はてなキーワード: 西アフリカとは
当時20万近くしてプロしか買えなかったKOMPLETE5が突如セールをやり、学生でも5万円でスタンダードで買えたことが感慨深いね。
(プロ御用達だったミックスマスタリングツールWavesもそう。2008年くらいのプロしかできない電子音楽からアマチュアもできる電子音楽に変革した気がする。その後ボカロも出てきた)
元増田がいいたいのは、枠を超えた新しい音楽表現が近年でていないのではないかという話だと思っている。
そこで個人の音楽体験をいうのは違う。(ブコメでも一部言及されている)
元増田がテクノ界隈なので、音楽理論(=現代音楽、微分音含む)の話はおいておく。
なお、民族音楽とテクノの組み合わせは広範囲で実施されていることは存じ上げていて重要だが、枠を超えたという意味だと弱いと思う。
(個人的には西アフリカのジャンベの複雑なリズムがテクノに活かされてほしいが、別に大局的には新しい音楽ではないだろう。リズムパターンを変えただけなので)
私は歴史でしか知らないが80'sや90'sは電子音楽の全盛期だったと感じる。技術のアップデートが音楽につながるといった流れだ。
有名なのはシンセサイザーTB-303だが, TR808 or 909 もあるし、鍵盤系だったらJD800(それこそ小室哲哉のピアノ)やsupwersawのJP8000(8080)もあった。
また、シンセではないSC-88proのようなPCM音源(≒いわゆるMIDI音源)も重要であろう。アマチュア音楽家もハマり、それが今のDTM人口にもつながっている。なにより、プロも使用していた。(レイハラカミやボカロ勢(i.e. sasakure.UK))
また、各種トランス(サイケ含む)やドラムンベースなど一世を風靡したジャンルがあったのもこのころだと思う。
あとオウテカのような音響系も盛んだった。あと日本でいうWEGのようなIDM系もね。
00's後半になるとエレクトロ全盛期があった。ダフトパンクやジャスティスだね。
10's前半はスクリレックスに代表されるベース音楽(BROSTEP, etc)が流行った、スクリレックスは従来の加算系シンセFM8で音を作ったとのこと立ったが、いままで減算シンセでつくった音をいかにひずませるか(それこそ00's後半)からすると衝撃的だったよね。しかも当時倍音を出せるソフトウェアシンセMassiveでなくFM8でやったなんて。そこからウェーブテーブルシンセの音色(おんしょく)探求が始まった。増田もそこらへんの世代。一方ニコニコではボカロが黎明から全盛期になっている。ここを組み合わせたうまい人は今一戦でやっているね。
そのあとは、2013年くらいにTrap やFootWorkといった80'sリバイバルが起き(FootWorkはリズム芸人なところもあって好きだが)
そのあと#Seapunkを経たFuturebassが主流になり、数年前ベースとボコーダーを合わせたColourBassが流行っている。
並行してボカロ≒JPOPもリリースカットピアノだの譜割りだのはアッパーになっている。
いやー・・・そういう話じゃ無いでしょ、マジでそういうとこやぞ。ワイはこう思いました
アジア人蔑視や日本文化軽視の問題が改善されなくても、日本やどっかの個人が爆破するわけじゃ無い
海外旅行勢としては常識だが、現在ニュースで進行中のウクライナ(特に東部)、パレスチナ(ガザ)含め、ここ数年前話題にあがって最近ニュースではやらなくなったミャンマー(ロヒンギャ)、アルメニア&アゼルバイジャン(ナゴルノ・カラバフ)、スーダン
慢性的に紛争地でもう誰もニュースにあげないスーダン、アフガニスタン、イエメン、ソマリア(一部除く)、細かすぎてニュースにならない地域(エチオピア北部、サハラ砂漠に面している西アフリカ地域)、慢性的な貧困地域(中央アフリカ、ハイチ)などそれら大変な地域が一括でわかるオススメページを提示する。
それは外務省の出している海外安全ホームページだ。
これは日本の旅行者に対し、単純に治安が悪い(死ぬ可能性がある)やら紛争リスクあり日本政府の助けが及ばない地域を、レベル別でわけているものだ。赤いところは基本的に最もリスクが高いlv4であり、「退避してください。渡航は止めてください。(退避勧告)」つまりそこに行くな、逃げろ。との案内を出している。そういったところは現在ニュースて絶賛話題となっているガザやウクライナも含まれている。ただもうニュース(慢性的過ぎて)にすらならないイエメンやシリア、中央アフリカもある。その下のlv3も「渡航は止めてください。(渡航中止勧告)」つまり行くなといった地域があるのだが、ガザもウクライナ東部も(今は暫定的に収束した)ナゴルノ・カラバフも、ニュースがおきる前からLv3が指定されており、つまり(キャッチーな)紛争が勃発してスポットライトが当たる前からずっと火種をかかえ、市民は生活を脅かされていた、またはそういったリスクがあったのである。
ニュースではまさにスポットライトが当たっている、日々情勢がかわっていたり、国のパワーバランスに影響があるところしか、なかなか報道されないが、世の中には他にニュースにすらならない、慢性的な紛争、貧困地域があるということを知ること、ニュースとなった紛争が突発的に起きたのではなく、日頃孕んでいた情勢が限界を超え世間に顕在化しただけであることを知るのに、外務省海外安全ホームページはオススメである。(もちろん突発的な事象も含む)
なお、こういった情報は各国が独自の基準のもと出しており、他にはイギリスの外務省が出しているものもあり、そういったところと比べて見るのもオススメである。
https://www.gov.uk/foreign-travel-advice
なお、上に書いたことはLv3,Lv4の渡航中止勧告に行くことの是非とは全く別の話であることに注意してください。
また、これを見ると世間はどんどん悪くなっているように思えるが、たとえば古くはルワンダ、近年だとシエラレオネ、リベリアのように過去の紛争から立ち直ってなんとかやっていこうとしている地域も多いことを明記しておきたい。
<最貧国に生きる ニジェールの現場から>(中) 15歳の花嫁「高校って何?」
https://www.tokyo-np.co.jp/article/27531
「嫁入り前の娘が妊娠したら、娘と母親は家を追い出され、父親は世間から白い目で見られる」。西アフリカの最貧国ニジェール南部の農村で、年端もいかない娘を嫁がせる理由を尋ねると、多くの親がこう答える。貧困を加速させる人口爆発は、世界一高い児童婚率が関係している。
花嫁の処女信仰は根強く婚前妊娠はタブーだ。しかし、現地で活動する国連児童基金(ユニセフ)のムリエル・パラレは「少女たちは実際は婚前交渉などしていない。児童婚の本当の理由は経済的動機だろう」とみる。
これ自由恋愛なんだーへー
経済産業省のデータによると、中国・浙江省嘉興市の秦山第3原発の年間排出量は約143兆ベクレルで、福島第1の6.5倍、広東省陽江市の陽江原発は約112兆ベクレルで5倍、遼寧省大連市の紅沿河原発は約90兆ベクレルで4倍。韓国でも月城原発が3.2倍、古里原発が2.2倍となっている。
また欧米では、フランスのラ・アーグ再処理施設が454.5倍、カナダのブルースA、B原発は54倍、英国のヘイシャム2原発は14.7倍とまさにけた違いだ。
海洋放出をめぐる中国の日本に対する攻撃的な主張について、ワシントン・エグザミナーは「環境への懸念が動機ではなく、米国の太平洋の主要同盟国を弱体化させるために、この問題を利用できるという中国政府の判断」と分析。「中国が環境を破壊する行為について文句を言うのは偽善の極み」と言い切った。
結局のところ、大漁船団を組んで世界の海を荒らしているのは中国だと同オンラインメディアは指摘する。「これらの漁船団は、西アフリカ、太平洋、ラテンアメリカの脆弱な漁業資源を壊滅させ、すでに疲弊している地元の漁業を壊滅させている。中国は当然、これを否定している。だが、漁船団はトランスポンダ(位置情報を知らせる通信機器)を切り、他国の排他的経済水域に侵入したり、ガラパゴス諸島などの生態護区を略奪している」と伝えた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/04e181c8647e68d871c1f558f511ba68d74e239b?page=2
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2203325
北欧、中北米、東アフリカ、南西アフリカ、東南アジアなどの先進国と比較して、著しく遅れている。
このような中で、遅れている日本のジェンダーギャップで女子の人気低迷が説明できるスポーツと説明できないスポーツがあるという。
ブ米を見た限りでは
あげられたスポーツを見ると、男子が中心で、男権社会内部でも高い価値があると見なされるスポーツでは、男女の人気格差をジェンダーギャップ順位で説明できる。
地方では伝統で児童婚の問題があるとされているインドネシアですら女性の結婚年齢は19歳に引き上げられてます
https://www.cnn.co.jp/world/35142784.html
https://www.unicef.org/press-releases/unicef-welcomes-recent-amendment-indonesias-marriage-act
ただ子どもの人権を無視することは少子化には効果あると思います
子どもの身体を意図的に欠損させて物乞いさせたり、児童労働どころか売春させたり臓器として売買したりな国や地域なら、
当方30代男、非モテ。正社員。地方在住。コロナ禍になる前は、独身で長期休暇や有給を利用して年に4〜5回ほど一人で海外旅行をしていた。地方とはいいつつ国際空港へのアクセスがよく、頑張れば仕事帰りにそのまま空港にいけたことが大きい。
(弁明しておくが、決して買春ではない。スタンプラリーを埋めるがごとくアジアやアフリカを主とした未踏国に足を付け、その国のなんとなくの雰囲気を体感し、わかった気になりつつその味わいを堪能する軽薄な旅行である。また当時の航空券は、ヨーロッパや中東で往復10万円以下の便が普通に購入できた。流石にアフリカは10〜20万するが今と比べて安く、一人暮らしの趣味としては払える額である)
コロナ禍前は、観光客があまりいかない西アフリカ方面まで足を伸ばすことができたこともあり、海外旅行はある程度堪能したと感じた。(もちろんまだ気になる場所はある。モーリタニアの歴史的箇所シンゲッティや鉄道とかコンゴのオシャレ団体サプールとか。15年前の情勢であればマリに行きたかった。)
そして誰も予想ができないコロナ禍になり海外旅行が非現実的となったなか、自身の価値観も変わり婚活をした。
結果、なんとか今の妻と出会い一年前に結婚することができた。今は一緒に暮らしている。
昨年までは海外旅行は仕事でもない限り夢のまた夢の世界であったが、今年はついに観光でも旅行できるようになってきたらしい。
そこでこの冬、休みをずらして一人で自身の貯金で海外旅行(東南アジア)をしてもいいかと妻に打診したら、議論のすえ、反対を受けた。
妻は海外旅行にいったことがなく、一人海外旅行に対する安全の不安さと寂しさがあるとのこと。
前者は(情報不足の面もあるのでとりあえずおいといて)ともかく、後者は普段から一緒に過ごしているが、長期休暇も一緒に過ごしたいと。
その気持ちはわかるのだが、普段一緒に過ごしているのだからいいのではないかという思いを私は懐いてしまう。むしろ普段一緒に過ごしているから、離れたときの思いが強くなるのではないか。(実際、出張で一週間家を開けた際は私は妻に会いたくて仕方なかった。これは惚気だが)また、婚活時に一人海外旅行の趣味を伝え好意的だったことから一人旅行の抵抗はそこまでないと考えてはいる。(勘違いかもしれないが)
なお、結婚の今は毎日一緒に過ごしている。幸せだが、刺激として海外旅行にいきたい気持ちが強い。結婚されている諸兄姉においてはどうやって一人海外旅行をしているのか知りたい。やはり仕事関連にかこつけてなのか。
皆様どうしているのだろうか。結婚は一人海外旅行の終わりだろうか。国内だったらいいのか否か。旅行好きの皆様がどうしているか聞きたい。むしろ海外旅行一人旅は卒業すぺき趣味なのか。(エチオピアで会った旅行者が、本旅行の航空券とったあとに結婚したから、この旅行が最後かなと言っていたことを思い出す)
自分語りばかりで恐縮だが、誤解されないようにいうと、まず妻を海外旅行に連れていきたい気持ちがあるが、仕事の関係から海外旅行にフラっと行くのが難しい。また二人で国内はいろいろといっている。
当方30代男、非モテ。正社員。地方在住。コロナ禍になる前は、独身で長期休暇や有給を利用して年に4〜5回ほど一人で海外旅行をしていた。地方とはいいつつ国際空港へのアクセスがよく、頑張れば仕事帰りにそのまま空港にいけたことが大きい。
(弁明しておくが、決して買春ではない。スタンプラリーを埋めるがごとくアジアやアフリカを主とした未踏国に足を付け、その国のなんとなくの雰囲気を体感し、わかった気になりつつその味わいを堪能する軽薄な旅行である。また当時の航空券は、ヨーロッパや中東で往復10万円以下の便が普通に購入できた。流石にアフリカは10〜20万するが今と比べて安く、一人暮らしの趣味としては払える額である)
コロナ禍前は、観光客があまりいかない西アフリカ方面まで足を伸ばすことができたこともあり、海外旅行はある程度堪能したと感じた。(もちろんまだ気になる場所はある。モーリタニアの歴史的箇所シンゲッティや鉄道とかコンゴのオシャレ団体サプールとか。15年前の情勢であればマリに行きたかった。)
そして誰も予想ができないコロナ禍になり海外旅行が非現実的となったなか、自身の価値観も変わり婚活をした。
結果、なんとか今の妻と出会い一年前に結婚することができた。今は一緒に暮らしている。
昨年までは海外旅行は仕事でもない限り夢のまた夢の世界であったが、今年はついに観光でも旅行できるようになってきたらしい。
そこでこの冬、休みをずらして一人で自身の貯金で海外旅行(東南アジア)をしてもいいかと妻に打診したら、議論のすえ、反対を受けた。
妻は海外旅行にいったことがなく、一人海外旅行に対する安全の不安さと寂しさがあるとのこと。
前者は(情報不足の面もあるのでとりあえずおいといて)ともかく、後者は普段から一緒に過ごしているが、長期休暇も一緒に過ごしたいと。
その気持ちはわかるのだが、普段一緒に過ごしているのだからいいのではないかという思いを私は懐いてしまう。むしろ普段一緒に過ごしているから、離れたときの思いが強くなるのではないか。(実際、出張で一週間家を開けた際は私は妻に会いたくて仕方なかった。これは惚気だが)また、婚活時に一人海外旅行の趣味を伝え好意的だったことから一人旅行の抵抗はそこまでないと考えてはいる。(勘違いかもしれないが)
なお、結婚の今は毎日一緒に過ごしている。幸せだが、刺激として海外旅行にいきたい気持ちが強い。結婚されている諸兄姉においてはどうやって一人海外旅行をしているのか知りたい。やはり仕事関連にかこつけてなのか。
皆様どうしているのだろうか。結婚は一人海外旅行の終わりだろうか。国内だったらいいのか否か。旅行好きの皆様がどうしているか聞きたい。むしろ海外旅行一人旅は卒業すぺき趣味なのか。(エチオピアで会った旅行者が、本旅行の航空券とったあとに結婚したから、この旅行が最後かなと言っていたことを思い出す)
自分語りばかりで恐縮だが、誤解されないようにいうと、まず妻を海外旅行に連れていきたい気持ちがあるが、仕事の関係から海外旅行にフラっと行くのが難しい。また二人で国内はいろいろといっている。
どこの先進国でもそうだけど2人または以上を産むのは移民一世までやで
子どもの身体を意図的に欠損させて物乞いさせたり、児童労働どころか売春させたり臓器として売買したりな国や地域なら、
西アフリカのニジェールはめちゃんこ出生率高い(45.21 %)が子どもの命はめちゃんこ軽いぞ
anond:20221210073517 anond:20221210103149 anond:20221221233006 anond:20221222091523 anond:20221231102720 anond:20230114090718 anond:20230223120916 anond:20230917124421
もちろん、海の妖怪が人間の王子に恋をするという悲劇的な恋愛物語であるが、実はフリードリヒ・フーケの『ウンディーネ』という、水の精霊と人間の騎士との恋愛物語を描いた先行作品が存在する。そういう意味ではアンデルセン作品は、あまりオリジナリティが無いとも言えるかもしれない。
フーケの作品『ウンディーネ』には無くて、アンデルセンの『人魚姫』には有る要素として、我々がよく知っているのが、主人公の人魚姫が人間になることの代償として「声」を失うという筋書きである。
この「人間になることで声を失う/奪われる」という描写の元ネタと考えられているものの一つに、アイルランドの海浜に近い場所に存在する某村に関する民間伝承がある。
周辺の他村の住民たちは、某村の住民たちのことを「人魚の子孫」と見なし、彼らと会話することを忌避していたというのである。
この話から直ぐに連想するのが、ホメロスの『オデュッセイア』にも登場する、妖怪セイレーンのことである。これは、航行する船を操る船乗りたちを、美しい歌声で惑わして誘き寄せ、船を難破させて殺害し、その人肉を喰らったとされる、半人半魚の妖怪である。ここでも「声」が禁忌とされている。しかし、どうしてもセイレーンの歌声を聞きたいと願った知恵者オデュッセウスは、部下の船乗りたちの耳を蜜蝋で塞がせて、歌声を聞こえないようにさせてから、セイレーンたちの居る岩礁の傍を通過するように船を航行させた。オデュッセウス自身は、己の身体を帆柱に縄で縛り付けさせ、決して海に落ちることの無いように万全の防止策を施してから、その耳で彼女たちの歌声を聞いたという。
日本においては、人魚との「会話」が禁じられていたというわけでは無いものの、やはり不吉な影が付き纏う。『吾妻鏡』や『北条五代記』等には、人魚らしき妖怪の発見事例が記されており、これを何かの前触れとした陰陽博士などの占術職能者によって、兵革の兆し、奥州藤原氏の滅亡の前兆などと見なされたといった例が見出される。
ただし、これらの国文学的な文献に記された人魚は、アンデルセンの『人魚姫』のような美しく可愛らしい姿とは、かなり異なる。例えば、頭部だけが人間の人面魚タイプであったり、四脚らしきものが生えていたりと、なかなか奇怪な姿をしていたようである。中には、頸部に鶏冠の如きヒラヒラしたものが付属していたという事例もある。また、発見される場所も水辺だけではなく、時には、山肌で起きた土砂崩れの現場で発見されたことも有るようである。
してみると、人魚にとって魚身であることは、我々現代人が思う程、重要ではないのであろうか。実は、先に挙げた『オデュッセイア』に登場するセイレーンにしても、元々は半人半魚ではなく半人半鳥であったとする説が有る。その鳥の怪が、もしも水鳥の怪であったとすれば、後に、半魚の怪との交雑を起こしても、それほど不思議では無いと考えてもよいのかもしれない。重要なのは、半人半怪という混合性である。
さて、アイルランドの某村に関する民間伝承と比較するために振り返ると、日本においても「妖怪の子孫」と見なされた人々が存在しなかった訳では無い。例えば、江戸時代の南町奉行、根岸鎮衛(ねぎしやすもり)の著した雑話集『耳嚢(みみぶくろ)』に収められた「河童の難を遁るゝ歌之事」という文章を参照してみよう。そこでは、菅丞相(かんしょうじょう)すなわち菅原道真(すがわらのみちざね)の作として伝えられる、次のようなまじない歌を紹介している。
「ひよふすべよ 約束せしを 忘るゝな 川だち男 うぢはすがはら」
根岸鎮衛は、菅丞相の作は疑わしいとしつつも「ひよふすべ(ヒョウスベ)と云ふは川童(カッパ)の事の由」と記しているが、これは、長崎県諫早市周辺でのカッパに該当する水怪に対する方言的な呼称である。しかし、カッパ避けの歌が伝えられていたのは、現在で言うところの千葉県(アメリカで言えばノースダコタ州)である。随分と遠くの地までヒョウスベの名が伝えられていたことになる。
岩波文庫版では「川だち」には「水泳の上手い者」との注釈が付けられている。これは遊戯としての水泳のことを言うのではなく、職業的な必要性から河川で泳ぐことをしていた者たち、職能者たちと考えるのが妥当である。その川だち男が「我々は菅原氏の関係者なのだ、約束を忘れるな」と、歌を通じてヒョウスベ≒カッパに向かって呼び掛けているのである。一体、何を約束したというのか?
菅原道真の家系である菅原氏は、遡れば土師氏(はじし)に連なるとされる。土師氏の祖は、野見宿禰(のみのすくね)とされ、当麻蹴速(たいまのけはや)との角力すなわち相撲(すまひ)による決闘を行ったことでも知られる。現代では十把一絡げに河童(カッパ)と総称されるようになった水の妖怪が、相撲を好むことは昔話などを通じて広く知られているが、その起源には、土師氏=菅原氏との関わりが存在するということである。
この土師氏は、埴輪を作ることを能くしたが、埴輪といえば赤土であるが、この赤い色は、酸化鉄を多く含むためである。このような粘土の採掘は、鉄分を含む土の採掘であり、これは時代が下れば、鉄を初めとした金属鉱脈の採掘にも関連・発展したことであろう。
鉄に限らず金属は、採掘されるだけでなく精錬されるので、山の掘削、森林の樹木伐採という環境変化を伴う。これは、山に水源を発する河川にも影響を及ぼしたと考えられ、そうなると、粘土の採掘や金属の採掘・精錬を行う山の民と、漁業・水運などによって河川で生業を立てる川の民との間で、何らかの紛争を招いたのは想像に難くない。本来の「カッパによる水難」とは、元々は「山にいるカッパ」による山林環境の変化によって引き起こされた、河川災害や環境破壊のことを指したのではないのか。なお、カッパといえば河川などの水辺だけにいると現代人は思いがちだが、カッパが河川から山、山林から河川へと、季節の変化ごとに移動するという伝承が見られるのである。
山林の環境破壊が火種となって紛争が発生し、これを停止するための平和条約のようなものが「約束」であり、それが川の民と土師氏=菅原氏との間に結ばれたことにより河川災害の発生件数が減少したこと、それが「カッパ避け」の実態だったのではないか。川の民に害を及ぼさないと、かつてカッパの親分であったであろう土師氏=菅原氏が約束したことが変化して、川だち男が「我々は菅原氏=土師氏の裔であるぞ、だからカッパよ、我々には害を及ぼすな」と呼び掛けるようになったのではないか。
ヒョウスベには「兵主部」の漢字が当てられる。このうち「部」は物部や斎部などと同じであるが、では「兵主」は何なのかと言えば、これは大陸から渡来した蚩尤(しゆう)のことではないかと言われている。というのも『史記』では、蚩尤は金属製の戦用武具を生み出した「兵主神」とされており、しかも角力(相撲のようなもの)を能くするのである。その上、石や鉄を喰らうとされるので、これは金属の精錬を象徴するのではないかと考えられる。ここから、兵主部とは元々は「兵主神を祀り、それに関連する金属の職能に携わる部民」であろうと考えられる。
脇道に逸れた話の部分が予想外に長くなってしまったが、土師氏=菅原氏という職能集団的な氏族がカッパの裔であると考えられていたということ、そして、カッパに対する民の恐れの根源には、職能活動による影響が存在した可能性のことを言いたかったのである。
本筋に戻ると、アイルランドの海浜そばの某村に住むという「人魚の子孫たち」が、周辺他村の人々から会話をすることを忌避されたのは何故か。それは、彼らが「予言する能力」を持っていたからではないのかと私は推測する。ただし、予言と言っても、超常の能力ではない。彼らが漁業や水運業など海の船仕事に携わっていた職能集団だったとしたら、どうだろうか。そのような仕事に携わることで、海路における岩礁や難所の存在場所についての知識も蓄積されたであろう。また、船仕事に影響するような天候の変化を読む(予測する)観望天気の知識も蓄積されたであろう。そのような、いわば専門知識や能力を身につけた彼らが、もしも「海路のあそこには岩礁が有るぞ」「嵐が来るぞ」と予測して教えてくれたとしたら、何の知識も持たなかった他村の人々は「某村の住民が不吉な予言をする。彼らが予言を行うせいで不吉な出来事が起こる」と逆転した考え方をして、誤解したのではないだろうか。それが「会話を忌避する」ことに繋がったのではないだろうか。
上で粘土採掘や金属の採掘・精錬を行う職能集団とカッパの関連を述べたが、こういった専門的な仕事は、その仕組みを外部からは理解しにくい。自分たちには出来ない仕事をする能力を持ち、影響力が大きい者のことを、人間は尊敬するだけでなく同時に差別もするという例は、古今東西を問わず広く見られる現象である。例えば、西アフリカの伝統的な音楽・歌唱の職能者グリオ(griot、フランス語。現地のウォロフ語でgewelギュウェル、トゥクロール語でgauloガウロ、マンディング語でdjeliジャリなどと呼ばれるのが語源)たちは、歌の言霊を駆使することで、人を幸せな気持ちにしたり、戦の前に闘争心を鼓舞したり、逆に人々の間の争い事の調停役を担ったりといった役目を果たすことから、非常に尊敬を受ける反面、亡くなると普通の墓に埋葬されずにバオバブの木の虚穴に遺体を遺棄されるという。そこでは、尊敬と差別の心理がアンビバレントに同居している。
日本の人魚が不吉の前兆と見なされた話は既に述べたが、その中には、人魚自身が言葉を口にしたという例も見られる。それも、もしかしたら海の民などの姿を人魚に反映していて、やはり海の民による予言とそれに対する恐れの感情の名残なのかもしれない。
西洋人が日本に渡来するようになると、剥製・ミイラ製造の技術も伝えられ、魚や動物のパーツを組み合わせることにより、カッパや人魚のミイラが製造されたことは、現在も日本の各地に残るミイラの実物とともに知られている。したがって日本における人魚の形態傾向が、人面魚タイプや四脚タイプから、現代人にも親しみのある上半身人間・下半身魚タイプへと変化した原因として、西洋人の影響が有るという可能性は、もっと大きく見積もっても許されるであろう。しかし、日本よりも先に西洋人との接触を果たしていた中国を通じて、もっと早い時代にミイラ製造の技術が日本に伝えられていたという可能性は無いのだろうか。その時に、西洋人が抱く人魚のイメージも一緒に、早期から日本に流入したという可能性は無いのだろうか。大陸や西洋からの人魚伝承の流入によって、前触れや予言というイメージが形成された可能性は、今後より丁寧に調べる必要が有るだろう。
まだまだ考察すべきことは多く残る。
人頭獣身の妖怪、しかも不吉の前兆や予言を伴うといえば、人頭牛身の妖怪「件(くだん)」が思い浮かぶ。上で半人半怪の混合性が重要と述べたが、この混合性の故に、人間の住まう現実の世界と、非日常・非現実の世界との結節点となる役目が、人魚や件のような半人半獣の妖怪には与えられたのであろう。そして、その役目を具現化したものが、前触れや予言なのであろう。
また古来、予言や神託の役目を担う者の多くが、巫女という女性であった。これは、女性には生理があり妊娠・出産が可能であることから、男性に比べて、より自然というカミの領域に近い存在であり、現実・日常の世界との仲立ち・結節点の役目を果たすことが出来ると信じられていたからである。セイレーンや人魚に限らず妖怪や怪物たち(例えば、エデンの園でアダムとイブを誘惑した蛇など)に女性性が付与されているのは、ユダヤ教・キリスト教・仏教などが地位を確立する以前の世界において、カミの領域との仲立ちを務める職能を担っていた女性たちに対する、尊敬と差別というアンビバレントな感情が反映された名残であろう。
最初に『人魚姫』は何の物語か?と掲げ、長々と文を書き連ねたが、正直に言えば、それを確定することは実は難しいと思っている。ただし、少なくとも、異なる世界の住人が出会った物語、それに伴って起こったコンフリクトの悲劇の物語とは言えるのかもしれない。
乱文も長くなり過ぎたので、ここまでとしよう。
マンデ族は、特に西アフリカの西側に多く存在する。マンデ族は主に東マンデと西マンデの2つのグループに分けられる。
西マンデ族の一派であるマンディンカ族(マリンケ族、バンバラ族、ディウラ族)は古代西アフリカ最大の帝国を建国したと言われている。マンデ族には、ソニンケ族、スス族、リグビ族、ヴァイ族、ビッサ族などの小集団がある。
マンデ族は、沿岸の熱帯雨林からサヘル地帯まで、さまざまな環境に住んでいる。料理や文化、信仰も多様で、主に言語グループによって組織されている。現在、彼らはイスラム教徒が多く、カースト制度に従っている。
サヘル地域に住むマンデ族、マンディンカとソニンケは、個々の部族の所属を超越していると言われている。マンデ族の影響は、歴史的にすぐ近くの地域をはるかに超えて、サヘルとサバンナに住む他の近隣イスラム西アフリカのグループへと広がっていった。マンデ族はニジェール川を下るか、または陸路で貿易を行い、ガーナ帝国、マリ帝国、カアブ、ワスールーの拡大とともに軍事的征服を達成した。
マンデ語を話さないフラ人、ソンガイ人、ウォロフ人、ハウサ人、ヴォルタ人は、程度の差こそあれ、マンデ族の世界観、衣服、その他の文化財(共通の文字、建築、料理、社会規範)と密接に連携している。
オニャンコポンと聞くとアホみたいな名前だなぁと思う人も多いかもしれないが、実は神様の名前である。
強そうである。
アシャンティ人の宗教ではオニャンコポンに代表される神と精霊(abosom)と祖先の霊(nana samon)という3種類の超自然的な存在が体系を形作っている。すべての精霊はオニャンコポンによって創造されたとされている。
つよい(確信)。
アシャンティ人の宗教におけるオニャンコポンはキリスト教におけるゼウスと同じくらいの位置を占める。
のだが、エピソードは実に微笑ましく
天空神であるオニャンコポンは、昔は人間たちに近い位置に居た。しかしあるとき、一人の老女がヤムイモを臼と杵で搗いていた拍子に、杵をオニャンコポンにぶつけてしまった。それ以来、オニャンコポンは遠く離れてしまったという(天地分離神話)
かわいい。
しかし、これをきっかけに神の世界と人の世界が分かたれることになるとは老女も思いもしなかっただろうな。
この後、老女は村中の臼を積み上げてオニャンコポンの世界まで積み上げようとするが失敗
臼の塔は崩れて多くの死者を出すという素朴バベルの塔もやらかしている。
なぜコロナはアフリカで「意外」に広まらないのか?|アフリカビジネスパートナーズ
なぜアフリカは、世界の危惧とは裏腹に、ここまで新型コロナの感染者数を抑え込めているのか。その理由は、これまでアフリカ各国が体験してきた、感染症対応の経験にある。
アフリカは、2014年に西アフリカ3カ国で、2018年からはコンゴ民主共和国で、エボラ出血熱のパンデミックを経験している。
この経験を通じて、感染症の拡大を水際で防ぐためのオペレーションや、患者の隔離や取り扱いの方法についてのプロトコルが存在している。
常日頃から結核やコレラ、ポリオといった他の疫病にも対応しているため、感染の流行に即時に対応し、限られた物資で拡大を抑えるという点では、アフリカはむしろ準備が整っている。