はてなキーワード: 東学とは
朝鮮,朝鮮王朝(李朝)の高宗31(1894)年に起こった反侵略,反封建の農民戦争。東学党の乱ともいう。高宗1年,東学第1世教主崔済愚が,邪教を広めたとして処刑された。第2世教主崔時亨は東学の公認を求め,同 29年以降「教祖伸寃」の請願を教徒の大衆行動でしばしば行なった。しかし「教祖伸寃」という宗教的訴えは,かえって狡猾な地方官に農民収奪の口実を与えることになった。そこで農民たちの運動は貪官汚吏の処分など政治的要求へと変わっていった。反乱は同 31年2月全羅道古阜郡の民乱を契機にして始まり,一応の成果を得て解散した。その後政府派遣の按覈使(あんかくし)の不法弾圧に激怒した全琫準は,全羅各地に呼びかけ,5月古阜,泰仁で本格的な闘争に立ち上がった。全羅各地で蜂起した農民軍は白山に集結,大多数が農民で東学徒は少なく,指導者は東学接主であった。全琫準ら指導者は,農民軍を軍隊式に編成,四大綱領を発表し,反封建,反侵略を訴えて広範な農民層の支持を得た。農民軍は黄土峴,長城で政府軍を撃破し全州を占領した。閔氏政権はこれに驚き清国に出兵を要請する一方,農民軍の弊政改革案を受け入れた。全州和約後,農民軍の大半は解散したが,全羅道 53郡に農民軍の自治機関である執綱所が設置され,実質上の政権機関として機能した。日清戦争が起こるとまもなく,全琫準ら農民軍は再起したが,日本軍と政府軍の圧倒的な軍事力の前に敗北した。
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こうご‐のうみんせんそう〔カフゴノウミンセンサウ〕【甲午農民戦争】
1894年、朝鮮李朝末に起こった東学の信徒を中心とした農民の反乱。鎮圧のため李朝政府は清国に派兵を要請、日本も出兵して乱は鎮圧されたが、日清戦争を誘発する結果を招いた。東学党(とうがくとう)の乱。
李朝末期の1894年(甲午の年)に朝鮮南部で起こった農民反乱。圧政に苦しむ農民の間に広まった民衆宗教〈東学〉は1890年代には活動を公然化させるが,全羅道古阜で全【ほう】準(ぜんほうじゅん)に率いられた農民たちが同年2月郡庁を襲撃し,5月以降全羅道一帯に及ぶ蜂起に発展,閔(びん)氏政権の打倒と日本人の駆逐をかかげて各地を転戦した。
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1894年(甲午の年)に朝鮮南部でおこった農民反乱。李朝末期の朝鮮では封建的収奪に反対する民乱が続発し,とりわけ南部地方は開港後の外来資本主義との接触によって矛盾が激化していた。圧政に苦しむ農民の間に広まった東学は,1890年代に入ると活動を公然化するようになった。こうした情勢のもとで,94年2月,全羅道古阜の農民は,規定外の税をとるなど暴政を行った郡守趙秉甲(ちようへいこう)に抗議し,全琫準を指導者として郡庁を襲撃した。
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朝鮮で1894年(甲午の年)東学の信徒が主導した農民戦争。地方官の悪政に反対した全羅道の農民が蜂起したのに始まる。朝鮮王朝政府は鎮圧のため清しんに出兵を求め、清に対抗して日本も出兵、日清戦争の契機となった。東学党の乱。 → 東学
こうごのうみんせんそう
1894年(甲午の年)に起こった朝鮮の歴史上もっとも大規模な農民蜂起(ほうき)。この戦争をきっかけとして、中国、清(しん)の勢力を排除し朝鮮を支配することをねらっていた日本政府は、公使館警護と在留邦人保護の名目で大軍を繰り出し、日清戦争を引き起こした。
当時、朝鮮の民衆は、朝鮮政府の財政危機を取り繕うための重税政策、官僚たちの間での賄賂(わいろ)と不正収奪の横行、日本人の米の買占めによる米価騰貴などに苦しんでいた。それにまた、1890年代の初めには干魃(かんばつ)が続いて未曽有(みぞう)の飢饉(ききん)に悩まされていた。これに耐えかねた農民たちが、日本への米の流出の防止、腐敗した官吏の罷免、租税の減免を要求して立ち上がったのがこの戦争の始まりである。指導者には、急速に教勢を拡大していた民衆宗教である東学教団の幹部であった全準(ぜんほうじゅん)や金開南らが選ばれた。そのため東学党の乱とよばれたこともあった。5月初め、全羅道古阜(こふ)郡で結成された農民軍は、全羅道に配備されていた地方軍や中央から派遣された政府軍を各地で破り、5月末には道都全州を占領した。農民軍の入京を恐れた朝鮮政府は清国に援軍を出してほしいと要請した。ところが、ここで予期しないことが起きた。清軍の到着と同時に日本軍が大挙して朝鮮に侵入してきたのである。朝鮮政府は急遽(きゅうきょ)方針を変更して農民軍と講和交渉を行い、農民たちの要求をほぼ全面的に受け入れることで停戦した(全州和約、6月10日)。
全羅道の各郡には執綱(しっこう)所という機関が設けられ、農民たちの手による改革が始まった。農民戦争はこれで終わったかにみえた。ところが、朝鮮に上陸した日清両軍は、朝鮮政府のたび重なる要請にもかかわらず撤退しようとしなかった。それどころか、日本政府は朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府にこれが拒否されるや、1894年7月23日王宮を占領し、親日政府を組織させた。
清国がこうした日本の行動を批判したのを好機として始められたのが日清戦争である。日本政府は日清戦争と併行して朝鮮を植民地化する政策を推し進めた。この日本の勢力を追い出すため、朝鮮の農民たちは10月なかばになって再決起した。全準たちは東学組織を使って各地の蜂起を統一したものにしようとした。このとき立ち上がった農民は20万人を超えたといわれる。日本軍と朝鮮政府軍を相手にして農民軍はよく闘った。しかし、日本軍の圧倒的な火力の前になすすべはなかった。翌年1月農民軍は壊滅し、全準は3月末、ソウルで処刑された。[馬渕貞利]
[参照項目] | 日清戦争
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【崔時亨】より
…92年から翌年にかけて東学の合法化をめざす教祖伸冤運動を展開。94年の甲午農民戦争では,東学本来の非暴力的な教化主義の立場から武力蜂起に消極的で,全琫準らの主戦論と対立したが,のちに農民軍への合流を教徒に指示した。農民軍の敗北後,98年に江原道原州で逮捕され,ソウルで処刑された。…
【朝鮮】より
…しかし,金玉均ら開化派が政権奪取をめざした甲申政変(1884)は内外の困難を克服しえずに挫折を強いられた。一方,民衆の反封建・反侵略変革運動は,壬午の軍人反乱(壬午軍乱,1882)を先駆として,甲午農民戦争(1894)に大きく花開いていく。甲午農民戦争こそ朝鮮社会の近代への移行の決定的転換点となる可能性をはらんでいたのだが,日本の侵略の意図に立つ軍事力の行使がこの可能性を破壊してしまったのである。…
【日清戦争】より
… 朝鮮では王妃の一族閔(びん)氏を中心とする親清派と国王の生父大院君派および金玉均独立派(開化派)が抗争しており,政治は乱れ,官吏の不正や日本商人の買占めで民衆の不満は高まっていた。1894年春,民間宗教東学を奉ずる農民は分散した民衆の不満を結びつけ,朝鮮南部を中心に汚職官吏の掃滅と外国人の排除を求める大規模な反乱を起こし,5月には各地で官軍が敗北するという重大な事態となった(甲午農民戦争)。朝鮮政府は日本に亡命中の金玉均らが農民反乱に呼応することをおそれ,上海に誘い出して暗殺した。…
※「甲午農民戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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自分が生まれた時から存在するものは、過去もずっと同じであったと人間は思いがちだ。
ニュースを見聞きしていれば薄々感じてると思うが、現状は薄氷の上を歩くが如く、危うい状態にある。
戦争ってのは、そう特殊なことじゃないし、わりと簡単に日常生活の延長線上に起こりうる。
そして、現在の緊迫した状況を理解しておくことは、個人にとっても悪いことじゃない。
それを理解した上で、どう行動するかは、それぞれの信念によると思う。
「大韓民国(韓国)」と「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」は停戦状態で、まだ終戦していない。
それぞれ「国」の設立に、アメリカ合衆国とソビエト連邦とが強く関与しており、
いわば、この二国間は、未だ第二次世界大戦から直結した冷戦状態にある。
「李氏朝鮮」は、13世紀から19世紀まで中国の冊封国家として朝鮮半島を統一していた。
16世紀に豊臣秀吉が侵攻したのがこの李氏朝鮮で、一時的に国土の大半を征服されている。
(つまり朝鮮の征服は成功しており、事実上、中国(明)との戦争であったと言われている)
まあ、歴史の通り豊臣秀吉は死に明は押し返し、19世紀まで李氏朝鮮は存続している。
しかし、お隣の国である日本は、明治時代を迎え近代国家として発展していた。
李氏朝鮮の近代化を目指す一派が、日本に頼りクーデターを企んだ。コレが1884年の甲申政変だ。
時の政権は「中国(清)」に助けを求め、クーデター側は「日本」を頼り、代理戦争が勃発。
結局、双方割にあわないと気が付き、「天津条約」が結ばれ手打ちとなった。
(ちなみに、クーデター首謀者一派はかなり悲惨な結末を迎えている)
ここで、内乱が鎮圧された後、中国(清)が「日本だけが撤兵せよ」とツッパった。
政府内でクーデターも置きてしまい、朝鮮政府も日本に「清を追い出してくれ」と依頼する。
つまり、「李氏朝鮮」は、中国(清)の冊封国家から離脱したわけだ。
これが、1897年の「李氏朝鮮」から「大韓帝国」への国号変更(独立)である。
まあ頼られたわけだし、と、当然のように日本は「大韓帝国」に干渉し始める。
これに「大韓帝国」は、危機を感じ、李承晩(イ・スンマン)をアメリカに派遣する。
アメリカに頼って、日本を排除しようとしたわけだ。これは失敗する。
そして、1910年「日韓併合条約」により統治権を日本に握られる。
勝った国は、その土地を分け合おうとする。
ここで、戦勝国である「ソビエト連邦」と「アメリカ合衆国」が現れる。
北のソビエトが「金日成」の「朝鮮民主主義人民共和国」を、
1948年の事だ。
筋金入りの抗日パルチザン活動家で、その流れでソ連軍の一員として行動していた。
そして、ソ連当局の支援を受けて、北朝鮮の指導者としての地位を確立した。
言ってみれば北朝鮮とは、正当なスターリン型ソ連の落とし子であり、中国共産党のシンパである。
李承晩(イ・スンマン)は、「大韓帝国」時代にアメリカに頼ろうとした調整役だ。
それは失敗したが、そのままアメリカのハーバードで修士を、プリンストンで政治学博士号を取得している。
そして、アメリカ当局の支援を受けて、大韓民国の初代大統領となった。
言ってみれば韓国とは、アメリカの援助で復活した「大韓帝国」である。
そして、「連合国」であることを望んだ。「戦勝国」の一員でありたかった。
対馬領有の宣言は、1949年に行われている。対馬と竹島を日本領から除外すべく、アメリカ政府に執拗に要求していた。
アメリカ政府は、共産主義国家が朝鮮半島を占領するのは良しとしなかったが、正直日本で手一杯だった。
1950年にアメリカ国務長官が「アメリカは、フィリピン、沖縄、アリューシャン列島しか責任を持たない」と宣言した。(アチソンライン)
ここで、キム・イルソンは、アメリカは朝鮮半島を重視していないと踏んで、朝鮮戦争に踏み切った。(当然ソ連のスターリンや中国の毛沢東に周到に根回してだ)
大韓民国軍は総崩れとなり、ほぼ北朝鮮は、韓国を占領しかかった。
ただ、結局のところアメリカ(国連)軍は、一気に押し返し、北朝鮮をほぼ制圧した。
もはや第3次世界大戦まで秒読みの段階だ。
ただ、軍を指揮していたマッカーサーが暴走(原爆を落とす気だった)した結果として軍から追放されたこと、
ソ連を率いていたスターリンが死去したことで、状況が大きく動いた。3年に及ぶ戦争は、一旦休戦することになる。
(休戦なので、未だ戦争は終わっていない)
朝鮮戦争後も、北朝鮮は社会主義国家からの支援を受け、基本的に韓国よりも常に優位に立っていた。
キム・イルソンが中国共産党出身であり、ソ連にも大きなコネがあることが全ての力の源泉だった。
しかし、ソビエト連邦が崩壊する。大きな後ろ盾を失い、経済的な援助が打ち切られた。
そして、キム・イルソンが死去し、コネクションを失い、世界から孤立する。
ソ連の援助は打ち切られたとはいえ、軍事国家は、軍事で物事を解決しようとする。
そして、そのキム・イルソンも死去し、金 正恩(キム・ジョンウン)が国家を継いだ。
売り家と唐様で書く三代目と良く言われるが、親の遺産はその子供まではなんとか保っても、孫の代には残らない事が多い。
北朝鮮は、いままさに三代目だ。いつ崩壊してもおかしくはない。良く保っていると言える。
朝鮮戦争は、未だ終結していない。
第二次世界大戦でソ連とアメリカが朝鮮半島の取り分を巡ってそれぞれ国家を建てたことで発生し、
代理戦争としてはまれに見る規模で地上戦が展開され、冷戦時代には相当の緊張を強い、ソ連の崩壊でバランスが崩れた。
韓国は、有り体に言えば反日イ・スンマンの意思を継ぐ、アメリカの属国だ。
ただ、真の独立をずっと願っているし、南北統一を夢見てもいる。
北朝鮮は、スターリン型独裁共産主義国家であり、ゴリゴリの軍事国家だ。
そもそも、国として存在するために、常に周囲を牽制し続ける必要がある。
韓国とアメリカは軍事的な同盟を結んでいるし、日本もアメリカとは事実上の軍事同盟を結んでいる。
そして、北朝鮮が発作的に何かを始めた場合、まず間違いなく最初に韓国が標的になる。
「軍靴の音が聞こえる」等とのんきなことを言えるのは、「平和」があると思い込んでいるからだ。
38度線の非武装中立地帯の北にも南にも、軍隊が常に靴を鳴らして警戒している。
軍靴の音が「聞こえなくなった」と感じ始めていることが、真の危機だ。
目を逸らしても、北朝鮮はまだそこにいる。