はてなキーワード: 自明の理とは
タカラヅカの世界に入った私がしたのは、いわゆる「会」に入ることだった。劇団非公認のジェンヌさん個人のFC。噂の「会」というものがどういうものであるのか、潜入してみよう。そんな興味本位がそもそもの始まりだった。
しかし前提が茶の間なのでそんなに現場に出ることは出来ない。一公演にほんの数回の観劇が精いっぱいの私にとって、「会活動」とはどんなものであったのか。未知のものとの遭遇はとてもスリリングでエキサイティングだった。好きな人の前に立って、私はあなたのファンです、と合法的に言えるということにとっても興奮した。初めて勇気を出したのはある日の公演終わりの楽屋出待ちだった。急遽お稽古待ちスタイルに変更になって、私はバスの時間ぎりぎりまで待機することにした。会からのお知らせでスタンバイ場所は聞いてはいたものの、他の会との兼ね合いがさっぱりわからず、スタッフさんに電話で泣きついて待ち合わせてもらった。当然一番乗りだったのであれよあれよという間にお隣歩きというものをすることなった。今思い返してみてもあれは怖いもの知らずならではの蛮勇だった。今の私は機会に恵まれてもお隣を歩くことを固辞してほかの方に歩いてもらうことにしてる。あんなに恐ろしいこと、二度とする気になれない。あの時のお隣歩きは、今も大事な思い出になってる。遠くからきたことをアピールする私に私の好きな人はやさしく笑って、遠くからありがとうございますと言ってくれた。幸せだった。それだけでいい。それ以上なんていらない。そう思ってその思い出を大事に抱えて一生を生きて行こう。そう思った。
無事に初めてのお稽古待ちとお隣歩きを済ませた私は、少しずつヅカオタとしてステップアップしていくことになる。
公演の入り待ちに出待ち、会総見に、親睦会。現場に出られないながらも少しずつ経験を積んでいった。そしてチケットを買えないからこそ、現金を振り込んだ。タカラヅカには好きな人に直接現金を送ることができるのだ。応援するなら金をくれ。身も蓋もないシステムだけど、そこには真理しかない。現場に出られないならお金を送ればいいじゃない。ささやかな額ではあったけど、毎月決まった口座に振り込むということは「贔屓」という言葉を実感させてくれる行為だった。私の贔屓。そういうプレイを楽しんでいた。
そして大人会の入会案内が届いた。参加条件がどういうものなのかは分からなかったけれど、私に送られてくるくらいだから単に年齢のせいなのかなって思った。ただ、現場に出ることのできない私にとってお食事会というイベントはとても魅力的だけども参加が難しく、会費だけを払うことも考えたけど、それはあまりにも不相応、私の身の丈には合わないと、散々悩んで入会は見送った。大人会がどういうものであるのかを覗き見ることができるかもしれないというのはとても魅力的だったのだけれど・・・!そしてこのことが後々尾を引くことになる。
いろいろあったけど、ピークはディナーショーだった気がする。宝塚ホテルの公演はキャパが小さくて、チケット難が予めアナウンスされていた。限られたパイを分け合う時、タカラヅカではどれだけお金を出したかで分け前が決まる。そういう世界だ。知ってる。多くを出したものが欲しいものを得る権利を持つ。自明の理だ。単純なシステム。当時の私は持てるものをすべて出した。やるだけのことはした。なんとかパイの欠片は与えてもらえた。ホッとした。
そして迎える退団公演。最後だからといつもは現場に出られない私も私なりにチケットを申し込んだ。初日も。千秋楽も。大劇場で最後に大階段から降りてくる姿が見たい。そう思った。最後だからと今まで頑なに行かなかったお茶会にも申し込んだ。他の会の方から連れて行ってほしいという申し出を受けたりもした。嬉しかった。彼女のファンということで私のことを思い出してくれる人がいるという事実が嬉しかった。実は私も初めての参加なのだとは言えなかったけれど。千秋楽には白装束と言われる全身白コーデのファッションで入り出もして、そしてフェアウェルパーティに行くんだと意気込んでた。まず最初の躓きは、フェアウェルパーティの足切りだった。FC会員なら全員参加できるものだと呑気に思い込んでいた私は冷や水を浴びせられて言葉を失った。ショックだった。条件は、大人会に入ってること、もしくは去年一年間で入出の回数が規定数を満たしていること。お金を出している人もしくは現場に出ることの出来る人、それが条件。ああ、大人会・・・!現場に出られない私にとって大人会が救済措置だったのに、私はそれを自分の手で握りつぶしていた。ショックだった。フェアウェルがどういうものなのかは噂でしか知らないけど、ファンとして最後のお別れができる場なのだととらえていた。ご本人よりもファン同士で別れを悼むという意味合いもあるのかなと思っていたので、孤高の茶の間でおひとりさまの私にはハードルが高いなぁって若干尻込みはしていたんだけど、それでも最後だからとぎゅっと握り拳を固めていたところだったのに。
過分なことを望んでいたんだなぁってようやく自分の立場を自覚した。私はお金も時間も費やしていないただの茶の間なんだから。現場に出ないでも楽しむことができると嘯いてたタカラヅカの世界において、一番の底辺だということを思い知らされた。卒業の最後に立ち会えない、そういう人間なんだって。分かってたつもりが全然分かってなかったんだと。ファンというざっくりとした括りの中に私は含まれていないんだなって全力で拗ねた。応援してくださってありがとう、ファンの皆様の力が支えとなっています、そんな定型文を耳にするたび、自分に対する言葉じゃないんだって心が荒んだ。私は私の好きな人の世界に存在していなかった。ただ遠くから眺めるだけの人間だった。いや、それが茶の間の正しい姿だし、清く正しい茶の間であることが私の誇りだったはずだ。少しのぞき見をしてしまったばっかりに、自分が内側にいるかのような錯覚をしてしまった。大いなる錯誤。なんたる勘違い。私は大好きだけど、でも彼女の設定してる「ファン」の中に私はいない。まずはそこに立ち戻ることにしよう。
そして千秋楽のチケット難のお知らせ。ここでも、今までの貢献によってチケットを配分しますとアナウンスがあった。またか。もうたくさんだ。うんざりだった。
私の中で何かが失われた瞬間だった。
もう千秋楽なんて行かなくてもいいや。白服も買わなくていいや。そうだ、だって、私、ファンじゃないんだもん。
大の字になって真っ白な天井を見ながらやけくそなことを思ったらちょっとは落ち着けた。自分の出来ることをできる範囲でやるだけ。現場に出なくても楽しいことはたくさんある。それが茶の間の正しい姿。それなのに、ちょっと現場に出ると欲が出てしまった。私も何かになれるんじゃないかと思ってしまった。とんだ思い上がり。茶の間は大人しく茶の間に戻るだけです。楽しかった。最後にはままならないことに泣くことになったけど、それも含めていい想い出になるんだと思う。さよなら、大好きな人。ずっと大好きな人。どうか幸せに。
渡邊臥龍氏は、牢人新聞なる街宣右翼組織の主幹を務める右翼活動家である。
まずはこの記事を読んでほしい。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180117-00023233-kana-l14
http://biz-search.net/archives/542
"被告(渡邊臥龍)は昨年3月、自身のブログに「有田芳生に天誅(てんちゅう)を加えむ」などと書き込み、1960年に日本社会党の浅沼稲次郎委員長が右翼の暴徒に刺殺された事件の写真を掲載して脅した、とされる。有田氏が翌月に刑事告訴し、警視庁が10月に書類送検していた。"
どう考えても、テロリズムの実行現場の写真を示して「天誅を加える」と言えば、脅迫罪に該当することは自明の理であり、そこは議論の余地がない。
しかし、これに対して、彼自身はどうやら自身の行為に違法性はなく、正当な言論であり、自分に対する刑事訴追は"思想犯"だと思っているようなのだ。
例えば
"だが、物事の道理と筋道はきっちりと明かす。こんなことがまかり通る世の中は暗黒の社会である。もし、仮に愚生が警察に身柄を拘束されるようだったら、留守中の後の運動は頼む。"
"しかし、今回の取り調べをきっかけに世の中に道理を通したい。その為に一切の駆け引きも打算もなく嘘偽りなく正直に供述調書を述べてきた。"
http://blog.livedoor.jp/surouninn_garyou/archives/55629412.html
http://blog.livedoor.jp/surouninn_garyou/archives/55630161.html
彼の主張には全く賛同しないものの、自分の信念を貫き、捜査機関による身柄拘束、場合によっては懲役刑を食らうことも覚悟して、法廷の場で自分の主張を述べ、争うというのだ。
そこまで闘う覚悟があってやってるのであれば、右翼とはいえなかなか骨のある活動家だな、と当時は思ったものだ。(もちろん彼の主張に全く賛同しないが)
記事を読んで目を疑った。
と書いてある。
・被疑者に異議のない場合(罪を認めており、略式裁判を開くことに異議がない)
・検察官の提出した書類のみ(もちろん被告人が裁判所で自分の主張を行うこともない)で命令を出す。
要するに「正式な裁判なんてやるまでもありません。罪を認めて罰金払うのでさっさと終わらせてください」
これのどこが「世の中の道理をただす」のだろうか。「駆け引きも打算もなく」なのだろうか。
正直、道理をただすことを放棄して、さっさと罰金払って終わりにした以外の何物でもない。まさにこれこそ駆け引きと打算だろう。
この略式命令について、渡邊氏は何の説明もしていない。彼も思想家なら、どうして自らの発言を翻し、闘いを放棄して権力に屈したのか、社会に対して、支援者に対しても示す必要があるだろう。
そういえば、渡邊氏は2014年に、デモ行動中カウンター行動の学生から全治二日の傷害を受けたとして被害届を出し、学生は逮捕されていた。
あの時の学生は「自分は無罪、不当逮捕だ」と全面的に捜査機関と争い、救援組織も組織され、逮捕に対する抗議デモも行われていた。
あの時の学生は立派だった。自分の信念を国家権力に対して示す姿を、渡邊氏にも見習ってほしいものだ。
http://blog.livedoor.jp/surouninn_garyou/archives/54884418.html
誰よりも劣っている自分が人に見えるところで行動を起こす以上、手を抜きや失敗は許されない。緊張で吐きそうになる。
あらゆる挙動が自らの人格と漏れなく紐付けされる。誰よりも劣っている自分が集団に適応できない人間未満の動物という格付けをされるのは自明の理であり、集団はケダモノを排除しようとする。合理的。嫌な気持ち。
そうならないために、自分を見せるために必死になる。取り繕おうとする。手抜きや失敗は許されない。
インターネットは安全。インターネットには人に見せるということを考慮しないで作られた、個人と紐付けされないデータが溢れていて、そこにゴミ、屑、クソ、何を投げ込もうが、それが人格の一部になり人間未満の扱いをされるということはない。奇特な人から好意的に見られるまである。インターネットは安心。インターネットは楽。
本気でこれ以上ないところまで取り繕って、ようやく「みんな」が何も意識せず維持している人間というステージに立てる可能性が出てくるのが現実。確実さの欠片もない。苦しみながらそれを掴んだとして、一度こぼれ落ちたら確実に復帰することはできない。というかできていない。
有料会員は、2017年11月に発表したデータによると、前年同期の256万人から28万人減少。
まるで、シャッター街と化した賑わいをなくした商店街のように、客と店が閑散とし、それが負のスパイラルとなって更に客と店が逃げていくような状況に陥っている。
思い返してみれば、2009年から2013年頃は配信者も、リスナーも勢いがあり、ニコ生には熱があった。
しかし、その熱は徐々に失われ、人々の感情を動かす熱情は冷めつつある。
もちろん、一部例外はある。七原くんや、加藤純一のように、未だニコ生を楽しんで盛り上げている人もいる。ここで指摘しているのは、サイト全体の空気感の話だ。
しかし現状は、Twitterを眺めても、ニコ生を愛し、毎日のように生主の話題で埋め尽くしていた重度のニコ生愛好者のアカウントの多くが、ニコ生のことをつぶやくのをやめてしまっている。自分が2年前に作った、情報収集用のヘビーリスナーを放り込んだリストの3~4割が休止状態だ。
先の見えない、絶望感漂う現状に、ニコ生にしがみついている(過去の盛り上がりを忘れられない)人々は、再びニコ生の隆盛を、最後の希望をニコニコ(く)に託していた。
しかし、期待はやっぱりと言うべきか裏切られた。
この発表で、乾坤一擲、人々の希望を与えられるような内容があれば、まだニコ生は数年持ったかもしれない。だが、ニコニコ(く)の発表内容は、サーバーが重い、閲覧がプツプツ止まる、とにかく見づらいという、一番利用者が望み、改善を期待していたところすら手がつかず、子供だましのようなお茶を濁した機能追加のオンパレードで、我々利用者の最後の希望を打ち砕いた。
もう、ニコ生に期待することはないと思うので、その死に水を取るキモチで、ニコ生が衰退した原因を考察しつつ、何故ニコニコ(く)がダメなのかを書いていきたい。
ニコ生が衰退した原因は、一体何だったのだろうか?
そう問われた時、その人の立場により、多様な回答が出てくると思われる。
外部サイトの隆盛、稚拙な運営、逃げた配信者、通報厨、リスナーの変化、支援者…。
それらは、複合的に絡み合い、単純ではない。これらを少しでも払拭するような内容であったならと、慚愧に堪えない。
2013年頃までは、競合サイトと比較してニコ生の優位点が多く、ニコ生1強の時代が4年ほど続いていたように思える。石川典行や渋谷のキングなどの有力な荒らし配信者(当時)を外部に放逐しても、隆盛を保っていた。しかし、現状は違う。YouTubeLiveやLINE Live、Instagram Storiesなどの、巨大SNSを基盤とした巨大な競合サイトの台頭が顕著になり、その他独立系のツイキャス、ふわっち、showroom、OPENRECなどがニコ生の牙城を日々切り崩し、今や見る影もない。マクロミルが2017年7月に行った調査によると、これから配信をはじめる10代の視聴しているライブ配信サービスのトップはYouTubeLive、2位がニコニコ生放送。配信しているトップがInstagram Storiesで、ニコ生はツイキャス、YouTube Live、InstagramLiveなどの後塵を拝し、LINE Liveと同率の6位となっている。
実感としても、配信者やリスナーの外部流出が著しく、1強を誇っていた数年前と比べるべくもなく、シャッター街となった商店街の様相を呈しており、寂れた印象を与えている。外部に人が流出した上で、新規が競合サイトに吸われたため、サイトとしての熱や勢いを失ってしまったのだ。
若年層のインターネット利用の主流がスマホに移りつつあった2013年頃から、競合サイトであるツイキャスはそのニーズを捉え、低帯域でも閲覧が可能な高性能なスマホ閲覧アプリを提供していた。一方で、ニコ生は未だにバックグラウンド再生もできず、低帯域での再生は断続的な切断によるストレスが多く、基本機能であるアンケートにも参加できないなどのチープなスマホ対応しか行ってこなかった。
利用者の利用環境の変化に対応できなかったことにより、より使いやすいツイキャスなどの競合サイトに新規ユーザー獲得負けてしまった。
ニコ生のサービス開始2009年から8年。8年という歳月は、中学1年生が成人するほどの環境の変化をもたらす。
配信者、リスナーともにライフスタイルの変化により、閲覧を辞めることもあるだろう。
それに加え、ライブ配信自体の認知が広がり、よりライト層が閲覧を始めたことにより、2chの文化を引き継いだ、垢抜けないニコ生のギーク感(おたくっぽさ)は忌避され、よりスマートなツイキャスやLINE Live、Instagramなどに流れていった。(ここは、他サイトの利用者の意見を拾ったわけではないので、根拠に薄く、想像が含まれる。異論があれば教えて欲しい)
ニコ生のシステムは今年実装された「新配信」になるまで、ここ5年ほど、ほとんど改善が加えられていない。
それは、無計画に増改築を繰り返した上、低待遇の技術者が大量に退職した結果、システム改修がほぼできなくなってしまったことに起因する。
参考URL:http://hiroki-uemura.hateblo.jp/entry/2015/09/01/230611
結果、超会議や町会議などの「イベント」を繰り返すことにより、利用者の不満をかわす方針を取ったドワンゴ。不満は見事抑えられたが、上記の外部環境の変化についていけず、緩やかに競争力を失っていった。
しかし、ツイキャスの台頭に危機感を覚えたドワンゴは、ツイキャスのパクリのような「ニコキャス」をローンチするも、あまりのできの悪さに3日で閉鎖に追い込まれてしまった。
それから2年、2017年にシステムの大幅な刷新を予告しているが、大幅な後手に回ってしまった感が否めない。
加えて、マネタイズ(収益化)が競合よりも上手くいっていたことが、結果的に変化に対応するリスクを取ることができなくなったという面も考えられる。
ニコ生では、リスナーが「広告」を打つことにより、配信時間を延長できるチケットを配信者にプレゼントできるシステムがある。これ、運営は収益を上げることができ、配信者は延長料500円を払わずに延長でき、リスナーは目立つ形で広告を売って、配信者に名前を覚えてもらったり感謝してもらえるなど、「三方良し」の理想的なシステムだった。
しかし、競合サイトに投げ銭システムが一般的となった今、一部配信者は「自分の懐に入らない投げ銭(広告)」に不満を感じ、上記のWin-Winの構造が崩れてしまっている。
技術的な問題と、成功体験による現状維持が原因となり、外部環境の変化に対応できず、ずるずると現状を維持し続けたことで、結果的に競争力を失ってしまった。
ニコ生は、同時閲覧数がある一定数を超えると「満員」状態になって配信をみることができなくなる。
それはシステム上の問題なのだが、ここで「プレミアム会員なら優先入場!」的なボタンが出てきて、プレミアム会員への入会が促される。渋々入会して「優先入場」ボタンを押すも、画面が1瞬切り替わって同じ画面に戻される。プレミアム会員にはいっても入場できない状態が続いているのに「こちらが入り口です」と入れない入り口への誘導が繰り返される。このような、利用者視点がまったくない操作性の悪さがサイト内に山ほど散見され、利用者にストレスを与える作りになっている。ストレスを抱えた利用者は、このような稚拙なサイトを再度利用したいと思うだろうか?ユーザー体験(UX)が全く配慮されていないのだ。
ニコ生のトップページをみると、他サイトと大きく違う点が1つある。
それは、他の配信サイトの多くが、盛り上がっている配信や、新規配信者をトップページで紹介しているのに対し、ニコ生は企業配信の紹介が大きく割かれているのだ。これにより、新規の配信者が配信をはじめても、ふらっと立ち寄るリスナーの数が減り、いつまで経っても過疎から脱せない停滞感が生まれる。
過去においては、ある程度の閲覧数を稼げば、ちくらん上位に掲載されてリスナーを獲得することが出来たり、ミラー大手のこざまミラーが新規配信者を「発掘」してリスナーを獲得する機会があった。
また、ランダムでいろいろな配信を見せる「ニコ生クルーズ」や、配信者のコンテスト「ナマケット」などで配信者が発掘されることもあったが、今や殆ど機能していない。
現状においては、新規リスナーがただでさえ減っているのにもかかわらず、初見が最も訪れやすいニコ生トップページは企業配信と大手のチャンネル配信に埋め尽くされ、過疎配信者は日の目を見ることもなく、ただ根絶されていっている。
ニコニコのサービス追加は、これまで良い意味でも悪い意味でも、ノリと思いつきで行われてきた。
スタンプなど、ユーザーのモチベーション維持に役立ったものもあったが、これらの機能追加は、裏を返すとシステムの複雑化を招き、システム改善の難易度を高めていった。ニコニコ(く)において、ニコ生とニコキャスが並行して運用されるのも、複雑化した現状を整理できなかった苦肉の策だろう。
しかし、それらを今回の改定で、整理し、川上社長は、あるべきコミュニケーション像を、ビジョンを提示すべきだった。
それらのビジョンなく、枝葉のどうでもいい機能追加に終始し、抜本的な根治を目指さなかったことが、今回のニコニコ(く)の失敗だと思う。
新規配信者の参入が困難な現状も相まって、リスナーは大手配信者に固定化し、一部の大手はその座にあぐらをかいて惰性で続けている。それは、いつまでも「安泰」な地位が約束されている、新規が伸びてきにくい環境だからこそ、古参の大手の既得権益が守られ、切磋琢磨が生まれにくい環境にある為だ。
しかし、ニコ生全体の熱が失われた今、先を考えている配信者の多くはニコ生に見切りをつけ、配信環境が整い、収入源としても有望な競合サイトに流れていっている。
過去と同じことを見ていても、再放送のような気分になり、楽しみを見いだせなくなる。
しかし、配信を一度見るのを辞めると、「流れ」がわからなくなり、取り残されたキモチになる。
結果、面白くもないのに、飽きた配信者の配信をずっと閲覧することもなり、不満を抱えながら配信を見続ける。その中の歪んだリスナーは、楽しみを通報などの妨害行為に見出すようになったり、特定をして配信者を潰すなどの犯罪スレスレの好意に手を染めるものも居る。
リスナーの流動性がある程度あれば、このような弊害は生まれにくいが、リスナーが固定化された環境下では、このような現状になってしまうのも自明の理かもしれない。
これは簡単な話だ。
上記で掲げられた課題を殆どこなすことができず、既存利用者の失望を招き、期待感を生むことができなかったことにある。
期待感さえあれば、様々なニュースサイトに露出し、SNSで拡散され、人々の話題に上がって熱が戻ってくるきっかけになったかもしれない。加えて、一度外に出た配信者やリスナーが「古巣」を見に来ることも会ったかもしれないし、その流れで他サイトのリスナーがやってきた「かも」しれない。
二次元にも飽き、童貞を拗らせた勢いで、ふと今まで見る気もしなかったAVとやらを見始めてみた。
SFの世界では「SFを語るなら最低1000冊読め」というし、AVも取り敢えず100本程度見てみるかということで気付いたら200本ほど見ていたので、気付いたことを纏めてみたい。
DMMの発売日カレンダー http://www.dmm.co.jp/mono/dvd/-/calendar/ を見て欲しい。10月の一ヶ月ではなく、10日間分でこの数である。
エロゲのように月末金曜日に集中したりせず毎週まとまった数が出ている。これだけ出るということはそれだけ儲かるということなのだろう。
やはりエロゲ同様、AV業界もコピー対策で特典を付ける時代なのかと思ったのも束の間、特典付きがあるのはほんの極一部の作品に留まる。
しかもエロゲとは違い、特典付きであっても価格は特典無しと同額である。
特典として付くのは直履き(ということになっている)下着とその着用チェキ、生写真などが多く、いずれも外付けによる添付となる。下着はどう見ても3つセット1000円みたいなエロくもなければ高級感もないもので、やはり特典に金を掛けられない背景が伺える。
収録時間約120~140分程度で価格は2500~3000円程度。10本買っても3万円で足りてしまう。
エロゲでは登場キャラが増えるとそのコストが価格に反映されるわけだが、AVでは登場する女優が増えても価格は変わらない。つまり、女優一人あたりのギャラを下げている(=企画女優)という事実に何とも言えない闇を感じる。
広告の1枚でもあるのかと思ったが大半には何も無い。メーカーによって葉書か広告が入っているぐらいで、小物に拘るオタク向け商品との違いを感じさせる。
映像作品にも関わらず未だにリリースの中心はDVDで、BDはヒットが狙える大物女優向け、となるようだ。BDのプレス代はDVDの数倍以上と聞くので、AV業界といえどもそうそう手は出せないらしい(このためBD-Rを利用したBD版をリリースするメーカーも存在する)。
HD画質に慣れてしまうと、DVDの映像は非常に汚いとしかいいようが無いが、HD版を見たければネット配信版を見ろと言うことになるらしい。なるほど道理である。
発売日当日に売価の半額ならまだマシ、1/4以下に買取値が下がることもままあるエロゲ業界の常識と違い、発売から一ヶ月経過しても60~70%買取を謳う中古屋が幾つか存在する。
これを利用すれば1枚1000円程度で最新作を次々と流し見ていくことが可能なので、何かの課題や統計でAVを200本見たい時には便利だと思われる。
既に廃盤となった作品でも見られるのは良いが、DMMの配信は全てDRM付きで専用プレーヤかブラウザ再生になる。モバイル環境では専用アプリだが、やはり評判がよくない。
まともなプレーヤの開発力がない会社は下手なDRMを付けるのは止めて頂きたい。
タイトルに「4時間」とか入っているアレ。一見、お得そうに見えるが実態は旧作からの寄せ集め再編集であり、一定のポリシーで集めたといっても重要なのは量より質なのだ。
間違っても手を出してはいけない。
発売される全てのサンプルをチェックするのは不可能なため、どうしてもジャンル分けに頼らざるを得ない。が、各通販サイトのジャンル分けは恐らく人力であり、ジャンル分けが正しい保証は何処にもない。
パケ裏に掲載されるサンプル画像には二種類ある。動画からの切り出し画像と、カメラで撮影したサンプル用画像の二種だ。前者の場合なら同じシーンが本編に存在するはずだが、無い場合がある。またシーン自体は有っても、汁を後から書き足したというケースもあった。切り出し画像のままでは見えないので致し方ないとはいえ、世が世なら捏造と叩かれてもおかしくない。
いわゆる汁系作品の場合、どうやら「偽汁」を使っているのではないか?という疑念が持たれることが多いようだ。これに対する製作者側の回答は、スタジオに定点カメラを設置し早回しした映像を「本物証明」として本編末尾に追加というものだった。モザイクの生んだ弊害と言える。
さすがにエロゲのように半年単位で飛ぶことはなく、精々一ヶ月か二ヶ月程度である。逆に、一部メーカーは発売日一週間前に入荷してそのまま販売されることから発売日に関しては割とルーズな業界らしい。
業界の大御所みたいな適当なイメージで、どうせ万人向けの無難で面白味の無いものを出してるのだろうと勝手に思っていたが、むしろ他メーカーにはできない、金の掛かる企画ものを積極的に手がけているように見える。特にスタジオセットに関しては、雰囲気作りを含めて他社とは一線を画すものが有る。コストダウンを図るなら真っ先に削られる箇所であるだけに、ここに金を掛けられるのは大きい。
年の頃でいうと25、6あたりだろうか。コスプレ感はあるが、JK制服を着れば大概それらしく見える。対して男優はどういうわけか、オッサンが無理して学生服着てるとしか見えなくて見苦しい。若手の男優であっても、全く似合わない。これが三次元の限界らしい。
「熟女イコール30代だけど見た目は殆ど20代」という二次元感覚とのギャップが最も大きく、白髪が交じり始めた年代の女優も当然のようにいる。熟女ジャンルはまだ私には早かったようだ。
いわゆる巨乳を売りにした女優の場合、その重さを支える相応の身体もまた必要なのは自明の理と言える。現実は非情である。
若手もしくは新人に近い女優の台詞はほぼ棒読みなのに対し、年齢が上がるか出演数が多い女優はきちんと演技としての声が出ている。嬌声を上げる演技はみんな上手いのにね。
プロ中のプロなのだからてっきり、誰もが普通に飲めるものだと思っていたがAVにおける演出を鑑みるに普通は飲まないらしい。これは二次元の弊害だろう。
熟練クラスと思われる女優の場合、アクロバティックな体位を取りながらも腰の動きから声を上げるタイミング、カメラの回り込みを意識した視線まで男優と完全に息を合わせており、奈良は中谷堂の高速餅つきを思わせる。
目に付くというと語弊があるが、10本見て3~4本に一人はいる感覚だ。もちろん、桜吹雪のような刺青では無く、鎖だかシダ植物だかのような小さいものを足や腕に入れているだけだが、イメージの問題で余り良い印象は無い。できれば隠して貰えないものか。
男優の名前とかは全く知らないが「またこの人出てる…」になった男優が2人できた。そのうちの1人は何処かの尊師を思わせる容貌で、特定ジャンル作品には引っ張りだこのようだがあまりにインパクトが強すぎて日常生活で特定されないか他人事ながら気になる。
(設定上)言葉ではオラついてる男優でも、激しいプレイの場合は途中明らかに力を抜いたり休めたりしていて、当たり前だが女優を労っていることが伺える。
実写であっても映画のようにCGや特殊効果による激しい刺激に慣れすぎた目には物足りなさを覚えてしまうわけだが、これは実に恐ろしいことだ。
気付きたくも無かったが気付いてしまったので一応。いわゆる素人の汁男優と違い、本職は下の毛を短めか無いぐらいにまできちんと手入れしているようだ。
あのマッサージ器、世界で一番、本来の用途で使われない製品だと思われる。
先ほどの発売予定リストを見ても分かるようにラノベ並に長い作品が多い。状況や台詞、シチュエーションをそのまま入れている為だが、もう少し考えて欲しい。「胸糞注意 中学卒業後そのまま土建屋に就職して現在同棲中のギャル彼女をネットビジネスとやらで成功して超絶金持ちバブリーになった奥村君に圧倒的な経済力の差を見せつけられカネの力でクドかれてねとられてしまった時の話です 夏樹まりな」とか「彼女にフラれた僕を不憫に思った母ちゃんとコンドームをする約束でセックス!無反応だった母ちゃんがコンドームをこっそり外して生ハメしたら痙攣して何度も絶頂「すぐ良い娘が見つかるわよ」から「誰にも渡すもんですか」に態度が豹変し腰振り騎乗位が止まらない 推川ゆうり」とかはタイトルではなく完全に文章だ。
そんな長いタイトルも決して真に受けてはいけない。シチュエーションに関する内容なら未だしも、プレイ内容に関する文言は注意を要する。具体例を挙げると「エロ痴女ナースは口内射精がお好き」という作品シリーズ、ナースというシチュエーションは正しいが後者の口内射精自体は皆無(全て舌上射精)という有様だった(有名な地雷らしい)。その他、体位を示す語がタイトルに入っている場合も同様に注意を要する(全てがその体位であるわけは無く、酷い場合は途中5分だけだったりする)。
各ジャンルについて。AV業界も「右向け右」というやつなのか、売れたシリーズがある場合は各社同様なものを出す傾向らしくだいたいのジャンルで似たような作品が出ているようだ。
エロゲ業界でいうところの近親もの的なジャンルのようだが、エロゲでは滅多に見かけない姪っ子という辺りがAVらしい。やはり男優の年齢(「お兄ちゃん」とは言い難い)によるのか、DVD購入層の主流が50代と言われる正に姪がいそうな年代なせいなのかは定かでは無いが、興味深い。
上記の姪っ子ものともやや被るが、スレンダーな女優を起用してローティーンに見せかけたジャンル。ジャケ画像を見ると物凄く幼く見えてお巡りさんを呼びそうになるが心配ご無用、静止画特有のトリックです。髪型、衣装、メイクを駆使しても、やはり顔つきというものは特徴があり、表情や角度でやはり大人に見える。身長140cm台の女優を起用して体格差による演出も見られるが、やはり疑似としか言いようが無い。ちなみにこの手の作品に出る女優はだいたい目星が付くらしく、名義を変えていても熟練の変態紳士に聞けば成人女優であることが容易に確認できるようだ(尚、某団体が某報告書で低身長の成人女優による演出を批判していたようだが一体何が問題なのか全く謎である)。
ジャケ画像で用いられるトリック(?)として、オイルを塗りたくるのはなかなか上手いと感心した。肌の質感がオイルによって誤魔化されるので、何となく若々しく見えるようだ。
各社が毎月、いや毎週、AVデビューを冠するAVを出すって大丈夫かこの国はと思っても無いことを口にしそうになるシリーズ。さすがに一度デビューした女優が他社で名義を変えて再デビューということは無さそうだが、女優一人一人にあれこれ売り文句や設定を考えて売り出すのだからまあ大変そうである。
尚、枕詞に付く「元看護婦」「元声優」「元コスプレイヤー」「元地方局女子アナ」についてはいずれも設定で、事実確認できる例は殆ど無いらしい。「元芸能人」「元国民的アイドル」については(定義によるが)事実らしいが。
素人と新人AV女優の違いとは何か?と問われたなら、作品に対する姿勢であると私は答えるだろう。
素人に求められるのは女優に無い文字通りの素人感であり、新人AV女優に求められるのは擦れてない新鮮さなのだ(AV女優になる時点で擦り切れているのはさておく)。声の出し方一つとってもやはり女優は女優、素人は素人なのだと教えてくれるジャンル。
増田は激怒した。必ず、かの邪智暴虐の監督を除かなければならぬと決意した。増田には情事がわからぬ。増田は童貞である。マスを掻き、右手の友と遊んで暮して来た。けれどもコスプレに対しては、人一倍に敏感であった。
AVのコスプレものと言えば「コスプレなのに何で脱がすんだ」「は?今時脱がすコスプレものなんてねーよ」というやり取りが昨今の定番らしい。幾つかのシリーズ物を見る限り、最後まで脱がさないものと最後に脱がしてしまうもの、それぞれ確認したためどちらの主張も正しいと言える。
王道(?)のコスプレイヤーもの(序盤に適当な撮影会風シーンが入る系統)の他に、最近ではオタサー姫もの(テンプレみたいなオタク風男優がコスプレさせる系統)が台頭しているらしく、やはり各社似たようなものだ。
しかし、敢えて言いたい。
AV女優のコスプレであるならまあいい。が、コスプレイヤーという設定でコスプレされるのには妙な腹立たしさをつい覚えてしまう。ウィッグ被って服を着てカラコン入れたらコスプレだろ?という考えが透けて見える。否、断じて否。コスプレ特有の、キャラに似せようと盛ったメイク無しに何がコスプレか。どんなに似合って可愛く見えても、一般女性的なメイクのせいで台無しであるのが非常に勿体ない。是非とも制作陣には、コスプレメイクあってのコスプレであることを理解してほしい。
これはDMMでのジャンル名だが、要は二次元の同人誌や漫画のAV実写化ものを指す。たまにサークルが宣伝してたなあという記憶はあったが予想外に多く、原作不足というやつなのか二次元からの流入を期待しているのかいまいち狙いが読みづらい。試しに見た限り、やはり「メディアの違いを理解せよ」案件と思われる。
山林や海岸といった「まあ不可能では無いな」ものから、明らかなスタジオを利用したもの、さらにどう見ても本物の店舗を利用しているとしか思えないものまで多彩だが手間が掛かるためか少数派ジャンル。
どうやって撮影しているのか全く分からず以前、増田で聞いた(https://anond.hatelabo.jp/20170506185119)作品もこれに当たる。
もう書いてしまうと「爆乳J-CUPロリっ娘こにたんとイク ガチさすらい露出ゲリラ紀行 小西みか」 http://www.dmm.co.jp/digital/videoa/-/detail/=/cid=ktkp00025/ のことだった。
サンプル動画冒頭に出てくる場所は池袋のここ https://goo.gl/maps/yR1t8cB6cLM2 であることを特定し、ラーメン屋の実在も確認できるがどうやって撮影したのかがやはり疑問だ。
IVについて。当初IVはエロの無いAVみたいなものだと思ってしまっていた。200本は見ていないが、20本ほど見たことで大凡を理解できたと思う。
最も大きな違いは完全主観(男性の登場は皆無かあるとしても手ぐらい)、モザイクは徹底して無し、の二つだろう。特に前者は大きく、傍観者としての立場になるAVとは完全に異なる。AVにも主観ものは存在するが、その性質上、下半身等がカメラに写ってしまうため違和感がある。後者については、僅かでも透ける可能性があれば必ずモザイクをかけるAVとはやはり対照的で、ギリギリでも見えなければ良いんだろうと全力で主張している。
IVの良さはモデルの身体を文字通り舐め回すようなカメラワークで女性的な魅力を映す点で、逆にAVの良さはやはり情事を中心として成立している点だろう。
しかしIVもまた奥が深く、IVという呼び名は極めて大きな括りであることを痛感した。研究途上だが、IVは大きく3つに分類されるように思われる。
男性(の性器)が登場しないAV、が適切な表現と思われる。乳首は普通に見え、女優もグラビアモデル等の20代後半から30代?ぐらいだろうか。大人の玩具も当然のように登場するし、疑似性交的なシーンもある。
(数年の鯖読みを考慮しても)ハイティーンに見え得る女優だが乳首は徹底的に隠す。これでもかという程に隠す。ここまで隠されると何故かそれが物凄く価値のあるものに思えてくるから巧妙な心理戦と言える。着エロのような直接的な表現はなく、運動と称したシーンが中心。バランスボール、バナナ若しくはアイス等の棒状物体舐め、水着、謎の液体マッサージ、と何かの教科書にでも載っているのかという程に構成も表現も似通っており、女優自身の魅力を引き出せないと苦しい。
「笑顔なんて、笑うなんて、誰でも出来る」と言ったアイドルがいたが、特にこのジャンルでは笑顔が本当に重要だということを教えてくれる。撮影者との信頼関係が醸成されていないのか明らかに緊張して固まっていたり、笑えてはいてもあからさまな作り笑いで擦れた感が出ていたりすると途端に見るのが辛くなる。
それだけに、一定以上の可愛さと自然な笑顔の上手さがあると非常によいわけだが、やはりと言うべきか何故かというべきか、普通以上に可愛いと思われる子ほど早々に引退する傾向があるようだ。
恐らく一番誤解を受けているだろうジャンル。子役として売り出す中で作成されるようだがイメージを損なうようなシーンは全く無いようだ。
推測になるが、グラビアアイドルに年齢詐称を駆使することでジュニアアイドルと称し、本来重なるべきでは無い二つのジャンル境界を曖昧にして暴利を貪ろうとした一部業者が諸悪の根源のように思われる。
過去の作品を調べると、ある時期から年齢を入れたタイトルが途絶えていることが伺え、自滅というか正に策士策に溺れる状態だったのではないか。
いかがでしたか?
あーなんか「セックスを推奨してるように読める」だけじゃなくて全体的に話が印象ありきになってるな
こちらがそちらが一番聞きたい部分にちゃんと答えられていなかった、ってのは認めるけど
そちらの
あんたが具体的にあげた項目は性行為の作法以外全部現行の教育現場でやってるって言ってるじゃん。んでそれは流行りの同意のプロセスと似たような話だと思うんだけど、コミュ力ありきで察しろみたいな記事しかないけど教育現場でどう教えるつもりなのかが俺はしりたい。
このへんの発言も単なる主観の域を出てないよね。少なくとも「実践的な性教育は教育の範疇を超える」という増田の理屈は自分にはピンとこない。このまま話し合っても平行線になるし、自分の意見の論拠となるデータをちゃんと提示しあって「なにを拠り所にしてそう考えるか・そう主張するのか」を踏まえ直すべきでは?
- 2「性感染症も妊娠もリスクを0にはできません」 間違った知識から卒業しよう(BuzzFeed Japan): https://www.buzzfeed.com/jp/satoruishido/sex-ed-week-hori?utm_term=.jsjvqJPaz#.dhGglvrwx
- 3性教育の欠落で失われる、子ども達の人生(ハフポスト日本版)http://www.huffingtonpost.jp/hiroki-komazaki/the-facts-of-life-children_b_14278952.html
自分が意見形成の過程で見聞きした情報、ないし見聞きした情報と同種の内容が掲載されているサイト。とくに「現状の性教育が不十分である」とする論拠、それから後で書く増田の「実践的な性教育=セックス講習ではない」の根拠ととなっているのは1と5。
1ははてブでもホッテントリに上がるくらいブクマがついていたからもしかすると増田も読んだかもしれないけれど、この記事の中に「1990年代は熱心だった日本の性教育」という項目があり、次のように書いている。
実は、日本の学校教育の現場でも性教育に熱心だった時期はあった。「性教育元年」と言われた1992年からの約10年間がそれだ。1980年代のエイズ・パニックをきっかけとして、「エイズ感染予防のためにも性教育が必要」と言われるようになり、学習指導要領も改訂。「理科」や新たに始まった「保健」を通じて小学校段階から「性」を本格的に教えるようになった。
きっかけは、厚生労働省所管の財団法人・母子衛生協会が中学3年生向けに作成した冊子「思春期のためのラブ・アンド・ボディBOOK」の回収騒動だ。冊子にはコンドームの装着方法やピルの紹介などもあり、2002年頃、国会で「中学生の性行動をあおっている」といった激しい批判を受けた。冊子は結局、全面回収されてしまう。
この当時、国会や地方議会、マスコミを主舞台として「過激な性教育が学校でまん延している」「教室で性交渉の方法を教えていいのか」といった批判が激しくなり、「性教育元年」と呼ばれた動きは教室から姿を消した。
ここを読めば、現在の性教育についての内容が行政の取り組みの段階から過去の教育と比べて後退的であるということが分かる。また3の記事でも00年代初頭の性教育へのバッシングについての言及があり、ここでも同様の見方を取ることが出来る。
「性教育の不十分さ」の可能性については増田も自分とそれほど意見が違っていないようだから、ここはそのまま承服してくれるだろうと思う。
次に5について。これは日本とオランダ、アメリカ、タイといった実践的教育を行っている国との教育内容の比較で、この中からオランダとアメリカの部分を引用する。
オランダでは~(中略)~思春期を迎える前の時期から、性は食事や睡眠と同じように日常生活の一部であり、ごく自然で当たり前のことだと教えられます。小学校によっては高学年でバナナを使って実際に避妊具を被せる実習を行うこともあるようです。
~(略)~
このように、オランダの若者は性に関する十分な知識を身につけているため、10代の出産率と中絶率が世界の中でも極めて低くなっています。
○「総合的性教育(セクシュアリティ教育)」…性を生物学・心理学・社会学など多角的にとらえて1人の責任ある人間としていかに行動するかを教え、避妊・妊娠中絶・同性愛は否定しません。
○「禁欲教育」…結婚まで性交せずに禁欲生活を送ることがいかに重要かを教える教育です。
これ以外のタイでも、これらと同様に単に性機能や避妊方法と言ったごく狭い範囲に教えるのではなく、対人関係、人権の視点と言った多角的な目線で“性”を捉えることを重視している、といったような記述が成されている。
それで、この1と5を踏まえて言えるのは、まず日本の性教育が世界はもちろんのこと“過去の日本にさえ”遅れているということ。また、これだけ行き遅れている状態で性教育についてのカリキュラムを多少なり進展させたところで、それが踏み込みすぎになることはあり得ない、とも言える。
また、コンドームの仮想利用まで教育にとり入れることを容認しているオランダの出産率、中絶率の低さから言っても「踏み込んだ性教育が、乱れた性風紀を生み出すことと直結することはない」というのも明らか。これで自分の
「セックスという行為の存在自体は肯定的に捉えつつ、それはそれとしてセックスする前に必要不可欠な知識はしっかり頭に入れてからやってね」
が単にセックスを推奨するものではない、ということを理解してもらえると思う。
そして最後に増田の言う性教育には限界がある、という主張に対する反論として、先に引用したアメリカの性教育についての文章(抜粋なのでできれば元サイトの文章も)を読んで欲しい。
アメリカの場合は特殊で、「同性愛・避妊・中絶」といった部分までひろく教えるところ、現状遅れているとされる日本さえ先進的に見えるくらいにガッチガチの「反中絶主義・禁欲主義」を掲げるところと、州によって性教育のカリキュラムに天と地ほどの差がある。つまりこれは「性教育の過程で教えるべき知識・教えるべきでない知識」「性教育の限界がどこにあるのか」というのは、単に教育者側・行政者側の主観によってしか取り決められていないってこと。
ともすれば、性教育限界説なんていうのは単なるまやかしで、本当に拠るべきは「性教育の限界がどこにあるのか」なんていう主観でいくらでも変わるものではなく、「実施した性教育が、実社会にどのような結果をもたらしたか」のはず。そしてその「踏み込んだ性教育を実施した結果」は、オランダのそれを見れば分かるように、充分に好意的に捉えていいものになってる。
はじめの増田の記事に自分含めたくさんのブクマが集まったのもこの増田のはじめに書いたように
っていう、主観でしかない「実践的な性教育はセックス講習と同義」「実践的な内容に踏み込むと教育とは違うものになる」という理屈立てをさも自明の理であるかのように書いたからなんだよね。
で、自分含めみんなその理屈立てがそもそもおかしいことに気づききれないまま
コンドームを使いましょう
避妊薬を使いましょう
の部分に突っ込んで、「オーラルセックスの知識は必要」「オーラルセックスの話になる意味がわからない」といったように、概ね「踏み込んだ性教育をするべき」という意見にまとまっているはずなのに、各発言にばらつきが出てしまったわけだ。
それで、この辺の話を踏まえたうえで改めてトラバに言及するけど
元増田でも言ってるんだけど
実践的な性教育って教育の範疇超えちゃうよね。じゃあ、結局性教育ってどうすればいいんよ
ってのが俺の趣旨なんだけど、言いたいことだけ言ってる感すごくない?
まず自分に質問をする前に、増田は自分でさんざん挙げている「教育の範疇」というものについて定義する必要がある。明確な定義付けがなされなければ増田の意見は単なる主観の域を出ないし、主観ありきの出発点で話を始めている以上、そのレールに乗ったまま自分が何か意見を挙げても増田が「それは教育の範疇じゃない」と言えばそういうことになってしまう。これはこれまでのトラバで増田が「どう読んでもお前の意見はセックスを推奨しているとしか読めない」と主張した、またそう主張し続けることができたことから言っても明らかだ。
しかしながらそこで「教育の範疇とは何か」を定義づけするにしても、先に挙げたアメリカ、オランダといった他国の性教育の例を見れば明白なように、教育者・行政者側の視点でいくらでも変わり得る「教育の範疇」に絶対的な基準などないし、もし絶対的な基準というものがあるのだとすれば、その基準にもとづいて性教育のカリキュラムを制定すればいいわけで、増田の「性教育には限界がある」という主張は成立しなくなる。
ただ、こう書いて「煙に巻いただけで、さんざん自分が質問したことには答えてくれていない」と言われるのは嫌だから元増田の
コンドームを使いましょう
避妊薬を使いましょう
自分の主観と、これまでに引用した記事の知見に拠るなら、妊娠リスクを回避しつつ性的快感を互いに感じ合うというのは未成年に依らず性的機能を保持しているあらゆる男女で行われていることだし、別に自分はオーラルセックスの存在を例示するのは何も問題があるとも思わないし、自分はそれが「教育ではない」とは思わない。
ただ、オーラルセックスでも性病の感染リスクはあるわけで、「そうするようにしましょう」とまで言うべきだとも思わない。原則として「妊娠したくない(させたくない)、妊娠しても出産できない状況下では、妊娠リスクを伴う性交渉は最大限避けるように努めるべきだ」としつつ、避妊手段や口淫などの性器同士を直接触れ合わせずに性的快感を感じ合う手段を例示する(実際にそういった手段を行うかの判断は生徒側に任せる)のが理想的だと考える。
どうだろう、増田の意見に沿うかはさておいて、ひとまず確かな一意見の提示として読んでもらえたなら幸いだけど。
2017-08-16 14:29追記: 全体的にタイプミスや意見として明瞭でない部分があったので、論旨は維持しつつ一部文章を手直しした。なんか返信もらえなかったけど、それはそれとしてひとまず読んでくれたのならよかった。
オナニーは毎日してるし風俗も行くんだけど、要するに本番を15年間やってないってこと。やりたいんだけどむしろ今久々にやったらあっという間にイキそう。ただでさえ早漏なのにマジでみこすり半劇場になる。それとやろうと思って店に行っても興奮できないんだよね。予約なんかして行っちゃうとほんと無理。これからヤリますっていう雰囲気に萎えちゃう。かといって素人なんかと簡単に出来ないし面倒くさいし。どっか本番2000円ぐらいでやらしてくれるとこないかな。てかセックスの需要はものすごいんだから、国はもっと規制緩和して本番を推奨してほしい。中途半端なヘルスとかピンサロよりいさぎよい本番の方がよほど精神衛生的に健全だ。エロ動画のモザイクも然りだ。下手にモザイクで隠すから性欲を刺激するんだ。国はそういう規制をわざとやってるのか?とにかく国のエロに対するやることなすことは不健全極まりない。そうやって抑制するからおかしなことになるしアングラ化するんだ。そんなの自明の理じゃないか。というかもう題名と全く関係ない話になってるじゃないか。
っていう嫌儲精神だろ。何を偉そうに「PRと入れないのは成果が下がるからだろw」と嫌儲精神棚に上げてるんだよ。
そもそもネット上のコンテンツってのはほぼ全て広告というマネタイズ体制が整っているから成り立っているのであり、お前らがよく使うyoutubeやniconicoなどの動画サービスもそうだし他の情報サイトも広告があるからコンテンツを作成できているという部分がある。
こういうことを書くと一部の個人で良コンテンツを作成している人間にスポットを当てて「こうやって清貧で頑張ってる人もいる!」とかかましてくるが、明らかにそれは少数。
詳細な比率は調べてないから知らないけど、誰から見ても高クオリティだといえるのもを上げるのはマネタイズしてる人間なんだよ。
言っちゃうとアフィカスと言われてる人間も確かに数年前までグーグルがまだ甘かった時期はリンクだけでバク上げできたからコンテンツのレベルは低かったけど、今はかなり精度も上がりクオリティは高い。
というより情報の精度で言ったら広告無くして個人しかいないネットになったほうが明らかにデマだらけになる。こんなの誰でも投稿できる2ch見れば自明の理だろ。
つまるところネット上の価値を保ってるのは広告という資金源で、それを邪魔するというのはユーザーからすれば超邪魔。
常々思っているけど規制をかけようとするやつは大体聖人の皮を被った誰かの足を引っ張りたいクズ。
つーか少し考えればこういう規制行為が後々ネットにどういう影響を与えるか、功罪がどのように発生するのかわかるだろうし何も考えてないんだろうなと思う。
前置きが長いので、ここから本題です、というワードまでジャンプしてください。
からの
たっましいのるふーーらーーーーーん
自分の家はわりかしダメな父親の影響で色々あって色々あるんだけど、
シト新生の頃は嵐の前の静けさじゃないけど、まだまともで
そこで見た、あの終わり方、当然ニュータイプ大好きアニメインタビュー大好きな父親は夏に続編が公開されることを知っていたため、
見に行こうと約束していた
だのに、父親が抱える問題の色々が頂点を迎えたのは、Air/まごころを、君にが公開した直後だった
だから、自分の中のエヴァンゲリオンは未だに量産型エヴァが空から降ってくるシーンで終わっている
あのテレビ版のあとがどうなるのか?
どうなるんだろう?
ということで、考えて見ました
ここから本題です
有馬は自分を虐待していた母親と向き合い拒絶することでイニシエーションとしての恋愛の終わりを迎えることになる
それを見つめている浅葉の心情は?
なんと彼はトリハロンとベリンの間に生まれた子供、そのものであった
そう彼もまたカイエンと同じように受精卵の状態でセントリーに預けられた
その時代に生まれてはいけないもの、そしてまたこの時代にも居場所がないものであった
彼のその生い立ちにに何故か幼き頃みた天照の姿を重ねてしまうアイシャ
なんだかんだでいつのまにやらボーイズラブアニメ監督として一定の地位を確立した望月智充
しかし、未だに宮崎駿のあの態度を思い出すと腸が煮えくり返ってしまう
そんな彼にまたとない復讐の機会が訪れる
次回、実録ジブリの闇、第40話「ともみの素敵なプロデューサー」
セラフィムコールの川田妙子のメイン回ってえげつないほどにエロかったよね
読子リードマンをみた! 読子リードマンをみたんだ! とつぶやきながら神保町を徘徊する倉田英之
漫画作品であることをいいことにぶっちゃけ鉄血よりも大概な展開を続け原作をないがしろにし続ける千葉智宏
その大概なあれよりはましだしここ最近頭にビルドナックルを食い続けたかのような黒田洋介
スタジオオルフェの面々は最早誰もがある種の終わりを迎えようとしてたその時
真下耕一が美少女ガンアクションの最新作の構想を提げやってきた
次回、清水愛のプロレスがんばるあい、第1話「あいぽんよりはまだまし!」
あーあ、フォールアウトのプレイ日記書くだけであんなに人気者になれるなら、俺もダビスタのプレイ日記かいてじゃじゃグルのはずみにしてーなーゲームしないけどー
しかしそれは、玉ねぎを食べても死なないタイプの犬の策略であった
チョコレートを食べても死なないタイプの犬がゲームをしているだけで一向に義理の息子の小説を読もうとしない態度に、ついに彼らが立ち上がる
アオイホノオで高田明美、伊藤和典、横手美智子の三角関係が描かれるって本当?
ハヤテのごとくが終わったなら、それが声優! に集中できますね! と意気揚々とネームを切り続ける浅野真澄
しかし、エクセルにまとまったハヤテのごとく年表がどういう結末を迎えたかを考慮すれば、そんな目測が甘いのは自明の理であった
はたしてエクセルにまとまったハヤテのごとく年表は実在したのだろうか?
そして、アド アストラ ペル アスペラはどうなるのか?
次回、鷲崎健のヨナヨナ「六月のマンスリーゲストはこのかた! 吉野紗香! あと何分の初期のときにやったことがあるだけだから、十何年ぶりですね」
追記:
とりあえず直接の疑問について。
そもそもそんなすぐバレる事確実な犯罪を何故犯すのか、って事になるんだけど。
ん。だから前文で「ある程度は衝動的な犯行ではあっただろうが」と書いている。合理的に判断すればリスクに見合わない行動であっても、時として人はそこまで完全に自分自身を理性下に置くことはできない。だからこそ間違いが起きる。
殺せばバレないと思ってた?でもそれにしては証拠残しすぎ
口封じや事件の隠匿を狙った殺人は効果的だ、という話はしていない。ただ、罪を犯してしまった人の心理として、明日捕まるのと1週間後に捕まるのでは、そこには越えられない壁があるという話に過ぎない。そのまま被害者(目撃者)を放っておけば、短時間で捕まってしまうだろうと考えた加害者が、事件発覚を遅らせるためさらに重大な犯罪に手を染める、という心の動きはそこまでおかしいものではなかろう。…それが頭の悪いものであっても。
証拠を残しすぎなところを見ても、計画性の薄いかなり衝動的な犯行であったが故の悪あがき(殺人、死体遺棄)であったように思う。
あと、なんというか、ロリコンを得体のしれない理解不能なものとして犯行の動機を探るよりは、鉄道車両で痴漢が発生するプロセスから紐解いた方が理解しやすいんじゃなかろうか。
痴漢というのは、狭い車内に沢山の人が乗り込む満員状態によって引き起こされる。これは多数の人間同士が密着することによって、誰の身体が誰の身体に触れているか判断がつかない状況が生じているせいだ。こういった状況下で気が大きくなる心理というのは、容易に理解できるかと思う。匿名のブログサービスだからついつい余計なことを書き込んじゃう心理は、自分が今味わってるそれだ。
幼児を狙った性犯罪で誘拐がセットになるのは、成人女性に比べて単独でいる時間が少ないせいというのが主な理由だろう。あと運びやすさ。性犯罪は殺人や強盗に比べて犯行にかかる時間が長い。故にターゲットを人目につかない場所まで誘導・誘拐する必要が出てくる。人気のない夜道を歩く女性や、一人暮らしの女性宅が狙われやすいのは、犯罪者からすれば自明の理だ。
だからこそ幼児を狙った性犯罪の多くが、身内や近しい人間の犯行となりやすい。妻の連れ子や、学校や塾の教え子などは長時間密室でふたりきりになる機会が生じやすく、また社会的な立場により口封じがし易い(自分が我慢すれば母親が悲しまない等)環境も整っており、多くの悲劇を生んでいる。
今回の件も、たまたま相手が誘導のしやすい子で、かつ目撃者のいない空間が整っていたからこそ魔が差してしまった、という単純な話ではなかろうか。
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なんというか、こんな的外れなロリコン分析を真に受けちゃうのかと驚かされる。
性犯罪にかかわらず、殺人が副次的なものである場合、加害者の心の動きというのは、だいたいが口封じのためだ。
今回の事件でいえば、ある程度は衝動的な犯行ではあっただろうが、徹頭徹尾パトスに駆られた人物という犯人像は、いくらなんでも現実的ではない。逮捕された容疑者の男性が実際に犯人であるなら、亡きロバートKレスラーも苦笑いしそうな心理分析は必要なく、「顔見知りに近い人物による犯行がための目撃者(被害者)の殺害」で説明は事足りる。というか地理的な要素をまず検討するってのは、殺人事件の捜査では基本じゃなかろうか。
無論、増田友人が想像するような犯罪者がいないわけでもないだろうし、上記の分析も仮定に仮定を重ねたものだが。
いずれにしても、ロリコンがすべて同じような理想を抱いているという増田友人の言は、暴論にすぎる。あまりにもモヤモヤするので、ロリ系エロマンガについての個人的な分類を語りたくなってきた。
それぞれの特徴を説明する前に、身体的にも精神的にも経済的にも未熟な幼児を性の対象とするということがどういったことか、改めてざっくりと説明しておきたい。
当然ではあるが、だからこそ幼い子供は法によって保護されている。
ロリエロというジャンルを捉えるなら、まずここが出発点といえるだろう。
・リアル系の特徴
これは現実的なシミュレーションを含んだもののことだ(リアルだとは言っていない)。上記の点により肉体的・精神的な苦痛を伴ったり、救いのない展開や、レイプ、児童売春や性的搾取といった犯罪的な要素がついてまわる。
また、リアル系の傾向はストーリーだけではなく、絵柄にもその傾向が見て取れる。
それらの特徴を内蔵的と仮称する。
内臓的絵柄とは、人体デッサンにおいて、皮下の骨格や内臓といったものをしっかりと踏まえた、解剖学的な正しさを感じさせる絵柄のことだ。かなりざっくりと説明するなら、ごつごつとしていたり、あばらを描いていたり、目の大きさが現実的なサイズの絵柄のことだ。
こういった身体的なデッサンの人体は、苦痛を表現するのに適しているのだろう。猟奇的な作風の作家にも多い傾向だ。
LOはたかみち氏の爽やかな表紙に反して、こっち系の作家が多い。というか、町田ひらく氏といったこっち系のドきつい人がいたりするので、リアル系が苦手な人には正直、キツイ。
キツイ。
・ファンタジー系の特徴
ファンタジーといってもRPGの世界といった意味ではない(お約束)。現実(リアル)の対義としての非現実(ファンタジー)だ。どうしても犯罪臭はあるものの苦痛や鬱展開はほとんどなく、概念としてのロリを具現化させた存在と戯れる傾向にある。
そのため絵柄の特徴もリアル系の内臓的なものとは対照的なスキン的絵柄となっている。具体的には、きめの細かい肌触りや柔らかさといった表層の部分を重視する人体デッサンのことである。つるぺたという表現は死語化してひさしいが、要はあんな感じだ。
LOでこっち系といって思い浮かべるのは阿骨打先生だ。個人的にトップに入る好きな作家だが、死亡説が囁かれるくらいには寡作な方である(そうなる事情も分かるので複雑だ)。
ロリエロマンガは出発点が出発点だけに、分類がはっきりしているジャンルだと感じる。
が、近年はスキン的絵柄のリアル系鬱ストーリーみたいなハイブリッド型の作品もじわじわと広がってきている。クジラックス氏の例の作品あたりが起点だろうか。
ともあれ、人の性的指向なんて十人十色だから惹かれ合ったりするわけで、一口にロリといっても、それのどこに着目するかは人それぞれなのだ。と書いたら急に口調がアライさんみたいになってしまったのだ。
フェネック、もう終わるのだ。
とにもかくにも「謝らせたくてしかたのない人」のことをこんなふうに呼んでいた…ような記憶がある。
呼称はさておき、「謝罪」をしたがる人、させたがる人、ともに少なくないと感じる。
芸能人や政治家のような公人ならば、わざわざ「謝罪会見を開く」「謝罪文を関係各者に一斉送信する」なんていう大掛かりなことまでやる。
謝罪しようとしまいと、起こってしまったことはほとんどの場合取り返しがつかない。
それでもなんとか…と必死でリカバリーを試みる人もいるが、そのこと自体を評価する声はまず上がらない(たとえ、結果的に修復しきれて何の不利益も残らなかったとしても)。
個人的に、こどもの頃からこのような風潮・風習に違和感を覚えていた。
それゆえに「謝れ!!」と圧力を受け不要不当過剰な叱責やペナルティを強いられた場面も少なくなかったが、それでもなお謝ることの必要性を理解できていない。
それどころか、謝罪すること自体が「白々しい」などとよけいにマイナスに曲解されることもあり、そのことがより一層謝罪することの意義を理解することから遠ざけた。
そしていまだに理解できそうもない。
さらに、謝罪といっても「誰に対する」「何の」謝罪なのかがまったく不明の場合も少なくない。
まさに「とりあえず謝っとけ」状態、その内実よりも謝罪すること自体が自己目的化しているだけで、依然としてその意義は不明のままである。
「謝れば何やってもいいの?」という新たな疑念さえ浮かんでくる。
…などと理屈を並べ立てたところで、仕事上ではお客様などに謝罪の(意を含む)言葉を述べることはもちろんある。
まったく謝る必要などない、無意味な行為だ、などと断じるつもりもない、だが積極的に行おうという想いにも至らない。
ただ、この「謝らせたい」心理を人々の中から取り去ることができたとき、今よりも閉塞感の少ないもっと住みよい世の中になりそうな予感がしてならないのだ。
感想は増田に投稿済みだし、最終考察も投稿をバリバリ編集中なのだけど、
先ほど、ずっと一緒に推理に付き合ってくれていた友人が、《原作の真相》に1つの答えを出してくれた。
私はこの解釈を読んで、江戸川乱歩まじすげぇ人なんだな、と思ったし、
「舞台の感想を聞いて原作を読み返した」という超間接的な位置に居る友人にまで影響を与えたこの舞台まじやべぇな、と思った。
この話は、やれBLだホモだと騒がれているが、こんなにも『人と人との愛の深い部分について書かれている』ことに萌えている感想は、まだ一度も見たことがない。
腐女子の皆さま、乱歩パイセンの名作は、想像を絶する至高のBL小説だったよ……(震え声)
観劇してから120時間。神経衰弱するほど友人と推理を重ねてきて、友人が辿り着いたこの結末に私は本当に感動したので、記念に最後にもう一度観劇しようと決めたのだけど、観劇前に今までのことを日記として残したいと思う。
(友人との推理に使用した部分以外は原作未読をまだ貫いているし、私の主観での希望的観測は友人とは少し違うのだけど、それは最終考察とあわせて観劇後にまとめたい。)
どうせ同じ高いお金を支払って観劇するのなら、楽しめた方が絶対にいい。
私はもう「視点を変えれば、世界が変わる」=「つまんなかったものが最高に面白くなる」という瞬間を短くない観劇人生で知っていたので、本作初見では何か視点を歪められてるような印象にすごくもやもやした。
今思い返すと、色々なテクニック…いや、ヒントが散りばめられていた。
作中の探偵二人が言う「常識ではトリックを見落としてしまう、視点を変えるんだ」というようなセリフが印象に残っていたり(大事なことだから2回言いましたの法則。一度だけならスルーしていた)。
ストーリーテラーがやけに観客の目をガン見してくる→目を見るというのは語りかけてくるということで。しかしその眼差しに乗るメッセージは無く、視点誘導にも思えるのに最終的にストーリーテラーを非難するような印象で終わる。この矛盾。
原作では『簑浦』という名前の主人公が『箕浦』であったり。同一人物に別の名前が与えられ『一人二役』であったり。
いかにも裏がある風で、どうしてもひっかけられてるような感覚があった。
「結局胸糞悪いだけだった」作品も結構観てきたけど、それらは完全に私との解釈違い…美意識というよりもっと恣意的な『美学』の違いで、どうにも受け入れがたいという点からくる胸糞悪さだった。
でも本作では諸戸に感情移入できてしまったし、そもそも異形とは何かみたいな問題提起の要素もあり、そんな乱歩の原作が『美学の押し付け』には絶対にならないという妙な確信があって。私は謎解きに踏み出していた。
推理小説は読まないけど、リアル脱出ゲームとかは好きなんです。
(一晩明けて昨日、一緒に脱出できた経験のある頼れる別の友人が、私の沼りっぷりを気にかけて舞台を観に行ってくれた。そして私が完全に見落としていた最重要ヒントを見つけてきてくれた。優しすぎるし天才すぎる。)
(そう言えば原作解釈の友人も、私にとっては自明の理すぎて結構雑に扱っていたヒントが友人にとっては盲点で、そのヒントがあったからこの解釈に至ったと言ってくれた。嬉しかった。)
(そして、盲点とは必ず存在するし、それは本当に自分には見えないだけで、他人から見たらこうも軽々と見えるものなのだなと、また一つ得難い経験をすることができた。人生って楽しい。)
終演後からすぐ調べ出して、最初のヒントには帰りの電車内でもう出会えていた。検索上位だった。有り難い。
だからそのまま寝ずに感想を書き上げて翌昼増田に投稿したのが初見感想。
なんで増田に上げたかと言うと、これが《私》の感想であると、他の友人知人に知られるのが恥ずかしかったから。お陰で普段以上に壁打ち感ぱなくて孤独だった。それを全部友人との推理にぶつけていた。この五日間付き合ってくれて原作真相にまで辿り着いてくれた友人マジで有り難う。
自分の感想の反応はサッパリだけど、各所に皆さまがどんどん感想を投下されるのでひたすら読み漁っていたのですが、どうにも自分の知りたい解がそこにはないように思えてきて。(感想を拝読させていただいた皆さま、失礼な物言いになってしまいすみません。今回が異例だったのです。通常の演劇作品の感想としてはとても楽しく面白く拝読させていただきました。公開してくださったことを心から感謝しています。これからも是非よろしくお願いいたします。鍵、イクナイ。)
先述の私の盲点にあったヒントを見つけてきてくれた友人との会話でも判明したのですが、私が求めていたのはどうやら『感想』ではなく『印象』だったのです。
感想とは『事象に対峙した発言者の想い』である。対して印象とは『事象に対峙して発言者が捕捉できた部分』である。
私は自分では見えなかった作品のありのままの姿を知りたかったみたいです。
その点では、原作を読んだけど舞台は見ていない友人と、舞台は観たけど原作を読んでいない私の探偵コンビはなかなか良いバランスだったのかも。
お互い違う表現を見ているから感想だけでは語れないけど、小説も舞台も作品の本質が同じなら、印象と事実も一緒に突き合わせることで対話が成立する。
書いていた続きが寝落ちたら消えていたので、ちょいちょい追記していく。