「基本情報」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 基本情報とは

2018-06-29

例の図解とか解説ってやつ。

よくわかっていないものを、よく知らないまま書いて、それを「全貌」と銘打てる心理が凄い。

低能先生ファンで彼を擁護したいか敵対者を貶めす、ならまだ理解できるが肝心の低能先生基本情報すら知らない、調べていない。

それでいて「公平な第三者」として「客観的」に「増田匿名達」を、「増田で、匿名で」批判している。

すごい。俺はオナニーをここまで胸を張って叫びチンコ他人を殴って卑怯者と糾弾する人間を知らない。

2018-06-26

Vtuberの源流がどれかなんて八ツ橋の争いみたいなことしても意味ないだろうに

いろんなものから影響されて生まれているでしょ

トラッキングアニメキャラの動きっていうのはもともとは映画CGみたいな高コスト技術だったのが、Wiiなんかのおかげでだいぶ身近なものになったし

フルトラはみならいディーバあたりでだいぶ見方が変わったと思う

基本情報少ないキャラクターに後付で個性付与されていく流れはボカロアイマス東方ニコニコ御三家の盛り上がりでオタクに広まった文化だし

動画投稿収益上げていくシステム言わずもがなYoutuberを参考にしている

のらきゃっとみたいに変声してしゃべるのはゆっくり実況→ボイロ実況→ボイロリアルタイム変換のような変遷があったし

自作3Dモデルを作っている人たちが参考にしているのはMMD出身の人たちの解説動画だと思う

2018-06-24

情報強者の多そうなはてな民に聞きたいんだが

エンジニア志望の友達に、IT系資格がどれだけ就活に効くのか質問されたんだけど、業界的な評価だと

ITパスポート英検5級

基本情報英検3級

応用情報英検2級

みたいな感じで合ってる?

2018-06-20

839 :名無しさん@おーぷん:2017/04/26(水)17:51:19 ID:Hz7

大規模災害時に避難所物資管理担当した

ありがたいこと大変なこと嫌なことたくさんあったがここで言いたいことはひとつ

「衣類は個人から募る(個人で送る)べきではない」

はいろんなところで言われてるがあまり浸透していないようなので

自分体験した修羅場を書いてみたいと思う

被災者のためにと衣類を送ってくださった方々の善意まで否定する気は毛頭ない

ただ現実的被災地で何が起こったかを知ってもらえたらありがたい

災害直後から届き始めた衣類の寄付

マスコミの「冬用衣類が足りない!」(ちょうど季節の変わり目だった)という報道を受けて爆発的に増加

あっという間に狭い体育館を埋め尽くした

四方の壁にうずたかく積み上げられる段ボール

床が見えないほどの服、服、服の海…

もちろん食料品生活雑貨など衣類の他にもさまざまな種類の物資も続々と届く

しか個人から送られてきた衣類ほどスタッフを苦しめる存在はなかった

まず仕分けの手間。普通物資を1とすれば衣類の箱は10というほど手間がかかる

男性女性子ども上衣下衣・肌着・上着。そしてサイズ

せめてこれだけでも分類した状態で入っていれば御の字だがそんな箱はほぼない

箱を開き一枚一枚手に取って確認する

これは女性のセーター、Mサイズ。こっちは子どもズボン、140センチ

見た目ですぐに判断できる服ばかりではない。

これは紳士婦人?どっち? サイズタグはどこについてる?

畳んである服を広げて基本情報確認し、また畳んで分類する

これが想像以上に膨大な時間と手間を要する。やってもやっても衣類は減らない

それどころか次々に新手が送られてくる

840 :名無しさん@おーぷん:2017/04/26(水)17:51:50 ID:Hz7

そして需要に合っていない服も想像以上に大量だ

被災者が泥だらけで復旧作業をしている状況で

ひらひらワンピースタイトミニスカートスーツ礼服。誰が着るだろう

さらに、見るからに古くくたびれた服、汚れが目立つ服

こうした需要のない服、人には勧められないような服の割合は実に3~4割にも達した

しかしすぐに捨てることはできない

ゴミひとつとっても災害の片づけで不足している上、マスコミの目もある

善意」をゴミとして捨てていると報じられたらどれだけのバッシングを浴びるか

結局「使えない服」として分類された大量の衣類が少なくない場所を占拠していく

また、被災者に衣類を選んでもらうのも一苦労だ

場所がない中でぎゅうぎゅうに並べた服を、被災者自分サイズを探してかき回す

せっかく分類しても、衣類置き場はすぐにカオス状態になる

ぜいたくを言うなと怒られるかもしれないが被災者にもプライドがあり

特に発災から日がたってくると、服も「着られれば何でもいい」とはならない

しか個人から送られてくる衣類というのは大半が「うちではもう誰も着ない」服だ

気に入っていて今よく着ているという服を送ってくる人はいない

しかデザインが古いとか何度も着て色が落ちてきたとかそんな理由で着なくなった服は

たとえ被災者だってできれば着たくないに決まっている

結果的に選ばれるのは数少ない、本当にわずかな新品や新品同様の服

それ以外はいつまでも山となって残る

841 :名無しさん@おーぷん:2017/04/26(水)17:52:57 ID:Hz7

具合が悪くなるほどの服の海に溺れているにもかかわらず

ほとんど見つけられないのが肌着と靴下

この二つは中古で人にあげるということがまずないので

送るとしたら新品になるが、わざわざ新品を買って送ってくれる人はほとんどいない

いても個人レベルなのでせいぜいが5セット、10セットといったところ

これが本当に苦しい

肌着や靴下の不足は本当に深刻で、服と一緒に並べようものなら数秒でなくなる

そこで避難所内に不公平感が出ないようなるべく平等に配布したいのだが

数百人の被災者から5人、10人をどうやって選べばいいのか

高齢者、持病のある人、どんなカテゴリー分けでも難しい

冬用肌着と靴下はかなり最後の方まで不足したままで

肌着がない、肌着がほしいという被災者要望にはほとんど答えられなかった

もっと効率的だったのはだいぶ経ってから実現した企業から支援

衣類メーカー、肌着メーカーが「新品」を「大量」に送ってくれた

一人〇点限りとはいえ全員に行き渡る新品

さらにひと箱に同じサイズの同じ製品が入っているため仕分け不要のありがたさ

正直涙が出た。そのくらい仕分けはきつかった

服の山に埋もれているのに肝心の被災者の求めるものはないという状況もきつかった

こうした状況は自分の居た避難所だけで起きたことではない

各地から応援職員、大震災経験したボランティアに話を聞くと全員が同じ事態に直面していた

842 :名無しさん@おーぷん:2017/04/26(水)17:53:23 ID:Hz7

しか支援を受ける側の立場

「新品しかいらない」「同じものを大量にほしい」「古いの汚いの送るな」「需要考えろ」「仕分けして詰めろ」

などとはなかなか公言できないもの

なので、結果として同じことが繰り返されているのだろう

被災地では、特に発災直後はスタッフ不眠不休で働かねばならない

そんな中で衣類の仕分けはあまり過酷であった

多くの人員が割かれ、貴重なスペースを奪われ、他の業務に支障をきたすことも多々あった

箱を開き、服を取り出し、サイズ確認し、誰も着ないと判断した服を再び別の箱に詰め、積み上げる

手間をかけても最後被災者の手元に届くならまだしも

言い方は悪いがゴミを捨てるまでの手順をわざわざ増やしているようなものから

災害直後の極限状態の中では徒労感も一層激しかった

自分の実感としては、衣類に関しては個人から中古品の寄付は受けるべきではない

被災地の人手を奪った上に誰にも利用されず最後ごみとして処分され処分費用がかかるのは

寄付してくれた方の善意にも沿わない結果だろう

例えばこれまでの災害で寄せられた義援金などをどこかにプールしておき

新たな災害が起こった時にそれを財源として企業から新品を供出してもらうような形が最適ではないか

これはただの思いつきだが、災害列島日本では次の災害は近い将来必ずどこかで発生する

その時、被災地で働く人たちが自分と同じ苦しみを味わうことのないよう祈るばかりだ

2018-06-12

勉強が出来ない

小中高、大学、専門と学んできて社会人になってから資格簿記3級と基本情報)を取ろうと勉強していた。

だけども、なかなか勉強が出来ない。勉強している内容が頭に入らない。

単語暗記が特に難しい気がする。公式とかは……形を使えばなんとなく覚えているという感じ。

今までどういうふうに頭に入れていたのかが全くわかんなくなっている状態で、正直自信をなくしている。

2018-05-19

anond:20180519085114

真面目なトラバがついてしまった

まあ基本情報が受からない程度の頭ならIT技術者としてやっていくのは無理というように

判定する材料には使える。これマジな。

ちなみに情報処理技術者試験高度区分試験内容は

大学コンピューターサイエンスとは全然違うので、

普通は実経験がないと合格は難しいだろう。

2018-05-01

昔の二種の方が今の基本情報より倍は難しいよ

いまの基本情報技術者試験は、過去問の使い回しが多いし、学校によって午前免除もあるし、

合格から言っても、25パーセントくらいの合格率なので、昔の第二種が10数パーセント

であったことを考慮すると、相当に易化したよ。

ちなみに、もっと悲惨なのは応用情報技術者の方だけどな。いまの応用は基本に内容が近く

なってしまっている。昔の第一種の方が、1ランクしかった。

こういう試験は易化したらダメダメになるよ。


https://anond.hatelabo.jp/20180501123043

2018-04-05

国際信州学院大学情報偏差値評価口コミ)をまとめてみた

長野県私立大学の評判、偏差値口コミ情報をまとめてみました。

ここに掲載している国際信州学院大学の評判・偏差値制服部活などの情報は国際信州学院大学公式サイト口コミサイト等の情報をもとにまとめています

「評判や偏差値いい大学に入りたい。」「あの部活ができる大学に入りたい。」「あの大学可愛い子と付き合いたい。」など。

あなたが行きたい大学を選ぶ基準は様々です。

大学選びで困っている人の助けになり、自分にあった大学をしっかり選んでいただけるのではないかと思っております

今回は長野県にある大学の一つ、国際信州学院大学について紹介します!

基本情報

国際信州学院大学公式サイト

https://kokushin-u.jp/

国際信州学院大学所在地

長野県安曇野市三丁目長坂番地(安曇野キャンパス

国際信州学院大学偏差値

57

国際信州学院大学学部

国際コミュニケーション学部法学部理学部、国際観光学部

学部別の偏差値

■国際コミュニケーション学部 偏差値48

└国際文化学科

フランス語学科

└国際歴史文学

法学部 偏差値60

フランス法学

理学部 偏差値52

電子機械学科定員

フランス生物学

欧州分子生物学

■国際観光学部 偏差値68

└南仏観光学科

オセアニア観光学科

グローバルシステムイマジネーションデザイン学

観光経営学

アルプス山岳観光学科

南米史学

ポルトガル観光学科

日本観光学科

観光理学

国際信州学院大学部活サークル


大学公認サークル

書道部 フラダンス部 民謡研究部 水槽学部 信州りんご研究会 りんご栽培同好会 相撲部 乗馬サークル 餃子研究会 写真部 釣り部 ボルドーワイン愛飲会 和式便器根絶サークル 伝統菓子研究会 カバディ同好会 テコンドー同好会 ソフトテニス同好会 キンボール同好会 フランスパン愛好会 LoveLive!研究会 スマホアプリ愛好会 コンピューター同好会

大学非公認サークル

鉄道研究会 硬式野球部 混声合唱団 テロメアコサックヨシムラディアボロスコポオ同好会 ジャニヲタサークル インカレサークルCARP サッカーサークル 国信ねこ部 国際信州学院大学山吹千紘研究会  超自然研究会 DONKS国信大自治連合 剣道愛好会 東方サークル

国際信州学院大学サークルの評判

国際信州学院大学学校の規模の割にサークルが多いと思います

野球部活躍していると聞きます

日本大学では珍しいキンボール同好会もあります

国際信州学院大学へのアクセス


JR大糸線安曇追分駅下車、徒歩約30分

安曇追分からスクールバスも出ているようです。

国際信州学院大学の評判

国際信州学院大学の評判①

国内で一番フランス語教育に力を入れてる大学です。

ただの理学部ですが、普通に日本語と英語フランス語が話せます

信大に入ると留学生が多いから、自然と身につきます

国際信州学院大学の評判②

国際信州学院大学教員を昨年4月からしています

赴任して、海外から留学生が多いのにはビックリしました。

秋田にある有名な「国際教養大学」に似ている感じです。

当学にも寮があり、日本人と留学生が共同生活をおくっています

学食は、料理長上高地帝国ホテルシェフをした方とのことで、安くて美味しくて、ボリユーム満点です。私も朝7時半の朝食からまり、21時までやっている夕食まで、1日3食を食べています

大学生協では、図書CD,DVDなどが定価の2割引きで買えますが、図書館に行けば、だいたいそろっていますから趣味の本など以外は買ったことありません。

国際信州学院大学の評判③

とても雰囲気が良くていいと思います

フランス語を学んで世界へ羽ばたきたい!という夢を叶えてくれる環境がとても備わっています

その他にも色々な学部があるので公式サイトを参照にして見てみてください。


最後

いかがでしたでしょうか。

今回は国際信州学院大学の評判や偏差値などについてご紹介しました。

国際信州学院大学のほかに県内にも多くの大学存在します。

たくさんある大学から自分にあった大学を探すのは非常に難しいですよね。いろいろな大学の評判や偏差値などを調べ、比較して、本当に自分が行きたいと思う大学を見つけましょう!

ネット上の評判だけで決めるのではなく、実際に気になる大学に足を運んでみてください!

2018-02-25

anond:20180225204742

??

そもそも痴漢は駅から駅の間隔が長い区間が狙われるって基本情報を、どっちも知らない?

増田会やらない?

2018-02-20

仕事に熱意は必要

民間企業転職エージェントと某公的機関転職エージェントを利用しているのだが活動を始めて1ヶ月、某公的機関転職エージェントがいきなり怒り口調で面接姿勢を正してきた。

実は5社ほど応募して2社は書類選考で落ちて3社はほぼ内定だけど一旦保留と言う状態になっているのだが「企業側が一旦保留と言う対応必要になったのは君から仕事への熱意が伝わらないのが原因」とか。

仕事への熱意ってなんだよ、おれは自分が楽しく生きていくために資格を取りつつ仕事をしているのであって会社のために働くような熱意はない。

と言うのが本音なのだ新卒のように一点の曇りもなく「御社入社後は身を粉にして業務に貢献したいと思います!」とでも目を輝かせて伝えるべきなのか。


慎重姿勢業務内容や待遇や月の残業時間給与を遠回しで質問した影響で会社側に不信感を抱かせてしまたかそもそも熱意を伝えるより大切だと思うのだが・・・・)

業務内容や待遇や月の残業時間給与を聞かずに熱意だけで入社しても「こんなはずじゃなかった」になりそうで熱意一辺倒は嫌なんだよな。

自分スキル運用経験5年と資格2つ(基本情報CCNA)だけしかいからえり好みする立場じゃないのはわかってるけど・・・・・某公的機関転職エージェントになんか不信感を持っちゃったな。

動物が嫌いでないならシャンシャンをみてほしい

とにかくかわいい。見れば見るほどかわいい

日々のストレスとか無になるよ(当社比

まあここからシャンシャン誕生によってパンダ沼にハマった超ミーハーの戯言を続けていくね。シャンシャン現在約8ヶ月18.3kg体長不明さんで、リーリーシンシンの間に、上野動物園では初自然交配で誕生してすくすく育ってるメスのジャイアントパンダっていうのは基本情報だよね。この時点で超かわいい。体長不明なのはイヤイヤして飼育員さんが計れないからだよ!かわいいでしょ〜〜!まあ、そんなことはインプット済みだと思うので、生シャンのやばさはみんなもう体験たかな?首都圏に出てこられない方には、ueno panda liveっていう素晴らしいサイトで、リアルタイムシャンが見られるのでオススメ。生シャンに戻るけど、超寝てる。もうすごい寝てる。先述のUPLで見切れてるとき、だいたい4カメにあるオキニの木の上で実みたいになっておねんねしてる。おねんね写真SNSかにいっぱいアップされてるからシャンシャンもしくは#シャンシャンチェケラ。で、動いてる生シャンに会えたそこのあなたラッキーメン。ガラスの近くにいた?超ラッキーメン!えっ、ぬいぐるみ以上のかわいさが歩いておる…遊んでおる…うんこしておる…ハァ〜ぬいぐるみ以上よ、あの造形。シンシンさんも美形だし、リーリーさんもイケてるから当然といえば当然なんだけど、あの口角!目周りの模様のタレ具合!横顔の美しさ!耳の配置と形!足の若干内股で短い感じ!カァ~ッ最高!大してうまくないパンダ団子人間用もおいし〜く感じちゃう。いやまあ、ここまで早口めに打ちこんできたけど、実際、熊っしょ(笑)パンダ意外と可愛くないよね(笑)みたいな人こそ、動く生シャンにハマるぞ。ハマといえば、白浜の浜家(浜系)。和歌山県にあるアドベンチャーワールドっていう総合のし施設にいる5頭の大家族さん。5頭だよ、ヤバくない?かわい〜!しかめっちゃ近くで、ガラス無しでも見れるという環境永明エイメイ)さんと良浜ラウヒン)さんのあいだに、桜浜(オウヒン)桃浜(トウヒン)結浜(ユイヒン)のかわいい3姉妹という構成末っ子の唯一訓読みする結ちゃんは頭にアンテナがぴょこっと生えてて超キュート。一方、ダンディズムあふれる永明さんの貫禄たるや素晴らしい。全パン分書いてるとかわいさが溢れてすごいので割愛。このアドベンパンダ一家スペシャリテといえば、パンダブツアー7000円。ちなみにアドベンの入園料は4000円超え。シャンからはしごするなら西武観光バス(確か)のパンダバス夜行バスオッケーな方ならオススメ。もとに戻って、このラブツアー、なんとパンダに餌やりできちゃいます♡ラブ♡しか飼育員さんの詳しい解説写真撮影タイム付。フゥー客寄せパンダ!いつもお仕事ありがとうございます。まあにわかなので桜桃しか会ったことないんですが、近くで見てもパンダ。腐ってもパンダかわいい〜〜〜!!シャンは絶対この距離じゃ見られないからね。っていうか息遣いとか聞こえちゃうし、ほんとに生きてるんだ…っていう。子パンの次に成パンの良さに気づいた方はゼヒご参加いただきたいですね。ちなみに浜系の枝分かれで生まれたのがフランス初の赤ちゃんパンダの円夢(ユアンメン)。巻毛がキュートなあの子!今年のジャイアントパンダアワードっていうので1位になりました、おめでとう〜〜〜!2位は我らがシャンシャンだよ!はぴはぴ!

なんかまだまだ続けたいんだけど眠くなったのでおやすみシャンです…無念なり…まちがってるとことか王子動物園の旦旦(タンタン)さんの情報とかパンダマニアの方追記してください…シャンシャンの目周りの抜け毛が良くなることを祈りながら眠ります

2018-01-29

anond:20180129002049

「専門卒」ってだけで偏差値45切ってる印象

基本情報もってるけど受験テクニックだけで合格したようなもんだしな

今時の専門学校の大半は午前免除だし

そこへ行けば有名大卒だとポテンシャルはあるよ

実際の能力は別物としても、

勉強の仕方を知ってるってのはデカイと思う

と、専門学校教員が言ってみる

2018-01-17

育休中に勉強できるか

時間を作ろうとしないと、子育てと両立はできないだろうし、子育てを舐めているわけでもない。

家事と初めての子育てでそんな余裕できないかもしれない。実際、産後2週間で悪露もひどいし起き上がるのも一苦労してる。

でも、産休に入る前の自分ダメすぎてもう少ししっかりしろよ、と自分に喝をいれたい。

だって、うちの子天使が舞い降りたかと思うほど可愛くって可愛くって。仕事がんばって、しっかり稼いで、子どもに良いべべ着せてあげねば!という気持ちになっているのです。服でなくてご飯でも良いです。とにかく、幸せにしてあげたい。

そして、幸せには一定お金必要です。お金がなくても幸せとは、口が裂けても言えない。そして私の稼ぎは底辺。いつも通帳は真っ赤だし、今回の出産も、国の助成ギリギリ。そんな私が子どもを産むのが間違いだって?ほんと、そう思う。でも両親は喜んでくれたので良いのです。あと、私がすごく幸せです。

底辺の私の話だった。

現在職業底辺プログラマ。いろんなものを少しずつかじった結果、何のプロフェッショナルにもならないままプログラムは組める程度。年収下層階級レベル格差でなく、階級だって。賢い人たちはいつも私を新しく定義していく)。

調べたら次の資格が良さそうだなぁ、と思いつつ、どれがいいものだか。

1.仕事に活かせる資格

主に情報技術者系。

基本情報はもっているので、その次のやつ…。一番順当かもしれない。

Web系を少しかじったものの、かじっただけなので体系づけて勉強し直す意味も込めて。

LPICとか?ただし、高いんだ受験料…。

JavaORACLEくらいしかかばない。MicrosoftSalesforce,AWSまわりもありだけど、やっぱり高い。

2.生きることに活かせそうな資格

資産運用さっぱりわからないので。また、仕事金融機関に関わることもありそう。現状は仕様に従って作ってるだけなので、基礎知識として。

FPと同じく。

そもそも会計関連もかじっただけなので売り掛け買い掛けといった一部分だけわかるけど、基礎がすっぽぬけている。

3.転職を見据えて

持ってたら安心できるけど、どうなんだろう。

受験資格はあるけれど、転職前提の資格になるよね…

さて、何にしよう。

そして、私は座学が死ぬほど苦手だ。

それでも、喝を入れる意味も含めて頑張りたい

2018-01-13

この記事は半保護されています。(半保護の方針による半保護) ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 曖昧さ回避ベートーヴェンベートーベン、ヴァン・ベートーヴェン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベートーヴェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン Ludwig van Beethoven Beethoven.jpg 基本情報 別名 楽聖 生誕 1770年12月16日頃 出身地 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、ボン 死没 1827年3月26日(56歳没) オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン ジャンル 古典派音楽 活動期間 1792 - 1827 ベートーヴェンのサイン ウィキポータル クラシック音楽 ポータル クラシック音楽 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]、1770年12月16日頃[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。 目次 [非表示] 1 生涯 2 作風 2.1 初期 2.2 中期 2.3 後期 3 後世の音楽家への影響と評価 4 芸術観 5 思想 6 人物 6.1 名前 6.2 ベートーヴェンフリーメイソンリー 7 死因また健康について 7.1 聴覚障害について 8 親族 9 弟子 10 代表作 10.1 交響曲(全9曲) 10.2 管弦楽曲 10.3 協奏曲、協奏的作品 10.4 室内楽曲 10.5 ピアノ曲 10.6 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品 10.7 宗教曲 10.8 歌曲 11 著作 12 伝記 13 脚注 14 参考文献 15 関連項目 16 外部リンク 16.1 録音ファイル 16.2 伝記 生涯 ベートーヴェン(1803年) 1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男[3]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。 1787年、16歳のベートーヴェンウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[5]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。 1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノ即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。 20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。 1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。 40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。 1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。 作風 初期 作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドンモーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[6]。 中期 1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。 中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。 これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。 後期 1818年の二度目の危機の時には後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。 後世の音楽家への影響と評価 ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。 ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。 中でもワーグナーは、ベートーヴェン交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。 一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルクバルトークプロコフィエフショスタコーヴィチラッヘンマンにまで影響を与えている。 芸術観 同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルモーツァルトなどから影響を受けた[7]。 ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[8]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しない。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。 思想 ベートーヴェンカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。 また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。 政治思想的には自由主義者であり、リベラル進歩的政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒウィーン体制では反体制分子と見られた。 その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。 人物 身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。 基本的に服装には無頓着であり、若い頃には着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。 当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。 潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。 性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人づきあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあったという。 師ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。 パトロンカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)この「場を全くわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。 テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。 交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントンシンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。 聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。 死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(独語版)やその妹ヨゼフィーネ(独語版)等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモン(en:Maynard Solomon)らが提唱するアントニエ・ブレンターノ(独語版)(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。 これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。 メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番ハンマークラフィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。 彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。 パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであり、寿命を縮めることになったのは疑いがない。 コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという[10]。 名前 原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən] ( 音声ファイル)と発音される。 日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナーヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。 姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラントフランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。 vanはドイツ語オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。 偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。 ベートーヴェンフリーメイソンリー 詳細は「フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照 死因また健康について 慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のごとくである。 ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。 1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。 聴覚障害について 難聴(40歳頃には全聾となった)の原因については諸説[11]ある。 耳硬化症説 伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動は僅かに感じ取ることが出来る性質にあると考えられる。 又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。 先天性梅毒説 「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そうした話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。 鉛中毒説 上載の死因また健康についてを参照。 メッテルニヒ政権説 ベートーヴェンが難聴であっても完全に失聴していたかどうかは、21世紀の現代では疑問視する声が大きい。ベートーヴェンは1820年代のメッテルニヒ政権ではブラックリストに入れられたため、盗聴を防ぐために「筆談帳」を使った可能性は大きい。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]という書籍が出版された。 有名な逸話に「女中に卵を投げつけた」という類の物が残されているが、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。 デビューほやほやのリストの演奏に臨み、彼を高く評価したのは、もし失聴していれば出来ない行為である。 完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に、ボイスやフォーレがいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいるのに対し、失聴したベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている。 親族 祖父:ルートヴィヒ同姓同名) (英語版) フランドル地方メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンスアウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。 祖母:マリア・ヨゼファ 父:ヨハン 母:マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)  ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。 弟:カスパール・アントンカール 甥:カールドイツ語版)  カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。 弟:ニコラウス・ヨーハン 同姓同名の兄や妹2人がいるがすぐになくなっている。 弟カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。 弟子 カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。 フェルディナント・リース - ボンのクラヴィア奏者・作曲家。 ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオルミュッツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。 ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。 アントンシンドラー - 秘書だが、弟子とされることがある。 代表作 詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照 交響曲(全9曲) 第1番 ハ長調 op.21 第2番 ニ長調 op.36 第3番 変ホ長調エロイカ(英雄)』 op.55[12][13] 第4番 変ロ長調 op.60 第5番 ハ短調 (運命) op.67 [12][13] 第6番 ヘ長調 『田園』 op.68 [12] 第7番 イ長調 op.92 第8番 ヘ長調 op.93 第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125 [12][13] 管弦楽曲 『レオノーレ』序曲第1番 op.138 『レオノーレ』序曲第3番 op.72b 序曲『コリオラン』ハ短調 op.62 交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 op.91 『命名祝日』序曲 op.115 『アテネの廃墟』序曲 ハ長調op.113 『献堂式』序曲 ハ長調op.124 協奏曲、協奏的作品 ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 op.73 [12] ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61 ロマンス第1番 ト長調 op.40 ロマンス第2番 ヘ長調 op.50 三重協奏曲(ピアノヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 op.56 合唱幻想曲 ハ短調 op.80 室内楽曲 弦楽四重奏曲(全16曲) 第7番 ヘ長調(ラズモフスキー第1番) op.59-1 第8番 ホ短調(ラズモフスキー第2番) op.59-2 第9番 ハ長調(ラズモフスキー第3番) op.59-3 第10番 変ホ長調(ハープ) op.74 第11番 ヘ短調『セリオーソ』 op.95 第12番 変ホ長調 op.127 第13番 変ロ長調 op.130 大フーガ 変ロ長調 op.133 第14番 嬰ハ短調 op.131 第15番 イ短調 op.132 第16番 ヘ長調 op.135 弦楽五重奏曲 (全3曲) ヴァイオリンソナタ(全10曲) 第5番 ヘ長調 『春』 op.24 第9番 イ長調 『クロイツェル』 op.47 チェロソナタ(全5曲) ピアノ三重奏曲(全7曲) 第5番 ニ長調『幽霊』 op.70-1 第7番 変ロ長調『大公』 op.97 その他の室内楽曲 ホルン・ソナタ ヘ長調 op.17 六重奏曲 op.81b 七重奏曲 変ホ長調 op.20 管楽八重奏曲 op.103 ピアノ曲 ピアノソナタ(全32曲)   第8番 ハ短調『悲愴』 op.13 第14番 嬰ハ短調 『月光』 op.27-2 [13] 第15番 ニ長調 『田園』 第17番 ニ短調『テンペスト』 op.31-2 第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』op.53 第23番 ヘ短調 『熱情』 op.57 [12][13] 第26番 変ホ長調『告別』 op.81a 第29番 変ロ長調ハンマークラヴィーア』 op.106 第30番 ホ長調 op.109 第31番 変イ長調 op.110 第32番 ハ短調 op.111 その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等) 創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 op.34 創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 op.35 『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78 『ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79 創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80 創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 op.76 ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 op.120 アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57 幻想曲 op.77 ポロネーズ ハ長調 op.89 7つのバガテル op.33 11の新しいバガテル op.119 6つのバガテル op.126 バガテル『エリーゼのために』 WoO.59 本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品 歌劇『フィデリオ』 op.72c 劇付随音楽『エグモント』op.84 劇付随音楽『アテネの廃墟』 op.113 バレエ音楽プロメテウスの創造物』 op.43 オラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』 op.85 カンタータ『静かな海と楽しい航海』 op.112 別れの歌 皇帝ヨーゼフ2世の為の葬送カンタータ WoO.87 宗教曲 ミサ曲 ハ長調 op.86 ミサ・ソレムニス ニ長調 [12]  修道僧の歌 歌曲 アデライーデ op.46 汝を愛す 鶉の鳴き声 新しい愛、新しい生 口づけ 追憶 懺悔の歌 モルモット(旅芸人) 連作歌曲集『遥かなる恋人に寄す』 op.98 曇りのち、快晴 著作 『ベートホーヴェンの手紙』 外山楢夫訳、新しき村出版部、1926年。 『ベートーヷンの手紙』 中西武夫訳、啓明社、1928年。 『ベートーヷン書翰集』 中西武夫訳、啓明社、1930年。 『ベートーヴェンの手紙』第1編、鈴木賢之進訳、音楽世界社〈楽聖書簡叢書〉、1936年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎訳、岩波書店岩波文庫 2579-2581〉、1940年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎選訳、岩波書店岩波文庫〉、1950年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎訳、岩波書店岩波文庫〉、1957年、改訂増補版。 - 附:

この記事は半保護されています。(半保護の方針による半保護)

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

曖昧さ回避ベートーヴェンベートーベン、ヴァン・ベートーヴェン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベートーヴェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

Ludwig van Beethoven

Beethoven.jpg

基本情報

別名 楽聖

生誕 1770年12月16日

出身地 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、ボン

死没 1827年3月26日(56歳没)

オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン

ジャンル 古典派音楽

活動期間 1792 - 1827

ベートーヴェンのサイン

ウィキポータル クラシック音楽 ポータル クラシック音楽

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]、1770年12月16日頃[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。

目次 [非表示]

1 生涯

2 作風

2.1 初期

2.2 中期

2.3 後期

3 後世の音楽家への影響と評価

4 芸術観

5 思想

6 人物

6.1 名前

6.2 ベートーヴェンフリーメイソンリー

7 死因また健康について

7.1 聴覚障害について

8 親族

9 弟子

10 代表作

10.1 交響曲(全9曲)

10.2 管弦楽曲

10.3 協奏曲、協奏的作品

10.4 室内楽曲

10.5 ピアノ曲

10.6 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品

10.7 宗教曲

10.8 歌曲

11 著作

12 伝記

13 脚注

14 参考文献

15 関連項目

16 外部リンク

16.1 録音ファイル

16.2 伝記

生涯

ベートーヴェン(1803年)

1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男[3]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。

1787年、16歳のベートーヴェンウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[5]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。

1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノ即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。

20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。

1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。

40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。

1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。

作風

初期

作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドンモーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[6]。

中期

1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。

中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。

これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。

後期

1818年の二度目の危機の時には後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。

後世の音楽家への影響と評価

ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。

ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。

中でもワーグナーは、ベートーヴェン交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。

一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルクバルトークプロコフィエフショスタコーヴィチラッヘンマンにまで影響を与えている。

芸術観

同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルモーツァルトなどから影響を受けた[7]。

ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[8]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しない。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。

思想

ベートーヴェンカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。

また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。

政治思想的には自由主義者であり、リベラルで進歩的な政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒウィーン体制では反体制分子と見られた。

その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。

人物

身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。

基本的に服装には無頓着であり、若い頃には着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。

当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。

潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。

性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人づきあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあったという。

ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。

パトロンカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)この「場を全くわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。

テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。

交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントンシンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。

聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。

死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(独語版)やその妹ヨゼフィーネ(独語版)等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモン(en:Maynard Solomon)らが提唱するアントニエ・ブレンターノ(独語版)(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。

これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。

メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番ハンマークラフィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。

彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。

パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであり、寿命を縮めることになったのは疑いがない。

コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという[10]。

名前

原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən] ( 音声ファイル)と発音される。

日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナーヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。

姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラントフランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。

vanはドイツ語オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。

偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。

ベートーヴェンフリーメイソンリー

詳細は「フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照

死因また健康について

慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のごとくである。

ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。

1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。

聴覚障害について

難聴(40歳頃には全聾となった)の原因については諸説[11]ある。

耳硬化症説

伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動は僅かに感じ取ることが出来る性質にあると考えられる。

又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。

先天性梅毒説

「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そうした話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。

鉛中毒説

上載の死因また健康についてを参照。

メッテルニヒ政権説

ベートーヴェンが難聴であっても完全に失聴していたかどうかは、21世紀の現代では疑問視する声が大きい。ベートーヴェンは1820年代のメッテルニヒ政権ではブラックリストに入れられたため、盗聴を防ぐために「筆談帳」を使った可能性は大きい。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]という書籍が出版された。

有名な逸話に「女中に卵を投げつけた」という類の物が残されているが、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。

デビューほやほやのリストの演奏に臨み、彼を高く評価したのは、もし失聴していれば出来ない行為である。

完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に、ボイスやフォーレがいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいるのに対し、失聴したベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている。

親族

祖父:ルートヴィヒ同姓同名) (英語版)

フランドル地方メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンスアウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。

祖母:マリア・ヨゼファ

父:ヨハン

母:マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)  ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。

弟:カスパール・アントンカール

甥:カールドイツ語版)  カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。

弟:ニコラウス・ヨーハン

同姓同名の兄や妹2人がいるがすぐになくなっている。

カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。

弟子

カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。

フェルディナント・リース - ボンのクラヴィア奏者・作曲家。

ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオルミュッツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。

ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。

アントンシンドラー - 秘書だが、弟子とされることがある。

代表作

詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照

交響曲(全9曲)

第1番 ハ長調 op.21

第2番 ニ長調 op.36

第3番 変ホ長調エロイカ(英雄)』 op.55[12][13]

第4番 変ロ長調 op.60

第5番 ハ短調 (運命) op.67 [12][13]

第6番 ヘ長調 『田園』 op.68 [12]

第7番 イ長調 op.92

第8番 ヘ長調 op.93

第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125 [12][13]

管弦楽曲

『レオノーレ』序曲第1番 op.138

『レオノーレ』序曲第3番 op.72b

序曲『コリオラン』ハ短調 op.62

交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 op.91

『命名祝日』序曲 op.115

『アテネの廃墟』序曲 ハ長調op.113

『献堂式』序曲 ハ長調op.124

協奏曲、協奏的作品

ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 op.73 [12]

ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61

ロマンス第1番 ト長調 op.40

ロマンス第2番 ヘ長調 op.50

三重協奏曲(ピアノヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 op.56

合唱幻想曲 ハ短調 op.80

室内楽曲

弦楽四重奏曲(全16曲)

第7番 ヘ長調(ラズモフスキー第1番) op.59-1

第8番 ホ短調(ラズモフスキー第2番) op.59-2

第9番 ハ長調(ラズモフスキー第3番) op.59-3

第10番 変ホ長調(ハープ) op.74

第11番 ヘ短調『セリオーソ』 op.95

第12番 変ホ長調 op.127

第13番 変ロ長調 op.130

大フーガ 変ロ長調 op.133

第14番 嬰ハ短調 op.131

第15番 イ短調 op.132

第16番 ヘ長調 op.135

弦楽五重奏曲 (全3曲)

ヴァイオリンソナタ(全10曲)

第5番 ヘ長調 『春』 op.24

第9番 イ長調 『クロイツェル』 op.47

チェロソナタ(全5曲)

ピアノ三重奏曲(全7曲)

第5番 ニ長調『幽霊』 op.70-1

第7番 変ロ長調『大公』 op.97

その他の室内楽曲

ホルン・ソナタ ヘ長調 op.17

六重奏曲 op.81b

七重奏曲 変ホ長調 op.20

管楽八重奏曲 op.103

ピアノ曲

ピアノソナタ(全32曲)  

第8番 ハ短調『悲愴』 op.13

第14番 嬰ハ短調 『月光』 op.27-2 [13]

第15番 ニ長調 『田園』

第17番 ニ短調『テンペスト』 op.31-2

第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』op.53

第23番 ヘ短調 『熱情』 op.57 [12][13]

第26番 変ホ長調『告別』 op.81a

第29番 変ロ長調ハンマークラヴィーア』 op.106

第30番 ホ長調 op.109

第31番 変イ長調 op.110

第32番 ハ短調 op.111

その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等)

創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 op.34

創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 op.35

『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78

ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79

創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80

創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 op.76

ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 op.120

アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57

幻想曲 op.77

ポロネーズ ハ長調 op.89

7つのバガテル op.33

11の新しいバガテル op.119

6つのバガテル op.126

バガテル『エリーゼのために』 WoO.59

本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。

オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品

歌劇『フィデリオ』 op.72c

劇付随音楽『エグモント』op.84

劇付随音楽『アテネの廃墟』 op.113

バレエ音楽プロメテウスの創造物』 op.43

オラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』 op.85

カンタータ『静かな海と楽しい航海』 op.112

別れの歌

皇帝ヨーゼフ2世の為の葬送カンタータ WoO.87

宗教曲

ミサ曲 ハ長調 op.86

ミサ・ソレムニス ニ長調 [12] 

修道僧の歌

歌曲

アデライーデ op.46

汝を愛す

鶉の鳴き声

新しい愛、新しい生

口づけ

追憶

懺悔の歌

モルモット このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2017-11-06

IT系基本情報フィルターになるのって

新採派遣面談の時ぐらいだよな

入ってしまえば資格の有無なんてほとんど関係ない

情報系の国試が現場乖離してるなんてもう業界常識から

てか実際業界が受け入れてるわけだから

基本情報必要なら門前払いすればいい

それができないなら足元見られてもしょうがない

まあそんな低能がウロウロしてる現場とか離れて久しいが

IT労働者はなぜ職業差別主義者ばかりなのか

基本情報に受からない人達が大量にITエンジニア名乗ってる」

はあ、そうですか。なら受かるように育てろや。

他の業界なら初学者を育てるのは常識

どうもIT労働者入り口である程度に達しないなら、

他の下々の職に就けという職業差別主義者が多いように感じる。

2017-10-25

https://anond.hatelabo.jp/20171025003736

資格とか経験を大変お持ちなんですか?

私の会社中小企業なので入社できました

資格基本情報応用情報オラクルDBブロンズ、ぐらいで経験は5年目です

それまで工事現場で働いてきたのですが腰を痛めて転職してきました

御社で働かせて頂ければ幸いです。

要件定義から運用まで一通りやってきました

言語は一切かけないインフラエンジニアですが雇って頂きたい、、、紹介してください

2017-10-18

応用情報技術者試験を受けてきました

anond:20170911232449

上の日記を書いた増田です。

こんにちは

試験、受けました。

ことさら話題にするようなことでもないかもしれませんが、せっかくなので書きます

これから受ける人などの参考になれば幸いです。

プロフィール

30代。

普通科高卒

製造業

プログラミング歴は数ヶ月。

それまではExcelWordがちょっと分かるくらいだった。

言語VBAVBバッチ

一ヶ月に100行書いてるかどうかといった感じ。

製造現場身体を動かしながら、改善の種を探している。

所持資格はTOEIC700、日商簿記2級など。

基本情報は受けたことがない。

受験

動機

内製のソフトC++でできていて、これを色々弄くれるようになればあんなところやこんなところまで自動化できるなあ、でも何も知らないまま弄るのはちょっと怖いなあ…

そうだ、勉強しよう!

合格すればついでに報奨金(10万)も貰えるしね!

勉強期間、学習時間

8月半ば、受験申込期間の締め切りギリギリ試験存在を知り応募。

勉強期間は2ヶ月ほど。

平日は1日1〜2時間。土日は1日3〜5時間。まったく勉強しなかった日が10日ほど。

体感的な総学習時間100時間ほど。

学習方法

最初に、ネット評価の高かった合格教本という本を買って読んでみた。

基本情報知識もない状態だと、書いてあることがもうほんとにまったく分からず、挫折しそうになった。

方針を変えて、応用情報技術者試験ドットコム過去問道場をひたすら回した。

からない言葉ネットで調べて、これはと思う説明出会ったらOneNoteにひたすらコピペした。

最後の2週間はドットコムユーザー登録をし、理解度問題を色分けするようにした。

最後の1週間でピヨ太くんのサイト(正式名称長い)を見つけ、分からない言葉はまずこのサイト検索するようにした。

午後対策過去問を本番と同じ時間で4回分解いたくらい。

合格教本は結局ほとんど読まなかった。

午後の選択問題

受験前は、

…のどれかを選ぼうかなと考えていた。

いわゆるストラテジ、マネジメント系科目だけで固めても良かったのだけど、組込みなんかは普段生活からイメージやすいし、2時間半の長丁場ならテクノロジ系科目を間に挟んだ方がほどよく頭のリフレッシュになるかなーと思っていた。

実際の試験では、

…を選んだ。

試験当日(午前)

試験会場に時計がなかったので、時計が無い状態受験した。

机上に置けるような時計は持っていなかったし、まあ午前だけなら時計が無くても大丈夫だろうとタカをくくっていた。

問題を順当に最後まで解いて、全て順番通りにマークされてることを確認してから、手を挙げて外へ出た。

出てからスマホの電源を入れて時間確認した。

15分ほど余っていた。

試験当日(午後)

さすがに午後は時計が無いとマズイと思い、休憩中に買ってくる。

セキュリティ(必須問題)の設問1で長考してしまい、20分ほど経っても解答用紙の半分が埋まっていない状態

とりあえず他の問に移り、最後に余った時間セキュリティに戻る方針シフト

経営はぱっと見簿記知識が生かせそうだと思い選んだのだけど、「固定長期適合率」がどういう計算式なのか見当がつかない。

早々に切り上げる。

組込みの設問1でまたも長考、ほぼ解答を埋められたものの、結局40分ほど費やす

この時点で残り1時間と少ししかなく、かなり焦る。

サビマネ監査は焦りから問題文の通読ができず、設問を最初に読むようになり、結果読み返しが増えてしまった。

監査を終えたところで5分くらい余ったので、這々の体でセキュリティに戻る。

なんとか穴埋めしフィニッシュ

午前とは逆に、始終時間との戦いだった。

自己採点

午前は78.75点。

午後は厳しめで53点、甘めで66点(TAC基準)。

セキュリティ、サビマネ監査の点数がかなり流動的。

午前は問題用紙に選んだ選択肢に○する余裕があったのだけど、午後はそれがなくなって、問題解くのに必死自分が何を書いたかしっかり思い出せない。

色々と書いたけれど、そういう訳で正直受かってるかまったく分からない。

配点、部分点次第といったところ。

怖い。

感想

午前の対策簡単だ。

ただ過去問を解くだけのロボットと化せばいいだけ。

体感3割〜4割くらいは過去問の流用で問題ができあがる。

いわゆる一般常識で解ける問題も多い。

午後の対策が難しい。

午後対策でよく見られるのは「国語の読解力をつける」というアドバイスだが、読解力というのは漠然としていてレベルの向上も分かりづらい。

今の私なら、以下の順番で勉強を進めるかもしれない。

ま、受かってたらやらないんだけどね!

そもそも、「試験合格するための勉強」に終始して、最初動機なおざりなっちゃった感が否めません。

公開鍵暗号方式といえば、RSAだよね!知ってる知ってる」

…でもそれらがなんなのかはよく知らない、みたいな。

一つ確実に「分かった」と胸を張って言えることは、

からないことは、調べればいい。

分かる人に、聞けばいい。

ってことですかね。

受かってなかったとしても、もう受けないかもしれませんね。

はぁ…10万欲しいなぁ…

以上で終わりです。

最後まで読んでいただきありがとうございます

お疲れ様でした。

2017-10-15

anond:20171015151208

Web技術なんて小洒落たことやんないで、大人しく基本情報応用情報でもとっておくべきですね

2017-10-14

2017-09-01

言われたことを鵜呑みにするから説明下手が量産されると思う。

私は説明が下手だ。考えることも苦手だ。

障がいとかではないと思う。友達と話すときも、親と話すとき普通からだ。

最近になって今更気づいた。

「言われたことを全てそのまま受け取っている」と。

そして、伝える基本情報やその他情報が不足しているのに 伝書鳩のように走りまわされるから

説明下手になって困惑する。

説明下手なのは、言われたことをそのまま相手に伝えようとするかだらと思う。

直したいけど、そもそも根底情報や背景」が無ければ相手に上手く伝えることが出来るわけが無い。

根底情報」を得るためには「言われたことに疑問を持つことと、経験知識」が必要になってくる。


言われたことに疑問を持つことって難しい。

「空は青いんだよ。」 といわれたら 「どうして青いの?」 と聞けるかもしれない。

インターネット世界と繋がってるんだよ」といわれたら「ふーん、そうなんだ」としか思えない。

上記説明すらも上手くいっていない気がする。

上手く説明しようと心がけていることはある。

いつ?だれが?どうして?どうなった? どうしたい? いつまでに? を考えれば良いのだ。

それを考えても基礎知識なのか常識なのか情報が足らずに死にたくなる。

伝書鳩として飛ばされたのに、手紙が着いてなくて体中見渡された後

カンふたり見詰め合っているかのような気まずさだ。

これも伝わるかわからないな。

どうしても上手く説明することが出来ない。

そもそも、「説明下手な理由」を上手く説明できていたら「説明下手ではない」から……まぁいいや。

誰か似たような人居る? どうやって対応した?

2017-08-27

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」の正しい見方

酷評されていますね!「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」。

これだけの製作陣が集まって、何よりあの伝説映画アニメ化ということで、どこをどうするとこんなに酷いレビューになるのかと興味を持って観に行きました。

この記事スタンスとしては、この映画は誰にでも勧められるわけではないけど、ここまで酷評されていると「観に行くべき人」が行かなくなるのは可哀想だなあ、、という曖昧な感じで書いています

8/28 10:00 少しブックマークが増えたので、わかりにくいところを書き換えました。
8/28 11:05 横田守氏と細田守氏の書き違えがありましたので修正しました。同級生の絵柄もすごく好きですが、、、
8/28 11:55 横田守氏は河原崎家、野々村、遺作でしたね大変申し訳ないっす。なんか同級生系の何かも書いてた記憶があって、、、
8/28 12:45 後半に「なんでこんな脚本になった?の考察」を追加しました。

観る前と観た後の率直な感想

観る前「どうせ脚本大根仁氏がわかりやすく書きすぎて、薄っぺら映画になったに違いない」

↓ ↓ ↓

観た後「なんだこれは、、、微妙なところ付いてきたな。。。」

でした。

他の人はどう感じたんだ?と思い、映画レビューを漁りました。

そんなわけで「レビューレビュー」をしてみたのです。

(ちなみに、それらを踏まえた上での「正しい見方」は後半にあります。)

顔出しレビュアーの皆様

映画レビューサイトなどは匿名ということもあり責任が無いため極端なレビュー部分的レビューが多い感じがしました。

そこでYoutuberの皆様による参考レビューを見てみたところ、年代レビュアーの特徴も出ていて面白かったので、まとめました。

映画の良し悪しに関わらず、どういう種類の人が、どういうことを言っているのか、というのは参考になりました!

ネタバレなし】打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?【見た感想~酷評~】(じゅん じゅん)

https://www.youtube.com/watch?v=ImsZEy_5Q0U

レビュアーについて

・絵について

声優について

  • 声優も合って無い。年齢が合って無い。

・その他

総評

打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?ノーカット解説感想 ネタバレ無し(Leo Kurashiki)

https://www.youtube.com/watch?v=h_TvQse51E4

レビュアーについて

・絵について

声優について

ストーリーについて

ネタバレ注意】酷評話題の『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』を実際に見てきた感想(しらふ(Cyruph))

https://www.youtube.com/watch?v=8L3zGz5O7-E

レビュアーについて

  • 論理的な感じ
  • 公平に語ろうとはしている
  • 若いと思われる

総評

・絵について

音楽について

ストーリーなど

声優について

正しい見方

さて、、、、

そんなわけで「正しい見方」、、、

少し長いです、、、

原作岩井俊二が好きじゃないと、そもそもナシ?

岩井俊二映画を観に行くときに、

を求めている人はいないわけです。

さて、原作とこのアニメ映画関係ですが、意外にも大根仁氏は原作ベースにしながら独自解釈で、魅力を増幅させようと脚本を書いたようです。

結果的に、

という作品となりました。

このアニメ作品でも映画の良さを残して、

大根仁氏が大人文化人部分を出してきてまして)

タイムリープの展開をより哲学的な形にまとめあげたりしています

そんなわけで、岩井俊二世界観理解できない、好きではない人にとっては、

単なる「よく分からない話」で終わるのかもしれません。

君の名は」と似たプロモーションによる失敗

プロモーションが「君の名は」を想像させたんでしょうねえ、、、

というわけで、デメリットが非常に出たという結果ですね!!!

ストーリー比較すれば、

という前向きに捉える人ももちろんいるでしょう。

それにしても大衆向けという意味では「打ち上げ花火〜」はちょっと難しすぎたのかもしれません。

そんなわけでプロモーションの失敗ということは確実に言えそうです。

ストーリーについて(ここネタバレです)

原作ではタイムリープは1回でした。あのとき違う行動をしていたら未来は変わっていた、という2つのストーリーを描いた映画です。

このアニメではタイムリープは何回も行われます(4回だったかな?)。タイムリープするための石という新たなアイテムも出てきます

原作好きにはちょっとアニメ的展開すぎ、という意見

石のアイテム効果で、現実感を薄くさせてしまって想像世界という感じがもちろん強くなりました。

そのため、原作好きな人にとってはちょっと不満はあるでしょう。

ただ、これによってアニメが好きな層にアプローチできると思って新たなストーリーを作ったのでしょう。

結果的にはそれでも良く分からなかったということで、アニメ好き層には響かなかったような感じがします。

タイムリープ意味について」

原作では、完全に2つの世界があって、それらは別々でした。ただ、観客はその2つの世界客観的に見ることによって、ノスタルジーや非現実感を感じて楽しむのが「打ち上げ花火〜」の醍醐味です。

アニメではそのタイムリープを全く別の意味で使っています

  • 行動を変えれば、運命は変えられる
  • 凝り固まった考え方では運命は変えられない。花火は平面の場合もあれば、丸い場合もある。

のような、能動的なメッセージを伝えようとしているあたりが違うところですね。

(この辺りが、若年層には全く伝わっていないっぽい、、、、)

声優について

詳しくないのでわかりません。

ただ、声優別に違和感は無いです(あまり期待していないというのもある)

絵について

詳しくないのでわかりません。

絵は確かにCGは浮いてると思います

あと「君の名は」もそうですし、横田守細田守氏、ジブリのものと比べても書き込まれていない部分が目立つのはその通りと思います

まとめ

レビューを見て感じたこと

キャラクター言動おかしい」というレビュー

 →岩井俊二氏が描きたかった人間全然理解できていないというか、世代の違いなんでしょうか、、、

  人って素直になれない時は変なこと言っちゃうっていう、そいいうことが理解されない時代になったんでしょうか、、、

ストーリー意味からない」というレビュー

 →ある程度、知見を持った人が映画作ってるわけなんで、理解しようという視点必要なんじゃないかなんて老婆心的に思います、、、

恋愛ストーリーなのに結果がよく分からん」というレビュー

 →この映画恋愛は真ん中に置いてあるけど主題では無くて、子供の頃の気持ちとかノスタルジー主題なんだと思うんですが、、、

結局観るべきなん?

色々な情報総合すると、こんな感じに落ち着くかと思います

原作好きな人が、原作をすっぽり忘れて観に行くと、爽やかな夏の午後のような気持ちになれる」

(どっちやねん!)

なんでこんな脚本になった?の考察

大衆的ヒットが得意な大根仁氏を擁立しながら、なぜこうなった、という話について少し言及を。

これを語るためには、2つのソース引用したいのですが、

ゴロウ・デラックス 岩井俊二 3月24日 160324

https://www.youtube.com/watch?v=4TeLnGkyCL0

この中で、原作脚本監督を一貫して行う理由を聞かれた岩井俊二氏は、こんなことを語っています

2017年発売 小説少年たちは花火を横から見たかった (角川文庫)」

https://www.amazon.co.jp/dp/4041056039

この本のあとがきで、岩井俊二自身がこんなことを書いています

こういうことを踏まえると、大根仁氏は依頼が来た時に単純なリメイク大衆受けする脚本ではなく、

そこに新しい世界を作りつつ原作を超える、新しい作品となるような脚本を作ること目指したのではないかと思われます

(完全な推測)

基本情報

あらすじ

小学生の典道と祐介は仲の良い友達だが、実は2人とも同級生のなずなの事が好きだった。しかしなずなの両親が離婚し、彼女母親に引き取られて2学期から転校することになっているとは、2人には知るよしもなかった。親に反発したなずなは、プール競争する典道と祐介を見て、勝った方と駆け落ちしようとひそかに賭けをする。勝ったのは祐介か? 典道か? 勝負のあとから、異なる2つの物語が展開する。

https://ja.wikipedia.org/wiki/打ち上げ花火、下から見るか%3F_横から見るか%3F

ストーリーの種類

タイムリープ1回のストーリー

タイムリープ複数回ストーリー

岩井俊二書き下ろし

 タイムリープ無しのストーリー

https://www.amazon.co.jp/dp/4041056039

大根仁書き下ろし

 (未確認

https://www.amazon.co.jp/dp/4041054885/

次の25件>
アーカイブ ヘルプ
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん