はてなキーワード: 時計じかけのオレンジとは
時計じかけのオレンジの〜と説明を加えてしまったところがださい
出張で月に一回東京に来るんだけど、その時は歌舞伎町のホテルに泊まることにしてる。
女の子と遊ぶ気も酒を飲む気も無い。大分良くなってきたけどあの危なっかしい雰囲気が好きでチェックイン後にふらふらと散歩するのが好きなんだよね。
ただコロナの影響でここ2年ほど出張が無かったんだけど、今年に入って久々に東京へ出張の予定ができた。
仕事が終わって以前のようにふらふらと散歩してたんだけどハ○ジア周辺に立ちんぼ多すぎない?それも明らかにめちゃくちゃ若い女の子がいるんだけど。それとも月一で来るだけだからたまたま少ない時だっただけでいつもあんな行列してるの?
これ見てColaboが思い浮かんだ。はてなで話題だけど公金チェックちゃんとしろよ程度にしか思わなかったんだよね。
でもColaboの活動って意義はあるよねと思い直した。
警察、児相に繋ぐ部分や女の子の事情をくみ取って保護する仕組みは必要じゃない?
女の子を保護 →(翌日)→二度と体を売らず自立できる女の子に生まれ変わる、なんてゲームみたいにはいかないから、バスカフェみたいに入口は広く取っておいて、その中から僅かでも自立に向けて意志を変えることができる子を見つられたら万々歳、程度の活動でしかないと思うのよ。100人の立ちんぼ集めて1か月後に100人とも普通の職に就かせた、とかが理想だけど時計じかけのオレンジ方式でも取らなきゃ無理でしょ。
警察、児相に任せるべき、Colaboの活動に意味は無い、若年女性を救う予算は必要無い、別の手段を検討すべき、って最もなコメントだけど、どうせColaboが潰れればハ○ジア周辺の女の子なんて知らんってなるんだから、ちょっとColaboの肩を持ちたくなっちゃうのよね。
Colaboを批判する方が正しい状況ってことくらい理解してるけど、アレを見ちゃうとせめてミソジニーが過ぎる暇空さんは切断処理して欲しいし、バスカフェ中止は仁藤さんの自業自得なんてコメントは控えて欲しい。
男性フィギュアスケート選手を揶揄・嘲笑する風潮というのは、これは実は日本に限った話ではない。
アメリカのスポ根コメディ映画で『俺たちフィギュアスケーター(原題:Blades of Glory)』という作品がある。フィギュアスケートのライバルとして犬猿の仲だった主人公二人が、史上初の"男性ペア"を組んで競技に挑むという筋立ての物語である。
この作品を観た観客に笑いを喚起する根源となっているものこそが
という、日・米・欧を問わず世間に存在する、男性フィギュアスケート選手に対するステレオタイプ(偏見)である。
そしてまた、そこには
「世間が『ゲイっぽい』と見做した存在であれば、イジったり嘲笑したりしても構わない(許される)だろう」
それを裏付けるように、作中で主人公たちが披露するフィギュアスケートの演技は、性行為を連想させる下ネタ的なものである。「女性アスリートの競技する姿によって、性行為を連想させ、それで観客の笑いを誘う」という手法をとったとしたら、現代社会ではセクハラと見做されて糾弾されかねないが、ゲイっぽいと思われている男性フィギュアスケート選手が対象ならば問題視される虞はないというわけである。
男性、殊に、世間が一方的にゲイ認定した男性に対するセクハラは、セクハラと見做されないという、現代社会の根深い問題の一つと言えよう。
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芸能人やアスリート等の中には、ナルシスティックに感じる言動・振る舞いをする人が存在することは確かである。そして、世間には「そういったナルシスティックな言動が許せなくて、何とか揶揄してやりたい」と考える人が、或る程度の割合で存在する。
とはいえ、そのナルシスティックな言動をしている人間が、強面の格闘技選手とか、不良出身のヒップホップミュージシャンとかであれば、揶揄するのは怖いし度胸も要する。
それに比べると、フィギュアスケート選手であれば、線も細いし、そこまで強面でもないから、揶揄しても何となく許されそう(逃げることができそう)な気がする。羽生結弦を揶揄する人間の心理を推測するならば、おそらくそういったところであろう。
また、ゲイフォビアの感情を正当化する言い訳として「アイツはナルシスティックだ!」と"判定"をしている可能性もあるように思う。
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そもそも、ナルシスティックな言動をすることが何か問題が有るのだろうか。それは果たして、非難されるような、許されざる行為なのだろうか。
宝塚歌劇団の男性役の人とか、男性バレエダンサーとか、表現活動を生業にしていてナルシスティックな言動をしているという人間は、探せば幾らでも世の中には存在する気がするが、彼女ら/彼らは羽生結弦ほどにはバッシングされていないように思う。
例えば、この文章を書いている増田は、かつて"ももち"の愛称で親しまれたアイドル嗣永桃子(※現在は芸能界引退済)が今でも好きなのだが、芸能人だった当時の彼女が「ももちはカワイイ」と自称していたからといって「ナルシスティックだ!許せない!」などと言う人間はいなかった(と思う)。仮にそんな人間がいたとしても、狂人としか思えない。王子様発言をするミッチーこと及川光博を指して「ナルシスティックだ!許せない!」と言う人間が狂人と見做されることと同じである。
彼女ら/彼らのポジティブでナルシスティックな言動や振る舞いこそを目的として、ファンは対価を払い、そして元気を貰っているのだから、何も問題は無いはずである。
別に『時計じかけのオレンジ』のルドヴィコ療法のように、無理やり羽生結弦ショーを見せられたわけでもあるまい。それどころか、わざわざ羽生結弦及び彼のファンを腐す/叩く理由付けのために、自ら羽生結弦ショーを観に行って、「羽生結弦はキモイんだ!だから皆で叩け!(叩いて欲しい!)」という願望をダダ漏れにした駄文を書き連ねるのだから、これは立派な狂人である。
元増田の「ナルシスティック!許せない!」という論調そのものが、昭和の女性向け週刊誌のような時代遅れ感に満ち溢れている。もしかして、座敷牢か何処かに長年閉じ込められていて、時代の変化に取り残されたのだろうか。
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それで思い出したのだが、数年前に映画監督の福田雄一が、自身のコラム記事で、世間に羽生結弦バッシングを引き起こそうとして、ものの見事に失敗したことがあった。福田雄一といえば、佐藤二朗やムロツヨシを起用しさえすれば、それだけでコメディ作品になると思い込み、次々と駄作を量産していることで有名な、貧しい感性の持ち主である。
羽生結弦を腐すコラムを執筆した時の福田雄一は映画『俺たちフィギュアスケーター』(を観ていたかどうかは知らないが)と同じ感覚で「男性フィギュアスケート選手ってキモイよね!?」と書けば、世間から同意を得られてウケが取れると思っていたのではないだろうか。
しかし『俺たちフィギュアスケーター』は2007年の作品なのである。今、この映画を観ると、正直キツイと思う。仮に、あれと同じ感覚で今「男性フィギュアスケート選手はキモイ!」とか言っていた/いるとすれば、元増田も福田雄一も明らかに時代遅れなのである。
羽生結弦叩き増田はともかく、福田雄一は現代の実写映画業界においてそれなりに有名な映画監督なので、こんな時代遅れの人間が大手を振って活動できているのであれば、日本の実写映画が衰退するのも納得である。
むしろ、つまらなくてコメディと呼ぶに値しないような駄作を量産して映画監督を名乗る方が、よほど(有害な意味での)ナルシスティックではないだろうか。
元増田は、福田雄一を他山の石として、道を引き返した方が良い。今どき羽生結弦叩きでウケが取れると思うような古臭い感性の人間は、これからどんどん肩身が狭くなるだろうから。
でもお前が見たスターウォーズや時計じかけのオレンジも映画じゃなくVHSだろ
スターウォーズ:パパが大悪党だったので緑色のじいちゃんに剣を習ってバッサリ切り落としました。
プレデター:作戦行動中に襲われて仲間が全員死んだけど、倒した。
ランボー:山に引きこもってたけど、大佐が出てこいって言うから出てきた。
ランボー/最後の戦場:軍事政権と戦ってみた(YouTuber感)。
ブレードランナー:レプリカント殺してたけど俺がそうだった件。このレプリカントがすごい!選出。
ブレードランナー 2049:俺が息子だと思ってたけど息子じゃなかった。パパは娘に出会えてよかったね。
スタンド・バイ・ミー:死体探しに行って時折気まぐれに不良に拳銃を突きつけて帰ってきた。
グーニーズ:宝物を探してたら族の仲間と仲良くなって宝も見つかってバンザイ。
オール・ユー・ニード・イズ・キル:なんか繰り返してるうちに攻略法覚えたから楽勝。
ポリスストーリー/レジェンド:この中に犯人がいる、とかやってたら、いた。
カーマ・スートラ:アホの王子が狂乱にふけってると他国に攻め込まれて滅亡。
キッド:俺おとなになったらこうなんのかい。と駄々をこねてどうにかする話。
時計じかけのオレンジ:不良が迷惑を掛けるはなし。
マトリックス:脳内麻薬できぼじいいーーーしてたけど、叩き起こされたので戦う。
オーシャンズ11:潜入しようと思ったので潜入した。
時計じかけのオレンジの部屋に連れていかれるのかもよ
時計じかけのオレンジはアルトラにホラーショーなウォーブルが合わさって最高にホラーショーだよな
これが運命、という啓示が予めあったにも関わらず、それに従わなかったパターン。
まず、その運命に反する行動をとるときに、ものすごい抵抗がある。
その後、しばらくはもやもやと抱えたまま生きる。
本来の運命ではないことが起こったことをはっきりと自覚してからは、死にたくなる。大うつ病がやってくる。
その後は、よくある受容が起こる。
ただ、受容の程度がえげつない。
記憶が抜け落ちる。解離性健忘が起こる。
私の場合は、なにかからの接続がぷっつりと切れ、糸が抜かれるような感覚があるときがあった。
それからの感じ方というのは、感覚でいうと、時計じかけのオレンジのアレックスの状態。
ルドヴィコ療法の如く、目を見開かされながら、自分のいない世界線を、ずっと見る感じ。
ただ、自分のいない世界線といっても、自分という登場人物はいて、あくまで世界線の一部として存在している感じ。
それまであった主人公感は完全に抜け落ちる。
自分の時間は与えられるが、自分の本来やりたいことは手に付かない。
でも、自分のいない世界線は、自分の在不在に関わらず、本来進むべき脚本に従って続いていく。
自分の場合は他人との関わりに於いてだったので、その他人の演じる分まで演じている感じ。
なんであんなことしたんやろ。
運命には従ったほうがよい。
午前十時の映画祭で上映してる時計じかけのオレンジ
数年前、NHKのハートネットTVで山師のような見た目の青年が高校生に進路指導をしていた。
数十人の高校生を前にして、まったく信用のできない口ぶりで彼は言った。
「進路を決めるコツは、やりたくない仕事をはっきりさせることだ」
それは観たくない映画を選ぶことだ。
というわけで、午前10時の映画祭のラインナップに対して、増田が観に行きたくなくなるようなコメントをしてみたいと思う。
どうせ指と指くっつけて終わりだろ。宇宙外生命体とガキの心温まる話とか増田は興味ないって。
オープニングいつ終わるんだよ。
そもそも増田はイタリア系移民マフィアになんか興味ないでしょ?
照明が有名だけどそれにも興味ないなら眠いだけだからマジで観なくていい。
長い(2時間52分)。途中で休憩あるけど。
ずっと白黒てwwwwwww(しかも3時間27分wwwwwwww東京から兵庫まで行けんぞwwwwwww)
ドゥンドゥンwwwドゥンドゥンwwwwドゥンドゥンwwwwwwww
オシャレなカイジ。
ネタバレしたらクソつまんなくなる。
長時間きれいな映像が流れ続ける(3時間1分、頑張れば岡山行けそう)。
じゃあ観ないほうがいいね。
精神的なグロさはともかく、今となっては映像的にグロく感じないかもしれない。
じゃあ観なくていいね。
そもそも増田さあ。第二次大戦中とかのイタリアの映画館に興味あんの?
ないよね。以上。
これ、当時のアメリカ保守層のための映画だから。やめといたほうが無難。
ノリが良いだけの映画。ばいばいだね。
今となっては映像に未知感がない。かろうじてロマンが残っている。メッセージ観とけ。
白黒wwwwwwww。アン王女はリアルで元レジスタンスだった危険な奴だからやめとけ。
どの映画も古くさく感じるかもしれない。
だが、同時に「今だと作ることのできない映画」でもある。
それは、戦争を経験した役者の凄みや、リソースを無視した人海戦術の美術、独創的な演出、華麗な音楽、映画の隅々にまで至る。
俺だったらとりあえずヴィスコンティの『ベニスに死す』とキューブリックの『時計じかけのオレンジ』は行く。