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はてなキーワード: 貿易港とは

2024-09-24

名古屋には外港がない

東京には横浜港があり、大阪には神戸港がある。

どちらも巨大なコンテナふ頭や大型クルーズ客船が停泊できる岸壁がある。

東京東京港、大阪大阪港と自前の港を持っているが、どちらも貿易港としてはショボいので横浜港神戸港依存している。

しか名古屋にはそのような近隣の巨大な貿易港が無い。

名古屋東京大阪と同列になれない理由の一つではないか

三重県四日市港がそうではないかと言われるかもしれないが、距離が離れすぎている。

2023-10-08

anond:20231008144609

さらに、MMT支持者の主張にもかかわらず、巨額の紙幣印刷するとインフレが起こる。」

はっきり理由がいえないのにどうしてこういいきれるんだろう?

実際には巨額の紙幣印刷してもデフレだったんだ。

なぜかどうしても理解できないというのなら、こうかんがえてみたらわかりやすいだろう。

 

国内に出回っているはずの印刷した紙幣国債の一部は、国の借金にはならない。いつのまにか消えてしまう。

たとえばそれは津波災害で家ごと流された箪笥貯金(金庫でもどこでもいい)でもあろう。

あるいはお金持ちが「どうだ、あかるくなつたろう」などといいながら紙幣に火をつけてもやしている。

あるいは脱税のため地面にうめられたまま忘れ去られてしまう。(たまにゴミ捨て場から拾得物として発見される)

金を持っているのに人に頼れなくなった孤独死老人の遺産も国にどんどん帰って来る。(独身増田たちもちゃんと人や国に頼れって口酸っぱくいってるのにな)

amazonの儲けとして海外に輸出され日本国内で出回らなくなった札束と考えてもいい。

便所におとしてクソにまみれた紙幣、海に流された財布、火事燃えた金庫…。だれももうその金を使わない。

あるいは、配られても使用されないで期限が切れる子育てクーポンワクチン券なども姿をかえた臨時紙幣だ。

  

これらはすべて「税収」としてカウントされているわけでもないのに日本政府債務支出実質的に消しつづけている。

だれも「帳消し」にしないだけ。

(余談だが万が一、帳消しになどして「うちの省庁では今年わりあてられた予算を消化できませんでした」となったら翌年から予算がつかなくなるんだからね。

お小遣いはみせかけだけでも全部使っておくことが大事なんだ。そうそう、文科省総務省予算どりが下手なんだよね)

実際、日本はながらく外国ほどはインフレしていなかった。

インフレになるのは日銀砲をうちまくったからではない。

ご存じのとおり日銀砲とは紙幣に準ずる国債仮想的に大量に印刷する行為なのだ

日本円高監視しつづけ、すこしでも円高がすすもうものなら日銀砲を即時うちつづける粘着行為をしてすら、

国内では実際に「デフレ」、あるいは「インフレの過度な抑制」がずっとつづいていた。

 

この度のインフレ日銀砲をやめてからおこっている。産業空洞化による円安が原因だ。

なので日銀は今度は放出した紙幣を回収する方向で介入した。これが逆日銀砲とよばれるほど長続きするかはわからない。

 

これからどうしたらいいか。MMTかそうじゃないかなんて定義する必要はない。

安くなった円などいくらでもくばって、生き延びさせて、女性環境にやさしい国をつくらねばならない。

国内企業からみれば無駄な」科学技術も発展させなければいけない。

 

そうして国際競争力をつけなければ、「冷却水放出国のぶどう」「冷却水放出国のほたて」などのように悪口をいわれて安値もつっかえされてしまう。

日本はこの20年ほどで首相暗殺未遂もふくめれば2回)や原子炉関係などイメージ悪化している。

(まあ小渕首相過労死でそんなにおちなかったのが逆に不思議だけど。)

今は「女性政治家にも企業トップにもおけない国」、

「性を食い物にするアニメ漫画流行っているのに実際の犯罪は隠ぺいしすぎていて安全コストが実は非常に高かったのがバレた」

マイナカードスマホが全員はつかいこなせず、デジタル納税デジタル投票デジタルワクチン証明できない」という社会インフラの古さもかなり痛い。

まあインボイス地方振興券なみに簡単につかえる申請アプリを先につくっておけばなんとかなったかもしれないのに

ズルズル「やっぱやめようかな~」などととなえる弱腰クソ政府からね。

 

まあ、そうはいってもようやく訪れた円安を期に、

輸出企業だのインバウンド目当ての接客業が景気を盛り返しかけているみたいだからそっちの方向でとりあえず稼ぐのもいいかもね。

 

でもこのままいつまでも産業をもりかえせなければ、

いつかキューバのように60年前の車を大事に修理してつかう国になってしまう。

キューバ幸せ社会主義国家ではあろうが、先進国とはもはやいえない。

あるいは、ロシアだ。1億人の国民豊富地下資源。でも産業農業石油の一次産業以外は空洞化したままだ。

貿易港が冬にとざされるから一次産業の産品でさえ輸出できない。

から戦争に走った。

ロシアウクライナの姿は、人口だけでいえば日本韓国によくにているよ。

将来ああならないように気を付けなければいけないよ。

2023-01-23

anond:20230121232346

パッと思い浮かぶところだとこんな感じかな

資金の準備とアメリカへの影響力確保
日本政財界への影響力確保
日本投資環境改善IT技術者の発言力向上

2021-10-25

邪馬台国真実

邪馬台国には7万の家があったとされているから、その場所には諸説ある

ひとまず邪馬台国亡きあとに、大分宮崎範囲にあった豊日別(トヨヒワケ)は、十分な広さがあるので、ここだと仮定する

 

トヨヒワケ南部日向(ヒムカイ、ヒムカ)だが、ヒミコの名に似ている

北部大分(オオワケ)は貿易港が発達しており海神貴船神社住吉神社が多い

まり邪馬台国ヒミコは、ヒムカイの祖母山天皇祖母の山)あたりを本貫として、オオワケの海で貿易漁業をしていたと思われる(玄界灘の伊都国も栄えていたが)

魏人は、伊都国からオオワケの別府(別の府)に着いて、おそらく温泉や船を試していたために、ヒムカイに至るまで「水行10日陸行1月」になってしまったので、距離ではなく日数だけ書いたんだ

そしてヒミコのヒムカイの部族は、鹿児島のハヤト(隼人)のように、ヤマト山人)と呼ばれていたはず 

それで飛鳥遷都したとき政権ヤマト朝廷と呼ばれた

一方、ヤマト漢字は、大分をもじって「大和」にした

2021-09-19

1世紀、前漢後漢あいだの20年ほど、新という国があり、亀貨が使われていた。そのころ淡路島日本初の鉄器工場ができた。赤色塗料あり、赤眉軍あり、薩摩隼人は顔を赤塗りしていた。そして2世紀、魏から卑弥呼と呼ばれた天照大神は亀の甲羅政策を占ったといわれている。

 

ただそんな原始的な国が諸国進出するだろうか。そこで推測してみる。

天照大神は、亀貨が戦火焼失に耐えるか試していた。天岩戸に籠ったのは鉱物を探すためだった。魏の帯方郡赤色塗料(丹)貿易をし、帯方郡が滅びれば百済人や新羅人鉱山開発をさせた。出雲にも銅や銀があるのを知り、大国主命を送り込んだ。

 

神という字は、示し申すと書くが、舞台のような四隅突出型古墳は、貿易港の伊都国、出雲のいずれにもある。

赤色鉱物産地の丹生神社は北は群馬まで、天照を祭る神社は、秋田にまであるお金が入ってくるから祭るんだろう?

2021-08-09

鉄道オタや神社仏閣や城郭マニア愛国者的な地位にいるように見えるが

城と城や貿易港をつなぐ街道マニアなんて爺ちゃんばかりだ

本来そっちのほうが本筋の歴史家愛国者なんだよなあ

九州玄界灘沿岸が伊都国時代から貿易の要地で、唐津街道があったことが知れ渡ると、

大和朝廷派の近衛政治家の顔がなくなるのかね?

2021-04-01

[]放任の乱

幌生家の足軽大将、地弥呼と海賊大将、摩利砲鐸が衆人環境

書物侮辱したと受け取られる行為を働いたことに端を発する戦乱は

関係者の間で和睦が成立した後も各地で炎をあげ続けていた

さながら、

山名宗全の没後にも貿易港での細川氏への恨みを晴らさんと京に居座った大内氏のような

応仁の乱が終わっても山名から播磨を取り戻そうと戦い続けた赤松氏のような

戦意に溢れすぎた人間がたくさんいたかである

戦乱に乗じて自らの勢力を拡大したいだけの野伏まで参入して

状況は酷く混沌としていた

かねてより幌生家は領民の行動に注意を促すことが少なく放任気味であった

こたびの戦においても私掠船行為自主的に始めた領民への制止が出されたのは

騒動勃発からしばらく時間をおいてのことだった

なお、幌生家そのものは表向きなんら反応を示していない

このような放任の期間が戦乱の拡大にどれほど寄与たか

評価簡単ではないが危機管理の例として興味深いものがある

なお、中つ国地方の幌生家においては既に混沌常態化しており

一足先に代替時代突入していたとの説が主流となっている

2017-05-19

この条約が締結される頃の東アジア世界は、近代国際法を掲げながら、実際には弱肉強食を旨とする西欧列強が浸透してくる時期にあたる。当時朝鮮は清の冊封国であったが、鎖国政策を国是としていたため、国際交流は非常に限られていた。しかしそのような朝鮮にも1860年代以降国際化の波(外圧)が押し寄せ、海上から西欧諸国が訪れるようになる。朝鮮西欧列強との出会いは、概ね芳しいものではなかった。たとえば1866年にはフランス軍キリスト教徒虐殺事件丙寅迫害)の報復として軍艦7隻総兵力1000人で朝鮮江華島攻撃占領する丙寅洋擾が発生し、1871年にはアメリカ合衆国ジェネラルシャーマン事件1866年発生)の報復として軍艦5隻総兵力1200人艦砲85門で朝鮮江華島攻撃占領を行っている(辛未洋擾)。丙寅洋擾と辛未洋擾は朝鮮通商を行うための侵略であったが却って斥和碑を建てるなど攘夷につながった。

当時朝鮮政権を担っていたのは高宗の実父興宣大院君である清朝から西欧列強情報を得ていた大院君は、断固として鎖国を維持する姿勢を貫いた。これは中国における西欧側の非道を知ったこともあるが、朱子学以外を認めない衛正斥邪という思想政策積極的に推し進めたことから分かるように、大院君は中華思想的発想の持ち主であり、その点から西欧諸国夷狄視していたことも理由の一つである。その強い姿勢は「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主張することは売国行為である」と書かれた斥和碑を朝鮮各地に建てたことに窺うことができる。このように当時の朝鮮では攘夷熱が高まっていた。

また朝鮮では、文禄・慶長の役時に、中国朝鮮を守ったため、今回も中国朝鮮を守ってくれるに違いないという立場であり、小島毅は「中国東アジア全体にとっての親分だというのが朝鮮認識ですから親分である中国自分を守ってもらおうとするわけですね」と述べている[2]。

日朝間の懸案:書契問題[編集]

他方、西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、いちはや開国明治維新により近代国家となった日本は、西欧諸国のみならず、自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係樹立しようとした。朝鮮にも1868年12月明治政府樹立するとすぐに書契、すなわち国書対馬藩の宗氏を介し送った。江戸時代を通じて、朝鮮との関係は宗氏を通じ行われてきたためであるしか国書の中に「皇」や「奉勅」といったことばが使用されていたために、朝鮮側は受け取りを拒否した。近代的な国際関係樹立は、はなから躓いたといえよう。

この問題は、日朝双方の国交に対する思惑がすれ違ったことが原因である日本側は従来の冊封体制的な交隣関係から条約に基礎づけられた関係へと、日朝関係を変化させることを企図したのであるが、一方朝鮮側はこれまでどおり冊封関係にとどまり、その中で日本との関係位置づけようとしていた。前近代における冊封体制下において、「皇上」や「奉勅」ということばは中国王朝にのみ許されたことばであって、日本がそれを使用するということは、冊封体制の頂点に立ち朝鮮よりも日本の国際地位を上とすることを画策したと朝鮮は捉えたのである

なお近代以前の日朝関係については朝鮮通信使に詳しい。

征韓論を唱えた西郷隆盛。ただし江華島事件及びその後の日朝修好条規締結に対して義に悖ると批判していた。

1868年以来、何度か日本から国書がもたらされたが、日朝双方の思惑の違いか両国関係は円滑なものとは言えなかった。書契問題を背景として生じた日本国内における「征韓論」の高まりに、大院君が非常な警戒心を抱いたことも一因である。また釜山においては日朝両国官僚同士が険悪となっていた。長崎出島のごとき釜山倭館限定した国交を望む朝鮮側と、対馬宗氏から外交権を取り上げて外交を一元化し、開国を迫る日本との間に齟齬が生じたのである釜山倭館朝鮮側が日本特に対馬藩使節商人を饗応するために設けた施設であったが、明治政府対馬藩から外交権を取り上げ、朝鮮との交渉に乗り出そうとした。その際、倭館をも朝鮮側の承諾無しに接収日本公館としたことから事態悪化したのである。結果、必要物資供給及び密貿易の停止が朝鮮から宣言される事態となった。

日本側も単に国書を送りつけるだけだったわけではない。版籍奉還という日本国内の難問を無事に乗り越えた1870年朝鮮との国交交渉を有利にするため、冊封体制の頂点に立つ清朝と対等の条約日清修好条規を締結した。これにより冊封体制の維持を理由に国交交渉忌避する朝鮮を、交渉テーブルに着くように促したのである

1873年に対外強硬派の大院君が失脚し、王妃閔妃一派が権力を握っても、日朝関係は容易に好転しなかった。転機が訪れたのは、翌年日清間の抗争に発展した台湾出兵である。この時、日本朝鮮出兵する可能性を清朝より知らされた朝鮮側では、李裕元や朴珪寿を中心に日本から国書受理すべしという声が高まった。李・朴は対馬藩のもたらす国書に「皇」や「勅」とあるのは単に自尊意味するに過ぎず、朝鮮に対して唱えているのではない、受理しないというのは「交隣講好の道」に反していると主張した。これにより朝鮮側の対日姿勢がやや軟化した。

条約締結までの経過[編集]

国交交渉[編集]

国交交渉再開の気運が高まり1875年交渉が行われた。日本側は外務省理事官森山茂と広津弘信、朝鮮側は東莱府の官僚交渉テーブルに着いたが、やはり書契に使用される文字について両者の認識に食い違いが生じた。この他森山洋服着用など欧米スタイルを貫こうとする姿勢朝鮮側が嫌悪感を示したことで交渉ははかばかしくなかった。交渉の停滞に業を煮やした森山4月には砲艦外交を行うことを日本政府に上申した[3]が、三条実美の反対があり、川村純義の建議により日本海軍砲艦二隻(雲揚および第二丁卯)が5月派遣され朝鮮沿岸海域の測量などの名目示威活動を展開した。その後雲揚は対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港するが、9月に入って改めて清国牛荘(営口)までの航路研究を命じられて出港した。

江華島事件[編集]

詳細は「江華島事件」を参照

9月20日首都漢城に近い江華島付近で、雲揚所属の端艇が朝鮮砲台から砲撃を受ける事件が発生した(江華島事件)。雲揚は反撃し、永宗島要塞を一時占領、砲台を武装解除し、武器旗章楽器等を戦利品として鹵獲した。この事件における被害は、朝鮮側の死者35名、日本側の死者1名負傷者1名(のち死亡)であった。事件朝鮮側が日本海軍所属軍艦と知らずに砲撃してしまった偶発的なものとされ[4]、この江華島事件の事後交渉を通じて、日朝間の国交交渉が大きく進展した。

条約交渉における日本側の基本姿勢[編集]

ボアソナード

明治政府のお雇い外国人ボアソナードは、事件を処理するために派遣される使節への訓令について、以下を決して朝鮮に譲歩すべきではないと具申した。

釜山・江華港を貿易港として開港する。

朝鮮領海航行の自由

江華島事件についての謝罪要求

またこれらが満たされない場合軍事行動も含む強硬外交姿勢を採ることをも併せて意見している。これらの意見ほとんど変更されることなく、太政大臣三条実美を通じて訓示に付属する内諭として使節に伝えられた。さら朝鮮に対する基本姿勢として、三条はこの江華島事件に対して「相応なる賠償を求む」べきとしながら、使節団の目的を「我主意の注ぐ所は、交を続くに在るを以て、・・・和約を結ぶことを主とし、彼能我が和交を修め、貿易を広むるの求に従ひときは、即此を以て雲揚艦の賠償と看做し、承諾すること」だと述べていた(強調、加筆者)。これは欧米列強干渉を招かないよう配慮すべし、という森有礼の言が容れられたものである

さらボアソナードのいう軍事行動も含む強硬外交姿勢も、日本は忠実に実行に移している。使節団一行には軍艦兵士の護衛がつき、威圧効果朝鮮側に与えようとした。また交渉が決裂した場合に備え、山縣有朋山口県下関に入り、広島熊本両鎮台の兵力をいつでも投入できるよう準備していたのであるさらにいえば、日本砲艦外交姿勢は無論朝鮮の屈服を促すものであったが、同時に日本国内の「征韓論」を唱える不平士族の溜飲を下げることも狙ったものであった。

ただこのように軍事的高圧な姿勢を表面上見せながら、当時の日本は軍費の負担という点からいって、戦争が好ましいとは考えていなかった。また戦争の発生がロシア清朝の介入を許すきっかけになるかもしれず、その点からも極力戦争は避ける考えであった。

以上をまとめると日本側の交渉の基本姿勢は、以下の二点に集約される。

砲艦外交を最大限推し進めながら、実際には戦争をできるだけ回避すること。

江華島事件の問罪を前面に押し出しながら、実質的には条約を締結し、両国の懸案で長年解決しなかった近代的な国際関係樹立すること。

また対朝鮮政策は、実質的には朝鮮宗主国である清朝政策でもあり、清朝干渉をなくすべく事前に清朝の大官たちと折衝を重ねることも日本は行っている。19世紀欧米列強アジア侵略に対抗するため、清朝朝鮮ベトナム琉球などの冊封国保護国化あるいは併合することによって皇帝を中心としたアジア伝統的な国際関係をそのまま近代国際関係へと移行させて清の地位と影響力を保持しようとし、冊封国に対して保護国化、モンゴルチベット新疆などの保護国に対しては植民地化を強めようとしていた。

この時期の東アジアは、日中朝そして西欧列強の間における複雑な絡み合いが相互作用する場が形成されつつあった。日朝間の国交交渉再開もその結果としてもたらされたものであると同時に、また別の歴史事象の原因でもあったのである

2010-05-29

http://anond.hatelabo.jp/20100529082814

http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/kimuramoriyo/status/14911292433

またふるぼっこですね。

長崎福岡広島とか神戸とかでもいいけど、そういう地域から発生が確認されたなら人や船の荷物がキャリアとなってる可能性も否定できないじゃない。宮崎って国際貿易港ってあるの?高速道路もないとか騒いでるぐらいだし、どちらかというと陸の孤島でしょ?鳥じゃなくて昆虫かもしれないし、なんだかわからないけど、足で移動するものが運んだというより風にのってやってきたってかんがえるほうが素直なんじゃないかな。

ヒトインフルの時もそうだったけど、バイ菌とかとウイルスが混同されてるのかもしれないんだけど、一般的なウイルスのサイズって素焼きの植木鉢とかなら素通りできる大きさです。黄砂花粉が飛んでウイルスが飛ばないわけはないです。飛沫とかで飛んできたほうが、失活するまえに感染するってだけ。

陸路で足のある動物が運ぶ前提で、地べたとかに石灰を撒いているけどあまり意味がないのではないかな。

そうじゃなくても酸性消毒薬と石灰とかをあわせてつかってしまっているらしく、混乱の極みっぽいけど、あれを指導のもとやらせているのだとしたらただのポーズ以外のなにものでもないよね。少なくとも人が移動したら意味ない。

口蹄疫が陸路でもたらされたにしろ、風で運ばれたにしろ、陽性がいまのところ宮崎だにしかいないっていうほうがおかしいとおもうんだ。宮崎でしか出てないのではなくて、宮崎しか検査をしていないが正しいのでは?そういう意味で、宮崎はびんぼうくじ。

 
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