットした理由は「新奇性」なのだと思っている。暗い世界観、謎に満ちたストーリー、コンプレックスを抱えたキャラクター、迫力の戦闘シーン、人間ドラマ、そして何より「空気感」。
後世に残る大ヒットをかました作品は、往々にしてその時代の空気感を反映している。エヴァというものは今までに無かったもので、そこに震災やらオウムやら世紀末やらといった「世相」が絡まっていた。1995年に生きた人間にしか分かり得ない何かがあって、でもそれは2021年からは振り返れない何かであって、その熱量が本物だったから、エヴァは時代を超えるアニメになったのだと思う。
当時小学生だった私は、エヴァの裏にある複雑なストーリーは理解していなかったが、「何か凄い」という感覚だけは頭の中にずっと走っていた。それは私よりずっとずっと大人の人も同じ感覚だったのだろう。「〇〇みたいなアニメ」という枠で語れない、それが新世紀エヴァンゲリオンであった。
新奇性がそこにあった。時代の先駆者となれたからこそ、25年も続くアニメシリーズが作られ続けたのだ。
しかし、今は違う。エヴァンゲリオンフォロワーは世の中に多く溢れかえり、設定も、キャラクターも、その後に続くフォロワー達の中に埋もれていった。アニメの表現が自由になるにつれて、「エヴァっぽさ」は1995年という文脈から独立して一人歩きを始め、当時の世の中を取り巻いていた空気は、25年の歳月の中で霧散していた。
スペースオペラの金字塔を打ち立てたスターウォーズが、新三部作で散々な評価を受けたように、またオープンワールドの先駆けたるシェンムーが、20年の時を経てリリースされた3で大ゴケしたように、時代の先駆者は、往々にしてその後のフォロワー達からの突き上げにあい、自分の立ち位置と時代性を見誤る。オリジナルからのブラッシュアップを得たフォロワー達は、技術進歩と数の恩恵を受け、先駆者を時代遅れへと追いやっていく。
それでも、先駆者は死なない。死ぬのは2番手以降の粗製品だ。一番乗りにはブランドと、話題性と、そして神話があるのだ。
その神話はエヴァにおいては非常に重かった。定期的(と言えるか微妙な間隔)に公式から供給がある。あのころのファンは存命で、まだ強い熱量を持っている。そして何より、エヴァはまだ完結していないのだ。
しかし、序からでさえ14年経った。もう時代遅れなのではないだろうか。2021年の空気感を捉え、エヴァを完結へと導くには、あまりに長すぎる時が経ってしまったのではないだろうか。私は一挙放送でそう感じてしまったのだ。
それは私が大人になったからなのかもしれない。色々な作品を観てきたうちに、珍しさも目新しさも感じなくなり、エヴァそのものへの興奮が薄れてきたからかもしれない。
隣に座っていた娘におそるおそる聞いて見た。「エヴァ、面白いと思う?」
私が子どものときに抱いた感想と同じであった。娘は娘で、エヴァを「なんかすごい」ものだと思っている。
子どもは面白さに敏感だ。面白いものを前にしているときは、外から分かるぐらいはっきりと目がキラキラする。しかし、画面の前に座っていた娘の目は、Youtubeを見ているいつものときとあまり変わらなかった。
娘は派手なシーンでよく「すごい」と言う。それは恐らくアクション映画を観る感覚であり、一瞬一瞬のパーツの面白さを味わっているのだろう。TwitterやTikTokの動画のようなインスタントな面白さが、ハイテンポで繰り返される、その状態をすごいと表しているのだと思う。
「〇〇とどっちが面白い?」口にしかけた言葉はすんでのところで飲み込んだ。
Twitterで散見された感想も、ほとんどはキャラクターへの感情だけであり、ストーリーや、世界観や、その他色んな「エヴァらしさ」に触れている人はあまりいなかった。ハッシュタグを追って見ても、あのころを懐かしむ意見ばかりで、新たにエヴァの世界に参入してきた人は見かけなかった。
もう、そこには「新奇性」は無いのだ。世界観も、メカニックも、専門用語の羅列によるバトルシーンも。何なら綾波やアスカといったキャラクターすら、無数のフォロワー達によって「よくあるもの」となっていた。新世紀から20年経ち、時代はエヴァを完全に置き去りにしていた。
でも、エヴァはまだ死んでいない。新劇場版4部作、中でもアニメと大きく異なる3、4作品目、ここにまだエヴァが残されている。エヴァらしさのほとんどは時代によって風化したが、まだ、一番大きなものが残っており、ファンもそれを強く求めていた。
そして、その期待を受けて出来上がったのが他ならぬ「エヴァQ」であったのだ。
私は、エヴァQは残された「エヴァらしさ」を極限まで追求した結果生まれたものだと思っている。その純化した素材は、考えられる限り最悪の料理を作り出したわけだが。
何も描かれていない背景の下でぐりぐり動くメカ、声優と口調以外に面影のないキャラクター、そして「難解」というよりも「支離滅裂」なストーリー。最先端だったアニメ表現は当たり前のものとなり、1995年の空気感どころか、2012年当時の空気感すら作れていなかった。
Qを観て、私は思ってしまった。目の前で繰り広げられる群像劇の一つひとつが、キャラクターの心情を深掘りするのではなく、制作者の考えたオ○ニーを少年少女に代弁させているだけのような気がしてしまったのだ。ただただ意味の無いセリフが飛ぶ奇妙な寸劇を眺めて、言い知れぬ不快感を覚えてしまったのだ。17年の集大成が結局ただのキャラ萌えであり、もうエヴァはとっくに時代に耐えられないのだと、そう感じてしまったのだ。
だけど、エヴァがどこかに向かって逸れていくのは、きっと仕方がないことだ。エンディングをぶん投げてから25年、今さら「シンジ君がサードインパクトを止めて世界を救いました」では、ファンが許さない。時代が進むにつれエヴァは古くなっていき、それに反比例するようにハードルは上がっていく。
もう一度エヴァが築き上げたものを再構築し、あの熱狂を甦らせようと、制作者はエヴァらしさを突き詰め続けた。ただ、その先に、未来が無かっただけなのだ。
一体私は、このアニメの何を楽しんでいたのだろうか?
3月8日、いよいよ新劇場版最終作が公開される。私も娘を連れずに観に行くつもりだ。
しかし、正直きちんと完結するとは思えない。毎週更新され続けたテレビアニメ版ですらまとめきれなかったのだ。たった4作で綺麗に締められるわけがない。
ただもし完結することがあったなら、ファンがかける言葉はきっと、「面白かった」や「つまらなかった」よりも、「完結おめでとう、お疲れ様」なのだと思う。それはまるで野球選手の引退試合のように、時代と戦い続けた者を称え、時代に敗れた者を見送る、そんな言葉がたくさん注がれるのだと、私は強く思っている。