はてなキーワード: タグとは
洗濯機でいうとフラグシップモデルの10kgから12kgクラス
レベルの違いは機種の違いもあるし
これを言うと「おれは予洗いしない勢」が出てくるんだけどじゃあ衛生的って話はどこいったんだよ。
予洗いしないと衛生的じゃないって話もよくわからんが、海外食洗機は予洗いを自動でする。予洗いしてから洗浄が始まる。
国内据え置きでも最後に80度すすぎをするから衛生面で問題があるとは思えないけど
食洗機ユーザーがいう予洗いは残飯処理。大量に残ったものを生ゴミとして皿から取り出す行為。普通に食べ終わった皿は予洗いなんてしない
洗濯機でいうとカレーがついたから事前に洗剤付けしてから洗うとか、泥汚れがすご過ぎて他の洗濯物が汚れるなーみたいな時にちょっと手洗いしてから投入する行為とかでは
服も洗濯表示ごとに分けるだろうし、なんなら色物でも分けると思うのだが…どういうこと?
食洗機は耐熱温度で分けるぐらいだが、低温で洗わないといけないものは少ないし
低温だろうと綺麗になるので汚れたままっていうことは一度もないが…
そんな食洗機はないと思うが…
洗濯機だと毎回ホコリを取り除くように、食洗機だと残飯受けを洗うぐらい
洗濯機では洗濯槽の掃除を定期的にするように、食洗機も庫内の洗浄(と言ってもクエン酸などを入れて1回洗浄するだけ)は必要だ
これも服と同じ
家で洗えるもの、おしゃれ着用じゃないと洗えないもの、クリーニングじゃないとダメなものいろいろある
食器も大半はそのまま洗えるし、漆器や木製も食洗機対応が増えてきた
洗濯機であれば洗濯機置き場があるのが当たり前だし、脱衣カゴを置く場所もある
食洗機は場所が用意されていないし、使用済み食器を置く場所もなく調理場所を間借りする
服には洗濯表示タグが付いていてどう洗濯すればいいかわかるようになっているが、
食器や調理器具には共通タグはなく、対応しているかは個別に確認が必要だ
そんなわけで食洗機に否定的なのって家が狭い人なんじゃないかと思う
戸建てでは35%弱普及しているのに賃貸だと5%なのがその証拠
食洗機が不便なのではなく、まともな洗濯機を置けない家に住んでいるだけ
もしくはフラグシップモデルの洗濯機を買えずに激安洗濯機を買って「汚れ落ち悪いな」「量洗えないな」「音うるさいな」って言ってるだけ
その頃Xでは不便になるわー分断されるわーサンダーバード残してよな関西人と、水さすな関西の自業自得だ新大阪まで新幹線繋げろって北陸の泥沼分断が起きていた。
さらに鉄オタが#くたばれ北陸新幹線とかハッシュタグ作ってトレンド入りして油を注ぎタグ作った犯人見えなくなってさらに戦争が、流石分断のプロXさん。
ツイッター上で好きだったイラストレーターさんや漫画家さん、絡んでもらってたフォロワーさん等々が続々AI規制派発言をするようになっていってて辛い。吐き出させてくれ…
SNS上で見かける規制派の意見がマジで理解できない。何あれ?
規制派が「これは絵描きの総意です!」みたいなノリで言ってることに全然共感できない。
あの人たちは自分の中の絵描き像が大事で、自分の想定するようなスタンスでない絵描きのこととか想定もしていないんだろうな。
インターネット上の主張は主語がデカくなりがちとは言え、「この属性の人たちはみんな同じ気持ち!」みたいな態度キツいっす。
私も趣味で描いてる絵描きだけどあの人たちと同じ考えは全然持てない。
絵画の著作物でとりわけアニメ調や漫画調の人物イラストを別格の存在と思っていそうって言うか…
規制派の人がよく訴えてる「絵は我が子のようなもの。機械学習にかけられることは我が子をミキサーにかけられるような気分になる」みたいな例え話に一ミリも共感できない。
何故なら私は私の描いた絵に対して生まれてこの方一度も我が子だとか思ったことがないので。
絵は絵じゃん。
自分の絵を見て「よく描けた」「好きだ」とか思うことはあっても「これは我が子だ」みたいな感覚は湧いたことがないのであれ系の例えに全然共感できない。
絵を描く人間がみんな自分の絵に対して「我が子」と認識すると思わないでほしい。
と言うか、私が今までネット上に公開した絵について機械学習された可能性があることについて私は特に何の感慨も抱いていないんだけど。
「ふーんそうなんだ」くらいにしか思えないって言うか…
何も思ってないことについて「絵描きは怒るべきだ!」みたいな圧を感じるの怠い。
怒ってないことに別に怒れないよ…
イラストであれ写真であれ、画像データである以上はピクセル一つ一つに色の情報が乗ってるだけって性質は引き剥がせないじゃないですか。
私は機械学習の技術的な仕組みとかよくわからないけど、あれは「『人間』というタグが付けられた画像ではこの色情報を持つピクセルの横にこの色情報を持つピクセルが配置されている傾向にある」みたいなデータ配列の偏向を学習してるだけなんじゃないの?理解が間違ってたらごめんね…
そう考えると生成AIが学習段階でやってることは別にコラージュでもミキサーでも単純な複製でもなくない?
いや、機械学習、データ解析の過程で複製が伴うとしてもそれは権利侵害に当たらないと規定しているのが著作権法なのだろうけど…(法律の理解がガバってたらすまん)
未だに「生成AIはコラージュだ」みたいな誤情報を信じている人がいるのよくわからん。
データ配列の偏り方を学習してるだけであって盗んでもいないし切り刻んでもミキサーしてもいないよ。
あと「権利上の問題がある」「著作権的に違法だ」みたいな主張も謎すぎ。
学習権みたいな権利は日本の著作権法には規定されてないと思うんだけど。
どこの国の法律を見て言ってるんだろう?
私が不勉強なだけで実は日本の法律に存在するとかだったらマジで教えてほしい。勉強したいから。
著作権って単語を「自分の作ったものを好き勝手されない権利」って雑に理解しているのか?
あらゆる形での他人の利用を拒否できる権利ではないと思うんだけど…
たぶん「著作権」って単語を相手が怯む魔法の言葉だと思って使ってるんだろうな…
「外国では集団訴訟されている問題のあるツールだ」みたいな訴えもよくわからん。
外国で起きた訴訟はその国での法律で争われるのであって、外国の裁判で出た判決が直ちに日本にも適用されるとか無くない?
日本でも新たな法が作られるとかの時には海外の事例も参考にはされる可能性もあるだろうけど、日本の外で起きている事柄を根拠に「日本も倣うべきだ」みたいなノリがよくわからん。
と言うか日本での訴訟があるなら是非知りたいんだけどどなたかご存知ないですか?
著作権路線で生成AIを責めるならSNSの運用もちゃんとしてほしい。
生成AIに反対している人のツイッターアカウントを見に行ったら、著作権が切れていなさそうな漫画の切り抜き画像や映画、アニメ、TV番組のスクショ画像を引用の要件を満たさずに投稿していたりするのを見て頭抱えた。
生成AIを他人の著作物を蔑ろにするものと主張しながら自分はバリバリに他人の著作物の権利侵害行為してるのはダブスタすぎるでしょ。
あとpic it upとかの「自分で描け」的な主張に本当に賛同できない。
もし仮に私が「自分で描け」的な思想に賛同したら、それはありがたくも私のイラスト素材を購入し使ってくださっている方々に対して失礼じゃないですか。
自分で描く力や時間がない時、描き方がわからない時とかにそういうツールを使うって点で考えれば、手描きのイラスト素材も画像生成AIも役割として変わらないじゃん。
求めるイラストを作るためのツールを適法に使うことを悪だとする思想には私は賛同できないです。
というか、「自分で描け」「手描き詐称するな」みたいなご意見をお持ちの方々は、職務著作という制作体制が存在することについてどういう理論でその意見との整合性を取ってるの?
要は、その絵を自分で描いていないのに自分が著作者だという名目でその絵を発表することを非難なさっているんですよね?
でも例えば、漫画家さんが作画アシスタントさんを雇用して漫画制作に参加してもらう…みたいな制作環境はよくあるわけじゃん。
で、そうやって漫画家さんが指示を出してアシスタントさんに描いてもらった背景や効果、モブ等々は漫画原稿の一部となり、最終的に漫画家さんの名義で漫画雑誌やwebページ、単行本の形で発表されるわけじゃん。
そうやって作品が発表される際に作品に表記されるのって漫画家さんの名前だけですよね?漫画家さんが自分で描いていない部分もあるのに。(時々単行本の本文内でアシスタント名を掲載されている場合もあるけど雑誌掲載時はその限りでないですし)
自分で描いていないのに自分の名義で発表するというケースはこういう漫画制作現場の例に限らず世に無数にある。
著作権法では職務著作という名目で一定の条件下でそれを可能にする規定もあるんですが、「自分で描け」「手描き詐称するな」みたいなご意見をお持ちの方々はその辺の法律とはどういう風にそのご意見との整合性を取ってるの?
「自分で描け」「手描き詐称するな」という主張を通すなら職務著作についても非難することにならない?
知ってる上であんなめちゃくちゃな主張を言っていたとしたら主張のロジックがガバガバすぎるでしょ…
生成AI使用者を盗人、犯罪者呼びするのもやめといた方がいいと思う。
お手持ちの画像データはご自身の画像フォルダやネット上のサーバーからひとりでになくなったりしてないでしょう?
マジでお手持ちのデバイスから画像データが盗まれて消えたとかならサイバー犯罪だと思うから警察とかに相談した方がいいですよ。
第一、ネット上にアップロードした絵を複製されることが嫌って言うならネット上に画像をアップロードしない方がいいと思うのですが…
誰かがネット上にアップした画像を他人がネットを介して閲覧する際にはその他人が使ってるデバイスにその画像データが複製されるのはネットの仕組みとして当たり前にあるって言うか…
インターネットってものがそういう仕組みをしていて、尚且つイラスト投稿サイトやSNS等を利用して画像をアップロードする際に「あなたがアップロードしたものはこういう風に使いますよ」って規約に同意した上でサービスを使っているわけじゃないですか。
適法かつ契約内容に則ってネット上にアップロードされたデータが使われることに対して盗人、犯罪者呼ばわりするのは筋違いじゃないか…?
と言うか、どんなに正当な怒りがあっても他人に対して暴言を言うのは誹謗中傷とか侮辱になる可能性があるからやめといた方がいいですよ。
特定のイラストレーター風のLoRAが作られるのが嫌って気持ちも分からなくはないけど、絵柄や作風ってものには著作権の保護は及ばないし…
と言うか絵柄や作風にまで著作権を及ばせようとする規制派の主張は怖いっす。
著作(財産)権は著作権者の死後70年も効力を発揮する強力な権利じゃないですか。(団体名義での公表であれば公表後70年だけど)
そんなに長い期間似たような作風、絵柄での作品制作を規制するのはだいぶ無理筋では?
制作過程にAIを使用してもしなくても私は自由に絵を描きたいよ。
絵柄や作風にまで著作権の保護を及ばせようとする意見には賛同できないっす。
いわゆるimage to imageの手法でご自身のイラストが加工されたことに関しては、加工の結果の生成物が依拠性と類似性があると判断できるならば複製権等の侵害として使用の差止請求や損害賠償請求をすればいいのでは…?
そうした上で使用をやめてくれないのであれば裁判しかないかなぁとは思うのだけど…
裁判費用に関するカンパとかするなら私も多少は出すから裁判頑張ってほしい。
頑張って!頼む!
規制派の人たちって、法律やAI、普段自分が使っているネットやデジタルツールの仕組みへの無知と無理解から、新技術に対して不安や不快感を抱いている印象がある。
自分の作品を守りたいという気持ちがあるのなら、法律では自分たちにどのように権利が与えられ保護されているのかや、自分たちが普段使ってるツールや技術がどんな仕組みをしてるかについて知っておいた方がいいよ。
文化庁のホームページなら無料でそれ系の知識を漁れるし、もっと体系的に知りたいなら知的財産管理技能検定のテキストを読むのとかおすすめ。3級なら内容もだいぶ簡単だし。
つーかこの1年程SNS上で見てきた規制派のプロのイラストレーターさんやプロの漫画家さんたちが著作権法に関する基礎的な理解も無さそうな様子にぶっちゃけかなり驚いている。
プロでしょ?
我が子とか魂に例える程に大事なんでしょ?
グレイズとかえまもりってサービスの提供するノイズフィルターがあるらしいじゃん。
そのノイズフィルターかけてない画像をネット上にアップロードする行為を「(これをしていないと)あなたも無断学習による加害行為の加担者になります」みたいな非難を規制派の誰かがツイートしてるの見てだいぶキツかった。
私は自分で考えた上で別にそういうフィルターかけなくても問題ないと思ってるからノイズフィルターかけてないだけなんですけど。
それを加害への加担?はあ?言い掛かりすぎない?
前述したように私はネット上に自分がアップロードしたものが機械学習されようが特に何も思わないし、仮に機械学習されたくなかったとしても、元画像が肉眼で容易に判別できる程度のうっすらしたノイズをかけたくらいで機械学習防止の効果があるとは思えなかったからノイズ加工してないだけなんですけど。
効果があると信じてご自身でご自身の画像にご使用になるのは何とも思わないけど、他人が自分と同じように行動していないことを加害への加担とか言うのは失礼すぎない?
してない人間にだってしてない人間なりの感情や考え方があるんだよ。
愚痴だいたい書き終わったな。
彼らの思想では私のような絵描きがいることは想定されてないっぽいし。
何が嫌かって、私自身が何も思ってないし問題視もしてない物事について絵描きって属性だけで雑に規制派陣営から味方認定されて同士として振る舞え的な圧が感じられるのが嫌。
規制派の言ってることは創作の自由度を狭めることに繋がると思う。
この1年ちょっとで好きなイラストレーターさんや漫画家さんが続々そっち方面になってしまったのは本当に心の底から残念。悲しい。
私は「適法であったり個別に結んだ契約等に反しない範囲であるなら自由に好きにどんなツールを使って描いてもいいじゃん」ってスタンスの絵描きです。
だからこそ、自分の描いたイラストが誰かの役に立てばいいなって思ってイラスト素材の販売もしているのだし。
生成AIの登場や広まりに特に何も反対してない絵描きもいるってのだけ覚えていってもらえれば…
まぁこんな場所で匿名で愚痴ってるのは規制派によるネットリンチが怖いからなんだけどさ。
自由に好きなツールを使って絵を描いて公開してもネットリンチを受ける心配のない世の中になってほしいよほんと。
長々と書いたけど私も法律とか技術的な知識をその道のプロほど十分に知っているわけではないです。
技術や法律に関する記述が間違ってたり不足してるなって思ったら適当にコメントしてください。拝読いたします。
私もまだまだ勉強したいんで。
箴言の「愚か者」に関する文を読むと、私自身が本当に愚か者に思えてきます。
しかし「自身を賢いとみなす者」「軽率な発言をする者」は愚か者以下の存在であると箴言にはっきり書かれています。
現代のソーシャルメディア時代をまるで言い当てているかのようです。
ソーシャルメディア(SNSのこと)では、自身を賢いと思ったり、軽率な発言をしている人たちがトローリングをしています。
ある人は「匿名で活動していたらそのせいで職を失ったので、実名で活動するようになりました」と言っていましたが、匿名であろうと実名であろうと、口数が多ければ罪を避け得ないと言われます。
確かに彼は実名で活動することによりたくさんのフォロワーに囲まれることとなりましたが、彼のマウンティングに傷つく人はたくさんいるようです。
議論というのは、内容を見て判断するべきものです。それを、「低学歴が何を言っても無駄である」といったことを言う人がいます。
まるで高学歴の自分は賢いから議論する価値があるとでも言いたいような、そういう人たちがいるようなのです。
その証人が正直なことを言っている限り、知性で張り合う必要はないのです。
ところで、私は最近、「ユーモア」というものがなんなのかわからなくなりつつあります。
例えばちびまるこちゃんで、山田がおちゃらけているときに、「ははは、馬鹿臭い」と笑うのは、嘲りに基づいています。
あるいは芸能人のネタを見るときも、基本的には馬鹿らしさに対する嘲りではないでしょうか。
たくさんの「笑い」が、実は嘲りに基づいていたことを認識すると、何が良い「笑い」なのかわからなくなってきたのです。
唯一言えるのは、私が犬と遊んでいるときの笑いは嘲りではないということです。
そしてソーシャルメディア上の「笑い」の多くが嘲りに基づいていることを認識したので、「ソーシャルメディアを楽しむ」というのが、一体どういうことなのかわかりません。
単に情報を共有するのが目的であるなら、怒りを誘うような「おすすめ」も必要ないし、トレンドタグも必要ないでしょう。必要な情報をくれる人をフォローすればいいだけです。
しかしこの「必要な情報をくれる人」というのも厄介で、必要性に基づけば99%はノイズなのです。
すると、ソーシャルメディアの使いみちはもはや「仲のいい友人と連絡を取るためのツール」ぐらいで良いような気がしてきますし、知性をひけらかすために他人を煽る必要はないと思うわけです。
要約すると、「愚か者以下の存在」がソーシャルメディアユーザーには多くいます。インフルエンサーがその例でしょう。
歴史的に培われてきた、箴言のような倫理観は、現代において軽視されているように見えます。
ソーシャルメディアに保存された情報は今後何十年と経っていったときにどうなるのか。恥ずかしい黒歴史を溜め込むだけのものになっているかもしれませんね。
この作品はパリオートクチュールコレクションに2023年の時点で唯一参加する日本人ファッションデザイナー中里唯馬氏に密着したドキュメンタリー映画だ。これはファッション業界が地球に対してネガティブな影響が多すぎること、GHG排出量や環境汚染の大きな原因になっていることに対してファッションデザイナー自身が向き合い、コレクション制作に取り組んだ記録である。
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ここ以降、ネタバレ的な話、映画制作に関わったステークホルダーたちの発言の抜粋などにも一部言及する。そのためこれから視聴を控えていらっしゃり、なんの前評判も誰の感想も読まずにまず自分の主観で作品を視聴したい方は、ここ以降は念のため読まないでください。
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>Fashion production makes up 10% of humanity’s carbon emissions, dries up water sources, and pollutes rivers and streams. What’s more, 85% of all textiles go to the dump each year (UNECE, 2018), and washing some types of clothes sends significant amount of microplastics into the ocean.
>ファッションの生産は人類の二酸化炭素排出量の 10% を占め、水源を枯渇させ、川や小川を汚染しています。さらに、毎年全繊維製品の 85% がゴミ捨て場に送られており ( UNECE、2018 年)、一部の種類の衣類を洗濯すると、大量のマイクロプラスチックが海に流されます。
(引用:The Geneva Environment Network, https://www.genevaenvironmentnetwork.org/resources/updates/sustainable-fashion/ )
しかしファッション業界も、企業やブランド毎に速度も歩みの幅も大きく異なるが、ネットゼロへ進みはじめている。2023年後半の時点で、NIKEとadidasの靴やアパレルを購入した際には、この2ブランドについては、製品タグを付ける紐は紙製、靴の梱包材も全て紙製など生分解性素材への移行が見られた。近年adidasがコラボレーションを発表し続けている英国のデザイナーであるステラマッカートニーは、ステラ氏自身のアパレルや化粧品において早くから持続可能性を追求している点でも名高い。
それでも私たち人間が消費するファッションアパレルとしての服や靴それ自体が、最終的にゴミとして扱われ、それがアフリカへ、良い言い方をすれば「皺寄せ」、正確に言うと「ゴミ処理先」として送られる。
映画『燃えるドレスを紡いで』では、中里唯馬氏と監督の関根光才氏がアフリカを訪れた。中里氏は自身が身を置く業界がうみだしたものたちが消費された結果どこにいくのかという点で、行き着く先のひとつとしてアフリカを選んだのだ。映画本編では、彼らがアフリカで過ごす様子を視聴したのち、中里氏の仕事風景を見ることができた。そしてそのまま、彼のオートクチュールコレクションの映像と、それらへの評価、メディアの反応などを見ることができ、映画は終わった。
ファッション業界とそこに携わる人間としての中里氏の考えなどについては、ここでは言及しない。それぞれが視聴した上で、それぞれの考えを抱いて欲しい。
私自身は、人間の存在とその経済活動ほとんど全てが地球への負荷であると考えている。ファッション業界の影響が大きいにしても、私そしてあなたの存在も地球環境に負荷をかけているのだから、それをわきまえれば「特定の業界が悪だ、最悪だ」なんて意見は軽薄ではないかと思う。気分によっては、2024年に子供を産もうとしている人は、2044年や2064年の地球環境は確実に悪化するだろうことがわかっている中で、なんて酷なことをするのだろうと考えることもあるくらいだし、しかし、そう考えるが子供を産み育てる人を軽蔑や見下げたりすることは決してない。ファッション業界だけが地球環境を悪化させているわけではないと言いたい。
しかし、人間たちの研究開発と技術革新は進み、各業界で既存業界の課題と技術のブリッジが続く中、ファッション業界においては、消費者の意識とともにいろいろなことが遅れているのかもしれない。
映画『燃えるドレスを紡いで』で中里氏がアフリカで過ごしている時の映像で、中里氏がたびたび自分の見たものや景色に対して「美しい」と口にしていたのが印象的だった。その形容詞が、多勢に同じ感想を与えるものかはわからない。実際、監督も「どのあたりが美しいですか」というように問うていた(言葉が少し違ったかもしれない。違いましたら後日修正します)。
アフリカの映像は、日本などの先進国とは全く違う環境で、雑多としたものたちに溢れ私たちがゴミとして扱うものが最終的に行き着いたアフリカのゴミ山や、雨が降らず乾燥し切った土地、そこを移動しながら暮らす遊牧民たちの生活などだ。
中里氏はここから美しさを見出したし、私はそれに感動した。キュレーションされていない場所に行って何を見て何を感じ、どう言語化するか?、これは人による。単純すぎる感想だが、美しさを見出せる人は美しいものを作る側にもなれるのかもしれない、と思った。
中里氏がアフリカから戻り、チームに制作のコンセプトなどを発表したときの様子が好きだった。
制作のコンセプトをチームに発表する、チームはそれに従う、でいい。それでいいのだが、そのときにチームメンバーがそれぞれ発言をして、その様子は「中里氏に完全に従う」といった様子ではなかった。語弊があるかもしれない、もちろん彼の名前で発表するコレクションであり、彼のチームメンバーは彼のコレクションのために働くことになるのだから結果的には従うことになる部分が大きいだろう。しかし、中里氏の決意や発表に対して、取り掛かる前に、チームメンバーが各自発言ができること自体が、これができるチームは日本にある数多の組織の中でも意外と少ないのではないかと思えたのだ。とても良いチームに見えた。
私はオートクチュールの制作現場に対する知識がほとんどないに等しいが、ステークホルダーの多さや切迫感は目を見張ったし、最終的に時間との戦いになるさまには共感できる部分もあった。私などが共感を覚えるなんて言葉選びとして軽率では?おこがましいのでは?という点は一旦脇に置くとして、スケジュールの甘さや時間管理の不備ではなく、自分の名前で成果物を提出するときに「もう少し、どうにか良くできるのではないか」と思えてしまい手を止められなくなった経験は、私に限らず、ビジネスパーソンとして経験したことがある人も多いはずだ。さらにそれが、オートクチュールのコレクション…!?その後のルックがメディアなどで写真動画そしてモデルや取材者の感想とともに二次三次と広がる。なんて覚悟のいる仕事だろう。「とりあえず自分の持っているボールをなんとかして、次の人に投げれば、なんとかしてくれる、そしてそれはとりあえず所属会社の名前として世の中に出る」ような仕事のやり方と比較すると、全く異なる状況だ。自分の名前で作品を出す、誰も拭えない。そんな状況、いつまでだって試行錯誤したくなるに決まってる。これで完成だ、と手を止める瞬間はどう決めるのだろう?、あるいは降りてくるもの?そんなことも思った。
試写会では作品上映後にトークショーが行われ、WIRED編集長の松嶋氏が進行をつとめ、登壇者から話を引き出した。
松嶋氏はアフリカのゴミ山で服が舞う様子や鳥が飛ぶ様子が美しかったというようなことをおっしゃった気がする。実際に美しい映像だと思った。嘘みたいに大きい鳥(そして実際にも多分、とても大きい鳥)が前後左右に悠然と歩いたり止まったりしている間でゴミを拾う子供や女性の映像、洋服やその切れ端などが鳥とともに空を舞う映像。その映像を現地で撮影した関根氏と中里氏は、現地で風が吹いたり竜巻が起きたりした時は死ぬかと思ったと笑いながら話してくれたが、その裏側は本編に一切残さず、本編では映像として映すのみで、感想は見る側に委ねてくれたことを嬉しく思った。
全体を通して、感想を視聴者に委ねるような仕上がりになっていたように受け取ったし、私はそれに感謝した。この映画で見ることのできる映像たちに、美しい、汚い、怖い、綺麗、綺麗事、すごい、面白い、行ってみたい、行きたくない、見てみたい、着てみたい、など、どのような感想を抱いてもいいし、自分の抱いた感想に対して、なぜそう思ったのか掘り下げたらいいだろう。白黒はっきりつけず、議論し続けるべき話題はたくさんある。WIREDで取り上げられる特集や話題のほとんどがその類のものだ。人々は対話を続けなければならない。だからこの映画『燃えるドレスを紡いで』への感想も、私のようにとても良かったと考える人もいれば、地球温暖化は陰謀だとか、アフリカにゴミが集まるのは当然だといった感想を抱く人ももしかしたらいるのかもしれない。自分あるいは他人が抱いた多様な意見に対して、なぜそう思ったのか、と対話を続けること、対話を諦めないことが日本にも世界にもファッション業界にも必要なのだろう。
この映画を見て、自分が買っている服、ひいては、自分の買い物という消費行動を見直したい、誰かに拭わせるような生活や仕事をせず自分の責務やその範囲を適切に見定めて、その範囲を広げたりしっかり守ったり、うまく守れた時は余力で周りを助けたりしながら自分と地球の関係性をよく考えながら生活したいと思った。
あと、WIRED JAPANが大好きなので、これからも愛読し続けたい。
追記。
映画に登場する人々に、登場シーンでクレジット(登場人物の名前や所属)を表示させた上で、もちろんエンドロールにも名前を掲載する、という画面の作り方は、ドキュメンタリーの手法としてめずらしくはないのでしょうか。この辺りの知識がないため滅多なことは言えないのだが、登場人物の名前や所属をその画面で明示する編集が好きだった。やはり、協力者の一人として自分が登場するシーンには、期待や嬉しさなどをもっているはずだ。私はこのような、協力者たちへ感謝を伝えるようなあたたかな編集や画面作りに強く好感を持つ。1人ではできなかったことへ協力したくれたステークホルダーにできる限りの感謝を述べる姿勢を、私も忘れないようにしたい。
ってか、最近のYoutuberがそんなタイトル使ってんのかい
私の記憶だと、2007年頃の初期のニコニコ動画で、挙動不審なマリオプレイ動画(KASとか)に
(あとタミフルとか)
当時は笑えたが、まあ確かに今じゃ駄目だね
酔っ払って理性を失った状態に「降りてやって」、初めて貴様との会話が考慮に値するレベルなのだって言われてるようでムカつく。
仮に作者をAさんとする。
何十周とは言わないが、合計20本くらいあるAさんのそのシリーズの動画を5、6回は見てきたと思う。
動画はシンプルで過度な編集はなく、作中入れられる解説の文体も端的でわかりやすい。派手さはないが落ち着いていて、本当に気に入っていた。
このシリーズは仲間の名前をプレイヤーが決められるのだが、ネーミングセンスも知的さとユーモアに溢れていて、動画のどこを拾い上げても作者の知性の高さを感じられた。
Aさんは私が未プレイのゲームの制限動画も投稿していたが、「Aさんだから」と視聴しにいくくらいには、自分はAさんという投稿者が好きだった。
思いだしたので最近またAさんの動画を見返していたところ《同じジャンルの別シリーズを、同じ制限プレイでクリアする》という動画がおすすめで出てきた。
あの作者だろうかと期待してリンクを開いたら、どうやら別人のようだ。
仮にBさんとする。
どうやらBさんは先発のAさんを知っていて、その上で同じコンセプトで挑戦をしているようだ。
キャプションや動画内で明文化されてはいなかったが、動画タイトルはAさんのものに寄せられていたし、制限する内容のリストについてもやはり先発のものを引き継いでいたところから、言うまでもないですよね、といった感じだろうか。
当然期待した。
あの動画を見て、いざ我もと挑戦したのだろう動画だ。気合も入っているだろう。わくわくと再生アイコンを押した。何本か視聴して思う。あまり面白くない。どうして。
理由を探しに。正直に言えば口直しの気分で、一旦止めていたAさんの動画に戻る。
・制限内容はほぼ同じ
・ちゃんとどちらも完走している
こういった部分は同じなのだが、どうしても違う。
例えば解説文の文体。これは感覚の話だが、どこか角の強いというか「初カキコ…ども」的なBさん自身の性質が滲んでみえるというか。
本人が面白いと思って載せたのであろう文中の冗談的表現も、ドヤりを感じて笑いづらい。連れ歩く仲間のネーミングセンスも、意外性や驚きがあんまりなかった。
Aさんは制限プレイの他、動画内で展開が間延びしてしまうときの穴埋めとしてシリーズの歴史を語っていたりして、それをBさんは(私が視聴した数本の動画内では)行っていなかったが、これだけが理由ではないように思う。
制限プレイ動画のメインディッシュは当然、制限を守ってクリアできているかどうかである。そこはしっかり押さえられている。
ハンバーグ頼んでつけものが出てきたとか、そういうアレじゃない。どちらも完走している。ハンバーグを頼んでしっかりハンバーグが出されている。
ゲームの色んな仕様を頭に叩き込んで、詰め将棋のような緻密さがあって尚、運を掴まなければ完走できない制限だ。
AさんBさんともに、頭だっていいはずなんだ。
なのにどうしても、あらゆるエッセンスにおいて、Bさんシリーズの視聴が増えるたびに、Aさんとの差を如実に感じてしまう。
動画のシーンの切り替えのタイミング、言葉選び、加速開始のタイミングや加速終了のタイミング、そういう様々な、感覚のセンスだ。あまりに、Aさんシリーズの完成度が良すぎた。
BさんはきっとAさんシリーズを受けて、自分なりに出来る工夫を盛り込んだのだろう。
同じレベルの、匹敵するような動画を作るぞと、Bさんなりの編集を行って投稿してくれたのだと思う。そこも感じられてよりしんどい。
似た構成だからこそシンプルに浮かび上がる随所のセンスのレベルの差があまりに分厚い。
同じ台本でも演出の差で陳腐扱いされるか王道扱いされるか分かれてしまうものだが、力量の差とは恐ろしい。
動画のメインでないはずの随所でAさんを思いだすのが辛くなって、Bさんシリーズの視聴ウィンドウをそっと閉じた。
たぶん、続きは見ない。
金銭は発生しない自己満足による創作だが、趣味として楽しんでいる。
誰かと同じテーマで──といった創作をしたことはないが、ああいう創作が出来ればと憧れを持っている人は何人かいる。
なんなら、自分の得意なこの部分だけなら憧れのあの人にも届くのではないかと思ったりしたこともある。
過去の自分のこういった思考も、全部いたたまれなくなってしまった。
Bさんの動画のもどかしいポイントが、全部自分にブーメランになって刺さってくる。
もしかせずともこれまで「うわ、あいつあの完成度で出来てるつもりかよw」みたいなこと、思われてたりしたのかな。
あ゛ーーーーーーーー!!!!!!!! やだよーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!
出来てないのに出来てるつもりで振る舞ってたかもしれないと思うだけで顔真っ赤だわ。
それを人様が作った動画で感じてしまったということが更に失礼でダメージ二倍だよ。ファッキンガム。
どっかで聞いた、自分が同じレベルだと思ってる人は本当はもっとレベルたけーんだよとかいうの本当だった。
概要:
というかじゃあ君らはChatGPTとか使わないということでいいの?
本文:
前提として,反AI絵師は「自分の著作物を生成AIの学習には使うな」という主張をしているように見受けられて,それ自体は別にいいんだけども他の著作物に対して目端が効いていないように思える,という認識がある.
そもそも人間が生成した全ての創作物には著作権が生じるもので,この観点からは絵も音楽も文章も等しく尊重されてしかるべき.
なんだけども反AI絵師は絵だけを過剰に特権化しているように思える.
この文脈での「反AI」のAIは,ほぼ「生成AI」とイコールという認識なんだが,となると文書生成に対しても反対しなければ筋が通らない.
なのだけれども,ChatGPTに代表されるテキスト生成やGithub Copilotに代表されるソースコード生成(提案)に対しては何も言っていない.
Whataboutismじゃねえか,と言われるかもしれないが,生成AIの代表であるChatGPTにおいてテキスト生成部分と画像生成であるDALL-Eが並列にメニュー上に存在している以上,そこを完全に別物だと主張するのは無理がある,と考える.
というかChatGPTに「こういう画像を作りたいのでDALL-Eに渡すプロンプト生成してくれ」って指示も可能だしな.
というわけで,この文脈で「反AI」と言った場合,画像生成とテキスト生成の両方に対して反対の立場に立っている,立っているべきである,というのがここまでの話.
で,生成AIは何もないところから生成できるわけではなく,学習するデータが必要になる.
反AI絵師はそこで「自分の画像を使うな」という主張をしていると理解している.
別にそう主張しても構わないとは思う.
思うんだが,じゃあテキスト生成もソースコード生成も,さらに突き詰めると検索エンジンも使うなよ,というのがここからの話.
テキスト生成も画像生成と同様に学習するテキストが必要になる.
で,そのテキストをどこから持ってきているのかいえば,インターネット上に存在する文書となる.
そして(大抵の場合において)インターネット上に存在するテキストには作成時点で著作権が発生してて,それを勝手に学習してテキスト生成に使っている,というのが現状の生成AIがテキスト生成を行う場合の振る舞いとなる.
上記の文における「テキスト」を「画像」に置き換えたものに対して反対の立場を取っているのが反AI絵師,という理解なんだが,であれば当然テキスト生成に対しても反対すべきだろう,と思う.
思うんだが,本当にその辺は反AI絵師はどうでもよいらしく,ChatGPTとそれに付随するDALL-Eも特段の問題としていないように思える.
一貫性の観点からは,著作物に対して同意を得ていない学習に基づく生成全てに対して反対の立場を取るべきでだろうと思えるのに,反AI絵師は画像生成以外を問題とせず,よく分からない特権を振りかざしているように思える.
絵を描く人間だから画像生成以外に対しては放置する,という主張なのかもしれないが,生成AIの生成対象が拡大している現状,その主張は「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」と変わらんのではないのか.
そもそも,Google検索の最初のバージョンはPageRankベースだったわけだが,これは「多くのWebサイトからリンクされているページは価値が高い」という尺度に従って構築されている.
あるページにリンクを張る,つまりリンク先のページに価値があるのかを評価するのは,リンクを張った人間であり,つまりその価値を生成しているのは人間なわけだ.
そして人間が生成した価値をもとにリンク先のページの評価を決める,というのはつまり複数の他人の脳みそのいいとこどりをしているに他ならない.
生成AIに反対するのが「自分が描いた絵にフリーライドして価値のある絵を生成しているのは許されない」という主張であるのならば,他人の脳みそにフリーライドしてページに価値を付けている検索エンジンも同様に許されないものであるべきだ.
これは「生成AIの反対するならば検索エンジンも使うな」という主張の根拠になる.
別に本気で言ってるわけではないんだが,反AI絵師がどこまで考えて主張してるんだろうか,という疑問はずっとある.
1. 反AI絵師の主張を丁寧に拾ったわけではない雑な話なので「藁人形論法」と言われたらそうかもしれん
2. 「反AI絵師」の「AI」が指し示す対象が「生成AI」ではないかもしれん
ただし著作権の適用対象の公平性の観点から「画像生成AI」に限定した議論を特別視できる理由はない
個人的には画像周りへの対応は,検索エンジン避けみたく「画像生成の学習に用いられることに同意しません」みたいなタグを埋め込む形での対応になりそうな気がしてる.
そしてそのタグが普及せずになし崩し的に画像についても生成AIが一般化するんじゃねえかなあ.
あと,「現状,PageRankそのままでは使われなくなってねえか?」という主張は妥当なんだが,だからといって何もかもが変化したわけではない.
結局人間の脳みそにフリーライドするのが一番効率いいのには変わりないしな.
Github Copilotは優秀だけど,だからといってあれがpilotになるわけではない(正解「案」を提示するのと正解を提示するのとの間にはマリアナ海溝よりも深い溝がある)のと同様に,画像生成も人間のそれを(少なくとも完全には)代替できねえんじゃねえかなあ,と思う.
上記の文章は最近うだうだ疑問に思ってたんだけども,「絵師の立場から言いたい「反AI」の人の態度について(https://note.com/magic_clover2991/n/n0ec2827346af)」読んで,頭の中の整理も兼ねて書くか,という気持ちになったので書いた.
優しい人格者キャラほどモラハラクソ野郎みたいな改悪見かけるのもクソ。大抵相手の受けの方が原作ではクソ野郎なのに。
どうせ受け推しだから「健気で可哀想な受けちゃん😢そんな攻めやめときなよ👊💥本当に攻めサイテー!最後はざまぁするからね😠😠😠」みたいな感じなんでしょ?モブキャラでやれよ。既存キャラ使うな。キャラ産み出すほどの創作性のなさで原作キャラを改悪するな。
そしてそういう作品書く奴に限って「キャラヘイトの意図はありません」とか注意書に書いてるのもクソ。
普通に「私は受けだけが好きなので攻めに関心がないのでキャラ改悪しますね!」って書けよ。「原作もキャラも大好きです!」とか嘘書くな。クソが。
書くなとも公開するなとも言わないけど注意書で嘘書くのと、それにCPタグつけるのだけはやめろ。CPタグつけたいならキャラヘイトとかキャラ改悪も併用しておけ。クソが。