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はてなキーワード: テレホとは

2020-01-10

anond:20200110141343

windows95ブームからだよ、日本で発売したのは96年だけど

それまでの3.1やMacよりパソコンオタク以外でも扱いやすかったのでパソコンオタク以外にも広まった

PC本体価格も下がったしな(と言っても20万くらいしたけど)

その頃にネットプロバイダも増えてネット安価に繋げられるようになった、テレホタイムなんて言葉もあったもんだ

あと「パソコンが使える」と就職に有利って事で学生PC買って練習したりな

↑の「使える」ってのは精々ネットwordexcelが出来るって程度だけど

それでも履歴書に書けば有利になるって時代だった

趣味インターネット」がネット引きこもりやばい奴ではなく有用学生とみなされた時代

2019-06-01

かつてそこにはインターネットという楽園存在した

父はPC98の時代からパソコン通信をやっていた。通信中に動かすと回線が途切れるだかで、よく近くではしゃぎ回っては叱られていた記憶がある。

それからwindows95が出た。私が高校生の頃だ。父は相変わらずオタクだったから、地元ケーブルテレビ常時接続サービスを探し出して契約していた。ISDNの出回る前からネットが使い放題だったのはかなり贅沢な高校生だったと思う。

仲間はテレホマンが多かったので深夜から明け方まで毎日交流した。自然学校は寝る場所と化したがなんとか卒業させてもらった。

遊んでいた人達には大学生が多かった。研究室という場所から接続している人も多いらしかった。またプログラマー生業としている者もいた。当時よく一緒に同じゲームをしていた奴の一人は院で大層な論文を書き、今はグーグルに勤めていると聞いた。

もちろん中には普通OLなんかもいたが、今から思い返すと今ほどには普通の人はいなかったと思う。あの頃、インターネットにたどり着くだけでかなりのふるい落としがあった。PCも高価だったし、普通の人がなんとなくインターネットをやれることは少なかったように思う。

それから10年が経って、インターネットはかなり一般化したように思っていたが、今から振り返ればまだまだそんなことはなかった。多くの人はガラケーを通じてimodeという閉じた世界に隔絶されていたし、それが紛い物であることにも気付いていないようだった。

思えばインターネットがたしか存在していたといえるのは、このあたりまでかもしれない。我々は明らかに隔離されていて、その状況を好ましく心地良いものとして享受していた。

そしてスマートフォンが現れた。ジョブズの大発明は全てを変えた。ジオシティーズxreaを借りてhtmlを書き、自分の書いた文章世界に発信される感動を知ることもなく、普通の人がごく当たり前にツイッターインスタグラムを使うようになった。

もはや、ネットで通じ合うのはそこら辺ですれ違う普通の人たちだ。かつてあったインターネット消滅して、代わりに現実社会の写し鏡が出来上がった。

ネット空間で人々は毎日諍いを起こしている。口を開けば論争になる。承認欲求共感がより鋭い言葉を生み出す原動力となり、思想は狭量の免罪符に取って代わり、主義主張は単なるコミュニケーション手段に成り果てた。

ウェブ空間アフィリエイター占拠し、ブログビジネス大量生産されたゴミの山の大きさを競うゲームに変質した。SNSでは情報商材のようなマイルド詐欺が横行し、それをインフルエンサーが後押しする。

製品マーケティング付録に過ぎなくなり、人々のコンプレックスにはターゲティング広告容赦なく食い付く。今日もまた、データ至上主義起業家が全能感を振り撒いている記事が流れてくる。

集合知に感激し、Wikipedia感謝していた頃、インターネットにはすべてがあると思っていた。だが必要情報を得るコストは際限なく膨れ上がり、グーグルという神の掌の上にいる我々にはもう何が真実なのかを知る術もない。

インターネットに雷鳴を受け、人生を大きく揺さぶられたあの頃に若者だった人達に問いたい。あなたたちが夢見た世界はこんなものだったのかと。

しかすると梅田望夫さんはとてつもなく未来が見えていた人なのかもしれないと今更にして思う。

このインターネットに対する深い失望が、日本の困難な時期と重なってしまたことは本当に悲劇だ。分断と先鋭化を生み出すこの装置によって、我々は団結することを阻害されている。

この一、二年でインターネット有害ものであることはかなり認識されてきたと思う。でも、そこまでだ。問題存在がわかったところでこのひどい現実を変える方法は見つかりそうにもない。

日本がまだ保っている間に、人々はインターネットの正しい使い方を学び、この地獄から抜け出すことが出来るのだろうか。もう残された時間ほとんどない。

2019-03-26

anond:20190326122510

とにかく今(というか10年前と比べても)より遥かに人が多くて活気があったか

荒らしだか何だかからない状態だったね。

テレホタイム死語)になると数秒で次の書き込みがあるからスレもすぐ数千レスになって

負荷に耐えられず頻繁にログ吹っ飛んで全部消えるけど、その度にすぐ次のスレが建てられてまた数千…ってな世界だった。

掲示板」というより「巨大チャット状態

後の2chでも実況板はそんな感じだったけど、当時は同人板がそういう感じだった。

今みたいに板が細分化もしてなくて、同人関係同人板(同人コミケ板って名前だったけど)一つだけだったか

同人関係話題は全部それに集中してた。

男性向けスレもあったかもしれないけど覚えていない。女性率高すぎて全く目立たなかった)

ついでに同人にもオタクにも全く関係ないスレも多数建てられて

同人関係ないのはそれに適した板でやれよ」「ここが一番人多くて盛り上がるからいいじゃん」ってやり取りもよくあった。

ルール確立した後の2chなら板違いな方が速攻で追い出されたけど、当時はカオス状態なのでさほど板違いにも厳しくなかった)

その後最初期の流行が落ち着いたのか人が分散したのか同人から人が減り、

同人関係以外の人たち(男性多数含む)も2chに入ってきて他板も人が増えて同人板よりニュース系板の方が人口が多くなり、

2ch発の事件だのが起きて報道されて有名になって更に人が入ってきて、

気付いたら「2chは元々男のための場所だったのに女が後から入ってきた!」と言い出す男が多数存在してましたとさ、ってな状況になってた。

同人板ですら「コミケは元々男の為の場所だったのに以下略」というアホが出る始末だったなあ。

2018-04-08

anond:20180408153948

貧民はテレホ使ってたし。

それに右肩上がり経済残像残ってた頃だから将来や老後のことなんか考えないで趣味に金突っ込めた。

二十代でアパート暮らし会社員が数百万の車のローン組んだりしてた時代だぜ?

2018-03-24

オマイラはどこから来たのかオマイラはどこへ行くのか

ネット文化死ぬのだろうか?

薄暗い部屋でオタクがカプラ通信をしていた時代は消えるのだろうか

アマチュア無線の延長のようであった時代はどこへ行くのか

テレホタイムの掲示版

ネオニートアルファブロガー

全員どこかへ消えていくのか

蘇るちゆ12歳

5chと言われても馴染みがなさすぎる

詫び老人を投げつける企業サービス依存するコミュニケーション

全てどこかへ消えていくのか

記録は改竄される

記憶は改変される

そうして全て失われるのか

オマイラはどこへ行くのか

2018-02-18

『「IT黎明期あるあるランキング』と言うけれどIT黎明期っていつだ

今では考えられない「IT黎明期あるあるランキング https://ranking.goo.ne.jp/column/4939/ranking/50996/ ここを見ての疑問

個人的には森元総理ITとか言い始めた2000年IT黎明期イメージだろうか

元のアンケート事象うろ覚え年代を書いてみる。人によって黎明期イメージする年代バラけてそう。

1993-94 → 1位 「フロッピーディスクの数が膨大」! 80票

1994-99 → 2位 画像の読み込みがおそすぎてイライラする 78票

1992-1998 → 3位 パソコン雑誌付録CD-ROM 71票

1993(東芝もっと前)-2000 → 4位 フロッピーの容量は2HDで1.44MB 67票

1988-2000 → 5位 マウスのそこをあけてボールを取り出して掃除 66票

1999 → 6位 ADSLが出てきた当初は革命だと思った 62票

1987-1996 → 7位 プー ピポパポパピ ピポピポピー ピービーヒョロロロピーブピプーピーガーーーー 60票

1995-2003 → 8位 Officeソフトを開くと画面右下にでてくるイルカがウザい 46票

1993-1998 → 9位 スクリーンセーバーは謎のパイプ迷路 42票

1987-2002 → 9位 無線接続が無いので部屋に長いモジュラーケーブルを這わせていた 42票

1993-2005 → 11工事中のページが多い 41票

1994-1998 → 12インターネット中は電話ができないため家族に嫌がられる 40票

? → 13位 バナー直リンク禁止 37票

? → 14位 キリ番を踏んだら管理人に報告する 36票

1995-1999 → 14位 テレホーダイの加入は必須 36票

1997-2003 → 14位 ホームページにはダサいアクセスカウンターを設置 36票

? → 14位 パスワード付きページがやたらと多い 36票

1995-1999 → 18位 テレホタイムパソコンにはりつく 34票

ここ10年くらい? → 19位 右クリックすると「右クリック禁止です!」とアラートが出てイラッとする 33

1998-2007 → 20位 今よりもパソコンの熱放出が激しかったので夏場の作業がしんどかった 32票

2017-12-15

あゝなつかしきインターネッツ

たまたまテレホマンフライングアタック」という単語に接して,懐かしさに襲われたのでその頃に見ていたサイトをいくつか巡ってみた。

結構あったが、検索サイトに絞ってみる。


ライコス

http://www.lycos.jp

当時からよく立ち位置がわからない検索サイトだったが,今見てみるともっとわけのわからないことになっていた。

もし何があったかご存じの方がいたら教えてください。


フレッシュアイ

http://www.fresheye.com

確かディレクトリ更新が最速だったのがウリだった。

UIはだいぶシンプルだ。


Goo

https://www.goo.ne.jp

あんまかわってないきがする。がしかし今や完全にイメージは教えて!に乗っ取られてしまっている。


Infoseek

https://www.infoseek.co.jp

なんか頭に楽天がついている。ともあれ、レンタル鯖を潰した時点で無価値


他に何かあったら教えてください。

2017-12-05

平成も終わるのにまだ人類エクセルカチカチしてる絶望

21世紀も既に17年経過しようとしておりますというのに。

テレホマンADSL進化した辺りでのスピード感は何処にいったのか。

人類的に失われた20年してる気がするわ

2017-05-27

http://anond.hatelabo.jp/20170527205028

うそうそんな時代

win95の、分厚いブラウン管モニタPC買って

自宅でダイヤル回線テレホタイムに繋いでいた思い出……

下限年齢も高くて(ほぼ大学生以上しかいなかった。当時高校生以下でPC持ってると言ったら親がそういう職業とか趣味の子とかだけ)

子供も見てるのに18禁一般サイトを繋げるなんて!なんて風潮もなかったしね

2017-04-19

中東の夜に咲いたオッサンホイホイ

レバノン出張している俺達だが、生演奏付きのバーみたいなところで飲んでると演奏家のオッサンが話しかけてきた。

我々は日本の者だ、と言うと、日本人ウケる曲を演るよというのでお金払って待ってたのだが、なんと演奏されたのは昔FLASH流行ったhattenだった。

うちの上司はポカンとしてたが、当時大学生テレホタイムからADSLに世の中が切り替わる時代ネットばかりしていた俺の心は激しく揺り動かされて、終わったあとオッサン握手しながらシュクランシュクラン感謝を表明した。

歌の意味を知っているかと言われたが、帽子の歌じゃないんだよねと返すと、オッサンはニヤリと笑って、ラマダンの夜にきえていった。

2017-02-09

ADHD発達障害)の、つまずきながらも終わらずに生きられた半生

ADHD診断済の者です。

ここ最近借金玉氏のブログhttp://syakkin-dama.hatenablog.com/)が立ち上がったり、そこでの記事話題を呼ぶのを見て、にわかはてな界隈でも発達障害に関する話題が盛り上がっているのかなと思っていた所、

http://anond.hatelabo.jp/20170206102543

↑こちらの中学受験の話と、それに付いていたブクマコメントが、あまりにも「そうッ!」という思いだったため、少し乗り遅れた感ありますが思わずキーを叩いてしまっています

そのコメントとは、id:Outfielder 氏の

知能に遅れのない高機能発達障児は、中学で内申が出ないか高校受験で詰んでしま人生終了がほぼ確定してしまうから少々無理してでも中学受験すべき、という体験談は聞いたことある

というもので、まさに自分がそれだった、その通りや…と瞠目してしまいました。

自分がそれ、と言っても結局中学公立に進んだのですが、幸いなことに人生終了は(おそらく)しておらず、今は自分にとっては環境面・経済面でも充分有難い場所で働かせてもらっています

でもそれはたまたま、運が良かっただけという気がしていて、振り返るとこれまでの人生の中で、ADHDのせいとは一概には言えないけれど、幾つかの「挫折ポイント」があったので、もしこれからの進路にお悩みの発達障害傾向のあるお子さんを持つ方などが居たら、参考になればと思いつつ振り返ってみます

(多分あんまり参考にはならないですし、それよりも自分が整理して書き出してみたいというADHD衝動によるもの本心です)

小学生時代中学受験でつまずく)

子供の時から自分は周りとは違う人間だ、という自覚は多少なりともありましたが、それは割とポジティブに捉えていました。運動は苦手だけど、勉強はわりといいところ、そして休み時間や家ではマンガを書くこと、それを披露することでクラスで固有のポジションを得ていた覚えがあります

絵師の皆さんなどもどこかで記憶のあるような体験なのではないでしょうか)

問題ポイントが、中学受験。親の方針もあり、自分もなんとなく説得され特に断る理由もなかったので(通学が遠くなるのはめんどくさいなあくらい)小4くらいか中学受験に向けた塾通いをするようになります

しかし、それがだんだんキツくなり、小6のいつ頃だったか、日曜も朝から夕方まで模擬試験しか提携してる友達も居ない知らない塾まで通っての体制になり、多分その環境自分ストレス耐性がピークに達してしまった気がします。

と同時に、なぜ今の小学校友達と離れてまで、遠い中学に通わなきゃいけないのか、さっぱり意味がわからないと涙ながらの突然の抵抗。自分が覚えている限りの自我の芽生えその1です。

結局、これ以上は無理と親も理解したらしく、中学受験は断念、塾も同じ塾内の進学コースから普通コースに移動しました。この時の迎えてくれた友達安心感たるや今でも思い出します。

中学生時代(内申でつまずく)

この公立中学地域圏内では割と悪評の高い、まあいわゆる「荒れてる」と言われるような学校だったようなのですが、幸いなことに僕が入学する直前辺りから目立って悪い行いは無くなっていったようで、中学の3年間は気の合う(ヲタクな)友達も狭い付き合いながらも出来、全体的には、例えばいじめに遭うなどという特段嫌な思い出もなく平和に過ごせました…

が、

心境的には、中学2年辺りから周囲との違和感を強く感じ始めていました。

まぁこれは、誰にでもある思春期の訪れだとも思うのですが、良くないことに同時期に、インターネット桃源郷見出ししまいました。

テレホタイムは親のPCでこそこそチャット掲示板に入り浸り…(なんとなくこれで年齢が分かりますね)

今思えば、このあたりもADHD衝動性、過集中にフィットしてしまい、その後にやってくる虚脱によって学校を休むことが増え、やがて内申はどんどん悪くなっていきました。。

高校時代公立高校でつまずく)

はい。ここで2度めのポイント、そして最大の「人生終了」感を味わいました。

中学での内申に引っ張られ、「お前はここにしか行けない」という公立校にヒィヒィ言いながら入りました。(試験の点数だけで言えば中の上レベルの人たちと張ってたのに…と今でも悔やむことがありますが、まあしょうがない)

そして、1年ももたずその高校を辞めました。

なんで辞めたのか。今でも正直言ってこれといった理由言葉に出来ないのですが、幾人かの「いやなタイプ」の人の顔、そして、排外的雰囲気、それに合わせることの絶対できない自分の中の何か。

気づいたら高校に行けなくなっていました。僕みたいな人間は、居心地が良くないとマジで死ぬんだなあ、ということが身に沁みてわかりました。

多分この時ほど親は、上記のコメントと同じことを思ったことは他にないでしょう「少々無理してでも中学受験すべきだった・・・

その後、半年ほど引きこもりをしてから、今度は底辺私立校一年から入り直すことになります

ぶっちゃけ誰でも入れるような所で、周りを見渡せば一目瞭然の発達障害ヤンキー、そしてほぼ知的障害とも言えそうな人まで、ワケアリな人種ばかりが揃った愉快な空間でした。

それでも、そんな所に高いお金を払って再チャレンジさせてくれた親には大変感謝しているし、また学校行けなくなるのではという恐怖も乗り越え再びやり直すことを決めた当時の自分も、割とがんばってたと思います。(引きこもってた時分は外に出るだけで怖かったです)

そしてこの私立校が、思いのほか自分には合い、割と気ままに過ごすことが出来、大人になった今でもLINEでくだらないことを言い合うような親友も出来ました。

特にその学校ではPCを使った授業に力を入れていて、もともとネットにハマってたくらいなのでPCに触ることは自然だったのですが、その中で自分特性に合ったジャンル先生見出してくれて、「大学受験してみないか?」という運びになります

大学時代ADHD完熟期)

その高校での先生たちの手厚いサポートのおかげで、(あの悪評高い)AO入試制度を使い大学への入学を果たします。

2ちゃん等ではFランと呼ばれるランクしょうが世間的にはそこそこ名だけは知られているところでした。

そして自分学生時代を見返してみても、この大学時代が一番輝いていたように思います

興味のある授業内容、自由雰囲気キャンパス、そしてどことな普通じゃない人達の集まる文化系サークル出会い、居場所と夢中になれることの両方が目の前に広がり、自分人生が本格的に始まった感じがしました。

色々あったけど、特にここで語るべきことはこれ以上ありません。

就活は例に漏れ苦痛でしたが、それでも思ったよりあっけなく、自分に合いそうな所に内定を得ることが出来ました。

社会人のはじまり(つまずき続けつつそして現在

そして、光に満ちた4年間が終わり、ここから暗く長い旅の始まりです・・・

といっても、第3のポイントは1年目序盤にあっさりと訪れます会社に数日行けなくなりました。

体が動きません。会社メールも見れません。連絡したくありません。何もかもから逃げ出すことしか考えられなくなりました。

それでもなんとか数日休んで、這うような思いで出社し、耐え、またしばらくすると行けなくなる、を繰り返しました。

メンタルクリニックにも行き、「抑うつ状態」の診断書を突きつけたりもしつつ、それでも時には自分に合った業務に携われる期間もあり、何より会社の人が良い人だったので、なんとか辞めたり休職したりはせずに、自分の心と身体を騙し騙し、一つの仕事に人より何倍も時間を浪費しながらも、続けられていました。

ADHD的に特にしかったのは、やはり外部とのコミュニケーションスケジュール管理企画書作成といったところでしょうか。

これらを、自分を無理に奮い立たせながら乗り切っていたため、やがてそういった業務をすればするほど、図太くなるどころか気づいた時にはストレス耐性が全く無くなり、再びしょっちゅう休むようになりました。

それがここ1年ほどのことです。

再びクリニック通いを再開し、軽うつ対応するような薬を飲みつつも、相変わらず同様の環境仕事を続けており、このままじゃどんどんダメになるのではという漠然とした不安と焦りが募っていました。

そして約半年前、同じクリニック内で医師が代わり、その医師の診断方針もあり状況を見直した所、「ADHD」という判断を受けました。

それまでもネットで色々情報は見ていたため、あ~やっぱり、という感じでした。

その後、自分ADHDであり、こういう業務はどうしても脳の形状的に難しいのだと諦めがつくようになり、まずは環境を変えなければどうしようもないと思い、同じ社内ではありますが異動を相談したところ、あっさり通り、そして始めのほうに記したような、落ち着きつつある現在の状況があります

振り返ると

中学受験高校社会人と何度も「周囲との違和感」「やってみてはダメになる」「周りと同じような適応は出来ない」を繰り返してしまっていたのですが、それでも、親や教師理解サポートたまたま巡り会えた環境に恵まれ、なんとか人生終了せずに、今は地道に日々の幸福度回復させていけるようになりました。

中学受験成功していれば全てが上手くいった、とは思わず、結局はどこかで周囲とのギャップ、そして挫折経験していたと思いますが、それでももっと早くADHDという認識を与えられ、それに対応した生活見直しや進路を定められていたら、もうちょっと楽に歩むことが出来たんじゃないかなと思います

一歩間違えれば人生終了待ったなしだった気がするので、それを回避するためにも、もし自分が、そして自分の子供がちょっとあやしいなと思ったら、診断を受けてみたり歩み方を普通の人とは変える、認識を良くも悪くも諦めるようなタイミングが、必要なんじゃないかなと思うのでした。

まぁ、今はどこのクリニックも発達障害の診断で激混みという話も聞きますけど…

空前の発達障害ブーム(?)に備えた人生設計の、一つの参考例にでもなれば幸いです。

2016-10-12

最近土管業務すらまともにできないISPが増えてきた

3G通信並の光回線とか存在意義あるの?

高い金とってるくせにどこに使ってるんだマジで

これ読んでる人、テレホタイム通信速度教えてくれ

2016-10-06

学歴就職年収に関する独り語り

今年38歳。

関東だけど人口1桁万人の港町に産まれ、育った。

小中くらいはさしたる努力もせずにクラストップクラスの成績。

ミニ四駆ドラクエが好きなどこにでもいるような子供だった。

なんとか通学できるか、って距離まで伸ばしても圏内には進学先の高校は5,6校。

商業科や工業科、水産科なんかもあって、大学進学の可能性が残る普通科があるのは2校程度。

そのうち1校に入ったものの、ガクガクと成績は落ちていった。赤点をなんとか回避、ってことも何度か。

Jリーグが始まったのがこの頃か。

大学進学の可能性が残るという表現を使ったけど、田舎学校なんでレベルは低い。

平均の偏差値は50切ってたと思う。

同学年でMARCHに入れるのが5人以下、早慶は数年に一人いるかも、くらい。

実際には高卒就職する者、専門学校に進む者も多い。


低成績の俺は地方私大しかからず、親に頼み込んで浪人させてもらった。

条件は予備校の寮に入ること。ほぼ軟禁生活。泣いて嫌がったけど仕方なかった。

それでも、そんな環境であっても勉強は怠けてしまっていた。

当時田舎者にはあこがれだった渋谷タワレコに平日昼間から行って、 TK新譜試聴したな。

高校の頃からそうだけど、「勉強法勉強」は好きで、あの方法勉強すれば俺の成績は上がる、って謎な自信だけもっていて、でも勉強はしない。

明日やれることは今日やらない。よって数学的帰納法により、受験日まで勉強しない。

本当にダメ人間だった。

メタ勉強だけは好きってのは10年前にライフハックにハマったのと、今思えば同じ根っこだったんだろうな。


そんな訳で一浪しても入れたのは偏差値50アンダーの私立理系大。Fランク。最近はGランクであるんだっけ?

ここでさら実験科目の出席日数が足らず、留年

成績不良じゃないくて出席日数不足ってところがつくづくダメだな。


ただ、振り返ってみてこの頃ラッキーだったのが2つある。

1つはコンピュータサイエンス教官実力主義者で、当時の第二種情報処理技術者、今の基本情報処理技術者試験合格すれば単位をやるって人だった。

ちょうどインターネットが普及し始めて、テレホタイムになると同時にISDNで繋いでいた時期。

コンピュータ勉強面白くて、出席外で単位とれるならと合格できた。ここで基礎を固められたのはラッキーだった。

もう1つは留年したせいで一般教養科目を余計に取れる余裕ができたこと。

心理学の少人数上級版で、自分テーマを決めて教授と毎回議論できるってクラスだった。

就活に備えた自己分析を、心理学者とサシでできたのはラッキーだった。(ドラッカープロフェッショナルの条件を読めたのもこの頃だったな)


で、就職活動2002年卒、有効求人倍率 0.54 倍。世はまさに大氷河期時代日韓共催ワールドカップの頃。

周りや就活相談室の(ストレートな分、俺より有利な奴の)を聞くと、数十名の小規模企業に入るひと、地元に戻って地元会社に入るひとも多かった。

一浪一留偏差値40台という自分スペックと向き合った。

このままだとヤバいなと、底辺だなと(当時は今のような使われ方をしていなかった言葉だけど)思った。

どうするか。資格もあったせいで業界IT特に SI が有利だろうと思った。

計算機室でCOMPUTER WORLDを読み耽けり、大学図書館日経コンピュータバックナンバー2年分を通読して業界を知った。


そして採ったのは某国コンピュータメーカー1社のグループ会社に絞る集中戦略

親会社企業研究(成り立ち、歴史挫折チャレンジ)を深めれば子会社はいくらでも応用が効くし、心理学者と深めた自己分析と付きあわせて「あなた出会えた私」のストーリーでっちあげれば、志望動機入社後の目指す姿も十分語れた。

このストーリー説得力と、新人研修で取らせることの多い資格を既に持っていることがあれば、自分スペックをある程度カバーできるだろうと思った。


これはうまくハマって、そのグループ会社では全戦全勝、本体でも最終面接まではいった。落ちたけど。

自分が出た大学では「誰もが知っている名前のついた会社に(子会社はいえ)入れる奴」はレアで、まして一浪一留でってのは劇レアだった。


待遇親会社と同一で、初年度、24歳で年収300万円くらい。

でもトレーナーとソリが合わず(今に思えば子供じみた理由だ)、転職

就活の時にはコンサルなんて職種が世にあることを知らなかったけど、

たまたま募集してたITに強い外資コンサルに移って26歳年収400万。

国内限定学歴揶揄する人もたまに見るけど、ボストン採用の同期とか普通にいたな。

そこでのコンサルスキル海外経験のおかげで別のコンサルに移って28年収750万。貯金1000万超えたのもこの頃。

タイミングが超ラッキーで、この直後にリーマンショックがあった。こんな大幅年収アップの転職案件はすぐになくなった。

さら上級SEに戻って30歳800万円。

35歳くらいで外資ベンダー転職して年収1000万円超えて、38の今は1200万円。

年齢で見た年収は社内の平均からは下がるようだけど、まぁ十分満足してる。

株とETFで4000万円くらい持ってる。

金融資産の半分くらいは100年に一度の株の大バーゲンリーマンショック)の時に買った株のおかげ。

その時期にセールワゴンにしがみつくだけの定期定額収入があったのも、またラッキーだったな。


転職活動では、卒業したFラン大学一浪一留は何の問題にもならかった。

しろ英語力の低さを指摘されることが多かったな。



そんな感じ。



基本、世は学歴社会ではあると思う。

俺はあまりその是非の議論には興味はない。

学歴は時には一発でゲームを決める強力なカードであると思う。

でも自分対峙するフィールドでどういう力学が働くかを理解して、持ってるカードを限られたターンの中で増やし、切っていくだけだ。

現在自分収入タイミングの良い転職のおかげだと思う。

自分が好きなタイミングで職を選べるのは、2つ目の外資コンサルであらゆる「ビジネス知的基礎体力」を身につけさせてもらえたおかげだと思う。

自分学歴とは不釣り合いな場所にいられるのは、ここに、大学を出てからラッキーたちに、集約されると思う。

でも、それでも「大卒である」ことだけは一定程度以上の会社では最低条件、前提条件だった。

大手コンピューターメーカーの大ベテランの中には、時代的に高卒の人もいたし、高卒工場勤務から叩き上げで働いている人もいたけれど、もうそれはない。

今の勤め先も入社時にはbachelor以上の英文成績証明書必須だ。

俺はラッキーだけで現状があるとは思っていない。

ただ、ラッキーに加えて必要だったのは、俺の場合は「Fランだろうが大卒」というチケットそれ自体ではなく、浪人留年学費生活費を捻出してくれた両親だったと思う。

父は企業奨学金日東駒専クラスに通い、卒業後に職業選択の自由はなかった。意に添わない異動も俺たち子供のために受けいれてくれた。

母は家が貧しく、家族に反対されながら働きながら自費で通信制高校卒業資格を得た。

学ぶことで人生選択肢が増える。学ぶことは自由につながる。

そのことを身をもって知り、身をもって子に示し、ダメな俺が大学を出るまで支えてくれた両親こそ、俺が今の俺であるために必要だったと思う。

月並みだが、本当に感謝している。

繰り返すが、学歴は強力ではあっても、いくつかあるカードの一枚に過ぎないと思ってる。

俺は馬鹿ダメ人間だったから「Fラン一浪一留」なんて貧弱なカードしか得られなかった。

でもそれも、そんなカードも、両親が必死になって繋いで手渡してくれた大切なカードだった。

その大切な一枚を活かせるような生き方ができて本当によかったと思ってる。

そろそろ俺が浪人する許しを請うた時の親の年齢に、俺がなる。

あの頃の両親のようにありたいと、そうあるための今の収入資産だと思う。

読んでくれてありがとう

2016-05-16

http://anond.hatelabo.jp/20160511000626

人工知能とか、チャットボットとか、VRとか、いろあろあるけど、楽しい感じはしつついまいちクワクしないなー、昔みたいに、と思ってしまうのは、全てなんだかんだ昔からあるものの焼き直し繰り返しパターンに見えてしまうからなんだろうなあ。。

90年代後半にインターネットがでてきてからweb2.0ぐらいのちょっとの間に語り尽くされたコンセプトの新しさを自分の中では超えることがない。ダイヤルアップテレホタイム個人サイトで感じたPCの大きな画面の向こうとの匿名コミュニケーション文化ダウナーな高揚感。

いや、この記事にいわれるまでもなく老害だってのはわかってる。その90年台後半の中途半端アングラ的新しさだってたぶんもっとからいる政治的時代を超えたヒッピー世代とかには新しくなかったようなきがする。おたくとかニューアカ世代ギリギリわかる人もいただろう。

当時のおっさんはどう乗り越えたのかなと想像する。ピンとこない新しい文化を。若者同調できてインターネットの到来をワクワクできたひとたちもいたのだろうとおもう。でもやっぱりワクワクしきれずアナログな楽しみに拘泥した人もたくさんいただろう。

でも同調できなかったとしても、おじさん文化に軸足を置きつつ、自分たちにとってワクワクすることを追求しまくったおじさんが当時から今にかけていたはず。イメージ的には糸井重里とか大塚英志とか。

まあそんなかんじで、ワクワクしきれないときに、表面上同調してワクワクするふりをして内心ストレスためるより、また逆に諦めて懐古主義にはしるより、自分のなかのドキドポイントを追求し続けて自分感覚で新しいものを探しつづけることが自分精神衛生上よさそうだなあと思う次第。

2015-09-02

中学生ゆずの夏色を歌ってたんよ

今日会社の帰り道にある坂をのぼってたら、自転車に乗った中学生くらいの男子たちが

ゆっくりゆっくり~くだってく~」

って歌いながら坂をくだってたんよ。

すれ違ったときは「あー、ゆずの夏色かー。」と思っただけだったんだが、しばらくしてハッとした。

「夏色って17年前の曲だぞ…」

俺は今30歳なのだが、中学生というと2000年頃の話だ。2000年から17年前というと1983年だ。

果たして俺は中学生の時に階段のぼりながら「おとなの階段のぼる~」とか歌ってただろうか?

猫を見ると「見つめるキャッツアイ~」とか歌ってただろうか?

ヒロシにだまされるたびに「そんなヒロシにだまされ~」とか歌っていただろうか?

否、そんなことはない。

中学の時の俺は、花火大会の日は「空に消えてった~打ち上げ花火~」と歌ってたし、

にらめっこしてたら「見つめあうと~すなおに~」とか歌ってたし、

テレホタイムになったら「今夜僕は寝ないよ~」と歌っていた。

あの頃の俺はちゃんと2000年の曲を口ずさんでいたのだ。

でもまぁいまの中学生懐メロを口ずさんでしまうのも仕方がないのかとも思う。

だってドラゴン出てこないとドラゲナイ歌えないし、中学生だと家出でもしないとレリゴーは歌えないもんな。

ホント圧倒的にJ-POP不作で、いまの子達はかわいそうだなと思う。

2015-06-25

Yahoo!チャットって場所があったんだよ

昔さ、Yahoo!チャットって場所があったんだよ。お前は知らないかもしれないがな。

当時はみんなホームページってやつを持っててな、誰が読むんだかしらね自己紹介とか何番目の訪問者です!ってのやっててな、ひどいとこになると熊のアイコンみたいなのがビュンビュンとカーソルを追いかけてくんだ。ありゃ恐怖だったね。

誰が興味あるんだかしらねえ、使用パソコンスペック書くヤツまでいてな、「CPU: PentiumII、350MHz」とかドヤ顔で書いてたんだよ。タワー型のパソコン写真まで載せてな。なんのため?しらねえよ、本人に聞け。

でな、そういうところには必ず掲示板ってやつがあってな。BBSとか言ってたな。山陰放送じゃねえぞ。で、キリバン踏んだらBBSに報告することが義務付けられてて、しなかったら末代まで祟られて呪詛にかけられるんだけど、熱心なヤツになるとチャットっていう、リアルタイムに文字でお喋りできるやつまで設置してたんだ。

BBSチャットCGIっていう技術使っててな、パーミッションの設定だかなんだかしらねえけど設置するのは結構しかったんだよ。掲示板チャットも自前のやつ設置してるヤツはけっこうできるヤツ、そう見られてたんだ。

でもな、誰がパソコンスペックとか見に来るよ。誰がタダシのFM-Vの写真みにくるよ。誰もこねえよ。熊のアイコン追いかけてくるしな。だからこれらのBBSチャットは軒並み廃墟になってたんだ。チャットなんて「森ぞーが入室しました」「森ぞーが退室しました」が何行も表示されてるだけよ。寂しさの象徴、それでしかなかったね。

だけどな、天下のYahoo!様がチャットを設置したとなれば話は別よ。集客力抜群。色々なジャンルチャットルームが設置され、そりゃあ賑わっていたいたもんよ。全然覚えてないけど「エンターテイメント」とか「地域」みたいなカテゴリがあって、その中でユーザーが部屋を立てられるようになってたんだ。みんなこぞって趣味が合うやつとチャットしたもんさ。

ちょっとすぐには見つからないんだけど、「出会い」って分類の中に「アダルト」ってカテゴリーがあってな、事実上、そこが18禁エロカゴリーとして使われてたんだよ。信じられねえだろ、Yahoo!公式エロよ。そこで色々と、人間煩悩Javaアプレットにしたみたいなエロい部屋が数多く立てられててな、当時の俺は狂ったように通ったもんよ。

その中でも、一番すごかったのが「オナニー部屋」ってやつで、そこにはオナニーしたい女が集まってくるってテーマがあったんだ。そう、チャットオナニーだ。でもな、文字で「んっんっ」とか「いくー」とか「ゆーか!ゆーかちゃん!」とか書くわけじゃねーぞ。

当時としては最先端ボイスチャット機能、これがYahoo!チャットには搭載されていたんだ。これはすげーぞ、声で女のオナニーが聞けるってえ代物だ。

興奮度がマックスになってしまうのはもちろんだがな、別の側面としての利点もあったんだ。それが「今オナニーしているのは絶対に女である」という点だ。こりゃあすごかったね、ブレイクスルーだったね。

当時は今みたいに誰もがネットしてる時代じゃねえんだ。みんなチェックのシャツ着てバンダナ巻いてテレホタイムよ。女が圧倒的に少なかった。文字だけのオナニー部屋なんてやろうものなら1000%の確率で、女のふりしたオッサンがあんあん文字打ってるだけよ。ネカマっていうんだけどな。男のオナニー文字を男が見て興奮する、そんな殺伐とした時代よ。

でも声ならごまかしきかねえんだ。絶対に女である、そういった保証があった。年金より確実な保証がそこにはあった。おりゃあインターネットやっててよかったと思ったよ。Yahooチャットばんざーいとも言いたくなるよ。

でもな、やっぱ女は少ねえんだよ。その絶対数が少ないし、Yahooチャットに流れ着いてアダルトに行ってオナニー部屋に辿りつく。こりゃあ天文学的確率よ。さらマイクを所持していて、みんなにオナニー聴かれてもいい、なんてなるとほぼ不可能に近い確率だってわかるだろ。でもな、そこそこいたんだよ。そりゃ入れ食いとまではいかねえよ。でも、ジッと待ってると本当に来たんだ。女が来たんだ。

オナニー部屋はスピードタイミングそしてチームワークが重要だ。これらが完全にマッチしないと女のオナニーにはありつけねえ。生きるか死ぬかの勝負がそこにはあった。

オナニー部屋に入ると10人ぐらいのサムライがいるわけよ。全部男だ。そこで女が到来してくるのを待つわけだ。気配を殺してジッと待つ。追い込み漁みたいな感覚だ。そこに会話はねえ。肉食獣みてえに研ぎ澄まされた連中だ。

mina」とか「kana」とか明らかに女くせえアカウント名が入室してきたら勝負開始よ。釣りで言うところの魚が餌をツンツンしてるところだ。まだひいちゃいけねえ、焦っちゃいけねえ。がっついてサムライどもが襲い掛かったら女は逃げちゃうからな。

ここで俺たちは黙って見守っているんだ。何をって?オナニー指導員の誘導を見守ってんだよ。女が部屋に入ってきて、いきなりマイクいであんあん言い出してみろ、結構そんな女、嫌だぜ。そりゃあ女だってオナニー部屋に来るくらいだ、オナニーする気満々よ、聴いてほしいんだよ。でもいきなりやられたらお互いに興醒めよ。そこにはちゃんと予定調和ってやつがあんだ。

そこで優しくオナニーするオナニー指導員の登場だ。こいつはマイクを所持してて、優しい声してんだ。男前な声してんだ。

「いらっしゃい、ミナ、今日の気分はどうかな?」

まるでベイFMのDJよ。俺が女ならイチコロだね。

マイク持ってる?」「え、あるんだ、繋いでみる?お話しようよ」「カワイイ声だ」オナニー指導員はこんな感じで誘導していくわけよ。ここで初めて俺たちガヤの出番だ。チャット画面に「カワイイ声」「キュートな声」「澄みきった清流のような声だね」心にもないことを書きまくっておだてる

そうこうしてくると、どんどん男どもが入室してくる。オナニーの気配を感じ取ると、すごい勢いで入ってくる。スピード勝負って書いたのはこれで、実はYahoo!チャットは一つの部屋の定員が100名だ。オナニーが始まりそうになるとすぐにこの定員は歴戦の猛者どもで満たされる。

そうすると自動的に「オナニー部屋_2」みたいな部屋が作成されて、以後の入室者はそこに飛ばされるようになる。でも、そこにはオナニーしたい女もオナニー指導員もいねえんだ。オナニー聴きたい猛り狂った男が100名いるだけだ。こんな悲しいチャットルームはインターネット歴史の中でそうそうないぜ。

話を戻すと、オナニー部屋では選ばれし98名が指導員と女の会話を聴いている。ここで俺たちはジッとまってねえといけねえ、全部指導員に任せるんだ。俺たちは指導員に全幅の信頼寄せている。伝説指導員「シャドウウィザード265」さんを信頼しきってる。

「じゃあちょっと触ってみようか」

はい

こうしてオナニーが始まる。俺たちが目指していた場所約束の地だ。オナニーが始まったら指導員の声は邪魔から無視ボタンを押す。いらん。女の声だけを聞く。こうして女のオナニーにありつけるってわけだ。

女は聴いて欲しかったオナニーを聴いてもらえる。指導員も俺が誘導してオナニーさせたと自尊心を満足させる。俺たちも興奮する。誰も敗者がいないシステムだった。強いて言うならば「オナニー部屋_2」に押し込められた屈強な100人の男たちが敗者か。

そんなある日、いつものようにオナニー部屋で待機していると、女がやってきた。「ラビアンローズ」とかそんな名前だったと思う。なかなか高貴そうな名前だ。

その日はブラッディレイン0721さんがオナニー指導員だった。甘い声と穏やかな口調、しかしひとたびオナニーが始まると女に対して「脱がなきゃダメじゃないか、ふざけてるのか」と厳しい一面も見せる人気のあるオナニー指導員だった。

いつもの流れで挨拶をし、マイク接続させる。するとラビアンローズの声に俺らサムライは驚いた。こんな品があってキュートで高貴な声があるだろうか、そんなレベルだった。声から良い香りがしてきそうな勢いだった。

手に汗握った。別なものも握った。こんな高貴な女が今からオナニーをする。小学校の時に高校生兄貴がいるクラスエロ博士兄貴エロ本を盗んできた時くらいの緊張が俺を襲った。

それは指導員のブラッディレイン0721さんも同じようだった。誘導にいつものキレがない。上玉の登場に緊張しているのだろう。それでもそこはブラッディレイン0721さん、数多くの修羅場オナニー誘導)をくぐってきただけあって、静かに上玉をオナニー誘導していく。

チャット定員は既にパンパンだ。「オナニー部屋_5」くらいまで作られたのを確認した。そんな中、本当に精鋭だけがこの部屋にいて上玉を見守っている。

今日はどうしてここにきたのかな?エッチな気分?」

ブラッディレインが勝負を仕掛ける。

ちょっと、こういってはなんですが、その、少し、エッチな気分になりまして、恥ずかしながら、きて、しまいました」

その場にいた全員がパンパン空気入れすぎたタイヤみたいになっていたはずだ。今日が僕らのYahoo!チャット記念日だ。こんな上玉に出会える日なんてもう来ないだろう。心臓が破裂しそうだった。Yahooチャットバンザーイ!

「じゃあちょっとだけ触ってみようか」

一番の勝負どころだ。俺的にはまだ早いんじゃないかと思ったが、ブラッディレインは一気にぶっこんできた。彼も勝負を焦ったのだろう。この「触ってみようか」のタイミングを間違うと全ては水泡に帰す。早すぎては逃げられる、遅すぎても、女のテンションが下がる。一番難しい判断だ。誰も彼を責めることはできない。

沈黙の時が流れる。誰もが女の返答を持った。ブラッディレインも喋らない。女も喋らない。チャットも動かない。時間概念が覆りそうなほど、何も動かない時が過ぎた。張り詰めた緊迫感をこの場にいる全ての人間が共有していた。

静止した時の中で俺は耐えられなくなっていた。この緊迫感、緊張感、沈黙、頭がおかしくなりそうだった。何かチャットに書き込んでブラッディレインを援護したほうがいいのか、それとも静観していたほうがいいのか。俺たちのルールではこの瞬間は余計なことは書き込まないことになっていた。でもそうは言ってられない。何が正義で何が悪なのか分からなくなっていた。

何をトチ狂ったのか、気がつくと「Ctrl」と「v」を押し、エンタキーを押していた。まだ自分気持ちも決まっていないのに、何かしなきゃと気ばかり焦り、コピーしていた文字列チャットに投下していた。

ええい、ままよ!投下してしまったものは仕方がない。問題はその内容だ。確か、俺の記憶が確かならばいつもの定型文、「ああ、カワイイ声だなあ。田舎を思い出すような安心感のある声」っていう意味不明なやつがコピーされていたはず、それを貼り付けた。それなら沈黙を破ってまで投下する価値はないとは言え、援護書き込みになる。大丈夫だ、きっと大丈夫だ。

祈るような気持ちチャット画面を見る。頼む、援護書き込みコピーされていてくれ!頼む!恐る恐る自分発言視線を移した。画面には衝撃的文字列が並んでいた。

カマキリ

なんで俺はこんなもんコピーしてんだ。いつだ、いつだよ。いつコピーした。それよりなにより、これ四文字じゃねえか、コピーしてんじゃねえよ。打ち込めよ。

勝負所の静寂の中、耐え切れないほどの緊張感の中、チャット画面に燦然と輝くカマキリの文字。先程とは別の意味で全ての時間が止まった。

沈黙を破ったのは女だった。

カマキリってなんですか? 私がカマキリみたいな声ってことですか?失礼な人ですね。気持ち悪い」

その声からは深い怒りが感じ取れた。カマキリみたいだった。

ラビアンローズさんは退室しました」

無慈悲システムメッセージが少し薄いグレーの文字で表示される。オナニー寸前だった高貴な女が怒って帰ってしまったことを指し示していた。

これに怒ったのはブラッディレインと97名のガヤたちだ。

死ね

「お前マジで殺すぞ」

「ここまで頑張ったブラッディレインに謝れ」

「代わりにお前がオナニーしろよ!いやするな!気持ち悪いわ!やっぱしね!」

俺はこれまでの人生でここまで叩かれまくったことは4回くらいしかない。とにかく半泣きになりながら謝りまくった。

「なんでカマキリとか書き込んでんだよ!」

キレてるブラッディレインの問いに何故か知らないけど

「すいません、パソコンスペックが低くて誤作動しました。変な文字がペーストされました。本当は援護するつもりだったんです」

意味不明な嘘の供述をしてパソコンのせいにしてた。

「はあ、スペックが低くて誤作動?あるわけねーだろ、スペック書いてみろ」

CPUPentiumIIの350MHzです」

「じゅうぶんじゃねーか、俺なんかPentium133だぞ」

こんな心温まるやりとりがあったんだ。ここからはみんなオナニーのこと忘れてパソコンスペック申告大会よ。みんなスペックを書きたがったんだ。そういう時代だった。いい時代だった。今よりちょっと昔の、全てが煌めいていた時代お話さ。お前が今インターネットの何に夢中になってるのかしらねえ。でも、数年後にこうやって思い出話にできるといいな。そうなるように祈ってるよ。

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