はてなキーワード: トルコ語とは
サバサンドは、トルコのイスタンブールの名物グルメです。トルコ語では「バルック・エキメッキ(Balik Ekmek)」と言い、Balikは「魚」、Ekmekは「パン」を意味します。
サバサンドは、バゲットに焼きたてのサバ、レタス、生のたまねぎを挟んだシンプルなグルメです。サバは鉄板で焼かれているので食感は揚げた感じに近いかもしれません。
すきなのを選べ
アラビア語: كلب (kalb) - カルブ
アルバニア語: qen - クェン
イタリア語: cane - カーネ
エストニア語: koer - コエル
ギリシャ語: σκύλος (skýlos) - スキュロス
コルシカ語: cane - カーネ
シンド語: کتو (kuto) - クト
スウェーデン語: hund - フンド
スペイン語: perro - ペロ
スワヒリ語: mbwa - ムブワ
タイ語: หมา (măa) - マー
デンマーク語: hund - フンド
トルコ語: köpek - ケペク
トンガ語: ʻulungū - ウルングー
ドイツ語: Hund - フント
ノルウェー語: hund - フンド
ハワイ語: ʻīlio - イーリオ
フランス語: chien - シャン
ブルガリア語: куче (kuche) - クチェ
ポーランド語: pies - ピェス
マケドニア語: куче (kuche) - クチェ
ルーマニア語: câine - カイ
中国語: 狗 (gǒu) - ゴウ
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そこの「連載争奪ランキング」は月間でPVを1番稼いだ人間がジャンプ+での連載権を獲得できるんだけど、
とにかくPV数だけで決まるので、読んでどう思ったかはどうでもいい。
つまり有名人が組織票を動員したら、もしくは有名人の友達にうまくバズらせてもらえたら、誰でもジャンプの冠が付く場所で連載できて原稿料がもらえると言う危ういシステム。
そこに今月「日本人では無い作者」が大勢のトルコ人の支援を得て現在一位になってる。(*月間ルーキー賞ではなく連載争奪の方ね、サムネ赤背景)
なぜわかったかと言うと大量についてる外国語コメントが主にトルコ語だから。
肝心の内容は…絵は上手いけど他はまだまだ。
日本語訳が下手過ぎるのは置いといても、流れがギクシャクしてて正直だいぶ読みにくい。
でもPV数だけ見るルールな以上、この人は母国の応援で連載権を取れるだろう。
ただ、今のシステムのままだと…手順が知れ渡ると、他の国も組織的に来るかもしれないなと。
いま中韓の漫画はぱっと見ではわからない位に日本風で上手いし、日本語訳出来る人も多い。
今回の様に外国語コメント爆撃などせずに黙っていればバレないし、海外の組織票で日本人投稿者は気付かぬうちに駆逐されジワッと入れ替わっていく…現時点では妄想だけど、やろうと思えば普通に出来そうなのでちょっと怖い。
別に海外じゃ無くても、宗教とかがほんのり教義を入れた漫画を信者の組織票で…とかも出来るから、ルール変えた方が良いんじゃ無いかなぁ。
これはある程度同意します。比較言語学で遡るのが可能なのはせいぜい数千年のスパンに過ぎず、それを過ぎると言語の変化が大きすぎて文献が残っていない限り系統の推定は困難になる。したがって日琉祖語がどこから来たのかという問題に完全な決着をつけるのは難しい。
だから、わからんならわからんでブラックボックスにしときゃいいんじゃねって思うんですよね。無理に「トランスユーラシア語族」とかでっち上げずとも、遺伝的な系統がわかればそれで十分じゃんって思うんですが。繰り返すように、血縁と言語の系統関係が一致するとは限らないわけで。そして後者は今のところ文系的な方法論でしか探索できない。
テュルク語族を見ればわかりますよね。トルコ人は中東っぽい彫りの深い顔立ちで、クルグズ人は日本人そっくりの平たい顔族ですけど、言語としてはトルコ語とアラビア語、クルグズ語と日本語より、トルコ語とクルグズ語の方が近い。それはゲノムではわからんから言語学の手法で解き明かすほかないわけですよ。
https://anond.hatelabo.jp/20211111231157 で紹介した文章ですが、以下のように国内の言語学者たちもゲノム研究を軸に研究を進めているのが現状だと思います。
うーん、「軸に」ではないと思いますよ。あくまで言語学というベースがあって、それでも説明できないところをゲノムでどう説明できるか、みたいなことを喋ってるんじゃないでしょうか。この座談会は全体として伝統的な言語学研究の話をメインに据えた上でちょこっとゲノムにも触れた、みたいな感じに読めました。
たとえばそこで言及されてる伊藤英人氏の研究は、元増田でも「蛇足だけど」の項で引用しましたけど、基本的にオーソドックスな文献学的研究ですし、木部暢子氏の研究も伝統的な方言研究ですよね(彼女が取りまとめた報告書はけっこうウェブに上がってます)。「国内の言語学者たちもゲノム研究を軸に研究を進めている」というのは言い過ぎでしょう。
ゲノムよりも重要なのは、個人的には、きちんと「日琉語族」内部の系統推定をすることですわ。きちんとした比較言語学の手法に基づく従来の方言分類の見直しが急務でしょう。琉球語群内部の系統についてはローレンス氏が沖縄語や与那国語、八重山語、喜界語といった諸言語の系統的位置についていくつも論文を書いていて(どれも日本語です。うち2本は元増田の参考文献に挙げました)、従来言われてきた系統樹を再確認したり修正したりしてますし、もっと大きいやつだと五十嵐氏による日琉語族の分類の見直しとか、そういった成果が出てきています。
これすごい重要で、琉球語が本土日本語の姉妹群なのか(五十嵐氏がいうように)九州語の内系統なのかで話が違ってきますからね。たとえば、Aという語が長崎と宮古島でみられ、東日本ではまったくみられず、大陸などからの借用語ではないとした場合、仮に琉球語が日本語の姉妹群なら「Aという語は日琉祖語に遡る祖型である」といえるんですが、琉球語が九州語の内系統なら「Aという語は九州語を特徴づける改新である」ということになるので、祖語の再構にものすごい影響するんですよ。だから本土の言葉と琉球の言葉を比較しようとしたらまず系統をきちんと推定した上ででなければ危ういと思うんですがそのへんの危機感があまり感じられないような……(まあ、これは門外漢による感想に過ぎませんが)
"Origins of the Japanese Language(2013)"
“From Koguryo to Tamna: Slowly riding to the South with speakers of Proto-Korean(2013)”
ヴォヴィン氏はアメリカ人ではなくロシア人ですが(それとももう帰化してるんでしたっけ?)、それはさておき、この2本は元増田でも(「蛇足だけど」の項で)言及してあるはずですが……? 既に言及済みの文献を改めてご提示いただくのは少々困惑します。
でもって、「高句麗から耽羅へ」ってそういう論文でしたっけ? 改めて読み返してみましたけど、日琉語が朝鮮半島の原住民の言語であり、朝鮮語は内陸アジアから南下して朝鮮半島に入り、日琉語を駆逐した、ということを主張している論文であって、日本語の原郷については触れてないように思うんですが……「日本語の諸起源」も遼河流域について触れてなくないです? むしろ、元増田で引用したようにアルタイ説を強烈にdisってるような。
っていうか、元増田への追記で書きましたけど、ヴォヴィン氏は最新の論文でオーストロアジア語族が起源である可能性を論じているわけで(以前からオーストロアジア語族への目配せはありましたよね)、遼河流域仮説を支持するなら一番持ち出しちゃいけない人物だと思うんですが……
他の論文や本はまだ読めてないんでノーコメントということで。色々教えてくださってありがとうございます。
niwaradi 門外から議論を眺めたが対象のスケールが違うのでは。素粒子実験物理の人が、基礎理論物理の人に観測もされてない粒子いっぱい持ち出して胡散臭いと言う話のように思えた。実験第一だが限界もある。
理論上の粒子はヒッグス粒子のようにいずれ実験によって観測できる可能性はありますが、「血統」をどれだけ使っても「言語系統」を観測することはできません。なぜなら「血統」と「言語系統」とは別だからです。……これってそんなに難しい話です?
アメリカに移住して百年過ぎた英語ネイティヴの日系人は血統的には日本人ですが言語系統としてはゲルマン系ですよね? ここで日系人の血統をいくら研究してもゲルマン語の原郷にはたどり着かないことは明らかですよね? つまり、「血統がわかれば言語系統もわかったことになる」というのは端的に論理が間違っているんですよ。
なんでこんなになってしまったのかというと、Robbeetsさんがこの論文で言わんとしている論点についてあんまり説明してくれてるメディアがないから
日本語・朝鮮語・モンゴル語・トルコ語・満州語(ツングース語)などが同一のトランスユーラシア祖語に遡るのは前提としておいて
その祖語は4000年前に遊牧民が話していた言語(通説)ではなく
ここはMainの章の2,3段落目にはっきり書いてあることを訳しただけなんだが
トランスユーラシア祖語(あるいはアルタイ祖語)と呼ばれている奴が4000年前の遊牧民が喋っていたという通説が
日本国内で全然有力でも何でもないので論文の新規性についてピンと来る人間がいなくて、国内メディアもこの説明ができなかったと思われる
果たしてトランスユーラシア祖語を前提としていいのかどうかは俺もちゃんと判断はできないんだけど
論文1 ((Starostin, S., Dybo, A. & Mudrak, O. Etymological Dictionary of the Altaic Languages Vol. I– III (Brill, 2003).
Return to ref 1 in article))
論文2 ((Blažek, V. Altaic Languages. History of Research, Survey, Classification and a Sketch of Comparative Grammar (Masaryk Univ. Press, 2019).
))
論文3 ((Robbeets, M. Is Japanese related to Korean, Tungusic, Mongolic and Turkic? (Harrassowitz, 2005).
Return to ref 18 in article))
論文4 ((Robbeets, M. Diachrony of Verb Morphology: Japanese and the Transeurasian languages (Vol. 291 in Trends in Linguistics. Studies and Monographs) (Mouton de Gruyter, 2015).))
なんで心細いことこの上ない
また、最古で1200年前くらいにしか文献が遡れないこれら諸語の祖語を9000年も昔に設定して大丈夫なのかという不安もある
そりゃ一応インドヨーロッパ祖語も9000年前に遡れるんだけど、これらは3500年遡れるヒッタイト語の記録なんかが残っている
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警戒心が強く攻撃的な性格で知られる白鳥だが、ケガをしているのを見つけた男性は自宅に連れて帰り治療を施した。その白鳥はケガが治っても逃げ出すことなく、37年経った今では男性がどこに行くにも後を追いかけるほどの信頼関係を築いているという。白鳥の寿命は長くて30年と言われるが、この白鳥は男性の愛情に応えるかのように37年以上も長生きしている。『Metro』などが伝えた。
トルコ、エディルネ市カラアーチ在住のレジェプ・ミズランさん(Recep Mirzan、63)は37年前、友人たちと車で走っていた時に羽が折れて草むらでうずくまっている白鳥を発見した。当時のことをレジェプさんは「そのままにしていたら狐に狩られてしまうと思いました。動物好きとしてはこのまま放置することはできず、家に連れて帰らなければと感じたのです」と振り返っている。
この白鳥はトルコ語で“運が悪い人”という意味の“ガリップ(Garip)”と名付けられ、ギリシャとの国境付近にあるレジェプさんの自宅の牧場に運ばれた。折れてしまった羽が治るまで面倒を見ようと思っていたレジェプさんだったが、ガリップは羽が治っても牧場から逃げ出すことはなかった。そしてレジェプさんだけでなく、そこにいる猫や犬とも仲良く過ごし始めたそうだ。
レジェプさんはすでに妻を亡くしており子どももいなかったため、ガリップの名前を“ミズラン(Mizran)”と自分のラストネームに変えて、我が子のように可愛がり始めた。
ミズランはレジェプさんが農場で仕事をしていても、夜の散歩をするにも後を追いかけてずっと一緒にいるようになり、今ではほとんどの時間を囲いの外でレジェプさんとともに過ごしているという。「一緒にいることに慣れましたね。これから私達が離ればなれになることはないでしょう」とレジェプさんは嬉しそうに話す。
白鳥は大人しそうなその見た目と違い、獰猛な気質と攻撃的な行動で知られており、警戒心の強さから一度危険を感じた場所には近づかないほどだという。
また一般的に飼育された白鳥の寿命は長くて30年と言われるが、ミズランは発見されてからすでに37年が経過していてかなりの長寿になる。レジェプさんの愛を一身に受け、心身ともに健康に過ごせた証拠かもしれない。
レジェプさんは「ミズランはもともと明るい性格でしたが、年を重ねて大人しくなってきました。もしミズランが死んでしまったら立派な墓を建てたいと思ますが、これからもずっと一緒に過ごせたらいいですね」と語っている。
macramé。何本かの細紐や糸などを手で結び、幾何学的な模様をつくる手芸の一種。アラビアのラクダの背につける麻袋の房結びから発達したとされ、アラビア語のミクラマ(組紐)あるいはムクラム(格子編)、トルコ語のマクラマ(タオル)に由来する。その技術はムーア人により中東からスペインへ、そして十字軍によりイタリアへと伝わり、寺院の装飾品や僧服の房飾などに用いられた。 伝わった時代を考えると、トルコ語説はちょっと怪しいかも。オスマン帝国の全盛期からはちょっとずれるし。
今でも、細い糸による場合は衣服の装飾ショールなどに、太い糸はテーブル掛けやカーテンなどの縁飾りとして用いられる。丈夫な糸を使えば用いてバッグ類も作れるし、ベルトにも用いられる。名称こそ異なるが、日本でも古くから馬の鞍敷や縄のれんなどにその手法が用いられていた。
韓国だと光復後もしばらくは日帝残滓で漢字語がたくさんあったけど、朴正煕大統領のころから国語醇化といって漢字語を固有語にいいかえる運動がすすんだ(感謝합니다→고맙습니다、みたいな)ので、日本人がおもってるより同音異義語はすくないです。
おなじようなはなしだと、トルコ共和国建国後のトルコ語醇化運動(オスマン帝国がずっとイスラム世界の盟主だったのでオスマン語にはアラビア語由来のことばがたくさんあったのけど、これをトルコ民族のことばにおきかえた)がとられたね。
ことばは民族をその民族たらしめる大切なものだから、どこの国でも国民国家をつくるときには国語政策というのはとてもおおきな意味をもつよ。(↑と逆むきだと、最近ではスペインにおけるカタルーニャ語の公的立場とか)
http://web.archive.org/web/20190417154757/http://out-elite.com/tsukamoto-entrepreneur
「大学2年生の頃からビジネスで、毎週のようにASEANの国々に行っていました」
さも何でもないことのように語るのは塚本廉さん、24歳。学生でありながら起業家としてビジネスを立ち上げており、現在はそれに加え投資家として日々世界中を歩き回るような毎日を送っている。大学在学中から、他には類を見ないほどの爆進撃を繰り広げている塚本さんだが、一方で大学の授業は入学以来一度も休んだことがないというから驚きだ。平日は大学へ通い、金曜の夜に現地に飛んで月曜の朝に帰国し大学に直行する。レポートや課題はすべて飛行機の中でこなしていたという当時のスーパー大学生は、“全部全力でやれば、大抵のことは成し得る”と言い切る。そうした塚本さんの強靭な精神力と行動力はどのように磨かれてきたのか。また卒業後の進路として、かの名門MIT(マサチューセッツ工科大学)、そしてイスタンブール大学をはじめ複数の大学からオファーをもらっていたという塚本さんが、どのような決断をし、これからどのような道を歩んでいくのか。日本中の大学生誰もに一度は読んでもらいたい、塚本さんの生き方にフィーチャーする。
02(投資家としても活動する塚本さん。アゼルバイジャンにて現地の投資家の人々と)
インタビュー当時、MIT進学かトルコ大学進学かで最後の最後まで迷っていた塚本さん。その後、熟考の末イスタンブール大学に進学することを決断され、現在はイスタンブール大学に在籍中。……が、最近また新たにサービスをリリースし、この半年で勝負をかけるために、入学早々半年間の休学中であるという(笑)弱冠24歳にしてこんなにも波乱万丈な人生を他に見たことがない。何事にも全力で、かつ心の底から楽しんで活動されている塚本さんは、様々な活動から見えてくる社会問題にも積極的にアプローチをし、その行動や姿勢は同年代の多くの若者にも影響を与え続けている。ASEANから中東に活動拠点を移した塚本さんの更なる躍進に大いに期待したい。
塚本廉(つかもと れん)
高等専門学校を卒業後、日立製作所へ入社。その後一念発起して東京大学を受験、同大学に2011年入学。起業家として様々な事業を手掛ける他、トルコ親善大使や「みんなの夢AWARD」最高顧問、トルコ語とアラビア語の通訳なども務める。大学と共同して授業設計を行ったり、最近では国内外の不動産投資も始めるなど多岐に渡る活動を続ける。2015年に東京大学卒業。同年9月よりイスタンブール大学へ入学。
ここまで作り込まないといけないなんてある意味すごい。
「数学の修得には時間がかかる」ことの概説 - Unhappy Go Lucky!
ただ、文系学部の「研究」や「卒業論文」の位置づけとかについて、過大評価していただいているような気がしなくもない。日本語とは縁遠い言語を話す地域を専門とする史学科卒の人間として、「ゼミ」や「卒論」の位置づけについて語ってみたい。
いやこれは本当に分野によるのだが、「研究」というよりも「勉強」をやっているところが多い。歴史学というのはまず史料に何が書かれているかを正確に読み解く必要があるのだが、その読み方を徹底的に叩き込まれる。場合によっては修士課程でもこれが続く。もしくは、研究文献の読み方を叩き込まれる。そもそも2・3年前まで高校生だった連中である。文系の研究書をどのように読むべきかよくわかっていない人も多いし、英語の本を通読なんてしたことないですという人がほとんどだろう。レベルの高い大学なら外国語文献の購読をし(何語なのかは研究分野や参加者による)、あまりレベルの高くない大学なら日本語の本・論文の読み方をゼミで躾けられる。
(「史料」ってのは要するに「昔の人が書き残したこと」。王様の勅令だったりお役所の行政文書だったりインテリの書いた思想書だったり過激派の撒いたアジビラだったり新聞記事だったり、色々である。公文書館に行って実物を見てくる場合もあれば、別の学者がまとめて印刷出版してくれたものを参照する場合もある)
何で学部の段階からゼミに分かれるか、というと、「歴史学とは何か」「史料批判とは何か」みたいな概念・方法論レベルの話や、「いやしくも歴史学を学ぶ者として最低限踏まえておくべき各地域・各時代の基礎知識」みたいなのを除けば、分野ごとに身につけるべきスキルが全然違うので。江戸時代の歴史なら江戸時代の古文書、明治期の歴史なら明治期の文書、中国史なら漢文、イギリス史なら当然英語の古文書……を読まないといけない。イギリスについて研究したい学生が日本の古文書の読み解き方を勉強しても時間の無駄だろう。逆もまた然り。
慌てて言えば分野による。
社会調査とかする分野で、自分なりにアンケート調査してみた、とかそういう論文なら、どれだけ拙かろうがオリジナリティはあるだろう。あるいは歴史学でも、オリジナルな史料を発掘することが可能な分野ならオリジナリティは出る。
ただやっぱり、学部4年の段階で大層な「オリジナリティ」は出てこない。そもそも外国史の場合、史料の読解すら教員の手助けを得てようやく、という人が多い。歴史学では一次史料が重視されるが、私の分野では卒業論文で一次史料を使った時点で優秀な学生の部類に入るだろうなと思う。二次文献、つまり他の研究書や論文をまとめて長いレポート(うちの大学では3万2,000字が下限だったかな)を書けたらOK、という運用をしている大学も多いのではないか。まとめるのにもオリジナリティは出るしね、という苦しい理屈だしそんなの査読つき学会誌に「論文」として発表できるレベルではないが、学会誌に「論文」として出せるレベルのものを要求していると4年では足りないわけで、多くの史学科の学生は修士論文で初めて学会誌に投稿できるレベルのものを要求されることになる。
何度も言うようにこれは分野による。地味に重要なのが、「その言語は大学で第二外国語として開講されているか、あるいは教養科目で講義が受けられるか」という点。朝鮮史やドイツ史やフランス史の場合、韓国語やドイツ語やフランス語は文系の学部ならたいていは必修の第二外国語として教えられていることが多いので、卒論でも韓国語ドイツ語フランス語の論文は読めて当然だよなあ? というハードモードになることもある。中国史なら「高校から漢文やってるんだしゼミでも読んでるんだから卒論でもちゃんと漢文の史料は読めるよね? 現代中国語の論文も読んでね」ということになるだろう。英語? そんなの読めて当然でしょ? 第二外国語ではなくとも、たとえばトルコ語やアラビア語なら多少気の利いた大学なら教養科目とかで開講されているから、イスラーム史やりたいなら学部1年のうちから履修しといてね、という話になると思う。逆に、マイナー外国語が必要な分野だと、せめて英語の本くらいは読んどいてね、くらいにまでハードルは下がる。アイスランド史を勉強したいです! と言われても、日本でアイスランド語の授業がある大学がいったいいくつあるのか……という話になるわけで。まあ東大の某ゼミではゲエズ語購読とかやってたらしいですけどね。雲の上の世界すぎてまったく想像もつかない。
なので、大学に入った段階で既にどの分野に進むのかなんとはなしの道筋がついていないと厳しい。第二外国語で韓国語を選択して、やっぱり私ドイツ史がやりたい! というのは不可能ではないが難しい。第二外国語選びの段階である程度進路が決まってしまう、というのが史学科の特徴だ(まあ、英文学科とかは、学科選びの段階で専門地域が決まってしまうわけだが……)。イスラーム史やるなら第二外国語はフランス語にしないとね。そんなのついこないだまで高校生だった連中にわかるか! もちろんこれは大学による。西洋史に進学した者にはドイツ語とフランス語双方の習得を義務付ける大学もあるそうである。これならヨーロッパのたいていの地域に対応できるね! 史学は語学と言われる所以だ。
あとは西洋以外の地域だと、「史料に書かれている言語」と「論文に使われている言語」が違うことが結構あって、何でかといえば近代以降に西洋諸国に植民地支配されていたりすると「オランダ人研究者がオランダ語で書いたインドネシア史についての先行研究」みたいなのがたくさんあるので。つまりいくらインドネシア語やアラビア語が堪能でもそれだけでは片手落ちで、オランダ語やフランス語ができないと先行研究が読めないので勉強せざるを得ない(付け加えるなら、植民地支配されてたということは、お役所では宗主国の言語が使われていたり宗主国のお役所に植民地統治を担当する部局があったりしたわけで、それらの史料は当然宗主国の言語で書かれている)。さらに前近代史だと、「昔使われていた言語」と「現在使われている言語」が異なっていることが多く、典型的には古文とかラテン語とかである。現代日本語の論文はスラスラ読めても古典日本語はチンプンカンプンという人も多かろう。前近代非西洋の征服王朝なんかだと大変で、現地語+支配階級の言語+植民地支配してたヨーロッパの言語、をやらなければいけなかったりする(アラビア語+オスマン語+フランス語、みたいな感じ)。いやー、西洋現代史はヌルゲーの領域っすわ……その国の言語ができれば用足りるからなぁ。現地に行けばネイティブスピーカーがいるから勉強も簡単だし(アッカド語みたいなネイティブがいない言語を習得してる人ほんと尊敬する)。もちろんここで少数民族とか国際関係史とかに興味を持ってしまうと語学沼に引きずり込まれるわけだが。イギリス史なら英語だけでいいだろうと思っていたらうっかりウェールズに興味を持ってしまいウェールズ語を勉強することになりました、とか、ドイツ語だけで通そうと思っていたら枢軸国の外交に興味を持ってしまったせいでイタリア語も読んでます、みたいな。とはいえこれらは院に進学してからの話(あるいは院への進学を希望する学部生の話)だ。院に進学しない学生の卒論レベルなら日本語+英語or中国語でじゅうぶん、という運用の大学がほとんどだと思う。
(ヨーロッパの植民地についてしか述べていないのは、日本の植民地の場合宗主国の言語を習得する困難はほぼ存在しないからであって、日本は植民地支配をしていなかったと言いたいわけではないので念の為。もちろんこれは日本語母語話者である学生の話で、韓国や台湾の学生あるいはそれらの国からの留学生は植民地時代の自国史を勉強しようと思ったら日本語を読まなければいけないわけであり、なんというか申し訳ない)
でもまあ、卒論書くのは大事ですよ。たとえそれがレポートに毛の生えたレベルのものであっても、院に行かない学生にとっては専門家に指導されしっかりと文献を読み込んだ上でこんな長文を書かされる機会はこの先の人生でなかなかないし、それを経験するというのが大学に行く意味だと思う。院に行く学生にとってはもっと長い修論や博論書くんだから当然このくらい書けなきゃ話にならんわけで。
これも分野によるのだけれど、たいていどっかに留学する。中国史なら中国や台湾、フランス史ならフランス、みたいに。留学先で大学のゼミに参加したり史料を集めたり現地の専門家に指導を受けたり、あるいは分野によっては語学の勉強をしたりする。もちろん複数国に留学してもいいし、研究対象国以外に留学することもありえる。アフリカ史を研究するためにポルトガルに留学した人がいたり(イエズス会士が書いたものを読みたかったらしい)。で、帰国してから博論を書く(たまに留学先でそのままPh.D獲っちゃう人もいる)。
上述のような事情があるので、歴史学を専攻している人はたいてい4年以上博士課程に在籍する。ちゃんとした大学で3年で博士号獲るのは一部のバケモノだけです。たまにいるんだよそういうバケモノが。日本史なら楽勝かというとそういうわけではなく普通に4年以上かかってることが多い。留学期間とかもあるので、博士課程の先輩に学年を聞いても即答できないことが多いから気をつけよう。29歳でドクター? 夢物語かな? まあ本当に文系の大学院なんて資産家の子供か養ってくれる配偶者持ちか自殺志願者以外は来ない方がいいです。男性歴史学者が書いた研究書のあとがきに奥さんへの謝辞が書いてある場合、もちろん本当に純粋な感謝の念であることも多かろうがけっこうな確率で一時期ヒモ生活を送っていたことへの感謝だったりする。奥さんの実家でチクチクとイヤミを言われた経験を聞かせてくれた教授もいらっしゃる。これ有名大学の教授様になれたから笑って話せるだけで、なれなかったら悲惨だよな……。まあでも、研究者の不遇っぷりは文理問わないか。
https://twitter.com/cinemaniaoff
ブロックしようと思ってツイートを見に行くと、恋愛ポエム垢でした。そこにはありふれた言葉が並び、西野カナ以上に共感しか狙っていないようなものばかり。でも、フォロワーが40万もいて、すべてのツイートに1万いいねくらい付いてる。
それだけなら「あぁ、自分の知らない文化があるんだなぁ」と思ってそっ閉じするだけなのだけど、よく見ると、2009年12月に登録と書いてあるわりにはツイートは2018年9月末以降しかなく、全部で47個のみ。ただ、本人がいいねしているツイートは1万個以上あるので見てみると、直近は日本の若者っぽい内容が多いのに、ある時期以前はトルコ語で映画や政治やサッカーの話がほとんど。明らかに途中で中の人が変わってる。
で、こんな謎なアカウントなのに、名前の横には認証済みマークが付いてる。このアカウントの素性、そして、無差別フォローを続ける目的って、何なの??
この件.
https://togetter.com/li/1274544
査読論文持ってないひとが責められるのはまあわかる(査読なし論文でも優れた論文というのは有り得るし,そういうのも業績として認められるべきではあろうが,このご時世ではまあ査読論文は持っといた方がいいよな……).でも英語論文を持ってないことが責められる理由になるのは本当に理解できない.
何度も繰り返すけど,フランスでもドイツでもロシアでもスペインでも,そしてたぶん中国や韓国でも,文系の研究業績の大半は自国語だから!
文系の研究業績が自国語で積み上げられるのは,世界標準だから!
(インドやサハラ以南のアフリカ諸国のように長いこと西欧の植民地になってたり言語の数が多すぎたりして大学教育を英語でやっている国や,ツバルやナウルみたいに小さすぎて自国語のアカデミアが成立しない国を除く.そういう国がうらやましいと言うならもう何も言えないけれど)
そりゃ英語論文を持ってたらすごいと思うよ.でも英語論文がないことが叩かれる理由になるのは本当に理解不能.
そもそも,社会学には膨大な日本語の研究蓄積がある.いくつもの査読誌があり,日本語で査読を経た研究成果が積み上げられている.博論をもとにした出版も多く出ているし,入門書から何から日本語で一通り揃うようになっている.
自国語で用が足りるんだから,論文の執筆言語は自国語でいいだろ.繰り返すけど,それが世界標準です.
イギリスやアメリカの学者が英語で書き,フランスの研究者がフランス語で投稿し,ドイツの博士がドイツ語で教授資格申請論文の審査を受け,ロシアの院生がロシア語で報告している中で,なんで日本の教授が日本語の業績しか持っていないのを責められなければならないのか皆目わからない.
これは社会学に限ったことじゃない.政治学だって,歴史学だって文化人類学だって,文学だってそうだ.だいたいどの分野でも有力な査読つき学術誌を持っているし,それらの雑誌は日本語で書かれている.
そして日本語というのは,世界でも有数の学術言語だ.もちろん英語ほどの網羅性は持っていないかもしれないが,ドイツ語やロシア語ほどの重要性は持っていると思う.それは,先人たちが日本語で積み上げてきた研究業績の賜物だ.
「世界でも有数の学術言語」というのもいろいろな尺度があると思うが,どれだけ広い分野で高度な研究を積み上げているか,というのをここでは述べたい.
もしこれを読んでいるあなたが,アフリカに興味を持って,アカデミックな本を読んでみたいと思ったとしよう.大学図書館で文化人類学の棚の前に立てば,数ダースの優れたアフリカ研究があなたの前に現れるだろう.その多くが,西欧の学者と同じようにアフリカでフィールドワークをし,日本語と西欧語の先行研究を読みこなした上で書かれたものだ.
あるいは,ヨーロッパの歴史を知りたいと思ったとしよう.あなたは造作もなく,フランスやドイツやイギリスやスペインやロシアや,そしてチェコやポーランドやポルトガルやボスニアについての研究書を見つけられるだろう.どれも現地語の史料や文献を消化した上で,日本の歴史学の積み重ねてきた問題意識と接続されている.
それとも,言語学に興味があるだろうか.心配はいらない.オセアニアの数百人しか話していない言語の文法を記述した本も,ヨーロッパの小国の言語の音声を論じた本も,中東の言語政策についての本も,あなたは探し出すことができる.政治学? 問題ない,EUの制度,アメリカ大統領選挙,韓国の歴史認識,ロシアの愛国主義,湾岸諸国の君主制,どれも日本語で最先端の研究が読める.
こんなことは当たり前に思えるかもしれない.でもこれは決して当たり前のことじゃない.
とあるアジアの国に行ったときに書店に行ってみた.西洋史の棚に並んでいるのはどれもそのアジアの言語で書かれた本だったが,著者はみな西欧人だった.それらはいずれも西欧語からの翻訳だったのだ.たまにそのアジアの国の著者が書いた本もあったが,イギリスとかフランスとかメジャーな国についての本ばかり.マイナーな国の歴史について扱った本を開いてみたら,参考文献はほとんど英語で,ちょこちょことドイツ語やフランス語が挟まる程度.要するにその本を書いた学者はそのマイナー国の言語を読めなかったのだ.日本には,そのマイナー言語を読める歴史学者が何人もいるのだが.
あるいは,ヨーロッパの小国の書店.その国は小さいので国民の多くが英語を達者に話すのだが,本屋を覗くと,自国史や周辺諸国の歴史についての本以外は英語の本がそのまま置かれていた.もしも遠いアジアの国に興味を持ってしまったら,その国の人は,自国語のペラッペラの入門書の次は英語を読まなければならないのだ.日本語なら,遠いヨーロッパの国についても専門書が手に入るのだが.
たとえ外国語が読めないシロートだろうと,ある程度自国語で難しい本を読める力があれば,中世ヨーロッパやアフリカ社会やラテンアメリカの先住民や近世朝鮮史や東南アジア政治についての最先端の研究書が読める.そんな豊かなアカデミアを有している国,そんな潤沢な研究蓄積のある学術言語は,実はそんなに多くはない.
私の感覚だと,英語の網羅性には劣るし,フランス語の豊かさには負ける気がしないでもないけれど,ドイツ語やロシア語並の水準に達してはいると思う.もちろん自国民ゆえのひいき目かもしれないし,カバーしている範囲が微妙に違っている以上正確な判定は不可能なのだが.
カバーしている範囲が違う,というのはどういうことか.たとえば,上で英語の網羅性に劣ると書いたが,英語よりも日本語のほうが研究蓄積の豊かな領域というものがある.当たり前だが,日本史については英語の文献よりも日本語の文献の方が圧倒的に豊富だし,日本史以外でも前近代の中国史についてはまだまだ日本語の方が英語よりも網羅性が高いと思う.なので前近代の中国史については,読者はともかく,歴史学者は中国語の他に日本語を読まなければいけない.その人がアメリカ生まれの英語ネイティブな白人であってもだ.ザマーミロ.
というか,実は文系分野に関しては英語の網羅性は理系ほど高くない.そんなのは当たり前で,ロシア人はロシア史についてロシア語で書き,カタルーニャ人はカタルーニャの言語政策についてカタルーニャ語で書き,チェコ人はチェコ文学についてチェコ語で書き,韓国人は韓国社会について韓国語で書いているのだから,英語の文献を読むだけでそれら全ての情報が手に入るわけがなく,本格的に研究しようと思ったらそれらの言語で書かれた文献を読まなければ話にならない.日本事情について一番詳しく正確な研究が読めるのは,英語ではなくて日本語だ.
なので,上で挙げた主要な学術言語は,それぞれ積み重ねが豊富な領域とそうでない領域がある.得手不得手というやつで,たとえばマグレブや西アフリカの地域研究ならフランス語で,東ヨーロッパの前近代史研究ならドイツ語で,旧ソ連圏の研究ならロシア語で重要な研究が蓄積されてきたので,江戸っ子だろうがロンドンっ子だろうが研究を志すのならそれらの言語を読まないといけない.中国近世史を専門にする者が日本語を読めなければいけないのと同じだ.これらの分野で英語で書かれた研究だけを読んで済ますことはできない.
この辺が,理系とは事情の違うところなのかもなぁと思う.理論物理学とか分子生物学とか再生医療とか深層学習とか,ほぼ全ての分野で英語さえ読めれば研究には用足りる(んだよね?).英語に最先端の研究のほぼ全てが流れ込み,あらゆる情報が蓄積される.しかし文系では違う.英語には限られた情報しか流れ込まず,最先端の研究の全てが英語で提供されるわけではない.
なので文系では,英語が理系ほど特権的な地位を占めているわけではない.もちろん英語文献が読めるのは今や前提だし,重要な先行研究が英語なら読んでいないと問題外だ.けれど,英語ではなく自国語の研究でも研究業績にカウントされるし,外国語での業績といっても英語に限られるわけではない.韓国語やトルコ語で論文を書くほうが英語で書くよりも楽だ,と言う研究者だっているし,日本語でも英語でもろくな業績がないがそのかわりロシア語で何本も論文を書いているという研究者もいる.
というわけで,文系の研究者が英語論文を書いていなくとも,それが直ちに問題だとは思わない.査読論文にしても,そりゃゼロってのはちょっとどうなの,って思うけど,研究者が集まって作った本の一章として論文を発表するとか(いわゆる論集ってやつね),出版社が出してる研究者~教養人向けの雑誌に依頼を受けて研究成果を発表するとか(岩波書店の『思想』とか,青土社の『現代思想』みたいなやつね),査読されてないけど業績としてカウントされ得る論文の発表形態というのはいくつもあるので,査読論文以外にそれらも論文としてカウントしないとフェアじゃないと思う(ただ,私は査読がついていない媒体に出すのは怖いなと思ってしまうので,なるべく査読誌に出している).
別に理系のひとが査読つき英語論文のみを業績としてカウントし和文論文は勘定しないというローカルルールをお持ちなのは結構なのだが,そのローカルルールを文系に押し付けないでいただきたい.
私が危惧しているのは,上で書いたような日本語で積み上げられた先行研究が,日本人に真っ当に評価されていないことだ.
文化の豊かさというものを考えたときに,自国語で世界中の情報を知ることができるということが,どれだけ重要なことか.まして,日本はコンテンツ産業が主要輸出品目のひとつだ.中世ヨーロッパやアフリカの部族社会について日本語での研究が充実していることが,創作者が想像の翼を広げる上でどれだけ有利か.たとえば最近,Cuvieという漫画家さんが『エルジェーベト』というオーストリア=ハンガリーを舞台にした漫画を描いていたが,巻末の参考文献にはずらりと日本人が和文で書いた研究が並べられていた.
別に文化に限ったことではない.政治や経済,そして人権についてもそうだ.ルワンダの虐殺やスレブレニツァの虐殺について日本語で書かれた研究があるのとないのとで,どちらの方が日本人にとって国際情勢を理解しやすくなるだろうか.外国で一旗揚げようと目論む商売人にとって,その地域の専門家が書いた本や論文が和文で手に入るのと入らないのとで,どちらが現地の文化や歴史を理解する助けになるだろうか.欧米のフェミニズムについて日本語で研究を積み重ねる学者がいるのといないのとで,どちらが日本女性の権利の向上に資するだろうか.
すべての国が自国語でこれだけ充実したアカデミアを持てるわけではない.人口があまりに少ない国ではどうしたって物理的な限界があるし,人口が多くとも植民地支配の歴史が長く自国語の大学教育が充実していない国では歴史的遺産がその発展を阻む.
日本人は恵まれた研究蓄積にあまりに無頓着なばかりか,その豊かさをみずから捨て去ろうとしている.それが私にはもったいなく思える.
英語は,世界の始まりから覇権言語だったわけではない.明治時代の日本の医師はドイツ語で論文を書き,外交官たちはフランス語で交渉していた.英語が外交や学術の分野で覇権を握ったのはせいぜい戦後のことで,それまではフランス語やドイツ語と同格の存在だった.今も文系ではprimus inter paresに過ぎない.ひょっとしたら将来,欧米の物理学者たちが中国語で論文を書くことになるかもしれない(そのときは現在の私たちが定冠詞や三単現のsに悩まされるように,欧米人が泣きながら漢字を習得するのだろう.そう考えるとなんとも愉快な未来予想図だ).せいぜい百年単位の覇権言語の移り変わりにあわせて,自国語の学術言語としての地位を貶める必要はないと思う.それは私たちの社会の豊かさを,長期的に損なうことなのだから.
最後に.
どうせ和文論文しか持ってないやつの負け惜しみだろって思ったひとがいるかもしれないけど,和文論文だけじゃなく英語論文も書いたことあるし,英語以外の外国語での論文も持ってます.今それとは別の外国語での研究発表を準備中.私より多くの言語で研究報告してきたひとにならともかく,たかが1言語か2言語でしか論文書いてないガラパゴスの住人にだけは文句言われたくないですわ~~~~~~.
英語論文が優れているとは言わんけど、査読なしの研究なんてゴミだし。
id:bocola 自分でも言ってるように査読なしなのが問題。査読なしの論文なんて、読書感想文と変わらない程度の価値。やはり文系は無価値だと改めて思った。
arXivのない世界線からやって来たのかな? グリゴリー・ペレルマンって聞いたことない? 査読なし論文が業績としてカウントされてるひとだけど.
事前の査読は,論文の信頼性を担保するための手続きのひとつであって,それが欠けている「から」ダメ論文というわけでも無価値というわけでもない……というのはわかってくれるよね? 当たり前だけど論文の価値は最終的には書かれている内容に依存するわけで,だからこそペレルマンは査読なし論文であってもポアンカレ予想を解いたと認められたんだよね.
私も査読はないよりはあった方がいいと思うけど,査読がすべての論文につくわけではない分野のすべてをダメと論ずるのは不当すぎる.まあ最近は文系も査読が重要になってきているし,若手は査読つき業績を増やしたがっているけれど,査読がつかないからダメとは限らない,ってだけの話.当たり前だけどダメダメな論文は後発の研究によってちゃんと批判されるか鼻にもかけられず無視される.公募の際には論文を提出させたりするんだから,査読なしダメ論文を量産していればそこで撥ねられるでしょ.理系のローカルルールで事前の査読が必須なのはよくわかったけど,そのローカルルールを文系に敷衍されても困る.
id:zyzy まぁでもこの噛みつきは、もうすでに南京大虐殺の時に通った道だし、虐殺否定論者と同じ轍を踏み続けている以上、恐らくオタにこの説明が通ることはないんですよ。
私もオタクですが.