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はてなキーワード: 普通の人々とは

2021-07-13

anond:20210713015108

でたな尊法意識が高い人低い人で分かれば済むものを、なぜか男女で分ける奴

別に男女別に統計を取って有意差の有無見るわけでもねえからホント何がしたいんか謎だわ

著作権を守れないキモオタ男女と普通の人々でいいだろ

2021-07-05

anond:20210705074251

そもそも規制派の言うところの『普通』って全然普通に見えないんだよな。

とても彼女達の規制論が「この社会で多くの人が大体のところで共有しているだろう感覚」とは思えない。

だって改めて世の中を見渡してみた時、彼女達の言うところの性的表現に対してけしからんけしからんと青筋立てて規制を訴えている人達がどれだけいるよ?

世の中の大多数はそもそも批判擁護もしないスルー安定の『どーでも良い派』だと思うんだけど、そういう人達勝手自分達側に勘定していない?

彼女達の見ている対立構図はおそらく『好き勝手エロ表現をして社会迷惑をかける異常者』VS『それ以外の普通の人々』みたいになっているんだろうけど、その構図自体が極めて恣意性の高い歪んだ視点だということにどうやったら気付くことができるのやら。

2021-06-17

anond:20210617024632

まあ大多数の人間生活のために料理してるだけなので、ごちゃごちゃ考えずに「こういうもの」という決まったやり方に従って無心でやりたいんだよ。

現代社会人間に無数の「決断」を要求するようになってしまったので、脳を鍛えていない普通の人々は疲れ切っている。「無駄決断をなくしたい」というのが極めてプリミティブなところでの欲求になっているんだよね。

2021-06-15

anond:20210615200730

本当に「好きなことを仕事」にしようとした人間社会から逸脱していって普通の人々世界からは見えなくなってしまうところがあると思う。

一部、生まれ持った才能や環境実家の太さがあって社会から逸脱しないまま好きなことを仕事にしてる人間もいて、そういう人だけが普通の人の目に入るのだけど。

2021-04-05

絶対に道を譲らない女

ある日、女はふと思った。

どうしていつも私ばかり道を譲っているのだろう。

ほとんど同時に回答は出た。なめられているのだ。

女は平均よりも小柄である。手足も比例して短く、肥るとすぐにずんぐりした印象になるので、体重が増えないように気を使っている。

毎日男達がやり取りする過程で生まれる大量の書類を、送付状をかけて三つ折りにしたり、封筒に入れて宛名シールを貼ったりして得た、お小遣い程度の給与で買えるペラペラの服に身を包み、年老いただけで責任の伴う出来事を経てこなかった人間特有の、実年齢の割にのっぺりと奇妙に幼い顔にドラッグストアで買った化粧品おざなりに塗っている。

電車座席などに女が座っていて、二つぶんのシートを開けてまた別の乗客が座っている場合など、次の停車駅で乗り込んできた新たな客は決まって女の隣に座る。

女の隣の座席のほうが余裕があるからだ。男の客などは左右の座席にはみ出すほど股を広げていたりするが、女は一人分の指定シートの範囲にすっぽりと収まっている。

車内がやや混み合っているときなど、女の、男の客より体格が劣るぶんだけのゆとりのあるスペースを見つけた乗客は、半ばほっとしたような顔つきで尻を滑り込ませる。

同じ調子で、人々は、道をすれ違うときもごく自然体躯のいい男を避けて女のほうに寄ってくるのだ。女はさらに彼らを避けるために、体の小ささのぶん狭い歩幅で右に左に細かく蛇行しながら道を歩く羽目になる。物心ついた頃からその繰り返しである

道路は譲り合って、ぶつからないように歩きましょう。

道いっぱいに広がって、他の人に迷惑をかけないようにしましょう。

幼稚園だったか小学校の頃だかの「交通マナー教室」でそんなことを聞いたような気もするし、少女時代にはそれを守っている「マナーのいい」自分をどこか得意に思っている節もあったけれど、いつの間にやらそんな物分かりよく振る舞っているのは自分だけのようだった。

しろ、男の集団というのはまず道を譲らない。

それどころか得意満面で横一列に肩を並べて笑いあいながら歩くのが当然である

これは男子中学生高校生でも、スーツ姿のビジネスマンでも、中高年になっても同じなのが女には不思議でならなかった。

「あれは群れの序列を示していて、一歩後ろに下がると集団での地位が低いと見られるので、横一列にならなくてはいけないのだ」という言説をインターネットで見かけたが、本当なのだろうか。

女は男の集団に入ったことがなかった。彼らとぶつからないようにふらふらと漂いながら机を拭いたり、ゴミを捨てたり、他の女たちと話し合ってバレンタインデーチョコレートを買ったりしていただけだった。

自分家族恋人とも頑なに並んで歩こうとする男も珍しくない。

他人に道を譲る思いやりのないところを大切な人に見せつけたいというのはどういう心境だろう、それならベタベタ腕を組んで引っ付き合って道の端に寄っているほうがまだマシではないかと考えてから、実際女は交際していた男と連れ立って歩いていて、他人とすれ違うとき自分が男の後ろに下がっていたことを思い出した。

女は昨年、仕事帰りに転倒して脚を痛めた。

体のほんの一部を怪我しただけで、これまで何でもなく行ってきた日常動作が困難になるストレスは大きく、女は半ばヤケクソのような気持ち松葉杖をつき、歯を食いしばりながら片足を引きずって歩いた。

すると、どういうわけか、これまで当たり前に女が道を譲ることを期待して反対側から歩いてきた人々は、女の杖や引きずった脚に目を留めるとバツの悪そうな顔で避けるようになったのだ。

彼らは、怪我人を思いやる程度には善良なごく普通の人々であった。

そのことに思い当って、女はますます腹を立てた。

平時でも体格のいい人間とぶつかったら、私のほうが転んだり怪我をする可能性が高いことには変わりないのに、松葉杖のようなわかりやすい目印がないときは、彼らはそんなことは気にも留めないのだ。

道端に転がっている小石や落ち葉をいちいち気にしないのと同じだ。軽んじられているのだ。なめられているのだ。

思えば、どんな場面でもそうだった。医者も、タクシーバス運転手も、市役所の窓口の職員も、女を見るといつもよりぞんざいで、「そんなことも知らないのか」と言わんばかりの態度で、時にはため口を利く。女は当たり前のようにそれに敬語で従ってきた。

あるときは、さほど狭くもない道で、わざととしか思えない角度で急接近してぶつかってこられたこともあった。自転車ですれ違った男が、気づくと引き返してきていて、追い抜きざまに女の胸を掴んで走り去ったこともあった。

軽んじられているのだ。どんなふうに扱ってもいい存在だと思われているのだ。

女の中で怒りがとぐろを巻いて大きくなった。

おかしいじゃないか

松葉杖車いすなら道を譲るくせに。もっとわかりやすくおばあさんなら道を譲るくせに。私が男だったら道を譲るくせに。

私が女じゃなかったらそんな口を利かないくせに。ぶつかったり体を触ったりしないくせに。

どうして私には何をしてもいいと思ってるんだ。おかしいじゃないかおかしいじゃないかおかしいじゃないか

そういえば、女がまだ小学生中学生だったころ、叔母と一緒に歩いていたら対向から若者集団が歩いてきたが、叔母はまったく道を譲ろうとしなかった。

叔母とぶつかりそうになって寸でのところで若者は避け、忌々しそうに「クソババア!」と罵ったが、叔母は涼しい顔で歩き続けた。

思い返せば、これまでにすれ違った数多の人々の中にも、決然とした目つきでまっすぐに道を歩いてくる女たちがいた。

彼女たちは「絶対に道を譲るものか」といわんばかりの、睨みつけるような顔をしていた。

 

叔母も、あの女たちも、ある日こんなふうに気づいたのだろうか。

「なぜかいつも私ばかり道を譲っている」と、腹を立てて、「もう道を譲るのはやめよう」と思ったのだろうか。

女は心に決めた。

私も譲られるのが当たり前みたいな顔をしている人に譲るのは、もうやめよう。

ぶつかって転んでけがをするかもしれないけど、そのときは怒ればいい。「女だからなめてんだろ」「わざとぶつかっただろ」と。

腕を掴んで引きずられてでも絶対に許さない。スマホ動画も撮ろう。これまで譲ってきたぶん蓄積された怒りを噴出させるのだ。

こうしてここにまた一人、絶対に道を譲らない女が生まれた。

2021-04-03

田舎初段とは

ホッテントリ話題になった記事がある。

 → Twitter で医師を拾ってきて Google のソフトウェアエンジニアにするだけの簡単なお仕事 - 白のカピバラの逆極限 S.144-3

 

これに噛みついたブログ記事ホッテントリになった。

 → 優秀さについて | 川口耕介のブログ

 

「超優秀な人間が、地方の劣った人間を見下すな」という趣旨だ。

元の文章に「田舎初段」という言葉が出てくる。素人よりは段違いに上手だが、その道のプロから見ると桁違いに下手、という真ん中を指して揶揄した言葉だ。頂上感が自尊心のコアになっている時に尊大田舎初段を見ると、本物はどういう事か教えてあげるために、ちょっと捻ってみたくなる気持ちはよく分かる。

 

  ̄ ̄

聞く方は羽生名人田舎初段を捻り潰すのを見るような後味の悪い感じがしてしまものだ。

羽生名人はそんな事をしなくていい。あなたの優秀さはそんな事をしなくたって周りの人に伝わっているか大丈夫ですよ、と言いたくなる。

 

まったく低レベル曲解なので、呆れてしまう。元記事ブコメも、同趣旨理解が多いようだ。しかしそれらはすべて誤読である。では、正しくはどう理解するべきかを示そう。

 

田舎初段」という言葉意味は、「井の中の蛙大海を知らず」というのとほぼ同義である。ただしそれに「自惚れ」「過信」という意味が加わる。

 そして、その言葉で示されるのに典型的な事例は、「素人よりは段違いに上手だが、その道のプロから見ると桁違いに下手、という真ん中」ではない。つまり、「二流」や「一流半」ではない。

 では何かというと、たとえば菅首相だ。

  ・ グループ集団)のなかでは傑出した能力の持ち主だ。

  ・ 自分はすごく頭がいいと自惚れる。

  ・ まわりの人間がみんな馬鹿に見える。

  ・ 専門家馬鹿だと思って、専門家の言うことを聞かない。

最後の一点に限っていえば、はてなーの好きな「トンデモ」という用語に当てはまる一種だ。しかも、自惚れの度が強い。

 こういう人間が、周囲の反対を押し切って、「緊急事態宣言の解除」とか、「GoTo イート」とか、「ふるさと納税」みたいな自己流の方針を貫徹する。そして、そばにいるエリートが反対すると、そのエリート左遷する。他人の言うことを聞かないのが絶対的に正しいと信じている。

 これが「田舎初段」の典型だ。

 

ここまで言えば、わかるだろう。元のブログ記事は、「二流の人材を侮辱している」のではない。「一流の人間たるもの田舎初段になってはいけない」というふうに、一流の人間に向かって「戒めの言葉」を示しているのだ。

なにかの分野では一廉でも別分野では田舎初段に容易になるということです。

学者とかでも、他分野に友人が十分にいれば、そう踏み間違えないが、孤独ならばどんどんおかしなことを言い始めます

これを止められるのは、かなり簡単に狂うことを意識していることと分野を超えた人間関係があることが揃っている場合くらいでしょう。

このブレーキが壊れると簡単おかしくなります

普段から様々な分野の学者と話し合っていると、およそまともではない専門家意見ネットで飛び交っているのがよく分かります

要は、教育を受けた人たちでさえ、仲間とお茶をしていないのです。そしてそれを見抜くのはとても簡単です。

 

ここでは田舎の二流人間批判されているのではない。一流の専門家批判されているのだ。どう批判されているかというと、一分野に偏ってタコツボ化した専門家だ。そういうタコツボ化した専門家が、

 「なにかの分野では一廉でも別分野では田舎初段に容易になるということです。」

の事例となるのだ。

 

たとえば、Wikipedia英語版にも掲載されるような、非常に優秀なプログラマーがいる。

  → https://en.wikipedia.org/wiki/Kohsuke_Kawaguchi

 

こういう超優秀なプログラマーでさえ、日本語をまともに理解することができず、見当違いな批判を書いてしまう。自分の分野からちょっとはみ出ると、まともに理解することもできなくなってしまうわけだ。これこそ、元記事で「あってはならない事例」として示された例だ。

 

 ――

 

ついでに、はてなー根本的な誤解を示しておく。

記事を「超エリートの自慢」「頂点に上り詰めた人が他人を見下す」「狭い領域で頂点に立って自惚れている」というふうに受け止めるのは、勘違いだ。

では、どう受け取るのが正しいか? 

 

記事では、普通の人々は、まともに視野に入っていない。それらは言及外であって、良いとも悪いとも言っていないし、見下してもいない。もともと視野に入っていないのである

視野に入っているのは、エリートクラスの人々だけだ。そして、そのなかで、どういうふうにあるべきかを考えている。

そのとき、彼自身は、自分を「エリート」とは考えていない。むしろエリートの中の落伍者」と考えている。元記事のそのまた元記事になった人もそうだが、「東大理3からプログラマーに転じた」という経歴らしい。これは、医学の道でも、プログラマーの道でも、どちらでも大成しなかったということだ。筑駒や理3の卒業生の中では、(やや)落ちこぼれ組に入る。

 はてなー中では、「グーグルに勤務して年収 3000万円」というのは、「凡人社会頂点にいる」というふうに見えるのだろう。だが、筑駒や理3の卒業生の中では、医者としてもプログラマーとしても大成しなかったというのは、(やや)落ちこぼれ組に入るのだ。

 ちなみに、私の知人(同級生)の多くは、国立大学教授理研研究員として大成している。世間的には超一流の肩書きを持つ。そういう仲間と比べると、今回の人々は、頂点どころか、(やや)落ちこぼれ組というしかない。威張れるのは、年収だけだろう。(公務員研究者は、年収が高くないので。)

 

記事を書いた人や、そのまた元記事を書いた人は、非常に優れた才能の持ち主だ。(後者高校時代数学オリンピックに出たらしい。)しかし、その生まれ持った才能を生かすことには失敗しているのである。才能は素晴らしいが、才能を生かすことには失敗したのだ。

 そして、そのことを、私は批判しているわけではないし、侮辱しているのでもない。「人生選択肢で道を間違えたね」と感じて、「可哀想に」と憐れみを感じるだけだ。「私も道を一歩踏み間違えたら、こういう無駄人生を送っていたかもしれない」と感じて、自分幸運を感じることもある。

 

蛇足

たぶん、道の選択を間違えた人と、成功した人との違いは、周囲の人々の影響の差だろう。周囲に素晴らしい人がいれば、道をあやまたずに、正しい道を進むことができる。そして、そういう機会のなかったエリートには、同情を禁じえない。

 私はグーグルプログラマーなんかにならないで済んだが、それは本当に幸運だった。(そしてそれは、人生最初に、素晴らしい女性との出会いがあったからなんだ。そしてまた、高校時代に、素晴らしい教師を知りえたからでもある。それは優しい親切な教師ではなく、星一徹のような鬼教師だったが。)

 

2021-03-31

インターネットをしている大半の人間、俗にいうご普通の人々が、他人の失敗と謝罪が大好きな正義マンであるということを何故誰も認めたがらないのだろうか

2021-03-10

今思うと日本人にサブスク根付かない神話って何だったんだろうな

Ado、YOASOBI、瑛人、NiziUどれもサブスクつべで人気出まくってるじゃん、CDでなくても全然人気は取れるということが証明されている

ついでにSpotifyAppleLINEどれもランキングを占めているのは洋楽でなくてJPOPやKPOPがほとんどなのでサブスク使いが意識高い層ではなく世間一般的普通の人々なのも明らか

日本人は形あるものを大切にする(キリッ」なんて言われてたけどレコード会社が渋って仕方なくCD買うしか手段がなかっただけじゃんね、大体MusicFMなんかが流行りまくってたの見ても日本人がことさらCD固執してたとは思えんよな

よく比較に挙げられたドイツも結局サブスクには勝てなかったよってなってるし

2021-03-03

anond:20210303083904

協調運動障害ってこういう感じで普通の人々から貶され続けるのがキツい。

字が汚かったり箸の持ち方おかしかったり歩き方が妙だったり色々自覚はあるんだけど別に迷惑かけてないのに不快にならないで欲しい。

臭いだけ/だらしないだけと見過ごされてきた問題の一つに過ぎない

この増田時代遅れのアホだよ

そういうアホこそがいつまで経っても字の汚いままの子供を療育アクセスさせず放置して、結果的に字の汚い大人を生み出してるんだよ

勉強して帰って https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/125/

2021-02-19

anond:20210219191837

でもみんな感覚麻痺してるだけで普通の人々は身内の出来事インターネット面白おかしネタにしようと思って投下しようとは思わないのでは?

2021-02-04

フェミニズムが死すべき理由

 15歳のときベル・フックスの「フェミニズムはみんなのもの情熱政治学」を読み、それが私のバイブルになった。そこに書いてあったフェミニズム説明を読んだだけで、それが世界を変えるとわかった。地元図書館にかろうじてあったフェミニズム書籍コーナーに潜り込むや否や、 牟田一恵や田嶋陽子世界に浸りこんだ。私が進学先の大学を選んだ理由は、その時すでにTwitterで名を馳せていた北村紗衣先生が教鞭をとっていたからだし、ジェンダー論の授業があるからだった。大学を出て最初についた仕事では社内セクハラの撲滅に従事し、プライベートでもTwitter消費者運動を通じて、男女差別と戦ってきた。ほぼ十年、このために使った時間は知れない。

 何が言いたいかというと、フェミニストを名乗れる人間がいるとしたらそれは自分だということ。九州田舎で育った孤独ティーンエイジャーにとって、フェミニスト冒険譚を読むのは震えんばかりの興奮だったし、目を見開かされる思いだった。周囲にこんな人は見た事がなかったけれど、ネットを通して自分と似たような人が他にいるとわかって希望が生まれた。大学に通い始めてからは、フェミニストでいることにひねくれたプライドもつ人を他にも何人か発見した。けれどそれはまだ珍しかったし、社会の主流な考え方からはすっかり外れていた。だから、なぜせっかくそれなりの企業就職した自分が、社内恋愛の末の寿退社ではなく、男受けの悪い反セクハラ活動血道を上げているのか、誰も本当にはわかっていなかったし、私はフェミニストだと言うと、ほとんどの人が眉をしかめた。月日を経て、私は同じ志を持つ仲間の輪を少しずつ広げた。職場教育、そしてマンガアニメなどの趣味世界。それぞれの世界活動する私たちを、フェミニズムが互いに引き寄せた。そんな仲間の助けがあったから生き延びる事が出来た。けれど仲間を探すのは難しかった。私たちはまだ、社会の中で傍流だったのだ。

 でもこの十年、状況は様変わりした。映画ドラマフェミニズムに則って制作されるのが当たり前になった。アナ雪や逃げ恥を通じフェミニズムは恥ずかしがらずに誰もが楽しめるものになった。

 そして、たぶん一番重要なのは、今やフェミニストはカネを、そして権力地位をも持っているということだろう。世界で一番大きな、そして一番勢い良く成長している企業女性配慮し、女性を雇っている。日本大企業や省庁も女性差別をやめ敬意を示すようになった。強い女性はかっこいい。私たちは勝ったのだ。

 そして、そこに問題がある。私たちは未だに自分達が反乱軍かのように振る舞っているけれど、今やフェミニズム帝国だ。十年前までは私たちはおおむね正しく、批判的外れで間違っていた。だから他人に耳を貸さな私たち習性は深く根付いている。それどころか、フェミニストに向けられた批判スクラムを組んでやりかえすのが絆を深めるためのちょっとしあ儀式になってすらいる。今までは誰かの批判攻撃するのも、かつては大したことではなかった。一握りのフェミニズム親和的な人以外にそうした論考が読まれる事はなったからだ。そんな内なる声も、今や大きな問題になっている。フェミニストが本当の権力を振りかざしているからだ。キズナアイラブライブポスターへの攻撃、宇崎ちゃんポスターにまつわる献血ボイコットは、フェミニストの私にとって恥ずべき出来事だった。けれど恐ろしいのは、その暴力的な振る舞いが、フェミニスト界隈に常在する何かと同じ感じがすることだ。それでいいという空気があることだ。ただ驚くしかない。その空気はあっという間に、誰かが大切に育ててきた営みを、無造作に叩き潰すほどに膨張した。ファミリーマートのような主流の大企業ですら、私たちの突きつけた理不尽圧力に巻き込まれている。今や私たちは、「自分反乱軍だと思い込んでる帝国軍」なのだ

 だから日本は未だ後進的な男性社会で、私たちフェミニストはそれに反抗するレジスタンスであり、いつの日か勝利するだろう」みたいな、フェミニスト界隈の通奏低音はすごく違う感じがする。たしか私たち女性は、かつては家父長制にいじめられたり、大企業無視されたりしていた。でもそれは、私たちにカネも力も無かった頃の話だ。今や私たちには権力があり、日本資本主義社会私たちを標的にするのではなく仲間とみなすのやぶさかでない。20年前の男性社会私たちお茶くみや家庭に押し込めようとしていたけれど、今や私たち仕事学術に家庭に多くの選択肢を持つ一方で、文句も言わずに黙々と経済的後ろ盾になってくれている。

 フェミニズムの愛すべき要素の一つに、共感連帯を大切にするという価値観がある。誰かが泣いている時、証拠事実検証は、大抵役に立たない。いの一番に、「私もあなたのために怒りたい」と表明し、それを実行しなければ社会は変わらないのだと、痛い目に遭いながら学んできた。これはフェミニズム界隈を通底するルールだ。誰かが被害を表明すれば、ただちに飛んでいって守り合う。客観的データに基づく結論は、提示するのに時間がかかるし決まって歯切れが悪い。だからスピード攻撃力が高い「お前は差別主義者だ。私は傷ついた」と言い切る思い切りが習慣になる。

 なのに、フェミニスト自分たちの共感埒外にある人々へ示す冷酷さには、思わず目を丸くしてしまう。知りうるほとんど全てのフェミニストが、自分より年収の低い男性や、性的魅力に乏しくオタク文化に逃げている(と見なしている)男性嘲笑し、あるいはそういった言説を窘めもしない。逆に高学歴高収入男性や、容姿に優れるなど性的魅力が豊富タイプは、あらゆるレトリックを用いて養護し、倫理的お墨付きを与える。収入学歴容姿共感駆動するフェミニズムは、これら男性ステータスに対してどこまでもプリミティブな接し方をする界隈だ。フェミニズム世間を席巻し、プレイヤー絶対数が増えるにつれ状況は悪くなっている。

 解決策を知っているというつもりはない。けれどどこかで何かが間違っていると意識することはできる。現に私より若い世代では、女性たちの間ですらフェミニズムへの忌避感が広がっていると感じている。しか私たち現役フェミニストは、フェミニズム忌避する女性に対してどんな態度をとってきただろう?ここで口にするのも憚られる、卑劣言葉を投げつけては、仲間内での連帯を高めてきたのではないか?こう想像するのはおかしな事だろうか――この深く根付いたクソっぷりが、若い世代を遠ざけているのでは?

 あたりを見回すと、私たちが育ててきたフェミニズムが、自由への革命から威圧的権力へと姿を変えたのがわかる。私たちは確かに素晴らしいものを生み出した。けれど私たちは不注意で、普通の人々を傷つけないための安全策を怠った。私たちは不注意で、未来フェミニストたる多くの若者たちを成長の各段階で追い出してしまった。私たちは不注意で、世界アップデートしたとき失うものがある人を気にかけなかった。いい目を見る人のことをだけを考えていた。(だいたい自分達のような人々だ。)

 古い世代の連中より高潔でありたいと、いつも願っていた。けれど蓋を開けてみれば、力不足ゆえに無害なだけだった。体に染み付いた被害意識は、私たちいじめ行為に至る際の非道言い訳と成り果てた。

 だから言いたい。フェミニズムは終わりにしよう。フェミニズムは素晴らしいことを色々してきたけれど、今のフェミニズムは歪んだ復讐心暴力衝動に駆り立てられる怪物だ。まともな答えは、これを終わらせてもっと良い何かを作り出すことしかない。

 もっと良い何かとはどんなものだろう?私たち攻撃したラブライブには希望を感じる。私たちが巻き込むのに失敗した若い世代女性をはじめから取り込んでいるからだ。どんな未来が来るにせよ、私たちは良き人物になることを重視する必要がある。今までよりずっと。

 弱さへの憎悪と、強いものへの阿諛追従は終わらせなければいけない。これはフェミニズムとあまりにくっつきすぎている。だからこの星からフェミニズムを消し去るしか、確かな方法はないと思う。

2021-01-16

普通の人々自分が本当に好きなものはとっておきにしたいか安易に紹介しない定期。

2021-01-09

anond:20210109210741

逆に世の普通の人々マジでそれらを修了してるのかというのが分からない。してるんだとしたらすげえよな。

2020-12-26

緊急事態宣言したほうがよかったんじゃないか

職場東京)やお客さんとの雑談でも、GoTo中止もなんのその普通に帰省したりスキー旅行に行ったりする予定の人が思いの外多い。彼らが感染症対策に不真面目なのかというとそういうことでは全くなくて、とても真面目にマスクや消毒などを行い、緊急事態宣言があれば外出の自粛をするような普通の人々だ。

28日まで仕事の人も多いので、今からでも緊急事態宣言すれば、ホテルを予約した旅行なんかは無理でも帰省などを思いとどまれる人もそれなりにいそうなのだが無理なんですかね〜。

感染抑止だけでなく不慮の大怪我などの抑止にもなって医療現場への負担も少しは減るのではと思ったり。

皆さんの周りはどんな感じでしょう?

2020-11-17

私たちホームレスの人々を取材する理由 rewrite

私たちホームレスの人々を取材する理由

夫婦ホームレス取材をして3年ばかりの月日が経った。当初からその取材活動に疑問と懸念を投げかけてくる人々が跡を絶たない。考えてみれば当然だ。彼らが何故ホームレスという立場になったのか、百人百様の人生を得た末の今なのだろうが、想像するによい経緯は考えられない。世の中から忌避され、近づく行為奇行と捉える人がいても不思議ではない。

現在夫婦でこの取材に取り組んでいる私達ではあるが、このプロジェクトきっかけは妻である私の原体験が基となっている。

20年以上前新宿駅地下街は家を無くした人々のダンボールの手製の住処がひっそりとは呼べないと程の規模で一つの社会を為していた。

今では考えられないであろう。身銭を稼ぐためだろうか、駅のあちこちから拾い集めた古雑誌安値で売る者すらいた。

その日、幼い私は親に連れられそんな新宿駅まで来ていた。目に映ったのは、彼らの建てたダンボール小屋だった。秘密基地様相を持つそれらの簡易的な建立物に興味を持った私は見えない内側も確かめようと近寄ろうとすると、母に無言で引き止められた。その時の母の気色張った様相に、この場所で暮らす家のない人々は”近寄らざるべき人々”であり”場所”であり”社会であることをうっすらと理解した。

そのような記憶を留めたまま、大人になった私は街の角々で時折見かける彼らの姿に、違和感に近い興味を感じていた。禁止されればより気になるとはよく言ったものである

これがホームレスと呼ばれる人達への取材を行う我々への疑問に対する返答と呼ばれたら、もう少し先の取り組みに進んだ今の私達には少し合わないものではあるけれども、この事が漫然とした興味であったことは間違い無い。


ホームレスの人々と接する。

興味を持った以上、手始めに行ったのがインターネット検索だった。自宅からそう遠く離れた場所では無い所でこの問題に取り組む人がいるのか、まずはそんな事を知りたかっただけかもしれない。

検索結果は田舎ホームレス支援を小規模で行っているA氏を叩き出した。何も知らない私達であっても、その道の活動を行うA氏を通じてであれば、家を無くした人々から警戒される事もないだろう。

2017年12月24日。A氏は我々をホームレスの方々への食事支援する手伝いとして連れ出してくれた。その時出会った彼らこそが今も続けて会いに行く「おじさん」達である

初めて会う相手自己紹介をし、相手の紹介を受け徐々に打ち解けるというのがよくある関係の築き方ではあるけれど、ここでの流儀は少し異なる。「おじさん」達には、本名は明かす事による不都合や、ここに至った過去情報他人に明かしたくない気持ちを抱えた人々もいる。事情配慮して、汎用的な呼称である「おじさん」を使えば、我々も、「おじさん」も、気楽にお互いの話が出来るようになれる。

これはA氏に教えてもらった、家を持たない人々と交流する上での基本である。おじさん達からしたら新参者のどこの馬の骨とも解らない夫婦第一印象が「無礼者」であったとしたら完全にアウトだし、我々からしても本意ではない。おじさんたちの気持ちを慮ると過去に繋がる話を自分からはしない事が大切な事だった。

A氏はホームレス支援活動として、インスタント食品や保存が可能食材、周辺のパン屋農家にて余らしたものをおじさん達に届けていた。これらの活動不定期に、A氏の余裕がある時に行われているという事だった。

我々が同行したその時も、差し迫る暮の只中という事もあり更に冷え込む寒中に備え、厚手の靴下、年越し用の日本酒作業にも使える軍手等、僅かに豪華な届けものを揃えていた。

食材日用品仕分けし、一人ひとりにその品物を配り歩くと、おじさん達は丁重にお礼をいいながら受け取り、特に中身を気にする素振りもなく世間話を始めるのだった。


想定外だったホームレスの方々の姿。

A氏に案内を受け、「おじさん」達と交流を続けるうちに、どのひとも気さくなことに気づいた。

A氏からアドバイスにもあったのだが、おじさん達はよく話す。話の切り上げどころが全く無いと言った具合だ。全員の話を聞こうとすると一日作業になってしまう。

失礼ながら、ホームレスの人々は声なき人々、つまり無口な存在と思い込んでいた私の想像との違いに驚きつつ、そのまま導かれるように彼らの住まいに上がらせて貰うと、家、竈、物干し、食料等を自前で賄っていた。


(おじさん達の家の棚の写真

(おじさん達の竈の写真

(おじさん達の物干し台の写真


おじさん達は森や河川敷個人個人が住みよい場所を作り上げている事も気づきの一つであった。

ダンボール古布に佇む都会のホームレスの印象しかなかった私達には、おじさん達を今までの先入観にあったホームレスに括る事など出来ない。それほどまでの有機的な住むための場所が出来上がっていた。

突然現れた我々に当初の不安程は訝しげに思われる事もなかったのだけれども、逆におじさん達は我々が興味を持っている事に不思議がった。支援者としてのA氏のような人が現れる事はあっても、自分たちを題材として記事を書く為に訪問するような我々は物珍しかったようだ。

一人のおじさんが一台の自転車を見せてれた。そのやり取りが心に残ったのを今でも覚えている。

それはそれまでの日常では出会たことの無い感覚で、おじさん達との会話であったからこそ気付くことの出来た、当時の我々の中にあった先入観だった。


リユース偏見と。

自転車は誰しもが使える交通手段である。それはおじさん達にとっても同様で、荷を運び、移動したりと、色々と有用である。人から貰った自転車でも、不法投棄されてた自転車でも丁寧に手入れをし、慈しんでいる。

2台ある自転車のうちの1台はメンテナンス中ではあったものの、自転車の荷台にはプラスチックボックスが取り付けられ、雨に濡れることなく中にいれて物を運べる様になっている。フレームも塗り替えられ、綺麗に使い易くカスタマイズされていた。

おじさん達が不法投棄から見つけた物を使い勝手よく改造していた事に驚いていたのだが、それはそもそも我々の中に、ホームレスは所持品に対して綺麗さや使い勝手の工夫という要素とは無縁に違いないという偏見があることに気づかされた。誰であれ、自分が使うものは慈しみ、綺麗で使い良い方が自分も嬉しいはずなのに、その「誰でも」の中からおじさん達を除いていたのだ。私は恥じた。

このときは初回の訪問ということもあり、細かい生活状況やこれ以上の工夫について見ることはままならなかったのだが、この時のカスタマイズされた自転車を見た時のような発見は、それから以降もおじさん達を訪問するたびに様々な形で表れることとなる。


「家がない」ところから生活を維持する為の工夫」という基盤に対して工夫をするという事に気づいた私達。

興味から始まったと言って差し支えのないこのプロジェクトであるが、A氏を介して田舎河川敷で「ホームレス」という立場であれど、誰とも変わらず生活を営む為の術があることにきづき、

それまでの偏見先入観にあったイメージの「ホームレス」と彼らの姿には大きく差異があり、この時の驚きはそれからも続く彼らの生活への興味と、知りたい欲求と、取材を通して人に伝えたいという気持ちを強くしていった。

近寄った距離と、浮き彫りになる問題と。

車で一時間程でおじさん達の居住地に到着する。訪れるごとに違う世界がそこにあることに気づく。

おじさん達の暮らし時間に縛られることもなく、さながら毎日続くキャンプかのような日々を過ごしている。

ミニトマトが徐々に熟し始めている写真

勿論中には決まった時間に起き、食事を取り、外回りをして身なりを整え寝るというおじさんもいるだろう。

家があれば営まれるだろうそのよう生活に、基本的安心があることは否めない。


我々夫婦田舎河川敷ホームレスの人々を3年継続して取材を続けられているのは、この安心が得られないような状況で、人がどのようにこのような異世界とも呼べる限界生活という状況に折り合えばいいのか、どう生きれば日々を些かにでも楽しく過ごせるか、そしてどうやって状況を脱していくのかを共に考えていきたいという気持ちからだ。

我々がおじさん達のような路上生活をする事は今の所考えていない。今のテクノロジーに囲まれ生活を手放して自分を保てるような自信は、まだない。

出来たらそのような日が来なければいいと思っている。おじさん達だって本当だったら同じ気持ちだったはずなのだ

ただ、人生というのは何が起きるのか解らない。「今既に起きてしまったもの」を無かったことにするのは不可能だ。

その上で、家のない、おじさん達とともに過ごして得られた知見や工夫がどうにかして我々の生活普遍的で同じであるかという事を探していきたい。

取材を始める前に我々が抱いていたような偏見先入観を持った人々はきっと他にもたくさんいる。

今はお金があることによって支えられているこの生活は、病気や不運や失業や様々な事で覆される事があるかもしれない。家がないおじさん達は、お金のある安定と安心生活からは程遠い。

不遇とも思われる生活を営んではいるが、人を驚かせ、惹き付けるだけの力のある変わらない人間だ。


時折、ホームレスに対して心無い言葉を掛ける人がいる、

おじさん達と同じ立場の人には見知らぬ人に暴力を振るわれ、犠牲になる人々もいる。何故わたしはそんな事が起きるのだろうといつも不思議に思う。

取材を通して彼らを「見知らぬ街のホームレスから不定期に会う家のないおじさん達」に見るようになった私達は

彼らが異質な別の生き物ではなく、同じ人間生活する力を持つ、普通の人々であることにもっと目を向けてほしいと思った。

いま行っているこのプロジェクトと呼んだライフワークと今後の記事を通して、我々が彼らから学んだ世界を誰かに伝えることができたら幸いである。





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こちらの投稿ベースは昨日炎上したcakesの「ホームレスを3年間取材し続けたら、意外な一面にびっくりした」https://cakes.mu/posts/31615(筆者;ばぃちぃ)の記事を基にしたものとなります

筆者によるホームレスを魅力的なものとか過剰なまでの生活に対する華美な書き口が炎上の原因ではないかと仲間内でも話題になったのですが取り組みとしてはそんな批判を受けるようなものには思えませんでした。

これを描かれた筆者は更に若い中学生高校生が、社会偏見ホームレスという状態になられた方を悪く思わないように、もっと認識を高めて貰おうとあえて軽い書き口にされたのではないかなとか私は思うのです。

とはいえ配慮のない表現はどうなのとは思うのですが)

華美な要素(苦しい生活を魅力的と称する。覗き込む、警戒される、等異質のものと扱う表現、あえておじさんという呼称を修飾的に使うことにより、異質のものと分ける表現)を出来る限り排除して構成をほぼ変えずに再記述を行い、筆者の意図勝手に汲み取り想像で改変し加筆を行ってみました。

そうしたら(主観的には)そんなに不愉快でもない感じになりましたし、筆者の行っている活動賛同できました。

こんな増田の影からですが、ばぃちぃさん達を応援しています。頑張ってください。

私たちホームレスの人々を取材する理由 rewrite

私たちホームレスの人々を取材する理由

夫婦ホームレス取材をして3年ばかりの月日が経った。当初からその取材活動に疑問と懸念を投げかけてくる人々が跡を絶たない。考えてみれば当然だ。彼らが何故ホームレスという立場になったのか、百人百様の人生を得た末の今なのだろうが、想像するによい経緯は考えられない。世の中から忌避され、近づく行為奇行と捉える人がいても不思議ではない。

現在夫婦でこの取材に取り組んでいる私達ではあるが、このプロジェクトきっかけは妻である私の原体験が基となっている。

20年以上前新宿駅地下街は家を無くした人々のダンボールの手製の住処がひっそりとは呼べないと程の規模で一つの社会を為していた。

今では考えられないであろう。身銭を稼ぐためだろうか、駅のあちこちから拾い集めた古雑誌安値で売る者すらいた。

その日、幼い私は親に連れられそんな新宿駅まで来ていた。目に映ったのは、彼らの建てたダンボール小屋だった。秘密基地様相を持つそれらの簡易的な建立物に興味を持った私は見えない内側も確かめようと近寄ろうとすると、母に無言で引き止められた。その時の母の気色張った様相に、この場所で暮らす家のない人々は”近寄らざるべき人々”であり”場所”であり”社会”であった。

そのような記憶を留めたまま、大人になった私は街の角々で時折見かける彼らの姿に、違和感に近い興味を感じていた。禁止されればより気になるとはよく言ったものである

これがホームレスと呼ばれる人達への取材を行う我々への疑問に対する返答と呼ばれたら、もう少し先の取り組みに進んだ今の私達には少し合わないものではあるけれども、この事が漫然とした興味であったことは間違い無い。


ホームレスの人々と接する。

興味を持った以上、手始めに行ったのがインターネット検索だった。自宅からそう遠く離れた場所では無い所でこの問題に取り組む人がいるのか、まずはそんな事を知りたかっただけかもしれない。

検索結果は田舎ホームレス支援を小規模で行っているA氏を叩き出した。何も知らない私達であっても、その道の活動を行うA氏を通じてであれば、家を無くした人々から警戒される事もないだろう。

2017年12月24日。A氏は我々をホームレスの方々への食事支援する手伝いとして連れ出してくれた。その時出会った彼らこそが今も続けて会いに行く「おじさん」達である

初めて会う相手自己紹介をし、相手の紹介を受け徐々に打ち解けるというのがよくある関係の築き方ではあるけれど、ここでの流儀は少し異なる。「おじさん」達には、本名は明かす事による不都合や、ここに至った過去情報他人に明かしたくない気持ちを抱えた人々もいる。事情配慮して、汎用的な呼称である「おじさん」を使えば、我々も、「おじさん」も、気楽にお互いの話が出来るようになれる。

これはA氏に教えてもらった、家を持たない人々と交流する上での基本である。おじさん達からしたら新参者のどこの馬の骨とも解らない夫婦第一印象が「無礼者」であったとしたら完全にアウトだし、我々からしても本意ではない。おじさんたちの気持ちを慮ると過去に繋がる話を自分からはしない事が大切な事だった。

A氏はホームレス支援活動として、インスタント食品や保存が可能食材、周辺のパン屋農家にて余らしたものをおじさん達に届けていた。これらの活動不定期に、A氏の余裕がある時に行われているという事だった。

我々が同行したその時も、差し迫る暮の只中という事もあり更に冷え込む寒中に備え、厚手の靴下、年越し用の日本酒作業にも使える軍手等、僅かに豪華な届けものをを揃えていた。

食材日用品仕分けし、一人ひとりにその品物を配り歩くと、おじさん達は丁重にお礼をいいながら受け取り、特に中身を気にする素振りもなく世間話を始めるのだった。


想定外だったホームレスの方々の姿。

A氏に案内を受け、「おじさん」達と交流を続けるうちに、どのひとも気さくなことに気づいた。

A氏からアドバイスにもあったのだが、おじさん達はよく話す。話の切り上げどころが全く無いと言った具合だ。全員の話を聞こうとすると一日作業になってしまう。

失礼ながら、ホームレスの人々は声なき人々、つまり無口な存在と思い込んでいた私の想像との違いに驚きつつ、そのまま導かれるように彼らの住まいに上がらせて貰うと、家、竈、物干し、食料等を自前で賄っていた。

(家の写真3枚)

おじさん達は森や河川敷個人個人が住みよい場所を作り上げている事も気づきの一つであった。

ダンボール古布に佇む都会のホームレスの印象しかなかった私達には、おじさん達を今までの先入観にあったホームレスに括る事など出来ない。それほどまでの有機的な住むための場所が出来上がっていた。

突然現れた我々に当初の不安程は訝しげに思われる事もなかったのだけれども、逆におじさん達は我々が興味を持っている事に不思議がった。支援者としてのA氏のような人が現れる事はあっても、自分たちを題材として記事を書く為に訪問するような我々は物珍しかったようだ。

一人のおじさんが一台の自転車を見せてれた。そのやり取りが心に残ったのを今でも覚えている。

それはそれまでの日常では出会たことの無い感覚で、おじさん達との会話であったからこそ気付くことの出来た、当時の我々の中にあった先入観だった。


リユース偏見と。

自転車は誰しもが使える交通手段である。それはおじさん達にとっても同様で、荷を運び、移動したりと、色々と有用である。人から貰った自転車でも、不法投棄されてた自転車でも丁寧に手入れをし、慈しんでいる。

2台ある自転車のうちの1台はメンテナンス中ではあったものの、自転車の荷台にはプラスチックボックスが取り付けられ、雨に濡れることなく中にいれて物を運べる様になっている。フレームも塗り替えられ、綺麗に使い易くカスタマイズされていた。

おじさん達が不法投棄から見つけた物を使い勝手よく改造していた事に驚いていたのだが、それはそもそも我々の中に、ホームレスは所持品に対して綺麗さや使い勝手の工夫という要素とは無縁に違いないという偏見があることに気づかされた。誰であれ、自分が使うものは慈しみ、綺麗で使い良い方が自分も嬉しいはずなのに、その「誰でも」の中からおじさん達を除いていたのだ。私は恥じた。

このときは初回の訪問ということもあり、細かい生活状況やこれ以上の工夫について見ることはままならなかったのだが、この時のカスタマイズされた自転車を見た時のような発見は、それから以降もおじさん達を訪問するたびに様々な形で表れることとなる。


「家がない」ところから生活を維持する為の工夫」という基盤に対して工夫をするという事に気づいた私達。

興味から始まったと言って差し支えのないこのプロジェクトであるが、A氏を介して田舎河川敷で「ホームレス」という立場であれど、誰とも変わらず生活を営む為の術があることにきづき、

それまでの偏見先入観にあったイメージの「ホームレス」と彼らの姿には大きく差異があり、この時の驚きはそれからも続く彼らの生活への興味と、知りたい欲求と、取材を通して人に伝えたいという気持ちを強くしていった。

近寄った距離と、浮き彫りになる問題と。

車で一時間程でおじさん達の居住地に到着する。訪れるごとに違う世界がそこにあることに気づく。

おじさん達の暮らし時間に縛られることもなく、さながら毎日続くキャンプかのような日々を過ごしている。

トマト写真

勿論中には決まった時間に起き、食事を取り、外回りをして身なりを整え寝るというおじさんもいるだろう。

家があれば営まれるだろうそのよう生活に、基本的安心があることは否めない。


我々夫婦田舎河川敷ホームレスの人々3年継続して取材して続けられているのには、この安心が得られない時に人がどのようにこのような異世界とも呼べる限界生活という状況に折り合えばいいのか、どう生きれば日々を些かにでも楽しく過ごせるか、そしてどうやって状況を脱していくのかを共に考えていきたいという気持ちからだ。

我々がおじさん達のような路上生活をする事は今の所考えていない。今のテクノロジーに囲まれ生活を手放して自分を保てるような自信は、まだない。

出来たらそのような日が来なければいいと思っている。おじさん達だって本当だったら同じ気持ちだったはずなのだ

ただ、人生というのは何が起きるのか解らない。「今既に起きてしまったもの」を無かったことにするのは不可能だ。

その上で、家のない、おじさん達とともに過ごして得られた知見や工夫がどうにかして我々の生活普遍的で同じであるかという事を探していきたい。

取材を始める前に我々が抱いていたような偏見先入観を持った人々はきっと他にもたくさんいる。

今はお金があることによって支えられているこの生活は、病気や不運や失業や様々な事で覆される事があるかもしれない。家がないおじさん達は、お金のある安定と安心生活からは程遠い。

不遇とも思われる生活を営んではいるが、人を驚かせ惹き付けるだけの力のある変わらない人間だ。

時折、ホームレスに対して心無い言葉を掛ける人がいる、

暴力を振るわれ、犠牲になる人々もいる。何故わたしはそんな事が起きるのだろうといつも不思議に思う。

取材を通して彼らを「見知らぬ街のホームレスから不定期に会う家のないおじさん達」に見るようになった私達は

彼らが異質な別の生き物ではなく、同じ人間生活する力を持つ、普通の人々である

いま行っているこのプロジェクトと呼んだライフワークと今後の記事を通して、我々が彼らから学んだ世界を誰かに伝えることができたら幸いである。





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こちらの投稿ベースは昨日炎上したcakesの「ホームレスを3年間取材し続けたら、意外な一面にびっくりした」https://cakes.mu/posts/31615(筆者;ばぃちぃ)の記事を基にしたものとなります

筆者によるホームレスを魅力的なものとか過剰なまでの生活に対する華美な書き口が炎上の原因ではないかと仲間内でも話題になったのですが取り組みとしてはそんな批判を受けるようなものには思えませんでした。

これを描かれた筆者は更に若い中学生高校生が、社会偏見ホームレスという状態になられた方を悪く思わないように、もっと認識を高めて貰おうとあえて軽い書き口にされたのではないかなとか私は思うのです。

とはいえ配慮のない表現はどうなのとは思うのですが)

華美な要素(苦しい生活を魅力的と称する。覗き込む、警戒される、等異質のものと扱う表現、あえておじさんという呼称を修飾的に使うことにより、異質のものと分ける表現)を出来る限り排除して構成をほぼ変えずに再記述を行い、筆者の意図勝手に汲み取り想像で改変し加筆を行ってみました。

そうしたら(主観的には)そんなに不愉快でもない感じになりましたし、筆者の行っている活動賛同できました。

こんな増田の影からですが、ばぃちぃさん達を応援しています。頑張ってください。

2020-09-18

追記 居心地の良いコミュニティ運営方法って

追記

「無関心」「みんな違ってどうでもいい精神」的なのはから思うが、関心の強い人全くない人いろいろで難しいね。育った文化の違いなんだろうか。多様性教育で変わるんかね。まさに、変人のAさんをそれを躍起になって正そうとするBさんという2人が今の悩みの種。

「互いに萎縮せずギスギスしない人間関係」が個人的目標の一つで、欲を言えば「互いに尊重し合える」をつけられたらこの上ない至福かなと思う。仕事やすいし、気苦労がなくて楽しいしね。

まあ寛容でありたいおおらかでありたい和やかでありたいと思うあまりコミュニティに害をなす奴に不寛容になり始めてしまパラドクスはある。難しい。

リベラリストの多い?はてなで「均一な人間を集める」「家柄と学歴」と沢山出てきて結構ショックだった。文化ごった煮コミュニティとか論外なん……?ってか教育格差肯定するのって結構勇気いらない?「DQNのガキは公立小にぶち込んでおけ。檻に入れときゃいいんだ。」的なこと言うじゃん……。いろんな人と関わる能力を身につけるの大事じゃない?

1つ言わせて頂きます階級意識選民思想子供絶対植え付けないほうがいいですよ……。将来的には子供がその価値観に縛られて苦しむことになりますよ……。都内公立小の現状は存じ上げないので何ともいえませんけど、子供オープンマインド大人が歪めるのは支配的すぎると思います……。

(追記終わり)

小学校なんかだとさ、「みんな仲良く」とか「やさしくなろう」とかでテキトーぬかすけどさ、あれ効果全くないじゃん

ませた馬鹿なガキとか「どうして仲良くしなくちゃいけないんですか〜w」とかいうだけじゃん

でもさ、馬鹿なガキにも底辺いじめられっ子にも居心地の良い学級はメンタルに良い影響を及ぼすわけじゃん

いじめっ子なんかは、居心地の悪いクラスお山の大将して子供特有の全能感を振りかざす方が平和で居心地の良い諍いの少ない学級より楽しいかもしれないけどさ

いじめる側になっていた」っていう事実がその先の人生に及ぼす悪影響ってでかいと思うよ

悪口なんか言った側のほうが首締まるものじゃん

あいじめっ子にそんなこと生涯理解できないかもしれないけどさ

ともあれ、いじめリーダー格になるような極々一部の逸脱者を除いてさ、普通の人々は居心地の良い学級の方がいいわけじゃん

「なんとなく平和でそこそこ居心地の良いコミュニティを作るために、各人が労力を払う」払える能力ってその先の人生でもめちゃくちゃ役に立つと思うんだよな

から学生のうちに身につけられたらいいと思うし、大人になってからも強化していきたいじゃん

よく(まれに)あるのが、気配り上手なムードメーカーが引っ張ってくれていい感じになるケースだよな

あいう気の利く善良な人がゴロゴロいりゃあいいんだけど、あれは完全に才能だよな

子どもの頃、担任で学級運営うまいなと思ったのは、落ちこぼれにみんなの前でこまめに声かけて愛されキャラに仕立て上げる先生。「〇〇はまた寝てるのかあ」「△△は仕方ないなあ」といった調子で。無論これも下手なやつがやったら最悪の結果が目に見えてるやり方だが上手いなと思った

影の薄い人間リーダー格がこまめに声をかける、ってのはハマれば強いのな。でもやはり「あっオタクくんも笑ってるよ」になりそうで怖い

地味ながら尊敬するのは、「〇〇ちゃん癒し〜」とちょっと浮いてるやつを可愛がる女子だよな

あいうのが一人いるだけで集団が随分和やかになる

仕事先で参考にしてるのは、Aさん、Bさんといちいち名前を呼びながら話を振る奴。コミュニケーションの場で満遍なく話を振ってくれるやつがいると、全員がコミュニティに参加できる。円滑なコミュニケーションって業務効率にめちゃくちゃ影響する。ヤバイ。うちの部署にもいて欲しい。

きちんとしたビジネス関係だとその程度の気配りでも上手くいくけど、底辺の集いだとなかなか難しい。昔いたバイト先はセクハラオヤジ店長大学生いじめる中卒フリーターDQNと手癖の悪いパートのおばさんみたいな地獄で、ああい集団はどうやれば上手くいくのか不明すぎる。

そこは奇跡的にも可愛い女子大生の登場で、DQNが惚れ込んで公正、おばさんが世話を焼き出し店長セクハラから女子大生を守り、と上手く回り出しだが、俺の手ではどうにもできなかった。

俺は雰囲気のいいコミュニティが好きだから結構研究しつつ尽力してるわけだけど、腹が立つのはそういう人の努力を水の泡にするためかのように自分自分好き嫌い露骨に表に出すやつだよな。雰囲気ぶち壊し。あと悪口の多いやつ。

愚痴らないとやってられないわ〜じゃなくて、愚痴愚痴言うのはいいか他所でやれよとイラッとしてしまう。いい歳してそれってどうなんだよ。もう少し環境を整える努力をしてくれたっていいじゃないか……

俺はただ仲良く平和にやりたいだけなのにさ、なかなか上手くいかないよなあ。「仲良くしましょう」じゃなくて仲良くする方法を教えてほしいわ。B君を迫害し始めてるA君をどうやって諌めたらいいの?とか、マウンティングがヤバくて浮き始めてるCちゃんをどうやって繋ぎ止めたらいいの?とか、性格が最悪のD君がリーダーになり始めてて暴走しそうな学級をどうやって止めたらいいの?とか、仕事の失敗をEさんのせいにして恨むFさんを宥めて2人の中を良好にする方法とかさあ

まあなんだ、みんな仲良くやろうぜ……

疲れた

2020-09-03

ループする話題たち

そろそろみんなも普通の人々の関心事の有限性に気づいてもよさそうなものだが?

2020-09-01

表現規制派はなぜ自分達の意見公的要請勘違いしているんだろう?

ちょっと世の中見てみれば分かるけど、世の中の大多数はオタク相手にした表現規制について”どうでも良い派”だよ?

普通の人々”は別に君たちみたいな積極的表現規制派ではないんだよ?

それを考えたら、表現規制派の要請は公から要請と呼べる程の価値はないし、おそらくだが単純な勢力でいえば彼らはオタクよりも劣るノイジーマイノリティに過ぎないんだよね。

表現規制派の描く『オタクVS一般人』という構図の誤り

よく表現規制派はオタクを叩くときに、オタク一般人に見たくもない性的表現を見せて加害している! といった主張をすることで『少数のオタクVS大多数の一般人』という構図を描き、多くの人々が社会的要請として表現規制を望んでいるのだから少数のオタク公共のために当然折れるべきだ、という形で自分たちの考えを通そうとする。

しかし、これは極めて恣意的なモノの見方だろう。

大多数の一般人オタク表現についてどう考えているかといったら、それは「どーでもいい」の一言に尽きるだろう。

ネットのお仲間ではなく、自分家族や同僚、友人に積極的表現規制を望んでいる人がどれだけいるだろうか?

おそらくそんな人はほとんどいない、仮にいたとしても少数なのではないだろうか?

所謂、”普通の人々”はそもそもオタクがどんな表現をしようが興味がないし、たまたま嫌な表現を見かけたとしても余程の酷いモノが頻繁に視界に入ってくるような場合でもなければ、そこはそういう表現がある場所理解して自分から離れていく。

普通の人々”の多くは無関心と表裏一体の懐の深さを持ち合わせているものだ。

しかし、表現規制派は自分意見を押し通すために、一般人の考えを歪めて自分たち見方であるかのように主張する。

大多数のどーてもいい派を差し引いて、フェアな視点で『表現規制反対派VS表現規制賛成派』で考えた場合果たしてどちらの方が人数が多いだろう?

昨今のオタク文化の台頭、オタク人口の増加を思えば、反対派は相当な数になるのは間違いない。オタク表現に興味はなくても表現規制のものに反対意見を持つ人だっているハズだ。

それに勝るだけの人数が表現規制賛成派にはいるのだろうか?

もちろん数が全てとするのは暴論だろう。

ただ、表現の自由に制限をかけようとするのならば、それが公共利益のための社会的要請であると示すために、やはり賛同者の数は大切になってくる。

ネットの片隅で声高に表現規制を叫ぶ人たちには、もう少しこのあたりの現実を見てほしいと思う。

2020-08-13

規制派VS反規制派だと、 たいてい規制派の方が頭おかし

世の中の大多数である普通の人々”は自分に実害がないなら、それを楽しんでいる人や、それで食って行っている人がいるようなモノを積極的に潰そうなんて考えないからな。

それに、少数のモンスタークレーマー圧力ではなくて、社会的合意の取れている本当に必要規制は、なんだかんだ言っても社会空気でそれなりに良い塩梅規制が定まっていくし。

過激な論戦をふっかけないといけないような時点で、その規制論は”みんな”に望まれものじゃあないんだよ。

例外と言えるのは、反規制派が権力サイドの場合くらいかな。

その場合は世の中からまれている規制を、少数が権力の力尽くでつっぱねている場合があるし。

2020-07-24

anond:20200724121221

協調運動障害ってこういう感じで普通の人々から貶され続けるのがキツい。

字が汚かったり箸の持ち方おかしかったり歩き方が妙だったり色々自覚はあるんだけど別に迷惑かけてないのに不快にならないで欲しい。

2020-07-06

小池百合子に清き一票を投じてしまう「普通の人々」はどこにいるのか 『百田尚樹現象』との奇妙な共通点 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン

https://president.jp/articles/-/36834

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/president.jp/articles/-/36834

サヨク憎しで見出ししか読まず脊髄反射してるブコメが目につく。実際はそいつらが壊れたレコードみたいに日々繰り返す「そんなこと言ってるからお前らは勝てないんだよ」のお上バージョンなのに。そいつらにおもねったつもりだったろう著者はご愁傷さま。

だが、邪悪でろくでもない候補投票して当選させた有権者なんて良く言ってネズミ講被害者加害者みたいなもので、そんな奴らに「けしからん」とも「悪事に加担してますよ」とも言わずにお追従のご機嫌取りだけして事態改善するなんて、至難の業ではないかしかも連中、「俺たち多数派のやってることにケチつけんな」とか「ネズミ講が悪いなんて誰が決めたんですか」とか言ってくるくらいには倫理的問題を抱えているわけで……いや、だからこそ、真っ向から叱っても指摘しても反発されるだけだろうという推測も成り立ってしまうわけだけど)。

2020-06-26

オタクはすごい

普通の人々は好きなものさえ疑いの眼差しを向ける。

「なんの役に立つのか」

「世の中では人気がないみたいだ」

悪趣味だと思われたらどうしよう」

こんな具合に自分の好きじゃなく世間体で考える。

そんなものは本当の好きではないんだ。

一方、オタク自分の好きを疑ったりはしない。

オタクは過ぎたことを振り返らないし、また躊躇わない。

過去でもなく現在でもなく、ただ一心未来だけを見据えているから、それができるんだ。

好きであることを疑わないことがオタクの最大の強みだ。

それをそんじょそこら新興宗教などの安っぽい信仰などと一緒にしてはいけない。

信仰じゃなくて信念があるからできるところだ。

いから生ずる一切合切の躊躇を断ち切るのは信念の力だ。

なんら好きを持たない人々には信仰と信念の違いが分からず、簡単オタクを蔑む。

だが、オタクはそんなことでめげたりしない。

そこがまた、オタクのすごいところだ。

高い次元の戦いでは、一瞬の躊躇の差が明暗を分けることも多々ある。

そうした意味では上を目指すなら、オタクでなければ論外と言っても過言でない。

普通の人々もっとオタクからモチベーションアップの方法を学ぶべきだ。

冷静に考えてみるとオタク知識義務教育になってないのがおかしいぐらいだ。

ジャンルを問わずあらゆす分野の競争でなにより大切なのがモチベーションの有無だ。

世間平等などと綺麗事を言うが競争社会ますます激しくなる一方だ。

今の義務教育には見直す余地が十分にある。

ハッキリ言ってしまえば、オタク知識比較して学ぶ価値のない科目はいくらでもある。

いや、極論だがモチベーションさえ身につけることができれば他の科目は全部不必要とすら言えよう。

だがオタク知識義務教育でないこともまたオタクのすごさを物語る。

かに強制されたんじゃなく、自発的に正しい答えを見つけ出したというのもオタクのすごさのひとつだ。

オタクのすごさとは、言い換えると本質を見抜く鋭い洞察力のようなものなのかもしれない。

オタクのすごさを昔から知っていたインターネットベテランユーザーは、なにを周回遅れのことを言っているのか、と思われるかもしれない。

だがインターネットが普及したのと同時に、半ば化石化した古い世代がここでもまた大きな顔をし始めた。

からオタクのすごさを強調して強調しすぎるということはない。

オタクのすごさをわざわざ説明されねば理解できないのなら、こうした手段を取らざるを得ない。

結論オタクはすごい。

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