はてなキーワード: ジャッキー・ブラウンとは
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』が目前に迫っているというのにまだまったく心の準備ができていない。大波が押し寄せてくるのを確かに認めながら、砂浜で引き波に足を取られたまま呆然と立ち尽くしてしまっているような、そんな状態だ。
『Once upon a Time in...Hollywood』というタイトルをはじめて聞いたとき、マジで引退しようとしてるの…!?と思った。現時点では「10作品撮ったら引退する」と言っていたり(今回が9作目)、「今度のが大ヒットしたらこれでおしまい」と言っていたりまだ判然としないのだが、そういうゴシップ的な憶測はさておき、このタイトルが持つインパクトはあまりにも大きい。セルジオレオーネな意味合いもさることながら、それ以前にこの響きだ。
『昔々、ハリウッドで』。響きとしてあまりにも最終回すぎるのだ。仮に『クエンティン・タランティーノ』というドラマがあって、その主人公クエンティン・タランティーノが監督した作品が、ドラマの1話ごとのタイトルになっていたらと考えてみてほしい。第1話「掃き溜めの犬ども (Reservoir Dogs) 」、第2話「三文小説 (Pulp Fiction) 」、第3話「ジャッキー・ブラウン (Jackie Brown) 」、第4話「ビルを殺れ (Kill Bill) 」、……と進んでいって、第9話「昔々、ハリウッドで」である。どう見ても第9話で最終回じゃないか。こんなに引退作にふさわしいタイトルってなかなかないと思う。
なんてことをメモしていたら、タランティーノに子供が生まれるとのニュースが飛び込んできた。引退について語るのを話半分に聞きながら、だがこれで子供でも出来たりしたら本当に映画撮らなくなるかもな……とか考えていたのだが、うーん、思ったより早かったなあ。つまりこのところとみに饒舌になっていた引退話は、子供が生まれるという予測のもとに展開されていたわけだ。それにしてもさ。田中裕二に子供が生まれたり、タランティーノに子供が生まれたり、そんな日が来るなんておれは考えたことなかったよ。
といっておいて何だが、タランティーノの言う「引退」について想像するとき、たしかに寂しくはあるけれども、意外と悲観的な気持ちにはならないというのが今の正直な気持ちだ。
というのは、ひとつには、映画監督以外のフィールドでの仕事が見られる可能性に期待しているからだ。これは本人も言っていることだが、本を書いたりしたいらしい。タランティーノが書いた批評本なんて出たらぜひ読んでみたい。もしかしたら小説を書くかもしれない。それこそパルプなフィクションを。あるいは脚本を書くかもしれない。脚本タランティーノ × 監督デヴィッド・ロバート・ミッチェルなんて映画がつくられたら……など夢想するのも楽しい。
書く仕事ばかりとも限らない。いまのところ引退を語るうえでタランティーノが前提としているのは「劇場公開用映画」の監督業であって、フィルムに対する彼の偏愛と執着も、その前提があればこそ要請されてきたものだったと思う。その最前線から(いったん)身を引いたとき、ある意味でそれは「引退」だが、またある意味でそれは「解放」ともいえるのではないか。何が言いたいかというと、Netflixなどでタランティーノがドラマシリーズを制作する可能性はかなり高いのではないかということだ。この期に及んでタランティーノが劇場用長編映画をデジタルで撮る可能性はほとんど考えられないが、これがドラマシリーズだったら話は別だ。
タランティーノがつくるNetflixのドラマがあったら、それはどんなものになるだろうか。そのヒントになるような発言が最近あった。自身の監督作に登場したキャラクターのなかで、タランティーノが今でも折に触れて思いを馳せる人物がいるという。彼が挙げたのはザ・ブライド、ビル、ハンス・ランダ、アルド・レインの4人。タランティーノはそれぞれの人物にまつわる、いわばスピンオフ的なサイドストーリーについての妄想を語っていた。
①ザ・ブライドが10年後、15年後、どうしているか。娘はどんな人物に成長したか。これは長いあいだ噂されてきた『キル・ビル Vol.3』がもし実現した場合のストーリーになるだろう。
②ビルはいかにして巨悪となったか。エステバン・ビハイオ、服部半蔵、そしてパイ・メイという3人の「ゴッドファーザー」との関係を通して、ビルという悪魔的人物のオリジンを描く物語。
③ハンス・ランダはナンタケット島でどんな生活を送っているのか。ナチスきっての「名探偵」だったランダが、戦後20年くらい経ったナンタケットで起こる殺人事件を解決してゆく物語。
④アルド・レインは戦後どうなったか。教科書に載るレベルの「英雄」としてアメリカに帰ったはずのアルドが、ナチスにおけるフレデリック・ツォラーのように映画に主演する…という話。
なにこれ超おもしろそうじゃん!!!!! 全部見たい。見たすぎる。小説でもいい。読みたすぎる。ここで思い出したのだが、そういえばタランティーノこそ、地味に自分の作品世界を相互につなげてきた人だった。別の映画に登場するキャラクターたちが生きる一つの世界について語るとき、若き日の彼はたしかサリンジャーを引き合いに出していたように記憶するが、これって今風の言い方をすれば「タランティーノ・バース」だ。もちろんタランティーノの世界がMCUのようになってほしいなんて気持ちは毛頭ないけれど、ジャンゴのサイドストーリーはすでにコミック化されていることだし、劇場用映画としてはおそらくもう実現しないであろうヴィック&ヴィンセント・ヴェガ兄弟の話だって、何かしらのかたちで語られる可能性は全然あるわけだ……ということを、妄想できることがうれしい。それにしても「私立探偵ランダ in ナンタケット」は見たすぎるだろ。
で、仮に、タランティーノがこの次に撮る映画が本当に彼の「引退作」になるとするならば、その一本はやっぱり『キル・ビル Vol.3』であってほしいと、私はそう願わずにいられないのだ。
話を元に戻そう。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の公開が迫っているのに心の準備がなにもできていないという話だ。この映画、タイトルからしてこの有り様なものだから、映画監督クエンティン・タランティーノのいかにも「集大成」という感じがしてしまうのだけれども、しかし実際はそうでもなくて、むしろ今までになく「タランティーノっぽくない」映画になっていたりするんではなかろうかと期待している。それはひとえにこの作品が、タランティーノ本人にとってきわめてパーソナルなものとなっているような印象を受けるからだ。
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』について、現時点で、私は予告編以外の情報をすべて遮断している。サントラにも触れてすらいない。だから実際どんな映画になっているのかはまったくわからないのだけれど、タイトルをはじめポスターや予告編を通して強く喚起されたのは、「郷愁」の念だ。それは1969年、大きな変革を遂げようとしていたハリウッドとその時代精神(タランティーノは "zeitgeist" という単語を本当によく使う)に対する郷愁であり、タランティーノ自身の幼少期へと向けられた郷愁でもある。しかしながらこの郷愁こそ、これまでのタランティーノ映画からはほとんど感じてこなかったものであり、ゆえに今作はどうにも「タランティーノっぽくない」ような気がしてしまうのだ。
タランティーノは、過去の映画や音楽からさまざまな要素をためらいなく取り入れることで自分の映画をつくってきた人だ。その特徴はたしかにタランティーノについて語るうえで欠かせないものだろう。でも彼の作品に宿る魅力を考えるうえでもっと重要なのは、そうした引用(あるいは盗用)のひとつひとつが、観客に郷愁を呼び起こすための装置には決してならないという点だ。観客を過去へといざなうことで「懐かしさ」に浸らせるのではなく、かつてとてもエキサイティングなものとして消費された文化の「エキサイティングな感覚」自体をそのまま現在に再現してしまえる才能。それがタランティーノのすごいところだと思うし、その意味で、郷愁、というのはむしろタランティーノの映画から最も遠いところにあった感情ではないかと思う。ところが今回の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』からは郷愁が強く香ってくる。そのダイレクトさがとても気になるのだ。それはとりもなおさず今作の特異な舞台設定によるものだと思うけれど、開映が迫っているためちょっともう書く時間がない。超中途半端。
アメリカの影
エルマー・ガントリー
G・I・ブルース
ワン・ツー・スリー
荒馬と女
噂の二人
草原の輝き
片目のジャック
底抜けもててもてて
101匹わんちゃん大行進
樹々の大砲
昼下りの決斗
野望の系列
ハッド
鳥
たたり
5月の7日間
未知への飛行
裸のキッス
殺人者たち
イグアナの夜
赤死病の仮面
不意打ち
ラブド・ワン
ファスタープッシーキャット キル!キル!
キャット・バルー
シェナンドー河
ミッキー・ワン
銃撃
テキサスの五人の仲間
ある戦慄
招かれざる客
ドアをノックするのは誰?
フェイシズ
泳ぐひと
華やかな情事
愛すれど心さびしく
甘い抱擁
明日に向って撃て!
夕陽に向って走れ
雨のなかの女
ジョンとメリー
アメリカを斬る
ハズバンズ
真夜中のパーティ
キャッチ22
さすらいのカウボーイ
断絶
愛の狩人
ラスト・ショー
白い肌の異常な夜
ゴングなき戦い
夕陽の群盗
フリッツ・ザ・キャット
アメリカン・グラフィティ
地獄の逃避行
こわれゆく女
カンバセーション…盗聴‥
三人の女
地獄の黙示録
チャンス
マンハッタン
ロング・ライダース
アルタード・ステーツ/未知への挑戦
レイダース/失われた聖櫃
評決
ダイナー
ハメット
シルクウッド
スター80
再会の時
ラヴ・ストリームス
レポマン
チューズ・ミー
バーディ
ミシマ
最後の誘惑
存在の耐えられない軽さ
ダイ・ハード
ヘア・スプレー
ドラッグストア・カウボーイ
ヘザース
ゴッドファーザーPARTIII
グリフターズ
バートン・フィンク
希望の街
殺人課
夫たち、妻たち
ボブ★ロバーツ
アメリカンレガシー
摩天楼を夢みて
エル・マリアッチ
ショート・カッツ
ナイトメアー・ビフォア・クリスマス
リトル・オデッサ
クラークス
リービング・ラスベガス
デッドマン
誘う女
真実の囁き
スターシップ・トゥルーパーズ
クンドゥン
プライベート・ライアン
バッファロー'66
マーシャル・ロー
メリーに首ったけ
π
スリー・キングス
仰りたいことは分かります。
そのうえで言い得て妙だと思った加藤ヨシキさんのツイートを引用します。
>「王様は裸だ!」と指摘するのは良いと思うんですが、「王様は裸だ!あの小さなチンポを見ろ!あれじゃ奥さんも浮気してるに違いないぜ!」まで行くと王様も怒りますし、なんなら奥さんも怒りますし、周囲もなぜそこまで言うのかと思いますよ。その辺の常識と礼儀は大事にしていきたいです。(https://twitter.com/DAITOTETSUGEN/status/699594948023181314)
どこの世界でもそうですが、ニワカは古参に叩かれます。文壇もスポーツも音楽もゲームも仕事も。先達に比べて知識量のない人が偉そうにしているのは、鼻につくものです。でもね、ニワカが罪を犯しているのかというと、そうではないと思うのです。
誰を傷つけたわけでもない。知識がないだけでアホ呼ばわりされて叩かれるのは、やはり不当で止めるべき悪習だと自分は考えます。(腹が立つのは仕方のないことなので、出来るだけそれを外に出さないよう心がけたいと思っています)
映画を羅列する意味についても、大本の記事には「私を構成する9枚のCD」という企画を読み、それに着想を得たとあります。羅列に意味はないとしても、実際に彼は羅列を面白いと感じ、それで記事を書いた。それは好みの問題に過ぎません。(パク……インスパイアの問題はあるかもしれません)タランティーノもよく映画ランキング作りますが、世界中のファンがそれを待っています。年間200という数字が、タランティーノの存在同様の重みを持つかどうかは、それぞれの読者が判断することです。
アクセス数云々も「彼には認められる記事が書けなかった」という意味で使用した表現で、記事の存在意義を問題にするのなら「彼には意義ある記事が書けなかった、以上」というつもりで書いたものです。分かりにくかったら申し訳ない。
興行作品である映画は、観客に受けるような工夫が(当たるかどうかは別にして)散りばめられています。玄人好みのものと、一般層に向けてのものはあるかもしれません。世間的に受けたとは言いづらいヱヴァQですら、スタッフロールに入った劇場内に立ちこめるポカーンとした雰囲気に「エヴァはこうじゃなくっちゃ!」とワクワクした人(悪いファンかもしれませんが)もいます。
表現規制の話とかでもよく出てくる話ですが、名作を排出するためには、ピラミッド的に数多くの駄作を必要とすると自分は考えています。多産とクオリティは比例の関係にある。ファッション映画が増えたからといって、名作が駆逐されるわけではないと自分は思います。ジャッキー・ブラウンがそうだったように、ファッション層ってすぐ離れちゃいますしね。ファッション的な映画がって、増えればすぐさまダサくなるし。(ホイチョイ製作映画も廃れました)カウンターカルチャーはそういう土壌で出てくるので、良い映画が無くなってしまうことはないと自分は思います。
表現の自由について論じたいわけでもなく、「老害になるのはよそうぜ」って自戒を込めて言いたいだけなんです。感じたことを書くことは自由で、だから自分も感想を書いているわけです。(『高知名度の漫画をドヤ顔で薦めてくる男たち』までくると「分かるわー」としか思えないんですが)
なのであなたが(なのかな?よく分からなくてすみません)そうなさったように、「自分はこういう記事の方が面白いと思う」って記事を書くのが、よりスマートでクリエイティブで良いと思うんです。でもそれにハリーハウゼンの名前も出てこないアホが……って言われるのはイヤじゃないですか。その名前を出さない理由だってあるかもしれないし。
より良いものを出せばいい。その方がかっこいい。他人を貶める必要は無いと思うんですよ。
と自分はやっぱり思うのです。世の中そんなもんでしょというのも分かるけど、やっぱりそれは変だと思うのです。前に書いたのと主張はほとんど変わらないから、蛇足だし、理解し合えるとは思わないんですけど、書かせていただきました。
あと話は移ってしまうんですが、「キル・ビルが駄目な人」ってのが自分にドンピシャで(文章からそういうにおいがしたんでしょうか?)、あれの楽しさが全然分からなくって……そうするとタランティーノ好きの話にも入れなくって、たいへん寂しい思いをしています。
身もふたもない言い方をすれば、ニワカな記事を書いたからニワカだって批判が来て、ツッコミ所が多いからツッコミがたくさんきたってことでしょう。責めるつもりもありませんが注目度の割に穴が多かったんです。本人にとって災難ではあったでしょうが、世の中なんでもそんなものなのでは。
もちろん暖かく見守ろうというのもわかるけど、素直に一言言うのも別にかまわないししょうがないような… なにもブログやめろとかいってるわけでもないし、ニワカな記事を書く自由があるように批判する自由もあるといういつも通りのことなんじゃないでしょうか。
あと「一つの映画から派生させた記事の方が受ける」とかアクセス数が稼げるというつもりで書いたのではなく、ブクマで不特定多数になんの縛りもなくオススメなんてして意味あるのか? みたいなものがあったので、そういう記事ならベターじゃないかなあぐらいの気持ちで。まあせめてこういう体裁くらい保っておけば批判を回避できたのでは、という気持ちもなくはなかったですが
ファッション層については、そういう人が増えて正当な作品が評価されなければ作られる映画はファッション的なものが増えるんではっていう杞憂というか危惧があるので嫌悪するわけです。実際ジャッキー・ブラウン後のキル・ビルで凍り付いた人も結構いたり。まあ理解して欲しいというわけではないのでこれは蛇足ですが。
年間200本の映画を観るぼくがオススメする7つの映画と7人の映画監督 - 私を構成する映画監督 - - Hikikomotrip
信頼できる映画評を各人間を見分けるにはコツがいる。見ればわかる程度のアレもいるが。
一番わかり易い見分け方は、まずライムスター宇多丸のラジオ映画評番組(正しくは番組内の一コーナー)「ムービー・ウォッチメン」を聞くことだ。
信頼出来ないやつはそこで述べられた評言をまんまパクる。咀嚼せずにパクる。宇多丸はラッパーだけあってキャッチーでクリティカルなフレーズを次々と考案してくれるので、使い勝手が良い。
そういうのをアホは何も考えずに右から左で流すだけだから、「それってどういう意味なんですか?」と聞かれたときにうまく対応できない。
感想や評論のパクりが悪ってわけじゃない。むしろ、それが有用だと思えばどんどんパクるべきだ。
しかし、それにはあくまで自分の感性や理性というフィルターを通して自分なりに噛み砕いたうえで、自分の言葉として精製する過程が必要だ。
それがアホにはできない。
たとえば、コレ。
この人がぼくに与えてくれたのは「ヒップホップ」。彼の映画の作り方はとってもヒップホップの思想に近いと思うんですね。サンプリングやオマージュを多用するパッチワーク的方法論はまさにヒップホップそのもの。ぼくがラップが好きなのは彼の映画が好きだからなのかもしれません。
じゃあお前、ウンコとオシッコは似たようなプロセスを経て製造されるけど、オシッコほど喜んでウンコまるのみできる自信あんの???
こういうのは圧倒的リファレンスを有し、かつ日本ヒップホップ界のレジェンドである宇多丸が言うから重みがある(別にタランティーノを形容してヒップホップ的と評したのは彼が初めてではないし最後でもない)のであって、そのへんのやつが言うと「え? 具体的にどういうこと?」と疑問が湧いてしまう。タランティーノ映画観てて「あ、このBGM、『アラモ』だな」とか「あ、このシーン、『修羅雪姫』だな」とか思うか?本当にタランティーノにヒップホップ魂を感じているのか?ちなみにタランティーノ映画で流れるヒップホップってせいぜいウータン・クランくらい(っていうかRZA)だぞ。
いやいやタランティーノは我々の知らない引用ネタをさも知っているものかのように見せるのが巧くて……と言うのだったら、手法として最もヒップホップ(=引用のパッチワーク)的な『ジャッキー・ブラウン』が肌にあわないってどういうわけ?
結局、ヤクザか狂人が出てきて人が無残に殺される映画が好きなだけってなら最初からそう言えば?
そもそも宇多丸リスペクトしてんなら『ハート・ロッカー』以外の気に入った映画も劇場で複数回観ろや!
こういう何も考えずに宇多丸にフリーライドして周囲の評判を稼ごうとする人を業界では「紫の服の人」と言います。
用例:
映画会社社員A「このまえ公開された◯◯なんですけど〜ネットにひどいこと書かれてて〜見て下さいよこのブログ〜」
広告会社社員B「ん〜???ああ、このブログね。これは「紫の服の人」だから気にしなくていいよ」
というところで、本日の増田、お開きです。最後に増田がおすすめする本当にキモチいい七人の監督の七作を紹介してお別れです。
周防正行:『舞妓はレディ』と『終の信託』以外全部。入門編は「シコふんじゃった。」。シコったあとで『Shall We Dance?』を見ればこの監督独特のリズムに慣らされる。
キャスリン・ビグロー:『ハート・ブルー』と『ゼロ・ダーク・サーティ』。最初に観るなら『ハート・ブルー』。それを最後にしてもいい。
北野武:ヤクザ映画全部観た後でまだ北野武を知りたいと思う余力が残っていれば『みんな〜やってるか?』あたりも。『アウトレイジ』は単発として間口は広くても北野映画の入り口にはならないと思うので『BROTHER』あたりで覚悟をきめておこう。
タランティーノ:一通り全作観終わった最後に『デス・プルーフ』。この監督はフィルモグラフィー順に観るのが良い。よって入門編は「レザボアドッグス」
ポン・ジュノ:全部。入り口としてなら『グエムル』。度胸と覚悟と自らのゲスさに自信があるなら『殺人の追憶』から入ってもいい。
園子温:ない。七人のなかで一番優先順位が低い。強いて挙げるなら『地獄でなぜ悪い』(スラップスティック好きなら)と『冷たい熱帯魚』(とにかくエグい救いのない話が好きなら)。
クリント・イーストウッド:全部。ただ順番があって、西部劇諸作飛ばしていきなり『許されざる者』を、『許されざる者』や『ダーティ・ハリー』飛ばしていきなり『グラン・トリノ』観ても感動はしてもよく飲み込めないと思う。気軽に楽しみたいなら『インビクタス』や『ジャージー・ボーイズ』あたり。