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2024-08-25

anond:20240825144033

三国ヶ丘からなら串本でもまだ余裕な行程で行けるんやなー。いいな(大阪府北部住民

派遣おっさん青春18きっぷの旅に行って来た

夏休み派遣おっさんと俺の1人で青春18きっぷの旅に行って来た

夏だし勝浦にでも行くかってことでマグロを食べに行った


7:00に三国ヶ丘電車に乗った

日根野で乗り換えて和歌山に向かった

8:00前に和歌山駅に到着。


和歌山駅の電車待ち時間に駅に入ってるコンビニで缶ビール4本と酎ハイを2本買った

御坊行きの電車に乗って海南を超えて、海が見えたあたりで缶を開けて飲んだ

湯浅までに一本。湯浅から御坊までに酎ハイを一本飲んだ

9:00に御坊着。

御坊田辺行きに乗り換え。

風景を見るのも飽きてきたので派遣おっさんゲームをしてぬるくなってた缶ビールを飲みながら、田辺に向かった

10:00田辺着。次の串本行きまで50分の待ち時間があるので、何するかって話になって世界遺産があるらしいので世界遺産闘鶏神社ってのを見に行った

神社お礼参りをして、近くのダイエーに行って缶ビールを4本と酎ハイを買った

派遣おっさん海岸に行きたがってたが、砂見ても仕方ないだろというと渋々従った

11時出発。串本までは山の中を通って行くのでネットも繋がりにくく嫌いな芸能人の話をして盛り上がった

12時時串本着。また電車の待ち時間が1時間あったので、駅前商店街をぶらぶらした。魚屋コロッケを食べたりロケット🚀を見たりした

駅から5分くらいで海だったので一応海も見た。

13時出発。14:00前に勝浦に着いた


勝浦マグロ丼を食べた。トロがいっぱい乗っていた(派遣おっさん刺身定食を食べてた)。足湯土産物屋でマグロ唐揚げやお刺身クジラを買った


16:15勝浦発。田辺までの直通。同じ景色を見てもつまらいから酒を飲みながらゲームをした。ファールガイズパクリっぽいゲームをやった

18:00。田辺着。すぐに乗り換えた

19:00。御坊着。30分の待ち合わせ。御坊駅前は何もない。コンビニ焼鳥とかつまみと酒を追加した

20:00和歌山行きに乗る。和歌山まで真っ暗で何もなかった。

21:00和歌山着。〆の和歌山ラーメンを食べたいと派遣おっさんが言い出したので駅近くで和歌山ラーメンを食べた。派遣おっさんゆで卵を2個も食べてた

22:50三国ヶ丘に到着


マジで疲れた。もう二度と派遣おっさんとは行きません

2024-08-17

化石破壊する趣味

私は化石破壊するのが趣味である

「膨大な時間をかけてできた重要もの」を破壊する背徳感がたまらない。

この社会に一矢報いた気持ちになる。

詳しく説明しよう。私はもともと化石には興味がなかったが、ふとしたきっかけで、割と素人でも化石を発掘できることがわかった。

少し大型のハンマーとタガネを持って、ノジュールという化石が入っていることが多い石の塊を探し、ノジュールを周囲の石から取り出しハンマー割れ化石発見である

ジュール素人目でも判別やすく、ノジュールが出る地域河川に行けば誰でも発見できる。

(なお化石採取目的ならブラシもあってもよいが、私は持ってない。破壊目的からである)

そのノジュールを探し、割るとアンモナイト恐竜の歯と思われる化石が出てくる。これを破壊するのが、なんとも楽しいである

生痕化石発見した際も念の為破壊しているが、やはり骨の化石破壊がびりびりと脳髄に来る。

長い年月を経て作られたものを、自分の手で破壊する快感。「この化石に関しては永久学者調査することは不可能」という実績を作った快感

「ひょっとしたら新種かもしれない。それを破壊してやった」という快感

私のような弱者男性社会に一矢報いた感覚なのである

この「化石破壊したい」という執念はなかなか強烈で、勉強が苦手な自分も層序学を学び地層を読めるようにし、どれが堆積岩かも一目でわかるようになった。

化石採集系のコミュニティで共有されがちな、化石採集スポットには移動費をかけて行っている。

福井はあまり恐竜が有名になってしまたから、研究されつくされた感があって2度しか行っていないが、それ以外の有名どころを巡っている。

例えば串本町化石スポットと知っている人は少ないのではないだろうか。わざわざ串本まで行って化石破壊することは、単なる旅行ではない喜びがある。

三笠市にも行った。千葉にも行ったが、あれは中新世なのでそこまで興奮しなかった。

話が長くなったが、私が伝えたいことは一つ。化石破壊する趣味は、弱者男性にはうってつけのコスパの良い趣味だと思う。

ぜひ鬱憤が溜まっている皆様におすすめしたい。

2024-07-23

追記あり東海道新幹線 三大迂回コース

(追記)ブコメ等を参考に追加しました。所要時間費用は参考程度で。

「"同じルート考える人多数で明らかに混雑しそうなルート"をできるだけ避けられないか?」という点をちょっと考慮しています

鉄路


空路空路+鉄路

参考)駅から最寄り空港までの所要時間新幹線再開見込み無しを駅で見て絶望している状況を想定)

 東京羽田 モノレール京急 約40分

 東京成田 スカイライナー 1時間 成田線・バス 1.5時間

 新大阪伊丹 バスモノレール阪急 約40分

 新大阪神戸 新快速阪神阪急 約1時間

 新大阪関空 特急南海バス 約1時間

海路

陸路


あと一つは?

2018-03-18

anond:20180318163044

移動時間もかかるので、全部は難しいです。

移動は車で、駅からレンタカー借りて乗り捨て、もしくは、自家用車おすすめします。

海沿いなら、白浜串本勝浦で、山なら、川湯温泉、わたらせ温泉龍神温泉で宿を取るのがいいと思います

2014-08-02

また馬鹿なお人好しの日本人がチョンに技術を渡した


マグロ http://2chcopipe.com/archives/51948757.html

近大勉強してた韓国人学生養殖技術の資料を丸ごと持って韓国帰国。でその韓国人がその養殖技術特許申請してるらしい。ご丁寧にも昨年末韓国船が串本近大マグロ養殖場傍に突っ込んで座礁…近大養殖場の壊滅まで画策?


いちご http://blog.livedoor.jp/nico3q3q/archives/68082188.html

苗を利用しないって嘘ついて、日本農家からもらって、その後、韓国勝手栽培→販売、支払いは当然拒否


ジジイ10年かけて、すごい美味いイチゴの新品種を作り出す。

韓国人が、絶対他人に譲らないからウリにも作らせてと懇願

ジジイ、熱意に負けてその韓国人だけは生産することを許す。

韓国の4割を占めるほどの人気品種に。

ちょ、おま、なんで流行ってんの、分けるなって言ってんやろがー!

ウリは分けてないニダ。親戚が勝手に配ったニダよ。

ウリはルール守ってるニダよ、ウリはね。

ジジイイチゴと別の品種を掛け合わせたイチゴ

韓国イチゴとして正式に登録される。

これでもうジジイには1円も払う必要すら無くなったニダw



他にも馬鹿企業がたくさんたくさんある。

車>三菱現代

造船>川崎現代

新幹線川崎中国

原発東芝韓国

鉄鋼>新日鉄韓国

液晶シャープサムスン

バイクスズキ韓国



すごいね!!これからもどんどん韓国中国技術お金を渡していこうね!

日本人貧乏人が損しても、韓国人中国人貧乏になるのは放っとけないからね!!

2013-09-09

トルコほっこりするなら

せめてエルトゥールル号の件と100年後の恩返しの件を日本人もっと知ろうぜ

俺も知らんかったから偉そうなことは言えん。

トルコ旅行した時ガイドさんに教えてもらった。

http://shuchi.php.co.jp/article/1325

そして両国の友情を考える際、日本人が決して忘れてはならない事件が、昭和60年
(1985)に起きていますイランイラク戦争下のテヘランから日本人救出です。

 イランイラク戦争昭和55年(1980)に始まりましたが、昭和60年3月、イラクによる
イラン都市空爆を契機に両国都市攻撃が激化。イラン首都テヘランにもイラク空軍機が
襲来するなど、情勢は一気に緊迫化します。さらイラクフセイン大統領は、3月17日に
「48時間以降、イラン上空の航空機を、民間機であろうと無差別攻撃する」と宣言しました。

 各国は大慌てで、自国民救出のための救援機を送りますしか日本の救援機は来ません。
自衛隊海外派遣不可の原則のために自衛隊機を送ることができず、日本航空労組の反対も
あって「航行安全保証がない限り臨時便は出せない」という方針を打ち出したのです。現地
の日本人は八方手を尽くしますが、他国の航空会社はどこも自国民優先で、乗れる飛行機はほ
とんどありません。

 いよいよ刻限が迫り、現地邦人の誰もが絶望の淵に沈んだ時、手を差し伸べてくれたのがト
ルコでした。トルコ航空機が危険をおして215名の日本人を救出してくれたのです。しかも、
当時、テヘランには600名を超えるトルコ人がいたにもかかわらず、日本人を優先して助けて
くれました。

 「なぜ、トルコが?」。日本人は皆、不思議に思いました。直接のきっかけは、1つは駐イ
ラン・トルコ大使のイスメット・ビルセル氏が、駐イラン日本大使の野村豊氏の懇願を受け、
本国に救援機派遣要請してくれたこと。もう1つは当時、イスタンブール駐在していた伊
藤忠商事森永堯氏が、知己であったトルコのオザル首相に直接、救援を依頼したことでした。

 しかし、それらがあったとはいえ、自国民より日本人を優先して救出するほどの決断を、な
ぜトルコは下してくれたのでしょうか。その背景には、この救出劇から95年も前に起きた、あ
る事件で結ばれた強い絆がありました。トルコの人々は、それを忘れずに日本人を助けに来て
くれたのです。その事件こそ、エルトゥールル号遭難事件です。

 明治23年(1890)9月16日夜半、台風の荒れ狂う和歌山県串本沖で、オスマン帝国(オス
マン・トルコ)の軍艦エルトゥールル号遭難。600名余の乗組員のうち、司令官オスマン・
パシャはじめ500名以上が死亡または行方不明という大惨事になります。

 彼らは、明治20年(1886)に日本小松宮彰仁親王トルコイスタンブール訪問した
ことへの答礼使節でした。東京明治天皇に拝謁し、オスマン帝国の最高勲章を奉呈した帰路
に悲劇に見舞われたのです。

 これに対し、事故現場串本紀伊大島の人々は、遭難者の救助に全力であたり、危険を冒
しながら69名を救出しました。当初トルコ人を収容した樫野地区は60戸はどの小さな集落で、
しかも裕福な暮らしではありませんでしたから、トルコ人の介抱は決して容易なことではあり
ませんでした。しかし、なけなしの食料や衣類を惜しげもなく提供し、普段は正月しか食べ
ない白米を炊き出して食べさせ、さらに時を知らせる鶏もつぶして振る舞ったのです。

 明治天皇も知らせを受けるや、政府を挙げての救援を命じ、トルコ人の生存者たちは手厚い
看護を受けた後、日本海軍軍艦で翌年1月2日にイスタンブールに帰還しました。また、こ
の事件が報道されると、日本全国でトルコへの義捐金を募る動きが澎湃として沸き起こり、現
在の貨幣価値で1億円ともいわれる金額がトルコへ届けられたのです。

 この日本人の真撃な気持ちはトルコに伝わり、トルコ親日感情が大きく高まりました。こ
れが後の、イランイラク戦争への対応などの一連の動きにつながっていくことになったので
す。
 
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