はてなキーワード: 慢性胃炎とは
思えば母もそうだった。
いつも胃が痛い胃が痛いと言っていて、身体が弱い人なのかなあと思っていたが
ピロリ菌を退治してそこそこ良くなったらしく、その話を聞いて「ふーん良かったねー」と他人事のように聞いていた自分が
親の因果が子に報うというやつか
ピロリ菌は退治したが、胃壁は弱まったままで慢性胃炎を患っている。
あれほど大好きだったケンタッキーも、一日一個しか食べられない。
夜中、この世のものとは思えないような地獄の苦しみを味わうことになる。
むろん眠ることはできない。
いったん痛み出すと、どんな胃薬も効果がない。
爺さんか、婆さんか、それとも母親か、叔母さんか
口の中で食べ物を柔らかく嚙み砕いて
そして、赤ん坊の私に食べさせたのだろう。
それならもう、仕方がない。
誰をもう恨むこともできない。
ただそれだけのことだ。
今の若いひとに言いたい。
家系ラーメンでもいい。
本当です。
私は同性愛だ。
15歳高校生になって直ぐ台風じゃないかってくらいの大雨の日に同じ中学校だった同級生に告白した。
度胸のない私は前日にそれとなく告って逃げた。
そして懲りずに次の日にも告った。怒られた。
「お前、昨日逃げただろ」って。
はい。すいません。全力で逃げました。
ピンポンダッシュってこんな感じなのかなぁって思う。
嫌われちゃうかもと思って動画でいう巻き戻しボタンを心の中で連打してた。無いんだけど。
でも答えは「いいよ」で私が「は?」って返してしまったからまた怒られました。
そりゃビビるでしょう。
どっちだよw
彼女は身近に味方がいなくて。だからどこか自分本位になってしまう事が気に食わなくて。
私が我慢しなきゃ。が爆発して別れるって話を周りが呆れる程に何度もした。
迷惑一杯かけました。本当ごめんんなさい。
その頃には慢性胃炎になってよくゲロゲロしてたなぁ。懐かしい。
彼女は親が離婚してから親戚たらい回しされ、なんとか地元から離れた場所で浮気相手と一緒に暮らしていた母親の家に転がり込んだんだけど言われた言葉が「私は新しい生活があるから高校卒業したら出て行って」だって。
お前がまだ離婚してないのに別の男に股広げてたの知ってんだよって何度あの子が吼えようとしてたのか知ってたから。追い詰められる度に何もできないのが悔しくって、ただただ頭撫でて慰めて。
それでもいよいよどうしようもなくなった時に一緒にビルから落っこちるか。とか約束して、最後だしっていつも彷徨ってた街中ぶらついて飛ぶビル探し始めたらやっぱり悲しくなって意味わからない程泣いたり。
それだけを支えにして18で彼女は地元鉄道に就職して1Kのアパートで暮らしてた。
毎日入り浸って直ぐに合鍵貰って「おかえり」「ただいま」って言われるのが嬉しいって言うもんだから私まで嬉しくてそのうちお泊り多くなって母に「家は一つにしなさい」言われてその足で飛び出したの覚えてる。
突然の自立に弟が面食らってたの面白かったなぁ。
しばらくしてはじめての引越し。
壁が薄くて冬の朝起きると息白かったりしたけどまぁ。うん。いい思い出。
年末に会社近くの青果店で蜜柑を一箱買ってくるのがお決まりになってた。
私の奢りだい。
そんな感じでずっと暮らしてた2人の城を引き払いマンションを買った。
新築なんぞ手が出ないのでフルリノベーションされた中古マンションを購入したんだけどね。
驚いたのが家賃に当たるローンが諸々の税金込みでも前の2DKよりはるかに安い。
2人して紙面をガン見したのは記憶に新しいのね。
引越しを機に今まで別財布だったお互いの給与を一部徴収して残りはお小遣い制を導入。
余ったお金は旅行費にしようっていうのがこれまたたまらなく好き。
旅行が好きな私は彼女と知らない場所に行けるっていうのがとても嬉しい。
だから今まで金銭的に余裕がないからって行けなかったのが格段に回数増えたのが凄いって思ってる。
そんで、今日。
散歩がてら寄った地元のスーパーでブラックフライデーの影響で安くなった品を何も考えず買い込んだ私は千切れそうなポリ袋をぶら下げながら思い出した。
来年の6月の記念日を超えると付き合っていなかった年月を付き合っている年月が追い越すんだと。
15年かぁ。長ぇなぁ。
でも一瞬だったなぁ。
老けたなぁ。
きっと高校生の時にぶらついたあの道や帰りたくないって駄々こねるあの子を送ったあの坂道を登ろうものなら息切らすんだろうなぁ。
でも、彼女たちは見ることができなかった「新しい土地の風景」を今の私達は数多く見ていてなんだか感慨深かった。
知らない15年を追い越したらまた何か始まるのかな。
きっと日常はは変わらないんだろうなぁ。
朝起きて弁当作って仕事しておかえりかただいまを言ってご飯作って食べて風呂入って寝る。
週末には暇と言ってあの子を外に引きずり回して帰ってきてゲームやって日が暮れてって。
きっと何も変わらないけど何か思う日は続くのかもしれない。
後何年一緒に居れるのかなぁ。
神さま教えてくれ。
出来れば看取ってあげたいなぁ。
ひとりぼっちが多かったあの子だから最後くらいは私がひとりぼっちを引き受けてあげたい。
できる限り早く迎えにきて欲しいけど
私も寂しがりですからね。ええ。
とりあえず日記打ってたら夕飯作りそびれたので迎えに行ってごめんを言います。
腹減ったーーー。
電話応対で、突然社名をつっかえたり吃るようになったのが2、3年前
なぜそうなってしまったのか、よく分からないけれども誤魔化しながら何とかやってきた。
ところが今年、ゴールデンウィーク明けになったら今度は社名を言おうとしても声が出ない。喉が詰まるような感じで声を出そうとしても例えば「……まっ、ま、ま…」という感じで言葉が出てこない。無理矢理言葉を出そうとすると、「ままままま…」と連続してしまう。これはおかしいと思ってネットで調べたら難発性の吃音と症状が全く同じだった。
それから今の自分の状況と対処法をネットの体験談を読み漁ってみた。症状を和らげることはできるけど完治は難しいらしい、
対処法としては早口にならないようにする、ゆっくり話す、社名の前にワンクッション置くなどなど…色々なテクニックがあるようだったのでとにかく試してみた。その結果、社名を言えなくなることはできたけどやっぱりどもってしまう。声の出し方を思い出せない。心と体が一致しないとか、脳がバグを起こしてるとか、そういう感覚がしっくりくる。
社名が言えればあとはスムーズに話せるけど、最初の第一声がちゃんと出るか不安で電話を取ることもかけることも怖くなってしまった。職場は電話がひっきりなしに鳴るところなので逃げ場が無くかなり追い込まれていたけど、今日やっと上司に相談して周りの人にもカミングアウトして協力もらうという話で落ち着いた。
多分ストレスが原因だと思うけど、(今は)あまり感じていないと思っていたので、半信半疑です。でも、入社してからは慢性胃炎になってしょっちゅうキリキリしてたし、元々体に出やすい体質なのかもしれない。
http://www.dr-hori.com/media/mag/20101002_kn.php
ガン、動脈硬化、高血圧、心臓病、狭心症、糖尿病、肝臓機能障害、腎臓機能障害、脾臓機能障害、脳出血、メタボリック症候群
アレルギー性疾患
腰原病、リウマチ、ぜんそく、アトピー性皮膚炎、べーチェット病、花粉症、鼻炎
美容系
ニキビ、吹き出物、小じわ、シミ、肌荒れ、ひび、あかぎれ、早期老化、若白髪、更年期症状
心の病気
明るさがない、積極性がない、暴力行為、うつ病、パ二ック障害、拒食症、過食症、登校拒否症、出社拒否症、集中力欠如、不眠症、神経衰弱、居眠り
痛み
朝起きられない、体がだるい、疲れやすい、風邪が治りにくい、むくみ、貧血、めまい、立ちくらみ、便秘、冷え症、虚弱体質、食欲不振、低血圧、息切れ、イライラ
脳神経の病気
その他
バセドウ病、くる病、前立腺肥大、頻尿、排尿困難、血液不良、白血病、胃潰傷、慢性胃炎、ストレス性十二指腸潰傷、腸疾患、慢性下痢、不妊症、虫歯、弱視、骨格形成不全、生理痛、水虫
全身をよく操む
首のストレッチをする
大地を素足で歩く
おしやぶりをする
唇を閉じて紳創一骨を下唇から上唇の方向にはる
口を閉じて日頃使わないほうの歯で無糖ガムを噛む
鼻の両側と鼻の下の真ん中の部分を指で刺激する
約1%の食塩水で「あーいーうーえーおー」といいながら上を向いてうがいをする
花房 義質(はなぶさ よしもと、1842年2月10日(天保13年1月1日) - 1917年(大正6年)7月9日)は、明治、大正期の外交官。岡山藩士で実業家、政治家(初代岡山市長)花房端連の長男。爵位は子爵。歴任した主な官公職は枢密顧問官、日本赤十字社社長など。
目次 [非表示]
1 来歴・人物
2 栄典
3 家族
4 脚注
5 関係記録
6 関連事項
7 外部リンク
緒方洪庵の適塾で学び、1867年にヨーロッパ諸国やアメリカに遊学し翌年帰国。1870年から外国官御用掛として外務省に出仕。同年日清修好条規の土慣らしの為に渡清。
1872年にペルー国船に乗船の清国人奴隷虐待問題(マリア・ルース号事件)で外務卿副島種臣の補佐として書記官を担当し、仲介裁判のための代理公使としてサンクトペテルブルクに派遣され、訴訟の後は日露国境画定交渉のため派遣された榎本武揚全権公使を補佐。
1877年、駐李氏朝鮮代理公使に任命されるが翌年1878年8月10日から、1876年5月に締結された日朝修好条規に反して 朝鮮政府が釜山の豆毛鎮に税関を設置し、朝鮮国内の輸入行者に対して関税の徴収を開始したことから、報復措置として代理公使の花房は軍艦と共に釜山に派遣され豆毛鎮に設置された税関の撤去を要求する。最終的に、朝鮮政府が折れる形で事態は沈静化し、1878年12月4日に豆毛鎮の税関は正式に撤去された。1880年4月、日本政府は漢城への日本公使の常駐化を決定、初代公使として花房が任命される。だが、この時点ではまだ漢城に公使館は開いていなかった。この公使館開設の件と仁川開港問題について金弘集と折衝し、その後、漢城に日本公使館正式設置と仁川開港を朝鮮政府に認めさせ、それに併せ日朝間で国書の交換がなされ、花房は代理公使から公使へと昇格した。
その後朝鮮に駐在し朝鮮軍近代化の為別技軍を提案するが、それが原因となった壬午事変では暴徒に包囲された公使館を脱出して命からがら帰国、直後に寺内正毅率いる日本軍と共に朝鮮へ渡り済物浦条約を締結させ、事件の損害補償とともに、漢城への日本軍駐留などを認めさせる。
翌1883年より1886年までの3年間にわたり、在露特命全権公使としてサンクトペテルブルクに駐在した。
その後は農商務次官、帝室会計審査局長、宮内次官、枢密顧問官、日本赤十字社社長などを歴任した。1896年華族に列せられ男爵。
目黒にある城南五山の一つである花房山は、1911年に花房が子爵に陞爵した際に別邸を構えたことが地名の由来。(現在の品川区上大崎三丁目付近)
wikiによれば
後鼻漏(こうびろう)[1]とは、慢性副鼻腔炎患者に見られる咽頭腔への膿汁流下のこと。膿性痰、口臭、歯肉炎、慢性気管支炎、肺炎、食道炎、慢性胃炎などの原因となる。
私個人の症状は軽い方だったけれども喉に鼻水が流れそれがへばりついたような違和感、そして鼻と喉の乾燥がつらくて耳鼻科へ行った
ネブライザーをし、漢方薬をもらって帰宅したら1時間位水のようなさらさら鼻水が止まらずネブライザーすごいと感動した
しかし漢方は1日3回飲まないとならないのが面倒で貰った10日分は飲んだが継続する気にはならなかった
そこで、もう少し簡単なものはないかとネットで調べるとなたまめ茶もいいですよという情報を入手したので早速10包400円程度のお茶を注文
1回1Lほど煮出してそれを3日に分けて飲む これで1箱400円が1ヶ月分となりコスパもよかった
まめのお茶なので味は麦茶に似た感じでこれといった癖もなく飲みやすいし、3日に1回沸かしたお茶を毎日1杯ずつ飲むだけなので一日3回の漢方よりも楽で良かった
肝心の効果についてだけれど、完全によくなったわけではないが喉の不快を感じることはほとんどなくなった
昨年はマスクをしても自宅でネブライザーをしても喉がとにかく乾燥してはりついたような不快感でなかなか眠れない、仕事も集中できないことが多々あったけど今年はマスクをせずに眠れている
http://anond.hatelabo.jp/20070520142058
http://anond.hatelabo.jp/20070520142109
そ、そうだったのか・・胃痛なんて人生で初の経験なもんだから、一先ず
胃薬飲んで様子見してればいいのかなぁと思ってるうちにずるずると今日まで
きちゃってたんだよ。わかった!医者に行くよ。
慢性胃炎の"疑い"だったよ。薬飲んで10日間様子見、症状が変わらなかったら
カメラを飲めと・・・そんなん絶対えづくよ。