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2020-09-11

逆に精神的に健康作品コンテンツについて考えてみた

前回はこちら 

https://anond.hatelabo.jp/20200911202150

精神的に不健康作品コンテンツの例として、青年向け漫画も取り上げる予定だった。もつあきさんと無望菜志さんと朝凪さんを取り上げようと考えていた。

迷った挙句に書かないことにした。男性しか読んで楽しめないものは書くべきではないと考えたからだ。かといって、私がボーイズラブ世界に足を踏み入れるわけにもいかず。

その代わり、ブクマコメント要望のあった、精神的に健康コンテンツを取り上げてみようと思った。

各編ひとつずつ選んで紹介する。ひとつにつき1000字程度。たまにネタバレをする。

漫画

火の鳥

 久しぶりに読み返して、精神的に不健康作品ってそもそもどんなものなのか?と自らに問いかけることになった。

 これは面白い。「何も聞かずに読んでみて!」と無条件で人に勧めることができる数少ない漫画だ。

 火の鳥。生き血を飲むと不老不死になる。彼女(?)は人間世界を見守っている。たまに人間に捕まえられて血を取られたり、稀に自分から血をあげることもある。その血を巡ってドラマが繰り広げられる章編もあれば、そもそも生き血を飲みたいという展開のない章編もある。

 精神的に不健康描写が数多くある。不老不死テーマなだけに理不尽な死も多い。エロもあるし、グロもある。昔の漫画なのでよくない言語表現もある。

 でも、読んでいるうちに何が何だかからないまま時間が経って、読み終えると心が静かになっている。何も考えられない。心が作品に持っていかれる。

 前々回の記事で、『完全なる経営から読み取ることができる、精神的に健康人間要件として以下の5つを挙げた。

 ・今の状況をありのままに捉え、不確実な状況でも耐えることができる

 ・創造的やユーモアがある

 ・自分自分に関わる人間幸福を願う

 ・夢中になれる物がある

 ・自分能力を惜しげなく発揮している

 火の鳥に出てくる主要人物は、このいずれかを必ず持っている。持っていないこともあるが、成長とともに持つようになる。

 どのシーンも主人公に厳しい。安息の時はない。あったとしても理不尽に打ち砕かれる。各編の主人公には欲しいものや、なりたいものがある。それらを目指して戦い続ける。

 彼らが生の終わりを迎えた時、死の跡には必ず何かが残っている。

 精神的に健康/不健康作品を分かつものは、破壊創造バランスなのだと思う。精神的に不健康作品コンテンツは、最後は何かが崩壊して終わる。対して、精神的に健康作品というのは、最後に何かが創造される。

 物語過程で、登場人物が絶えず営為を繰り返している。だから読者の心に爪痕が残る。

アニメ

プリキュアシリーズ

 精神的に健康になりたいのなら、土日の朝にやっているアニメを見るのが近道かもしれない。

 人として正しい道へと導いてくれる作品が多い。

 プリキュアはその筆頭だろう。プリキュア作品を見た児童は、正しい人格の在り方や、仲間のために何をしてあげればよいか、敵に対してはどのような態度で接すべきかなど、社会生活を営むうえで大事なことを学べる。

 大人が視聴すると、忘れかけていた大事なことを思い出させてくれる。

 今やっている『ヒーリングっどプリキュア』だと、15話がよかった。のどかラビリンがあることをきっかけに喧嘩となり、冷戦状態になる。なんというか、リアルなのだラビリン問題行動を起こすきっかけも、のどかが怒った理由も。ケンカ中の態度も。

 イザという時にケンカ裏目に出てしまう。信頼関係がなくなったせいで〇〇に失敗する。

 ラテ仲介によって二人は仲直りするのだが、これもまたリアルだ。現実でも、こんなやり取りを見たことのある人がいるのではないか

 創作世界に生きている人間を、現実に生きているように描く。これができるのは一流の作品だ。当たり回はいくらでもある。騙されたと思って是非視聴してほしい。

(余談)

 大人児童向けアニメを見ても面白くないという意見もある。特に作画児童向けアニメというのは、1年間放送する関係で1話当りの予算が少ない。作画がよくないイメージが強いのではないか

 その点は安心だ。ハートキャッチプリキュア!の辺りから予算が上がっている(ような気がする)。それまでのプリキュアシリーズというのは、月に一度は作画が崩れてプリキュアの顔がおっさんになるという事態が生じていた。

 いい時代になった。ただし弊害もある。スタッフお気に入りプリキュアが贔屓されるようになった(※今は特定キャラが贔屓されることはない)。個人的意見になるが、キュアムーンライトの変身時の作画枚数が少ないのは、キュアサンシャイン変身バンクを盛大にするために暴走したスタッフのせいだと思っている。

 プリキュアシリーズがたくさんありすぎて選ぶのがしんどいと思われた貴方には、私が選んだ大人向けのプリキュアを紹介させてもらう。作品紹介は最小限に留めている。

 ★ハートキャッチプリキュア!2010年

  キャラデザは子ども向け。物語シリアスファッションショー回にスタッフの愛を感じる。

 ★スイートプリキュア♪2011年

  本物の友情を描いている。硬派で軟派。中学生なのに色気がある。

 ★ドキドキ!プリキュア2013年

  男の子向け? 保守寄りの価値観ベースにしている。お笑い描写に定評がある。

 ★Go!プリンセスプリキュア2015年

  誇りや気高さ、心の強さを描いている。みんな大好きキュアトゥインクル

 ★魔法つかいプリキュア!2016年

  少女友情がメイン。スイプリに比べれば甘々な感じ。最後の方は泣ける。

ゲーム

・かたわ少女

 フリーゲームだ。一時期話題になったので知っている人もいるだろう。

 主人公ヒロインは、病気障害を持っている。主人公である中井久夫は、ある時に心臓であることが判明し、30まで生きられるか怪しいという状態物語スタートする。

 ヒロイン障害は様々だ。目が見えない子、話すことができない子、足がない子、手がない子、火傷のある子……。

 この作品の、いったい何が精神的に健康なのかといえば、キャラクター同士の人間関係の深みを追体験できることだ。

 外国人の有志が作ったゲームなので、そのあたりの深みはとんでもない。愛情で繋がるシーンが感動的なのと同じく、信頼が消えるシーンもまた同じくらいの衝撃で心を抉ってくる。

 笑美のルートがよかった。外国人から見たとき模範的恋人同士ってこうなのかな、というのが伝わってきた。個人主義秘密主義を貫いていた笑美が、心の弱さを久夫に見せられるようになる過程に癒された。

 テキスト量が凄まじいゲームなので、ホームページを読んで感じるものがあった子をプレイするのがいい。

 ゲーム編の番外作品として、高橋邦子シリーズを挙げる。

 某動画サイトではお馴染みのシリーズであり、2011年頃までは定期的に動画投稿をしていた。

 このシリーズは、各作品制作時期によって印象がてんで異なる。

 初期の作品は見るに堪えない。まさに精神的に不健康だ。理不尽な死は基本であり、人権侵害を地でいっている。実際に見てみるのが一番早い。

 時代を経て作風は変化する。

 初期に投稿されたのは、邦子子どもの頃に作ったと思われるものだ。キャラクターはとりあえず雄叫びを上げ、とりあえず戦闘突入し、とりあえず死ぬ。そんな作品しか言いようがない。ただし、作者のセンスが飛び抜けているので結果的面白いストーリーになる。

 邦子大人になってから作ったと思われる作品は、初期のものとはまるで違う。理不尽な死が基本であるのは変わらないが、以下の特徴が挙げられる。

ユーモア意識している。特にセリフ回し。

視聴者テンションの変化を読んでプロットを組んでいる。ハリウッド映画研究している。

・真面目でひたむきなキャラが無残な死を遂げるのが減った

 現在新規作品がアップされることはまずない。

 高橋邦子大人になってしまったのだと思う。新しめの作品を視聴すると、このことがよくわかる。

 精神的に若くないと、ああい作品を作るのは難しい。例えば、会社員として適合してしまうと、そっち方面アイデアが湧いてこなくなる。

 邦子作品をまた見てみたい。

小説

百年の孤独

 1967年に発表されたガルシア・マルケス長編小説

 これまでに30ヵ国語以上に翻訳され,1000万部以上を売ったとされる。架空の町マコンドの創設から、その滅亡に至るまでのブエンディア一族歴史が描かれる。

 ブエンディア一族は、みな自らが決めた使命や、本能のままに生きている。長生きした者もいれば、短命だった者もいるが、誰一人例外なくキャラクターが濃い。

 キャラの立ち方について、「根が明るい」とか「聡明」とか「向こう見ず」とか、そういう言葉で表すのではなく、具体的なエピソード表現している。

 読了後は放心状態になる。静かな気持ちの中で、この本を選んでよかったという感慨を得ることができる。

 大衆向けの作品でありながら純文学でもある。思わず吹き出ししまうシーンもあれば、「お前ここで終わるんか…」みたいに物悲しいシーンもある。

 一番のおススメは文章だ。一文字文字読書中の脳に突き刺さる。以下の例はほんの一部だ。

 屋敷のなかが恋であふれた。アウレリャノはその恋心を、初めも終わりもない詩にうたい込めた。メルキアデスからゆずられたざらざらの羊皮紙や浴室の壁、自分の腕にまで詩を書きつけた。あらゆるものに、変身したレメディオスの姿を認めた。午後二時の睡魔をさそう風のなかのレメディオス薔薇の穏やかな息遣いにつつまれたレメディオス、蛾の浮いた静かな水時計のなかのレメディオス明け方パン匂いにただようレメディオス。いたるところにレメディオスがいた。永遠に変わらぬレメディオスがいた。 P.73

ホセアルカディオが寝室のドアを閉めたとたんに、家じゅうに響きわたるピストルの音がした。ひと筋の血の流れがドアの下から洩れ、広間を横切り、通りへ出た。でこぼこの歩道をまっすぐに進み、階段上り下りし、手すりを這いあがった。トルコ人街を通りぬけ、角で右に、さらに左に曲り、ブエンディア家の正面で直角に向きを変えた。閉っていた扉の下をくぐり、敷物を汚さないように壁ぎわに沿って客間を横切り、さらひとつの広間を渡った。大きな曲線を描いて食堂テーブルを避け、ベゴニアの鉢の並んだ廊下を進んだ。アウレリャノ・ホセ算術を教えていたアマランタの椅子の下をこっそり通りすぎて、穀物部屋へしのび込み、ウルスラパンを作るために三十六個の卵を割ろうとしていた台所にあらわれた。

「あらぁ大へん!」とウルスラは叫んだ。 P.142~143

 モンカダ将軍は起きあがって、シャツの裾でべっこうの分厚い眼鏡をふき、次のように言った。「恐らくね。しかし、わたしが気にしているのは、銃殺されるかどうかということじゃない。結局のところ、われわれのような人間にとっては、銃殺自然死と変わらないんだから」。 P.172

 真ん中の描写は、マジックリアリズムという。

 現実世界ではありえない現象を何度も何度も描くことで、読者に対してこういう世界なんだなと思わせる。慣れてしまうと、どんな不思議な情景が現れても自然に読める。この小説マジックリアリズム極致にある。

 時間のある人は図書館で手に取ってみよう。時間のない人はほしい物リストに放り込もう。

YouTube

フェルミ研究

 イラスト形式人生に役立つ知恵を提供している。あなた動画を見たことがあるかもしれない。

 このコンテンツも、高橋邦子と同じく、作者が人間的な成長を遂げたタイプだ。

 初期の頃は、インターネット上の疑問やネタを集めて電撃ランキングやその他まとめ的な成果物を作り、電ラン子というキャラクターに解説させるスタイルだった。

 だが時を経て、そういったランキングで使うテーマや疑問、ネタを自らの手で作り出すようになった。

 そこまで珍しい作風ではない。ほかにも、「ネタざんまい」や、「これ本当かも」、「アシタノワダイ」、「セカイノフシギ」など、イラスト形式日常・非日常の疑問を解説するページはけっこうある。

 フェルミ研究所が、類似コンテンツよりも抜きん出ているところ――精神的に健康な要素というのは、ひとえに笑いだ。

 他に比べて、フェルミ研究所が一番笑えるし、絵も可愛いし、ネタ豊富だ。他のコンテンツは、ストーリーの傾向がシンプル意味で「精神的に不健康である

 一応はディスる内容なので、どのコンテンツがこういう内容で精神的に不健康である~といった具体的な説明はしない。

 一般的な傾向として、ストーリーが語られる中で不幸になるキャラ存在している。そんな、不幸になった人物ラストに描くことで、視聴者に「ざまあみろ」という感情を吐き出させる。

 精神的に健康人間は、そういったコンテンツを好まない。再生ボタンを押したとしても、臭いを感じた時点でページを閉じる。

 フェルミ研究所にしても、初期~中期にかけてはやりたい放題やっていた感がある。

 恋愛を扱った回だと、童貞を煽るようなナレーションを連発したり、女性キャラ恋愛に挑んで失敗した男性辛辣セリフを吐いたりしていた。

 今では、そういった描写は少ない。むしろ恋愛に挑む若者応援するような作品を作るようになっている。

番外編(R-18

スミヤ

 青年向け漫画活躍している。性別非公表一般的エロ漫画に比べて絵が独特なので見たらすぐにわかる。

 ここで取り上げる理由は、その物語性にある。

 男女別の作品を好む傾向として、「男性シチュエーション萌え女性人間同士の関係性に萌える」というのがある。

 スミヤ作品には、そのいずれも在る。

 このふたりはこういう関係で、あの時こんなことがあって、だから今はお互いにこう思っている、といった情報さりげなく挿入されている。読者はこれから行為をする者同士の気持ちを知ることができる。

 では、肝心の行為をしているシーンはどうかといえば、これがまた…略

 はてな匿名ダイアリーなので、あまり詳細に書くことはできない。一般的男性であれば満足できる。「スミヤでは抜けない」といった意見もあるが、漫画をよく読んでいないからだ。

 肉々しいタイプの絵柄ではないので、作中の行為だけを見て興奮するのは難しい。ふたり関係性を理解したうえで楽しむのが筋といえる。

 男性向けのエロ漫画において描かれる女性というのは、実は女性ではない。女の姿をした男だ。最初は嫌がっているものの、性的な興奮によりスイッチが入り、快楽に抗えなくなる。最後は自ら求めるようになる――愛よりも肉を優先せざるをえない。それが男だ。

 スミヤ作品純愛が多い。ふたり愛情を描いたうえで行為表現する。最初愛情がない時もあるが、ラストではお互いに何らかの感情が芽生えたことが示唆される。

 それらに触れて、多くの感情を得ることができた。もちろん、他の作家からも得られるものは多かったけれども、ここでスミヤを紹介したのは、「これって男性から女性からウケるんじゃないのか?」と私が勝手に思ったからだ。面白くなかったらごめんなさい。

2020-04-25

[]ムッシュムラムラ

ダチョウ倶楽部の持ちギャグムッシュムラムラ」は、もともと関が海外アニメスーパースリー』(1967年)と『宇宙忍者ゴームズ』(1969年)の吹き替えで掛け声として多用したものであり、さらにそのもとをたどれば、関が麻雀の時に発していた意味不明の掛け声であった。

2020-03-23

( ・3・) クラシック好きの上司ディランを聴きたいと言いだして 2

https://anond.hatelabo.jp/20200322025040

第二スタン


They walked along by the old canal

A little confused, I remember well

And stopped into a strange hotel

With a neon burnin’ bright

He felt the heat of the night

Hit him like a freight train

Moving with a simple twist of fate [2]


――では、第二スタンザに進みます。どうぞ。

( ・3・) ふたりは古い運河に沿って歩いた。少しまごついていたのをわたしはよく覚えている。そしてふたりネオンの輝く奇妙なホテルに入った。

――「奇妙なホテル」とは?

( ・3・) ホールフランク・ザッパ蝋人形でも飾ってあったんじゃないか? ああ、この strange というのは unfamiliar ということだな。――ネオンの輝く見知らぬホテルに入った。彼は夜の熱気に打たれるのを感じた。まるで運命のひとひねりと共に走る貨物列車がぶつかってきたようだった。

――はいどうでしょう

( ・3・) 夕暮れの公園にいたふたりが歩きだす。ネオンが光っているから、あたりはもうすっかり暗くなったんだろうな。「わたし」の記憶によると、少しまごついていたようだが……。

――「わたし」が出てきましたね。

( ・3・) ふたりの背後に忍びよる謎の人物……。落ち着かない心の内までお見通しとは、たいした観察力だ。

――……。

( ・3・) いや、分かってるよ。賢明なる読者諸氏ならば、「わたし」の正体は説明せずともお分かりになるはずだ、ってことだろ? 分からないとおかしい。ナボコフの『   』を読んで、「   」と「   」とが同一人物だと気づかないようなものだ。

――『   』は読んでいないのですが……。

( ・3・) だから少しは本を読めって。ただしまともな本だぞ。『死にたくなければラ・モンテ・ヤングを聴きなさい』みたいなのは読書カウントされないからな。

――話を元に戻しましょう。

( ・3・) 三人称物語だったはずなのに、一人称の「わたし」がぱっと現れて、さっと消える。聴き手は混乱するんだけど、何事もなかったかのように、彼と彼女との物語が続いていく。

――はい。人称の問題は後で見直すとして、脚韻についてはどうでしょう

( ・3・) 1行目と2行目、canal と well母音が合っていないんじゃないか

――子音しか合っていません。脚韻は、強勢の置かれた母音以降の音が一致しないといけないので、この箇所は韻を外していることになります。そのうえ、1行目と2行目とでは旋律も違います

( ・3・) 違ったっけ。

――違うんです。第一タンザでは、1行目・2行目・3行目はきれいに韻を踏んで、旋律も同じかたちでした。ところが、第二スタンザでは、1行目・2行目で母音が揃わず、canal は上昇する旋律、well は下降する旋律です。というか、"I remember well" のところは、はっきりした音程がありません。そこだけ語りのようになっています

( ・3・) 例の「わたし」が出てくるところだな。ひょっとしたら、わざと韻を外して、旋律も外して、「わたし」に対する違和感を際立たせようとしているんじゃないか

――わざとかどうかは分かりませんが、定型から逸脱することで、聴き手の注意を喚起する効果はあると思います

( ・3・) となると、韻を踏まないことにも意味がありうるわけだ――あれ、6行目と7行目、trainfate も韻を踏んでいないぞ。

――6行目は train ではなく freight train の freight が脚韻にあたります

( ・3・) まず列車概念があって、それからより具体的には貨物列車、という思考の流れではないんだな。まずフェイトという音の響きがあって、その響きが無意識言葉の渦からフレイトをひっぱり出してくる。それから列車概念フレイトにくっついてやってくる。意味が音を追いかけているみたいで面白いな。

第三スタン


A saxophone someplace far off played

As she was walkin’ by the arcade

As the light bust through a beat-up shade

Where he was wakin’ up

She dropped a coin into the cup

Of a blind man at the gate

And forgot about a simple twist of fate


( ・3・) どこか遠くでサックスを吹いている人がいた。――これは順番をひっくり返さないとうまくいかないな。――彼女がアーケイドを歩いていると、どこか遠くからサックスが聞こえてきた。くたびれた日よけから光が差し込み、彼は目を覚ました。

――まだ覚ましてはいません。

( ・3・) ――彼は目を覚ましつつあった。彼女は門のところで盲人のカップコインを入れた。そして運命のひとひねりのことは忘れてしまった。

――はいどうでしょう

( ・3・) 夜から朝になった。どこか遠くでサックスを吹いている人がいる。時を同じくして、彼女はどこかへ歩いていく。そしてまた時を同じくして、夢うつつで横になった彼の部屋に光が差す。一行ごとに場面が切り替わって、映画みたいだ。

――as が場面転換の役割果たしてます

( ・3・) どこかへ歩いていく彼女は、そのまま消えてしまう。盲人のカップコインを入れる、というのが何か象徴的な行為なんだな、きっと。運命、盲人、テイレシアス、と連想が働くせいでそう感じるのかもしれないが。

――何を象徴しているんですか?

( ・3・) 何かをだよ。メルヴィル白鯨は何を象徴しているんだ?

――何かをですね。

( ・3・) そう。ある行為対象が何を意味するのか一義的に定まらないとき、その行為対象象徴性を帯びるんだ。ひとつ賢くなったな。

――とはいえ、門のところの盲人は運命を告げるわけではなく――

( ・3・) それどころか、彼女運命のひとひねりなんて気にしてないんだな、ちっとも。

――強い。

( ・3・) 強い。運命抗う者は悲劇的な最期を遂げるが、運命に関わらない者はいつまでも幸せに暮らすんだ。――じゃあ、ありがたい教訓も得られたことだし、次に進もうか。

――その前にひとつだけ。わたし面白いと思うのは、彼女が去っていくのを誰も見ていない点なんです。まず、どこか遠くのサックス奏者は物語に関与しない。

( ・3・) 音だけの出演。

――部屋では彼はまだ寝ている。そして門のところの盲人には――

( ・3・) 彼女は見えない。なるほど、興味深い指摘だ。きみ、名前は?

――……。

( ・3・) 名前は?

――アルトゥーロ・ベネデッティミケランジェリです。

( ・3・) アルトゥーロ、ありがとう。そんなところにも彼女の強さというか、優位性が表れているのかもしれないな。

第四スタン


He woke up, the room was bare

He didn’t see her anywhere

He told himself he didn’t care

Pushed the window open wide

Felt an emptiness inside

To which he just could not relate

Brought on by a simple twist of fate


――ハーモニカの間奏を挟んで、ここからは後半です。彼と彼女とがいっしょにいる、あるいは少なくとも近くにいるのが前半でしたが、ディラン先生ハーモニカを聴いている間に、彼女のいた世界彼女のいなくなった世界に変わってしまいました。――では、どうぞ。

( ・3・) 彼が目を覚ますと、部屋は熊だった。

――クマ

( ・3・) 「かすみの間」「うぐいすの間」みたいに、「グリズリーの間」だったんだよ。泊まった部屋の名前が。

――真面目にやりましょう。

( ・3・) 彼が目を覚ますと、部屋は空っぽだった。彼女はどこにもいなかった。どうってことはないと自分に言い聞かせ、彼は窓を大きく押し開いた。心の内に虚しさを――

――虚しさを?

( ・3・) 虚しさを感じた。で、その虚しさというのは、彼がどうしてもリレイトできない――

――He just could not relate to an emptiness inside ということです。

( ・3・) どうしても関わることのできない虚しさ?

――辞書を引きますか?

( ・3・) おまえが引きたいというのなら。

――ランダムハウスにちょうどいい例文が載っています。I can’t relate to the new music of Miles Davis. マイルス・デイヴィスの新しい音楽わたしにはしっくりこない。――1972年に『オン・ザ・コーナー』を聴いた人はそう感じたかもしれません。そもそも1967年の『ソーサラーからして、もう調性は不

( ・3・) 自分自身の虚しさとうまくつきあっていけない、と考えればいいのか。――どうしてもなじむことのできない虚しさを感じた。運命のひとひねりによってもたらされた虚しさを。

――はいどうでしょう

( ・3・) さっき "he was wakin' up" のところで「まだ目を覚ましてはいない」って添削が入ったのは、このスタンザの "He woke up" が念頭にあったからなんだな。

――そうです。ここではっきりと目を覚ます

( ・3・) 彼女はいなくなっている。大丈夫だと自分に言い聞かせるってことは、大丈夫ではないわけだ。窓を開けたら心の内に虚しさを感じた、のくだりはなんだか分かる気がするな、感情の流れが。ぐっときたぜ。

――まず部屋が空っぽだという状況が語られる。でも本当に言わんとしているのは、彼の内面空っぽになったことです。開いた窓のところに立って外と内とを画定することで、内面という言葉自然に導かれています

( ・3・) きみ、名前は?

第五スタン


He hears the ticking of the clocks

And walks along with a parrot that talks

Hunts her down by the waterfront docks

Where the sailors all come in

Maybe shell pick him out again

How long must he wait

Once more for a simple twist of fate


( ・3・) 時計がチクタクいうのが聞こえる。言葉を話すオウムを連れて歩く。水夫たちがやってくる港で彼女を捜す。また彼女が彼を見つけてくれるかもしれない。どれだけ待たなければならないのか。もう一度、運命のひとひねりが生じるのを。

――はいどうでしょう

( ・3・) 時計の音が聞こえてくるのにあわせて、時制が現在形になった。ここからは彼にとってまだ過去出来事ではないんだな。

――彼女のいない現実が、一秒ごとに動かしがたいものになっていく。コンクリートが固まるみたいに。

( ・3・) 「言葉を話すオウムを連れて歩く」は何を意味するんだ? アメリカ文学で鳥がしゃべるといったら、ポウの「ザ・レイヴン」だな。死に別れた恋人天国で再会できるだろうかと訊くと、鳥は「二度とない」と予言するんだ。

――このオウム実在するんでしょうか? どこからともなく現れましたが。

( ・3・) そこを疑うの? 「昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました」「エヴィデンスは?」みたいなものじゃないか

――いえ、そうではなく、おそらく肩の上、耳元でオウムが話しているわけですよね、彼女を捜して歩いている間ずっと。それは暗喩ではないかと思うのですが。

( ・3・) おじいさんは暗喩としての山へ暗喩としての柴刈りに行きました。

――「周囲の人たちの話が、オウム言葉のように空疎に聞こえてしまう」を暗喩的に言い換えると「言葉を話すオウムを連れて歩く」になりませんか?

( ・3・) 心ここにあらずだから、「よう、調子はどうだい?」と声をかけられても、「ヨウ、チョウシハドウダイ」と聞こえるわけか。まあ、そうかもしれないな。

――次は最後のスタンザです。

第六スタン


People tell me it’s a sin

To know and feel too much within

I still believe she was my twin

But I lost the ring

She was born in spring

But I was born too late

Blame it on a simple twist of fate


( ・3・) 内面を知りすぎてはいけない、感じすぎてはいけないと人は言う。わたしは今でも信じている。彼女わたし双子だったと。しかしわたしは指輪をなくしてしまった。彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた。運命のひとひねりのせいで。

――はいどうでしょう

( ・3・) 「わたし」が出てきたな。二番目のスタンザでは存在をちらっと匂わせる程度だったが、ようやく正体を現した。

――もう自分が誰であるかを隠すことはない。

( ・3・) そう。三人称過去のかたちで物語が始まり彼女がいなくなって時計の秒針が意識に上ったときから三人称現在になる。そして今、一人称現在で「わたし」=「彼」が胸の内を明かしている。

――すべて過去形で書くこともできたし、すべて三人称、あるいは一人称で書くこともできたと思うんですが、どうしてそうしなかったんでしょう?

( ・3・) なんだか「学習の手引き」みたいになってきたな。時制が変わるのは、彼女の不在が彼にとって現在出来事でありつづけているから。人称が変わるのは――そうだな、最後のスタンザの心情は、客観的に、距離をおいて語れないんじゃないか。まだ傷が生々しくて。

――第四スタンザの「部屋は空っぽだった」から「窓を大きく押し開いた」のあたりはハードボイルド流儀で、あまり感傷的にはなるまいという抑制が働いているんですが、最後のスタンザになると――

( ・3・) 抑制が外れて、ついでに三人称仮面も外れる。他人物語であるかのように体裁を保っていたのが、保てなくなる。こういう効果を生むためには、人称の変化が必要だったんだな。

小休止

( ・3・) はっさく匂いは猫たちには不評だな。

2020-03-09

タイムトラベルもの小説おすすめ教えて

基本、タイムトラベルものはあまりきじゃないです。

読んでてやきもきするし、そのわりにワンパターンなので好きじゃない。

現在or未来を変えるために過去であれこれする→うまくいかない→もっかいあれこれする→今度はうまく行った、みたいな。

以下、私のタイムトラベル小説遍歴(しょぼい)。

夏への扉』どこがどう名作なのか説明してほしい

『ふりだしに戻る』情景描写は好き

時をかける少女1967年だって!初出は『中学三年コース』。なるほどそれはいいか

ドゥームズデイ・ブックパンデミックいね

映画だけど『エターナル・サンシャインジム・キャリー普通にモテそう

商人錬金術師の門』(『息吹』所収) これ好き。私の嫌いなタイムトラベルっぽさ(前述)がすっきり解決されてて、しかも余韻が長い。

こういうのでいいんだよ、こういうので。

2020-02-14

anond:20200214172544

感覚麻痺たかミニスカビキニ流行ったわけじゃなく

女性が好きな服を着れる社会にしよう」「女性を窮屈な服から解放しよう」

というフェミニズム運動の結果として流行ったんだぞ。

https://wotopi.jp/archives/57

60年代フェミニストたちは、それまでのモード女性伝統的な女らしさを強制したものであるとし、新しい女性解放自己解放は、「強制された女らしさを排除すること」であると考えた。そこで若い女性たちは、それまでのオートクチュール提案していた「成熟した女らしさ」に対するカウンターとして、若さを強調する「少女ルック」を採用した。

女性が手足を出すことは奇妙な行動ではなく、自然なことで、健康的な振る舞いである」という価値観も、先達の女性たちがそれぞれの闘いの末に社会に浸透させてきたという側面がある。

https://news.yahoo.co.jp/byline/puradonatsuki/20190812-00138025/

ビキニと名付けられたツーピース水着が売り出されたのが1946年ビキニ環礁での原爆実験直後に発表されたため、このように名付けられたらしい。

フランスでは1945年女性投票権を獲得したが、その後20年経った1965年に、やっと女性自分名義の銀行口座をもち、夫の許可なしに仕事ができるようになった。ピル許可されたのが1967年

上記1964年に南仏サントロペでモノキニ流行っていることを報道する当時のテレビ番組だが、第二次フェミニズムの流れに乗って、60年代から1990年代前半まで、モノキニ海岸闊歩するのは当時、「カッコいい」ことだった。

2019-11-25

少し面白い清涼飲料水の話

一般社団法人 全国清涼飲料連合会 作成の 「清涼飲料水歴史

http://j-sda.or.jp/drinkhistory/img/nenpyou.pdf

サイダー語源シードル(CIDRE)(といわれている)

シードル林檎(系、梨なども含むらしい)原料を発行させて作ったアルコール飲料。発泡性・非発泡性両方あるが、発泡性のもの念頭にあるのだろう。

王冠が使用され始めてからサイダーは王冠ものラムネラムネものという区別になった(1904年ごろ)

1954年飲料登場

明治製菓(株)(現:(株)明治)が「天然オレンジジュース」を東京限定で発売。

1961年 噴水型自販機登場 「オアシス」の名で知られる画期的な噴水型のジュース自販機を発売。爆発的なヒットになりました。

参考動画 噴水ジュース自販機  大田彼岸市 さんべ食品工業 https://youtu.be/e-_Vp_SFxeI?t=113

混ぜるための噴水なのかな?それなりに回転しないと酸化してアレなことになりそうとかいう余計な心配をしてしま

(資料外)チューペットの発売開始は1975年

真ん中で折れるようにしてからヒットしたらしい。(本家は2009生産終了済)

ポリ容器入り清涼飲料水ともいわれるので言及

1967年 缶のプルトップ登場

これまでは缶切り等で開けてたとのこと

1980年 スポーツドリンクのはじまり

ポカリスエット発売

1982年 PETボトル登場

当初はゴミ懸念小口モノには使用されなかったとのこと。このへんから記憶がある。1.5/2リットルなどデカのし最初は無かったんだよね

1992年 自販機110円に値上げ

1996年 国産小型PETボトル登場

500mlPETボトル登場

1998年 自販機120円に値上げ

2011年 東日本大震災PETボトルキャップ業界統一で白無地化

3.11キャップ工場被災しての話とのこと。2か月ほどの措置だったみたい

(資料外) 清涼飲料水とは

清涼飲料水とは、アルコール飲料(日本法律上含有量1%以上)や乳性飲料(乳由来とか、乳酸菌飲料)以外の飲料

ミネラルウォータースパークリングウォーターも含まれる。ただし味やフレーバーを付けた時点でミネラルウォーターは名乗れなくなる。(http://www.iph.osaka.jp/s010/030/020/080/010/20180108034000.html 下部の図1. 清涼飲料水の分類参照)

英語でいうとrefreshing beverage。まぁ普通に考えるとこれの訳なんだろうな(詳しくは調べてない)。

以上、なんとなく面白かったので少しまとめてみた。

2019-11-21

毎日どこかでバーストし過ぎ。

ガンマ(γ)線バースト

1967年アメリカ核実験監視衛星によって偶然発見された現象。数秒から数十秒の突発的なガンマ線バーストが全天のあちこち観測されるもの。1度きりの現象で、全天で1日に1個程度検出されている。

2019-10-29

日本シリーズの成績から考える最近パ・リーグ優位の要因

日本一の回数で上位の三球団巨人西武/西鉄ソフトバンク/ダイエー/南海)の色を濃くして区別している。

日本シリーズ

開催年リーグ勝利勝数敗数敗北備考
1950年毎日42松竹
1951年巨人41南海
1952年巨人42南海
1953年巨人42南海
1954年中日43西鉄
1955年巨人43南海
1956年西鉄42巨人
1957年西鉄40巨人
1958年西鉄43巨人
1959年南海40巨人
1960年大洋40大毎
1961年巨人42南海
1962年東映42阪神
1963年巨人43西鉄
1964年南海43阪神
1965年巨人41南海ドラフト制度」導入
1966年巨人42南海
1967年巨人42阪急
1968年巨人42阪急
1969年巨人42阪急
1970年巨人41ロッテ
1971年巨人41阪急
1972年巨人41阪急
1973年巨人41南海
1974年ロッテ42中日
1975年阪急40広島パに「指名打者」導入
1976年阪急43巨人
1977年阪急41巨人
1978年ヤクルト43阪急
1979年広島43近鉄
1980年広島43近鉄
1981年巨人42日本ハム
1982年西武42中日
1983年西武43巨人
1984年広島43阪急
1985年阪神42西武
1986年西武43広島
1987年西武42巨人
1988年西武41中日
1989年巨人43近鉄
1990年西武40巨人
1991年西武43広島
1992年西武43ヤクルト練習生契約廃止
1993年ヤクルト43西武フリーエージェント制度」導入
逆指名制度」導入
1994年巨人42西武
1995年ヤクルト41オリックス
1996年オリックス41巨人
1997年ヤクルト41西武
1998年横浜42西武
1999年ダイエー41中日
2000年巨人42ダイエー
2001年ヤクルト41近鉄
2002年巨人40西武
2003年ダイエー43阪神
2004年西武43中日パに「プレーオフ」導入
2005年ロッテ40阪神交流戦」導入
育成選手制度」導入
2006年日本ハム41中日
2007年中日41日本ハム希望入団枠(逆指名)」廃止
クライマックスシリーズ」導入
2008年西武43巨人
2009年巨人42日本ハム
2010年ロッテ42中日
2011年ソフトバンク43中日
2012年巨人42日本ハム
2013年楽天43巨人
2014年ソフトバンク41阪神
2015年ソフトバンク41ヤクルト
2016年日本ハム42広島
2017年ソフトバンク42DeNA
2018年ソフトバンク41広島
2019年ソフトバンク40巨人

交流戦

開催年リーグセパの勝敗優勝チーム優勝チーム勝敗
2005年105勝104敗ロッテ2411
2006年108勝107敗ロッテ23勝13敗
2007年74勝66敗日本ハム18勝5敗
2008年73勝71敗ソフトバンク15勝9敗
2009年70勝67敗ソフトバンク18勝5敗
2010年81勝59敗オリックス16勝8敗
2011年78勝57敗ソフトバンク18勝4敗
2012年67勝66敗巨人17勝7敗
2013年80勝60敗ソフトバンク15勝8敗
2014年71勝70敗巨人16勝8敗
2015年61勝44敗ソフトバンク12勝6敗
2016年60勝47敗ソフトバンク13勝4敗
2017年56勝51敗ソフトバンク12勝6敗
2018年59勝48敗ヤクルト12勝6敗
2019年58勝46敗ソフトバンク11勝5敗


続く。

anond:20191029134117

2019-08-09

甲子園出場校の「中京」が難解すぎる

愛知県の「中京」と 岐阜県の「中京」が名前を改称しあう歴史が意外と難解でびっくりした。

しかも両校のルーツは同じという。

調べててどんどん混乱してきた。

 

西暦梅村学園愛知略称安達学園岐阜略称
1923年中京商業学校 (中京商)    
1948年中京商業高等学校 (中京商)    
1963年中京商業高等学校 (中京商) 中京高等学校 (中京)
1967年中京高等学校 (中京) 中京商業高等学校 (中京商)
1995年中京大学附属中京高等学校 (中京中京) 中京商業高等学校 (中京商)
2001年中京大学附属中京高等学校 (中京中京) 中京高等学校 (中京)
2017年中京大学附属中京高等学校 (中京中京) 中京学院大学附属中京高等学校 (中京中京)
2020年中京大学附属中京高等学校 (中京中京) 中京高等学校 (中京)

追記朝日新聞に取り上げられました

https://digital.asahi.com/articles/ASM8K469CM8KOIPE00B.html

2019-08-07

前川喜平の経歴を読んで気になったこ

1967年麻布中学校高等学校入学宇宙物理学者を志望し理Ⅲ(東大医学部)受験クラスに在籍したが、数IIIで挫折文転

なぜ物理を志望して理三を目指すのかよくわからないが、数学挫折するのがすごいかっこいいと思う。

数学必修廃止論

数学義務教育範囲で十分である高校数学は高度すぎるため必修科目から外すべきであると主張した

さらにその後こういう主張をするのがもう最高にクズっぽくて素晴らしい。

数学嫌いなんだね(´・ω・`)

https://ja.wikipedia.org/wiki/前川喜平

2019-04-23

吉田康一郎という区議会議員

在特会裏切り者吉田康一郎中野区議会議員に返り咲いた

https://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/nakano/d027062.html

1967年まれ杉田水脈と同じ歳のこの男

なぜか最初旧民主党から立候補していたのに

次世代の党日本のこころ)に所属を変えた熱烈な保守愛国者なのだ

2013年ごろ「在特会集会に参加したことがある」と報道され

それが理由かどうかは知らんが一度落選

で、落選後「在特会に関わったのは初期だけ! 今は関係ない!!」と必死連呼

しろ在特会のせいで落選した」と言わんばかりの弁解をしてた

確か当時の在特会会長・桜井誠次世代の党日本のこころ)支持を公言するなど

在特会と旧次世代の党日本のこころ支持層はかなりかぶっていたはずだが

吉田は「在特会裏切り者」ということになる

そのへんを在特会支持の保守愛国者の皆様はどう考えていたのか???

やむにやまれず表面上だけ在特会と訣別したふりをしたとか思ってくれたのかな

・・・

その後こいつは区長選挙でも落選したが、その選挙活動卑劣きわまる

長年ツイッターで9割ぐらい中国韓国左派言論人の悪口ばかり書いてるのに

選挙活動の時だけ取って付けたように、SNSでの中韓ヘイト一言も出さず

演説やビラでは区内の歩道改善するとか区民の福祉だけを考えてる振りをしてる

どー考えても詐欺だよ詐欺!!!

正直に「中野区から中国人と韓国人を追放します!!」ぐらい言えよ!!

なぜこの主張を前面に出せない? 心の底じゃやましいことだと思ってるからだろ

で、今回の区議選でも表面上だけ区民の福祉だけを訴えて、今度は当選

俺はネトウヨ当選たか不快なんじゃない

ネトウヨ的主張に堂々と胸を張れない態度が気に入らないのだ

普段右派ヘイト主張を正直に前面に出して当選したのなら

悪い意味でも悪い意味でも「ああ、これが中野区民意か」と納得できる

ツイッターとか絶対見ない善良なお年寄りの票が集まったのかなあ……

あるいは、前回の区長選挙阿呆な旧しばき隊関係者

露骨ネガキャンやってたから、そのせいで今回は同情票が集まっちまったのか

・・・

もし仮に極細の希望があるとすれば、吉田君も表向きの公約実行に追われて

区議会では本来右派ヘイト発言封印せざるを得なくなることだが

ビラに書いてある吉田君を応援してる人士の面々を見ると

櫻井よし子を筆頭に藤岡信勝とか保守愛国言論人様がゾロゾロ

本音は透け透けなんだけどな

あるいは、俺みたいに日ごろ中野ブロードウェイまんだらけに出入りしてるような

オタの区民にも今や右派が多数なのか……

もはや秋葉原ウヨの町になってしまったのは仕方ないとしても

中野までウヨの町になるのは勘弁してくれ

(注:しばき隊中核派の町になるなら良いとは一言も述べていない)

2019-02-24

人工地震説についてネット情報を用いて検討する

因果関係検討一般論


疫学的に因果関係検討するプロセスを示すために作成された「因果関係検討するためのガイドライン

因果関係判定のためのガイドライン

時間的関係性 原因は効果よりも時間的に先行しているか必須

生物学妥当性 その関連性を支持する他の知見が存在するか(作用機序実験動物での結果)

・関連の一致性 他の研究で同じ結果が認められているか

・関連の強さ 原因と効果の間の関連はどれ位か(相対リスク

・量-反応関係 曝露の増加に伴って効果健康影響)も増加しているか

・関連の可逆性 原因と思われる要因を除去することによって疾病のリスクが減少するか

研究デザイン そのエビデンスは、しっかりした研究デザインに基づいたもの

エビデンスの判定 どのような種類のエビデンスに基づいて結論に至っているか

デンバー地震

[wikipedia:デンバー地震] (ブックマークコメントより)

1962年から1967年まで地震が頻発した現象である。一か月に数十回から多いときで80回以上も地震が発生していたが、これらの地震デンバー近郊のロッキーマウンテン兵器工場 での廃液の地中注入によるものと解明された。地中注入による誘発地震代表例のひとつであり最初の事例である

時間的関係

 ”1962年3月に廃液の地中注入が始まったが4月24日最初地震 (M1.5) がデンバー近郊の地球物理観測所で記録され”

空間関係

 ”調査により、震源デンバー市の北の長さ75km長・幅40km・深さ45kmの狭い範囲に集中していることが明らかになった(略)。その後の精査により領域さらに狭められ、ワンが着目していた地震は注入縦坑から半径8km以内であったことが明らかになった

量-反応関係および 関連の可逆性

 ”観測結果は注入量(1-9百万ガロン/月)と地震の発生頻度の関連を示し、1963年後半から1年間注入を中止すると、その間の地震の回数は激減し、1964年後半に注入を再開すると地震活動も元に戻った。”

関連の一致性

 デンバーから約300km西のRangely油田Paradox Valley、2009年以降にオクラホマ州で発生している群発地震 などがWikipediaには挙げられている。注入されていたモノは水を中心とした液体である

北海度の地震について

時間的関係

 鳩山氏が言うように、注入の後に地震が起きている。ただしこれは必要十分条件ではない。

空間関係

 鳩山氏の指摘した注入から距離が離れすぎているようだ。

量-反応関係

 北海道の地震において注入量と地震発生の時間間隔はどうだったか

関連の可逆性

 注入を継続し、同様の地震が群発しなければ、注入が地震の原因であった可能性は低まる。

 一方、仮に今後注入を中止し、その後地震が起きなかったとしても、注入が今回の地震の原因であったとは言えないであろう。

関連の一致性

 因果関係ありとするものはここを重要視しているのであろう。 「デンバーや、シェールガスで起きたのだから北海道で起きても不思議ではない(起きるはずだ)」

確認するためには

研究デザイン

 さすがに介入的実験は難しいであろう。(とはいものの、実験可能地理的条件を満たすのは日本国内では北海道くらいしかないのは皮肉なことである。) 

2019-01-07

日本総理大臣/韓国大統領任期と生没年

名前任期没年享年・死因
朴槿恵2013年 - 2016年存命(66歳)
李明博2008年 - 2013年存命(77歳)
盧武鉉2003年2008年2009年62歳・自殺
金大中1998年2003年2009年83歳・肺炎
金泳三1993年1998年2015年87歳・敗血症
盧泰愚1988年1993年存命86歳)
全斗煥1980年1988年存命(87歳)
崔圭夏1979年1980年2006年87歳・老衰
朴正煕1963年1979年1979年61歳・暗殺
尹潽善1960年1962年1990年92歳・老衰
李承晩1948年1960年1965年90歳・老衰
名前任期没年享年・死因
安倍晋三2006年 - 2007年
2012年 - 現職
存命(64歳)
野田佳彦2011年 - 2012年存命(61歳)
菅直人2010年 - 2011年存命(72歳)
鳩山由紀夫2009年 - 2010年存命(71歳)
麻生太郎2008年 - 2009年存命(78歳)
福田康夫2007年 - 2008年存命(82歳)
小泉純一郎2001年 - 2006年存命(76歳)
森喜朗2000年 - 2001年存命(81歳)
小渕恵三1998年 - 2000年2000年62歳・脳梗塞
橋本龍太郎1996年 - 1998年2006年68歳・腸管虚血
村山富市1994年 - 1996年存命(94歳)
羽田孜1994年 - 1994年2017年82歳・老衰
細川護熙1993年 - 1994年存命(80歳)
宮澤喜一1991年 - 1993年2007年87歳・老衰
海部俊樹1989年 - 1991年存命(88歳)
宇野宗佑1989年 - 1989年1998年75歳・肺癌
竹下登1987年 - 1989年2000年76歳・脊椎変形症
中曽根康弘1982年 - 1987年存命(100歳)
鈴木善幸1980年 - 1982年2004年93歳・肺炎
大平正芳1978年 - 1980年1980年70歳・心筋梗塞
福田赳夫1976年 - 1978年1995年90歳・肺気腫
三木武夫1974年 - 1976年1988年81歳・膵臓癌
田中角栄1972年 - 1974年1993年75歳・肺炎
佐藤栄作1964年 - 1972年1975年74歳・脳溢血
池田勇人1960年 - 1964年1965年65歳・喉頭癌
岸信介1957年 - 1960年1987年90歳・老衰
石橋湛山1956年 - 1957年1973年88歳・脳梗塞
鳩山一郎1954年 - 1956年1959年76歳・肺炎
吉田茂1948年 - 1954年1967年89歳・老衰

見た感じ、日本首相のほうが首は飛びやすいし、韓国のほうが長生きしてるよな。

anond:20190107105913

2018-12-25

エスカレーター片側空けは阪急発祥ってホンマ?

ここ数年、エスカレーターの2列利用が呼びかけられる度に、1967年頃日本で初めて片側を空けるようアナウンスをしたと報じられる阪急梅田駅。でも、そのソースは決まって「エスカレーター歴史に詳しい江戸川大学の斗鬼正一教授によると」か「大阪文化に詳しい相愛大学の前垣和義特任教授によると」のどちらかで、肝心の阪急電鉄は「資料が残っておらず、いつからアナウンスをしたのかはわからない」と答えるのみ。何かひとつくらい時期や左側空けの理由特定できる資料はないものか…

2018-12-05

「Our World」(1967)に登場する赤ちゃんについて

世界で初めて複数衛星を利用して中継放送されたテレビ番組が「OUR WORLD」だ。日本番組に関わっていて「赤ちゃん誕生

というテーマで登場する。放送27分前に札幌にある北海道大学で生まれ新生児出産が取り上げられた。

レポーター発言はこうだ。

ここは北海道大学。この赤ちゃんは今から27分前に、自動車販売会社にお勤めの鎌倉さんご一家長男として生まれました。体重は3050g。

(中略)

将来、この小さな足型が月の表面に再び着けられるかもしれません。

Wikipediaにはこう書かれている。

その時に誕生した男児は当時のNHK会長より「一(はじめ)」と命名された

1967年6月26日北海道札幌市生まれ鎌倉一さんは、日本赤ちゃんとして世界で初めて放送されたテレビ中継に登場したというわけだ。

本人が知っているのか、物凄く気になった。おしまい

2018-11-28

https://anond.hatelabo.jp/20090621182655

今更これに補足するのもなんだけどTumblr最近流れてたから見る人もいるだろ

1939年大阪第二飛行場大阪国際空港前身
1959年整備され法的な意味での空港となる
1964年ジェット機乗り入れ開始
騒音問題が激化する
1965年騒音調査開始
1967年公害対策基本法航空機騒音防止法制定
1973年大阪国際空港撤去都市宣言
1973年航空機騒音基準に係る環境基準告知
ここから10年を目処に騒音低減の対策を始める
1981年最高裁騒音問題等が認められる
騒音対策騒音問題が次第に軽減され始める
1994年関西国際空港

まり80年代から(ようやく)始まった騒音対策によって地域住民の態度が軟化していったわけ。

特にエンジン進歩は著しく、初期のジェットエンジンより騒音が1/100~1/1000まで減った。

関西国際空港が開設する頃には騒音はかなり低減されていたのだから住民が手のひら返すのは当たり前なんだよ。

しかも、関西国際空港って相当に利用不便な空港じゃん。そりゃ大阪国際空港残すほうがいいに決まってるでしょ。

あい面白おかしネット書き込みを見て「やっぱ日本はクソ!」ってやるのは楽しいかもしれないが、現実には真剣問題に悩み、真剣問題に取り組んだ人が居るんだ。

笑うのはもう少し問題理解してからにしような。

ソース 

環境騒音としての航空機騒音問題への取り組み

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jasj/66/11/66_KJ00006714150/_pdf

2018-10-25

アメリカ映画必見リスト(1)

前史

アメリカの影

お熱いのがお好き

悲しみは空の彼方に

リオ・ブラボー

真夏の夜のジャズ

1960年

サイコ

アパートの鍵貸します

スパルタカス

エルマー・ガントリー

G・I・ブルース

1961年

ハスラー

ウエスト・サイド物語

ニュールンベルグ裁判

ワン・ツー・スリ

荒馬と女

ティファニーで朝食を

噂の二人

草原の輝き

片目のジャック

底抜けもててもてて

101匹わんちゃん大行進

1962年

樹々の大砲

影なき狙撃者

ロリータ

何がジェーンに起ったか

奇跡の人

アラバマ物語

昼下りの決斗

リバティバランスを射った男

史上最大の作戦

野望の系列

明日になれば他人

1963年

アメリカ アメリカ

ハッド

大脱走

ショック集団

血の祝祭日

たたり

アルゴ探検隊の大冒険

ピンクの豹

1964年

博士の異常な愛情

5月の7日間

未知への飛行

質屋

クールワールド

リリス

裸のキッス

殺人者たち

マイ・フェア・レディ

イグアナの夜

赤死病の仮面

不意打ち

1965年

ラブド・ワン

ファスタープッシーキャット キル!キル!

コレクター

サウンド・オブ・ミュージック

キャット・バル

シェナンドー河

ミッキー・ワン

1966年

セコンド

バージニア・ウルフなんかこわくない

グループ

ミクロの決死圏

銃撃

テキサスの五人の仲間

1967年

俺たちに明日はない

卒業

殺しの分け前 ポイントブランク

チチカットフォーリー

ドント・ルック・バック

暴力脱獄

冷血

ある戦慄

特攻大作戦

夜の大捜査線

招かれざる客

ドアをノックするのは誰?

プロデューサーズ

1968年

2001年宇宙の旅

ウエスタン

猿の惑星

太平洋地獄

フェイシズ

泳ぐひと

華やかな情事

愛すれど心さびしく

殺人者ライフルを持っている

絞殺魔

ローズマリーの赤ちゃん

ナイト・オブ・ザ・リビングデッド

キャンディ

ブリット

華麗なる賭け

グリーティング

甘い抱擁

レッドムーン

おかしな二人

1969年

明日に向って撃て!

夕陽に向って走れ

勇気ある追跡

雨のなかの女

泥棒野郎

ジョンとメリー

スヌーピーチャーリー

ワイルドバンチ

真夜中のカーボーイ

イージー・ライダー

70年代前夜

イージー・ライダー

真夜中のカーボーイ

ワイルドバンチ

ひとりぼっちの青春

アメリカを斬る

1970年

M★A★S★Hマッシュ

BIRD★SHT/バード・シット

ハズバンズ

ファイブ・イージーピーセス

真夜中のパーティ

ウッドストック/愛と平和音楽の三日間

キャッチ22

砂漠の流れ者

ワイルドパーティ

1971年

時計じかけのオレンジ

ギャンブラー

さすらいのカウボーイ

断絶

バニシング・ポイント

ラストムービー

ハロルドとモード少年は虹を渡る

愛の狩人

ラスト・ショー

ジョニー戦場へ行った

フレンチ・コネクション

ダーティハリー

わらの犬

激突!

白い肌の異常な夜

コールガール

スウィートスウィートバック

1972年

ゴッドファーザーゴッドファーザーPART II

脱出

ポセイドン・アドベンチャー

キャバレー

スローターハウス5フアイブ

ピンク・フラミンゴ

ゴングなき戦い

夕陽の群盗

ミネソタ大強盗団

ディープ・スロート

リッツ・ザ・キャット

1973年

エクソシスト

燃えよドラゴン

ミーン・ストリート

アメリカン・グラフィティ

地獄の逃避行

ロング・グッドバイ

さらば冬のかもめ

スケアクロウ

荒野ストレンジャー

北国の帝王

デリンジャー

ペーパー・ムーン

1974年

こわれゆく女

チャイナタウン

カンバセーション…盗聴‥

ガルシアの首

ファントム・オブ・パラダイス

悪魔のいけにえ

ロンゲスト・ヤード

ヤング・フランケンシュタイン

レニー・ブルース

アリスの恋

ハーツ・アンド・マインズベトナム戦争真実

1975年

ナッシュビル

狼たちの午後

カッコーの巣の上で

JAWS/ジョーズ

マンディンゴ

コンドル

1976年

タクシードライバー

キャリー

ロッキー

大統領の陰謀

ネットワーク

チャイニーズブッキーを殺した男

マラソンマン

グリニッチ・ビレッジの青春

1977年

アニー・ホール

三人の女

ジュリア

イレイザーヘッド

未知との遭遇

スター・ウォーズ エピソードⅣ~Ⅵ

ブラック・サンデー

カプリコン・1

ミスター・グッドバーを探して

サタデー・ナイト・フィーバー

1978年

ディア・ハンター

天国の日々

ラストワルツ

ゾンビ

プリティベビー

アニマルハウス

ハロウィン

1979年

地獄の黙示録

エイリアン

オール・ザット・ジャズ

クレイマー、クレイマー

チャンス

ウォリアーズ

ワンダラー

アルカトラズからの脱出

マンハッタン

1980年

レイジングブル

天国の門

シャイニング

殺しのドレス

グロリア

ブルースブラザー

最前線物語

普通の人々

ロング・ライダー

アルタード・ステーツ/未知への挑戦

フォー・ビデン・ゾーン

1981年

レッズ

レイダース/失われた聖櫃

エクスカリバー

ニューヨーク1997

ミッドナイトクロス

プリンス・オブ・シティ

郵便配達は二度ベルを鳴らす

白いドレスの女

ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー

カリフォルニア・ドールズ

死霊のはらわた

1982年

ブレードランナー

遊星からの物体X

ビデオドロー

E.T.

ガープの世界

ソフィーの選択

評決

ランボー

48時間

ダイナー

ワン・フロム・ザ・ハート

ハメット

コヤニスカッツィ

女優フランシス

イラバル

トッツィー

センチメンタルアドベンチャー

1983年

スカーフェイス

ライトスタッフ

シルクウッド

カメレオンマン

ランブルフィッシュ

ストリーマーズ

スター80

再会の時

バロウズ

1984年

ストレンジャー・ザン・パラダイ

パリ、テキサス

ラヴ・ストリーム

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ

アマデウス

ナチュラル

ターミネーター

ストリート・オブ・ファイヤー

ブラッドシンプル

ブラザーフロムアナザープラネット

レポマン

チューズ・ミー

ストップ・メイキング・センス

バーディ

スプラッシュ

ハーヴェイ・ミルク

1985年

未来世紀ブラジル

バック・トゥ・ザ・フューチャー

アフター・アワーズ

レックファスト・クラブ

蜘蛛女のキス

カイロの紫のバラ

フール・フォア・ラブ

シマ

1986年

ブルーベルベット

ザ・フライ

エイリアン2

プラトーン

スタンド・バイ・ミー

ハンナとその姉妹

ダウン・バイ・ロー

モスキートコースト

リトル・ショップ・オブ・ホラー

1987年

フルメタル・ジャケット

ロボコップ

ウォール街

メイトワン1920

月の輝く夜に

ザ・デッド/「ダブリン市民」より

1988年

最後の誘惑

存在の耐えられない軽さ

バード

トークレディオ

ウォーカー

ダイ・ハード

戦慄の絆

ヘア・スプレー

1989年

ドゥ・ザ・ライト・シング

セックスと嘘とビデオテープ

ドラッグストア・カウボーイ

恋人たちの予感

ヘザース


1990年

グッドフェローズ

羊たちの沈黙

ワイルド・アット・ハート

ダンス・ウィズ・ウルブズ

シザーハンズ

ゴッドファーザーPARTIII

ミラーズ・クロッシング

ホワイトハンター ブラックハート

リフター

トラスト・ミー

1991年

ターミネーター2

バートン・フィンク

JFK

マイ・プライベートアイダホ

ナイト・オン・ザ・プラネット

インディアン・ランナー

希望の街

ポイズン

殺人

フィッシャー・キング

1992年

許されざる者

レザボア・ドッグス

ザ・プレイヤー

マルコムX

氷の微笑

夫たち、妻たち

バットマンリターンズ

ラスト・オブ・モヒカン

ツイン・ピークス

ボブ★ロバーツ

バッド・ルーテナント

アメリカンレガシー

摩天楼を夢みて

アリゾナドリーム

エル・マリアッチ

1993年

ショート・カッツ

シンドラーのリスト

ジュラシック・パーク

ウェディングバンケット

ナイトメアー・ビフォア・クリスマス

ギルバート・グレイプ

カリートの道

1994年

パルプ・フィクション

ナチュラル・ボーン・キラー

フォレスト・ガンプ

クイズ・ショウ

エド・ウッド

ブロードウェイ銃弾

リトル・オデッサ

シリアル・ママ

クラーク

1995年

セブン

カジノ

ユージュアル・サスペクツ

ヒート

リービング・ラスベガス

デッドマン

KIDS

スモーク

誘う女

恋人までの距離ディスタンス

セルロイドクローゼット

トイ・ストーリー

1996年

ファーゴ

ミッション:インポッシブル

ラリー・フリント

クラッシュ

スクリーム

スリング・ブレイド

真実の囁き

1997年

ブギーナイツ

スターシップ・トゥルーパーズ

ジャッキー・ブラウン

タイタニック

L.A.コンフィデンシャル

コンタクト

ロスト・ハイウェイ

アイスストーム

クンドゥン

シーズ・ソー・ラヴリー

ガンモ

1998年

プライベート・ライアン

シン・レッド・ライン

ベルベット・ゴールドマイン

バッファロー'66

トゥルーマン・ショー

マーシャル・ロー

ハピネス

メリーに首ったけ

天才マックスの世界

π

アウト・オブ・サイト

ビッグ・リボウスキ

1999年

シックス・センス

楽園をください

インサイダー

スリー・キングス

ヴァージン・スーサイズ

ハイスクール白書

つづき(https://anond.hatelabo.jp/20181025112725)に行く前に

ファイト・クラブ

マグノリア

アイズ・ワイド・シャット

マトリックス

マルコヴィッチの穴

2018-09-19

anond:20180919080058

中心はアラフィフ(45~55歳)なら、「いわゆる」団塊ジュニア1970年代前半生まれ)とかぶちゃうじゃないですか~

杉田水脈1967年生)

橋下徹1969年生)

三橋貴明1969年生)

山野車輪1971年生)

桜井誠1972年生)

このあたりが目立つの理由

まあでも、この年代よりずっと歳上の百田高須、逆にずっと歳下のKAZUYAなどもいるから、確かに1970年前後まれネトウヨ」とは限らない

ただまあ、2ちゃんねる発のネトウヨブームてだいたい2002年ごろで、その頃の2ちゃんねらーの中核て1970年代まれなんだよね

おかげでどうしてもネトウヨの最大ボリューム層=「いわゆる」団塊ジュニアというイメージが……(俺もそれは否定したいんだけど)

2018-03-09

創価学会のこと

https://anond.hatelabo.jp/20180308232103

http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:https%3A//anond.hatelabo.jp/20180308232103

 

 

ネットテレビ公明党創価学会批判を見ない

→間違い。今でも批判はある。しかし、以前と批判層が変化している。

00年代は、公明党創価学会批判といえば、「ネトウヨ」と呼ばれるような保守層が率先していた。公明党批判と言えば共産党代表だと思うが、自民右派応援するネトウヨ層はそれに乗っかって公明党批判をしていた。かの「たかじんのそこまで言って委員会」では、創価学会外国カルト扱いされているとして公明党政教分離違反だと批判し、ネットでは「タブーを破った!」と大盛り上がりした。すでに自公政権だったのにも関わらず。保守層は、公明党自民の歯止め役を名乗っているのを嫌っていた。

民主党への政権交代後、10年代以降になると、自公政策の一体化が進み、自民支持の公明党批判は小さくなっていった。選挙での創価学会のちからが広く知れ渡ったためである。逆に、リベラル左派の間で、公明党創価学会批判が広まる。「かつての『自民の歯止め役』を自称してたのどこ行った?」「創価学会平和主義ではなかったか」というように。

 

創価学会池田大作

→間違い。池田大作が伏せるようになり、創価学会内部で池田大作思想的な影響力は減っている。

参考:

日記:『人間革命』における「教育勅語記述の変化 - Essais d’herméneutique

http://d.hatena.ne.jp/ujikenorio/20170722/p1

牧口常三郎が、「教育勅語、あれは最低のものです」とかたった言葉が「教育勅語、あれは道徳の最低基準です」と改変されている。

1967年出版された池田大作著「人間革命」だが、2013年文庫版では記述が変わっているという。

2018-02-16

anond:20180215204914

ただ1冊の辞書に書いてあることを金科玉条の如くあつかって、思考停止することってそんなに偉いことなの?

なぜ誤解があるのか調べてみたら、かつては無利子の第一種が主流で、かつては免除職というもの存在したことに行き当たった。

下記によると、今は有利子の第二種が圧倒的に主流で免除職も廃止されている。

http://topisyu.hatenablog.com/entry/student_loans

30代後半以上では奨学金といえば「第一種で無利子のもので貸与のハードルが高い」、30代以下では「第二種で有利子のもので貸与のハードルが低い」と認識している可能性がある。

また、借入金額は以前よりもずっと上がっている割に給料は上がっていないので、家計に占める返済の割合はずっと大きくなっている。

https://www.j-cast.com/2017/02/08289885.html

総務省の小売物価統計調査によると、1967年私立授業料はおよそ7万4100円/年(6175円/月)、国立大授業料はおよそ1万2000円/年(1000円/月)だ。

また、2016年物価1967年のおよそ3.7倍。あくまで参考値だが、この授業料を16年の物価に換算すると、私立授業料でおよそ27万3800円/年(2万2800円/月)、国立大授業料はおよそ4万4400円/年(3700円/月)となる。

しかし、小売物価統計調査によると、2017年1月時点の大学授業料東京都区部)は、私立文系で75万122円/年、理系は110万963円/年、国立大授業料は53万5800円/年、理系は53万5800円/年と、大きく上振れしている。

171月時点の入学費(東京都区部)は、私立大と国立大で22万円から28万円かかり、授業料と合わせて入学時に支払う初年度納付金は、100万円を超えるケースも珍しくない。大学授業料一般物価よりも非常に速いペースで上昇し、50年前に比べれば、他に比べて極めて高い負担になっている。

一方、学部卒の大卒初任給1967年の2万6200円が2016年には20万3000円と、10倍近くに上がっているのも事実だ。

塾でも習い事でも学費でも、借金せずにバイト代などだけで自分教育費を自分で払うのって今時何歳からなんだろうね。

自分で払っていたら自分が何日働いたら学費が出るというのはイメージやすいと思うのだが、そうでないと親や周囲の大人価値観物事判断するのではないかと思う。ふつう、同じ名前のものは同じものだと思うと思うけれど、親たちの時代と大いに状況が変わったものをかつての認識で眺めていたら、判断を誤っても不思議ではないのではないかと思う。

あと、大学は一部の限られた優秀な人が行く場所だったからか、年配の人から企業地方公共団体給付するタイプ奨学金受給していたという話は結構聞くのだけれど。

それで、何が本質的なことだと思うの?

2018-01-16

anond:20180116001948

「Also sprach Zarathustra」をどう訳すかというのはただの翻訳問題でしょ。

「昔は『かく語りき』だったけどそれじゃ通じないから『こう言った』に変わった」とするには

岩波の「ツァラトゥストラはこう言った」は1967年だしさあ。

2018-01-13

この記事は半保護されています。(半保護の方針による半保護) ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 曖昧さ回避ベートーヴェンベートーベン、ヴァン・ベートーヴェン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベートーヴェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン Ludwig van Beethoven Beethoven.jpg 基本情報 別名 楽聖 生誕 1770年12月16日頃 出身地 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、ボン 死没 1827年3月26日(56歳没) オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン ジャンル 古典派音楽 活動期間 1792 - 1827 ベートーヴェンのサイン ウィキポータル クラシック音楽 ポータル クラシック音楽 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]、1770年12月16日頃[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。 目次 [非表示] 1 生涯 2 作風 2.1 初期 2.2 中期 2.3 後期 3 後世の音楽家への影響と評価 4 芸術観 5 思想 6 人物 6.1 名前 6.2 ベートーヴェンフリーメイソンリー 7 死因また健康について 7.1 聴覚障害について 8 親族 9 弟子 10 代表作 10.1 交響曲(全9曲) 10.2 管弦楽曲 10.3 協奏曲、協奏的作品 10.4 室内楽曲 10.5 ピアノ曲 10.6 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品 10.7 宗教曲 10.8 歌曲 11 著作 12 伝記 13 脚注 14 参考文献 15 関連項目 16 外部リンク 16.1 録音ファイル 16.2 伝記 生涯 ベートーヴェン(1803年) 1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男[3]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。 1787年、16歳のベートーヴェンウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[5]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。 1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノ即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。 20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。 1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。 40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。 1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。 作風 初期 作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドンモーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[6]。 中期 1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。 中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。 これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。 後期 1818年の二度目の危機の時には後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。 後世の音楽家への影響と評価 ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。 ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。 中でもワーグナーは、ベートーヴェン交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。 一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルクバルトークプロコフィエフショスタコーヴィチラッヘンマンにまで影響を与えている。 芸術観 同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルモーツァルトなどから影響を受けた[7]。 ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[8]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しない。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。 思想 ベートーヴェンカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。 また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。 政治思想的には自由主義者であり、リベラル進歩的政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒウィーン体制では反体制分子と見られた。 その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。 人物 身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。 基本的に服装には無頓着であり、若い頃には着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。 当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。 潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。 性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人づきあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあったという。 師ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。 パトロンカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)この「場を全くわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。 テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。 交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントンシンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。 聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。 死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(独語版)やその妹ヨゼフィーネ(独語版)等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモン(en:Maynard Solomon)らが提唱するアントニエ・ブレンターノ(独語版)(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。 これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。 メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番ハンマークラフィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。 彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。 パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであり、寿命を縮めることになったのは疑いがない。 コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという[10]。 名前 原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən] ( 音声ファイル)と発音される。 日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナーヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。 姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラントフランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。 vanはドイツ語オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。 偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。 ベートーヴェンフリーメイソンリー 詳細は「フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照 死因また健康について 慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のごとくである。 ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。 1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。 聴覚障害について 難聴(40歳頃には全聾となった)の原因については諸説[11]ある。 耳硬化症説 伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動は僅かに感じ取ることが出来る性質にあると考えられる。 又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。 先天性梅毒説 「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そうした話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。 鉛中毒説 上載の死因また健康についてを参照。 メッテルニヒ政権説 ベートーヴェンが難聴であっても完全に失聴していたかどうかは、21世紀の現代では疑問視する声が大きい。ベートーヴェンは1820年代のメッテルニヒ政権ではブラックリストに入れられたため、盗聴を防ぐために「筆談帳」を使った可能性は大きい。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]という書籍が出版された。 有名な逸話に「女中に卵を投げつけた」という類の物が残されているが、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。 デビューほやほやのリストの演奏に臨み、彼を高く評価したのは、もし失聴していれば出来ない行為である。 完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に、ボイスやフォーレがいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいるのに対し、失聴したベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている。 親族 祖父:ルートヴィヒ同姓同名) (英語版) フランドル地方メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンスアウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。 祖母:マリア・ヨゼファ 父:ヨハン 母:マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)  ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。 弟:カスパール・アントンカール 甥:カールドイツ語版)  カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。 弟:ニコラウス・ヨーハン 同姓同名の兄や妹2人がいるがすぐになくなっている。 弟カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。 弟子 カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。 フェルディナント・リース - ボンのクラヴィア奏者・作曲家。 ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオルミュッツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。 ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。 アントンシンドラー - 秘書だが、弟子とされることがある。 代表作 詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照 交響曲(全9曲) 第1番 ハ長調 op.21 第2番 ニ長調 op.36 第3番 変ホ長調エロイカ(英雄)』 op.55[12][13] 第4番 変ロ長調 op.60 第5番 ハ短調 (運命) op.67 [12][13] 第6番 ヘ長調 『田園』 op.68 [12] 第7番 イ長調 op.92 第8番 ヘ長調 op.93 第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125 [12][13] 管弦楽曲 『レオノーレ』序曲第1番 op.138 『レオノーレ』序曲第3番 op.72b 序曲『コリオラン』ハ短調 op.62 交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 op.91 『命名祝日』序曲 op.115 『アテネの廃墟』序曲 ハ長調op.113 『献堂式』序曲 ハ長調op.124 協奏曲、協奏的作品 ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 op.73 [12] ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61 ロマンス第1番 ト長調 op.40 ロマンス第2番 ヘ長調 op.50 三重協奏曲(ピアノヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 op.56 合唱幻想曲 ハ短調 op.80 室内楽曲 弦楽四重奏曲(全16曲) 第7番 ヘ長調(ラズモフスキー第1番) op.59-1 第8番 ホ短調(ラズモフスキー第2番) op.59-2 第9番 ハ長調(ラズモフスキー第3番) op.59-3 第10番 変ホ長調(ハープ) op.74 第11番 ヘ短調『セリオーソ』 op.95 第12番 変ホ長調 op.127 第13番 変ロ長調 op.130 大フーガ 変ロ長調 op.133 第14番 嬰ハ短調 op.131 第15番 イ短調 op.132 第16番 ヘ長調 op.135 弦楽五重奏曲 (全3曲) ヴァイオリンソナタ(全10曲) 第5番 ヘ長調 『春』 op.24 第9番 イ長調 『クロイツェル』 op.47 チェロソナタ(全5曲) ピアノ三重奏曲(全7曲) 第5番 ニ長調『幽霊』 op.70-1 第7番 変ロ長調『大公』 op.97 その他の室内楽曲 ホルン・ソナタ ヘ長調 op.17 六重奏曲 op.81b 七重奏曲 変ホ長調 op.20 管楽八重奏曲 op.103 ピアノ曲 ピアノソナタ(全32曲)   第8番 ハ短調『悲愴』 op.13 第14番 嬰ハ短調 『月光』 op.27-2 [13] 第15番 ニ長調 『田園』 第17番 ニ短調『テンペスト』 op.31-2 第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』op.53 第23番 ヘ短調 『熱情』 op.57 [12][13] 第26番 変ホ長調『告別』 op.81a 第29番 変ロ長調ハンマークラヴィーア』 op.106 第30番 ホ長調 op.109 第31番 変イ長調 op.110 第32番 ハ短調 op.111 その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等) 創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 op.34 創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 op.35 『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78 『ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79 創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80 創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 op.76 ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 op.120 アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57 幻想曲 op.77 ポロネーズ ハ長調 op.89 7つのバガテル op.33 11の新しいバガテル op.119 6つのバガテル op.126 バガテル『エリーゼのために』 WoO.59 本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品 歌劇『フィデリオ』 op.72c 劇付随音楽『エグモント』op.84 劇付随音楽『アテネの廃墟』 op.113 バレエ音楽プロメテウスの創造物』 op.43 オラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』 op.85 カンタータ『静かな海と楽しい航海』 op.112 別れの歌 皇帝ヨーゼフ2世の為の葬送カンタータ WoO.87 宗教曲 ミサ曲 ハ長調 op.86 ミサ・ソレムニス ニ長調 [12]  修道僧の歌 歌曲 アデライーデ op.46 汝を愛す 鶉の鳴き声 新しい愛、新しい生 口づけ 追憶 懺悔の歌 モルモット(旅芸人) 連作歌曲集『遥かなる恋人に寄す』 op.98 曇りのち、快晴 著作 『ベートホーヴェンの手紙』 外山楢夫訳、新しき村出版部、1926年。 『ベートーヷンの手紙』 中西武夫訳、啓明社、1928年。 『ベートーヷン書翰集』 中西武夫訳、啓明社、1930年。 『ベートーヴェンの手紙』第1編、鈴木賢之進訳、音楽世界社〈楽聖書簡叢書〉、1936年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎訳、岩波書店岩波文庫 2579-2581〉、1940年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎選訳、岩波書店岩波文庫〉、1950年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎訳、岩波書店岩波文庫〉、1957年、改訂増補版。 - 附:

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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

曖昧さ回避ベートーヴェンベートーベン、ヴァン・ベートーヴェン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベートーヴェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

Ludwig van Beethoven

Beethoven.jpg

基本情報

別名 楽聖

生誕 1770年12月16日

出身地 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、ボン

死没 1827年3月26日(56歳没)

オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン

ジャンル 古典派音楽

活動期間 1792 - 1827

ベートーヴェンのサイン

ウィキポータル クラシック音楽 ポータル クラシック音楽

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]、1770年12月16日頃[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。

目次 [非表示]

1 生涯

2 作風

2.1 初期

2.2 中期

2.3 後期

3 後世の音楽家への影響と評価

4 芸術観

5 思想

6 人物

6.1 名前

6.2 ベートーヴェンフリーメイソンリー

7 死因また健康について

7.1 聴覚障害について

8 親族

9 弟子

10 代表作

10.1 交響曲(全9曲)

10.2 管弦楽曲

10.3 協奏曲、協奏的作品

10.4 室内楽曲

10.5 ピアノ曲

10.6 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品

10.7 宗教曲

10.8 歌曲

11 著作

12 伝記

13 脚注

14 参考文献

15 関連項目

16 外部リンク

16.1 録音ファイル

16.2 伝記

生涯

ベートーヴェン(1803年)

1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男[3]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。

1787年、16歳のベートーヴェンウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[5]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。

1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノ即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。

20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。

1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。

40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。

1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。

作風

初期

作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドンモーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[6]。

中期

1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。

中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。

これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。

後期

1818年の二度目の危機の時には後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。

後世の音楽家への影響と評価

ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。

ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。

中でもワーグナーは、ベートーヴェン交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。

一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルクバルトークプロコフィエフショスタコーヴィチラッヘンマンにまで影響を与えている。

芸術観

同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルモーツァルトなどから影響を受けた[7]。

ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[8]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しない。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。

思想

ベートーヴェンカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。

また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。

政治思想的には自由主義者であり、リベラルで進歩的な政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒウィーン体制では反体制分子と見られた。

その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。

人物

身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。

基本的に服装には無頓着であり、若い頃には着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。

当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。

潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。

性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人づきあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあったという。

ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。

パトロンカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)この「場を全くわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。

テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。

交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントンシンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。

聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。

死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(独語版)やその妹ヨゼフィーネ(独語版)等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモン(en:Maynard Solomon)らが提唱するアントニエ・ブレンターノ(独語版)(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。

これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。

メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番ハンマークラフィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。

彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。

パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであり、寿命を縮めることになったのは疑いがない。

コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという[10]。

名前

原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən] ( 音声ファイル)と発音される。

日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナーヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。

姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラントフランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。

vanはドイツ語オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。

偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。

ベートーヴェンフリーメイソンリー

詳細は「フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照

死因また健康について

慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のごとくである。

ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。

1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。

聴覚障害について

難聴(40歳頃には全聾となった)の原因については諸説[11]ある。

耳硬化症説

伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動は僅かに感じ取ることが出来る性質にあると考えられる。

又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。

先天性梅毒説

「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そうした話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。

鉛中毒説

上載の死因また健康についてを参照。

メッテルニヒ政権説

ベートーヴェンが難聴であっても完全に失聴していたかどうかは、21世紀の現代では疑問視する声が大きい。ベートーヴェンは1820年代のメッテルニヒ政権ではブラックリストに入れられたため、盗聴を防ぐために「筆談帳」を使った可能性は大きい。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]という書籍が出版された。

有名な逸話に「女中に卵を投げつけた」という類の物が残されているが、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。

デビューほやほやのリストの演奏に臨み、彼を高く評価したのは、もし失聴していれば出来ない行為である。

完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に、ボイスやフォーレがいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいるのに対し、失聴したベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている。

親族

祖父:ルートヴィヒ同姓同名) (英語版)

フランドル地方メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンスアウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。

祖母:マリア・ヨゼファ

父:ヨハン

母:マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)  ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。

弟:カスパール・アントンカール

甥:カールドイツ語版)  カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。

弟:ニコラウス・ヨーハン

同姓同名の兄や妹2人がいるがすぐになくなっている。

カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。

弟子

カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。

フェルディナント・リース - ボンのクラヴィア奏者・作曲家。

ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオルミュッツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。

ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。

アントンシンドラー - 秘書だが、弟子とされることがある。

代表作

詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照

交響曲(全9曲)

第1番 ハ長調 op.21

第2番 ニ長調 op.36

第3番 変ホ長調エロイカ(英雄)』 op.55[12][13]

第4番 変ロ長調 op.60

第5番 ハ短調 (運命) op.67 [12][13]

第6番 ヘ長調 『田園』 op.68 [12]

第7番 イ長調 op.92

第8番 ヘ長調 op.93

第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125 [12][13]

管弦楽曲

『レオノーレ』序曲第1番 op.138

『レオノーレ』序曲第3番 op.72b

序曲『コリオラン』ハ短調 op.62

交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 op.91

『命名祝日』序曲 op.115

『アテネの廃墟』序曲 ハ長調op.113

『献堂式』序曲 ハ長調op.124

協奏曲、協奏的作品

ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 op.73 [12]

ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61

ロマンス第1番 ト長調 op.40

ロマンス第2番 ヘ長調 op.50

三重協奏曲(ピアノヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 op.56

合唱幻想曲 ハ短調 op.80

室内楽曲

弦楽四重奏曲(全16曲)

第7番 ヘ長調(ラズモフスキー第1番) op.59-1

第8番 ホ短調(ラズモフスキー第2番) op.59-2

第9番 ハ長調(ラズモフスキー第3番) op.59-3

第10番 変ホ長調(ハープ) op.74

第11番 ヘ短調『セリオーソ』 op.95

第12番 変ホ長調 op.127

第13番 変ロ長調 op.130

大フーガ 変ロ長調 op.133

第14番 嬰ハ短調 op.131

第15番 イ短調 op.132

第16番 ヘ長調 op.135

弦楽五重奏曲 (全3曲)

ヴァイオリンソナタ(全10曲)

第5番 ヘ長調 『春』 op.24

第9番 イ長調 『クロイツェル』 op.47

チェロソナタ(全5曲)

ピアノ三重奏曲(全7曲)

第5番 ニ長調『幽霊』 op.70-1

第7番 変ロ長調『大公』 op.97

その他の室内楽曲

ホルン・ソナタ ヘ長調 op.17

六重奏曲 op.81b

七重奏曲 変ホ長調 op.20

管楽八重奏曲 op.103

ピアノ曲

ピアノソナタ(全32曲)  

第8番 ハ短調『悲愴』 op.13

第14番 嬰ハ短調 『月光』 op.27-2 [13]

第15番 ニ長調 『田園』

第17番 ニ短調『テンペスト』 op.31-2

第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』op.53

第23番 ヘ短調 『熱情』 op.57 [12][13]

第26番 変ホ長調『告別』 op.81a

第29番 変ロ長調ハンマークラヴィーア』 op.106

第30番 ホ長調 op.109

第31番 変イ長調 op.110

第32番 ハ短調 op.111

その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等)

創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 op.34

創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 op.35

『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78

ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79

創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80

創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 op.76

ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 op.120

アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57

幻想曲 op.77

ポロネーズ ハ長調 op.89

7つのバガテル op.33

11の新しいバガテル op.119

6つのバガテル op.126

バガテル『エリーゼのために』 WoO.59

本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。

オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品

歌劇『フィデリオ』 op.72c

劇付随音楽『エグモント』op.84

劇付随音楽『アテネの廃墟』 op.113

バレエ音楽プロメテウスの創造物』 op.43

オラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』 op.85

カンタータ『静かな海と楽しい航海』 op.112

別れの歌

皇帝ヨーゼフ2世の為の葬送カンタータ WoO.87

宗教曲

ミサ曲 ハ長調 op.86

ミサ・ソレムニス ニ長調 [12] 

修道僧の歌

歌曲

アデライーデ op.46

汝を愛す

鶉の鳴き声

新しい愛、新しい生

口づけ

追憶

懺悔の歌

モルモット Permalink | 記事への反応(1) | 03:05

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