はてなキーワード: アーバンギャルドとは
増田民で知ってる人は少ないかもしれないが、アーバンギャルドというバンドが存在する。そのバンドに対しての違和感を少し書いていく。
まず、彼らは俗に言うメンヘラへの音楽を作っている。彼らの曲にはリスカや血、自殺を暗喩させる表現が多い。しかし、彼らがメンヘラなのかというとそうには見えない。バンド活動をしているのなら当たり前かもしれないが、バンドをやるにせよそういった本人たちの立場がどうであったかの説明が少ない。最近のメンヘラ系のボカロか何かで「おくすり飲んで寝よう」という曲があった。そのノリでいいのにリスカだとか一々重すぎる。
そして、彼らの作る曲は悪くないと思う。しかし、歌詞が元ネタが透けて見える。ぶっちゃけチープだ。「コンクリートガール」という実際の事件をモチーフにした曲があるが、増田民にはすぐ察せるものになっている。そして「映えるな」という曲が明らかにYOASOBI辺りを意識したところが見え見えであり、なんかチープに感じる。他にもいろいろあるが、そこまで深い歌詞はなく、「こんな歌詞を深いって思ってもらえるだろうな〜」って思ってそうな歌詞が満載だ。
そして、アーバンギャルドの中心人物である松永天馬が大物なのか小物なのか分からない。少なくともYouTubeの数字が伸びてない。しかしファンはレジェンドのような扱いをしている。そこがチグハグになっている。以上がアーバンギャルドへの文句のようなことだが、正直私は曲だけは嫌いになれない。
anond:20220517213328を見て自分もやりたくなったので今更ですがやらせてください。
キリがないので1アーティスト1曲縛りで。
順位付けしようとしたけど結局好きなアーティスト順にしか並べてないことに気づいて発売順に並べることにしました。
以上、50曲。選曲とコメントで合計6時間ぐらいかかった気がする。でも楽しかった。
ぼくはプロデューサー業をやっている。
アイドルマスターの、だが。
今回はシンデレラガールズの方の話をしようと思う。
別に世間の皆の反応などにどうこう言いたいわけではないことを心に留めておいてほしい。
夢見りあむ、というアイドルについて。
ぼくは夢見りあむのPだ、と胸を張って言いたい。
でも、最近少し言いにくくなってきた。
ぼくは夢見りあむというひとりのアイドルをとても誇りに思っている。
そりゃなんだこいつって思うこともあるけど。
それでも、アイドルというものに対する価値観のようなものがぼくにとっては
「ああ、この子はぼくだ。ぼくがなれなかった存在だ。夢見りあむは、ぼくなんだ。」
と思わされた。アイドルをなによりも尊び、そのステージに己も立っているという感情。
ぼくは夢見りあむを心底応援したい、と思って生きている。
ぼくは、夢見りあむに過剰に炎上してほしいわけでもない、悪目立ちなんてしてほしくない。
ソロ曲、すごくうれしかった。うれしいよ。でも、ああいう風じゃなくてもよかったんじゃないかなあ。
夢見りあむはああいう扱いをしていいんだ、って公式が示してしまったから。
今後もそういう役割を振られていくんだろうなあ。
今後のことはあまり考えたくない。ぼくは、自分が尊いと思う存在を汚されることが嫌だ。
佐藤心Pの妹に自己投影の件は省いて夢見りあむの扱いについての話をした。
「自分の推しがそんな歌詞歌わされるのってちょっと厳しいよね」
のような言葉をいただいた。
そうなんだよ。
あんずのうたとはまた違うじゃん。
極論かもしれないが最初に聞いて思ったのはそういうことだった。
もちろん好きだよ。曲とかすごく好き。
アーバンギャルドの浜崎容子様が歌ってくださったのも奇跡だと思っている。
でもぼくは、夢見りあむの扱いがもう少しどうにかなることを望んでいる。
生憎知り合いの中に夢見りあむPがいないため、ほかのPサマは何を考えているのか知ることができない。
もしあなたがデレPで夢見りあむPなら、考えを聞かせてほしい。
もしあなたがデレPで他担なら、それはそれで考えを聞かせてほしい。
この2つのバンド、アイドルバンドかと思いきや、ライブパフォーマンスも凄い巧い、人気があるの納得!と、僕やりナイトに行って感じた。
普段聞かないタイプの音楽にも関わらず実際めっちゃ楽しかった。
ただ、このドラマに本当に合ってるのか、というと、?んー?って思う。
受注者側(バンド)としてはコンセプト通りにバッチリ作ってるんだろう。
メインターゲット層は高校生ではなくもっと上の層が正解だったんじゃないのか。
「やらかし真っ最中」または「これからやらかす」層ではなく人を傷つけて自分も苦しんだ経験をした人たち…、30代以降の大人をターゲットにするべきだったんじゃないのかなと。簡単に言うと、カルテットを見ていた層で良かったんじゃないのかなと。
あとこのヤンキー校の感じ、今もあるの?
荒れたヤンキー校設定の漫画はおそらく80年代ごろに発生して色んな作品が作られて、90年代以降も松本大洋「青い春」、ドラマにもなった「ごくせん」とかあったけども、今、ヤンキーの存在ってリアルな存在なんだろうか、教えて高校生。
まぁ、今30代〜50代は自分の周りにリアルにヤンキーがいたはず(地域性もあると思うけど)なので、やはりターゲティングを大人にするべきだったんじゃないかと(しつこい)。
まぁ、走り出した後のプロモーションを見て勝手にやんややんや言うのってダサいしほんとに勝手なんだけど。
ドラマOP曲ED曲は、じゃあ何が正解だったのか私なりに考えてみた。
30〜50代がぐっときて、もっと苦悩を感じる音楽。泥臭くて汗臭くて、なんなら血の匂いもするような音楽。
OP曲をINU「メシ喰うな」(俺の存在を頭から否定してくれ♪)、ED曲をザ・スターリン「メシ喰わせろ」(俺の存在を頭から輝かさせてくれ♪)か「ロマンチスト」(何でも良いのさ壊してしまえばお前はいつでもアナーキスト壊れていくのはテメエばかり♪)なんてどうだろう。
年齢層少し下げて、大森靖子の「私は悪くない」(私は絶対悪くない生きていて本当にごめんなさい♪)、アーバンギャルド「ノンフィクションソング」(生きろこれは命令形だ死ぬなこれは命令形だ消せないノンフィクション♪)なんてのも良いのではとひとしきり妄想…してみたけど、
うん、違うね。
違うわ。
違うよねー!
9時台のドラマですもんね。
ED曲はドラマをそのまま歌詞にしたど直球、曲調もヒリヒリしていて心地いい。キャストとのコラボMVも緊張感のある仕上がりでやたらかっこいい。窪田正孝の歌の巧さ、今野浩喜の声の良さにもグッときた。
疾走感ある爽やかなOP曲も、人の心の黒い部分に触れるドラマゆえに、逆に視聴者の気持ちを軽くする役割を担ってくれているように思う。
9時というメリットとデメリットの中でいろいろ葛藤した結果の最適解。
シナリオ、エロや暴力の表現、キャストの演技も9時というメリットとデメリットの中でめちゃくちゃ闘っていると思う。
窪田正孝の映画、東京喰種見てきた。この映画も主人公が自分の背負った罪に苦しむという共通点があるんだけど、(僕やり単体で見ると分からなかったが)明らかに演技の「トーン」を変えてる。狙って変えている印象で、狙って変える事ができる窪田の実力ハンパないっすね。
川栄とのエロシーンも制約があっただろうに、窪田と川栄の表現力で相当エロかった。男性の言う着衣の方が寧ろエロいというのが良く分かった。
各所ですでに言われているがキャスティングが良い。
特に、メインキャスト4人が完璧だと思う。暴力とか人の狡さとか胸糞な内容をこの4人が苦い薬の糖衣のように「魅せる」ものにしてくれている。個体でいうと、マルがダントツ。どクズ胸糞キャラなのに葉山の可愛らしさが「憎みきれないろくでなし」と視聴者に思わせて、感情移入すらすることも。川栄もバッチリハマってる。そして、パイセン。ドラマ全体を糖衣で包む。これは今野にしか演じられない、というか今野ありきでこのドラマが立案されたんじゃないのかと思うレベル。
視聴率はイマイチのようだが、単純に「親と見れねー!」「子供と見れねー!」って人が多いのだと思う。録画視聴率は高いのでは。
もうすでに折り返し地点だが、今シーズンのドラマの中で、抜群に面白いし深い。
なんかポップで禍々しい曲ばっかり歌ってる人いない?
あとメンヘラみたいのは無理
おしいと思った曲
面影ラッキーホール おかあさんといっしょう大好き 音楽は普通のバラードだったりするから笑える
平沢進 歌う曲歌詞メロディー共にカオスだがアンチビストロンって曲は綺麗にまとまってて大好きパーフェクツ。シェヴロンって曲もイントロ?が禍々しくて好き
電撃ネットワーク 俺はもうダメだ!みたいな曲いっぱい聞きたい
アーバンギャルド メンヘラにみせかけてメンヘラを皮肉ってる気がしてよい
在日ファンク 名前のせいなのかあんまり有名になってないきがするあ
デーモン小暮 聖飢魔IIの人だしヘビメタ?ジャンルの人かと思えばいろんな曲うたってる カツ丼は糸井重里が作詞したのか(笑)
早すぎる一般化は危険だ。
あとで意味を解説するが、そのことを踏まえた上でぼくは仮説を立てよう。
「ぼくは人が好きなわけではないかもしれない」という仮説だ。
ぼくは坂本龍一の書いたDNA/Introという曲が気に入っていて、見つけたその時からほとんど毎日この曲を聴いている。半年の間ずっと。
いつも飽きっぽいぼくがたった11分ほどの一曲をそうまでして愛でるようになったのは、これまでの人生史上かつてないことだった。
耳から入ってくるそのふるえこそが、ぼくにとっての音楽のほぼ100%を占めていて、それ以外の情報は瑣末なものとしてしか扱っていなかった。
みんな誰もが知っているであろうクラシックの名曲、古典と言われる振動。
あなたがそれに感心があるのならおそらく作曲者の名前や曲名は知ってるだろう。
ベートーヴェンの交響曲第九番とか、ラヴェルの水の戯れとか、エリック・サティのグノシエンヌとか、バッハの小フーガト短調とか。
熱心な人なら作曲者の略歴とかその曲がなにを表さんとしているかとかいつ書かれた曲であるとかどこで生まれた曲であるとかいうことも知っているかもしれない。
そして繰り返しになるが、ぼくにとってはそういう情報はどうでもいい。
坂本龍一がどういう人で、いつ書かれた曲で、表題はどういう意味で、どんな思想的意図があったかもどうでもいい。
「この曲はべつに坂本龍一が書かなくてもよかった」
誰が書いていてもぼくはこの曲を聴いていたのだろう。ぼくが坂本龍一という作曲者と曲名を知っているのは、それを知らないと探せなかったからだ。
同じふるえであるならぜんぜん別の作曲者にぜんぜん別の曲名でもよかった。
さっきの話は別にクラシック愛好家だけに適用される事柄ではない。
あなたのプロフィールには「好きな音楽」になにが書かれていますか?
KARA、サカナクション、凛として時雨、アーバンギャルド、ヒャダイン、Dragon Ash、ELLEGARDEN、Chris Brown、Jagged Edge、Alton Elis、Peter Tosh、Mondo Grosso、安室奈美恵、宇多田ヒカル、鬼束ちひろ、東京事変、菅野よう子、サンホラ、レッチリ…
あなたは好きなその「人」をどこまで知っているんだろう。
ぼくには好きな「曲」はたくさんあるけど、好きな「人」は別にいない。
理解できないのだ。
その人のアルバムなら全部持っているとか、ライブは年に一回は必ず観に行くとか、その人の曲なら全部好きだとかいう感覚が。
ぼくが好きなのはその人のヴィジュアルではない。その人の話し方や考え方ではない。その人のダンスではない。その人の美貌ではない。
そしてこのことは何も音楽に限ったことではない。芸術なら全部そうだ。
ぼくが好きな絵は「雨・蒸気・速度」であって、ターナーではない。
ターナーのことなんて1mmも知らん。
映画だって監督や役者が好きなのではない。その映像が好きなのだ。
AVだってその女優が好きなのではない。そのプレイやシチュエーションや映像自体が好きなのだ。
飽くまで作品が好きなのであって、人はいつだって二の次だ。ぼくにとっては。
ずっと前から「芸能人でだれが好き?」という類の質問に疑問を持っている。
当然のごとく誰もいない。
なんでだろう。
なんでみんなそんなに人間に興味を持てるのだろう。
ぼくみたいな人が他にいるんだろうか?
そんなことどうでもいいとは思いつつも、ことあるごとに「好きなバンドは?」とか聞かれれるといつも虚無感に襲われる。
ほら、面接でも聞かれるでしょう、「尊敬する人は誰ですか?」って。なんのことだかさっぱりだ。
ぼくのことをよく知っている人には、ぼくが人に興味がないのをとっくに見透かされていて、それでぼくは「自分に一番興味がある」ということにしている。
実際はたぶんそれも違う。相対的に見ると自分が一番大事であるというだけだ。そんなのは誰にとっても当たり前の話だ。自分の命より他人の命が大事だと心の底から思っている人はそんなに多くはないと思う。
ぼくが立てようとしている仮説はいま書いた事実から憶測したものだ。
人に興味が持てないという事実が、音楽や絵なんかのアーティストとか、芸能人とか、そのレベルに留まっていたなら別に問題はない。
そんなもんは人が好きであろうが、作品とか活動だけが好きであろうがどっちでもいい。
問題は、この事実が友情や恋愛にまで及んでいるかもしれないということだ。
前のmixi日記に書いたことを自分で読み返して検証してみた。
日記にはこう書いてある。
『もしぼくに彼女がいたら彼女のことをたくさん知りたいと思います。たくさん話したいと思います。
彼女の好きなこと、嫌いなこと、毎日欠かさないこと、これだけは譲れないもの、どうでもいいとおもってること、無意識にしてしまうこと…(続く)』
ぼくは特定の誰かと付き合いたいのではない。
たぶんそういう「付き合い方」に憧れているのであって、相手はぶっちゃけだれだっていいのだ。
友だちだってそうかもしれない。
その人ではなくて、友だちとしてのあり方が心地よいのであって、それが実現するのなら誰でもいいのかもしれない。
でも慎重に考えたほうがいい。
アーティストや芸能人が好きになれないからといって、友情や恋愛においても人が好きになれないとは限らない。
AがCなんだから、Aとよく似たBもCなんだろうと決め付けるのは早すぎてはいけない。そういうのを早すぎる一般化というらしい。
簡単に言うと人間はわりと自己暗示にかかりやすくて、「自分はどうしようもない人間だ」と思っていると、ほんとにそういう人間に近づいていく…こともあるらしいということだ。
人を好きになることができないわけではないと思う。
少なくとも元カノのことは好きだった。これ以上ないくらい愛していたと思う。
その元カノのことだって付き合う前は別に好きでもなんでもなかった。
基本的に恋仲になる相手は誰でもいい。動機はない。
良く言えば付き合ってみないと好きかどうかわからないのだし、「どんな人がタイプなの?」という質問には「好きな人がタイプ」ということだ。そうとしか言えないんだけどね。
これが正直な気持ち。
思うのは、ぼくは付き合いさえすれば誰でも好きになれそうだということだ。
いや、高確率で好きになるはずだ。というか「人が嫌い」という感覚を今まで味わったことがないし、これからも味わうことはないと思う。急に人が嫌いになったりすることなんてないと思う。
で、それは好きって言っていいの?
誰でも好きになるかもしれんのに?
「嫌いじゃない」ってだけじゃないの?
だって、ぼくはもしかしたら彼女という人が好きなんじゃなくて、彼女とのやりとりが好きなだけかもしれないから。
友だちだって、友だちとのやりとりだけが好きなのかもしれない。
誰でもいいから付きあいたいと言って、それにYESという人は存在するの?
そういう自分の正直な気持ちを知っているから、なおさら恋人が欲しいなどとは言えない。
恋人がいたその時々で、その人が自分にとっての100%だった。
でもその理由は、「まさにその人だったから」ではないような気がする。
さっき言葉は自分を縛ると言ってたけど、ぼくはもう随分前から縛られてる。
ずっと人に興味がないことにほんのささいな劣等感というか罪悪感というものを持っている。
「どんな人がタイプ?」「好きな芸能人は?」「尊敬する人は?」「誰が好き?」という質問を何回も何回もされて、それで正直に「いない」と答えると「えーなんで?」と返ってくる。どうもこの世界では誰かに興味を持ってなきゃいけないようだ。
そりゃあおかしいのは、間違ってるのはきっとぼくのほうだとか思ったりもする。
だからぼくは自分で友だちや恋人を選んだりする権利がないと思ってる。
それが先鋭化して、ヒマであっても誰かを遊びに誘えないまでに至る。
「そんなのは責任を避けたいだけだろう」と罵られても別にいい。
2年ほど彼女がいないという話をするとよく、そのうち好きな人が現れると言われるのだけど、その可能性は限りなく低いと思う。
簡単な話じゃない。異性として好きかどうかだけでなく、ぼくは人間全体にそれほど興味がない。
なんでその状態で急に好きな人が現れるというのか。
付き合わない限り好きな人など現れない。
そしてぼくには「付き合ってください」などと言える資格がない。
どうしようもない。
そのことに悲観視も楽観視もしていない。