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2024-07-01

anond:20240629213013

大東亜戦争期の日本陸軍における犯罪及び非行に関する一考察

https://www.nids.mod.go.jp/publication/senshi/pdf/200703/5.pdf

これによると上官殺人については、代表的ものとして以下の事例を確認できる。

昭和17年1942年10月の広水鎮事件

場所: 中国中部湖北省應山県廣水鎭

概要: 輜重兵第3連隊第1中隊において、下士官7名と兵32名が中隊代理および中隊将校に対して集団暴行を行い、中隊代理殺害した事件

原因: 中隊代理過激軍紀粛正に対する反感が引き金となった。

処罰: 首謀者の曹長死刑中隊代理職権乱用の罪で懲役1年6ヶ月に処せられた​​。

昭和17年1942年12月の舘陶事件

場所: 中国北部山東省舘陶県

概要: 第59師団第53旅団隷下の独立歩兵42大隊第5中隊で、兵6名が中隊幹部に対して暴行を行い、中隊長を殺害した事件

原因: 転属命令に対する不服や飲酒によるもの

処罰: 本事件の詳細な処罰については記載されていないが、軍内で大きな衝撃を与えた事件として記録されている​​。

昭和18年1943年)の上官殺害

概要: 昭和18年度には、上官殺傷事件が合計で45名にのぼり、特に中隊長以上に対する犯行が多数発生していた。

原因: 上官の粗暴な態度、軍事能力の欠如、指導能力の不足などが原因として挙げられている​​。

殺人を取り上げたが、対上官犯の発生傾向を全般でみると、戦況の悪化に伴い増加していた模様。

昭和16年度の対上官犯は341名であり、前年の202名から約1.7倍に増加している。

昭和17年の上半期だけで、対上官犯は126件、152名に達している。

昭和18年度には対上官犯が428名に増加し、前年と比較しても著しい増加傾向。​

昭和19年には対上官犯がさらに増加し、1月から7月の間に既に347名に達しており、前年の一年間の総数に近づく勢い​​。

対上官犯の増加についての背景について、戦況悪化士気低下の影響と分析している。

ガダルカナル撤退後、第一線も後方も士気が低下し、対上官犯や奔敵逃亡が増加する傾向にあったという。

補給不足や飢餓状態士気を低下させ、逃亡者や対上官犯の増加に繋がったとのことだ。

戦闘が激化し、士気が低下することで、上官への反発や不満が顕在化しやすくなり、対上官犯の発生が増加したと考えられる。

これに対して、陸軍は戦陣訓による教育的指導意識改革を図ろうとした。(戦陣訓かよ。。。)

PDF・・・以上のような内容の文書のようだ(AIによると)。




なるほど。面白い

しかし、そもそも満州事変にしても陸軍中央の一部幕僚関東軍連携遂行され、それは政府陸軍首脳の方針に反して行われたものだったし、226事件にしてもクーデターだ。陸軍内部には長い間、皇道派統制派対立があってそれがクーデターにつながったもの

犬養毅首相武装した陸海軍青年将校たちが暗殺した五・一五事件1932年)の時点で、もはや【軍務による制約】がすでに機能していなかったといえる。首相殺害って上官殺しどころの次元じゃない。下剋上すれば何かを変えられると信じていたということだ。

日本陸軍歴史を振り返ると、ある意味組織に内在する”下剋上”的な雰囲気戦争へと突き動かしていたことがわかる。

それは当然ながら戦陣訓といった組織規律コントロールできる範疇を超えるものであり、根本的なガバナンスが問われていたことは間違いない。

そのダイナミックな動きをもっとも恐れていたのは昭和天皇だったかもしれない。

上記文書の対上官犯罪の増加について戦陣訓で対応したとあるが、こうして下剋上的な力学が全体で強く働いていたなかでは、戦陣訓ごときで風紀の乱れなど押さえきれるものではなかっただろう。

その戦陣訓を考案したとされる陸軍大将の畑は、昭和20年8月6日たまたま広島駅近くで被爆し、その体験をもって上京、御前会議の前の元帥会議に臨んだ。他の元帥主戦論を張るなか、ただ一人、本土決戦など不可能である旨を天皇陛下へ奏上、敗戦に至ることになる。

歴史にもしはないが、天皇陛下に奏上できる立場陸軍首脳が原爆被害に遭っていなかったら?・・・しかすると、当時の地震災害黙殺したみたいに、原爆被害も知らされず黙殺されて、もう数発くらい落とされていたかもしれないし、ソ連の侵攻も相当進んでいたかもしれない。

このことからわかることは、各都市が焼けようと沖縄がどうなろうと本土決戦を諦めなかったにもかかわらず、原爆威力を肌身で理解した元帥が奏上できたということは、人間誰しも当てはまることで、いくら想像力があっても、現場いかいかぎり現場のことはわからないということだ。

なお、畑に随行していた参謀宮城事件クーデター)に巻き込まれ青年将校殺害されたとwikipediaに書いてあった。

2022-02-22

anond:20220222014332

軍が主戦論で、宰相がそのガス抜きに苦慮するのが普通なのに、プーチン主戦論将校協会がやめてクレメンスだもんなー

そりゃ株価も下がる

2019-05-23

anond:20190523130549

似たような話として、世の中には憲法第9条の信奉者達にも同じことが言えると思う。

もし近い将来日本が中国ロシア攻撃されたら、あいつらは180度態度を変えて「主戦論者」になると見た。

口ではキレイゴトを述べていても、自分達の余裕が無くなった途端に「ぶっ殺せ」と言い始めるに決まっている。

2018-01-26

自衛隊員をそれなりに褒め続けることは必要

70年前の太平洋戦争は、政治に口を出し始めた軍人たちの軍閥政治暴走によって引き起こされ、その結果アメリカ軍に叩きのめされたということになっている。しかし、当時の軍人政治家たちのスタンス反戦であり、むしろアメリカの国力や軍事力を熟知している軍人こそが一番反戦だったのだ。

1941年4月から始まった日米交渉の経緯を調べてみても、いか日本側が戦争回避するか右往左往しているのがよくわかる。しかし、軍部政府反戦傾向であったとしても、世間はそうではなかった。当時の朝日新聞記事が載った本を読み返してみても、鬼畜米英だなんだと国民煽り続け、国民もそれに乗っかって主戦論が幅を利かせていた。

当時の新聞を読んでみると、真珠湾攻撃成功した当時は、日本全国で赤提灯を飾って戦争を祝っていたらしい。

そして旧日本軍アメリカ軍にいいようにしてやられ、日本占領された。それで国民戦争を煽ったことを反省たかといえば、そうではない。

全ての責任軍人押し付けて、自分たち軍部によって引き起こされた戦争被害者だという立場を取ったのだ。旧日本軍末裔である自衛隊にもその矛先が向けられた。戦後70年年間の自衛隊員はずっと日陰者として生きてくることを余儀なくされたのだ。今の70代・80代の人たちは、当時の自衛隊の人たちが世間からどのような目で見られてきたのか、よくわかっているはずである

転機はやはり1995年の阪神大震災の時だと思う。当時の首相がアホだったので自衛隊出動のタイミングは遅れたが、それでも被災地活躍する自衛隊員達の姿に、国民自衛隊に対する見方は少し変わった。2011年の東日本大震災の時には、自衛隊員は完全に英雄になっていた。あの当時の首相もアホだったけど、機能不全を起こす政府に対して、黙々と救助活動をする自衛隊員の姿は頼もしく見えた。

旧日本軍自衛隊を同一視するのはおかしい、と反論されるかもしれないが、実質的には同じである朝鮮戦争の時に日本海派遣された掃海艇部隊が、旧海軍軍人たちで構成されていたことは誰でも知っている。

旧日本軍兵站軽視の体質も戦前から批判されていて、その兵站軽視が太平洋戦争敗北の原因の一つになったが、その兵站軽視の伝統自衛隊にもちゃんと継承されている。南スーダン派遣の際も、一部の専門家から批判されていたよね。

国民メディア煽り続けて戦争に追い込んで、そして負ける戦争に負けたら、手のひらを返して軍人たちを戦犯扱いしたのが、戦後70年の歴史。そんな歴史的経緯を考えてみれば、もっと自衛隊員たちを褒め称える過程必要である

今回の草津白根山のようなウソの作り話を拡散するのはやりすぎだけど、それくらいのことを私たち国民はやってきたのだ。

2017-05-19

朝鮮朝鮮王朝(李朝)の高宗31(1894)年に起こった反侵略,反封建の農民戦争東学党の乱ともいう。高宗1年,東学1世教主崔済愚が,邪教を広めたとして処刑された。第2世教主崔時亨は東学公認を求め,同 29年以降「教祖伸寃」の請願教徒大衆行動でしばしば行なった。しかし「教祖伸寃」という宗教的訴えは,かえって狡猾な地方官に農民収奪の口実を与えることになった。そこで農民たちの運動は貪官汚吏の処分など政治的要求へと変わっていった。反乱は同 312月全羅道古阜郡の民乱を契機にして始まり,一応の成果を得て解散した。その後政府派遣の按覈使(あんかくし)の不法弾圧激怒した全琫準は,全羅各地に呼びかけ,5月古阜,泰仁で本格的な闘争に立ち上がった。全羅各地で蜂起した農民軍は白山に集結,大多数が農民東学徒は少なく,指導者東学接主であった。全琫準ら指導者は,農民軍を軍隊式に編成,四大綱領を発表し,反封建,反侵略を訴えて広範な農民層の支持を得た。農民軍は黄土峴,長城で政府軍撃破し全州を占領した。閔氏政権はこれに驚き清国出兵要請する一方,農民軍の弊政改革案を受け入れた。全州和約後,農民軍の大半は解散したが,全羅道 53郡に農民軍の自治機関である執綱所が設置され,実質上の政権機関として機能した。日清戦争が起こるとまもなく,全琫準ら農民軍は再起したが,日本軍政府軍の圧倒的な軍事力の前に敗北した。

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デジタル大辞泉解説

うご‐のうみんせんそう〔カフゴノウミンセンサウ〕【甲午農民戦争

1894年朝鮮李朝末に起こった東学信徒を中心とした農民の反乱。鎮圧のため李朝政府清国派兵要請日本出兵して乱は鎮圧されたが、日清戦争を誘発する結果を招いた。東学党(とうがくとう)の乱。

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百科事典マイペディア解説

甲午農民戦争【こうごのうみんせんそう】

李朝末期の1894年(甲午の年)に朝鮮南部で起こった農民反乱。圧政に苦しむ農民の間に広まった民衆宗教東学〉は1890年代には活動公然化させるが,全羅道古阜で全【ほう】準(ぜんほうじゅん)に率いられた農民たちが同年2月郡庁を襲撃し,5月以降全羅道一帯に及ぶ蜂起に発展,閔(びん)氏政権の打倒と日本人駆逐をかかげて各地を転戦した。

→関連項目大院君|李朝朝鮮

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世界大百科事典 第2版の解説

うごのうみんせんそう【甲午農民戦争

1894年(甲午の年)に朝鮮南部でおこった農民反乱。李朝末期の朝鮮では封建的収奪に反対する民乱が続発し,とりわけ南部地方開港後の外来資本主義との接触によって矛盾が激化していた。圧政に苦しむ農民の間に広まった東学は,1890年代に入ると活動公然化するようになった。こうした情勢のもとで,94年2月全羅道古阜の農民は,規定外の税をとるなど暴政を行った郡守趙秉甲(ちようへいこう)に抗議し,全琫準を指導者として郡庁を襲撃した。

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大辞林 第三版の解説

うごのうみんせんそう【甲午農民戦争

朝鮮1894年(甲午の年)東学信徒が主導した農民戦争地方官の悪政に反対した全羅道農民が蜂起したのに始まる。朝鮮王政府鎮圧のため清しんに出兵を求め、清に対抗して日本出兵日清戦争の契機となった。東学党の乱。 → 東学

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

甲午農民戦争

うごのうみんせんそう

1894年(甲午の年)に起こった朝鮮の歴史もっとも大規模な農民蜂起(ほうき)。この戦争きっかけとして、中国、清(しん)の勢力排除朝鮮支配することをねらっていた日本政府は、公使館警護と在留邦人保護名目大軍を繰り出し、日清戦争引き起こした。

 当時、朝鮮民衆は、朝鮮政府財政危機を取り繕うための重税政策官僚たちの間での賄賂(わいろ)と不正収奪の横行、日本人の米の買占めによる米価騰貴などに苦しんでいた。それにまた、1890年代の初めには干魃(かんばつ)が続いて未曽有(みぞう)の飢饉(ききん)に悩まされていた。これに耐えかねた農民たちが、日本への米の流出の防止、腐敗した官吏罷免租税減免要求して立ち上がったのがこの戦争の始まりである指導者には、急速に教勢を拡大していた民衆宗教である東学教団の幹部であった全準(ぜんほうじゅん)や金開南らが選ばれた。そのため東学党の乱とよばれたこともあった。5月初め、全羅道古阜(こふ)郡で結成された農民軍は、全羅道配備されていた地方軍や中央から派遣された政府軍を各地で破り、5月末には道都全州を占領した。農民軍の入京を恐れた朝鮮政府清国に援軍を出してほしいと要請した。ところが、ここで予期しないことが起きた。清軍の到着と同時に日本軍が大挙して朝鮮侵入してきたのである朝鮮政府は急遽(きゅうきょ)方針を変更して農民軍と講和交渉を行い、農民たちの要求をほぼ全面的に受け入れることで停戦した(全州和約、6月10日)。

 全羅道の各郡には執綱(しっこう)所という機関が設けられ、農民たちの手による改革が始まった。農民戦争はこれで終わったかみえた。ところが、朝鮮上陸した日清両軍は、朝鮮政府のたび重なる要請にもかかわらず撤退しようとしなかった。それどころか、日本政府朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府にこれが拒否されるや、1894年7月23日王宮占領し、親日政府組織させた。

 清国がこうした日本の行動を批判したのを好機として始められたのが日清戦争である日本政府日清戦争と併行して朝鮮植民地化する政策を推し進めた。この日本勢力を追い出すため、朝鮮農民たちは10月かばになって再決起した。全準たちは東学組織を使って各地の蜂起を統一したものにしようとした。このとき立ち上がった農民20万人を超えたといわれる。日本軍朝鮮政府軍相手にして農民軍はよく闘った。しかし、日本軍の圧倒的な火力の前になすすべはなかった。翌年1月農民軍は壊滅し、全準は3月末、ソウル処刑された。[馬渕貞利]

[参照項目] | 日清戦争

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世界大百科事典内の甲午農民戦争言及

【崔時亨】より

92から翌年にかけて東学合法化をめざす教祖伸冤運動を展開。94年の甲午農民戦争では,東学本来非暴力的な教化主義立場から武力蜂起に消極的で,全琫準らの主戦論対立したが,のちに農民軍への合流を教徒に指示した。農民軍の敗北後,98年に江原道原州で逮捕され,ソウル処刑された。…

朝鮮】より

しかし,金玉均ら開化派が政権奪取をめざした甲申政変(1884)は内外の困難を克服しえずに挫折を強いられた。一方,民衆の反封建・反侵略変革運動は,壬午の軍人反乱(壬午軍乱,1882)を先駆として,甲午農民戦争(1894)に大きく花開いていく。甲午農民戦争こそ朝鮮社会近代への移行の決定的転換点となる可能性をはらんでいたのだが,日本侵略意図に立つ軍事力行使がこの可能性を破壊してしまったのである。…

日清戦争】より

… 朝鮮では王妃一族閔(びん)氏を中心とする親清派と国王の生父大院君派および金玉均独立派(開化派)が抗争しており,政治は乱れ,官吏不正日本商人の買占めで民衆の不満は高まっていた。1894年春,民間宗教東学を奉ずる農民分散した民衆の不満を結びつけ,朝鮮南部を中心に汚職官吏の掃滅と外国人排除を求める大規模な反乱を起こし,5月には各地で官軍が敗北するという重大な事態となった(甲午農民戦争)。朝鮮政府日本亡命中の金玉均らが農民反乱に呼応することをおそれ,上海に誘い出して暗殺した。…

※「甲午農民戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています

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2016-04-03

http://anond.hatelabo.jp/20160403194702

お前、銀英伝がいつの作品だか分かってんのか。82年の作品だぞ。それこそ島耕作がやりたい放題やってた時代だ。あの時代意識社会一般でそんな高いわけがないだろが。

古参銀英伝おじさんは知らないかもしれないが、ゼロ年代初頭に徳間デュアル文庫というところから道原かつみ絵で銀英伝が復刊されてそこからオタクルートに引きずり込まれた人も大勢いるのぢゃ……そういう人にとってあれはゼロ年代作品なのぢゃ……

(もちろん知識として知ってはいるよ、80年代作品だって。でも自分が引き込まれたのは2000年代なんだよ。それに元増田も、「昔は楽しく観れていた小説アニメ漫画を見直すと」って言ってんだから、そこで昔の作品が持ちだされるのは別におかしくないでしょ)

民主主義理念作品の書かれた80年代前半と大して変わってないのは描写で分かるだろ。フェミニズムの水準もそんなもんなんだろうよ。そもそも田中芳樹は52年生まれだぞ。銀英伝書いた時点で30歳だ。俺達の30年以上は前の社会価値観で書いてんだよ。そこを考えろ。

うんだから前の社会価値観が見ててつらいよねって話でしょ? 1962年まれ森岡浩之皇帝艦隊司令官や名門貴族の頭領をバンバン女性が努めてる星間帝国を作ったけど。

そもそも、主戦論者の大物議員女性じゃなかったか? 自由惑星同盟議会が映った記憶があまりないが、女性議員はそれなりにいるんじゃないのか。

コーネリア・ウィンザー小説版では「唯一の女性最高評議会評議員」(道原かつみ漫画版ではホアン・ルイも女性だっけ?)。議会描写はないけど最高評議会は何度も描かれてて見事に男社会だよ。呼び方一人だけ「女史」だし。

あと、フレデリカ物語の開始時点で中尉、その後23歳で少佐まで行って、最終的に政治家に転身して、日本で言えば首相になってんだぞ。ポプランが最後に確か中佐から軍人時代でもそんな低い地位とも思えん。23歳なんて、シェーンコップだってまだ佐官じゃないんじゃないの。

ヤン・ウェンリーが29歳で准将閣下、みんな大好きアンドリュー・フォークが26歳で同じく准将閣下から別に優秀な軍人としては普通なのでは(この人事システムは相当におかしいがそれはミリオタおじさんの守備範囲なのでそっちに任せる)。それより艦隊司令官メンツが全員男なんですがそれは、という。ヤン艦隊首脳部の佐官以上の女性ってフレデリカ以外に出てきたっけ? ポプランやシェーンコップにコナかけられる役や痴情のもつれで騒動起こす以外の女性将校ってマジでフレデリカカリン以外見覚えないんだけど。

有名人の嫁さんが有名人の嫁ってだけの理由トップに担がれるのは女性差別の解消でもなんでもないよねえ。だいたいイゼルローン何ちゃら政府ってマトモに選挙もやってないただの軍閥だし……

まあ、その辺踏まえたフェミな感じの二次創作なんかもあるから興味があるなら探してみ。結構面白かったから。

知らんかった。探してみるわさんきゅ。

http://anond.hatelabo.jp/20160330144201

最近オタクの振りして雑なオタク叩きする奴が増えたな。内輪揉めでも狙ってんのか?

銀河英雄伝説

お前、銀英伝がいつの作品だか分かってんのか。82年の作品だぞ。それこそ島耕作がやりたい放題やってた時代だ。あの時代意識社会一般でそんな高いわけがないだろが。オタクがどうこうって話じゃねえよ。まあ、その辺踏まえたフェミな感じの二次創作なんかもあるから興味があるなら探してみ。結構面白かったから。で、

あれだけの未来理念的には民主制のはずで女性大勢従軍している設定の同盟内閣にひとりかふたりしかいない女性政治家に男ばかりの軍首脳部に妻に家事をさせてのうのうとしている退役元帥サマ

民主主義理念作品の書かれた80年代前半と大して変わってないのは描写で分かるだろ。フェミニズムの水準もそんなもんなんだろうよ。そもそも田中芳樹は52年生まれだぞ。銀英伝書いた時点で30歳だ。俺達の30年以上は前の社会価値観で書いてんだよ。そこを考えろ。

そもそも、主戦論者の大物議員女性じゃなかったか? 自由惑星同盟議会が映った記憶があまりないが、女性議員はそれなりにいるんじゃないのか。

あと、フレデリカ物語の開始時点で中尉、その後23歳で少佐まで行って、最終的に政治家に転身して、日本で言えば首相になってんだぞ。ポプランが最後に確か中佐から軍人時代でもそんな低い地位とも思えん。23歳なんて、シェーンコップだってまだ佐官じゃないんじゃないの。

筋道立てて作品どうしを比較することが悪いと言っているのではない、念のため)。

その前に筋道立てて一つの作品をちゃんと論じてみろ馬鹿。お前が辛いのはお前が馬鹿からだ。

2013-06-11

右翼の強みは「支離滅裂」であることに尽きる

数え方変え「待機児減らし」「横浜方式」 大阪札幌川崎でも

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-11/2013061105_01_1.html

「待機児童ゼロ」に主戦論消えた自民 横浜市長

http://www.asahi.com/politics/update/0611/TKY201306110019.html

横浜市長林文子氏は、もともと民主党推薦で出馬し、自民党推薦候補を破って当選した人である

なのに、今回自民党は、前回の経緯をなかったことにして勝ち馬に乗ろうとしている。

この「支離滅裂」さこそが、右翼が勢力を拡大してきた本質であり、最大の強みである

いっぽう、共産党社民党のような清廉潔白な左翼は、論理一貫性を重視するがゆえに、

まわりを巻き込む支離滅裂で下劣な戦術をとることができず、衰退した。

2010-08-31

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100831-OYT1T00009.htm

民主党分裂に危機感…小沢出馬見送り論浮上

 民主党代表選(9月1日告示、14日投開票)は、菅首相鳩山首相の30日夜の会談で「トロイカ体制」の構築で一致したことにより、首相小沢一郎幹事長の全面対決回避に向けて最終的な局面に入った。

 党内は、小沢氏の最終判断を注目している。

 鳩山氏は首相首相公邸で会談後、記者団に「(鳩山小沢、菅の3氏に輿石東参院議員会長を加えた)『トロイカ+1』で行こうではないか、という思いを首相からいただいたので、明日私が責任を持って小沢先生に伝え、首相と会談していただく」と述べ、「菅・小沢会談」での事態打開に期待を示した。

 鳩山氏が調整役を務めるのは、党内に「小沢氏の出馬は党分裂につながりかねない」という懸念が強まっているためだ。

 一方、首相鳩山氏との会談で「トロイカ+1」という表現小沢氏の処遇に含みを持たせた背景には、いくつかの伏線があった。

 輿石氏は30日午後、党本部でひそかに首相と会談し、「トロイカ復活が必要だ」と首相に求めた。

 民主党の有力支援者で、小沢氏にも近い稲盛和夫京セラ名誉会長内閣特別顧問)の意向も影響したとみられる。鳩山氏は30日夜、首相との会談に先立ち、稲盛氏と会食した。関係者によると、稲盛氏は「対決を回避すべきだ」という考えを鳩山氏に伝えたという。

 小沢グループでは、「鳩山・菅会談」まで主戦論が強かった。山岡賢次副代表は30日夕、国会内で開いた会合で、「小沢氏と首相の話し合いがあるといううわさが流れているが、そういうことはない。明日(31日)、各グループ一斉に足並みをそろえて選対を発足させる」と述べ、小沢氏の出馬の流れは止められないという見方を強調していた。

 しかし、菅・鳩山会談の後、小沢グループ内には戸惑いが生じている。小沢氏の側近は30日深夜、「不出馬の可能性もある。相当高いポストでの処遇ということかもしれない」と語り、小沢氏がポスト次第では出馬を見送るという見方を示した。一方で、30日夜、都内のホテルで開かれた小沢グループの会合では、「鳩山氏の調整には応じず、小沢氏は出馬するべきだ」とする中堅議員もいた。

 首相を支持する前原国土交通相グループも30日夜、都内のホテルに集まったが、前原氏は「首相小沢氏の対応を見守ろう」と呼びかけるにとどめた。首相の側近議員は「トロイカ体制ということは、小沢グループも含む『派閥均衡』の人事になるだろうが、了とするしかない」と語った。「国会議員票では小沢氏が上回るのではないか」という見方も出ていたためだ。

 ただ、首相を支持する枝野幹事長は周辺に「譲れたとしても代表代行までだ」と語り、党の資金や公認権を預かる幹事長ポストは渡せないという考えを示している。

2010年8月31日07時12分 読売新聞

なんだか、鳩山が稲盛に流されていつも通り暴走してるだけだと思う。山岡小沢腰巾着っぷりにますます磨きがかかって相変わらずでキモいし。

どうせ、鳩山小沢本人と対面したら黙りこくるか、菅を殺る気満々な小沢に流されて、↑の発言をコロッと(都合良く)忘れて「全面対決で行くべきだ!」とか言い出しそう。

という思いを首相からいただいたので、明日、私が責任を持って

鳩山の言う「思い」とか「責任」とかに騙される奴はもう居ないんじゃないかな。

 
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