はてなキーワード: 日本史とは
同じく地方出身者はなんとなくわかると思うんだが、高校は「地元では自慢できる」レベルのとこに通っていた。
県下一、というわけでもないけど、地元で一目置かれるようなそんなところ。東大進学者を毎年1名出したり出さなかったりするような。
自分はというと文化系と運動系の狭間みたいな部活にがっつりのめり込みつつ、子供の頃から親の影響で続けていたとある楽器と寺社仏閣が好きな、自他ともに認める「変わった子」であった。学力でいえば中学までは特に勉強しなくてもまあまあいい成績が取れる、中途半端に器用な子だった。
親は勉強については大してうるさくなかったが(むしろ楽器の練習をしない方が厳しく怒られたし、数学で10/100点をマークしようが音楽の成績が満点じゃない方が嫌な顔をされた)、お金には厳しく、「大学は国公立しか許さない」と宣言されており、真に受けた私は私立のすべり止めも一切受けなかった。だが高校3年間を部活に捧げた、数学のテストで毎回赤点叩き出すような人間にそのルートは厳しかった。見事に滑りおち、進学先を失った。進学校に通っておきながらこの体たらく。
これから1年浪人するしかない、と思ってふさぎ込んでいたが、そこで偶然にも某専門学校の「大学編入コース」なるものを知る。専門に2年通った後、大学へ3年次編入するというコースだ。ははぁ、よくできてるなあ、と思いながらも学校の担任と両親に相談し、その専門学校へ進むこととなった。
正直入試はあってないようなものなので割愛する。学力レベルからペーパーテストは免除され、英語面接だけだった。まあまあ緊張したが絶対うかると半ば解っていたので強気でいった。ちなみに高校時代苦手にしていた教科は数学と英語だ。瞬間的な暗記力となんとなくで世界史及び国語で高得点を叩き出す完全なる文系である。妙にコアな知識を植え付けてくれたラノベや推理小説たちとヘタリアには今も感謝してる。日本史は文化史だけ異様にできた。
身バレが怖いので色々伏せるが、駅チカでこぎれいなビルがキャンパスだった。キャンパスと言っていいのか?
専門学校内での大きな学科のくくりとしては「英語学科」に属することになり、その中で「英語を使った仕事に就きたい人のコース(翻訳・通訳など)」と「海外の大学に行きたい人のコース」、あと「大学編入したい人のコース」に分かれる。
なんで大学編入が英語学科に属するかというと、ほとんどの大学の編入試験の科目が「英語」「小論文」「面接」のみだからである。(学科によっては専門科目の試験がある場合もある)
授業は9割は英語の授業だった。ネイティブ講師も日本人講師もいたが、とにかく英語。リーディング・リスニング・ライティング・スピーキングの授業がそれぞれあり、それ以外に大学編入のための英語試験対策授業がある。少人数にこだわってて、基本の4つの授業はそれぞれTOEICや学内試験の結果から5段階にレベル分けされていた。私は入学時のペーパーテスト免除、しかも学費も一部免除の特待生扱いで入学したので、「は~やっぱこの程度か専門」とか思っていたが、最初のTOEICテストで300点台叩き出して5レベルあるクラスの下から2番目に入れられる。「出身校」の学力が高かっただけで「私」の学力はクソだった。ただ真面目に授業を受けていればクラスはすぐに上にあがり、最後は一番上のクラスに所属していた。この基本の4つの授業は大学編入以外のコースの人もいた。
残りの1割は資格の授業(英検、ワー検、秘書検、漢検など好きなものを選択できる)の他、第二外国語、小論文対策、PC(というかOffice)など……まあ大学1年生の一般教養と似たような感じだろうか。選択で教養の授業もあったが種類は2,3種類しかない。しかも大して面白くない。
大学1年生と違うのは、自分で授業を選ぶ幅がとても狭いところ。というのも学年によってどの授業を受けるか、カリキュラムが既に綿密に組まれており、「朝ゆっくりしたいから1コマなくそ~」というのは全くできない。選択授業も「とってもとらなくてもいいよ」ではなく「この中からどれか選べ」という選択。なので学期はじめにコースの人間全員集められてHRみたいなことをして、時間割を配られたりしていた。
【学生】
上記の通り様々なコースの人間が入り混じって授業を受けていたので、通っている人は本当にいろんな人がいた。アンタこんなしょぼい専門いていいの!?っていうような頭のいい人から、クソほど簡単なテストを「難しくてヤバかった~」という人まで、本当に様々。Lv.2→Lv.5まで駆け上がるといろんな人と話した。超絶パリピ野郎もいたし、内気で根暗で今にも引きこもりになりそうな人もいた。
同じ大学編入を目指すコースの中だと、まあまあ頭いいけど大学入試では一歩及ばなかった、みたいな人がほとんど。大体がプライド高くてそれを一度へし折られてしまった人、という印象。(私もだけどさ)すべり止めの私大に受かってたけど行きたくなくてこっちを選んだ、という人もいるにはいた。あとは行ってた大学が嫌になってやめて再チャレンジしたいとか……。比較的頭のいい人は多かったけど、それでもやっぱ学力でいうと「まあまあできる」か「いまいちできない」のどちらかだった気がする。コース内で一緒に行動していた友達は国公立に受かっていった人から最後の最後どうにか推薦で滑り込めた人までいた。
コースの人間の数は結構多かった。高校の一クラスくらい……?もっと少ないと思って入学したので意外だった。やっぱり学力レベルでつるむグループが分かれる。男女比は男子の方が圧倒的に多かった。3分の2くらい。でも学年全体で見ると女子の方が多かった気がする。
あと意外といろんな地方から集まってた。やっぱり学校周辺の人が多いのだけど、隣県や新幹線で帰省するくらい離れている土地から来る人もいた。私はかろうじて同じ県ではあるが学校までは通学に2時間かけていて、隣県出身で学校近くに一人暮らししている友達がうらやましかった。
【学費】
高い。私大に2年行くとのかわらん。でも高校時代まあまあ成績取れてたら学費免除は簡単に取れる。(模試の点数とかセンターの点数を基準に学費免除とかしてくれる学校もあると聞く)
本来国公立にしか行かせてくれなかったはずの両親があっさり行かせてくれたので、絶対に学費を無駄にすまいと2年間は真面目に必死に授業や資格取得に打ち込んだ。その後まあまあ就活に有利そうな資格とかちょいちょい取れたので、短大とか他の私大行って仮面浪人するよかよかったなあ、と思った。けどその辺って結局当人の努力次第なので、学校の授業の時間を使って資格取得や受験対策に打ち込める環境にお金払ったと思っている。払ってくれたのは親だが。でも無利子の奨学金も2年次から勝ち取って少し貢献できた。と思いたい。今返済しんどいけど。
1年間みっちり英語を叩き込まれたあと、2年生からいよいよ編入試験が始まる。
3年次編入試験は多くの大学がやっているが、大学によって受けられる条件は様々。私が行きたかった大学は他の4大からの受入のみで、専門卒は受け付けていなかったので諦めた。(でもそういう学校の方が少ない印象)
編入試験の日程は学校によってかなりばらつきがある。早いところだと6月くらいで、遅いところだと2月くらい?私は全部で3つ受けたが、ひとつは8月で、残りのふたつは12月だった。やっぱ秋~冬にかけてが多い。
面接の練習なども授業でしながら、それぞれの試験日に向けて準備を重ねていく。8月に試験を受けたところが第一志望にして最難関の大学だったが、ものの見事に落ちてしまい、泣きながらそのあと友人らとカラオケに行った思い出がある。編入試験は受験科目が少ない分やりやすいと言われるが、その門はかなり狭く、私が受けたところも倍率は5~10倍くらい(だったと思う、もう記憶があいまい)最終的に編入浪人の道を選ぶ人もいる。専門→大学編入のいいところは浪人などの1年のロスを出さずに大学を卒業できる所だが、結局編入試験の壁が高くて編入浪人したりレベルを落としてD~Fラン大学に入ったりと、メリットが活きないことも多い。でも努力してそれが実ればいい大学に入れるのも事実なので、そこは編入にチャレンジする人次第なのかな……とも思う。専門入って遊んでしまった人たちは上位クラスの人でも結局ランクの低い私大に行った人が多く、しっかり努力し続けていた人は国公立や偏差値高い私大に進んでいった。英検1級取得したり、TOEICでマックススコア出した人もいる。
あとTOEICのスコアで試験免除がある学校とかあって、TOEICマジもっと気合入れてやればよかったな、と思った。試験免除にならなくても入学後の単位に換算してもらえたりした。
英語はもうとにかく授業をガンガンうけてガンガン問題解くだけ。喋る・聞くは捨てて、ひたすら読むにステータスを振り続けていた。(書くは申し訳程度にやった)9時半から15時まで授業を受けた後、18時まで学校に残り友達と多少ぐだりながらも勉強(というか課題)、家に帰ってからも英語の長文読解とひたすら向かい合う日々。
小論文は書き方の作法を徹底的に叩き込まれ、あとは個人の文章センスや知識量がモノをいう感じだった。国語と世界史、そしてラノベから影響を受けた文化史系に強かった私には最高の科目だった。
編入試験の過去問も一応あって、見せてもらうためにその大学に足を運んだこともある。(コピーはさせてもらえないので、目で見て出題傾向を把握するのが精一杯だが)あと学校で過去問を回収して過去問集みたいなのを作っていたので、行きたい学校が人気校ならそんなことしなくてもコピーできたりした。英語試験はどの学校も長文読解系が多く、TOEICをそこそこにして英検受けまくっていた自分にはありがたかった。
面接指導は就活とほぼ一緒、だと思う。なんでこの大学に行きたいのかをはっきりさせろ!と言われ続け、「御校に在籍の〇〇先生の研究室で●●について研究したいです!!理由としては!!」みたいな答えをガチガチに固めていった。これはのちの就活に活きたと思う。
【試験】
どの大学も小論文は楽勝だった。8月に受けたところは英語で予想外の作文が出て動揺し、読解問題では時間が足らず、涙を呑んで不合格を覚悟した。翌日即結果発表だったが、当然私の受験番号はなかった。
第二志望の大学の前に第三志望の国公立を受けにいったが、家から遠く深夜バスでの移動となった。しかもバスからまた電車で移動するが乗換をミスり試験に遅刻。席に着くために荷物を通路に置いたら試験管に怒られ、萎縮しながら受験したが英語は予想できたレベルでむしろ楽しかった。1週間後には結果が開示され、無事合格。
そして満を持しての第二志望。同じ学校から他にも2名受けることになっており、一緒に移動。英語試験はやや苦戦した覚えがあるが、それよりも面接がしんどかった。大学に、特にその学校に入りたい理由を述べ(行きたい研究室があるでゴリ押しした)、なぜそれに興味を抱くに至ったかなどを話したが、とにかく緊張して噛みまくり、面接官に不審な顔をされ落ちたと悟った。しかしその試験当日、夜から私の受験期を中学から支えてくれた某バンドのライブがあり、普通に間に合わなさそうだったので走って会場を後にした。ライブはギリギリ間に合った。そして入試も無事にパスできていた。
進学先が二つ用意されたわけだが、もちろん第二志望を選択。一応国立大なのと、高校時代から学びたいと思っていた専攻があったのが決め手だった。思う存分研究に打ち込めたと思う。嘘。2年では足りない。もっとやりたかった。でも取りたかった単位や聞きたかった講義はほぼコンプできた。
上記でも少し触れたが、入学時に専門学校の授業の単位を大学の単位へ変換してもらえるため、本来4年で取る卒業単位を2年間で全部とれ、ということにはならなかった。特に私は人文学系だったので、変換がスムーズにいったというのがある。法律や経済系の学科は専門科目の変換が難しく、卒業単位を取れなくて留年した人が多かった。(と後に聞いた)
1年大学ライフを満喫したのちすぐ就活なのはきつかったが、興味のあったサークルにも在籍し2年間最初から最後まで活動できた。でもいくら単位変換してもらったとはいえ他の3年生に比べると圧倒的に単位は足りてない(その上私は卒業単位にならない資格系の講義も取っていた)ので、ほぼ毎日1~4コマ、そのあとサークル!バイト!みたいな生活をしていたし、就活の時期は本当にしんどかった。英語の資格(TOEICスコア700前後と英検準1級)と進級のために取らざるを得なかった数々の英語以外の資格、そしてあの日の面接対策と小論文対策が活きたのだろう……と思うと私はこのルートをたどってきてよかった。他の短大や4大出身の編入生は就活で軒並み苦労していた。でも専門より大学の方が圧倒的に楽しかったです。普通に1年生から大学入りたかった。
大学編入後で一番しんどかったのは、3年生でありながら1年生に交じって体育やらされたことかなあ。
色々書いたけどあくまで文系の話です。理系の編入はもっと大変と聞くし、そもそも専門→理系学部編入というルートが恐らくない。
東大や京大に比べたら底辺もいいとこだけど、こういう抜け道もあるよっていう話をしたくて。でも根っからの文系だった私だからこそうまくいった裏ルートみたいな感じではあるんだけどさ……。うまくいかなくってせっかく編入した大学やめて引きこもりになってしまった知り合いもいるし、正直この専門→大学編入というルートを誰にでもお勧めできるかというとそうでもないけれど。
あと社会人なってから編入で大学入って、教員免許だけ取って中退した編入生の知り合いもいる。社会人なってから大学で学びたいという人で4年は長いという人にもいいんじゃないかな。あと大学とりあえず入ったけどつまんなくて他の学科行きたいとか他の環境行きたいって人。
私は本当は大学院に進みたかったのだけど、やっぱり学費の関係で諦めて就職した。研究してた分野とも全然違う仕事をしているけれど、趣味としてまだその分野についての情報収集や勉強は続けている。なお英語をかなり使う仕事だし専門時代に取った資格もそれなりに活かせてはいるので業務内容には満足している。
いよいよセンターが近づいてきて、不安な受験生たくさんいると思うけど、どうかここだけが人生の決め手とは思わずに気楽に頑張ってほしい。案外人生どうにかなることの方が多い。
いやーそんな実感全然ないけれど、日本は好景気らしいですよ、奥さん?
税収がバブルよりも多いらしいです。60兆円超えだそうです。
すごいなー。実感全然ないけれど。
30代ですが。
で、消費増税するんだそうです。
日本は滅びないけれど僕の財布は滅びそう。
そんで、野党が「お前ふざけるな日本が滅びるどころか日本史上最強に儲かってるじゃあないか。弱者に還元しろ。増税やめろ儲かってるんだし」
といわないのはなぜか?
それは野党的に「未だに不景気でアベノミクスは失敗し、すぐにボロが出て化けの皮が剥がれるから、緊縮財政しろ」って批判し続けてたから。
もう景気はいいんだよ。
与党も野党も日本はホロン部に所属してるから、日本幌美内党がほしい。滅びないって。国も企業も過去最大に儲かってるのだから。
日本幌美内党の出現こそ待たれる。
「高校レベルの世界史」の知識など、持っている奴は少数派に決まってる。
大学行かないやつもいる。日本史か地理をとるやつもいる。現代史までやらない学校もある。授業でずっと寝てるやつもいる。
そこいくと民主主義がイイヨネ!っていうプロパガンダ的思想は、小学生レベルなんだなあ。
中世ヨーロッパ風だとか戦国時代風のRPG・アクションゲームを初めてプレイした時、
「人間でかっ!」
博物館で戦国時代日本や中世ヨーロッパの実寸大の甲冑(デカくても150~160センチ程度)を見ながらヨダレを垂らして、
平然と現代人の平均(170センチ)の体格の人間が中世風の街並みを闊歩している光景を
「その辺を歩いている町の人」の体格なのだ。
戦士となると平気で180~190センチ、2メートル越えのキャラクターも現れる。
日本だとまだいい方で、
どいつもこいつも胸板がデカすぎて、
甲冑の胸部装甲がもはや平たいエプロンみたいに引き伸ばされている惨状を呈している。
パパッとGoogleの検索で過去までさかのぼってネット上の書き込みを調べたところ、
どうも「文明に囲まれた現代人はひ弱で、昔の人は強かった」という思い込みと
「昔の騎士や武士はあんな重そうな甲冑を着て戦っていたのだから、さぞマッチョに違いない」という思い込みが
合体したことによって生まれたのが「騎士やサムライはマッチョ」というゲーム界隈のミームらしい。
さらに、このミームは進化して「騎士やサムライはマッチョじゃないとリアルじゃない」にまでなってしまった。
そして、ファンタジー世界の人間は際限を知らずにマッチョになっていった。
もし誰か一人でも博物館に行って、実物の甲冑を見たら考えを改めたのかもしれないが……
このミームの出所がアメリカだとしたら、「博物館で本物の甲冑を見ろ」というのは酷かもしれない。
白人がアメリカ大陸を開拓した時代には彼らはもう甲冑なんて着けていなかったのだから。
アメリカで本物の甲冑を見られる博物館なんて数少ないだろう(たぶん)。
実際には前述の通り、(昔といっても広いが概ね)昔の騎士やら武士やらは
160センチあればもう「長身」の世界。現代日本人の高校生がタイムスリップしたらもう「大男」で、
現代人のボディビルダー体形の人間が中世ヨーロッパにタイムスリップすればもはや「巨人」だ。
これは歴史学的には常識で、「たまたま例外的にデカい人間もいた」というだけで、
特に「中世の人は全体的にデカかったんだ!」という異論もあんまりない。
いや、「異論が無い」というか、実物を見れば誰でも一発でわかる。
当時の甲冑を博物館で見れば、どう見ても「昔の人は小さい」という結論以外は出せないだろう。
もし見たことが無いという人はぜひ博物館に行ってみてほしい(宣伝)。
(大量生産なんて当時はもちろん無かったので、全身鎧はオーダーメイド。
なので実物の甲冑の体格=当時の「戦う人」たちの実際の体格といえる)
他にも中世ヨーロッパの家具の実物、当時の人々が使っていた家の寸法……
あらゆる事実が昔の人は小さい、というか「現代人はデカい」という結論を示している。
毎日安定的にたんぱく質を摂取してる現代人の方が昔の人よりデカいのは栄養学的に当たり前だ。
しかし、
「人間の筋肉はたんぱく質をちゃんと摂取しないと成長しない」という保健体育の知識と
「畜産技術や輸送技術が未熟だった昔は今と違って肉を安定的に供給することはできなかった」という世界史・日本史の知識を合わせれば、
「昔の人の体格は小さかった」という合理的な結論がすぐわかりそうなものだが……
教科と教科がまたがっているので、
私は小中高と学校に通学している間、歴史には全く興味が持てなかった。
理由としては、私は生まれも育ちも札幌なのだが、私が興味というか憧れるのは戦国時代だとか飛鳥時代や平安時代といった時代。
基本的に幕末辺りから北海道が日本史に食い込んでくるわけだが、上記の様な歴史として面白い時代は基本的に本州や九州を中心とした土地が舞台となる。
となると、そういう何百年、何千年の歴史を身近に感じ取れれば少しは歴史に興味持ったであろうと思うが、北海道は基本アイヌがメインとなる。
もしくは、江戸時代や幕末辺りで松前とかそこら辺ぐらいしかないわけだけども、松前や函館は道民としてはそこまで惹かれないし、幕末にはあまり興味ないので尚更見向きもしなかった。
そういう経緯もあってか、まともに歴史に興味を持ち出したのは20代になってからだった。
歴史好きから見れば賛否両論あるようだが、歴史初心者としてはNHKのタイムスクープハンターとか歴史秘話ヒストリアはとても面白かったし、これが切っ掛けで日本史に興味持った。
今でこそ日本史に興味持ち出して、なんならここ最近はゴールデンカムイ等の影響もあってアイヌ文化にも興味も出てきたから、今更になってアイヌ文化が身近に触れられる道民で助かったと思う。
ただでもやっぱり、少年時代には序盤にも書いたような時代に縁のある土地や、神社や寺などに触れてみたかったと憧れる。
歴史好きからしてみれば「北海道(蝦夷)にまつわる歴史なんて○○あるじゃん」って思う人もいるかもしれないが、そこはまだ歴史興味持ち始めたばかりの若輩者という事でご容赦願いたい。
ラジオ「Session-22」書き起こし。https://www.tbsradio.jp/319359
"大学生のデート経験率は過去最低" 草食化とも報道された「青少年の性行動全国調査」その結果から読み取れる本当に大事な事とは?
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荻上:
後半、性教育の方にちょっと話を広げていきたいと思うんですが、今回性教育についてはそもそもどんな調査が行われていて、どんな分析結果が出たんでしょうか?
永田:
まず、どういうことを学習したのか、ということについて質問をしていくというのが継続になってます。
HIV、エイズですねーー先週末イベントでもあったようなーーあるいは妊娠の仕組みとか避妊の方法、性感染症とかいろんな項目に関して、継続的に学校で学習したかどうかというのを聞いて、それがどれぐらい学習した経験を持っているっていう風に回答するのかなというのを見るというのが、まぁ大きいところです。
あとこの調査でちょっと面白いのはクイズをですね、出すんですよ。
教育ってわけじゃないんですけど、性行動に関わるような……例えば「精液が溜まりすぎると体に悪い影響がある」正しい?間違ってる?とかそういうのを7問ぐらい出して、どれぐらい正しい知識を持ってるのかクイズ形式で訊いているって言うのも、ちょっと特徴的なところかなとは思います。
荻上:
アメリカとかでは、偏見浸透率調査みたいなもので、例えば進化論はないと思ってるとか、ワクチンは効かないとか、あえて間違った知識がどの程度広がってるのかみたいなものを調査するってのいうようなことをやったりしてますけれども、今みたいなクイズもとても重要ですよね。
永田:
そうなんですよね。
偏見の度合いというか、どういう風なところに今みんなが引っかかってるのかっていうのが割と分かるというのが面白いとこだなとは思いますね。
荻上:
分かった上で言ってるんだけど、それが結局騙されてしまうということになることもあったりしますし、今言った例えば「体に悪いからマスターベーションしてます」って言ったりすると、ダイレクトに体に悪いわけじゃないよって言われてしまうと言い訳が一個無くなっちゃうんじゃないか、と。
でもまぁ、メンタルには良かったりしますから、どうぞどうぞしてください、ということだと思うんですが、今言ったようなクイズを出しながら色々調査をすると、どうでしょう、推移、変化を感じ取れるような所ってどんなところにありますか?
永田:
そうですね、「既習率」という風に言いますが、どういうことを勉強した経験がありますかっていうことですね。
荻上:
既に学んだ経験率っていうことですね。
永田:
そうです。
学校で以下のようなことについて勉強した経験がありますか、というのを聞いたと。
それを2005年から2017年、今回調査にかけて3回推移を見てるんですけれども、基本的にHIV、エイズ、それから体の仕組み、それから性感染症のあたりは8割バッターぐらいで、まあまあ既習率高いですね。
荻上:
バッターとしては凄すぎますけど(笑)8割くらいということですね。
永田:
それはやっぱり、保健体育の内容なんですよ。
保健体育って試験もありますし、割と1年生くらいの段階で結構しっかり勉強させるところではあるので「学習した経験があります」という風に答えるのが多いというのはありますが、それに加えて学校で勉強したことを折に触れて、例えばニュースとかいろんなとこで触れる機会があると定着しますよね。
ですから、学校での教育ってもちろん大事なんですけども、それに加えての啓発活動とか色々な情報提供ってとっても大事で、だって一回学校で勉強しても忘れるじゃないですか、歴史とか日本史とか忘れますよね(笑)。
荻上:
永田:
荻上:
永田:
南部:
つながっていきますよね。
荻上:
その指摘は歴史学の人たちから「ドラマです!」というのもあるかと思いますが(笑)。
永田:
ごめんなさいごめんなさい(笑)。
荻上:
ただ教科書でちゃんと学んだ上で、あるいは学校で学んだ上で、テレビであえて、じゃないけれども、間違った情報に触れたときに、違う仕方で表現しているな、という風に学べるのか、それともそうしたものから触れてしまって、そう学習してしまうのかは、差が出てくるじゃないですか。
永田:
おっしゃるとおり。
荻上:
これは既習率、つまり、性教育などで学んだ人とそうでない人とで、その後の行動や知識の正答率というものは変わるんですか?
永田:
変わりますね。
正答率が高い人というか、もうちょっとちゃんと分析的に言うと、学習経験が多い人と少ない人ですね。
よりたくさんの項目を勉強しているという人と、必要最低限というかみんなが学習している程度の内容で止まっている人っていうので比べてみると、よりいろんな項目を勉強している人の方がクイズの点数は高いです。
もうちょっと言うと、これ今回の調査の分析では出てないんですけど、前回調査の分析の結果としては、情報源が学校である子っていうのはーー情報源って色々ありますよね?雑誌とかね、ビデオとかねーーそういう子と比べるとやっぱり正答率が高いというのはあります。
荻上:
たとえばリスク行動であるとか、自尊、自己認識であるとか、他のものに対する影響っていうところまでの分析というのはどうなのでしょうか?
永田:
えっとね、自尊感と性教育っていうところはちょっと難しいんですが、もうちょっとなんですけれども、ただ性に対するイメージはやっぱり違いますよね。
つまり性に対して、明るい、とか、楽しい、とか、そういうポジティブなーーまぁ項目いろいろあるんですけどーー今いったような事に関しては、たくさん学習している、いろんな角度から性について学習している経験を持っている人の方が、イメージがポジティブっていうことがあります。
荻上:
それからあの、冒頭でも少し紹介させてもらったんですけれども、あの最初のセックスでコンドームをつけてする人としない人とでは、その後もつけてするかしないかが変わるという話……
永田:
あれ面白いですよね。
それも前回調査の分析なんですが、それは多分今回もそんなに変わってないんじゃないかなというふうに思います。
その具体的な避妊、今とりあえずコンドームの使用なんですけれども、コンドームの使用に関して、まず初交でコンドームを使用していた人っていうのはその後の性交においてもコンドーム使用する傾向があると。
その初交の時にコンドーム使用するかどうかっていうのは「相手のことが好きだったから」ていう風な動機で性交、初交に至った人っていうのは割と避妊もしっかりするっていうことは、そういう道筋があるかなっていうのは分かっているところで見えてきているところですよね。
荻上:
この間の変化としては「セクシュアル・マイノリティについて学びました」という人が6年間で倍増近くしてるということは結構これは重要な変化であると同時に、ただ男女差で見るとマスターベーションについては、男性が5割近く毎回調査で学んだことがあるよって人が多い(注:5割程度「いる」か?)んですけれども、女性の方が2割ぐらいだという事で、こうしたそのジェンダーギャップがでるような項目っていうのも色々ありますよね。
永田:
ありますね。
あともう一つがやっぱりあのクイズの結果もそうなんですが、自分が直接関わるようなこと、つまり女性の場合だったら月経に関する項目なんかは既習率も、学習してその後覚えてるって言うことで既習率も高くなるしクイズの正答率も高くなる。
男性の場合だったら、マスターベーションであるだとか、あるいは精液、精通に関するようなクイズはやっぱり正答率が高くなるというとこでちょっとジェンダーギャップっていうのはあって、私これはちょっと乗り越えたいとこだなと思いますよね。
だってほら、自分のことはわかるけど相手ーー異性愛で想定するとーー相手のことってやっぱりわからないっていうのがあるので、男性は女性のこと、女性は男性のことをもう少ししっかり学習できるようになるといいなぁとは思いますが、まあそういう課題は見えてきますよね、数字の上での。
荻上:
昔は男女別学で、保健体育の時は教室を分けてみたいな仕方で、生理は女性だけが学ぶと。
でも例えば、上司部下の関係で、部下が女性、上司が男性で、生理休暇について無理解だったり、あるいは上司が女性、部下が男性で、上司が体調悪そうにしてることを「なんだよ女は」みたいな形でざっくりと大雑把に暴力的に回収してしまうみたいな、そうしたことがないように、生理とは何なのか、周期とは何なのか、PMS みたいな苦しみは何なのか、とか、当事者のことを知る、っていうことは理解をするためにはまず一歩にはなりますよね。
永田:
そうなんですよね。
あの、今となっては保健体育もテストが共通なので、男女によって既習の内容がもう大きく違うっていうことはだいぶ解消されてるとは思うんですけども、結局学習してもその後定着しなければあまり既習率の数字としてはね返ってこないので、日頃からどういう情報に触れていくかとか、相手のことを知るような努力するとか、そういうところに関わってくるかなとは思いますよね。
荻上:
他にも色々性に関した課題が沢山あるわけですけれども、今日永田さんが「ここが面白い」って言ってくださったポイントっていうのは、要はそこに政策的社会的課題がより濃縮されてるポイントだということになるわけじゃないですか。
そうしたことを踏まえて、これからこの調査を活かした上で、どんな性に関する教育であるとか、発信が必要だという風にお感じになりますか?
永田:
私が思うのは、やっぱり日頃から情報に接するチャンネルを増やすっていうことかなとは思います。
例えばあの圧倒的に多いのは、性に興味がある子はインターネットで調べるんですよ。
その時にどういう風な情報にアクセスできるのかっていうのって結構微妙な問題だなあというふうに思いますよね。
荻上:
思います。
例えばあの YouTube とか子供の重要な情報源になってますけれども、そこで「セクハラ」とかで検索すると、例えばその”芸人の何々が何々にハラスメントしたあの瞬間”みたいなものが違法アップロードされる、お笑いの番組とかで。
あるいはユーチューバーがドッキリと称して誰々にセクハラしてみた結果とか、妹にセクハラした結果、みたいな仕方で出てきて、セクハラを受けた場合、何がセクハラであるのかとかその時の相談先はとか、そうしたものが YouTube だけじゃなくて Google 検索とか諸々出てこないんですよ。
それを変えるための活動とかも今、してはいるんですけれども、そうした点もやっぱり重要ではありますね。
永田:
だと思いますね。
やっぱり教育が果たせる機能ってかなりあるとは思うんですけれども、どうしてもあの教育である以上は一定の基準とか評価の基準みたいなものを持たないといけないので、ともするとパターナリズムに陥りがちなんですよ。
荻上:
こうしろ、とか、こうあるべき、とか。
永田:
それはまぁちょっとそういう風な方向ばかりになってしまうのは、やはり望ましくないと。もちろん教育は教育で一つの大事なチャンネルなんですけども、情報をいろんなところから提供していくことで、より自分にしっくり来る情報に自分たちが主体的に接することができて選ぶことができていく、っていうのが望ましいっていう風なことではあの一番大事かなぁ、ていう風に思いますよね。
荻上:
こうしたその結果が出た時に、メディアで報じる際「こうなってます」だけじゃなくて、これをきっかけに、たとえばもうお昼の番組でもいいんでーー多分結構間違ってると思うんです、皆さんの知識って。土曜日にあったイベントでもコンドームの開け方付け方……。
永田:
ああ、あれねー。
荻上:
あれだけでも正しく使える人の方がむしろ少ないという現状があるということがわかった。包茎の人とそうじゃない人で付け方のポイントが変わるとか、そういったこと知らない人多かったりするじゃないですか。
そういったような事を細かく、そのちゃんとチャンネルを含めて発信していくために、データを活用しながらいろんな現場と繋がっていきたいですよね。
永田:
そうなんですよね。
単に興味本位でいくんじゃなくて、こういう状況だからプラスでこういう情報が必要なんだ、って考えていくってことですよね。
南部:
今夜は社会学者の永田夏来さんをお迎えしてお送りしました。ありがとうございました。
ありがとうございました。
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ラジオ「Session-22」書き起こし。https://www.tbsradio.jp/319359
"大学生のデート経験率は過去最低" 草食化とも報道された「青少年の性行動全国調査」その結果から読み取れる本当に大事な事とは?
「数学の修得には時間がかかる」ことの概説 - Unhappy Go Lucky!
ただ、文系学部の「研究」や「卒業論文」の位置づけとかについて、過大評価していただいているような気がしなくもない。日本語とは縁遠い言語を話す地域を専門とする史学科卒の人間として、「ゼミ」や「卒論」の位置づけについて語ってみたい。
いやこれは本当に分野によるのだが、「研究」というよりも「勉強」をやっているところが多い。歴史学というのはまず史料に何が書かれているかを正確に読み解く必要があるのだが、その読み方を徹底的に叩き込まれる。場合によっては修士課程でもこれが続く。もしくは、研究文献の読み方を叩き込まれる。そもそも2・3年前まで高校生だった連中である。文系の研究書をどのように読むべきかよくわかっていない人も多いし、英語の本を通読なんてしたことないですという人がほとんどだろう。レベルの高い大学なら外国語文献の購読をし(何語なのかは研究分野や参加者による)、あまりレベルの高くない大学なら日本語の本・論文の読み方をゼミで躾けられる。
(「史料」ってのは要するに「昔の人が書き残したこと」。王様の勅令だったりお役所の行政文書だったりインテリの書いた思想書だったり過激派の撒いたアジビラだったり新聞記事だったり、色々である。公文書館に行って実物を見てくる場合もあれば、別の学者がまとめて印刷出版してくれたものを参照する場合もある)
何で学部の段階からゼミに分かれるか、というと、「歴史学とは何か」「史料批判とは何か」みたいな概念・方法論レベルの話や、「いやしくも歴史学を学ぶ者として最低限踏まえておくべき各地域・各時代の基礎知識」みたいなのを除けば、分野ごとに身につけるべきスキルが全然違うので。江戸時代の歴史なら江戸時代の古文書、明治期の歴史なら明治期の文書、中国史なら漢文、イギリス史なら当然英語の古文書……を読まないといけない。イギリスについて研究したい学生が日本の古文書の読み解き方を勉強しても時間の無駄だろう。逆もまた然り。
慌てて言えば分野による。
社会調査とかする分野で、自分なりにアンケート調査してみた、とかそういう論文なら、どれだけ拙かろうがオリジナリティはあるだろう。あるいは歴史学でも、オリジナルな史料を発掘することが可能な分野ならオリジナリティは出る。
ただやっぱり、学部4年の段階で大層な「オリジナリティ」は出てこない。そもそも外国史の場合、史料の読解すら教員の手助けを得てようやく、という人が多い。歴史学では一次史料が重視されるが、私の分野では卒業論文で一次史料を使った時点で優秀な学生の部類に入るだろうなと思う。二次文献、つまり他の研究書や論文をまとめて長いレポート(うちの大学では3万2,000字が下限だったかな)を書けたらOK、という運用をしている大学も多いのではないか。まとめるのにもオリジナリティは出るしね、という苦しい理屈だしそんなの査読つき学会誌に「論文」として発表できるレベルではないが、学会誌に「論文」として出せるレベルのものを要求していると4年では足りないわけで、多くの史学科の学生は修士論文で初めて学会誌に投稿できるレベルのものを要求されることになる。
何度も言うようにこれは分野による。地味に重要なのが、「その言語は大学で第二外国語として開講されているか、あるいは教養科目で講義が受けられるか」という点。朝鮮史やドイツ史やフランス史の場合、韓国語やドイツ語やフランス語は文系の学部ならたいていは必修の第二外国語として教えられていることが多いので、卒論でも韓国語ドイツ語フランス語の論文は読めて当然だよなあ? というハードモードになることもある。中国史なら「高校から漢文やってるんだしゼミでも読んでるんだから卒論でもちゃんと漢文の史料は読めるよね? 現代中国語の論文も読んでね」ということになるだろう。英語? そんなの読めて当然でしょ? 第二外国語ではなくとも、たとえばトルコ語やアラビア語なら多少気の利いた大学なら教養科目とかで開講されているから、イスラーム史やりたいなら学部1年のうちから履修しといてね、という話になると思う。逆に、マイナー外国語が必要な分野だと、せめて英語の本くらいは読んどいてね、くらいにまでハードルは下がる。アイスランド史を勉強したいです! と言われても、日本でアイスランド語の授業がある大学がいったいいくつあるのか……という話になるわけで。まあ東大の某ゼミではゲエズ語購読とかやってたらしいですけどね。雲の上の世界すぎてまったく想像もつかない。
なので、大学に入った段階で既にどの分野に進むのかなんとはなしの道筋がついていないと厳しい。第二外国語で韓国語を選択して、やっぱり私ドイツ史がやりたい! というのは不可能ではないが難しい。第二外国語選びの段階である程度進路が決まってしまう、というのが史学科の特徴だ(まあ、英文学科とかは、学科選びの段階で専門地域が決まってしまうわけだが……)。イスラーム史やるなら第二外国語はフランス語にしないとね。そんなのついこないだまで高校生だった連中にわかるか! もちろんこれは大学による。西洋史に進学した者にはドイツ語とフランス語双方の習得を義務付ける大学もあるそうである。これならヨーロッパのたいていの地域に対応できるね! 史学は語学と言われる所以だ。
あとは西洋以外の地域だと、「史料に書かれている言語」と「論文に使われている言語」が違うことが結構あって、何でかといえば近代以降に西洋諸国に植民地支配されていたりすると「オランダ人研究者がオランダ語で書いたインドネシア史についての先行研究」みたいなのがたくさんあるので。つまりいくらインドネシア語やアラビア語が堪能でもそれだけでは片手落ちで、オランダ語やフランス語ができないと先行研究が読めないので勉強せざるを得ない(付け加えるなら、植民地支配されてたということは、お役所では宗主国の言語が使われていたり宗主国のお役所に植民地統治を担当する部局があったりしたわけで、それらの史料は当然宗主国の言語で書かれている)。さらに前近代史だと、「昔使われていた言語」と「現在使われている言語」が異なっていることが多く、典型的には古文とかラテン語とかである。現代日本語の論文はスラスラ読めても古典日本語はチンプンカンプンという人も多かろう。前近代非西洋の征服王朝なんかだと大変で、現地語+支配階級の言語+植民地支配してたヨーロッパの言語、をやらなければいけなかったりする(アラビア語+オスマン語+フランス語、みたいな感じ)。いやー、西洋現代史はヌルゲーの領域っすわ……その国の言語ができれば用足りるからなぁ。現地に行けばネイティブスピーカーがいるから勉強も簡単だし(アッカド語みたいなネイティブがいない言語を習得してる人ほんと尊敬する)。もちろんここで少数民族とか国際関係史とかに興味を持ってしまうと語学沼に引きずり込まれるわけだが。イギリス史なら英語だけでいいだろうと思っていたらうっかりウェールズに興味を持ってしまいウェールズ語を勉強することになりました、とか、ドイツ語だけで通そうと思っていたら枢軸国の外交に興味を持ってしまったせいでイタリア語も読んでます、みたいな。とはいえこれらは院に進学してからの話(あるいは院への進学を希望する学部生の話)だ。院に進学しない学生の卒論レベルなら日本語+英語or中国語でじゅうぶん、という運用の大学がほとんどだと思う。
(ヨーロッパの植民地についてしか述べていないのは、日本の植民地の場合宗主国の言語を習得する困難はほぼ存在しないからであって、日本は植民地支配をしていなかったと言いたいわけではないので念の為。もちろんこれは日本語母語話者である学生の話で、韓国や台湾の学生あるいはそれらの国からの留学生は植民地時代の自国史を勉強しようと思ったら日本語を読まなければいけないわけであり、なんというか申し訳ない)
でもまあ、卒論書くのは大事ですよ。たとえそれがレポートに毛の生えたレベルのものであっても、院に行かない学生にとっては専門家に指導されしっかりと文献を読み込んだ上でこんな長文を書かされる機会はこの先の人生でなかなかないし、それを経験するというのが大学に行く意味だと思う。院に行く学生にとってはもっと長い修論や博論書くんだから当然このくらい書けなきゃ話にならんわけで。
これも分野によるのだけれど、たいていどっかに留学する。中国史なら中国や台湾、フランス史ならフランス、みたいに。留学先で大学のゼミに参加したり史料を集めたり現地の専門家に指導を受けたり、あるいは分野によっては語学の勉強をしたりする。もちろん複数国に留学してもいいし、研究対象国以外に留学することもありえる。アフリカ史を研究するためにポルトガルに留学した人がいたり(イエズス会士が書いたものを読みたかったらしい)。で、帰国してから博論を書く(たまに留学先でそのままPh.D獲っちゃう人もいる)。
上述のような事情があるので、歴史学を専攻している人はたいてい4年以上博士課程に在籍する。ちゃんとした大学で3年で博士号獲るのは一部のバケモノだけです。たまにいるんだよそういうバケモノが。日本史なら楽勝かというとそういうわけではなく普通に4年以上かかってることが多い。留学期間とかもあるので、博士課程の先輩に学年を聞いても即答できないことが多いから気をつけよう。29歳でドクター? 夢物語かな? まあ本当に文系の大学院なんて資産家の子供か養ってくれる配偶者持ちか自殺志願者以外は来ない方がいいです。男性歴史学者が書いた研究書のあとがきに奥さんへの謝辞が書いてある場合、もちろん本当に純粋な感謝の念であることも多かろうがけっこうな確率で一時期ヒモ生活を送っていたことへの感謝だったりする。奥さんの実家でチクチクとイヤミを言われた経験を聞かせてくれた教授もいらっしゃる。これ有名大学の教授様になれたから笑って話せるだけで、なれなかったら悲惨だよな……。まあでも、研究者の不遇っぷりは文理問わないか。
査読論文はあるって言ってんだろ……私の分野だと,最近の若手で査読論文なしで任期なしのアカポスに就職してるひとなんて見たことないわ.
全てのひとが外国語論文を書いてないわけじゃ当然ないよ.私の友達にはドイツ語論文持ってるやつもスペイン語論文持ってるやつもいるし,私の先輩はIF高い国際英語誌に何本も載せてるし,日本で大規模な国際学会も開かれたりしてる.私も外国語論文は持ってます.当然そういうの持ってた方が評価は高くなりますねー.
大部分の学者はちゃんとやってると私は思ってるよ。でもその知識がアカデミアに入らない国民には理解しようもないし、還元されようもないなら、あいつら何かよくわかんないけどサボってんじゃないかとか、税金かける価値ほんとにある?とか言われてても擁護しようがないじゃん。
日本語で学術出版してる(し,概説書とかも書いてる)んだから知識は還元されてるでしょ.市井の読書家たちは現代思想や文学や法学や人類学や歴史学や社会学の学術書を読んでるわけ.あなたは読んでないかもしれないけど.学術言語としての日本語の重要性,ってそういうことだよ.私たちは母国語で色んな分野の最先端の研究を読めるの.最近だとアウトリーチが評価されるからアカデミアの外で色々啓蒙活動的なのはやってるよ.SF作家と法学者のトークセッション参加したけど面白かった→https://www.youtube.com/watch?v=RQsdc_6MGNA.
それができなければ〇〇論文誌の論文は毎年学会で全部ちゃんと議論してます(その結果もまとめてあるのが理想)って表明するとか(日本語できる人でいいんだが)外国の学者をもっとポストに招聘してうちの学会はオープンですってアピールするとか面倒臭くても何か工夫をしないといけないと思う。
主だった学会の学術誌には当然査読があるので(特集論文とかだと査読なかったりするかもしれない.のでふつうの投稿論文読もう.たいてい査読がある),そういうのをお読みになれば.『社会学評論』だって査読つきだろ,というのはあちこちで指摘されてたよね? しょーじきこんな当たり前のことを何度も繰り返すのマジ徒労でしかないんだけど.日本文学研究とか日本史研究とか東アジア研究とかなら外国人の研究者や留学生は普通にいるし(何度も言うようにこれらの分野では日本語が国際語なので),外国人の客員研究員を継続的に受け入れてる研究所もある.現地の研究者と共同で英語の論集作ったりしてる(査読はしてないかも).人文系での外国の研究者との共同研究の一例として,ちょっと古いけどこんなのとか→http://hdl.handle.net/2115/39022.
id:wildhog 言語と研究の価値は直接関係ない。とはいえ世界大学ランキングに役立たないし、留学生や海外の研究者に対して敷居が高くなるから英語で書いた方が得じゃない?
じゃあランキング気にするのやめるか英語以外の研究も拾えるランキングにしろよボケ,が前段への返答で,そんならアメリカ人は日本人にとって敷居の高い英語やめてくれない? 日本語で論文書けよ! が後段への返答っすね.マジあいつら日本史や日本社会についての論文や著書すら英語で書きますからね.それを日本人の研究者がわざわざ日本語に翻訳してますからね(悔しいことに面白いんだこれが).別にそれが悪いことだとはまったく思わない,というかむしろアメリカ人の日本研究者が英語で書くのはそりゃ当たり前でしょって感じだけど,広い読者にわかるように日本の研究者は英語で書けとか言われたらまずあいつらに日本語で書かせてから言えよくらいは言っていいですよね.日本史の読者のボリュームゾーンはまずもって日本人なわけで.アメリカ人が英語で日本についての論文を書いても,えー英語論文しかないのー,日本語論文書いてないとかレベル低すぎー,とアメリカのアカデミアで冷遇される世界になったら日本語で論文書いてる欧米研究者を冷遇してくれて一向に構わないので,そのへんどうかよろしくお願いします.
というか日本語を習得して日本語で論文や博論書いて本も出してる留学生の方だって大勢いらっしゃるわけですよ.私はこれまで,中国人・韓国人・台湾人・モンゴル人・ポーランド人が書いた日本語の単著を読んだことがあるし,ウイグル人やカザフ人やエジプト人やアメリカ人で日本語論文書いてるひともおられる.琉球の方言学とか見ると定期的に日本語論文を投稿してらっしゃるニュージーランド人研究者もいらっしゃいますね.日本語は外国人研究者によっても使われる立派な学術言語です.
モンゴル人研究者が日本語で書いた単著の一例(査読つき)> https://www.yamakawa.co.jp/product/67381
id:parosky 論文は人類の知の体系に貢献するものだからみんながアクセスできる言語じゃないとダメじゃない? という意味で英語なことが重要だと思ってたけど、たしかに界隈の人がみんな日本語を読めるなら日本語でもいいね
「みんなが日本語を読める」んじゃなくて,「重要な日本語の先行研究がたくさんあるから頑張って日本語を勉強する」んですよ……
この辺の感覚が理解されてないんですかね? 文系にとって標準言語は英語だけではなく,分野によってはいくつかあったりするのが普通なので,頑張っていくつかの言語を勉強するんです.西洋古代史なら英語や古典語の他にフランス語とドイツ語の先行研究を読む必要があるし,インドネシアの近代史や人類学を勉強したければ英語とインドネシア語の他にオランダ語を学ぶし,中国の前近代史なら英語と中国語の他に日本語が読めないとね,という要求水準があって,それらの言語を知らない人は勉強する必要があるわけですよ.英語さえ読めれば研究ができるひとたちにはわからない感覚かもしれませんけど.
正直,中国を研究してる欧米人が英語論文の中で日本語を引用してるのを見て,「あっ,つづり間違ってるな,こいつあんまり日本語得意じゃないな」って思うことはあります.たぶんもともと中国語が専門で,日本語は研究に必要だからいやいや読んでるんだと思いますけど,西洋を研究してる日本人は同じことをドイツ語とかフランス語とかに対して思ってたりするわけで,まあお互い様っすね.
id:nakex1 自国語しかやってないと自国語で形成される村の思考の枠組み(そこから発生する評価の枠組み,師弟関係や派閥)から出られないんじゃないかという懸念はある。
師弟関係やら派閥やらはともかく、思考の枠組みとか言われても、社会学は英語圏からの輸入学問なんだから、英語圏の発想や思考をバッチリ取り入れた論文書いてますよ! 英語圏の理論の本とか翻訳されまくってるし,未翻訳の本でも原語で引用してるひとは大勢いますねえ.当たり前だけど,執筆言語が自国語であっても,自国語で論文書くために読まなきゃいけない言語はいくつもあるわけで……
id:kanekoshinichiro 日本語で学術を述べてもいいけどガラパゴスにならない?どこかで日本人以外に読んで欲しくないのかなと思ってしまうな。もっとオープンになればいいのに。英語できるでしょ。
ドイツ語より母語話者人口が多い言語を捕まえてガラパゴスとか言われても困りますわー.日本語は話者数世界トップ10に入る大言語なのですが.ちなみに欧州なんかだと日本の10分の1くらいの人口しかいない小国にもちゃんと日本語学科が設置されて現地語で日本研究の論文が書かれてたりします.日本語学習者って世界中にいるので日本語で論文書いてもガラパゴスでも何でもないんですよね.日本人は勉強して英語論文を読んでいるんだから日本人以外も勉強して日本語論文を読んでください.
id:nt46 ペレルマンの論文はポアンカレ予想という関心分野で他の数学者がその正しさを検証したから業績になってるのであって、事実上査読は行われている。
それが査読になるなら日本語の著書や無査読紀要論文も出版後に多くの同業者が読んでチェックしてるから事実上査読つきですね.ありがとうございました.
id:steel_eel 本質は学問が正当性を確保するためのクロスチェックがどう機能してるかであり、その点で現状ベターなのが英語の使用&査読でチェックを受けるシステムなわけで、それが無いなら代替の何があるのかを示さんとな。
分野によるという話をしています.たとえば日本に関する研究なら別に日本語でもいいですよね.日本史や日本社会を研究しているのに日本語の論文を読めない研究者は三流以下なので,そんなひとに査読を頼んでも別に正確性や信頼性が向上するわけではない……というのは理解していただけますか? 日本以外の地域の研究にしたって,前近代の中国史を扱うならば,中国人研究者が日本語の著作を引用したりする世界なので,日本語で書いて査読してもらえばよくないです?
id:operator 日本語か英語かではなく、国際学会のトップカンファレンスを目指して研究したこともないのに教授になれるの?というのが理系からみた驚きなんでしょ。日本古典文学の研究も、英語で文学分野の国際学会に出せるよね。
だからなんでその「トップカンファレンス」の言語が英語である必然性があるんだと小一時間.確か日本文学については日本語が公用語の国際会議みたいなやつはあったはずですし,ロシア文学の国際会議はロシア語でやるはず.英語以外の言語を発表言語に指定されたカンファレンスは出たことあるけどまああれはトップカンファレンスではないか.ともかく,その「トップカンファレンスの公用語は英語」という思い込みをまず捨てやがれください.そんなん理系や一部文系分野のローカルルールでしょ.
id:tarume バベルの塔を折りたい人。なにが"なんとも愉快な未来予想図"だか、英語コンプレックス隠せよ / 知を共有するために論文書いてんだから、まずは一人でも多くの人間が読める言語で書くのは当然でしょ。自国語訳はその後
文系がバベルの塔を折りたがってるんじゃなくて,そもそも文系には共通言語がはじめからなかったという話です.なかったものを探究しろと言われても……
個人的な印象を言うと言語学なんかは何語でやっても比較的大衆から信頼されると思うよ。良くも悪くも金にならない学問だし。でも政治思想と関わる社会学なんかはどうやって陰謀論が出てくる。御用学者もいれば、マルクス主義の流れだってある。そんな党派性が当たり前にあるなかで自分の大学教員としての学問性を担保できるのは海外査読の英語論文だけなんじゃないだろうか。
最初の増田でも書かれてたけどさー、言語別の研究蓄積の偏りみたいなのがあって、ぶっちゃけ日本社会に関する研究とかだったら日本語の方が圧倒的に詳しいしむしろ英語圏の研究に偏りがあったりすることがあるんだよな。オリエンタリズムみたいな偏見があるとかさ。
前に英語圏の大学でPh.D.獲った日本人の日本史研究者も、日本語圏での研究蓄積をぜんぜん踏まえずにトンチンカンなこと言ってる、って評判になってたな。
英語圏の日本研究にもすぐれた業績が多く、見習うべき点も多いけど、やっぱり日本での蓄積にはかなわないんですわ。ただ彼らの研究には日本出身の日本研究者にはない視野がある。そういう意味でもっと海外と交流しようというのは賛成だけど、別に英語圏が研究の最先端ってわけじゃないんだよなあ。
日本には日本のバイアスがあるし、英語圏には英語圏のバイアスがある。アルミニウムの密度は日本で測定しようがアメリカで測定しようが同じだろうし、ドイツ人のアイディアだろうがインド人のアイディアだろうが数学の世界では同じなのかもしれないけれど、人間社会を研究する学問ではどの言語で研究したって党派性は出てしまうんですわ。だからって開き直るんじゃなく、そういう党派性・バイアスの存在を自覚した上で文献を読み書きすることが必要なんだけどね。学問ってそうやって先行研究を批判的に継承した上に自分の発見を付け加えていくものだと思う。
日本研究の標準語は日本語にしろ、アメリカ人だろうがフランス人だろうが日本語で論文を書かないと無価値だ、という流れになって、結果的に日本語での研究が国際化する、という方向性も個人的にはありだと思うんだけど、連中なかなか日本語で書いてくれないんだよなー。日本語の方が研究蓄積厚いのにね。まあそれはお互い様ということで、私らもイギリスやドイツについての論文を日本語で書かせてもらってます。アメリカ人の東洋史研究者がみんな日本語や中国語で論文を発表し、英語で論文を書いてもアメリカのアカデミアでちっとも評価されない世界が訪れるなら、私らも現地語で論文書いてないやつは無価値だ主義に転向してもいいんだけどね。
あとついでに言うと経済と国際関係は絶対英語でやってくれ。自国経済や外交政策の運営が世界の潮流に裏打ちされてないなんて知ったら国民が不安になるじゃないか。
経済学についてはしょーじき、文系の中でもかなり「理系」的なとこなんで、どうなってるか純粋に人文系の俺にはよくわからんが、こないだ香港に頭脳流出してた若手経済学者とかいたから、英語で書いてんじゃね? 知らんけど。
この件.
https://togetter.com/li/1274544
査読論文持ってないひとが責められるのはまあわかる(査読なし論文でも優れた論文というのは有り得るし,そういうのも業績として認められるべきではあろうが,このご時世ではまあ査読論文は持っといた方がいいよな……).でも英語論文を持ってないことが責められる理由になるのは本当に理解できない.
何度も繰り返すけど,フランスでもドイツでもロシアでもスペインでも,そしてたぶん中国や韓国でも,文系の研究業績の大半は自国語だから!
文系の研究業績が自国語で積み上げられるのは,世界標準だから!
(インドやサハラ以南のアフリカ諸国のように長いこと西欧の植民地になってたり言語の数が多すぎたりして大学教育を英語でやっている国や,ツバルやナウルみたいに小さすぎて自国語のアカデミアが成立しない国を除く.そういう国がうらやましいと言うならもう何も言えないけれど)
そりゃ英語論文を持ってたらすごいと思うよ.でも英語論文がないことが叩かれる理由になるのは本当に理解不能.
そもそも,社会学には膨大な日本語の研究蓄積がある.いくつもの査読誌があり,日本語で査読を経た研究成果が積み上げられている.博論をもとにした出版も多く出ているし,入門書から何から日本語で一通り揃うようになっている.
自国語で用が足りるんだから,論文の執筆言語は自国語でいいだろ.繰り返すけど,それが世界標準です.
イギリスやアメリカの学者が英語で書き,フランスの研究者がフランス語で投稿し,ドイツの博士がドイツ語で教授資格申請論文の審査を受け,ロシアの院生がロシア語で報告している中で,なんで日本の教授が日本語の業績しか持っていないのを責められなければならないのか皆目わからない.
これは社会学に限ったことじゃない.政治学だって,歴史学だって文化人類学だって,文学だってそうだ.だいたいどの分野でも有力な査読つき学術誌を持っているし,それらの雑誌は日本語で書かれている.
そして日本語というのは,世界でも有数の学術言語だ.もちろん英語ほどの網羅性は持っていないかもしれないが,ドイツ語やロシア語ほどの重要性は持っていると思う.それは,先人たちが日本語で積み上げてきた研究業績の賜物だ.
「世界でも有数の学術言語」というのもいろいろな尺度があると思うが,どれだけ広い分野で高度な研究を積み上げているか,というのをここでは述べたい.
もしこれを読んでいるあなたが,アフリカに興味を持って,アカデミックな本を読んでみたいと思ったとしよう.大学図書館で文化人類学の棚の前に立てば,数ダースの優れたアフリカ研究があなたの前に現れるだろう.その多くが,西欧の学者と同じようにアフリカでフィールドワークをし,日本語と西欧語の先行研究を読みこなした上で書かれたものだ.
あるいは,ヨーロッパの歴史を知りたいと思ったとしよう.あなたは造作もなく,フランスやドイツやイギリスやスペインやロシアや,そしてチェコやポーランドやポルトガルやボスニアについての研究書を見つけられるだろう.どれも現地語の史料や文献を消化した上で,日本の歴史学の積み重ねてきた問題意識と接続されている.
それとも,言語学に興味があるだろうか.心配はいらない.オセアニアの数百人しか話していない言語の文法を記述した本も,ヨーロッパの小国の言語の音声を論じた本も,中東の言語政策についての本も,あなたは探し出すことができる.政治学? 問題ない,EUの制度,アメリカ大統領選挙,韓国の歴史認識,ロシアの愛国主義,湾岸諸国の君主制,どれも日本語で最先端の研究が読める.
こんなことは当たり前に思えるかもしれない.でもこれは決して当たり前のことじゃない.
とあるアジアの国に行ったときに書店に行ってみた.西洋史の棚に並んでいるのはどれもそのアジアの言語で書かれた本だったが,著者はみな西欧人だった.それらはいずれも西欧語からの翻訳だったのだ.たまにそのアジアの国の著者が書いた本もあったが,イギリスとかフランスとかメジャーな国についての本ばかり.マイナーな国の歴史について扱った本を開いてみたら,参考文献はほとんど英語で,ちょこちょことドイツ語やフランス語が挟まる程度.要するにその本を書いた学者はそのマイナー国の言語を読めなかったのだ.日本には,そのマイナー言語を読める歴史学者が何人もいるのだが.
あるいは,ヨーロッパの小国の書店.その国は小さいので国民の多くが英語を達者に話すのだが,本屋を覗くと,自国史や周辺諸国の歴史についての本以外は英語の本がそのまま置かれていた.もしも遠いアジアの国に興味を持ってしまったら,その国の人は,自国語のペラッペラの入門書の次は英語を読まなければならないのだ.日本語なら,遠いヨーロッパの国についても専門書が手に入るのだが.
たとえ外国語が読めないシロートだろうと,ある程度自国語で難しい本を読める力があれば,中世ヨーロッパやアフリカ社会やラテンアメリカの先住民や近世朝鮮史や東南アジア政治についての最先端の研究書が読める.そんな豊かなアカデミアを有している国,そんな潤沢な研究蓄積のある学術言語は,実はそんなに多くはない.
私の感覚だと,英語の網羅性には劣るし,フランス語の豊かさには負ける気がしないでもないけれど,ドイツ語やロシア語並の水準に達してはいると思う.もちろん自国民ゆえのひいき目かもしれないし,カバーしている範囲が微妙に違っている以上正確な判定は不可能なのだが.
カバーしている範囲が違う,というのはどういうことか.たとえば,上で英語の網羅性に劣ると書いたが,英語よりも日本語のほうが研究蓄積の豊かな領域というものがある.当たり前だが,日本史については英語の文献よりも日本語の文献の方が圧倒的に豊富だし,日本史以外でも前近代の中国史についてはまだまだ日本語の方が英語よりも網羅性が高いと思う.なので前近代の中国史については,読者はともかく,歴史学者は中国語の他に日本語を読まなければいけない.その人がアメリカ生まれの英語ネイティブな白人であってもだ.ザマーミロ.
というか,実は文系分野に関しては英語の網羅性は理系ほど高くない.そんなのは当たり前で,ロシア人はロシア史についてロシア語で書き,カタルーニャ人はカタルーニャの言語政策についてカタルーニャ語で書き,チェコ人はチェコ文学についてチェコ語で書き,韓国人は韓国社会について韓国語で書いているのだから,英語の文献を読むだけでそれら全ての情報が手に入るわけがなく,本格的に研究しようと思ったらそれらの言語で書かれた文献を読まなければ話にならない.日本事情について一番詳しく正確な研究が読めるのは,英語ではなくて日本語だ.
なので,上で挙げた主要な学術言語は,それぞれ積み重ねが豊富な領域とそうでない領域がある.得手不得手というやつで,たとえばマグレブや西アフリカの地域研究ならフランス語で,東ヨーロッパの前近代史研究ならドイツ語で,旧ソ連圏の研究ならロシア語で重要な研究が蓄積されてきたので,江戸っ子だろうがロンドンっ子だろうが研究を志すのならそれらの言語を読まないといけない.中国近世史を専門にする者が日本語を読めなければいけないのと同じだ.これらの分野で英語で書かれた研究だけを読んで済ますことはできない.
この辺が,理系とは事情の違うところなのかもなぁと思う.理論物理学とか分子生物学とか再生医療とか深層学習とか,ほぼ全ての分野で英語さえ読めれば研究には用足りる(んだよね?).英語に最先端の研究のほぼ全てが流れ込み,あらゆる情報が蓄積される.しかし文系では違う.英語には限られた情報しか流れ込まず,最先端の研究の全てが英語で提供されるわけではない.
なので文系では,英語が理系ほど特権的な地位を占めているわけではない.もちろん英語文献が読めるのは今や前提だし,重要な先行研究が英語なら読んでいないと問題外だ.けれど,英語ではなく自国語の研究でも研究業績にカウントされるし,外国語での業績といっても英語に限られるわけではない.韓国語やトルコ語で論文を書くほうが英語で書くよりも楽だ,と言う研究者だっているし,日本語でも英語でもろくな業績がないがそのかわりロシア語で何本も論文を書いているという研究者もいる.
というわけで,文系の研究者が英語論文を書いていなくとも,それが直ちに問題だとは思わない.査読論文にしても,そりゃゼロってのはちょっとどうなの,って思うけど,研究者が集まって作った本の一章として論文を発表するとか(いわゆる論集ってやつね),出版社が出してる研究者~教養人向けの雑誌に依頼を受けて研究成果を発表するとか(岩波書店の『思想』とか,青土社の『現代思想』みたいなやつね),査読されてないけど業績としてカウントされ得る論文の発表形態というのはいくつもあるので,査読論文以外にそれらも論文としてカウントしないとフェアじゃないと思う(ただ,私は査読がついていない媒体に出すのは怖いなと思ってしまうので,なるべく査読誌に出している).
別に理系のひとが査読つき英語論文のみを業績としてカウントし和文論文は勘定しないというローカルルールをお持ちなのは結構なのだが,そのローカルルールを文系に押し付けないでいただきたい.
私が危惧しているのは,上で書いたような日本語で積み上げられた先行研究が,日本人に真っ当に評価されていないことだ.
文化の豊かさというものを考えたときに,自国語で世界中の情報を知ることができるということが,どれだけ重要なことか.まして,日本はコンテンツ産業が主要輸出品目のひとつだ.中世ヨーロッパやアフリカの部族社会について日本語での研究が充実していることが,創作者が想像の翼を広げる上でどれだけ有利か.たとえば最近,Cuvieという漫画家さんが『エルジェーベト』というオーストリア=ハンガリーを舞台にした漫画を描いていたが,巻末の参考文献にはずらりと日本人が和文で書いた研究が並べられていた.
別に文化に限ったことではない.政治や経済,そして人権についてもそうだ.ルワンダの虐殺やスレブレニツァの虐殺について日本語で書かれた研究があるのとないのとで,どちらの方が日本人にとって国際情勢を理解しやすくなるだろうか.外国で一旗揚げようと目論む商売人にとって,その地域の専門家が書いた本や論文が和文で手に入るのと入らないのとで,どちらが現地の文化や歴史を理解する助けになるだろうか.欧米のフェミニズムについて日本語で研究を積み重ねる学者がいるのといないのとで,どちらが日本女性の権利の向上に資するだろうか.
すべての国が自国語でこれだけ充実したアカデミアを持てるわけではない.人口があまりに少ない国ではどうしたって物理的な限界があるし,人口が多くとも植民地支配の歴史が長く自国語の大学教育が充実していない国では歴史的遺産がその発展を阻む.
日本人は恵まれた研究蓄積にあまりに無頓着なばかりか,その豊かさをみずから捨て去ろうとしている.それが私にはもったいなく思える.
英語は,世界の始まりから覇権言語だったわけではない.明治時代の日本の医師はドイツ語で論文を書き,外交官たちはフランス語で交渉していた.英語が外交や学術の分野で覇権を握ったのはせいぜい戦後のことで,それまではフランス語やドイツ語と同格の存在だった.今も文系ではprimus inter paresに過ぎない.ひょっとしたら将来,欧米の物理学者たちが中国語で論文を書くことになるかもしれない(そのときは現在の私たちが定冠詞や三単現のsに悩まされるように,欧米人が泣きながら漢字を習得するのだろう.そう考えるとなんとも愉快な未来予想図だ).せいぜい百年単位の覇権言語の移り変わりにあわせて,自国語の学術言語としての地位を貶める必要はないと思う.それは私たちの社会の豊かさを,長期的に損なうことなのだから.
最後に.
どうせ和文論文しか持ってないやつの負け惜しみだろって思ったひとがいるかもしれないけど,和文論文だけじゃなく英語論文も書いたことあるし,英語以外の外国語での論文も持ってます.今それとは別の外国語での研究発表を準備中.私より多くの言語で研究報告してきたひとにならともかく,たかが1言語か2言語でしか論文書いてないガラパゴスの住人にだけは文句言われたくないですわ~~~~~~.
英語論文が優れているとは言わんけど、査読なしの研究なんてゴミだし。
id:bocola 自分でも言ってるように査読なしなのが問題。査読なしの論文なんて、読書感想文と変わらない程度の価値。やはり文系は無価値だと改めて思った。
arXivのない世界線からやって来たのかな? グリゴリー・ペレルマンって聞いたことない? 査読なし論文が業績としてカウントされてるひとだけど.
事前の査読は,論文の信頼性を担保するための手続きのひとつであって,それが欠けている「から」ダメ論文というわけでも無価値というわけでもない……というのはわかってくれるよね? 当たり前だけど論文の価値は最終的には書かれている内容に依存するわけで,だからこそペレルマンは査読なし論文であってもポアンカレ予想を解いたと認められたんだよね.
私も査読はないよりはあった方がいいと思うけど,査読がすべての論文につくわけではない分野のすべてをダメと論ずるのは不当すぎる.まあ最近は文系も査読が重要になってきているし,若手は査読つき業績を増やしたがっているけれど,査読がつかないからダメとは限らない,ってだけの話.当たり前だけどダメダメな論文は後発の研究によってちゃんと批判されるか鼻にもかけられず無視される.公募の際には論文を提出させたりするんだから,査読なしダメ論文を量産していればそこで撥ねられるでしょ.理系のローカルルールで事前の査読が必須なのはよくわかったけど,そのローカルルールを文系に敷衍されても困る.
id:zyzy まぁでもこの噛みつきは、もうすでに南京大虐殺の時に通った道だし、虐殺否定論者と同じ轍を踏み続けている以上、恐らくオタにこの説明が通ることはないんですよ。
私もオタクですが.
じゃあ、日本でルネサンスと宗教改革に最も近いイベントって何?
それを掘り出してよく見直せば、今からでも近代になれるのかな。
やっぱりそんなのどこにも全くなかったのかな。
またはほんとは、ルネサンスみたいな人間中心主義の確認、宗教改革みたいな宗教/慣習/規範の問い直し、日本にもあったんだろうか?
戦国時代後半には近い雰囲気が盛り上がったような気がするけど、江戸時代になると閉じた感じ。幕府の終わりは宗教の転換みたいなところがなくもないけど、人間中心主義は、、見当たらない。幕府が終わっても、人間ひとりひとりの生き方とか、村的暮らしには何ら影響がない感じ。中国で皇帝が変わったときみたいな。
自分世界史も日本史も好きだけど趣味でしかないんで、細かいことはわかりません。文系エリートはてなーをはじめとする皆さん、よろしければご教授下さい。
確かに人権意識が低いことに対して言われてること多いですね。もう少し広いことにも使われてる気もするけど。
人権意識の高まりは、支配者階層がコテンパンにされるのを繰り返し見たことの結果だと思うんで、宗教改革とか人間中心主義がそうなる入口だったんだろうなと思いはします。
やっぱり一夫多妻だとか多夫一妻だとかで皆さん協力して子供さんを育てていただくしかないと思うんだけども?
いやなの?
法的には一夫一妻で申請して扶養控除等得つつシェアハウス作って乱交形式多夫多妻すればいいんじゃ?
いやなの?
<追記>
*というかKKOが「一夫多妻にしよう」って言った時もそうだがなんで発言者が利益(と思われるもの)を享受できる地位に入れることを想定していることになってんだろ。
俺(ら)がそんな場所に入れるわけねーじゃん。
*何故いきなり多夫多妻?ってのは、それ以外の策は今のままででも取れるはずなのに、うまく行ってないから。
うまく行ってたらみんなもうやってるでしょ。
俺が把握してない未知の策というのはあるかもしれない。とりあえず多世帯同居と保育園は既にあるけどヒーヒー言ってるんだからなんか駄目なんだろ。
*同性婚の時みたいに「重婚を認めたところで皮膚病になったり、湿疹ができたりもしません。布団の中からカエルが現れたりもしません。」https://www.huffingtonpost.jp/2017/11/25/nz-gay-marriage_a_23288119/ と言ってはどうだろうか。
ところで「住宅ローンが増えることはありませんし」ってのはどうなんだろうね。法的婚姻関係は税金での優遇があるから異性愛者の税金負担は上昇する。金銭的な不利益はあるよね。残念ながら。(あなたは損をしますがそれは必要な損なのですと訴えなければならない。)
全レスしてたら記事が更新されなくなった。人気コメだけサービスな。
wdnsdy 「子育てシェアハウス」は存在するよ。テレビで紹介されてたが、子持ち夫婦から独身の人まで住んでて皆で子供の面倒見てた。人間って他人の子供の面倒を見れる生き物なんだから、一夫多妻でなくともこれでよくないか
だよねえ他人の子供は疎ましいとか嫉妬がどうとか言ってるやつにも見せてやって見せてやって。
でももしかしてその子供ってある程度成長したかわいい盛りの、夫が関わろうとしたら「てめえ美味しい所だけ取りやがって」って言われる奴では。
bottomzlife それが「保育園」なんだが・・・
子育ては365日24時間営業だろうが保育園を365日24時間化してから言え。
乳幼児死亡リスクを背負える何の関係もない他人ってのは少ない。
jabberokkie 鬱陶しいな。blogでやって
kanagawakama n夫n妻は遺伝子的に単調になる為種として脆弱になるし、格差が絶望的に固定される。相続でも既にアドバンテージ凄いのに、世代ごとにn倍子が増えたら(妻が一人しか産まないとして)投票権だけ考えても格差固定必定
実質的にn夫n妻状態で存続している種がいるんだからそう脆弱でもねーんじゃねえの。
bcwrrgezef 子育ては国が施設を作って基本そこで。結婚制度を廃止。バンバン子供を作らせて、施設に預けさせる。自分で育てたいなら、それも可。これで少子化解決。増えすぎの場合は口減らしで対応すればよい。
割と国が召し上げる案も虐待も無くなるし良い気がするんだよなあ。
shikahan そもそも人類にとって親二人だけで子育てするのは非常に難しい、という事実をもっと真剣に受け止めた方が良い。親族、多夫多妻、シッター、長屋、共同体などいろんな形はあるだろうけど、何らかの手段は必要。
ですよねー。
気持ち悪い妄想する男と共同生活したがる女も男もいるわけねーだろアホか。
mawhata 私の親ぐらいの世代は、上の子(長男除く)が下の子をおんぶ紐でくくりつけられて子守させられてたりしたんだが、まぁ今はそうもいかないだろうしなぁ。
長男に対するワンオペから既につらいって話だからちょっと違うんでは。
ruka98 一妻多夫の場合は母系社会になるから、母親が誰かさえわかってればいいから別にどの男性が父親かハッキリしてる必要性はなく、男性は集団においてみなで父親役をやればいいって話しを、昔京極夏彦の本で読んだな
夫役が皆夫やって妻がワンオペ育児してたら変わらねーじゃねえかとトラバでも言った。
まあお手伝いさん雇えるくらい稼いだらいいと思うけどそれならお手伝いさんより妻を取って多夫多妻した方が少子化解消の点から良いような気がするんだが?
plagmaticjam 核家族もそうだけどワンオペ育児は終身雇用が崩壊して企業の家族性が失われたことにも一因がありそう。保育園落ちた云々がまさに融通がきかない平等原則コンプラ社会の弊害だった
そうなの?よくわからん。
yungsheep 増田にはこれを推薦しておくわ:筒井淳也著『結婚と家族のこれから~共働き社会の限界~ (光文社新書)』
3行以上読めない。
dareshimu 一夫多妻だとな、妻同士の争いでハードモードになる。闘争に負けた妻の子の人生もハードモードだって日本史で習わなかった?平成の世では離婚をすることで時間差による一夫多妻がトレンド。例としては、石田純一
夫の愚痴をお互い言いあって支えあい関係はそれなりに良好って習ったよ。
ですよねー。
俺がテーマに設定した以上の何かがあるわけないだろアホ。
三世代同居が出来るならすでにしているはずなので選択肢から外しました。
大丈夫お前らなら出来る出来るやってみろ。
hogefugapiyox 親の家の近所に住んで、面倒が見られない時に親の家に置いていけばいいんやで(置いて行かれた側)
それができるならそれでもいいんじゃね?
tan_tan_san 乱婚形式はモテ格差が拡大してモテ男絶対優位になるし三世代同居は子供1人(昔なら長男)しか利益を享受出来ない。誰もが生殖可だけど子育てハードモードと一部のみ生殖可だけどイージーモードどっちがいいのかね
ですよねー。
koenjilala 個人的には一妻多夫制が好みだし都合がいいが 一夫一妻こそ正義教が仏教圏やキリスト教圏では強いし日本も。一夫多妻の宗教か一妻多夫の民族のとこに入ったほうが早い。一妻多夫の小数民族は存在するが絶滅危惧種?
やっぱ一人じゃ生む数に限りがあるから一妻多夫だと夫の何人かがボーっと手持無沙汰にしてるんだよね。俺の脳内シミュレーションで。