はてなキーワード: テヘランとは
親には国公立大の学費を払ってもらい、月数万円の仕送りを貰っていたが別に太い実家ではない(と思っている)
就活は氷河期とリーマンショックの間の世代で大学を出て就職は普通にできたから運は良かった方だ
学生の頃にバイト代を貯めて韓国とタイに行き、日本と違う空気や文化やメシに触れるのが楽しかった
地方の安月給の会社に就職してからも通勤途中でよく読んでたのは海外旅行のweb記事で、それによく出てきたのが会社辞めて世界一周してる人たちのブログとかだった
なんだかんだ5年で会社辞めることになって、退職届出した時に貯金が250万ほどできており、ふと世界一周できるな?したろ!
行きたい所は3つだけ決めていたが、ルートは未定で、基本的に現地で次の目的地への交通手段を手配する感じだ
最初の目的地はネパールで、上海から昆明まで40時間超の長距離列車で移動し、そこから飛行機でカトマンズに入る
漫画版神々の山嶺を読んでエベレストを見たかったので、ベースキャンプへのトレッキングをした
4500mを超えたあたりからクソしんどかったが生のヒマラヤは鮮烈だった
そっからインドに行き、一ヶ月ほど時々腹を壊しながらカレーを食べつつインド人に騙されたり頻繁にボラれたりし、スリランカからシンガポールへ飛び、シンガポールから第二の目的地タイのバンコクへ陸路で移動する
その後ビザが必要なミャンマー以外のインドシナ半島各国を麺や焼き飯を食いながら一周し、次は西へ行きたいと氷入りのビールを飲みながら思っていたところ、マレーシア航空のドバイ行き格安チケットを見つけたので予約し、ドバイではオイルマネーの力に驚嘆し、世界一高いビルのブルジュハリファは入場料が高かったので外から見た
飛行機で紅海対岸の禁酒国家イランへ、イランは旅人には親切にしろと刷り込まれているムスリムの国なのでいい所だが、テヘランのバスで男にケツを撫でられる
後で知ったがゲイがバレると当地では死刑になるので外人をターゲットにするそうだ
イランは当時も経済制裁の影響でatmでのキャッシングが使えず、米ドルを街中で両替するのが面倒なことと、酒が無いので1週間くらいで出国することにし、バスを乗り継ぎアルメニアに抜けて飲んだワインはクソうまかった
当時まだグルジアだったジョージアはワインもうまいが料理がとてもうまい、元栃ノ心さんがワインの輸入するそうでがんばってほしい
シュクメルリが話題になったがヒンカリ、ハチャプリ、ほか名前もわからん料理などどれもうまかった
黒海沿いに移動して、パンがクソうまいトルコでカッパドキアとイスタンブールを回り、ボスポラス海峡を渡ってようやくヨーロッパへ入り、ブルガリアでヨーグルトを食べて元琴欧州鳴戸親方の生地ヴェリコタルノボを歩いた
ヨーロッパはさすがに文明的で、旅するのに快適であまり苦労した覚えがない
バルカン半島経由で北上し、ポーランドから船でスウェーデンに渡り、ノルウェーでサーモンを食うため北極圏の町トロムソに行き、魚屋で買ったサーモンとオスロで買っておいたスシライス(カリフォルニア米)を炊いて寿司を作って、ホステルで一緒になったドイツ人カップルに振る舞いながら500mlで1本700円くらいするシロクマのラベルの缶ビールを飲んでいたところ、オーロラが出たので見られたのは幸運だった
ノルウェーは物価が高すぎたためオスロ空港で出国前に2晩ほどベンチで寝てたら警備員に注意される
インドで知り合ったスコットランド人学生を訪ねてライアンエアーでオスロからエジンバラへ、夜ギグに行こうと言われて半地下のクラブへ連れて行かれる
さっきまで壇上でサックスを吹いてたシュッとした青年が普通にアンフェタミンを勧めてきてびびったが、すでにエールで酔っ払っていたので楽しかった事しか覚えていない
そこからメシと酒がクソうまいバルセロナへ飛び、夜な夜なバルでセルベーサを飲み、昼はパエリアを食ったりおやつにバレンシアオレンジをかじり、マドリードの安宿の屋上テラスの藤の椅子に座ってチーズとハモンで赤ワインをやりながらどこに行くか迷っていたところ、サウジアラビア経由エチオピア行きのチケットがあったのでアフリカに入り、大地溝帯に沿って南下し、ケープタウンまで陸路で移動することにした
アフリカはどこの国も同じで当然黒人ばっかりでメシがまずく、衛生状態も治安も悪く交通機関もクソだが、ヤリまくって産みまくって死にまくるという原始の人間の生活を見られたほか、やたらと多い子供は汚いがかわいかった
あとサバンナは最高にきれいで、朝焼けの露に濡れた草原が輝く景色は忘れがたく、ライオンやキリンやゾウは動物園で見るのと全く違う美しさだった
ナミビア、ボツワナ、南アフリカはサブサハラの中でも経済が強いのでそれなりに文明的な旅ができたが、ナミビアの乗合バンのエンストはしょっちゅうで、止まったバンを乗客みんなで押しがけした
乗客同士で一体感が生まれて面白い体験だったが、ライオンのいるサバンナで夜中2時に止まった時はヒヤヒヤした
ケープタウンで久しぶりにうまいワインを飲みながら南米行きのチケットを探して、カタール経由ブエノスアイレス行きを見つけ、カタール航空の機内食のハーゲンダッツが久しぶりのまともなアイスクリームだったので感動して3個も食べた
アルゼンチンは肉とワインがメチャ旨く安いので、毎日安ワインを1本ずつ開けた
チリのワインも当然うまく、フロンテラというのが安くてお気に入りだった
このワインは日本でも飲めるが、やはり現地と味が違うような気がする
アルゼンチンやチリはバス網が発達していて、車内は三列シートが基本でゆったりでき、パーサーがいて食事やワインのサービスもあり快適だったが、普通に丸2日バス移動とかがあり広すぎである
南部パタゴニアの名峰フィッツロイやチリのパイネでトレッキングをして、道中一緒になった日本人女性に恋をするが思いは伝えられずそのまま別れた
この人とは帰国後たまに会ってメシを食う仲だが、一度冗談ぽく結婚しないかと言ったら、お前のような貧乏人とは結婚する訳ないと言われた
チリを北上してアタカマ砂漠の星空を見て、それから三番目の目的地ウユニ塩湖へ向かう
昔ポカリスエットのCMでビートたけしが立ってた鏡張りの景色で有名な所で、ちょうど日本の大学の春休みシーズンだったため、ウユニの街は日本人学生だらけでちょっと辟易したが、さすがに見渡す限り鏡張りの光景や遠近感の無くなるほど遠くまで広がる塩の平原はめちゃくちゃにきれいだった
そのあとペルーへ移動しマチュピチュに行ったが、すでに遺跡を腐るほど見ていたのでやや感動が薄かった
ペルーあたりからラムが安いので、全世界同じ安心安全のコカコーラを買って毎晩ラムコークを飲んでいた
バスを乗り継ぎエクアドルのグアヤキルに行き、ガラパゴス行きの飛行機を待つ
グアヤキルで数日滞在した安宿から15分くらい歩くと、カラフルな家がびっしり建つ丘があったので、ぶらぶらしていたらおばちゃんに呼び止められる
スペイン語はほぼわからないが、この先に行くと死ぬ的な事を言っているようで、あとで調べたらその先には有名なスラムがあった
別に一人で帰れるがおばちゃんの息子らしき人にホテルまで送ってもらう
グアヤキルは新婚旅行で訪れた日本人夫婦が強盗に遭い、旦那さんが殺された事件があった所である
ただしガラパゴス諸島は観光地のため、先進国並みに治安は良く、物価も同じくらい高い
アシカやウミイグアナがうじゃうじゃおり、進化論で有名な鳥のフィンチも数種類見てリクガメも写真に撮れたのでとても満足した
南米本土に戻って北上を続け、コロンビアのボゴタでオーパーツの黄金ジェットを見たが絶対あれは魚だと思う
このあたりで日本を出て1年少々経過しており、だんだん旅に飽きて働きたくなってきたので日本へ帰るチケットを探しはじめ、フロリダを経由してニューヨークから日本へ帰還した
成田の「おかえりなさい」のサインを見て泣きそうになり、缶コーヒーとコンビニのざるそばがうますぎて泣いた
使った金は約200万円、1年1ヶ月の旅だった
今はちゃんと再就職していい年になってしまい、結婚して子供ができたりして、出張以外でなかなか海外に行くことはないが、たまにあの頃は楽しかったなあと思い出す
ある作品で「首都が国土の中央部にないのはおかしい」というツッコミが入ったという。
だが、そもそも首都は国土の中央部にあるものだろうか。現代を舞台に検証してみよう。(シンガポール、モナコのような都市国家は考慮しない)
お手本のように中央部にある国といえばまずここだろう
そもそも北部のフラマン語(オランダ語)圏と南部のフランス語圏の中間に作った都市なので
アフリカ大陸の南東にある世界で4番目に大きい島+付属島を国土とする島国である。
・ベラルーシ(ミンスク) ・スロベニア(リュブリャナ) ・ラトビア(リガ) ・バングラデシュ(ダッカ) ・イラク(バグダッド) ・チリ(サンティアゴ) ・エチオピア(アディスアベバ) ・コロンビア(ボゴタ) ・パナマ(パナマシティ) ・ナミビア(ウイントフック) ・ナイジェリア(アブジャ) ・コートジボワール(ヤムスクロ)
厳密な中央はヌベールあたりか? ともかくCatBは初手がここであるからお察し。
厳密にはもっと内陸へ行ったところだと思うけれど、海洋国家だし。
厳密な中央はもう少し南西だと思う。
北島と南島が主な国土で南島の方が広い。首都のウェリントンは北島の最南部。
中央はもう少し南だとおもうけれど、まあ。
・メキシコ(メキシコシティ) ・セルビア(ベオグラード) ・チェコ(プラハ) ・スーダン(ハルツーム) ・カメルーン(ヤウンデ) ・ペルー(リマ)
・アメリカ合衆国(ワシントンDC) ・カナダ(オタワ) ・ロシア連邦(モスクワ) ・ドイツ(ベルリン) ・イギリス(ロンドン) ・ノルウェー(オスロ) ・スウェーデン(ストックホルム) ・フィンランド(ヘルシンキ) ・デンマーク(コペンハーゲン) ・オーストラリア(キャンベラ) ・中国(北京) ・韓国(ソウル) ・インド(デリー)
・日本
日本の四大島と付属島が均一な平面であるとすると、重心の場所は能登半島と佐渡島の間の海上になるらしい。
・インドネシア
島国はこういうときは分かりにくい。日本と同様に重心を出すとスラウェシ島あたりになりそうな気がする。
・イタリア
シチリア島とサルディーニャ島まで含めて考えれば、ローマは中央付近か?
国土が三日月型の国も難しい。首都のザグレブは割り引けば中央付近かも?
マレー半島部だけを見ればクアラルンプールは中央の範疇かもしれないが、カリマンタン島部を含めた重心は大ナトゥナ島あたりだろうか? ただし、大ナトゥナ島はインドネシア領である。
まとめ
・巨大な大陸国家では、水運(特に海運)の都合上どこかの海岸や大河沿いが首都になりやすい(アメリカ合衆国、ロシア、中国、オーストラリア、インド等)
・一方向でしか海に面していない国も、海運の都合上その海岸線近くが首都になりやすい(アフリカのギニア湾沿岸で顕著。あと北欧)
全国の同胞たちよ、
全ての人はみな、平等な権利を持って生まれています。創造主は誰も侵すことのできない権利を与えました。その権利には、生存権、自由権、幸福追求権があります。
この不滅の文言は、アメリカの1776年独立宣言の中にあるものです。より広く言えば、この文言は、世界の全ての民族がみな平等に生まれ、どの民族も生存権、幸福権、自由権を持つということを意味しています。
1791年のフランス革命における人間と市民の権利の宣言(※人権宣言)も、「人は生まれながら自由であり、平等な権利を有し、常に自由であり、権利について平等でなければならない」と言っています。これは、誰も否定することはできません。
それにもかかわらず、この80年間、フランス帝国主義者たちは、自由・平等・博愛の旗を悪用し、私たちの国を強奪し、私たち同胞を抑圧してきました。彼らの行動は、人道と正義に反するものです。
統治において彼らは、私たち人民に自由・民主を僅かでも与えることはありませでした。
彼らは野蛮な法律を施行しました。彼らは中部・南部・北部でそれぞれ異なる制度を作り、私たちの国家統一を妨害し、私たちの民族団結を妨げました。
彼らは学校よりも数多く監獄を建てました。彼らは、私たちの国を愛し民族を愛する人々を斬り殺しました。彼らは、血の海に私たちの蜂起を沈めたのです。
彼らは、アヘンとアルコールを使って、私たち民族を衰弱させました。
経済において、彼らは私たち民族を骨の髄まで搾取し、私たち民族を困窮、欠乏させ、私たちの国をずたずたにし、不況に導きました。
彼らは数百の理不尽な徴税を行い、私たち民族、特に農民と商人を貧困に陥れました。
彼らは私たちのブルジョワ台頭を許しませんでした。彼らは私たちの労働者を情け容赦なく搾取しました。
1940年の秋、連合国に対抗する拠点を更に築くため、日本のファシストがインドシナを侵略し、フランス帝国主義者らは跪いて日本に私たちの国を明け渡しました。そのときから、私たち民族はフランスと日本という二重の枷をかけられたのです。そのときから、私たち民族は、日増しに困窮し、貧困にあえぎました。その結果、ついに昨年末から今年の初め、クアンチから北部にかけて、200万人の同胞が餓死しました。
今年の3月9日、日本はフランス軍を武装解除しました(※仏印処理)。フランス帝国主義者は逃げる者もいれば、降伏する者もいました。
つまり、彼らは私たちを保護するどころか、5年の間に2回も私たちの国を日本に売ったのです。
3月9日以前に、ベトミン(※ベトナム独立同盟会)は何度もフランス人に対して、日本に対抗すべく同盟しようと呼びかけました。フランス帝国主義者はこれに応じず、より一層ベトミンを迫害しました。更には、敗走の際、彼らはイエンバイとカオバンで政治犯を多数虐殺しました。
しかし、フランス人に対して私たち同胞は依然として寛大で人道的な態度を保ちました。3月9日の変動後、ベトミンは辺境へ逃れた数多くのフランス人を助け、日本の収容所から多数のフランス人を救出し、彼らの生命と資産を保護しました。
実際、1940年の秋から私たちの国は日本の領土となり、もはやフランスの領土ではありませんでした。
日本が連合国に降伏したとき、全国の私たち民族は立ち上がり政権を奪取して、ベトナム民主共和国を築いたのです。
実際には、私たち民族は、フランスの手からではなく日本の手からベトナム国を取り戻したのです。
フランスは逃げ、日本は降伏し、バオダイ帝は退位しました。私たち民族は独立したベトナム国を建設するために、100年近く帝国主義者たちと戦いました。私たち民族は、何十世紀も君主制と戦い、民主共和制を築いたのです。
ですから、私たち新ベトナム国の臨時政府は、ベトナム全国民を代表して、フランスとの関係を離脱し、フランスが署名したベトナムに関する全ての協定を破棄し、ベトナム国におけるフランスの全ての権限を破棄することを宣言します。ベトナム全国民は、フランス植民地主義者の陰謀に対抗する覚悟を固めています。
私たちは、テヘラン及びサンフランシスコの会議で民族平等の原則を認めた連合国が、ベトナム民族の独立する権利を認めないということはあり得ないと信じています。
ある民族がこの80年以上にわたりフランスの奴隷であることに勇敢に対抗しました。ある民族が数年にわたり連合国と共にファシストに対抗しました。その民族は自由を得なければなりません! その民族は独立を得なければなりません!
これらの理由から、私たちベトナム民主共和国の臨時政府は、世界に向けて改めて宣言します。
ベトナム国は自由及び独立する権利を持ち、実際に、自由で独立した国となりました。ベトナム全国民は、この自由と独立を維持するために、精神、軍隊、生命、そして財産のすべてを持つ権利があります。
これを以て「ベトナムは日本のファシストから独立した」って喧伝してる人がいるけど、
ですから、私たち新ベトナム国の臨時政府は、ベトナム全国民を代表して、フランスとの関係を離脱し、フランスが署名したベトナムに関する全ての協定を破棄し、ベトナム国におけるフランスの全ての権限を破棄することを宣言します。ベトナム全国民は、フランス植民地主義者の陰謀に対抗する覚悟を固めています。
私たちは、テヘラン及びサンフランシスコの会議で民族平等の原則を認めた連合国が、ベトナム民族の独立する権利を認めないということはあり得ないと信じています。
ある民族がこの80年以上にわたりフランスの奴隷であることに勇敢に対抗しました。ある民族が数年にわたり連合国と共にファシストに対抗しました。その民族は自由を得なければなりません! その民族は独立を得なければなりません!
これらの理由から、私たちベトナム民主共和国の臨時政府は、世界に向けて改めて宣言します。
ベトナム国は自由及び独立する権利を持ち、実際に、自由で独立した国となりました。ベトナム全国民は、この自由と独立を維持するために、精神、軍隊、生命、そして財産のすべてを持つ権利があります。
以下はカーネギー国際平和基金による投稿の抜粋・超訳です。日本であまりキチンと指摘されていないと感じていたので気になる部分をテキトーに抜き出してテキトーに訳してみました。先日のQUAD会談でモリソン首相から日本へはフランスより先に事前通告があったとの報道でしたが、政府内で日本としての反応をどれほど検討したのでしょうか。対北朝鮮では豪州のそれを認めるのは悪手のような気がしますが・・・
-----------------------------------
AUKUS同盟が核不拡散に果たす役割については、少数の核専門家がtwitter上で論を交わしている一方で、大多数は大戦略の議論に気を取られてしまっている。核専門家の間でも、同盟が核不拡散に及ぼす影響がどれだけあるか、そしてその与える影響が負のものかについては議論が分かれている。
私の評価では、AUKUSの原潜取引は核不拡散にとって深刻かつ負の影響を及ぼす。豪州が原潜を運用することは、IAEAの定める核原料の査察システムから核原料を取り除く「抜け穴」を利用する、最初の核兵器非保有国が出現したことを意味する。私は豪州それ自体がこの原料を悪用するとは思わないが、この抜け穴の利用が危険な前例を作り出すことを心配している。将来、核保有を企む国々は海事用原子炉を隠れ蓑として使うことができるようになるだろう。
2002年、ジョージブッシュ政権はテヘランに対して「ウランの濃縮と再処理活動を破棄せよ」と勧告した...私にとって、日本やドイツ、オランダといった核兵器非保有国が濃縮プログラムを行っていることは脅威では無い...だが、イランは、自国を日本と比較することによってこのダブルスタンダードの隙を突き、この「濃縮する権利」を主張した。この主張は功を奏した。欧州においてさえ、イランに濃縮を辞めさせよという主張を支持する国はなかった。特にドイツは、イランに濃縮プログラムを破棄させることに強行に抵抗した - それは恐らく自国もウラニウム濃縮を行っており、将来的に自国が同様の圧力にさらされることを恐れてのことだった。結果、2006年、合衆国は安保理決議において濃縮プログラムを破棄するのではなく、「停止」するよう変更した。
多くのアメリカ人の読者は、「だからどうした?安保理が不拡散を強制できないのであれば、合衆国が、必要とあれば単独で、制裁もしくは軍事行動をもって不拡散を強制するだろう」と考えるかもしれない。
この反応は近視眼的である。米国による制裁はより幅広い国々からの同意があってこそより効果がある。実際、合衆国の制裁に正統性がないと受け取られた場合は多数にのぼり、今後中期的にドルに変わる国際基軸通貨が出現する可能性がある以上、合衆国単独の政策の効果は低くなると予想される。
NPT条約は核兵器非保有国に原子炉を搭載した艦船を建造・運用することを禁じていない。だが現実的には、IAEAは海事用原子炉に保障措置(セーフガード)をすることができない(その位置が秘匿されアクセスできない潜水艦は特にそうだ)。結果として、IAEAは包括的保障措置協定(Comprehensive Safeguards Agreement)において、核兵器非保有国に「禁止されていない軍事的活動」、つまり海事用原子炉のためなら保障措置から核原料を取り除くことを許している。
これは明白で憂慮されるIAEA保障措置の抜け穴である。だが今日までは、海事用原子炉は核兵器保有国とNPT条約の非批准国によってのみ運用されてきた。包括的保障措置協定が約50年前に起草されてから、非核兵器保有国がこの抜け穴を利用しようとしたことはない(かつてブラジルとカナダを含む少数国が、真剣に検討したことはある)。
にも関わらず、この抜け穴が核保有を企む国によって利用される恐れは常にあった。実際に2018年、イランはIAEAに「将来的に海事用原子炉を建造する」計画があると通知した。その上で、もしイランが実際にこの手段に出れば、ロシアと中国を含む国々からの制裁、あるいは軍事行動さえも含めた深刻なバックラッシュ にあっていただろうし、それがイランの行動をおそらく抑止したのだと考えられる - 少なくとも、これまでは。
AUKUS原潜取引により、この潜在的なバックラッシュは弱まったと考えられる。もし豪州が実際に核原料を保障措置から取り除けば、このバックラッシュは更に弱くなるだろう。従って将来において、核兵器を取得しようとする国 - イランであれ他であれ - は、豪州の先例に倣うことにより、核原料をセーフガードから取り除く費用を許容可能なうちに抑えられると計算するようになるだろう。
「豪州はイランでもブラジルでもない」は全く正しい評価であると同時に、国際外交においては殆ど無関係の議論である。世界の残りの多くの国々は、豪州に海事用原子炉の取得という抜け穴を許す一方で、合衆国の敵対国が同様の行動に出ることを罰する行動をダブルスタンダードだと考えるだろう。従って、国際的な制裁執行や合衆国独自の単独行動に強く反対することになるだろう。結果として、AUKSでの原潜取引は保障措置の抑止力を低下させ、核拡散を引き起こす恐れが高まることになる。
※残りはこの取引の及ぼす悪影響を低減させるための現実的な政策提言の部分なので興味あったらご自分でどうぞ。
1615-05-07 大阪城が落城し、大坂夏の陣終わる。豊臣氏滅亡
1853-05-23 アメリカ艦隊、浦賀沖に来航(黒船来航)
1861-04-12 アメリカ南北戦争(1865年5月9日まで)
1868-01-03 王政復古
1868-07-17 東京奠都(「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」煥発)
1871-08-29 廃藩置県
1875-06-28 讒謗律(太政官布告)及び新聞紙条例(太政官布告)公布
1877-05-26 木戸孝允死去
1888-03-09 ヴィルヘルム1世・プロイセン王兼ドイツ皇帝崩御
フリードリヒ皇太子(フリードリヒ3世)がプロイセン王兼ドイツ皇帝に即位。
1888-06-15 フリードリヒ3世崩御。ヴィルヘルム皇太子(ヴィルヘルム2世)がプロイセン王兼ドイツ皇帝に即位。
1894-07-25 日清戦争(1895年4月17日まで。宣戦布告は1894年8月1日。台湾平定終了は1895年11月30日)
1898-07-30 ビスマルク死去
1902-01-30 日英同盟成立(1923年8月17日失効)
.
1905-09-05 日露両国講和条約(ポーツマス条約)締結(日露戦争終了、条約発効は同年11月25日)
1912-07-30 明治天皇崩御。皇太子嘉仁親王が践祚。元号が明治から大正に改められる。
1914-07-28 第一次世界大戦(1918年11月11日まで)
1922-02-01 山縣有朋死去
1922-02-06 ワシントン海軍軍縮条約調印
1923-08-17 ワシントン海軍軍縮条約発効
1926-12-25 大正天皇崩御。皇太子裕仁親王(摂政)が践祚。元号が大正から昭和に改められる。
1927-03 昭和金融恐慌
1930 昭和恐慌
1930-10-02 日本、ロンドン海軍軍縮条約を批准
1932-05-15 五・一五事件
1936-01-15 日本、ロンドン海軍軍縮条約を脱退
1936-02-26 二・二六事件
1936-12-31 ワシントン海軍軍縮条約失効
1937-07-07 日中戦争(1945年9月9日まで。盧溝橋事件に始まる。当初は宣戦布告をせず、「支那事変」と呼称)
1939-07-26 アメリカ政府が日米通商航海条約の廃棄を通告
1939-09-01 第二次世界大戦(ドイツがポーランドに侵攻して始まる。1945年9月2日まで)
1940-09 アメリカ、対日屑鉄全面禁輸
1940-09-27 日独伊三国同盟調印
1940-11 日本とアメリカの各種交渉(1941年12月まで)
1940-11-30 日本国中華民国間基本関係ニ関スル条約(日華基本条約)調印
1941-01-08 戦陣訓(陸訓一号)示達
1941-04-13 日ソ中立条約調印
1941-06-22 独ソ戦(ドイツがバルバロッサ作戦を発動したことにより始まる。1945年5月8日まで)
1941-08-28 近衛首相、ルーズベルト・アメリカ大統領に首脳会談を提案(結局、沙汰止みとなる)
1941-12-08 太平洋戦争(日本の英米に対する宣戦布告及び真珠湾攻撃に始まる。1945年9月2日まで)
1941年12月(開戦)~1942年7月頃(フィリピン全土占領)まで日本軍の占領区域は拡大を続ける。
.
1942-04-18 米空母から発進したB-25爆撃機によるドーリットル空襲(東京初空襲)
1942-06-05 ミッドウェー海戦
1942-08-07 米軍、ソロモン諸島のガダルカナル島、ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島に上陸
1943-04-18 山本五十六連合艦隊司令長官、ブーゲンビル島上空で戦死(海軍甲事件)。
1943-05-12 米軍、アッツ島上陸(5月29日まで。日本軍は全滅し、「玉砕」の語の使用始まる)。
1943-11-05 東京で大東亜会議を開催(6日まで)、大東亜共同宣言を発表。
1943-11-22 エジプト・カイロで英米中首脳会談(カイロ会談。26日まで)
1943-11-28 イラン・テヘランで英米ソ首脳会談(テヘラン会談。同年12月1日まで)
1944-06-19 マリアナ沖海戦。日本軍は旗艦大鳳以下空母3隻と搭載機400機を失い、西太平洋の制海権と制空権を喪失。
1944-07 ブレトン・ウッズ協定
1944-07-04 本軍、インパール作戦を中止。
1944-08-02 テニアン島の日本軍玉砕(テニアンの戦い)
1944-09-11 米軍、ペリリュー島上陸(ペリリューの戦い)
1944-10-20 米軍、フィリピン・レイテ島に上陸(レイテ島の戦い)
1944-11-24 米軍の新型爆撃機B-29、マリアナ諸島より東京を初空襲。
1945-02-04 クリミア半島ヤルタで英米ソ首脳会談(ヤルタ会談。11日まで)
1945-04-12 ルーズベルト・アメリカ大統領死去。トルーマン副大統領がアメリカ大統領に就任
1945-05-02 ベルリン陥落
1945-08-06 アメリカ、広島県広島市に原子爆弾を投下
1945-08-09 アメリカ、長崎県長崎市に原子爆弾を投下
1945-08-15 玉音放送
1945-09-02 日本政府、ミズーリ号にて降伏文書調印(太平洋戦争(大東亜戦争)終結)
1945-09-09 日本政府、中華民国南京にて降伏文書調印(日中戦争終結)
.
1950-06-25 朝鮮戦争
1951-09-08 日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)並びに日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約
(日米安保条約)調印
1952-04-28 日本国との平和条約並びに日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約発効
1952-10-15 警察予備隊が保安隊に改組される。浜松に航空学校が設置される(後の航空自衛隊に繋がる)
1953-03-05 スターリン死去
1954-02-01 保安庁に航空準備室が設置される(後の航空自衛隊に繋がる)
1954-05-29 ビルダーバーグ会議初開催
(於オランダ、ヘルダーラント州レンクム、オーステルベーク(Oosterbeek)、ビルダーバーグホテル)
陸上自衛隊(保安隊から改組)、海上自衛隊(海上警備隊から改組)、航空自衛隊(新設)設置
1956-07 昭和31年度年次経済報告(経済白書)発表(「もはや戦後ではない」)
1958-08 大躍進政策
1960-12-27 池田勇人内閣、「国民所得倍増計画」を閣議決定する。
1964-08-02 トンキン湾事件(8月2日及び4日。アメリカによるベトナム戦争への本格的な介入が始まる)
1964-10-10 1964年東京オリンピック(同年10月24日まで)
1966-05-16 無産階級文化大革命(文化大革命)(1976年10月6日まで)
1971-06-17 琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)締結
1971-08-15 ドル・ショック
1972-05-15 琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)発効(沖縄復帰)
1972-09-29 日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明
勃発後に産油国による原油公示価格値上げや産油制限が発表され、オイルショックとなる。
1975-11-15 G7サミット初開催(於フランス・ランブイエ)
1978-01-07 イラン革命(1979年2月11日まで)
1978-08-12 日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約調印
1978-10-23 日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約発効
1978-12-22 改革開放(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議にて提唱)
1985-09-22 プラザ合意
1987-12-08 中距離核戦力全廃条約(INF条約)発効(2019年8月2日失効)
1989-01-07 昭和天皇崩御。元号が昭和から平成に改められる。
1989-04-01 消費税導入(当初は3%)
1989-06-04 六四天安門事件
1989-12-29 日経平均株価、取引時間中に38,957円44銭の最高値を付ける(史上最高値)。終値は38,915円87銭。
.
1993-07 衆院選で自民党が敗北し、非自民連立政権が誕生する(55年体制の終焉)
1993-11-11 欧州連合条約(マーストリヒト条約)発効(調印は1992年2月7日)
1995-11-23 Windows95が日本国内で発売される。
1997-07 アジア通貨危機
1997-11-03 三洋証券、経営破綻(会社更生法の適用を申請する)
2003-03-20 イラク戦争(2011年12月15日まで)
2006-12-30 サッダーム・フセイン死刑執行
これ抜けてるって物があったら教えてくれよな~
82年〜83年 アメリカ・ペンシルバニア州クエーカー タウンフリープレス紙に職場留学
89年8月 毎日新聞社退社
2002年10月〜テレビ朝日系列「ザ・スクープスペシャル」キャスター
2002年10月〜2011年3月 「スーパーモーニング」(テレビ朝日系)月~木曜日コメンテーター
2003年4月〜2005年3月 関西大学社会学部教授(マスコミ専攻)
2004年4月〜2005年3月 「僕らの音楽」(フジテレビ系列)
2005年4月〜 TBS ラジオ「大沢悠里のゆうゆうワイド」(月曜日スーパートーク)
【賞罰】
2001年4月 「日本記者クラブ賞」(桶川女子大生ストーカー殺人事件報道に対し)
(ザ・スクープスペシャル『警察の裏金追及第一弾、第二弾』に対して。
『うちのお父さんは優しい 検証・金属バット殺人事件』(共著明窓出版)
『ニュースの職人 「真実」をどう伝えるか』 (PHP研究所)
『歳には勝てる』(マガジンハウス)
戦争について、学ぶことはなんの意味があるのだろうか。ふとそう思った。そして、それをいくつかの切り口に分けて考えてみた。
私が生まれたのは平成がはじまってすぐのこと、ちょうどソ連が崩壊した時期だ。
もちろん、私にとっての戦争は、まったくもって身近なものではない。
ただ、平和とか戦争について考えているうちに、あえて書いて、いまのところの自分の考えを残してみたくなった。
特にここでは、日本が直接関わった直近の戦争であり、当事者が生存している第二次世界大戦もしくは大東亜戦争について書きたい。
それでも、もう70年も昔のことだ。もう30年過ぎて、あっという間に終戦から100年くらい経ってしまうだろう。
戦地に赴かない限り、また時代を遡らない限り、戦争を経験するというのは不可能である。そこで、戦争とはなんだったのかというアプローチが一番初めにくる。その方法は、博物館に行く、写真をみるなどなど様々である。特に、昭和のひと桁年代に生まれた方々が生きている間は、彼らが直接経験したその記憶から学ぶという方法が可能だ。国民の高揚もしくは虚脱、戦争の残虐性を生の声で聞くことができる。ただ、これはあと10年もしたらほとんど不可能になってしまうかもしれない。
2) なぜ戦争が起こったのかを学ぶ
なぜ人は戦うのか、なぜ領土拡大を目指したのか、なぜ支那事変は起きたのか。戦争という歴史的事実の起点に対して、なんで、と問いかけてみるのは素朴ながら、ものすごく頭の回転を必要とする。当時の国際情勢はどうだったのか、リーダーたちはどのような野望と認識を持っていたのか、国民はそれにどのように反応したのか。様々な要素が重なりなって、奇襲や宣戦布告へと結びつく。今後、自分たちの国を戦争に巻き込まないためにも、なぜ戦争は始められたのかという視点は重要だ。
3) なぜ戦争に負けたのかを学ぶ
戦争は悪だという考えで、考えることそのものを停止するのは簡単だ。負けてしまった戦争の敗因を考えても仕方がない、という声もあるだろう。ただ、同じ過ちを繰り返さないという意味でも、その分析は意味を持つ。たとえば、地図をみながら、その伸びきった補給線に嘆息するのもそうだし、インパール作戦など、個別の作戦の是非を問うてみることもできる。ミッドウェー海戦をひとつの転機とするならば、ガダルカナルなどその後の日本軍の行動をチェックしてみるのもいい。失敗から学ぶ、その絶好の材料がここにあるはずだ。
4) 戦争のあとに何が起こったのかを学ぶ
玉音放送を流したのが8月15日、日本が降伏文書に調印したのは9月2日である。敗戦を迎えた日本はどのような戦後処理を受けたのか。それは戦争によって決められた勝者と敗者の間における、責任と今後の関係性の規定だ。東京裁判はじめ戦争犯罪人の断罪や、大日本帝国憲法の破棄と日本国憲法制定のプロセス、国体及び皇室制度と政治責任に関する議論など、その射程は広い。もちろんサンフランシスコ平和条約も外せない。戦争の前と後でどのような変化があったか。それまでの常識が非常識になり、非常識が常識になったその転換を捉えることは、私たちが生きる時代のはじまりを知ることができる。
5) 戦争の裏で何が起きていたのかを学ぶ
戦争から何十年も立ち、研究も進んだいま、私たちはひとつのできごとをいろんな視点から見ることができる。日本が必死になって戦争していた裏で、連合国はその後の戦後秩序についての議論を重ねていた。その反対側のやりとりを見ることは、面白くもあり、悲しくもある。例えばカイロ会談、テヘラン会談、ポツダム会談では、その後の大国による世界秩序の土台がどのように作られていったのかを知ることができる。往々にして、物事は知らないところで決定されているものだ。
6) その後の人びとは戦争をどのように捉えたのかを学ぶ
最後に、後世に生きる人びとはどのように戦争を捉えたのかを考えることは、非常に重要だ。戦争を知る世代はそれをどう形容したのか。戦後の歴史において、知識人や市民がもがきながらその形容詞を見つけていく過程から、戦争と日本、そして市民との関係を考える際のヒントが眠っている。もちろん、戦争そのものを完璧な見方で統一することは出来ないし、しなくてもいい。だけど、その議論をときに批判的に、ときに肯定的に見つめ直しつつ、あえて自由に考えてみよう。戦争の総括というものが不在だからこそ、自分で考えることが必要になる。
6つ項目をあげて書いてみた。もちろん諸外国からの視点、人道的な視点など、まだまだ様々な切り口がある。
平和な世界を希求する、実現するためにも、そうでなかった時代をもっともっと知っておいたほうがいい。
今まで書いてきたのは、全て日本の話だけ。あらゆるところで紛争は起きているし、その火種はどこにだってある。
このような問題に対して、目をそむけるのは簡単だけど、目を見開いて、向き合っていたい。
自分は旅行が趣味だが、定年を迎えた後、「東京から各地へ1泊2日のワンショット旅行を繰り返す」というのは、
極めて非効率な気がする。
例えば北海道であれば、札幌のウィークリーマンションに腰を落ち着けて、そこから日帰り旅行なり1泊2日旅行を繰り返す、という方が、
もっとも、定年を迎えたら体力も衰えるから、毎日旅行するのはツライし、そんなにカネも続かない。
だから例えば
てな按配で、1ヶ月程度札幌に滞在すれば、札幌200キロ圏は概ね旅行し尽くして、
体力も温存でき(荷物移動がないから)、費用もそんなに掛からない、という気がする。
「休み」の日も家に閉じこもるんじゃなく、適度に札幌市内の近場を楽しむ。
「土日」は混雑するから、定年後の身分としてはなるだけ外出は避けたいが、
「土日しかやってないイベント」の類もあるから、その辺は適宜。
「ウイークリーマンション」の類は、調べてみたら、県庁所在都市レベルの大きさの町だと存在しているようなので、
それを「ハシゴ」する。
ということで、65歳定年迎えてから、74歳になるまで、9年間で、概ね日本・世界都市の主要スポットを訪問できるような
65歳になって、カネと健康に恵まれていたら、実践してみたいものだ。
A期間=4月10日~4月25日
B期間=5月15日~7月15日
C期間=9月1日~10月31日
D期間=11月15日~12月15日
E期間=1月15日~3月15日(この期間は春節に注意!)
65歳D期間:下関を拠点に山口県制覇した後、熊本へ行って、熊本を拠点に熊本県制覇
66歳C期間:釧路を拠点に道東制覇した後、旭川へ行って、旭川を拠点に道北制覇
66歳D期間:神戸を拠点に兵庫県制覇した後、大分へ行って、大分を拠点に大分県制覇
67歳D期間:広島を拠点に広島県制覇した後、鹿児島へ行って、鹿児島を拠点に鹿児島県制覇
67歳E期間:ナイロビを拠点にアフリカ東部制覇した後、ケープタウンへ行って、アフリカ南部を制覇
68歳D期間:名古屋を拠点に、愛知県岐阜県三重県を制覇した後、宮崎へ行って、宮崎を拠点に宮崎県制覇
68歳E期間:ムンバイを拠点に、インド西部を制覇した後、デリーに行って、インド北部・ネパール等を制覇
69歳C期間:ウィーンを拠点に、オーストリアやハンガリーなどを制覇した後、ワルシャワに行って、ポーランドを制覇
69歳D期間:徳島を拠点に、徳島県制覇した後、高知に行って、高知県を制覇
69歳E期間:リオデジャネイロを拠点にブラジル制覇した後、ブエノスアイレスに行って、アルゼンチンを制覇
70歳B期間:コペンハーゲンを拠点に、デンマークを制覇した後、ストックホルムに行って、スカンジナビア3国を制覇
70歳C期間:ロサンゼルスを拠点にアメリカ西海岸制覇した後、バンクーバーに行って、カナダ制覇
70歳D期間:福岡を拠点に福岡県を制覇後、長崎に行って、長崎県佐賀県を制覇
70歳E期間:ホーチミンを拠点にベトナムを制覇後、マニラに行って、フィリピンを制覇
71歳B期間:シドニーを拠点にオーストラリアを制覇後、オークランドに行って、ニュージーランドを制覇
71歳C期間:ドバイを拠点に、アラブ諸国を制覇後、テヘランに行って、イランを制覇
71歳D期間:高松を拠点に香川県を制覇後、松山へ行って、愛媛県を制覇
71歳E期間:マドリッドを拠点にスペイン制覇後、リスボンへ行って、ポルトガルを制覇
72歳B期間:モスクワを拠点に、ロシアを制覇(ヨーロッパロシアだけだが)
72歳C期間:札幌を拠点に道央を制覇後、函館に行って、道南を制覇
72歳D期間:松江を拠点に山陰を制覇後、那覇に行って、沖縄を制覇
72歳E期間:イスタンブールを拠点にトルコを制覇後、アテネに行って、ギリシャを制覇
73歳D期間:静岡を拠点に静岡県を制覇後、和歌山へ行き、和歌山県制覇
73歳E期間:シンガポールを拠点にシンガポールマレーシアを制覇後、ジャカルタへ行き、インドネシアを制覇
・A、B、C、D、E期間:ハイシーズンを避けている
・たまに(2~3ヶ月に1回)、東京の自宅に戻ることを想定している。
・「キャンピングカーを買えばいい」という話もある。
確かにその通りだが、キャンピングカーで連泊するのは、体力的にどうかなあ?
・いっそのこと、東京の自宅を売り払って、
1~2年は札幌を自宅とし、その後は福岡に移り住んで・・・というジプシー生活を送るのも、いいかも。
・定年を迎えたら、世界一周航空周遊券を買って1年間世界を豪遊し、
その後で福岡辺りで再就職&転居して、九州・中四国・韓国・中国を旅行しまくる、というのもいいかも。
・でも結局、孫ができたら、それを最優先にするんだろうなあ。
・東京から100キロ離れた県(例:栃木)を複数周遊する場合、カーシェア使用前提だと、宇都宮に拠点移した方が、安いのかなあ。
100キロ先まで観光するなら、6,500円+100キロ×2×15円=9,500円。その差5,600円。
せめてエルトゥールル号の件と100年後の恩返しの件を日本人ももっと知ろうぜ
俺も知らんかったから偉そうなことは言えん。
http://shuchi.php.co.jp/article/1325
そして両国の友情を考える際、日本人が決して忘れてはならない事件が、昭和60年 (1985)に起きています。イラン・イラク戦争下のテヘランからの日本人救出です。 イラン・イラク戦争は昭和55年(1980)に始まりましたが、昭和60年3月、イラクによる イランの都市空爆を契機に両国の都市攻撃が激化。イランの首都テヘランにもイラク空軍機が 襲来するなど、情勢は一気に緊迫化します。さらにイラクのフセイン大統領は、3月17日に 「48時間以降、イラン上空の航空機を、民間機であろうと無差別攻撃する」と宣言しました。 各国は大慌てで、自国民救出のための救援機を送ります。しかし日本の救援機は来ません。 自衛隊の海外派遣不可の原則のために自衛隊機を送ることができず、日本航空は労組の反対も あって「航行安全の保証がない限り臨時便は出せない」という方針を打ち出したのです。現地 の日本人は八方手を尽くしますが、他国の航空会社はどこも自国民優先で、乗れる飛行機はほ とんどありません。 いよいよ刻限が迫り、現地邦人の誰もが絶望の淵に沈んだ時、手を差し伸べてくれたのがト ルコでした。トルコ航空機が危険をおして215名の日本人を救出してくれたのです。しかも、 当時、テヘランには600名を超えるトルコ人がいたにもかかわらず、日本人を優先して助けて くれました。 「なぜ、トルコが?」。日本人は皆、不思議に思いました。直接のきっかけは、1つは駐イ ラン・トルコ大使のイスメット・ビルセル氏が、駐イラン日本大使の野村豊氏の懇願を受け、 本国に救援機派遣を要請してくれたこと。もう1つは当時、イスタンブールに駐在していた伊 藤忠商事の森永堯氏が、知己であったトルコのオザル首相に直接、救援を依頼したことでした。 しかし、それらがあったとはいえ、自国民より日本人を優先して救出するほどの決断を、な ぜトルコは下してくれたのでしょうか。その背景には、この救出劇から95年も前に起きた、あ る事件で結ばれた強い絆がありました。トルコの人々は、それを忘れずに日本人を助けに来て くれたのです。その事件こそ、エルトゥールル号遭難事件です。 明治23年(1890)9月16日夜半、台風の荒れ狂う和歌山県串本沖で、オスマン帝国(オス マン・トルコ)の軍艦エルトゥールル号が遭難。600名余の乗組員のうち、司令官オスマン・ パシャはじめ500名以上が死亡または行方不明という大惨事になります。 彼らは、明治20年(1886)に日本の小松宮彰仁親王がトルコのイスタンブールを訪問した ことへの答礼使節でした。東京で明治天皇に拝謁し、オスマン帝国の最高勲章を奉呈した帰路 に悲劇に見舞われたのです。 これに対し、事故現場の串本・紀伊大島の人々は、遭難者の救助に全力であたり、危険を冒 しながら69名を救出しました。当初トルコ人を収容した樫野地区は60戸はどの小さな集落で、 しかも裕福な暮らしではありませんでしたから、トルコ人の介抱は決して容易なことではあり ませんでした。しかし、なけなしの食料や衣類を惜しげもなく提供し、普段は正月にしか食べ ない白米を炊き出して食べさせ、さらに時を知らせる鶏もつぶして振る舞ったのです。 明治天皇も知らせを受けるや、政府を挙げての救援を命じ、トルコ人の生存者たちは手厚い 看護を受けた後、日本海軍の軍艦で翌年1月2日にイスタンブールに帰還しました。また、こ の事件が報道されると、日本全国でトルコへの義捐金を募る動きが澎湃として沸き起こり、現 在の貨幣価値で1億円ともいわれる金額がトルコへ届けられたのです。 この日本人の真撃な気持ちはトルコに伝わり、トルコで親日感情が大きく高まりました。こ れが後の、イラン・イラク戦争への対応などの一連の動きにつながっていくことになったので す。
タリバンはもはや『米海兵隊』並みの強さ、英米の見通しは真っ暗
****************************************
カブールの北方は、ウズベク、タジク人も多い地域で、従来はタリバンが追い出された筈だった。
クンドスから南へ数十キロの国道で、タンクローリーが二台乗っ取られ、NATOは空軍を出動させて空から攻撃、最初の発表では「91人のタリバンを殺害」だった。
詳細調査チームが現場に派遣され、驚くなかれ、というより想像した通り、犠牲者の多くが民間人だった。
こういうことである。
タリバンは囮のようにタンクローリーを襲って、英米軍の注目を誘いこみ、ついで付近の住民を銃で脅し、武器らしきものを持たせて現場付近に立たせた。
NATO空軍機は上空から現場を見れば、武器を携行した兵士が密集しているかに錯覚し、爆弾を投下。実際には百名以上が死んだ。
NATO機はドイツ空軍だった。ドイツでは責任を追及する声があがる。交戦規定では民間人の混ざる場所を攻撃してはいけない、とある。
多くの民間人を意図的に戦闘に巻き込み、夜間は人混みを移動し、人口密集地帯で作戦をとる。
英米軍ならびにNATO軍兵士は作戦上、手枷足枷をはめられたも同然の作戦上の劣化した環境にあり、恐怖の闇との勝負となり、英米軍の犠牲は再び鰻登りとなる。
ところがイラク撤退を表明し、アフガン増派を決めたオバマ大統領が素人であるにもかかわらず、軍事作戦にまで容喙するため、ますます収拾がつかないのである。
「イラクは前任者の戦争、だからわたしはアフガンにこだわり、はやく終わらせる」という自負がオバマの脳幹のなかで逆噴射してしまったようである。
1980年、カーター大統領は武装ヘリにより、イラン急襲部隊を砂漠に飛ばしてテヘランへ潜入させ、人質奪還を図ろうとしたが、自ら作戦まで指揮したので無様な失敗を演じた。
オバマはポピュリズムだけの政治家ゆえにカーターの二の舞を演じるだろう。
ベトナム戦争を指導したのは当時米国最高の知性を謳われた人々だった(ベスト&ブライテスト)。ゆえに戦争は失敗し、当時国防長官という任務に当たったマクナマラは、後日「あの戦争は間違いだった」と猛省するが、遅いって。
自ら国益のためと信じて戦線に赴き、その兵隊たちが必死の戦争をしている背後から、「この戦争は汚い」と猛烈な批判を展開し「手も足も出すな」と引っ張るのだ。
当時、そうした米マスコミ工作を行ったのはKGBのスパイや、影響力のある代理人だった。ソ連の高度な情報作戦だった。
米国は謀略に負けた一面がある。
英米軍の兵器や電子通信による高度の軍事力に正面から闘いを挑んで勝とうという考えは最初から存在しない。
西側が援助した道路、学校、公共の建物を攻撃目標として、多くの民間人を巻き込み、犠牲を懼れず、心理的にNATOと米軍を追い込み、持久性を発揮して勝利するのだ。
夜間の襲撃は頻繁になった。アフガン人主体の治安部隊は訓練が不十分な上、タリバンのスパイが混入しているので、作戦時間が展開兵力の情報が筒抜けになっている。
タリバンを背後で操り、軍事訓練をしているのはいったい誰だろう?
一方、米軍はと言えば兵力不足を補うために民間警備会社(「ブラックウォータ」ーが最大手)と契約し、『戦争のプロ』や退役軍人がイラクからアフガニスタンへ移動した。
かれらも武装している。たとえばカブールの米国大使館の警備も、これら民間警備会社が請け負い、かれらは外国人を、ちょっと訓練を施すだけでインスタントの警備につかせる。
志気は低く、備品から武器を盗み出し、警備はおろそかになる。
NGO「政府監視計画」の調査ではカブールの米国大使館警備は450名、このうちの300名がグルカ兵の末裔と見られるネパール人、仕事中に遊んでいるという。
次のシナリオがみえてきた。アフガニスタンは「タリバニスタン」になる?
通巻第2700号 (増刊号)
「政府が云々かんぬん」つってる方がいますが、Twitterの#iranelection見てると政府の工作(笑)でこんなんなるかいな、と訳者は思います。
原文:http://reinikainen.co.uk/2009/06/iranelection-cyberwar-guide-for-beginners/
訳し終わったらページがAccount Suspendedになってた。これはひどい。
二次原文: Cyberwar guide for Iran elections - Boing Boing
6. Denial of Service attacks. If you don’t know what you are doing, stay out of this game. Only target those sites the legitimate Iranian bloggers are designating. Be aware that these attacks can have detrimental effects to the network the protesters are relying on. Keep monitoring their traffic to note when you should turn the taps on or off.
7. Do spread the (legitimate) word, it works! When the bloggers asked for twitter maintenance to be postponed using the #nomaintenance tag, it had the desired effect. As long as we spread good information, provide moral support to the protesters, and take our lead from the legitimate bloggers, we can make a constructive contribution.
Please remember that this is about the future of the Iranian people, while it might be exciting to get caught up in the flow of participating in a new meme, do not lose sight of what this is really about.
「増田にゃんねるβ」(http://masuda.livedoor.biz/archives/51269766.html)さんに載りました。
イランのガスはパキスタンから中国へルートが確定、米国勢は敗退
そもそもの新グレートゲームの始まりはクリントン政権のときである。
中東から南アジアにかけての資源争奪戦争は冷戦後新しい局面を迎えていた。
「ユノカル」は米国石油メジャーの後発企業で、カリフォルニアが地盤、ただし海外に鉱区の開発権を多く抱える。米国内での政治的コネクションが薄く、主流のメジャーは共和党系が多いため、ユノカルは民主党を頼った。
出発からボタンの掛け違いだったかも知れない。
クリントン大統領はホワイトハウスに実習生モニカ・ルインスキーを招き入れ、情事にふけっていた。
後日、大統領弾劾裁判において、「あれは挿入していないからセックスではない」ととてつもない言い逃れの詭弁でクリントンは危機を切り抜けた。
そんなおりに遠路はるばるとアフガニスタンから珍客があった。タリバン幹部である。
要件はなにか。
トルクメニスタンのガスを、アフガニスタン経由でパキスタンの港へ運ぶ。総延長1560キロのパイプラインを敷設する。これをユノカルが主導する。
米国を引きつけた魅力の第一は、このルートは「悪魔」のイランを通過しないこと。
ソ連崩壊後、世界帝国の輝きを取り戻したかの錯覚のなかに米国は酔った。
クリントン政権はこのプロジェクトに前向きで、カリフォルニアのメジャー「ユノカル」はトルクメニスタンとアフガニスタンを根回しし、それからパキスタンから分岐してインドへも輸出ルートを追加でつなげようとインドを訪問した。
インドも工業化を急ぎ、ガスは必需品、プロジェクトに乗ってきた。
これをトルクメニスタン→アフガニスタン→パキスタン→インドの頭文字をとって「TAPI」という。
直後、タリバン系アルカィーダがタンザニアなどの米国大使館を襲撃し数百の犠牲がでた。
クリントンは激怒し、ただちに報復としてインド洋上の米艦からトマホーク・ミサイルを五十発、アフガニスタンのアルカィーダ軍事基地にお見舞いした。
当時、カブールでタリバン政権に協力して電話工事をしていたのは、中国の企業だった。不発弾のトマホークを中国はタリバン政府から買った。
もちろん1560キロのパイプライン・プロジェクト[TAPI]はご破算になった。
01年9月11日、NY貿易センタービルとワシントンDCのペンタゴンが、テロリストの奇襲を受けた。ブッシュ大統領はただちにアフガニスタンへの空爆準備に入り、まずはロシアを口説いた。
旧ソ連衛星圏のカザフ、ウズベク、キルギス、タジク上空を通過して爆撃機は飛んだ。
米本土からは長距離爆撃機がウクライナ上空をかすめ、NATOはトルコの基地から旧ソ連イスラム諸国家の上空を飛んだ。
そればかりか世俗イスラム国家となったウズベキスタンとキルギスンは空軍基地を米軍に貸与し、タジキスタンには訓練基地、パキスタンも四つの空軍基地を貸した。
グレートゲームの変質を知覚していなかった。表面的に米軍の装備が優れていたため、地上戦、ゲリラ戦の抵抗をかるく想定してしまった。
仇敵ロシアとその配下だった国々がテロ撲滅戦争に協力するという目的で米軍とNATOの活動を支援したことも見通しを曇らせた。
そしてアフガニスタンに米傀儡のカルザイ政権が発足し、カブールにしか統治が及ばない新生アフガニスタンが誕生した。
ユノカルは、「あの話」(TAPI)を復活した。カルザイ政権発足直後にトルクメニスタンとアフガニスタン、パキスタンの三カ国は、例のパイプライン敷設プロジェクトで正式に合意した。
これを不快に見ていたのは第一にイラン、第二にロシア、そして第三が中国である。
密かな反撃が準備された。
イランは中国と密かに武器輸入などを交換条件として、ガス鉱区を与え、さらには25年の長期契約でガス輸出を許可していた。イランが中国からえるものは武器と核技術である。
中国は上海シックスの主導権をもつが加盟六ケ国(中ロ、カザフ、キルギス、ウズベク、タジク)にオブザーバーとして、イラン、インド、パキスタン、モンゴルを加え、あたかもNATOに対抗するかのような、東側の軍事盟主の立場を確保し始めた。
解体されたワルシャワ機構に変わるものとしてロシアは「全欧安保」を言いつのり、CIS間では個別あるいは集団的安全保障条約を結んだが、バルト三国とグルジアと、そしてトルクメニスタンが加わらなかった。
プーチンはがむしゃらにロシア帝国の栄光の復活を夢見て、バルト三国とウクライナへのガス供給をとめ、グルジアには戦争を仕掛けた。
同時に欧州がロシアルート一本のガス供給ルートを多角化するためにナブッコ、ジェイハン・ルートの建設を始めるや、同時に対抗して北方ルート、黒海ルートを提示して欧州を揺さぶっていた。
とくにオーストラリア、ブルガリア、ドイツにはそれぞれが薔薇色のシナリオを提示し、欧州の団結をそぎ、利益誘導型で西側の分断パイプライン建設を妨害する。
トルクメニスタンは砂漠の国だがイランやクエートの匹敵するほどの天然ガス埋蔵があり、いまのところ地政学的にロシアへ流通を依存せざるを得ない。
だからこそニヤゾフ前大統領はガス輸出の多角化に乗り気でアフガニスタンルートの開発が急がれた。これを“脱ロシア”化と捉えるモスクワは不愉快である。
直後、トルクメニスタンの中立路線は変更となり、新政権はややロシア寄りに外交姿勢を修復した。
そして延々と中国へ輸出される総延長7000キロものガス・パイプライン敷設工事が始まり、TAPI・ルートへの比重は軽くなった。
いや、というよりも投げやりになった。
(所詮、アフガニスタン戦争は片付かない。パキスタンは所詮、米国にはつかない)。
トルクメニスタンは変心した。
イランはこの機会を待ち望んでいた。
もともと内陸部のトルクメニスタンとアフガニスタンを経由して、パキスタンの港を目指すというユノカル案は、「イラン回避」ルートである。
だとすればイランはガス油田から運搬ルートを南下させ、南の港へパイプラインを敷設していた。全長900キロのうち、残すところはあと250キロ。
地図を凝視していただきたい。この地点からパキスタンのグァイダール港は「となり」なのである。
すでにパキスタンのムシャラフ前政権のときから、治安の悪いバルチスタン地域に中郷は労働者を運び込んで道路を建設し、資材を運び、グァイダール港を近代的港湾設備を持ったものに改築してきた。
つまりイランからパキスタンの隣町へ運ばれるガスを、この地で精製し、パイプラインでパキスタンの西安から北東へ貫き、しかもインドへは分岐せず、この点でイラン、中国、パキスタンの利害は完全に一致した。
パキスタンは白昼堂々の裏切りを演じた(ここで「裏切り」と穏当でない語彙を用いるのは米国の契約概念からみれば、そういうニュアンスだから)。
中国が最終ユーザーとなり、中国、パキスタンがともに天敵であるインドへは分岐しない。
パキスタン西端に位置するグァイダール港は、すでに中国の資本と技術をもって港湾のかたちをなしており、大々的改築(新築に近い)が進み、アラビア海に面する深海は将来、中国海軍の原潜基地になりうる。
げんに中国の六隻の軍艦はアラビア海、ソマリア沖の海賊退治に参加している。
パキスタンから中国への高速道路も着々と工事がすすみ、嘗てのカラコルム・ハイウエィは完成しているため、ガスの運輸ルートはこれに添ってパイプラインを敷設すれば良いのだ。
中国がこのルートに執着するのはマラッカ海峡への依存度を低減させるためで、ほかにもアンダマン沖合のガス田から(開発成功後は)ミャンマーを南北に貫くパイプラインを建設して、マラッカ海峡への依存度をさらに激減させる計画がある。
中国にとっては、ユノカル買収を土壇場で拒否された米国への心理的復讐劇にもなる。
パキスタンはこのパイプラインの通貨料収入を年間五億ドルと想定、つまりこれをAPAI計画では、アフガニスタンがもともと受け取る予定だったのだが。
イランとパキスタンとの正式調印はイランの大統領選挙の直後に盛大にテヘランで開催される(アジアタイムズ、5月27日、6月3日付け)
敗者はインドとアフガニスタンと米国、勝者はイランとパキスタンと中国。
ほくそ笑んだのはロシア、臍を噛んだのはトルクメニスタン、そして日本はいつものように、こうしたグレートゲームの変質さえ知らず、ユウセイの人事とか、セシュウ制とか、およそ世界の現実とは無縁の矮小な論議にエネルギーを費やしている。