はてなキーワード: 安全保障とは
もちろん読んでるけど、それはおれのコメントのどこに関係してくるんだろうか。
ちなみに元増田の言う通り、欧州の原発の一部はすでに需要ベースの出力制御を始めてるけど、出力調整でコスト割れ〜マイナス価格での売電量を抑えることはできても、「再エネに対して多くの時間帯でメリットオーダーで劣位」という根本問題は解決できていない。
電力自由化が「祟り神」かどうかはともかく、電力自由取引市場が導入された国や地域では割高な発電コストが原発に引導を渡す、というのは元増田の言う通りで、ほぼ確定した流れ。エネルギー安全保障という曖昧な名目のために再エネより割高な電力を買ってくれる消費者や需要家はいないし、事業者だって原発が儲からないビジネスなら手を出さない。
考えをまとめるために書いているので長くなってしまった。
投資マネーが再エネに集まり、既存電源に行かない状況が続いている模様。
再生可能エネルギーは、施設の製造・建設・設置、さらに運営のノウハウが溜まってきて再エネが安定した投資先と見做されてきており、潤沢な資金供給が続いている。
例えば、利回りなども、再エネ設備の耐用年数を従来は20年などで計算していた。これは公的補助が20年だったと言う前提だが、次々と公的補助が終了した結果、耐用年数を30年以上で計算するところが増えていて、それらをミックスした投資商品が登場、安定した資金調達に繋がっているようだ。
一方で、相対的に既存電源に対する投資が減っている。欧州でもエネルギー安全保障の観点から、イギリス、フランスなどで原発の新規計画が出てる。
今時、国の金だけでやると言う計画をイギリスが建てるはずも無く、資金を募集しているのだが、全然投資が集まらなくてかなり苦戦している。
これとは別の話として、エネルギー安全保障の観点だと言っているのに、当初目論みの建設費で手を上げたのが中国企業(中国"系"ですらない、中国の国営企業)しかないと言う状況で、これだとまずいと言う事で、新規設置の原発が生み出す電力の買取保証価格をつり上げたところ、なんと再生可能エネルギーの2倍から3倍の価格になってしまって問題化している。
エネルギーの安定供給・安全保障の観点という点では色々な電源をミックスするのは当然で、そういう点では単価の高い電力が混ざっても仕方が無い。
が、その国のエネルギー価格は、その国の国際競争力に直結する。製造業はもちろんのこと、ITのデータセンターの立地、研究施設の立地など情報系にも影響してくる。
国策である程度電力価格をコントロールできるからと言って、上げれば今度は国際投資が逃げていくということで、苦しい状況が続いている。
欧州と言うより主にフランスでの問題なのだが、フランスは原子力発電所で発電した電力を他の国に売ると言うビジネスを行っていた。
ところが、再生可能エネルギーが市場を荒らすようになってしまったため、もくろみが崩れてしまって採算性が悪化している。
既存電源と再生可能エネルギーの違いは何かと言うと、限界費用が全く違う。再生可能エネルギーは、燃料費がないと言うところが大きくて、0円以上で売却できれば利益になる。というか、勝手に発電されるので止める意味が無い。
そのため、他の電源では燃料費が上回って赤字になるケースでも電力を市場に流す事ができる。そんなものと価格競争しても意味が無いので、例えば火力発電所は再エネの供給が大きくなったら発電を止めて、採算より高くなったら稼働すると言う事を行っている。
特にLNGのガスタービンは即応性が高いため、再生可能エネルギーに追従して運転をするのに適している様だ。
一方、そんな器用なことができない電源がある。
それが原発。
原発は燃料を燃やしているにもかかわらず、再生可能エネルギーと似たような性質を持っている。発電を始めたら勝手に発電されるので止められない、出力調整が難しい、燃料費に比べて設備費・初期投資の割合が大きいといったことだ。
そのため思いっきり市場を食い合っている。再エネがピークで安い時は下手するとマイナスの金額(つまり、売買に関わる諸経費を発電側が持つというようなもの)で売却される電力に対して経済面で追従を迫られる。
それでも、再エネが担う割合が低いころは、それ以外の時間帯で収益を出すことが可能だった。しかし、段々と再エネだけで賄える時間帯が増えてしまい採算性が悪化しているのである。
また、原子力発電所など大規模電源は30年以上の耐用年数を見込んで採算が取れるように投資商品にするのが一般的で、原発の場合は40年以上も当たり前だ。その間当然リスクを見込んでるんだけど、変化が急激すぎてそのリスク範囲を超えてしまっていている模様。
これは時限爆弾みたいなもので、実はちょっとヤバいと思われる。
電源関係の投資ってかなり安定的な投資と見做されてる影響で、年金など公共性の高い投資商品に基礎的なものとして組み込まれていることが多く、吹っ飛んだら電力関係だけじゃ済まないと思われる。
そしてここが不安定なので、従来型の大規模電源開発に投資が集まらない状況が続いている。
環境 テロリスト 団体はESG投資の結果だとか宣伝するし、それに呼応するように原発 村の盲信者 関係者が陰謀論じみたことを言ってるけど、実際には経済的なリスクが大きい一方で、利益が少ないことが要因だと思われる。
もはや後戻りができないぐらい進んでしまっている。この流れは止まらないだろう。
ただ、各種のデータを見ると本当にこれで電力の安定性大丈夫なの?と心配になるんだが、進んでいる源が経済という祟り神なので止めらんない。すると安定化する方法はそれに対応する電源開発なり大規模蓄電なり水素・アンモニア製造するなりしかないと思われる。
実は、原子力発電所も、負荷変動に柔軟に対応するようなものは設計可能らしく、そういったものが出てくる可能性はある。が、投資基準は再生可能エネルギーに対してになるので、それより優位なものが作れるかはわからない。
日本は電力の自由市場の中にはいないので、急激な変革に巻き込まれてはいない。
また電力価格の決定が統括原価方式なので、例えば発電所を30年使うと設定して投資した場合、原則的に建設費などの初動費は30年間固定されて電力価格に転嫁することが認められている。
ある意味、再生可能エネルギーの固定価格買取制度によく似ているが、そちらとの違いは、稼働していない発電所の維持費も電力価格に転嫁できる仕組みであるということ。
例えば原子力発電所で再稼働出来てない発電所は多くあるが、発電して無くてもそれらの費用は電力価格に乗ってきているし、原発が稼働してない分だけ維持している旧式の火力の維持費なども当然ここに乗っかってくる。
これによって電力価格の上昇を抑え、安定化すると言う効果があるのだが、ここ15年ぐらいの急激な環境変化に対応できなくなってきているのも否めない。
ただ、制度を続けていけば、急激な市場の変化は発生しないと思われる
と、国内だけを見てればいいのだが。
既に書いたが、その国のエネルギーコストは、その国の競争力に直結する。国際競争に晒されている今、エネルギーコストが高いと企業立地などを逃すことになるので投資が集まらなくなる。
直近の動きでは原発を再稼働させようという取り組みが継続して行われている。
原発は燃料費よりも建設費・維持費がかかる。それらは再稼働しなくても電力料金に乗っかってる一方で、それに加えて燃料費の割合の大きい旧式火力を回さなければならない。これが電力料金を上げる要因になっているのは確かだ。
だから短期的には原発を再稼働させるということはあっているのだけれど、長期的に見ると、ライバルになり得る欧州が再生可能エネルギーという安いエネルギー源を苦しみながらも獲得しつつあると言う事には追従出来ていない。
さらに、欧州は環境対応を大義名分に、自分たちの有利な点を伸ばすような、再エネを使った製品では無いと追加の関税を課して保護政策を実行してくるのも間違い無い。自由貿易どこいったって思うが仕方が無い。
環境問題への対応はもちろんしていく必要があるが、今一度、エネルギーコストをどうやって下げていくのかと言う基本に立ち戻って電源の選択を考える時に来ていると思う。
その点では、洋上風力発電を巡る汚職が痛かった。かなり安い入札が行われていたのに、なんだかんだと理由を付けて不可とした。
その結果、国内の商社と組んでいた海外の電源開発会社が投資を引き上げちゃったんだよな。
せめてそういうことは二度と無いようにしたい。
女性フェミニストはしばしば「なぜ男の事情まで配慮しろと言われなきゃならないのか」とおっしゃる。しかし小児や障害者への配慮には前向きだ。女性が小児や障害者(児童)への関わりが多いのは家父長制社会のせいでしょう?かといって五才の男児の行為を「性加害」と呼ぶのも正気とは思えない
フェミニズムは性による不平等を人権を抑圧された側から分析する学問に過ぎない。これを利用して不平等を撤廃するすることはフェミニズムの目的だが、
②フェミニズムと本来関係ない分野にフェミニズム文法を持ち込むことは事態をややこしくしているだけだ
①は簡単に言うとミサンドリーへの堕落であり差別意識の隠れ蓑だ。②は痴漢を始めとする性暴力の分野に顕著だが、実はフェミニズム文法よりも防犯と安全保障のテーマとして扱ったほうがよっぽど実効性が高い。本当に性被害者のことを思うならフェミニズムと手を切った方がいい
フェミニズムの本丸は性平等であり女性の地位向上だから、学歴や家事労働にはびこる家父長制的価値観の打破と平均収入の向上が最優先課題である
従ってフェミニストは「女性はもっと勉強と出世に頑張れ」と言うべきだがそれだとそっぽを向かれてしまうんだよね
そこで女性が直面する「わかりやすい」事案は性暴力なので、フェミニズムのアピールのためこの「人気コンテンツ」を推しているのが真相だ。防犯マニアになった方が直接的で効果的なのに、オタクの奨めじゃかっこ悪いからね
フェミニズムはすべての女性と男性に必要な人権についての考え方だ。しかしフェミニストが女性への利益誘導の政治の道具としてしまっていることが、本来の目的である性平等の達成すなわち女性の地位向上を遠ざけてしまっている。上野千鶴子氏のような政治活動家の取ってきた戦術の負の側面だよ
元々は暇空氏が書いた安全保障に関する記事を堀口がtwitterでコキ下ろしたのが始まりで(このとき暇空氏は軍事界隈全体に威嚇行為みたいな行動してて、堀口以外は最終的に暇空氏と距離取った)、
そこから堀口自身は暇空氏に積極的に喧嘩売って、暇空氏もやり返したりしての喧嘩を繰り返して今に至る。
*暇空氏がなんで軍事界隈に威嚇行為したのかといえば、おぼろげな記憶だが軍事界隈って左翼っぽくね?と暇空氏が思ってそれを確認するために挑発行為であぶり出そうとした、みたいな動機だったはず。
左翼っぽい、と思った理由は東野篤子氏が書いた記事が原因だった記憶。
このとき既に共産党と強いつながりのあるColaboとかみたいなことを言っていたので敵となる界隈を識別しようとしたんだと思うが。
軍事界隈自体は特に政治思想傾向ないと思うが、東野篤子の支持者には確かに左翼っぽい奴が混じってた。
おかしくねえか??
俺は毎日毎日Eテレを見ているので、そんじょそこらの大人よりはSDGsに詳しいつもりだ。
1:貧困をなくそう (英: No Poverty)「あらゆる場所のあらゆる形態の貧困を終わらせる」
2: 飢餓をゼロに (英: Zero Hunger)「飢餓を終わらせ、食料安全保障及び栄養改善を実現し、持続可能な農業を促進する」
3:すべての人に健康と福祉を (英: Good Health and Well-Being)「あらゆる年齢のすべての人々の健康的な生活を確保し、福祉を促進する」
4: 質の高い教育をみんなに (英: Quality Education)「すべての人々へ包摂的かつ公正な質の高い教育を提供し、生涯学習の機会を促進する」
5: ジェンダー平等を実現しよう (英: Gender Equality)「ジェンダー平等を達成し、すべての女性及び女児の能力強化を行う」
6: 安全な水とトイレを世界中に (英: Clean Water and Sanitation)「すべての人々の水と衛生の利用可能性と持続可能な管理を確保する」
7: エネルギーをみんなに、そしてクリーンに (英: Affordable and Clean Energy)「すべての人々の、安価かつ信頼できる持続可能な近代的エネルギーへのアクセスを確保する」
8: 働きがいも経済成長も (英: Decent Work and Economic Growth)「包摂的かつ持続可能な経済成長及びすべての人々の完全かつ生産的な雇用と働きがいのある人間らしい雇用を促進する」
9: 産業と技術革新の基盤をつくろう (英: Industry, Innovation and Infrastructure)「強靱なインフラ構築、包摂的かつ持続可能な産業化の促進及び技術革新の推進を図る」
10: 人や国の不平等をなくそう (英: Reduced Inequalities)「各国内及び各国間の不平等を是正する」
11: 住み続けられるまちづくりを (英: Sustainable Cities and Communities)「包摂的で安全かつ強靱で持続可能な都市及び人間居住を実現する」
12: つくる責任 つかう責任 (英: Responsible Consumption and Production)「持続可能な生産消費形態を確保する」
13: 気候変動に具体的な対策を (英: Climate Action)「気候変動及びその影響を軽減するための緊急対策を講じる」[注釈 2]
14: 海の豊かさを守ろう (英: Life Below Water)「持続可能な開発のために海洋・海洋資源を保全し、持続可能な形で利用する」
15: 陸の豊かさも守ろう (英: Life on Land)「陸域生態系の保護、回復、持続可能な利用の推進、持続可能な森林の経営、砂漠化への対処、ならびに土地の劣化の阻止・回復及び生物多様性の損失を阻止する」
16: 平和と公正をすべての人に (英: Peace, Justice and Strong Institutions)「持続可能な開発のための平和で包摂的な社会を促進し、すべての人々に司法へのアクセスを提供し、あらゆるレベルにおいて効果的で説明責任のある包摂的な制度を構築する」
お前らもSDGsが何の略蚊くらいは知ってるだろうと思うが、(S)ustainable (D)evelopment (G)oal(s) すなわち持続可能な開発目標と言ってるものだ。
俺の理解するところ、持続可能性、というのは、究極のとこ地球のリソースは有限に決まっているのだから、それを使い潰さず、人類が恒久的に存続し発展していける可能性を残している状態ということだ。
俺はその究極目標は気に入っている。人類が無限の未来までその足跡を残せるよう、俺たちは最大限努力すべきだろう。それが先祖と子孫と、人類が見つけてきたすべての叡智のために、現在の我々ができることだ。
6、7、8、9、11、12、13、14、15あたりはわかる。
公衆衛生、エネルギー持続性、経済と雇用、産業と都市のインフラ、マテリアルリサイクル、気候変動対策、生物多様性……
1、2、3、10、16もまあわかる。貧困だの飢餓だのを放っておくと人間が死ぬし、社会がある程度公正でないと戦争が起きたりする。
俺が意味わからんと思うのは、4と5だ。高い教育とジェンダー平等だ。これが人類の持続可能性に資するかどうか、まだ誰もわからなくないか?
いやもろちん、高い教育、ジェンダー平等、まことに結構だ。やったら良い。より良い社会のために、是非とも必要なことだ。
だがこれ、持続可能な開発目標か??こいつら無理やりねじ込まれてないか??
もちろんすべての目標は未だ人類社会で達成されてないことばかりだが、それにしたって、この4と5が持続可能な社会を作れるかは不明すぎやしないか?
(おまけ)
また、正直なところ、俺は特にジェンダー問題については、このままやって本当に大丈夫か?と思ってもいる。
率直に言って、ここまでの人類の存続は、男女の役割という苛烈な人権制限の上に成り立ってるんじゃないだろうか?
特に女だ。狩猟の時代が終わって男の肉体の役割はずいぶんマシになったと言えるだろうが、女の肉体は相変わらずとんでもない無理をして次の世代を作っている。
こんな状況では、ジェンダー平等なんてのは土台無理な話なんではないかと思っている。
何万年前と同じように、俺たちは女たちの本能に期待する以外に種としての持続可能性を持っていない。
ジェンダー平等が達成された世界で、古い男女の役割(女の役割)をやってくれる人間たちだけで人類を持続させられるのだろうか?
日本がラストチャンスとばかりに開始した「日の丸半導体」ラピダスに多大な公費が追加されていることが話題を集めている今日この頃。
心無い専門家たちからは必ず失敗するだの金ドブだの批判殺到中だが、本当に日本(経済産業省)主導の国家プロジェクトは今まで成功しなかったのだろうか?
この記事では主に経済産業省、旧・通商産業省が中心となって始めた国家プロジェクトを振り返る。
大規模集積回路(LSI)の研究、特に基礎研究に力を入れた国家プロジェクト。
当時、半導体弱小国であった日本で700億円以上の金を基礎研究に投資するのは挑戦的であったが、電子ビーム露光技術などの研究レベルのアイディアを実用・量産レベルに持ってくることに成功。
よく「日本は半導体生産はダメだが、生産機械はまだシェアがある」というが、この40年前の国家プロジェクトの技術的成功がかなり大きく、現在でも半導体製造機械はこのプロジェクトに関わった企業が上位にいる。
この成功をバネにして1980年台の日本は半導体生産の8割を占めることとなった。しかし鮮やかすぎる成功体験と日本政府の政治的脆弱性により、90年台に入ると見る影もなく没落したのはあまりにも有名。
通産省は前述の大規模集積回路(LSI)の成功体験を強く意識し、コンピューター技術の「進歩段階」は大規模集積回路が「第4世代」、そしてAI技術が来たる「第5世代」であると想定した。
「仕様書を読んでプログラムを作ってくれるすごい機械」を目指し、500億円規模の国家プロジェクトに踏み切った。
しかし当時の通産省は何もかも見通しが甘かった。大規模集積回路の次がAIというのも謎の括りで、ハードウェアとソフトウェアを混同していた。そもそもなにを研究するのか?という具体的な内容すらあやふやで、やがてはスパコンをよせ集めてもそんなものは出来ないという技術的課題に直面。
現在でいう自然言語処理などのソフトウェア開発を散発的に行い、難航。
それぞれが独自のプログラム言語を作ったりOSを作ったりしたが、特に統合されることも活用されることもなく、「ソフトウェアはむずかしい」ということだけが判明し、放棄された。
なお、唯一の結論「ソフトウェアはむずかしい」ということですら後に生かされることはなかったが、通産省は成功したと主張している。
「10年後にはソフトウェア技術者が60万人不足して、日本は技術的に取り残される–––」
この現代でもよく聞くようなフレーズに慌てた日本産業界は、ソフトウェア技術者の育成に熱い視線を向け始めた。
そこに通産省が入り込むと、さまざまな思惑が一致し、ついには国家プロジェクトとして250億円を投入するΣ計画が発足。日本はソフトウェア技術者の天国となる予定であった。
ソフトウェアという実態の見えないものに予算をかけることへの抵抗感からか、対象は主にハードウェア系企業に集中。
ソフトウェア技術者を増やすという本来の目的は曲解され、最終的には「安価な計算機を普及させる」というハードウェア重視の目標にすり替わっていた。
その結果としてΣステーションと呼ばれる計算機が誕生したが、特に安いわけでもなく、規格が致命的にガラパゴスだったので、ほとんど普及せずに失敗した。
失敗した後も地方を名目としてダラダラと予算が積み重ねられたが、何の成果もなかった。
日本のソフトウェア技術の息の根を止めたとして有名なプロジェクトである。
日本がIT技術に致命的に遅れていることにようやく気づいた通産省は、起死回生の一手としてIT技術に約500億円をかけることを決定。これを「リアルワールドコンピューティングプロジェクト」と名づけた。
しかしそもそもこのプロジェクトには、何の見通しも何の戦略もなかった。
約50個の研究が「リアルワールドコンピューティングプロジェクト」の内容であったが、その実態は検索ソフトから光ファイバーまでバラバラであり、散発的かつ無計画に予算をばら撒くという意味不明な行為は、もはや単一の計画である必要性がなかった。
この計画は最終的に10年にもわたって継続されたが、特に何の成果もなかった。そして膨大な予算とともに記憶の彼方へと消えた。
2000年に入ると、経済産業省は「かつて世界一だった日本の半導体産業を復活させる」という妄想に取り憑かれるようになる。
その数はまさに膨大である。
「みらい」プロジェクト(2001年)に465億円を注ぎ込むも見事に失敗すると、「はるか」プロジェクト(2001年)、「あすか」プロジェクト(2002年)、「DIIN」プロジェクト(2002年)、「あすか2」プロジェクト(2006年)、「つくば半導体コンソーシアム」プロジェクト(2006年)などが代表で、そのほとんどが失敗はまだしも、なんの検証もなく消えさった。
「アスパラ」(2002年)はかなり象徴的で、日本の先端半導体企業が集合して日の丸半導体企業を作ろうと国費315億円を費やしたが、2006年には泡の如く消えた。
これらの膨大な失敗は特に顧みられることもなく、なぜ失敗したのかいう考察もなく、ただ予算ともに忘れ去られた。
いったい何故だろうか?
摩訶不思議なことに、ソフトウェア技術者が致命的に不足していた日本においては、国産の検索エンジンが誕生しなかった。
中国やロシアが自前の検索エンジンを開発し始めると、日本でも国産検索エンジンを作るべきという安全保障上の発想が経済産業省に芽生える。約300億円をかけて国産検索エンジンを開発することにしたが、当時普及し始めたネット界隈はこれを激しく批判。
失敗続きの国家プロジェクトと比較されるが、経済産業省は「かつての国家プロジェクトとは違う!」と強い自信を見せた。
しかしなにも成さず、なんの検証もなく、予算とともに忘れ去られた。
ラピダスにおいては、経済産業省主導の国家プロジェクトは失敗するという根拠のない批判が多い。
しかしこうしてまとめてみるとどうだろうか?
膨大な数の実績が経済産業省には積み重なっている。
少しは信じてあげよう(完)
https://b.hatena.ne.jp/entry/4740541318906116783/comment/esbee
対中国的に欧州や米国の顔色を窺わざるをえない現状を冷静に考えたら、表現の自由を振りかざすのではなく自制が必要だとわかんねぇのかな?という気持ち。規制派オタクと批判されてもいいが、自分の首を締めてない?
このid:esbeeはこのコメント以外でも似たようなことをベラベラとくっちゃべっているわけだが、一番バカにされているこのコメントを挙げておく。
既にさんざん突っ込まれているように、これは単に「長いものには巻かれろ」以外の何物でもなく、主体性や普遍性も全く考えていない、奴隷でしかない生き物の口から垂れ流されるクソでしかないわけだが、
こうした、日本が文化面などで西欧のいうことを全く無視して行動したという例はちょっと前にも実例があるからだ。
約5年前に日本はついにIWCから脱退したのだが、その時には「国際社会からの孤立」を心配するような声があった。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.nikkei.com/article/DGXMZO46772540Z20C19A6EA5000/
さて5年経った今、日本は「国際社会」や「欧米」などから孤立したのだろうか?
現実は日本と米国、西側諸国の安全保障・経済的な関係はますます強固になるばかりだ。
国民意識のレベルでも、アメリカでは83%が日本に好感を持つという結果が出ている。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN1902G0Z10C24A3000000/
結局のところ、文化面での違いなんてものは安全保障をはじめとした国家間の関係にはほとんど影響を与えていない。
自分の奴隷根性からくるどうしようもないたわ言を、無理やり安全保障などに敷衍して正当化しようとするのは情けないだけだからやめた方がいい。
現在のウクライナ情勢は複雑であり、単純化することは適切ではありません。一般的な見解としては、ウクライナとロシアの間での紛争が地政学的な緊張を引き起こしています。ウクライナは独立国家としての主権を守ろうとしており、ロシアとの関係はその主権を巡る対立によって緊張しています。
日本への脅威を考慮する必要があるかどうかは、地域の安全保障に関する個々の見解によって異なります。ただし、日本とウクライナの地理的な距離や相互の関係から、ウクライナ情勢が直接的な日本への脅威とはならない可能性が高いとされています。
アメリカが支援を止めようとしている理由は、複数の要因が絡んでいます。これには、政策の見直しや戦略の変更、国内政治的な影響や利益、外交政策の優先順位などが含まれます。具体的な理由については、アメリカ政府や関係者の公式な発表や声明を参照することが重要です。
例えば麻生
日本政府は日露戦争で戦費を海外から借金したが英米銀行団、ジェイコブへの完済は1986年。
大戦を経て80年、どれだけ時間がかかっても返した、これが信用だ、日本凄い
こーゆー談話や言説はよく見る
日本人は愚直で誠実で勤勉で真面目だと
うん、ウソです
そりゃ払うわ
一つは軍票
日本は戦前戦中に正貨流出を抑制するため莫大な軍票を発行し外地における支払いに充てた。
記録に残るものだけでざっくりと国家予算25年分も乱発したわけだが、これ一円も償還してません。
日本政府の建前としては、戦後賠償でまとめて払う、払った、なんだが。
当時の国家予算が1兆円でもっとも額の大きいフィリピンに対して1900億円
ちなみに、日清戦争では日本は1万人の戦死者を出して、その賠償請求として中国(清)から国家予算4.5年分の賠償をもぎ取った
搾取してボロ儲け。
ところが日本以外の先進国では第一次世界大戦以降に雲行きが変わった。
有色人種は犬猫と同じ、動物に人権を付与する必要はない、という旧来のロジックはもはや維持不可能だった。混血児もガンガン産まれてるし。
植民地の住民にも人権を付与しなければならない、社会インフラを整備し教育を施し。
イギリスは20世紀初頭から植民地を切り始めた、勝手に独立せぇ、連邦に残りたけりゃ残してやるが国家運営は自分たちで好きにしろ。中東は続々離脱
アメリカも同じ、フィリピンから大量の人や廉価な農作物がアメリカ本土を侵食し始めた。
同じ国内という建前だから関税やら人の移動への制限はかけられない。
たまらん、つーことで、1934年にフィリピンを切ることにした、アメリカ議会でフィリピン独立法成立、大統領署名。
フィリピン(独立)政府がフィリピン憲法発行したらその10年後に国家独立、延長は無し、というもの。
翌年1935年にフィリピン準備政府はフィリピンコモンウェルス(憲法)発行、州政府発足、10年後に国家独立確定。
この州政府の独立性はアメリカ合衆国の「州」よりも高い自治権が設定されている。
争いが嫌いなフィリピン人、フィリピン政府は国防の方針を中立化と定めた。
軍事力に国家リソースを割く余裕が無い後発国はこの選択しか無い。
現在も英連邦に所属するカナダのカナダ軍の統帥権(カナダ軍最高司令官)はイギリス国王なんだが、
当時のフィリピンの国際収支を見てもアメリカの傀儡、搾取の痕跡はゼロです。
ってところに1941年、皇軍は「可愛そうなフィリピンを救ってあげる、大東亜」で軍事侵攻
抵抗する軍事力が無いフィリピン政府は秒で「Open City」(非武装都市宣言)の無条件白旗。
当時フィリピンの人口は3000万人、殺しに殺して111万人を殺し
(米軍の砲撃によるものだと言うアホがいるが、日本が軍事侵攻しなけりゃ米軍はフィリピンを砲撃しねぇわバカと先に答えておく)
日本は二年間フィリピンを傀儡したが、フィリピンの人口統計はこの二年間だけ見事に欠落している、資料が残ってない、誰が燃やしちゃったんだろね。
日清戦争は1万人で4.5年分
日清戦争の戦後賠償では、中国の「払えない、待ってくれと、勘弁して」の訴えに軍艦を横付けして脅した
日本の学校ではイギリスが中国人をアヘン漬けにして滅亡させた、とミスリードを誘う教育をしている。
第二次世界大戦の賠償交渉で日本は「わいら焼け野原、みてこれ、空爆されてなにも残ってない」
当時は衛星写真など無い、地上からの撮影、空撮しかなく選別切り取りが容易。
うん、ウソ
米軍はすでに制空権取ってるから低高度からの精密爆撃ができた。
釜石の高炉は古いものだけ破壊され最新の高炉は戦後すぐに復旧している。
これは経済、工業統計でも明らかで日本の工業力は戦争で3-4割しか毀損していない。
ちなみに日本が戦後に工業統計や戦時被害を公式に集計し発表したのは賠償の7割を占めるフィリピンとの講和条約締結後の昭和31年から。
アメリカ政府の意図は早期に復興させてうまい汁を吸う気だったからね、案の定
アメリカは戦後利権を独り占めするために焼け野原の写真を世界にばらまいた。
日本は四季があって水道水が飲めて天皇が統治して国民は清廉潔白高潔
うん、ウソです
二季しかなく、水道水は放射能とPFASで汚染され天皇は戦争責任を負わずに居座り国民は居直り
なんか反論ある?w
結論から言うと、ナチスドイツを占領した連合国が西ドイツに要求した占領政策のリバイバルです。
開戦前のウクライナは世界10位の戦車保有国、機甲大国でした(およそ2100両。内戦前はもっと多かった)
これはソ連の遺産を継承したためですが、大半は古く、整備しないと稼働できない状態でした。
即時に稼働できるのは600両程度であり、この内近代化改修が行われたのは200両前後と言われています。
ウクライナのNATO加盟により、1800両近くの旧式戦車に近代化改修を施されるのがロシアの安全保障にとって最大のリスクでした。
これは開戦後の現在でも変わりなく、多くのソ連の遺産を抱え込むウクライナと単純和平が行えない理由です。
ロシアはウクライナの非軍事化なくして終戦はできないでしょう。
ちなみにウクライナの戦車は開戦直後に徹底的に破壊されました。ロシアのミサイル枯渇の原因です。
「ロシアの安全保障を脅かすウクライナ」はロシア全体である程度の支持があります。
おそらく指導者が誰に変わろうと、ウクライナの非軍事化という目標は消えないでしょう。
仮に占領地域の放棄に進むとしても、「実力行使による非軍事化のための最終攻撃」は実施されると思われます。
一刻も早い和平を願っています。
【2月29日提出予定です!】
イスラエルによるパレスチナ自治区ガザ地区への攻撃について、広島市と広島市議会の見解を問う公開質問状を出した「広島パレスチナともしび連帯共同体」に対し、広島市は「外交、安全保障に関することは国の専権事項」などとして声明文を出さないと回答した。グループは「行動する意思がないことが明確に示された」とし、市と市議会に声明や決議を求めるインターネット署名活動を21日、始めた。(毎日新聞、2024年2月22日)
市民の呼びかけに注目が集まっています。田所さんもこちらのオンライン署名に賛同しませんか?
広島市と広島市議会はパレスチナのために行動して下さい:今こそ「国際平和文化都市」が行動すべき時です!
5,915人が広島パレスチナともしび連帯共同体 Hiroshima Palestine Vigil Communityさんのオンライン署名に賛同しました。目標賛同数7,500を一緒に目指しましょう!
広島は、核兵器によるジェノサイド(集団殺戮)を経験した地として、1970年以来、国際平和文化都市という至高の目標を掲げて来ました。広島には、独自の歴史と責任があり、そして平和をつくりだす〈力〉があるはずです!
2022年2月24日にウクライナ侵攻がはじまってからわずか1週間後、広島市議会は戦争を非難する決議を採択しました。それなのに広島市は、パレスチナでのジェノサイドについては4カ月以上も沈黙を守ったままです! 日本全体ではすでに227の市議会や県議会で、停戦や平和的解決、事態の鎮静化を求める決議や意見書が出されています。なぜ広島市議会がこのリストに含まれていないのでしょうか?
私たちは2月13日に、平和首長会議の会長でもある松井一實広島市長と母谷龍典広島市議会議長あてに、公開質問状を提出しました。平和首長会議には、世界で約8200の平和都市が加盟しており、ガザを含むパレスチナやイスラエルの自治体が含まれています。
私たちは、現在の危機的状況に対する広島市と広島市議会の対応について5つの質問をしました。広島市からの回答にも、市議会からの回答にも、残念ながら行動の意思は示されていませんでした。ガザで現在進行中の事象は「国際平和文化都市」の「平和」とは直接的関連はないとの認識のようです。広島市民および世界市民として、パレスチナの事態を傍観する「国際平和文化都市」を私たちは支持できません。この瞬間にも、ガザでは多くの命が失われています。広島市は、今すぐ行動をして下さい!
「広島パレスチナともしび連帯共同体」は、広島や日本、そして世界中のコミュニティに対し、広島市と広島市議会に対し早急な行動を促すための署名を呼びかけます。パレスチナにおけるジェノサイドが進行しているという緊急事態において、私たちは今すぐに行動を起こさなければなりません!
これがラ( ˙▿˙ )今日送られてきた
メールです
立憲民主党の泉代表は、経済界や学識経験者らによる「令和臨調」の会合に出席し、野党間の連携の在り方について、「立憲民主党は中道リベラル政党だ。世界の潮流である人権感覚を持ち、安全保障では防衛力の整備が当然だと思っている」と述べました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230722/k10014139241000.html
私たちは、「社会的な公正と公平」の旗を掲げて、小泉・自民党政治と対決します。市民的自由を尊重するリベラルな政治と働く人々の声を基盤とするのが社民党です。野党同士の意思の疎通、結束を図りながら、率直な議論をしていきたいと考えています。
社民党は今臨時国会において、安倍新政権が持ち出す悪法を阻止するために全力を挙げ、日本国憲法のもとで戦後に獲得した価値が重要であると考える人々を結集していきたい。リベラル勢力の大結集をはかって、一元的な価値を押しつける流れを変えていく。
今後リベラル層が新たな動きを展開せざるをえない中、いかなる政策を策定するかで、共産党の政策は指針を与えるものとなっている
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-12-18/2014121801_07_0.html
縁もゆかりもないのにパレスチナで起きている虐殺に心を痛めるくらいには生活にゆとりを持っている。だが募金をすることもなければデモに足を運ぶこともない。
作家をしている友人が停戦を求めるデモに足を運ぶのをインスタグラムに淡々とアップしているのを見て、罪の意識というほどでもないが、何もしていない自分がどこか責められているように感じる。
そして同時に「そりゃ戦争はみんな嫌だし止めたいけど、デモをやったくらいで戦争が止まったら苦労しないよ」とも思う。
そもそもそこまで貿易のないイスラエルに日本ができる有効な経済制裁ってあるの?とか主張を疑ってみたり
日本は米国と利害関係があり、米国はかのユダヤ人国家と利害関係があって、これを無視して人間として直感的に正しい主張を貫いてしまうと後で困るのは安全保障的にも経済的にも独立していない日本なので、まずは自衛軍擁立賛成デモからやらないんですか?とかニヒルに構えてみたり
デモに参加している人のアカウントの多くが反原発・#metoo・BLM・現行憲法・政権批判・性被害撲滅などの運動にも参加していて、なんか「被害を受ける弱い私たち vs クソ体制」って二項対立スタンスが強すぎてちょっとね、とかよく知りもしない参加者の属性を嫌がってみたり
仮にそうだとしても、私が世の中の醜悪な出来事に対してどんな形であれ意思表明をしない理由にはならない。
わかっているよ。それでも、やっぱりデモが苦手なんだ。
〈佐藤優現象〉を支えている護憲派の中心は、雑誌としては『世界』であり、学者では山口二郎と和田春樹である。この顔ぶれを見て、既視感を覚える人はいないだろうか。すなわち、「平和基本法」である。これは、山口や和田らが執筆し、共同提言として、『世界』一九九三年四月号に発表された。その後、二度の補足を経ている(56)。
私は、〈佐藤優現象〉はこの「平和基本法」からの流れの中で位置づけるべきだと考える。
同提言は、①「創憲論」の立場、②自衛隊の合憲化(57)、③日本の経済的地位に見合った国際貢献の必要性、④国連軍や国連の警察活動への日本軍の参加(58)、⑤「国際テロリストや武装難民」を「対処すべき脅威」として設定、⑥日米安保の「脱軍事化」、といった特徴を持つが、これが、民主党の「憲法提言」(二〇〇五年一〇月発表)における安全保障論と論理を同じくしていることは明白だろう。実際に、山口二郎は、二〇〇四年五月時点で、新聞記者の「いま改憲は必要なのか」との問いに対して、「十年ほど前から、護憲の立場からの改憲案を出すべきだと主張してきた。しかし、いまは小泉首相のもとで論理不在の憲法論議が横行している。具体的な憲法改正をやるべき時期ではないと思う」と答えている(59)。「創憲論」とは、やはり、改憲論だったのである。
同提言の二〇〇五年版では、「憲法九条の維持」が唱えられているが、これは、政権が「小泉首相のもと」にあるからだ、と解釈した方がいいだろう。「平和基本法」は、戦争をできる国、「普通の国」づくりのための改憲論である。同提言は軍縮を謳っているが、一九九三年版では、軍縮は「周辺諸国の軍縮過程と連動させつつ」行われるとされているのだから、北朝鮮や中国の軍事的脅威が強調される状況では、実現する見込みはないだろう(60)。また、「かつて侵略したアジアとの本当の和解」、二〇〇五年版では、周辺諸国への謝罪と過去清算への誠実な取組みの必要性が強調されているが、リベラルは過去清算は終わったと認識しているのであるから、これも実効性があるとは思えない。要するに、同提言には、論理内在的にみて、軍事大国化への本質的な歯止めがないのである。
佐藤が語る、愛国心の必要性(61)、国家による市民監視(62)、諜報機関の設置等は、「普通の国」にとっては不可欠なものである。佐藤の饒舌から、私たちは、「平和基本法」の論理がどこまで行き着くかを学ぶことができる。
馬場は、小泉純一郎首相(当時)の靖国参拝について、「今後PKOなどの国際的軍事・平和維持活動において殉死・殉職した日本人の慰霊をどう処理し追悼するか、といった冷戦後の平和に対する構想を踏まえた追悼のビジョンもそこからは得られない」と述べている(63)。逆に言えば、馬場は、今後生じる戦死者の「慰霊」追悼施設が必要だ、と言っているわけである。「普通の国」においては、靖国神社でないならば、そうした施設はもちろん、不可欠だろう。私は、〈佐藤優現象〉を通じて、このままではジャーナリズム内の護憲派は、国民投票を待たずして解体してしまう、と前に述べた。だが、むしろ、すでに解体は終わっているのであって、「〈佐藤優現象〉を通じて、残骸すら消えてしまう」と言うべきだったのかもしれない。
ここで、テロ特措法延長問題に触れておこう(64)。国連本部政務官の川端清隆は、小沢一郎民主党代表の、テロ特措法延長反対の発言について、「対米協調」一辺倒の日本外交を批判しつつ、「もし本当に対テロ戦争への参加を拒絶した場合、日本には国連活動への支援も含めて、不参加を補うだけの実績がない」、「ドイツが独自のイラク政策を採ることができたのは、アフガニスタンをはじめ、世界の各地で展開している国連PKOや多国籍軍に参加して、国際社会を納得させるだけの十分な実績を積んでいたからである。翻って日本の場合、多国籍軍は言うに及ばず、PKO参加もきわめて貧弱で、とても米国や国際社会の理解を得られるものとはいえない」と述べている(65)。
元国連職員の吉田康彦は「国連憲章の履行という点ではハンディキャップなしの「普通の国」になるべきだと確信している。(中略)安保理決議による集団安全保障としての武力行使には無条件で参加できるよう憲法の条文を明確化するのが望ましい」と述べている(66)。川端と吉田の主張をまとめれば、「対米協調一辺倒を避けるため、国連PKOや多国籍軍の軍事活動に積極的に参加して「国際貢献」を行わなければならない。そのためには改憲しなければならない」ということになろう。民主党路線と言ってもよい。今の護憲派ジャーナリズムに、この論理に反論できる可能性はない。「8」で指摘したように、対北朝鮮武力行使を容認してしまえば、改憲した方が整合性があるのと同じである。
なお、佐藤は、『世界』二〇〇七年五月号に掲載された論文「山川均の平和憲法擁護戦略」において、「現実の国際政治の中で、山川はソ連の侵略性を警戒するのであるから、統整的理念としては非武装中立を唱えるが、現実には西側の一員の日本を前提として、外交戦略を組み立てるのである。」「山川には統整的理念という、人間の努力によっては到底達成できない夢と、同時にいまこの場所にある社会生活を改善していくという面が並存している」と述べている。私は発刊当初この論文を一読して、「また佐藤が柄谷行人への点数稼ぎをやっている」として読み捨ててしまっていたが、この「9」で指摘した文脈で読むと意味合いが変わってくる。佐藤は、「平和憲法擁護」という建前と、本音が分裂している護憲派ジャーナリズムに対して、「君はそのままでいいんだよ」と優しく囁いてくれているのだ。護憲派ジャーナリズムにとって、これほど〈癒し〉を与えてくれる恋人もいるまい(67)。
10.おわりに
これまでの〈佐藤優現象〉の検討から、このままでは護憲派ジャーナリズムは、自民党主導の改憲案には一〇〇%対抗できないこと、民主党主導の改憲案には一二〇%対抗できないことが分かった。また、いずれの改憲案になるにしても、成立した「普通の国」においては、「7」で指摘したように、人種差別規制すらないまま「国益」を中心として「社会問題」が再編されることも分かった。佐藤は沖縄でのシンポジウムで、「北朝鮮やアルカイダの脅威」と戦いながら、理想を達成しようとする「現実的平和主義」を聴衆に勧めている(68)が、いずれの改憲案が実現するとしても、佐藤が想定する形の、侵略と植民地支配の反省も不十分な、「国益」を軸とした〈侵略ができる国〉が生まれることは間違いあるまい。「自分は国家主義者じゃないから、「国益」論なんかにとりこまれるはずがない」などとは言えない。先進国の「国民」として、高い生活水準や「安全」を享受することを当然とする感覚、それこそが「国益」論を支えている。その感覚は、そうした生存の状況を安定的に保障する国家―先進国主導の戦争に積極的に参加し、南北間格差の固定化を推進する国家―を必要とするからだ。その感覚は、経済的水準が劣る国の人々への人種主義、「先進国」としての自国を美化する歴史修正主義の温床である。
大雑把にまとめると、〈佐藤優現象〉とは、九〇年代以降、保守派の大国化路線に対抗して、日本の経済的地位に見合った政治大国化を志向する人々の主導の下、謝罪と補償は必要とした路線が、東アジア諸国の民衆の抗議を契機として一頓挫したことや、新自由主義の進行による社会統合の破綻といった状況に規定された、リベラル・左派の危機意識から生じている。九〇年代の東アジア諸国の民衆からの謝罪と補償を求める声に対して、他国の「利益のためではなく、日本の私たちが、進んで過ちを正しみずからに正義を回復する、即ち日本の利益のために」(69)(傍点ママ)歴史の清算を行おうとする姿勢は、リベラル内にも確かにあり、そしてその「日本の利益」とは、政治大国を前提とした「国益」ではなく、侵略戦争や植民地支配を可能にした社会のあり方を克服した上でつくられる、今とは別の「日本」を想定したものであったろう。私たちが目撃している〈佐藤優現象〉は、改憲後の国家体制に適合的な形で生き残ろうと浮き足立つリベラル・左派が、「人民戦線」の名の下、微かに残っているそうした道を志向する痕跡を消失もしくは変質させて清算する過程、いわば蛹の段階である。改憲後、蛹は蛾となる。
ただし、私は〈佐藤優現象〉を、リベラル・左派が意図的に計画したものと捉えているわけではない。むしろ、無自覚的、野合的に成立したものだと考えている。藤田省三は、翼賛体制を「集団転向の寄り合い」とし、戦略戦術的な全体統合ではなく、諸勢力のからみあい、もつれあいがそのまま大政翼賛会に発展したからこそ、デマゴギーそれ自体ではなく、近衛文麿のようなあらゆる政治的立場から期待されている人物が統合の象徴となったとし、「主体が不在であるところでは、時の状況に丁度ふさわしい人物が実態のまま象徴として働く」、「翼賛会成立史は、この象徴と人物の未分性という日本政治の特質をそれこそ象徴的に示している」と述べている(70)が、〈佐藤優現象〉という名の集団転向現象においては、近衛のかわりに佐藤が「象徴」としての機能を果たしている。この「象徴」の下で、惰性や商売で「護憲」を唱えているメディア、そのメディアに追従して原稿を書かせてもらおうとするジャーナリストや発言力を確保しようとする学者、無様な醜態を晒す本質的には落ち目の思想家やその取り巻き、「何かいいことはないか」として寄ってくる政治家や精神科医ら無内容な連中、運動に行き詰った市民運動家、マイノリティ集団などが、お互いに頷きあいながら、「たがいにからみあい、もつれあって」、集団転向は進行している。
ところで、佐藤は、「仮に日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家、同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べている(71)。佐藤は、リベラル・左派に対して、戦争に反対の立場であっても、戦争が起こってしまったからには、自国の国防、「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。佐藤を賞賛するような人間は、いざ開戦となれば、反戦運動を行う人間を異端者扱いするのが目に見えている。
この佐藤の発言は、安倍晋三前首相の目指していた「美しい国」づくりのための見解とも一致する。私見によれば、安倍の『美しい国へ』(新潮新書、二〇〇六年七月)全二三二頁の本のキモは、イランでのアメリカ大使館人質事件(一九七九年)をめぐる以下の一節である。「(注・反カーター陣営の)演説会で、意外に思ったことがある。人質事件に触れると、どの候補者もかならず、「私は大統領とともにある」(I am behind the President.)というのだ。ほかのことではカーターをこきおろす候補者が、そこだけは口をそろえる。/もちろん、人質にされている大使館員たちの家族に配慮するという意図からだろうが、アメリカは一丸となって事件に対処しているのだ、という明確なメッセージを内外に発しようとするのである。国益がからむと、圧倒的な求心力がはたらくアメリカ。これこそがアメリカの強さなのだ。」(八七~八八頁)
文中の、「人質事件」を拉致問題に、「大統領」を安倍に、「アメリカ」を日本に置き換えてみよ。含意は明白であろう。安倍は辞任したとはいえ、総連弾圧をめぐる日本の言論状況や、〈佐藤優現象〉は、安倍の狙いが実現したことを物語っている。安倍政権は倒れる前、日朝国交正常化に向けて動きかけた(正確には米朝協議の進展で動かされたと言うべきだが)が、こうなるのは少なくとも今年春からは明らかだったにもかかわらず、リベラル・左派の大多数は、「日朝国交正常化」を公然と言い出せなかった。安倍政権が北朝鮮外交に敗北したのは明らかである。だが、日本のリベラル・左派は安倍政権ごときに敗北したのである。
〈佐藤優現象〉は、改憲後に成立する「普通の国」としての〈侵略ができる国〉に対して、リベラル・左派の大部分が違和感を持っていないことの表れである。侵略と植民地支配の過去清算(在日朝鮮人の人権の擁護も、そこには含まれる)の不十分なままに成立する「普通の国」は、普通の「普通の国」よりはるかに抑圧的・差別的・侵略的にならざるを得ない。〈佐藤優現象〉のもとで、対北朝鮮武力行使の言説や、在日朝鮮人弾圧の言説を容認することは、戦争国家体制に対する抵抗感を無くすことに帰結する。改憲に反対する立場の者がたたかうべきポイントは、改憲か護憲(反改憲)かではない。対北朝鮮武力行使を容認するか、「対テロ戦争」という枠組み(72)を容認するかどうかである。容認してしまえば、護憲(反改憲)派に勝ち目はない。過去清算も不十分なまま、札束ではたいて第三世界の諸国の票を米国のためにとりまとめ、国連の民主的改革にも一貫して反対してきた日本が、改憲し、常任理事国化・軍事大国化して、(国連主導ではあれ)米軍中心の武力行使を容易にすることは、東アジア、世界の平和にとって大きな災厄である(73)。
改憲と戦争国家体制を拒否したい人間は、明確に、対北朝鮮武力行使の是非、対テロ戦争の是非という争点を設定して絶対的に反対し、〈佐藤優現象〉及び同質の現象を煽るメディア・知識人等を徹底的に批判すべきである。
註
(1)岩波書店労働組合「壁新聞」二八一九号(二〇〇七年四月)。
(2)ブログ「猫を償うに猫をもってせよ」二〇〇七年五月一六日付。
(3)ただし、編集者は佐藤が右翼であることを百も承知の上で使っていることを付言しておく。〈騙されている〉わけではない。
(4)「佐藤優という罠」(『AERA』二〇〇七年四月二三日号)中のコメントより。
(5)インターネットサイト「フジサンケイ ビジネスアイ」でほぼ週一回連載中の〈 Permalink | 記事への反応(0) | 18:37
目次
1.はじめに
(1)歴史認識について
(2)対北朝鮮外交について
3.佐藤優による主張の使い分け
(1)ナショナリズム論
(2)ポピュリズム論
(3) 格差社会論
6.「人民戦線」という罠
(1)「ファシズム政権の樹立」に抗するために、人民戦線的な観点から佐藤を擁護する
10.おわりに
註
1.はじめに
このところ、佐藤優という人物が「論壇」を席巻しており、リベラル・左派系の雑誌から右派メディアにまで登場している。
だが、「論壇の寵児」たる佐藤は、右派メディアで排外主義そのものの主張を撒き散らしている。奇妙なのは、リベラル・左派メディアが、こうした佐藤の振舞いを不問に付し、佐藤を重用し続けていることにある。
佐藤による、右派メディアでの排外主義の主張の展開が、リベラル・左派によって黙認されることによって成り立つ佐藤の「論壇」の席巻ぶりを、以下、便宜上、〈佐藤優現象〉と呼ぶ。この現象の意味を考える手がかりとして、まずは、佐藤による「論壇」の席巻を手放しに礼賛する立場の記述の検討からはじめよう。例えば、『世界』の編集者として佐藤を「論壇」に引き入れ、佐藤の著書『獄中記』(岩波書店、二〇〇六年一二月)を企画・編集した馬場公彦(岩波書店)は、次のように述べる。
「今や論壇を席巻する勢いの佐藤さんは、アシスタントをおかず月産五百枚という。左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない。」「彼の言動に共鳴する特定の編集者と密接な関係を構築し、硬直した左右の二項対立図式を打破し、各誌ごとに異なったアプローチで共通の解につなげていく。」「現状が佐藤さんの見立て通りに進み、他社の編集者と意見交換するなかで、佐藤さんへの信頼感が育まれる。こうして出版社のカラーや論壇の左右を超えて小さなリスクの共同体が生まれ、編集業を通しての現状打破への心意気が育まれる。その種火はジャーナリズムにひろがり、新聞の社会面を中心に、従来型の検察や官邸主導ではない記者独自の調査報道が始まる。」「この四者(注・権力―民衆―メディア―学術)を巻き込んだ佐藤劇場が論壇に新風を吹き込み、化学反応を起こしつつ対抗的世論の公共圏を形成していく。」
馬場の見解の中で興味深いのは、〈佐藤優現象〉の下で、「硬直した左右の二項対立図式」が打破され、「論壇」が「化学反応」を起こすとしている点である。ある意味で、私もこの認識を共有する。だが、「化学反応」の結果への評価は、馬場と全く異なる。私は、これを、「対抗的世論の公共圏」とやらが形成されるプロセスではなく、改憲後の国家体制に適合的な形に(すなわち、改憲後も生き長らえるように)、リベラル・左派が再編成されていくプロセスであると考える。比喩的に言えば、「戦後民主主義」体制下の護憲派が、イスラエルのリベラルのようなものに変質していくプロセスと言い替えてもよい。
以下の叙述でも指摘するが、佐藤は対朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)武力行使、在日朝鮮人団体への弾圧の必要性を精力的に主張している。安倍政権下の拉致外交キャンペーンや、一連の朝鮮総連弾圧に対して、リベラル・左派から批判や抗議の声はほとんど聞かれなかったのは、「化学反応」の典型的なものである。「戦後民主主義」が、侵略と植民地支配の過去とまともに向き合わず、在日朝鮮人に対してもせいぜい「恩恵」を施す対象としか見てこなかったことの問題性が、極めて露骨に出てきていると言える。〈嫌韓流〉に対して、リベラル・左派からの反撃が非常に弱いことも、こうした流れの中で考えるべきであろう。
私は、佐藤優個人は取るにたらない「思想家」だと思うが、佐藤が右派メディアで主張する排外主義を、リベラル・左派が容認・黙認することで成り立つ〈佐藤優現象〉は、現在のジャーナリズム内の護憲派の問題点を端的に示す、極めて重要な、徴候的な現象だと考える。
馬場は、佐藤が「左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない」などと言うが、後に見るように、佐藤は、「右」の雑誌では本音を明け透けに語り、「左」の雑誌では強調点をずらすなどして掲載されるよう小細工しているに過ぎない。いかにも官僚らしい芸当である。佐藤自身は自ら国家主義者であることを誇っており、小谷野敦の言葉を借りれば、「あれ(注・佐藤)で右翼でないなら、日本に右翼なんか一人もいない」。
佐藤が読者層に応じて使い分けをしているだけであることは誰にでも分かることであるし、事実、ウェブ上でもブログ等でよく指摘されている。そして、小谷野の、この現象が「日本の知識人層の底の浅さが浮き彫りになった」ものという嘲笑も正しい。だが、改憲派の小谷野と違い、改憲を阻止したいと考える者としては、この現象について、佐藤優に熱を上げている護憲派を単に馬鹿にするだけではなく、〈佐藤優現象〉をめぐって、誰にでも浮かぶであろう疑問にまともに答える必要がある。なぜ、『世界』『金曜日』等の護憲派ジャーナリズムや、斎藤貴男や魚住昭のような一般的には「左」とされるジャーナリストが、佐藤に入れ込んでいるのか? なぜ、排外主義を煽る当の佐藤が、『世界』『金曜日』や岩波書店や朝日新聞の出版物では、排外主義的ナショナリズムの台頭を防がなければならない、などと主張することが許されているのか?
この〈佐藤優現象〉はなぜ起こっているのか? この現象はどのようなことを意味しているのか? どういう帰結をもたらすのか? 問われるべき問題は何か? こうした問いに答えることが、改憲を阻止したいと考える立場の者にとって、緊急の課題であると思われる。
まず、佐藤の排外主義的主張のうち、私の目に触れた主なものを挙げ、佐藤の排外主義者としての活躍振りを確認しておこう。
(1)歴史認識について
佐藤は言う。「「北朝鮮が条件を飲まないならば、歴史をよく思いだすことだ。帝国主義化した日本とロシアによる朝鮮半島への影響力を巡る対立が日清戦争、日露戦争を引き起こした。もし、日本とロシアが本気になって、悪い目つきで北朝鮮をにらむようになったら、どういう結果になるかわかっているんだろうな」という内容のメッセージを金正日に送るのだ」。朝鮮の植民地化に対する一片の反省もない帝国主義者そのものの発言である。また、アメリカ議会における慰安婦決議の件に関しても、「事実誤認に基づく反日キャンペーンについて、日本政府がき然たる姿勢で反論することは当然のことだ。」と述べている。
特に、大川周明のテクストと佐藤の解説から成る『日米開戦の真実―大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』(小学館、二〇〇六年四月)では、極めて露骨に、日本の近現代史に関する自己の歴史認識を開陳する。以下、引用する。佐藤が自説として展開している部分である。
「日本人は(注・太平洋戦争)開戦時、少なくとも主観的には、中国をアメリカ、イギリスによる植民地化支配から解放したいと考えていた。しかし、後発資本主義国である日本には、帝国主義時代の条件下で、欧米列強の植民地になるか、植民地を獲得し、帝国主義国となって生き残るかの選択肢しかなかった。」(三頁)、「「大東亜共栄圏」は一種の棲み分けの理論である。日本人はアジアの諸民族との共存共栄を真摯に追求した。強いて言えば、現在のEUを先取りするような構想だった。」(四頁)、「あの戦争を避けるためにアメリカと日本が妥協を繰り返せば、結局、日本はアメリカの保護国、準植民地となる運命を免れなかったというのが実態ではないかと筆者は考える。」(六頁)、「日本の武力によって、列強による中国の分裂が阻止されたというのは、日本人の眼からすれば確かに真実である。(中略)中国人の反植民地活動家の眼には、日本も列強とともに中国を分割する帝国主義国の一つと映ったのである。このボタンの掛け違いにイギリス、アメリカはつけ込んだ。日本こそが中国の植民地化と奴隷的支配を目論む悪の帝国であるとの宣伝工作を行い、それが一部の中国の政治家と知的エリートの心を捉えたのである。」(二八一頁)。また、蒋介石政権については、「米英の手先となった傀儡政権」(二五七頁)としている。他方、佐藤は、汪兆銘の南京国民政府は「決して対日協力の傀儡政権ではなかった」(二四九頁)とする。
右翼たる佐藤の面目躍如たる文章である。ちなみに、こんな大東亜戦争肯定論の焼き直しの本を斎藤貴男は絶賛し、「大川こそあの時代の知の巨人・であったとする形容にも、大川の主張そのものにも、違和感を抱くことができなかった」としている。
(2)対北朝鮮外交について
佐藤は、「拉致問題の解決」を日朝交渉の大前提とし、イスラエルによるレバノン侵略戦争も「拉致問題の解決」として支持している。「イスラエル領内で勤務しているイスラエル人が拉致されたことは、人権侵害であるとともにイスラエルの国権侵害でもある。人権と国権が侵害された事案については、軍事行使も辞せずに対処するというイスラエル政府の方針を筆者は基本的に正しいと考える」。さらに、現在の北朝鮮をミュンヘン会談時のナチス・ドイツに準えた上で、「新帝国主義時代においても日本国家と日本人が生き残っていける状況を作ることだ。帝国主義の選択肢には戦争で問題を解決することも含まれる」としている。当然佐藤にとっては、北朝鮮の「拉致問題の解決」においても、戦争が視野に入っているということだ。『金曜日』での連載においても、オブラートに包んだ形ではあるが、「北朝鮮に対するカードとして、最後には戦争もありうべしということは明らかにしておいた方がいい」と述べている(10)。
さらに、アメリカが主張してきた北朝鮮の米ドル札偽造問題が、アメリカの自作自演だった可能性が高いという欧米メディアの報道に対して、佐藤は「アメリカ政府として、『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』の記事に正面から反論することはできない。なぜなら、証拠を突きつける形で反論するとアメリカの情報源と情報収集能力が明らかになり、北朝鮮を利してしまうからだ」(11)と、いかなる反証の根拠も示さずに(反証の必要性を封じた上で)、「北朝鮮の情報操作」と主張しているが、この主張は、保守派の原田武夫にすら否定されている(12)。佐藤は現在、右派メディアの中でも最も「右」に位置する論客の一人であると言えよう。
佐藤は、「在日団体への法適用で拉致問題動く」として、「日本政府が朝鮮総連の経済活動に対し「現行法の厳格な適用」で圧力を加えたことに北朝鮮が逆ギレして悲鳴をあげたのだ。「敵の嫌がることを進んでやる」のはインテリジェンス工作の定石だ。/政府が「現行法の厳格な適用」により北朝鮮ビジネスで利益を得ている勢力を牽制することが拉致問題解決のための環境を整える」と述べている(13)。同趣旨の主張は、別のところでも述べている(14)。「国益」の論理の下、在日朝鮮人の「人権」は考慮すらされてない。
漆間巌警察庁長官(当時)は、今年の一月一八日の会見で、「北朝鮮が困る事件の摘発が拉致問題を解決に近づける。そのような捜査に全力を挙げる」「北朝鮮に日本と交渉する気にさせるのが警察庁の仕事。そのためには北朝鮮の資金源について事件化し、実態を明らかにするのが有効だ」と発言しているが、佐藤の発言はこの論理と全く同じであり、昨年末から激化を強めている総連系の機関・民族学校などへの強制捜索に理論的根拠を提供したように思われる。佐藤自身も、「法の適正執行なんていうのはね、この概念ができるうえで私が貢献したという説があるんです。『別冊正論』や『SAPIO』あたりで、国策捜査はそういうことのために使うんだと書きましたからね。」と、その可能性を認めている(15)。
3.佐藤優による主張の使い分け
排外主義者としての佐藤の主張は、挙げ出せばきりがない。前節で挙げたのも一例に過ぎない。では、佐藤は、こうした主張を『世界』『金曜日』でも行っているのだろうか。
佐藤が仮に、「左」派の雑誌では「右」ととられる主張を、「右」派の雑誌では「左」ととられる主張をすることで、「硬直した左右の二項対立図式を打破」しているならば、私も佐藤をひとかどの人物と認めよう。だが、実際に行われていることは、「左」派メディアでは読者層の価値観に直接抵触しそうな部分をぼかした形で語り、「右」派メディアでは本音を語るという下らない処世術にすぎない。「左右の二項対立図式」の「打破」は、「左」の自壊によって成り立っているのだ。佐藤が『金曜日』と右派メディアで同一のテーマを扱った文章を読み比べれば、簡単にそのことはわかる。
一例として、米国下院での「慰安婦」決議に関する佐藤の主張を読み比べてみよう。産経新聞グループのサイト上での連載である〈地球を斬る〉では、「慰安婦」問題をめぐるアメリカの報道を「滅茶苦茶」と非難し、「慰安婦」問題に関する二〇〇七年三月一日の安倍発言についても「狭義の強制性はなかった」という認識なのだから正当だとして、あたかも「慰安婦」決議案自体が不正確な事実に基づいたものであるかのような印象を与えようとしている(16)。ところが、『金曜日』では、こうした自分の主張は述べず、国権論者としての原則的な立場から日本政府の謝罪には反対だとしている(17)。なお、『金曜日』の同文章では「歴史認識を巡る外交問題は Permalink | 記事への反応(1) | 18:32