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はてなキーワード: 上大崎とは

2022-01-20

anond:20220120200859 anond:20230405135552

ワイトが土地勘あるのは、上野湯島秋葉原馬喰町浅草橋新橋渋谷神泉恵比寿上大崎田町〜芝、三田浜松町西新宿東新宿

そして陸の孤島足立区葛飾区なので白山はピンとこないけど

土地代高いとスーパーやら日用品の店が死ぬのでフツーに不便(ネットスーパーデフォになる)

閑静ではあるけれど根津駒込病院あたりとか何もねぇし

上京カッペは徒歩1020分をありがたがったりもするけど

何もありがたくないぞ

2021-06-12

anond:20210612160053

たぶん気のせいではない。接客なにそれ?な媚びらない店の方がラーメンに限らず美味い傾向が強い

シェフサイコパスが多い職業に上げられてるんだけど個人的には納得感しかない

最高経営責任者 (CEO)

弁護士

メディア関係者 (テレビラジオ)

セールスマン

外科医

ジャーナリスト

警察官

聖職者

シェフ

公務員

 

けど不味くなきゃ接客のいい店はまた行こうと思えるけど

よっぽど美味くなきゃ接客最悪orチンパン給仕してる店は行かないな

 

ワイの中でよっぽど美味しいカテゴライズされて再訪問したのは、上大崎とんかつ天津 (閉店)

ここは上手くて安かったけど、客に対する注文の張り紙から食べ方からそれはそれはヤバかった

 

現在住んでる地域スープカレー屋(閉店済)

ここは名店に名乗りをあげている店じゃなくて店名書いたら地域特定されるので避けるけど

無言でバンバン置いていくし冷蔵庫もものすごい音を立てて閉める

笑顔ゼロで常に無言なのにお気に入り常連さんとだけはニッコニコで客無視で談笑する

でもマジで真面目に薬膳スパイスについて学んでいて美味しかったし体に優しかった

 

食べログ上位の観光客御用達ラーメン屋(現在も元気に営業中)

訴えられたら嫌なので店名は書かないが1杯出すのに平均15〜20分掛かる

無言でバンバン置いていくし笑顔ゼロだし食べ方も注文つける

けど安くてうまいので時間ができた時に行ってたけど

常連でも無さそうな客と他の客の悪口を言っているのを見てからさすがに行ってない

2020-10-21

anond:20201021080750

世田谷が車の所有率1番高いぞ。マジであの辺をありがたがってんの上京カッペ

イケてないけどなんだかんだ愛している生まれ育った地元を語る時は、さいたま民みたいに自虐ネタが入るから

もっとも、自虐ネタ披露しがちなさいたま浦和とか中央区(上落合)あたりのが

世田谷よりも年収レベルも上ですけどね

あと世田谷区ありがたがってる上京カッペはそこそこ年配だと思う

小金持ってる上京組は目黒とか上大崎かに住むからならな

 

上京カッペは見栄っ張りで差別的なのに物知らず

 

繋げておきますね anond:20201020213328

2020-09-27

anond:20200927193801

ワイは実家東京や。いまは住んどらんけど

 

渋谷区は、信濃町(新宿区)〜原宿青山道玄坂神泉恵比寿上大崎(品川区)のあたりなら土地勘ある

けどまだ とんかつ天津 がやってた頃の話なので入れ替わりまくっとるやろな

 

道玄坂周辺なら最近仕事で行くので最近も店入ったりはするけど

仕事の合間にだから食べ歩きはしとらんな

2018-11-16

anond:20181116205226

いきなり否定から入ってないのだが?

キミのお心に沿わなかっただけでは?

anond:20181116202737

予算考えないで良いなら清澄白河三田上大崎だな

520万くらいあればまぁ住んでもいいけどあの雰囲気地方ではもっと安く得れるぞってだけや

anond:20181116202256

アキバというか湯島に住んでたよ

上野まで徒歩/チャリだしさほど悪くはなかった

都市部に住めなくはない家賃物件もあるが

首都高近くとか交通量多い道路前とかはまぁ遠慮したい

予算考えないで良いなら清澄白河三田上大崎だな

2017-05-19

花房 義質(はなぶさ よしもと、1842年2月10日天保13年1月1日) - 1917年大正6年)7月9日)は、明治大正期の外交官岡山藩士で実業家政治家(初代岡山市長)花房端連の長男爵位子爵歴任した主な官公職枢密顧問官日本赤十字社社長など。

目次 [非表示]

1 来歴・人物

2 栄典

3 家族

4 脚注

5 関係記録

6 関連事項

7 外部リンク

来歴・人物[編集]

緒方洪庵適塾で学び、1867年ヨーロッパ諸国アメリカ遊学し翌年帰国1870年から外国官御用掛として外務省出仕。同年日清修好条規の土慣らしの為に渡清。

1872年ペルー国船に乗船の清国人奴隷虐待問題マリア・ルース号事件)で外務卿副島種臣の補佐として書記官担当し、仲介裁判のための代理公使としてサンクトペテルブルク派遣され、訴訟の後は日露国画定交渉のため派遣された榎本武揚全権公使を補佐。

1877年、駐李氏朝鮮代理公使に任命されるが翌年1878年8月10日から1876年5月に締結された日朝修好条規に反して 朝鮮政府釜山の豆毛鎮に税関を設置し、朝鮮国内の輸入行者に対して関税徴収を開始したことから報復措置として代理公使の花房は軍艦と共に釜山派遣され豆毛鎮に設置された税関撤去要求する。最終的に、朝鮮政府が折れる形で事態は沈静化し、1878年12月4日に豆毛鎮の税関正式撤去された。1880年4月日本政府漢城への日本公使の常駐化を決定、初代公使として花房が任命される。だが、この時点ではまだ漢城公使館は開いていなかった。この公使館開設の件と仁川開港問題について金弘集と折衝し、その後、漢城日本公使館正式設置と仁川開港朝鮮政府に認めさせ、それに併せ日朝間で国書の交換がなされ、花房は代理公使から公使へと昇格した。

その後朝鮮駐在朝鮮近代化の為別技軍を提案するが、それが原因となった壬午事変では暴徒に包囲された公使館脱出して命からがら帰国、直後に寺内正毅率いる日本軍と共に朝鮮渡り済物浦条約を締結させ、事件の損害補償とともに、漢城への日本軍駐留などを認めさせる。

1883年より1886年までの3年間にわたり、在露特命全権公使としてサンクトペテルブルク駐在した。

その後は農商務次官、帝室会計審査局長宮内次官枢密顧問官日本赤十字社社長などを歴任した。1896年華族に列せられ男爵

目黒にある城南五山の一つである花房山は、1911年に花房が子爵に陞爵した際に別邸を構えたことが地名の由来。(現在品川区上大崎三丁目付近

1917年慢性胃炎のため死去[1]。

 
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