「791年」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 791年とは

2018-02-18

モンハンに出てきそうなクラシック作曲家

獣竜種 砕竜 ヴォルフガング(1756年 - 1791年オーストリア

獣竜種 尾槌竜 ドヴォルザーク(1841年 - 1904年チェコ

獣竜種 恐暴竜 イヴァノヴィッチ(1845年 - 1902年ルーマニア

飛竜種 火竜 シベリウス1865年 - 1957年フィンランド

飛竜種 角竜 ディアギレフ(1872年 - 1929年ロシア

古龍種 天彗龍 バルトーク1881年 - 1945年ハンガリー

鳥竜種 彩鳥 フィリペンコ(1912年 - 1983年ロシア

2013-09-23

なぜフランス革命は分かりにくいのか

フランス革命は、平民(第三身分)が旧体制を打破した革命である

のように説明されることがあります。この説明は間違っているわけではありませんが、「平民」という均質な集団一丸となって何かをしたかのような誤解を与える点で、フランス革命の内容を分かりにくくもしています

平民(第三身分)は、農民都市の下層住民を総称した民衆と、民衆よりも裕福な中間層であるブルジョワからなります(職人を雇わず家族だけで仕事をしている親方や店主ぐらいが下層のブルジョワ民衆との境界層です)。しかブルジョワ民衆意識の上でも利害的にもあまり仲がよくありません。

ブルジョワ民衆は協力関係にあるよりもむしろ敵対しており、それぞれ自律的に行動していたととらえる方が、フランス革命の動向が分かりやすくなります

実際にフランス革命の流れを追ってみます

革命が始まるまで

普通フランス革命の期間は、バスティーユが襲撃される1789年7月からロベスピエールが処刑され恐怖政治が終わる1794年7月までの5年間、またはナポレオン総裁政府軍事クーデターで倒す1799年11月までの10年間とされます

しかしその当時フランス社会構造がどのようなものフランス革命が始まるまでどのような進展があったを知っていた方が、フランス革命の推移もわかりやすくなります

わかりやすくなるのですが、ここではバッサリはぶきますブルジョワ民衆がそれぞれ自律的な勢力であるという複合革命論の考え方を前提にして書かれた

などを読んでみてください。

またもっと伝統的な、革命の精神を称揚するタイプの解説として

があります。こちらのタイプの説明の方が分かりやすいという人もいるでしょう。

革命の始まり(1789年 5月~10月)

(ヴェルサイユで開かれた全国三部会は、第三身分強硬姿勢により憲法制定の議会に変身し、バスティーユ襲撃後の国内混乱を利用し封建的特権の廃止に至ります)

1789年5月5日ヴェルサイユ(パリから約25キロ)で始まった全国三部会は、採決形式でもめ審議に入らないまま紛糾します。第三身分強硬姿勢を崩さず、特権身分の中にも第三身分への同調者が出たこともあり、7月9日に憲法制定国民会議として再出発します。

しか7月11日に第三身分に融和的な財務長官ネッケルが罷免され、これがパリが伝わるとパリ市民は王の軍事行動が近いと恐れ、自衛のための食料調達武器調達に動き、焼き討ちや略奪が発生します。富裕市民政府軍隊への対抗と秩序維持のため常設委員会を設置し民兵組織します。

7月14日にはバスティーユの要塞に武器の引き渡しを求めて民衆殺到し、バスティーユ内で交渉が続くさなか襲撃が始まりバスティーユは陥落します。市庁舎まで連行された司令官ドローネーは群集に引き込まれて殺され、市長フレッセルも射殺されます

新たに組織されたパリ市当局ブルジョワ民兵(国民衛兵)を国王政府は追認せざるをえず、他のほとんどの都市でもブルジョワが市政の実権を握ることになります

一方バスティーユ占拠の報を受けた農村では、貴族が浮浪者を雇って報復をおこなうという噂が広がり、その恐怖から各地で領主の館の襲撃が行われ、「大恐怖」と呼ばれるパニック状態になります

自由主義貴族だけでなくブルジョワ議員の多くも地主であるため民衆の騒乱は早急に鎮める必要がありますが、正規の軍隊に頼ることは王や保守貴族の立場を強めることになるのでできません。そうしたなか8月4日の決議が行われます

8月4日閉会後の夜に抜き打ち的に再開された議会で、自由派貴族によって領主特権の廃止が提案され、熱狂的興奮のなか課税特権の廃止など諸特権の廃止が次々と宣言されます。大恐怖の圧力を利用して封建的特権の廃止に成功し、農民の騒乱も沈静化していきます

これで憲法の議論が進むようになり、8月26日には人権宣言が採択されます

しかし王は特権廃止の法令人権宣言批准せず、9月末には治安維持名目ヴェルサイユ軍隊を集結させます

10月5日食糧危機を訴えるパリ民衆ヴェルサイユに行進し国民衛兵がそれに続き、民衆は窮状を訴え国民衛兵は王に圧力を加えます。王は法令人権宣言批准、翌日には王一家はパリのテュイルリ宮に移されます。続いて議会パリに移り、ここから憲法と法令の議論が本格化していきます。一方で亡命する貴族が増えていき、国内政治分裂も本格化していきます

91年憲法の制定まで(89年末~91年9月) (革命勃発後1年目、2年目)

(91年半ばまではフランス革命期としては平穏な時期ですが、この時期に国内の対立が進んでいきます。また国王の逃亡未遂が発覚するヴァレンヌ逃亡事件(91年6月)によって王の威信が失墜し戦争を望む声が高まります)

議会パリに移り、諸特権廃止の内容や具体的な法律が決められていきます。ヴァレンヌ事件が起こるまで比較平穏とされる時期ですが、国内にさまざまな対立が生じていきます

1789年後半から91年にかけて、議会外に政治組織が形成されていき対立の構図ができていきます

また各地で反領主騒乱が発生していますが、そうした騒乱は徐々に革命反革命かという政治的な枠組みで解釈されていくようになります

さらに聖職者民事基本法をめぐって宣誓拒否問題が起こりますカトリック聖職者の多くは革命には好意的でしたが、叙任式における宣誓義務に対して大多数が拒否をします。議会からの警告が出されますが、地方によって大きくバラツキがあるものフランス全体で約半数の司祭が拒否します。教皇ピウス6世が民事基本法を否認したこともあってカトリックは内部分裂する事態になります。宣誓拒否司祭とそのもとにあるカトリック民衆は「反革命」に押しやられ、のちのヴァンデの反乱(ヴァンデ戦争 1793年3月~)の原因の一つになります

91年6月に国王一家がパリから逃亡し途中で発見されるというヴァレンヌ逃亡事件が起こります

これを受けて、外国支援された亡命貴族が攻めてくる、外国侵略が始まるという考えが広がり、国王救出を目的とした外国人が侵入してくるという予想から国民衛兵による警戒体制しかます

7月には主要な政治組織であるジャコバンクラブが、王の廃位共和制要求する請願書をめぐって分裂し、多数派の穏健グループはフイヤン・クラブとして分離します。

8月にオーストリアプロイセンが、フランス国王のために武力介入もありえるとするピルニッツ宣言を出したため、亡命貴族陰謀説にさらに拍車がかかり、外国との戦争を望む声が高まっていきます

そうしたなか9月3日立憲君主制にもとづく1791年憲法が制定され、9月30日に憲法制定国民議会は解散します。

開戦、王権停止(1791年10月~1792年8月) (革命勃発後3年目)

(インフレ物価上昇により食料問題が悪化し民衆の不満は増大していきます国内の多数が開戦を支持するなかオーストリア宣戦布告し(92年4月)、続いてプロイセンとも戦争状態になりますが、フランス軍の劣勢となります軍事的危機と国王への不満が積み重なり、パリに集結していた連盟兵やパリ民衆恐慌的な敵意が王に向けられ、王の廃位要求され、8月10日テュイルリ宮が武力制圧されます(8月10日事件)。これを受けて議会王権の停止を宣言し、新たな憲法制定のための国民公会召集を決議します)

憲法制定議会が解散した翌日91年10月1日に、9月までの選挙で選ばれた議員達による立法議会が開会します。再選が禁止されたため全て新人議員で、貴族がほとんど選挙に立たなかったため議員ほとんどは裕福なブルジョワです。立憲君主制を守りたい穏健派フイヤン派議会の最大勢力、共和制を主張するジロンド派(ジャコバンクラブのこの頃の多数派)がそれに続きます

なお同業組合や団結を禁止したル・シャプリエ法(91年6月)に抵触する恐れがあるため、政党存在しません。そのため、どの派でもない、審議内容ごとに立場を変える中間派(平原派)が、この時期に限らず常に議員の多数を占めます。そのため派閥議員数だけでなく、中間派の動向(またその動きに影響を与える議会外の動向)が重要になります

また議会内の各派の勢力数自体も確定したものではなく常に流動的で、各勢力をどう呼ぶかにかんしても文章によって違うことがあります

議会の中心的課題は、周辺諸国からの脅威にどう対処するかです。(それと穀物価格の上昇に対する価格統制の要求に対して、革命後の基本原則である自由主義あくまで守るのか、民衆要求を受け入れるのかも問題になっていきます)

これに対してジロンド派は、国内の不満をそらして(インフレにより物価が上昇し各地で食料暴動が発生していた)政治イニシアティブを獲得するために「自由の十字軍」などの言葉対外戦争あおります民衆の多くも「外国と共謀する亡命貴族」への脅威と愛国感情の高揚から戦争を望んでいました。

92年3月、フイヤン派大臣が王によって解任されジロンド派内閣が成立し、4月にオーストリア宣戦布告、数週間後にはプロイセンとも戦争に入ります(戦争ナポレオンが二度目の失脚をする1815年まで中断もありつつ続くことになります)。

しかし緒戦から敗戦が続き、「反革命」者へのより強力な措置を求める声や宮廷への不信から共和制を求める声が高まっていきます。またセクション(区)の政治活動を通じて民衆政治的組織化されていきます

そうした流れが最終的に民衆と連盟兵による8月10日のテュイルリ宮の襲撃に行き着くのですが、この事件偶発的に起こったバスティーユ襲撃とは異なり王の廃位を求めての組織された行動だったにもかかわらず、そこに至る決定的な原因があるわけではないので要約しづらく、フランス革命の大きな転換点の一つのわりに説明しにくい事件です。

ここでは事件の結果だけ述べると、立法議会は蜂起側の勝利がはっきりした後、王権の停止を宣言し、新たな憲法を制定するための国民公会召集を決議します。これでフランス共和制に向かうことが確定します。また国王一家はタンプル塔に幽閉されることになります

王の処刑、戦争の拡大、ジロンド派の没落(1792年8月~1793年6月) (革命勃発後4年目)

(戦争フランス軍の劣勢から優勢に変わり周辺領土占領します。93年1月には国民公会裁判結果により国王が処刑されます。周辺領土占領国王の処刑を原因として周辺諸国の多くと戦争突入し、さらに国内ではヴァンデ地方を中心に大規模な反乱が起こります議会ではジロンド派山岳派の対立が深まっていき、国内外の諸問題への対応のまずさからジロンド派民衆の支持を失い、93年6月ジロンド派逮捕議会から追放されます)

8月10日王権が停止しますがフランス軍が劣勢の状況にあることは変わりません。義勇兵がつどわれ前線への準備がなされる一方、反革命裏切り者排除する空気が広がり、家宅捜索がなされ多くの反革命容疑者逮捕されます。さらにパリへの侵攻の脅威が高まり義勇兵が出発したあと反革命者がパリ住民を虐殺するという噂も流れ出します。

そうした不穏な情勢のなかヴェルダン要塞陥落のニュースパリに届きます。これをきっかけとして、囚人の多くが殺されるいわゆる九月虐殺が発生します。

この事件の結果、内の脅威が消えたと民衆が大挙して義勇兵に参加し兵数万を増やすことになります

一方、この事件国外からの印象を非常に悪いものします。宥和政策を取っていた隣国スペイン首相宥和政策撤回せざるをえなくなり、またフランス革命開始時には革命好意的だった知識人たちも国王一家の幽閉と九月虐殺で決定的に革命嫌悪に転じます

戦況にも変化が生じますフランス軍はヴァルミーの戦いで勝利し、戦況が優勢に転じていきます。なお多くの本でこの勝利はフランス兵の志気の高さによるものと説明されていますが、志気が影響するような戦いではなく兵と砲台の数の差によるものといった指摘もあります(たとえば『近代ヨーロッパ情熱と苦悩』)。

そのヴァルミーの戦いと同日、国民公会が開会します。

普通選挙でしたが投票率は悪く、ほぼブルジョワ議員で占められていますフイヤン派出馬していないので議会におらず、共和制穏健派ジロンド派共和制急進派の山岳派、それに中間派という構図です。(ジロンド派ジャコバンクラブを脱退していくので、山岳派=ジャコバン派とも呼ばれます)

ジロンド派経済的政治的自由主義を維持し議会主導で政治をおこなうという近代的な原則あくまで重視し、山岳派革命の推進と防衛のためには民衆要求も受け入れ民衆運動の利用もありと考える現実路線です。

……とまだまだフランス革命の時期は続いていくわけですが、予想外に長くなったので中途はんぱなところですがここまでとします。

93年1月に国王が処刑され、6月ジロンド派の追放で山岳派一党独裁(ただし基盤の脆弱独裁)になり、恐怖政治の時代が翌94年7月まで続き、ここで一区切りとなります

2008-10-20

この記事は歴史的に間違ってる

教育刑犯罪抑止した世界で最初の人物は鬼の平蔵だった

http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20081020/1224440558

これを書いた人は詭弁論者か、或いは単に無知なのかどっちかでしかないな。

まず、長谷川平蔵は以下のような事跡で有名な人物である。

寛政3年5月3日(1791年6月4日)、江戸市中で強盗及び婦女暴行を繰り返していた凶悪盗賊団の首領・葵小僧を逮捕、処刑した。被害者に配慮し、逮捕後わずか3日で処刑している。三田村鳶魚は宣以が機転を利かせたためであり、幕府もこれを了承したとしている。

wikipedia-長谷川宣以

長谷川平蔵宣以は、無宿人対策で人足寄場を作ったんであって、これはワーキングプア軽犯罪者の対策なんだよな。

凶悪犯人に対しては長谷川平蔵はこれに限らず、常に厳罰(大抵死刑)を以って対処している人なのよ。

そこをこの人は誤解している。

そもそも長谷川平蔵が就いていた火付盗賊改方という役職は現在人権意識からすればある意味とんでもない組織で、

拷問日常茶飯に行っていたし、厳罰というより手当たり次第に死刑にする警察なんだよな。

江戸学の祖・三田村鳶魚はこう書いている。

(火付盗賊改方の中山)勘解由は元来なかなかの仏者でありました。それが六方男立てのあばれ者どもを鎮撫する命を受けた時分に、すぐに仏壇をぶちこわして、今日からはもう慈悲では治らない、というので、少しでも風体の変な者は、取っつかまえて詮議もせずに斬ってしまった。

中山勘解由は三万人ほど死刑にしているという記録があるようだし、過酷な拷問方法を考案したという説もある。

火付盗賊改方での拷問による死亡事故も結構有ったようだ。

長谷川平蔵はそれよりは大分拷問を控えているようだが、凶悪犯に対してはひどい拷問をしているという説もあるし、

やっぱり現代の眼から見れば過酷な刑罰を行ってる。

こういうブログの書き方は詭弁の域を出ないでしょ。江戸時代の刑罰についてこのブロガー無知すぎると思う。

2008-03-27

http://anond.hatelabo.jp/20080327144334

歴史的には身体尺、つまり体の一部を使うとかが多いらしい。長さの単位が決まってなくても大きさは表したいから「指3つ分」とか「30歩」とか「歩いて2日」とかになるのは必然だろうね。

以下、主要な長さの定義や起源wikipediaから抜粋。メートル策定時の「半周期が1秒になる振り子の紐の長さ」がいい感じ。

メートル(現在)

現在は1/299,792,458秒に光が真空中を伝わる距離。

1799年白金製の正式な「メートル原器」が作成された。

1960年の第11回国際度量衡総会において、「クリプトン86原子の準位2p10と5d5の間の遷移に対応する光の真空中における波長の1,650,763.73倍に等しい長さ」という新しい定義が採択された。

1983年の第17回国際度量衡総会において、光速度を基準とする現在の定義が採用された。

メートル(起源)

1791年フランスにおいて初めて規定された。

以下の3つの案が検討され第1案が採択された。

  1. 地球北極から赤道までの子午線の長さの1000万分の1
  2. 赤道の周長の4000万分の1
  3. 北緯45度の地点で、半周期が1秒になる振り子の紐の長さ

これらはほぼ同じ長さであるが、その元となったのは、ヨーロッパ各地で使われていた、キュビットの2倍のダブルキュビットに由来する単位であった。

1799年白金製の正式な「メートル原器」が作成された。

キュビット

肘から中指の先までの間の長さに由来する身体尺である。

紀元前6000年ごろの古代メソポタミアで生まれたとされている。

紀元前2750年ごろ古代エジプトのサッカラで、キュビットであると考えられる長さの標準(523.5〜524mm)が用いられていたことがはっきりしている。

それ以外の多くの西洋の文化でもキュビットが使われた。

ヤード

0.9144メートル

キュビットの2倍のダブルキュビットが元になっているものと考えられる。しかし、ヤード起源とされる説は多数ある。

フィート

1/3ヤード

足(かかとから指先)の大きさに由来する身体尺であるとされている。

インチ

1/12フィート

男性の親指の幅に由来する身体尺であったとされている。

これとは別に、イングランドエドワード2世が、大麦の穂の中央から取った3粒を縦に並べた長さを1インチとしたというような説もある。

マイル

1,760ヤード

マイル(mile)という単語は、ラテン語のmille(千)に由来する。古代ローマには、2歩(片方の足を踏み出してから次に同じ足を踏み出すまで)分の長さに相当する"passus"という単位があった。これの1,000倍の"mille passus"がマイルの由来とされている。

リーグ

3マイル

元々は、人や馬が1時間に歩くことができる距離として定義されていた。

海里

元々の定義は、「地球の大円上における1分(角度)の長さ」であった。

現在は、国際海里(正確に1852メートル)が世界中で使われている。

10/33メートル

古代中国の殷の時代には既にあったとされている。

元々は手を広げたときの親指の先から中指の先までの長さを1尺とする身体尺であった。この長さはおおむね18cmくらいであり、現在の尺の6割くらいの長さである。

後の時代に一定の長さを1尺とする公定尺を定めるようになった。しかし、公定尺は時代を下るにつれて長くなっていた。

大工が使用していた尺は長い間たってもほとんど変化しなかった。これが曲尺である。1歩(単位)の半分を曲尺の1尺とした。

古代中国の周代に制定されたものである。

歩幅2歩(片方の足を踏み出してから次に同じ足を踏み出すまで)を「1歩」とする身体尺であった。

後に尺と関連づけられて、8尺または6尺の長さとされるようになった。

1/10尺。

当初の寸は親指の幅を指す身体尺であったと考えられている。

周代に尺の10分の1とされるようになった。

漢代には黍一粒の幅を1分と定め、10分を1寸とした。

6尺。

中国において一般的な建物の柱と柱の間隔を指す長さの単位として生まれたものである。

60間。

丁とも書く。

条里制においては6尺を1歩として60歩を1町としていた。

太閤検地の際に6尺3寸を1間とする60間となる。

後に6尺を1間とする60間となった。

日本では36町、中国では500メートル

里は元々は古代中国の周代における長さの単位であった。6町四方の面積を表していた里が、後に6町を表す長さの単位となった。

日本にもこの ころに里が伝えられ、律令制では5町をもって1里としていた。

律令制崩壊後は時代や地域によって様々な里が使われるようになったが、おおむね5町から6町の間であった。

ただ、「里」は長い距離であるので、直接計測するのは困難である。そこで、1里歩くのにかかる大体の時間から、その時間に歩いた距離を1里と呼ぶようになった。人が歩く速度は地形や道路の状態によって変わるので、様々な長さの里(36町里、40町里、48町里など)が存在することになる。

江戸時代には、様々な里の存在は認めた上で、36町里を標準の里とすると定めた。

 
アーカイブ ヘルプ
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん