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2022-10-19

日米は台湾中国の一部であることを承認しているか

日米は中国共産党による台湾統治を認めているというブコメがあった。

よく誤解されているところなので整理しておこうと思う

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.afpbb.com/articles/-/3429477

台湾中国の一部で、その中国とは共産党のことで、ってところまでは日米ともに一応承認してしまってるはずなんだけど、台湾侵攻始まった時どう言う根拠で参戦するのだろうか。政治判断難しそう。

1日本立場

日中共同声明を見てみよう。

中華人民共和国政府は、台湾中華人民共和国領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。

日本政府は、この中華人民共和国政府立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。

これをもって「日本中華人民共和国台湾が一体であることを認めている」とする人もいるが、それは誤りであり、その理由は以下の通りである

日本は「中華人民共和国が主張しているという事実」を理解尊重しているに過ぎず、その主張を認めたものではないこと

何を勝手な、と言われそうだが、少なくとも日米(そして当時の中華人民共和国)はこの解釈で間違いない。

当時、日本中国に「中華人民共和国政府立場を十分理解し、尊重」という文言を持っていって、中国拒否されている。これは、「立場理解尊重」と言う文言では、中華人民共和国による台湾統治を認めたことにはならない、と当の中華人民共和国が考えていた証拠である

そこで、これに困った日本が「ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持」と付け加えて周恩来了解を取り付けているが、それについては後述する。

また、当時のアメリカのでも、「中国がそう主張していると認識(acknowledge)している」(ニクソン訪中)ととらえられており、日本はそこを踏み越えていないのは日米中の共通認識だ。

ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持」とは何か

それでは、付け加えられたこ文言にはどういう意味があるのだろうか。引用しよう。

ポツダム宣言

第8項 カイロ宣言条項は履行せらるべく、また、日本国の主権は、本州北海道九州及び四国並びに吾等が決定する諸小島局限せらるべし。

カイロ宣言

満州台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての地域中華民国返還する

さて、ここで二通りの解釈が出てくる。というよりも二通りの解釈が出きる余地を残した。

日本台湾中華民国返還した。中華人民共和国中華民国継承した国家なのだから、当然日本中華人民共和国による台湾領有を認めている」

日本台湾中華民国返還した。後の事は日本の預かり知るところではない」

そして、これはあえて決着をつけずに残しておいた。(外交交渉とは往々としてそういうものだ)

2どういう根拠で参戦するのか

日本見解はこれである

中華人民共和国台湾との間の対立は、基本的には中国国内問題であると考えます我が国としてはこの問題当事者間で平和的に解決されることを希望するものであり、かつこの問題武力紛争に発展する可能性はないと考えております

なお安保条約適用につきましては、我が国としては、今後の日中両国間の友好関係をも念頭に置いて慎重に配慮する所存でございます

(S47.11.8衆予算大平外務大臣答弁)

基本的には

当事者間の平和的話し合いが行われている限り」という趣旨

(当時の実務担当者である栗山駐米大使証言

安保条約適用…慎重に配慮

その前にある「この問題武力紛争に発展する可能性はないと考えており」が前提であるため、この答弁時点では「それを前提として検討はしていない」ということだ。

加えて、「仮に武力紛争に至った場合には、そもそもの前提がひっくり返ってるのでこの限りではない(=安保条約適用になるかもしんないけど、そのときになんないと分かんないし留保するね)」とのべている。

ざっくりといって、少なくとも武力紛争に至った場合には安保条約の定容範囲外とは捉えていない、という認識である

3アメリカ立場

台湾関係法のとおり(台湾防衛アメリカ義務ではないが、大統領にはその権限がある)

長くなったので暇になったら詳しく書く

2018-12-31

anond:20181231092453

あれが成立してるのは誤訳しても清国人現代中国人にバレず批判されず伝統芸能言い訳が立ててあって既知のチャンピオンケースだけが入試にお出しされるからだぞ

2017-05-19

花房 義質(はなぶさ よしもと、1842年2月10日天保13年1月1日) - 1917年大正6年)7月9日)は、明治大正期の外交官岡山藩士で実業家政治家(初代岡山市長)花房端連の長男爵位子爵歴任した主な官公職枢密顧問官日本赤十字社社長など。

目次 [非表示]

1 来歴・人物

2 栄典

3 家族

4 脚注

5 関係記録

6 関連事項

7 外部リンク

来歴・人物[編集]

緒方洪庵適塾で学び、1867年ヨーロッパ諸国アメリカ遊学し翌年帰国1870年から外国官御用掛として外務省出仕。同年日清修好条規の土慣らしの為に渡清。

1872年ペルー国船に乗船の清国人奴隷虐待問題マリア・ルース号事件)で外務卿副島種臣の補佐として書記官担当し、仲介裁判のための代理公使としてサンクトペテルブルク派遣され、訴訟の後は日露国画定交渉のため派遣された榎本武揚全権公使を補佐。

1877年、駐李氏朝鮮代理公使に任命されるが翌年1878年8月10日から1876年5月に締結された日朝修好条規に反して 朝鮮政府釜山の豆毛鎮に税関を設置し、朝鮮国内の輸入行者に対して関税徴収を開始したことから報復措置として代理公使の花房は軍艦と共に釜山派遣され豆毛鎮に設置された税関撤去要求する。最終的に、朝鮮政府が折れる形で事態は沈静化し、1878年12月4日に豆毛鎮の税関正式撤去された。1880年4月日本政府漢城への日本公使の常駐化を決定、初代公使として花房が任命される。だが、この時点ではまだ漢城公使館は開いていなかった。この公使館開設の件と仁川開港問題について金弘集と折衝し、その後、漢城日本公使館正式設置と仁川開港朝鮮政府に認めさせ、それに併せ日朝間で国書の交換がなされ、花房は代理公使から公使へと昇格した。

その後朝鮮駐在朝鮮近代化の為別技軍を提案するが、それが原因となった壬午事変では暴徒に包囲された公使館脱出して命からがら帰国、直後に寺内正毅率いる日本軍と共に朝鮮渡り済物浦条約を締結させ、事件の損害補償とともに、漢城への日本軍駐留などを認めさせる。

1883年より1886年までの3年間にわたり、在露特命全権公使としてサンクトペテルブルク駐在した。

その後は農商務次官、帝室会計審査局長宮内次官枢密顧問官日本赤十字社社長などを歴任した。1896年華族に列せられ男爵

目黒にある城南五山の一つである花房山は、1911年に花房が子爵に陞爵した際に別邸を構えたことが地名の由来。(現在品川区上大崎三丁目付近

1917年慢性胃炎のため死去[1]。

 
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