はてなキーワード: 1969年とは
調べてみました!
ほとんど確実。何故なら、人口統計調査により、ユダヤ人の戦前戦後の人口差は550万人程度はあり、人口統計調査の誤差を踏まえれば600万人程度のユダヤ人が殺されたことはほぼ確実である。別々の研究機関や研究者によって何度も推定は繰り返されているが、めちゃくちゃ極端に低く見積もっても約450万人程度とされており、大差はないと考えて良いだろう。ちなみに、否認派向けに言っておくと確認できる限り、否認派できっちり人口統計調査をした人は存在しないようである。否認論が嘘であるとバレるからか?w 出典は、『ホロコースト大事典』(柏書房)、芝健介『ホロコースト ナチスのユダヤ人大量虐殺の全貌』など。
これは数字は概ね合っているが、明らかに死亡者数ではない。英語圏でいう「リンゴとオレンジを比較している(compare apples to oranges)」であろう。
約3世紀に及ぶ奴隷貿易で大西洋を渡ったアフリカ原住民は1500万人以上と一般には言われているが、学界では900万人-1100万人という、1969年のフィリップ・カーティンの説を基にした数字が有力である。多数の奴隷船の一次記録の調査で、輸送中の死亡率がそれまで考えられていたほど高くなかった[注釈 2]、輸出先での人口増加率が意外に高いと推定される、というのが説の根拠である。ただし、カーティンの説(彼自身は900万人強を提唱していた)には、一次記録が存在しない16世紀 - 17世紀初頭に関しての推定数が少なすぎるという批判もあるが、そうした批判を踏まえても1200万人を大きく超えることはないと考えられている[7]。
んー、これはよくわからん。以下では1000万人は正しいかのように思えるが、はっきりしない。
その犠牲者は征服前の人口はおよそ1100万人であったと推測されるが、1600年の人口調査では、先住民の人口は100万程度になっていた。スペイン人は暴虐の限りを尽くしたうえに、疫病により免疫のない先住民は短期間のうちに激減した[29]。
何故はっきりしないかというと、こんな記事を見つけたからである。
さらなる批判を浴びたのは、ラス・カサスが挙げるインディオの犠牲者数が大幅に水増しされているとの“疑惑”だ。
たとえばラス・カサスは、征服前のイスパニョーラ島(現在のハイチとドミニカ共和国)の人口を300万と記しているが、当時の複数の記録でも現代の研究者の評価でもその人口は100万を超えていない。同様にラス・カサスは、メキシコ中央部で400万、ペルー副王領でも同じく400万の生命が奪われ、1502年から42年までの40年間に2580万から2880万人のインディオが征服戦争の犠牲になったとしているが、当時の人口調査や統計では正確な数字を出すことは不可能で、「被害」の規模に確たる根拠があるとはいえない。
16世紀に新大陸で虐殺を行なったスペインが、当時もっとも「啓蒙的、人道的」だった[橘玲の世界投資見聞録] | 橘玲×ZAi ONLINE海外投資の歩き方 | ザイオンライン
何にしても一体、1000万人はどこから出てきた値なのか知識がないのでよくわからない。ここに書いてあるように、正確な統計値があるとも思えない時代の数字にどれほど信憑性があると判断すれば良いのだろうか?
んー、これも上と同じで、正確な統計があるとは思えない時代の話だし、ちょっと調べた程度ではさっぱりわからない。しかし以下のような記事を見つけた。人口がもしそうだとするなら、1000万人はあり得ない。
インカ帝国は、13~16世紀にかけて繁栄した、アンデス山脈沿いの南北4000kmに及ぶ、現在の南米ペルーを中心とした広大な大帝国であり、最盛期には人口600万を有した。有名な遺跡として、標高2500mの高地に作られたマチュピチュ都市がある。
追記;↑と思ったが、Wikipedia「インカ帝国」によると、上の記事は間違いの可能性が高いように思われる。
前身となるクスコ王国は13世紀に成立し、1438年のパチャクテク即位による国家としての再編を経て、1533年にスペイン人のコンキスタドールに滅ぼされるまで[1]約200年間続いた。最盛期には、80の民族と1,600万人の人口をかかえ
しかしこの記事でも、虐殺の話はまるで出ておらず、「伝染病が壊滅的な打撃」ともあり、「リンゴとオレンジを比較している(compare apples to oranges)」の疑いが強い印象。
英語版Wikipediaを調べた。英語版は流石にやたら詳しい。これによると、1000万人は完全な出鱈目・デマである。デマ源を突き止めたいんだけどなぁ。
2010年のアメリカ合衆国の国勢調査では、自らがアメリカインディアンまたはアラスカ先住民であると認識しているアメリカ人は293万2,248人で、アメリカ人口の約0.9%でした[50]。 2011年のカナダの国勢調査では、自らがファースト・ネーション(またはイヌイットやメティス)であると認識しているカナダ人は183万6,035人で、カナダ人口の約4.3%でした[51]。 ヨーロッパ人が到着する前にアメリカ大陸に住んでいた人の数については意見の一致を見ていませんが、広範な研究が続けられています[52][53]。 52][53]現代の推定では、ヨーロッパによる植民地化以前に北米大陸に住んでいた人々の数は210万人から1800万人とされているが[54]、アメリカ国勢調査局は1894年に、1492年の北米大陸はほとんど何もない大陸であり、インディアンの人口は「50万人をはるかに超えることはなかっただろう」と主張している[55][56]。
インディアンの数は、感染症、ヨーロッパ人との衝突、部族間の戦争、同化、カナダやメキシコへの移住、出生率の低下などにより、19世紀には50万人を下回るまでに減少したという。主な原因はヨーロッパの探検家や商人が運んできた伝染病であった[57][58] 米国国勢調査局(1894年)は1789年から1891年までの102年間の戦争による特別な死亡者の推定値を示しており、その中には「個人的な問題」で殺された8,500人のインディアンと5,000人の白人が含まれていた。
米国政府の下で行われたインディアン戦争は40回以上にも及びます。彼らは、個人的な戦闘で殺された人を含めて、約19,000人の白人男性、女性、子供の命を奪い、約30,000人のインディアンの命を奪ってきました。実際に死傷したインディアンの数は、この数字よりもはるかに多いに違いありません。5割増しというのが安全な見積もりだろう[59]。
スターリンが粛清により大量の処刑者を出したのは史実であろうが、一千万人はいくらなんでも盛り過ぎである(実際には明らかにあり得ない非現実的な無茶苦茶誇張された数字もあったくらいであるが)。これは冷戦末期以降にソ連・ロシアが情報公開をしていて、確定はしていないが、概ねの数字はわかっている。おそらく粛清で処刑されたのは90万〜120万人程度と考えられる。
ソ連政府はミハイル・ゴルバチョフの時代にNKVDの後身ソ連国家保安委員会 (KGB) が「スターリンが支配した1930年から1953年の時代に786,098人が反革命罪で処刑されたこと」を公式に認めた。さらにソ連崩壊後にはロシア連邦国立文書館 (GARF) がNKVDグラーク書記局が1953年に作成したという統計報告書を公開した。それによるとNKVDは1937年と1938年の2年間に1,575,259人の者を逮捕しており、このうち87%以上の1,372,382人に及ぶ人が反革命罪および反国家扇動罪などに問われた政治犯であった。ソ連時代の統計[16]の開示[17]や、第三者による検証[18]を経ても、粛清された人物の合計数は今もなお公式に確定していない。
ウクライナへの人工飢餓として、ジェノサイド認定をしたらしいが、ジェノサイドと言えるのかどうかは議論の余地がある。しかし、何にしても、ホロコーストのように殺戮を目的とはしておらず、これもまた「リンゴとオレンジを比較している(compare apples to oranges)」であろう。
飢餓による餓死者の総数に関しては未だ議論が続いており、飢饉の犠牲者数についても学説によって250万から1450万人までの幅がある[7][2]。
この飢餓の主たる原因は、広範な凶作が生じていたにもかかわらず、ソ連政府が工業化の推進に必要な外貨を獲得するために、国内の農産物を飢餓輸出したことにあった。その意味で大飢饉が人為的に引き起こされたものであることは否定できない。ウクライナのユシチェンコ政権は、これをもってウクライナ人に対する大量虐殺であったと主張し、国際的な同調を募った。一方、現代ロシアの歴史家を中心に、大規模で悲惨な飢饉があったという事実認識には同調するが、飢饉の被害はウクライナ人のみならずロシア人やカザフ人にも広く及んだと指摘して、これがウクライナ人に対する民族的なジェノサイドであることを否定する議論もあり、見解の相違は埋まっていない。
全然知らない話だが、以下を読む限り、「2000万人」は盛っていると思われる。しかもその大半は天然痘などの疫病であるようだ。しかし、相当規模の残虐行為を働いたのは事実であろう。
自由国政府は当初は象牙を、後には貴重な商品となっていったゴムなどの天然資源を開拓した。自由国の軍隊である公安軍(Force Publique)の支援を受け、その領土は複数の私的な採掘利権に分割された。英白インド・ゴム会社(英語版)はとりわけ、その領土から利益を得るために武力と残虐行為を用いた。コンゴにおけるその政権は強制労働をさせ、ゴム収集のノルマを満たしていないコンゴ先住民を殺害し切断した。何百万人ものコンゴ人がこの期間に犠牲となったが[4]、死者の多くはコンゴ川下流地域の人口の半数近くが死亡した天然痘を含む、ヨーロッパ人入植者との接触によってもたらされた新しい病気が原因だとも特定されている[5]。
自由国時代には過剰死によってコンゴ人口が急減したが、死者数の推定値にはかなりのばらつきがある。数字は推定値であるものの、この時期に死亡したコンゴ人は人口のおよそ5分の1にあたる1000万人にのぼるとされている[6][7][8][9]。最初の人口調査が実施されたのは1924年であるためこの期間の人口減少を数量化することは困難であり、ウィリアム・ルービンスタイン(英語版)のように、アダム・ホックシールドが引証した数値はほとんど証拠に基づかない推測であると主張する者らによって、これらの数字は議論されてきた[10]。
これは適当な解説サイトが見当たらないので、自分の知識だけで言うけど、これも飢餓でしょ。数値は知らないけど、これもまた「リンゴとオレンジを比較している(compare apples to oranges)」。
残り二つの中国のは自分で調べて。文字数制限で書けない。ともかく、人数の精度に問題あり過ぎだし、ホロコーストと同レベルで比較対象にできるものはない。ホロコーストはほんとに民族抹殺を狙った大量虐殺で、そんなものは人類史上見当たりません。かのアドルフ・アイヒマンは「欧州すべてのユダヤ人、1030万人を殺したかった」と述べたアルゼンチン逃亡中の録音記録があったりしますが、そこからもわかるようにユダヤ人絶滅は本気だったのです。
オランダで年金生活を送る男性が、出会いの可能性を高めるため、年齢を法的に変更する法廷闘争を
始めた。
エミール・ラテルバンドさん(69)は、1949年3月11日から1969年3月11日へ、出生日の変更を求めている。
ラテルバンドさんは自身の要求を、トランスジェンダー(出生時の身体的性別と性自認が異なる人)の
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「名前は変えられる。性別も変えられる。年齢はなぜだめなのか?」とラテルバンドさんはオランダ紙デ
・テレフラーフに語った。
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首都アムステルダムの南東に位置するアーネムの地方裁判所は5日、公聴会を開いた。4週間以内に
判断を下す予定。
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オランダ紙アルヘメーン・ダグブラドは5日、この訴えが認められるか裁判所は懐疑的だと報じた。
裁判所によると、個人に出生日の変更を認める法的仕組みがオランダには存在しないという。
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しかしラテルバンドさんは、年齢によって自分が差別されていると感じると述べた。また、自分の雇用機会や
マッチングアプリ「ティンダー」での成功率に、年齢が影響しているとした。
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「年齢が69歳では、制限を受ける。もし49歳なら、私は新しい家を買えるし、今とは別の車にも乗れる。
「ティンダーで69歳だと言うと、もう返事が来ない。49歳で私のこの顔なら、上等な位置につけるだろう」
ラテルバンドさんはさらに、医師によれば自分の肉体年齢は45歳だと主張し、自身を「若き神」だと説明した。
また、もし出生日を変更した場合、ラテルバンドさんは年金を放棄すると語った。
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オランダの憲法は、年齢を基準にした雇用上の差別を明確に禁止している。
ラテルバンドさんはメディア司会者で、やる気向上の講演も行っている。神経言語プログラミングの
教育者でもある。
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アニメ大手ピクサーが制作した映画「カーズ2」のオランダ語版で、登場キャラクター「ウラジミール・
トランコフ」の声も演じた。
高校1年生の1953年に、冷蔵庫、洗濯機、トースターなどがようやく登場する。
32歳の1969年に、第32回衆議院議員総選挙に立候補する。
選挙直前の一族会議中に、近隣の家から出火した。この時、森は決死の覚悟で家にとびこみ、仏壇を抱えて出て来たという。当時の北陸地方は仏教への信仰が篤い土地柄であったこともあり、この行動は風向きを変えることになった。
51歳の1988年に、日本が初めてIPインターネット接続をする。同年、リクルート事件発生。森は約1億円の売却益を得ていたとされ、一時謹慎する。
63歳の2000年に、当時の小渕首相が脳梗塞で倒れる。その3日後に第一次森内閣発足。日本国の長となる。
前任者の急病による就任であり、総裁になるための正式な準備無しでの登板だったため、内心「正直いってえらいことになったな」と思ったという
64歳の2001年に、えひめ丸事故発生。森はプライベートでゴルフ場におり、第一報が入ったとき関係者からその場を離れないよう指示されていたらしいが、第三報が入るまでプレーを続けた。ゴルフを続ける映像が繰り返しテレビ放送されかなりの悪印象となる。
同2001年、森は総理大臣を辞任する。約1年の任期期間だったが支持率は低く、前述のえひめ丸事故の印象やたびたびの「失言」が支持率低下の原因だったとされている。
73歳の2010年に、育ての母が亡くなる。
76歳の2013年に、アルゼンチンのブエノスアイレスで行われた第125次IOC総会に現地入りし、東京オリンピック (2020年)開催決定の瞬間に立ち会った。
77歳の2014年に、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長に就任する。
84歳の2021年に、失言により、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長を辞任する。
森が物心がついたのはいつ頃だろうか。仮に小学1年生の頃として、この頃は1944年である。母が亡くなった年である。
森が小学2年生のときに第二次世界大戦が終結している。どんな時代であっただろうか。戦後教育なので、今よりはるかに奔放な教育がなされていただろう。有り体に言えば体罰や、現代の倫理観では時代錯誤とされることが、当然の教育としてなされていただろう。
そのような教育を通して、森は育ったのだ。
日本にインターネットが誕生し、私達がWindows98でテレホタイムをしていたころには、既に森は61歳で定年を過ぎている。
森は内閣時代もとにかく失言が多いイメージであった。生来の性格とみるか?育った時代、教育、環境も影響しているはずだろう。
私達の感覚では、「時代に合わせて感覚をアップデートできないものは置いていかれる」「アップデートできないものが悪い」というのが通常だが、森にこれが可能だったとは到底思えない。
特別に森がというより、一般論としての森の世代がである。Twitterが誕生したころには70手前の世代である。
自分の母親や父親、職場の上司に「感覚をアップデートしろ」というレベルではない。それよりもっと上の世代の人間である。学生時代に戦後を経験した世代にである。
PCが使えなくて当たり前だろう。スマホが使えたら上々だろう。その世代の人間は、感覚をアップデートするのが嫌なのでなく、どう感覚をアップデートすればいいのかわからないのではないのか。
この世代の人達は恐れているのではないか。自分の古くさった感覚をアップデートできてないことは自覚しつつ、言葉ひとつで多くのバッシングが飛んでくるこの時代を恐れているのではないか。
哀れと思うこそすれ、責められないと思うのだ。私達も、いずれきっと行く道である。
事件当時ロマン・ポランスキー監督は不在で(映画でもその通り)、犯人たちに襲われていない。
現在も存命で去年も作品を出している。(少し昔の作品だが、戦場のピアニストはかなり話題になった作品)
しかも殺人犯とは何ら関わりがなく、以前に引っ越した住人と勘違いされて彼女らは殺された。監督らの素性は事件に関係がない。
この映画が救ってみせたのは監督ではなくその妻、シャロン・テートだ。
劇中でも説明される通り、当時売り出し中の女優で、監督との子供を妊娠中だった。
この映画ではシャロン・テートの魅力的な姿が何度も描かれ、しかし最終的にディカプリオが彼女の家に招かれる場面ではインターホン越しでのみ会話し、ディカプリオと同じフレームには映らない。
とても誠実な描写だと思う。
実行犯に殺害を指示したチャールズ・マンソンは額に鉤十字のタトゥーを入れているが、タランティーノは過去のイングロリアス・バスターズで憎きナチの額に鉤十字を刻んだ。(ちなみにこのナチ将校役の俳優がポランスキー監督の映画おとなのけんかで主演してる)
そしてイングロリアスバスターズでは「映画を使って」ナチどもを焼き殺したように、この映画でもマンソンの手下を「映画の小道具を使って」焼き殺す。
1969年は「ロックが死んだ年」ともいわれ、アメリカにとって大きな節目だったことには違いがない。
しかし監督のタランティーノは「ハリウッド監督」ではないし(アメリカ映画=ハリウッド映画ではないのがややこしい)、彼はハリウッドやアメリカなどメインストリーム以外の映画も浴びるほど見ていて、それこそ中国や香港や日本などアジアの映画に多大な影響を受けた人間である。
キルビルが急遽テイストの違う二本立てになったのも、チャイニーズ・オデッセイという香港映画の影響である。(チャイニーズ~は一作目がコメディで、二作目が恋愛もの)
(タラがオールタイムベスト一位に挙げている続・夕陽のガンマンもイタリア産のマカロニウェスタンでアメリカ映画ではない。ちなみに監督のセルジオ・レオーネが撮ったワンスアポンアタイムインアメリカも長いけど大変な名作。セルジオ・レオーネ監督の大ファンでもあるし、タイトルからもわかる通りタランティーノはかなり影響を受けている。~インアメリカについては、ラストのデニーロの微笑みの解説を見ると、また味わいが増す)
ブルース・リーの話が出てきたが、タラはキル・ビルでは死亡遊戯の衣装を真似し(何の説明もなく出てくる「カトーマスク」も、グリーンホーネットでブルース・リー演じるカトーがつけていたマスクのこと)、主人公ブライドの使う技はブルース・リーのワンインチパンチで、必殺技は(ブルース・リーに影響を受けた)北斗の拳の技のようだ。オーレン石井へ敬意を示す闘いは、ドラゴンへの道のチャック・ノリス戦を思い起こさせる。
キルビルで描かれる復讐や暴力の虚しさは、燃えよドラゴンでブルース・リーが奇妙な泣き顔で表現したのと同じものだ。
そして敵役のビルには、ブルース・リーのドラマ企画を奪った俳優デヴィッド・キャラダインを配している。
タランティーノは、そういう監督なのである。ちなみにブルース・リーの主演が叶わなかったドラマ企画が、ちょうどワンス~の時代の頃の出来事でもある。
ちなみに、キルビルが前後編になった元ネタのチャイニーズ・オデッセイの主演はチャウ・シンチー(少林サッカーが有名)であるが、彼もまたブルース・リーマニアだったりする。(ドラゴン怒りの鉄拳のパロディや、少林サッカーやカンフーハッスル等、ブルース・リーネタ多し)
少し脱線するが死亡遊戯という映画もまた、「ブルース・リーという俳優の死後に、彼が生きているかのように撮られた」特別な作品で、その点がワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドと共通している。
(すでに香港ではスターだったが)ブルース・リーもハリウッドでの売り出し中にこの世を去った人なのだ。(ワンス~劇中でシャロン・テートが自分の映画を見るシーンがあるが、ブルース・リーは燃えよドラゴンの公開やそのヒットを目にすることがなかった)
ちなみに作中で喧嘩していたブラピ本人もブルース・リーおたくである。楽しかっただろうなあ。(ファイトクラブでの物真似が彼のアイデアというのは有名)
あとワンス~作中のブルース・リーが調子こいてるのは、実際の彼がああいうキャラだったためでむしろファンとしては大喜びするポイント。(ブルース・リーの物真似をするときは、顎をしゃくって半目で相手を文字通り見下したように眺める。服のセンスも、実際にああいうチンピラのようなダサいファッション)
何より、タランティーノは「超」がつく映画狂で、大げさではなく映画から人生のすべてを学んだような人間だ。
あらゆる映画を吸収し、現実にはモテないスーパーボンクラだったくせに、(映画からの知識だけで)玄人好みの渋い「中年の恋愛映画」すら物にしてしまう監督である。
落ち目だった俳優を「自分が好きだから」という理由で起用し、劇的にカムバックさせたりと、フィクションの力で現実を変えたこともある。
(※ネタバレ注意:この俳優とはジョン・トラボルタのことだが、タランティーノの好きな某映画ではヒロインを救えず、せめて「映画の中だけで生かす」ことを選ぶ。言うまでもなく、ワンス~を思い起こす)
(というよりもともと映画そのものが、亡くなった俳優の生きている姿を見られるタイムマシンのような装置なのだろう。そういう評論はよく見る)
そして、前述のイングロリアスバスターズではユダヤ系の、ジャンゴではアフリカ系の観客の心を、荒唐無稽なフィクションで熱く揺さぶった。
ヘイトフル・エイトでは差別主義者と黒人の和解をそれこそ「フィクション」という小道具を介し、素晴らしい形で描いてみせた。
日本ではネタにされがちなキルビルも実に真面目な女性映画である。「五点掌爆心拳」などという冗談のような技で、男女の歪な恋愛関係を誠実に描いたのだ。この映画では男はみな弱くて使えず、女性は強く逞しい。
(タランティーノは「強い女性」を描く監督としても有名だ。殺人鬼の変態スタントマンが、女性スタントマンたちにボコボコにされる映画デス・プルーフも撮っている)
タランティーノはフィクションの虚しさも当然知っているだろうが、同時にフィクションの力を強く信じている人間でもあるのだ。
(ちなみにデス・プルーフの主演であるゾーイ・ベルはキルビルでユマ・サーマンの「スタント」をしていた女性で、ワンス~にも出演。例の「ブルース・リーとの喧嘩」で車を壊されたひと。死亡遊戯→キルビル→ワンス~と考えてみても面白い)
(ディカプリオについては、ある種かなり本人に近い役。若手時代から演技力が高かったのに、レヴェナントで受賞するまでアカデミー賞からは長年ずっと無視され、色んな人に揶揄されてきた。アカデミーに無視されてきたのはタランティーノも同じ)
もちろんワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドは、ハリウッドやその他の「アメリカ黄金時代」への郷愁が詰まったお伽噺ではある。
1964年から1967年まで4年連続二桁勝利。スワローズ通算48勝。
1966年から1969年まで4年連続二桁勝利。スワローズ一筋で通算70勝。
V9を謳歌する巨人とは対照的に、1967年から1974年までの8年間で5回の最下位。
1965年に広島カープへ入団して、プロ初勝利がノーヒットノーラン。
1968年に21勝を挙げてエースとなると、1976年まで8回の二桁勝利を挙げる。
カープ一筋で通算131勝。キャリアで3回のノーヒットノーランを達成した。
1982年に12勝を挙げると、そこから6回の二桁勝利を挙げた。スワローズ一筋で通算112勝。
尾花と並ぶエースとして5回の二桁勝利。スワローズ一筋で通算85勝。
1997年に10勝して以降、ベイスターズ一筋で7度の二桁勝利。通算184勝。
日本人はフランスの女性の美しさに驚嘆する。しかし、彼女たちの美の大部分は彼女たちの自立と関連していて、主としてその自立は彼女たちが生殖に関わる問題、ひいては自分の運命を自分で決める力を持っていることに由来するのではないか。フランスの女性と比較して、日本の女性は性と生殖に関する権利に関する限りいまだに縄文時代に暮らしていると言える。
実際、性と生殖に関する権利という表現は日本版Wikipediaのページに載ってさえいない。日本の女性はあまりに大きな暗闇の中にいるので、自分たちが暗闇にいることがわかっていないのだ。
フランスと日本の避妊の歴史を比較すれば、日本の女性読者はどれだけ自分たちが遅れているのかを自覚できるかもしれない。フランスでは経口避妊薬は1969年から利用可能になっていて、2013年からは女性の未成年者は無料かつ匿名で入手できる。1999年に、事後用経口避妊薬が医師の診察を受けずに入手できるようになり、2002年には無料化、未成年者は匿名で手に入れられるようになった(学校の保健室で手に入る場合が多い)。
フランスの女性は敏感に自分の体を意識しており、最新の健康情報に従って生活している。最新の調査によると、フランス人女性のピル使用率は33.2%、子宮内避妊器具の使用は25.6%、コンドームの使用は15.5%だった(ちなみに、出産に関わる費用は全額払い戻される。72%の女性は麻酔を利用し、無料で出産を行っている)。
中絶についても、現在フランスでは中絶に関する合意が大きく広まっているため、2017年のフランス大統領選挙の11人の候補者のうち、選挙公約で中絶の禁止を訴えた者は1人もいなかった。ある候補者は妊娠中絶の権利を憲法で保障すべきだという提案まで行った。
フランスでは中絶は1975年から認可され、1982年以来社会保障制度給付金によって費用の大半が払い戻されるようになり、2013年以降は全額払い戻しが受けられるようになっている。中絶は外科手術によって行われるほか、より安全で安価な経口妊娠中絶薬と呼ばれる1988年にフランスの厚生大臣によって認可された経口薬によって行われることが多くなってきている。
当時、ある製薬会社は強い主張を展開する中絶反対団体への配慮から、当初は経口妊娠中絶薬の販売を拒んでいた。しかし、フランス厚生相は次のように述べて販売を命令した。「その薬に対する政府の認可が承諾された瞬間から、RU486(経口妊娠中絶薬)は製薬会社の資産であるだけでなく、女性の道徳的な資産にもなったのである」。
災害 | 年 | 犠牲者数 |
---|---|---|
スペインかぜ | 1918年-1919年 | 1700万-5000万人 |
アジアかぜ | 1956年-1957年 | 200万人 |
香港かぜ | 1968年-1969年 | 100万人 |
唐山地震 | 1974年 | 24万-80万人 |
サイクロン・ボーラ | 1970年 | 30万-50万人 |
ハイチ地震 | 2010年 | 22万-31万人 |
新型コロナウイルス | 2020年- | 30万人+ |
タイフーン・ニーナ | 1975年 | 22.9万人 |
海原地震 | 1920年 | 20万-24万人 |
スマトラ島沖地震 | 2004年 | 22万人 |
関東大震災 | 1923年 | 14.2万人 |
サイクロン・ナルギス | 2008年 | 13.8万人 |
バングラデシュ・サイクロン | 1991年 | 13.7万人 |
東日本大震災 | 2011年 | 1.8万人 |
伊勢湾台風 | 1959年 | 0.5万人 |
https://anond.hatelabo.jp/20150214223556
( ・3・) クラシック好きの上司がジャズを聴きたいと言いだして、から数か月後――
その朝、彼が職場に着くと、クラシック好きの上司は目を閉じて見えないオーケストラの指揮をしていた。腕の動きが激しさを増し、握った拳が垂直に振り下ろされる。1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11。
「なんだ、来ていたのか」と上司は目を開いて言った。「春の祭典の第二部なんだが、どうにも縦の線が揃わなくてな。リハーサル不足だ」
「高度に発達した空想は現実と見分けがつかないくらい不自由なものだ。ティンパニ奏者とシンバル奏者はもう何年も口をきいていない。――それはそれとして、ボブの件、明日の日曜はどうだ?」
ボブというのは、ボブ・ディランのことだった。上司の娘さんが英語の授業で「はげしい雨が降る」を習ってきたらしく、それ以来、上司は彼にディランについてのレクチャーを要請しているのだった。彼が娘さんに教えるのではなく、彼が上司に教え、上司が娘さんに教える。ディランのことならパパに任せなさい、と目論んでいるのは明らかだった。
明日。彼は断ろうとしたが、適当な口実が見つからなかった。高齢の親戚はひと通り殺してしまっていたし、このあいだ死んだ祖父にもう一度死んでもらうには、まだ少し時間が必要だった。
「じゃあ、決まりだな」
こうして、彼は休日をつぶして上司の家を訪ねることになった。どの作品を題材にするべきか迷ったが、一日でディランのキャリアを追いかけるのは無理だと割り切って、彼自身がディランを聴き始めた高校生のころに感銘を受けたものを選ぶことにした。『ブラッド・オン・ザ・トラックス』だ。このなかの数曲を検討するだけでも、一日まるごとかかってしまうだろう。たくさんのアルバムを持っていかずに済むのが救いといえば救いだった。
最寄駅に着くと、もう上司は車で迎えに来ていた。大きな声で名前を呼ぶので、きまりの悪い思いをしたのをわたしはよく覚えている。車に乗り、しばらく走ると、左手に惣菜とパンの店が見えてきた。看板にはアルファベットで DELI BAKERY と書かれていた。
「デレク・ベイリーのCD、今日こそは返していただきます」と彼は言った。
「そんなことを気にしていたのか」と上司は笑った。「大丈夫。おまえは持ってきたもの以上を持ち帰ることになるだろう」
おまえは持ってきたもの以上を持ち帰ることになるだろう。それはまるでデルポイの神託のように聞こえた。彼は運命のうねりが身に迫ってくるのを感じた。しかし、現実は物語とは違う。成就しない予言。読まれない遺書。途切れる伏線。それが現実だ。
「デレク・ベイリーというのは、あのヴェーベルン風のギタリストだな?」
「そうです」
「あれをかけると、猫たちが爪とぎを始めるんだ。何か感じるものがあるのかもしれないな」
「猫たち、とはどういう意味ですか?」
「猫たち、とは」と上司は言い、長めのフェルマータを置いた。「猫の複数形だな」
「また拾ってきたんですか?」
「いや、拾っていない。拾ったのはちーちゃんだけだ」
「猫の方から入ってきた?」
「いや、入っていないし、出してもいない」
「じゃあどうして増えるんですか?」
「さて、どうしてでしょう」
「ちーちゃん、ベルリオーズ、リムスキー=コルサコフ、ストラヴィンスキー、お客様にご挨拶だ」と上司は居間の扉を開けて言った。居間には母猫のちーちゃんと、三匹の子猫たちがいた。上司が公園で拾ったとき、ちーちゃんはすでに出産を間近に控えていたのだ。
「里子に出すまでの幼名だよ。正式な名前は里親がつければいい」
猫たちは来客には関心がないようで、ストラヴィンスキーはリムスキー=コルサコフに背後から跳びかかり、ベルリオーズは伏せの姿勢でおしりを振りながら取っ組み合いに加わる間合いを計っていた。
「みんな元気だな。よし、そっちに掛けてくれ。いまコーヒーを淹れてくる」
( ・3・) まずはバイオグラフィからだな。ボブの経歴をざっとまとめてくれ。
――いえ、それをやっていると時間がなくなるので、今日は『ブラッド・オン・ザ・トラックス』というアルバムだけを聴きます。
( ・3・) それにしたって、そのアルバムの位置づけくらいは踏まえないと。
――では、Rate Your Music のページを見てください。
https://rateyourmusic.com/artist/bob-dylan
――アルバムが発表順に並んでいますね。デビューしてまもなく、1963年に最初のピークが訪れます。このころのディランがお手本にしていたのはウディ・ガスリーで、ギター、ハーモニカ、歌というフォークのスタイルで世に出ました。
( ・3・) 「はげしい風が吹く」か。
――「はげしい雨が降る」と「風に吹かれて」です。ディランは1941年生まれなので、22歳前には代表作を発表していたことになります。
――1965年から66年にかけて、二回目の、そして最大のピークが訪れます。演奏はフォークからロックへ変わり、詩の内容も変わります。
( ・3・) どう変わるんだ。
――初期の詩は、一言でいえば真面目で、真面目な人たちに支持されるものでした。そこに、散文的な感覚では理解できない要素が入ってきます。「イッツ・オールライト・マ」「デソレイション・ロウ」「ジョハンナのヴィジョン」といった大作が次々に書かれるのがこの時期です。
( ・3・) 理解できない要素というのは?
Inside the museums, Infinity goes up on trial
Voices echo this is what salvation must be like after a while
( ・3・) 「ダビデの職分と彼の宝石とはアドーニスと莢豆との間を通り無限の消滅に急ぐ。故に一般に東方より来りし博士達に倚りかゝりて如何に滑かなる没食子が戯れるかを見よ!」
――どうしました?
( ・3・) 西脇順三郎だよ。よく分からない詩には、よく分からない詩で対抗だ。
――なぜ対抗しなくてはいけないんですか?
( ・3・) ただなんとなく。
――はい。続けますが、1960年代後半は、ロックが急成長する時代です。しかし、ディラン自身は、その運動の先頭に立とうとはしません。1969年の『ナッシュヴィル・スカイライン』は、カントリーのアルバムでした。
( ・3・) 帽子に手を添えてにっこり。
――捉えどころのない人である、というディランのイメージは、このころにはできあがっていたと思います。そして、三回目のピークが訪れるのは、1975年。
( ・3・) 33歳。――それだけ?
――伝記的な情報はいろいろあるのですが――というか、常に伝記を参照しながら語られる作品なのですが――今回は知らないふりをします。「この女性は誰々がモデルだから」といったアプローチはとりません。捉えどころのない人、謎めいたよそ者であることを行動原理にしている人が、久しぶりに本気を出したらしい、くらいで結構です。
( ・3・) そう、じゃあ聴いてみようか。1曲目は――
――1曲目は後にして、2曲目から始めましょう。「シンプル・トゥイスト・オブ・フェイト」。「運命のひとひねり」という邦題がついています。
( ・3・) なんで? 有名な曲なの?
――ほかの曲より易しめだからです。ディランの重要な曲を挙げるとしたら、おそらく50位以内には入ると思いますが。
https://www.bobdylan.com/songs/simple-twist-fate/
She looked at him and he felt a spark tingle to his bones
――ディランの歌詞は本人のサイトで公開されているので、それに基づいて進めていきましょう。では最初のスタンザから、どうぞ。
( ・3・) 訳すの? 俺が?
――訳ではなくてもいいので、どういうことが歌われているのかを説明してください。
( ・3・) 夕暮れの公園に男と女がいた。女に見つめられると、男は体の芯に火花が走るのを感じた。彼が孤独を感じたのはそのときだった。彼は思った。まっすぐに歩いていればよかった、運命のひとひねりに気をつけていればよかったと。
( ・3・) そうだな。恋人たちがいい雰囲気になっているのかと思いきや、なんだか雲行きが怪しい。急に孤独を感じちゃったりして。
( ・3・) そうなの? で、まっすぐに歩いていればよかった、というのは比喩的な表現だな?
――もちろん。
( ・3・) われ正路を失ひ、人生の覊旅半にあたりてとある暗き公園のなかにありき――
――?
( ・3・) ともかく、この男はあるべき道を見失って、運命の力が自分に働きかけているのを感じているわけだ。でも運命って、注意していれば回避できるものなんだろうか?
――次のスタンザに進む前に、脚韻の形式を見ておきます。2小節ごとに改行を加えると、以下のようになります。
She looked at him and he felt a spark
( ・3・) 1行目・2行目・3行目の park, dark, spark で韻を踏んでいるな。4行目・5行目の bone(s), alone もそうだ。それから6行目・7行目の straight, fate も。
https://twitter.com/kedardo/status/1241415360672219137
――ついでにコード進行も確認しておきます。これは実際に鳴っている音ではなく、説明のために簡略化したコードです。元のキーはEですが、ここではCに移調しています。 [1]
( ・3・) いったい誰に対する配慮なんだ。
――まずは1小節目から8小節目まで。何か気づいた点はありますか?
( ・3・) 見たままじゃないか。ド、シ、シ♭と半音ずつ下がっていって、ラに落ち着く。
――はい。ラはサブドミナントのコードであるFの構成音です。しかし、まだラは終点ではありません。
( ・3・) 半音下降は続くよどこまでも。
( ・3・) Fの構成音は「ファ・ラ・ド」で、Fmの構成音は「ファ・ラ♭・ド」だ。長三度のラが短三度のラ♭になる。なんだか言うまでもないことを言わされているようだが、どこに誘導しようとしているんだ?
――ラからラ♭へ半音下がることによって、コードに影がさします。その箇所ではどんなことが歌われていますか?
――はい。彼が孤独を感じるのは、サブドミナントのコードがメジャーからマイナーに変化するときなんです。
( ・3・) ああ、それが言いたかったのか。つまり、コード進行と歌詞の内容とが結びついている、と。
――そうです。それから、もう一点。この曲は、コードが頻繁に変わる曲でしょうか。それとも、あまり変わらない曲でしょうか。
( ・3・) また誘導が始まった。1小節目から10小節目までは、2小節ごとにコードが変わる。C7からFへの進行を除けば、コードの構成音のうちのひとつが半音下がるだけだし、曲のテンポもゆっくりだし、あまり変わらないんじゃないか?
――はい。11小節目から12小節目、"and wished that he'd gone straight" と歌われるところはどうでしょう。
( ・3・) ここは2拍ごとにコードが変わる。あまり動かなかったコードが動きだす感じだな。
――"and wished that he'd gone straight" の "straight" は、この曲の旋律で最も高く、長く、強く歌われるところです。コードの動きと旋律との関係を見ると、11小節目に助走が始まって、12小節目の頭で大きくジャンプするようにできています。
( ・3・) ……ハーモニック・リズムと言えば済む話じゃないのか?
( ・3・) いったい誰に対する配慮なんだ。
( ・3・) はっさく食べる?
多くの人はこちらのWikipediaの記事を参照していると思われる。
この記事も踏まえた上で、実際に主だった芸人を「活動開始時期」や「人気が出た過程」で並べ、あらためて世代分けを考えてみたい。
まず画期としては1953年のテレビ放送の開始が挙げられる。この時期に人気があったのは落語家や喜劇俳優であり、またコミックバンドも人気があった。上の表で言えばいとこい・ダイラケあたりが該当する。いわば「第0世代」であろうか。
次にやってくるのが「演芸ブーム」で、1963年開始のテレビ番組『大正テレビ寄席』を中心に数々の演芸番組が放送され、その勢いが1970年ごろまで続いた。一般にこの時期に人気が出た芸人が「第一世代」と呼ばれる。「寄席」をテレビでやるので落語・漫談・漫才・コント・コミックバンドなど幅広い芸人が登場した。てんぷくトリオを筆頭に三人組が多かったので「トリオ・ブーム」とも呼ばれた。1970年代はドリフと萩本欽一のコント番組が人気を二分した。やすきよもこの世代に含まれる。
続いて、1980年に放送された『花王名人劇場 激突!漫才新幹線』『お笑いスター誕生!!』『THE MANZAI』などが立て続けに高視聴率を取り「漫才ブーム」となった。このブーム自体は二年ほどで終息するが、若手漫才師がアイドル的な人気を得て「漫才」のイメージを変えたり、吉本興業が東京に進出したりするきっかけとなった。1981年から1989年まで続いた『オレたちひょうきん族』が『8時だョ!全員集合』の視聴率を超え、出演していたビートたけし・明石家さんま・山田邦子らは一躍スターとなった。たけし・さんまにタモリを加えた「BIG3」を中心に、漫才ブームやひょうきん族から出てきた芸人を「第二世代」とみなすべきだろう。
その次が「第三世代」と呼ばれる芸人たちで、お笑い養成所出身の若手が、小劇場のライブで腕を磨き、夕方番組や深夜番組をきっかけに人気を得て、ゴールデン帯で「バラエティ番組」を持つ、といったキャリアを踏むのが特徴である。とんねるず・ダウンタウン・ウッチャンナンチャンがこの世代の代表格となる。一般に「第三世代」は80年代デビュー組で区切るようだが、個人的には似たようなキャリアから早めにブレイクしたナイナイやロンブーあたりも含めるべきではないかと思う。
次に来るのが「ボキャブラ世代」である。1992年から1999年まで続いた『タモリのボキャブラ天国』は、当初は視聴者投稿型の番組だったが、徐々に芸人のネタ見せ番組に移行。この番組を登竜門に「キャブラー」と呼ばれる芸人が続々と登場した。吉本興業が首を突っ込みそこねたらしく非・吉本芸人が多い。またボキャブラ終了とともに一時的に低迷した芸人が、2000年代に復活するあたりも共通している。先述したとおり、ナイナイ・ロンブーなどを第三世代に含めるとすれば、この「第四世代」は爆笑問題・くりぃむしちゅー・ネプチューンあたりが代表格となる。
2000年代に入って「M-1グランプリ」が始まったことで「お笑いブーム」が醸成された。また同時期に『爆笑オンエアバトル』『エンタの神様』『笑いの金メダル』『爆笑レッドカーペット』などのネタ見せ番組がスタートしてお笑い人気に拍車をかけた。賞レースを目指してストイックに芸を磨く若手芸人と、多数のネタ見せ番組により短期的な人気を得た「一発屋」が混在し、芸人のレベルは底上げされたものの、数としては飽和した感がある。2010年にM-1グランプリが終了するとブームも終息し、多数の「ひな壇芸人」を出演させてトーク中心に作られる低予算の番組が増加した。(2010年までの)M-1でブレイクした芸人と「ネタ見せ番組」によって登場した芸人が「第五世代」といえるだろう。
2010年代になると、第二世代・第三世代がフェードアウトし、第四世代と第五世代がバラエティの「司会」の座を奪い合う群雄割拠の時代に入った。第五世代は図抜けた存在はいないものの層が厚いので、2000年代デビュー組の多くがつかえて中堅に留まっているように思える。そんな中で、霜降り明星および彼らが「第七世代」と称する2010年代デビュー組が既に台頭してきている。この場合は2000年代デビュー組が「第六世代」とされるわけだが、2000年代デビュー組は遅咲きになりそうなので、おそらく2000年代デビュー組と2010年代デビュー組をあわせて「第六世代」と呼ぶようになるのではないか。2020年現在、芸人の主戦場はYouTubeになりつつある。後世から振り返れば「第六世代」は「YouTube世代」と括られるのかもしれない。
デニス・ホッパー監督『イージー・ライダー』(1969年)を観た。
率直に言って、感動した。そして、不覚にも今の自分と重ね合わせてしまった。
『イージー・ライダー』のあらすじを簡単に説明しておこう。麻薬の密輸入で大金を手にしたワイアットとビリーは謝肉祭が開催されるニューオリンズに向けて旅をする。途中、田舎のカトリック家庭やヒッピーのコミューンに立ち寄りながら、バイクを目的地へと走らせる。また、祭りのパレードに無許可で参加したことで留置所に入れられるが、そこで酔いどれの弁護士ハンセンと出会い、行動を共にする。三人は再びニューオリンズに向かうが、そこに待ち受けたのは「自由」の国アメリカの非情な現実であった。
今日の20代の若者がこう言うと古臭いと思われるかもしれないが、私は劇中で描かれた自由と自負に憧れを覚えた。
若さたるもの、アメリカの大地のように、ここまで自由に、あっけらかんで無鉄砲であるのだと教えられた気がした。
しかし、それは主人公たちが暴力的なまでにも迫害される描写で、現実を突きつけられる。
ワイアットが終盤に、「自由の身だ」というビリーに対して、「ダメだよ」という場面がその心象をあらわしているだろう。
私は今まで真面目に励んできたが、周囲の期待から苦しくなった。
今でこそ諦めからかその憂慮は落ち着いてきている。
だが、諦めて自由気ままに暮らしてきたものの、真面目にやってきたところから自分が堕落している感覚も否めずにいる。
現代社会において、自由にふるまえばふるまうほど、その人は凋落する。
『イージー・ライダー』はカウンター・カルチャーに即応している点、その当時の感覚を鮮明に映し出していると思う。
その感覚は令和になった今日でも息づいていると、ぼんやり思う。
Netflixで観れるので、気になったら観て欲しい。今でも憧れを持たせてくれる名作だと思う。
「自由な奴を見るのは怖いのさ。」
時代劇 - Wikipediaの内容を整理する。
1910年代。日本映画草創期。歌舞伎の演目を題材にしたり、歌舞伎役者を引っ張ってきたりしたので、自然と時代劇が増えた。尾上松之助がスターとなる。
1920年代。映画業界が軌道に乗り、各社が時代劇スターを擁するようになる。阪東妻三郎や嵐寛寿郎、長谷川一夫などが登場する。
1930年代。トーキー映画への移行。戦前の映画黄金期であり時代劇の黄金期でもある。
1940年代、戦時中は検閲、戦後すぐはGHQの禁止により、映画(時代劇)が作りづらくなる。
1960年代。ここで一気に映画からテレビドラマへの転換が起きる。
1970年代。著名な時代劇シリーズが始まる。時代劇の第二次黄金期と言える。
1966年 | 銭形平次 | |
1969年 | 水戸黄門 | 最も有名なナショナル劇場のもの |
1970年 | 大岡越前 | |
1970年 | 遠山の金さん | テレビ朝日版の第一作 |
1972年 | 必殺仕掛人 | 必殺シリーズ第一作 |
1978年 | 暴れん坊将軍 |
1980年代。時代劇の定番ネタがすっかり出揃って飽きられはじめた。
1981年にテレビ東京が「12時間時代劇」を売りにした「新春ワイド時代劇」枠を開始(時間を縮小しながらも2016年まで続く)。
1985年の日本テレビ「年末時代劇スペシャル 忠臣蔵」が紅白の裏にもかかわらず15.3%の高視聴率を記録。
チーフプロデューサーの岡田晋吉は当初1年間の連続物時代劇として企画したが、編成会議にて上層部に「時代劇は受けない」「今時、時代劇でもないだろう」と受け入れられなかった。しかしその後、岩淵康郎(後の静岡第一テレビ社長)や一部の先輩の助け舟により、年末時代劇としての製作が決定した。
当時にしてこの認識か。
日本テレビの「年末時代劇スペシャル」枠はここから1993年まで続いた。
このあたりで年末年始=時代劇(忠臣蔵)というイメージができあがったのかな。
1987年にはNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』の大ヒットもあった。
こうして1990年前後には一時的な時代劇復活の気運があった。
今でいうとなろう系がラノベ化で日の目を見てアニメ化で大売れするみたいなもんか。
戦前はエンタメやそこで取り扱われるジャンルが少なかったから、
一つのブームが長く続くし、飽きるまでの時間も長かったんだろうな。
個人的には「時代劇は90年代くらいまでずーっと人気があった」というイメージだったけど
こうして見ると意外に変動があるし、ブームの期間も思ったほどには長くない。
映画で蓄積されてきたものをテレビドラマで一気に出してすぐ飽きられましたって感じか。
とはいえ現在でも時代劇ドラマや映画は作られ続けているし漫画でも人気のある題材だ。
70年代ごろのブームが特異なのであって今くらいが巡航速度なんだろう。
ついでに2010年代の主な時代劇(だいたい興収10億円以上)
JIN-仁- | 2009年と2010年にテレビドラマが放送され平均20%超の高視聴率。 |
十三人の刺客 | 2010年に映画が公開され興行収入16億円。 |
大奥 | 2010年に映画が公開され興行収入23億円。 |
武士の家計簿 | 2010年に映画が公開され興行収入15億円。 |
のぼうの城 | 2012年に公開された映画が興行収入28億円。 |
るろうに剣心 | 2012年と2014年に公開された映画三部作が、それぞれ興行収入30億・52億・43億円。 |
清州会議 | 2012年に映画が公開され興行収入30億円。 |
信長協奏曲 | 2014年にテレビドラマ化、その続編として2016年に公開された映画が興行収入46億円。 |
超高速!参勤交代 | 2014年と2016年に映画が公開され、それぞれ興行収入15億・11億円。 |
蜩ノ記 | 2014年に映画が公開され興行収入11億円。 |
殿、利息でござる! | 2016年に映画が公開され興行収入13億円。 |
忍びの国 | 2017年に映画が公開され興行収入25億円。 |
関ヶ原 | 2017年に映画が公開され興行収入24億円。 |
銀魂 | 2017年と2018年に公開された映画が、それぞれ興行収入38億・37億円。 |
決算!忠臣蔵 | 公開中! |
主なゲイ映画作品
(ゲイが主題、ゲイが準主役の映画。重要なキャストにゲイが登場する作品を含む)
眠らない街〜新宿鮫〜(1993年、滝田洋二郎監督、キャストの一部にゲイが登場)
GONIN(1995年、石井隆監督、キャストの一部にゲイが登場)
ブルース・ハープ(1998年、三池崇史監督、田辺誠一、池内博之主演)
ハッシュ!(2001年、橋口亮輔監督、田辺誠一、高橋和也主演)
タクミくんシリーズ2 虹色の硝子(2009年、横井健司監督)
タクミくんシリーズ3 美貌のディテイル(2010年、横井健司監督)
タクミくんシリーズ4 pure~ピュア~(2010年、横井健司監督)
タクミくんシリーズ5 あの、晴れた青空(2011年、横井健司監督)
悪の教典(2012年、三池崇史監督、キャストの一部にゲイが登場)
EDEN(2012年、武正晴監督、原作:船戸与一「夏の渦」、主演:高橋和也ら)
セブンデイズ MONDAY→THURSDAY(2015年、横井健司監督)
主なゲイドラマ作品
同窓会(1993年、日本テレビ系。主役がゲイで脇役がバイセクシャル。全編に渡り同性愛がテーマ)
告白(1997年、日本テレビ系。エンディング主題歌も同性愛をテーマにしたユーミンの『告白』)
「翼のカケラ」(2007年、テレビ東京「恋愛診断」第1章より)
この場に掲載されている内容について、心配して下さっている何人かの常連のお客様や友人から連絡を頂き、確認/認識しました。
私は「はてな匿名ダイアリー」の利用者ではないので、今回のこの投稿のためにアカウントを作って書き込んでいます(もし利用方法が誤っていたら申し訳ありません)。
11月2日に来店し、この書き込みをした人物に対して、黙って流しておこうかとも思いました。それが大人の対応なのかなと。
一方で、店舗の経営者として明確にしておかなければいけないことや、ご来店頂く方々に理解しておいて頂きたいことをお伝えする良い機会にもなり得ると考え、投稿してみようと思いました。
まず始めに、「この人物」に対して、私は特別な感情をもっていません。
注意した来店者によって後でSNSやGoogleビジネスに腹いせで報復的な書込みされたことは既に何度か経験しています。
(この人物はこの場だけではなく、@luciferalpha というアカウントでTwitterにも上げています)
今の時代に実店舗を経営し、そこで迷惑な来店者に対して注意をするということは覚悟と勇気が必要です。
何でもすぐにネット上に書込まれ、それが瞬く間に拡散される時代。そういうリスクを理解した上で、「注意」するという行動をとっています。
そのお客様はカセットテープを3本ご購入下さいまいした。レジでのお会計を終え、帰り際に私にそのように伝えました。
私は「分かりました。有難うございます」と返答しました。ご丁寧に教えて頂きましたが、私も他のスタッフも「この人物」がずっとそうしていることに気付いていました。
そのお客様は女性です。常連のお客様ではありません。また同業の方ではないと思います。
その方が私にそのように伝えた理由は、今となっては分かりません。
1.「この人物」がずっと同じ場所に留まってメモったり試聴したりしているので邪魔だった
(自分が読みたいキャプションが読めない。もしくは欲しい商品を手に取ることができない等の理由から)
私はしばらく様子を見ていましたが、いつまでもその行為を継続しているので「この人物」に声を掛けました。
少々話が逸れます。
私が来店者を注意する頻度をそう多くありません。
当店では一応ルールを設けており、まず最初に女性スタッフがやんわりと声を掛けて注意し、それでも迷惑行為をやめない場合は私が注意するというステップになっています。
店舗は迷惑を感じているものの、何の悪気もなく行為に及んでいるケースは本当に多いです。そんな方に対して、いきなり店主から注意されたらショックが大きいだろうと察しています。
故にいきなり私から注意をすることは極力しないようにしています。
ただ、確信犯だったり悪意を感じた場合、それと「あまりにも節度がない」と判断した場合は最初から私が注意することもあります。
人に注意をすることは気分の良いことではありません。出来ればしたくないと誰もが感じていると思います。私も一緒です。
注意するに至る前に「この人、早く帰って欲しいな」と思うことは、残念ながらとても多いです。なるべくなら注意したくないので、迷惑を感じていてもある程度までは許容するよう心掛けています。
当店にご来店頂いたことがある方であればお分かりだと思いますが、店内の新譜コーナーには全てキャプション(作品説明)が設置されています。
その内容をずっとスマホでメモったり、商品とキャプションを片っ端から撮影する人がいます。
以前、そのような人に声を掛けた時、
「聴きたいものがいっぱいあるけど、プレーヤーをもっていないので、メモって後でネットで聴こうと思っています」
そのような答えが返ってきました。
特殊な事例ではありません。そういう人、結構多くいます。ただ店の人間は「この人、失礼だな」と思っています。
「あなたの店では何も買いませんけど、聴きたいものはいっぱいあるので後でネットでタダで聴くためにメモらせて下さい」という行為です。
それ自体は違法でも犯罪でもありません。タダで音楽を聴ける環境がネット上にあることも十分に理解しています。
ただ、商品を売っている店にわざわざ入って来て、そのようなことをするのは失礼だと思います。
私は「そういうことがしたいのであれば、店になんか来ないで、家でインスタでも見ながらやっててくれよ」と考えています。
「この人物」は混み合っている店内で、ずっとスマホで「メモっては試聴」という行為を継続していました。
「ずっと」というのが実際にどのくらいの時間だったか計測してはいません。1時間だったか1時間半だったか。そのくらいの印象をもっています。他のお客様も違和感を覚えるくらいの時間です。私はそのことから「節度がない」と判断しました。口頭でのやり取りは「この人物」の記述の通りです。言い方の違いは多少ありますが、内容自体に誤りはありません。
カセットプレーヤーを所有していないと言う「この人物」。本当にカセットプレーヤーとテープを購入するつもりだったのでしょうか。私は4年3か月前にこの店を作り、営業日は毎日店舗にいます。毎日来店者の行動を目にし、ご購入頂くお客様と接しています。注意に至る可能性がある人に購買意思があるかどうかは、当然のことながら慎重に見極めるようにしています(購買意欲がありそうな人でも、マナーに問題がある場合は注意に至ることもありますが)。そして私の目には「この人物」から購買意思を感じることは出来ませんでした。
試聴用のプレーヤーを常設し、試聴用のサンプルテープを用意している店舗で「劣化を防止するためにスマホで聴いていた」とか「プレーヤーは取材用のものだと思った」と言及されていますが、私には後から取って付けたような言葉に聞こえます。注意した人が最終的に購入すると「迷惑な来店者」から「お客様」に立場が変わり、急に強気に出てくるケースがあります。だから私は注意に至った客には速やかに退転するよう促します。「この人物」は注意後も店内にい続け、私に「購入する必要ない」と言われてまでも聴くことの出来ないカセット一本を購入し、やがてこの場にその経験談を書き込むに至りました。この場に書き込んでいるような不快感を得てまでも、聴くことの出来ないそのカセットが本当に欲しかったのでしょうか。私にとっては疑問です。
店が迷惑に感じること。周囲にいる方々が不快に感じること。「この人物」はその点に対する意識が少々低いのではないかと思います。
Twitterのプロフィールが正しければ、「この人物」は1971年生まれの47歳か48歳のようで、1969年生まれの私とほぼ同世代です。既にマナーや節度が分からない若輩者ではないと思いますが、どうでしょう。
「情報の万引き」という言葉が的外れな誤解、もしくは不適切な表現だったとしたらお詫びします。大変失礼しました。私も「そこまで説教じみたことを言う必要はなかったな」と考えています。「迷惑なので退店して下さい」(以上)で良かったなと。
せっかくですので、この場を借りて、私が店舗で迷惑と感じる行為について幾つか列挙します。
1. 無断撮影
商品は店の所有物です。多数の商品を抜き出して並べて撮影して戻したり、ディスプレイを変えて撮影したり。そういう写真が撮りたいのであれば、購入してからどこかでやって下さい。商品のブツ撮りではなく、内観の撮影も同様です。「あなたの写真に映りたくないんですけど」と思っている他の来店者がいるということを覚えておいてください。また、そもそも、「写真を撮らせて下さい」の一言が何故言えないのでしょうか。
先述の通り、それを売っている店の中でやるのは失礼です。ネットでタダで聴きたいなら店舗以外場所でご自由にやって下さい。試聴したいのであれば、スタッフに一言申し出て、店内の試聴機を使って下さい。
3. たくさんの商品を抜き出して、一点一点いつまでもネットで検索する
レコードラックの上に20枚くらい積み上げて、延々と検索しては戻してとやっている人もいたりします。他の方の購買機会を奪い、且つそのコーナーを見たい人の妨げになってることに気付いて下さい。
購入意思がない人は商品の価値を分かっておらず、扱いが乱暴だったりします。立ち読みした本の戻し方のひどいこと。世の中の本屋さんは本当にご苦労されているのだろうということが、私も店舗を始めてよく分かりました。
6. 大勢で来店して騒ぐ
例えば、買う気があるのは一人だけ。あとの5人はただ付き合いで来ている。そして興味がないので、店内でかたまって雑談したりスマホいじったり始める。そういう時は店の外で待っているのがマナーだと思います。
7. 買う気がなく、ただ自分の話がしたいだけ。常識を欠いた質問をしてくる
延々と自分のカセット愛を語るものの、店を見に来ただけで買う気なし。申し訳ありませんがこちらは仕事中です。「売上いくらなの?」「どのくらい儲かるの?」とか、普通聞きますか?何故どこのどなたか分からない人にそのようなことを話さないといけないのでしょうか。
店舗にとって厄介なのは、上記のようなことをする人たちの多くは「悪気がない」ということです。
無意識、無自覚が招く迷惑やマナー違反。この投稿を読んでいる人たちの気付きとなり、私の店舗以外に行く場合でもそのようなことが減って行けばと心底思います。
もしそうなれば、このような投稿のきっかけを与えてくれた「この人物」には感謝しないといけないのかもしれません。
すっかり「面倒くさい店」の「面倒くさい店主」のレッテル貼られてしまいましたが(笑)、これを読んで「やっぱり面倒くさいな」とお感じの方は、是非ご来店なさらぬようお願いします。
さぞかし厄介な来店者が多い店なのではと思われた方もいるかもしれません。でもそれは違います。当店に来店される多くの方は、常識やマナーのある良い「お客様」です。
最後に、冒頭で述べた通り、この場での投稿がこれが最初で最後です。
「この人物」からの反論や、お読みになられた方々からのコメントがあったとしても、私が返答することは一切ありません。
そもそもこのサイトの初めての利用。私、正しく使えているのでしょうか。この投稿は、本当に人の目に触れるのかな?
長文、大変失礼しました。