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2023-08-20

老人役割語形成について論文検索してみた

anond:20230819190310

不正確な記憶ブコメ書いた上に、憶測を加えてしまったが、それが違っていたようだ。

Cinii役割語、老人などで出てきた論文にちょうどそのことを論じているものがあったので勉強もかねて増田に書いてみた。

論文1本だけで断言的なことは言えないかもしれないが、参考にはなるんじゃないかと。

老人の役割語形成については金水敏氏の研究があるそうだ。

『「役割語から考える自称詞 「わし」 の方言性と出現時期』黒崎佐仁子 (2011)から孫引きになるが、以下のような理由らしい。

金水(2007)は,「そうじゃ,わしが知っておる」のようなアニメマンガに登場する博士および老人の言葉の特徴を以下のようにまとめている。

⑸ 「A=B」の関係を表すとき標準語では B の後ろに「だ」をつけるが,老人語・博士語で は「じゃ」をつける。また否定を表す表現として,標準語では動詞の後ろに「ない」をつけるが,老人語・博士語では「ん」をつける。さらに,一人称代名詞として,老人語・博士語ではよく「わし(博士語では,さらに「吾輩」)を用いる。(p. 98)

金水(2003:4)は「これらの特徴の対立は,実はそのまま日本東西方言対立に重なる」として,以下のような表を提示している。

博士標準語西日本方言東日本方言
断定~じゃ ~だ ~じゃ、~や ~だ 
打消知らん、知らぬ 知らない 知らん、知らへん 知らない、知らねえ 

※上は増田による抜粋改変版。元論文ではもっと例も多く詳しい。

西日本方言の断定表現として「じゃ」と「や」が挙げられているが,このうち「じゃ」のみが博士語として認識される。この理由は,真田(1990)が述べているように「や」が「じゃ」の変種として新しく生み出されたものであるため,「や」が西日本方言として認知されるより前に「じゃ」が 博士語・老人語として定着したからだと考えられる。

江戸時代言語使用特徴に関しては,佐藤(2002)が分かりやす解説している。

(略)

当時の人々は「上方語的な言い方が伝統的に正しい」(小松 1985:21)という意識を持っていた。そのため,「若年・壮年層の人物が,いち早く江戸の新共通語である東国表現自分たち言葉として駆使していた時点で,老年層は未だ上方語的表現規範的な言葉として手放さなかったというような構図が,江戸においてある程度現実存在した」(金水 2003:26)と考えられ,「明治期に入ると,江戸語の文法を受け継いで新しい〈標準語〉が形成されていく。

ところが文芸作品演劇作品の中では,伝統的に「老人」=上方風の話し方という構図がそのまま受け継がれていく」(金水 2003:27)という過程を経て,アニメマンガ博士語・老人語が確立していったのである

西日本方言のじゃ→やの変化とマンガの成立の時期からして、老人役割語ができたのは大正戦前くらいかな、と想像していたが、どうやらもっと古いらしい。

江戸時代に老人役割語の原型がすでにあったらしいのはびっくりだ。伝統慣性の力の大きさを感じる。

金水敏ヴァーチャル日本役割語の謎』岩波書店 2003

金水敏「第5章 近代日本マンガ言語」『役割語研究の地平』くろしお出版 2007 pp. 97-107

真田真治『研究叢書 84 地域言語社会言語学研究和泉書院 1990

2022-03-17

舞台毒薬と老嬢」を見た(ネタバレ

 もともとが1941年ブロードウェイ演劇作品ニューヨークブルックリン舞台に、冒頭ではヨーロッパ戦争が始まったけどアメリカ平和でいいわねえという、奇しくも時事性が出てしまった感じの会話で幕が開く。1幕目は「ハリーの災難」のような死体隠匿をめぐるお話が中心。2幕目になってからは主に殺人鬼の兄の処遇をめぐるお話……でいいのかなあれは。

 ブラックコメディだの安楽死だのという触れ込みだから、なんかそういう社会派な中身なのかしらと思ったら、どうも本来パルプ・フィクション的なゴシックホラーパロディ作品だったっぽい雰囲気がある。フランケンシュタインアインシュタインコンビかいうどうしようもないダジャレも出てきたりするし。作品タイプとしてはラヴクラフトの「故アーサー・ジャーミンとその家系に関する事実」あたりが近いだろうか。主人公が自らの家族秘密を知ることで、自分も呪われた血族の一員であることを知ってしま絶望するが実は……というあらすじ。アメリカらしいピューリタン的な価値観が色濃く残る社会での実は私生児だったぜヤッホーというオチは「緋文字」とかあのへんのパロディとして見てもだいぶ面白い。というかお前牧師の娘と結婚しようとしてるのに私生児大丈夫か?

 ただまあそのへんのアメリカ文学的な骨組みはコメディとしての演出で追加されたドタバタ劇でうまいことカモフラージュされてる感じがなくもない。まあ、呪われた血族ネタは今となってはクリティカルポリティカルコレクト案件だし、作品賞味期限的にも相当ギリギリな感じもするからね。精神病院収監オチなんて今時バットマンじゃないと許されないのでは(偏見)。

 コメディとして見た場合、流石に古い作品だけあって笑いのテンポのんびりしている感じがあるが、そこはまあ演出俳優の力で追加されたドタバタ劇でだいぶ補強されている。まあ観客の大半はこっちを期待して見に来ているようなものだろうし。自分まさかアメリカゴシックホラー的なものが見られるとは思っていなかった。

 2幕目で劇作家を目指すアルバイト警官がメドレー一人芝居を披露する場面があるのだけれど、これがなかなかに見事。瞼の母から、こいつは春から縁起がいいわえで三人吉三、平手がどうとか言っていたからたぶん天保水滸伝、それとおそらく一本刀土俵入りと続けざま。演じているのはの嘉島典俊という人。ぐぐったら歌舞伎経験大衆演劇経験もある人らしい。新橋演舞場という和風舞台を生かした実にいいものだった。

 「ぼけ酒」というのがキーアイテムとして出てくるのだけれど、飲むとボケるとかそういうのではなくて、梅酒の要領で木瓜の実を漬けた果実酒のことらしい。子供の頃によく飲んでいたというセリフがちょいちょいあって、そういやうちの親も梅酒を水でうすめたやつを昔はみんなジュース代わりに飲んでたと言ってたっけなあと思ったり。

2021-07-22

オリンピック開会式問題

最近テレビ話題といえば、コロナオリンピックかの2択だろう。

そして今日1日においてのオリンピック話題といえば小林賢太郎さんの解任問題だろう。

 

 

私は現在四捨五入すれば20歳の年齢である。彼の1番輝かしかった時代リアルタイムで知ってるわけではないが、私は彼が、ラーメンズが、大好きであるオタクなら誰でも“千葉滋賀佐賀”のネタは辿りつくものだろう。私もそのオタクのうちの1人なのだ出会ってから好きになるのは早かった、ネット動画を探しては見て笑い、気づけば帝王ホテル応援歌を口ずさんだりもした。

彼たちの描くコントという芸術に私は夢中になった。

 

 

のちに大学生になった私はあのネットで見た動画違法ものと知り今さらながら本公演や演劇作品PotsunenDVDを集めている。そのうち戯曲集もほしいなと思っている。

 

 

さて、上記の通り私は彼の作品ファンであるしかし、彼の人間性イマイチ知らない。少しクサイ言い方になるが私は彼の才能に惚れたのだ。だから彼が問題を起こしても何をしても私が惚れた彼の才能というものがなくなるものではない。だからずっと大丈夫なのだと思っていた。

 

彼が芸能界引退して彼の作品を見ることが出来なくなって数ヶ月、オリンピック開会式スタッフに彼の名前が並んでるのを知った。嬉しかった。彼の作品がまた見れる、と。

 

 

 

しかし、どうだ。作曲家は辞任、世間はその作曲家を痛烈に批判した。それ以前にもオリンピック運営側人間には少々問題があったり、コロナ世間混沌としていた。次々に関係者炎上や辞任……いつ彼に炎上聖火リレーが回ってくるのか気が気でなかった。しかし、もう開会式は目の前、今さらディレクターである彼が辞任される訳がないと高を括っていた。

 

 

 

7時21分金曜日午後11時頃、Twitterの某アカウントラーメンズの“できるかな”というコントの切り抜きを上げ、批判した。動画は瞬く間に拡散されそのTwitter投稿された動画は30分ほどで数千回も再生された。

 

 

翌朝起きてTwitterトレンド確認すると彼の話題で埋まっていた。あぁ、彼の名前がこんな形で広がっている………とても悲しい気持ちになった。

 

 

 

ここまで読んでくれは物好きの皆さんに念の為注意書きをしておくと、この文章は彼を擁護するものではない。(これは擁護しないという意ではなく、擁護するのが本題ではないという意味である。)

 

 

当然、彼の発言自体擁護することは出来ない。あのセリフ自体擁護するなら擁護した側のほうが言った側より問題である

しか23年前の、公式YouTubeに上がっている訳でもないコントだ。9分あるコントの2秒もないセリフだ。

 

おそらく以前の作曲家問題がなければ彼のこのような物は出てくることがなかっただろう。なぜこうなったのが。民衆オリンピックに対して大きな不信感があるからだろう。どうにか粗を探して叩く。そういう流れになってしまったのだ。

何かを批判するのは楽しいんだ。自分正義を振りかざして悪を糾弾する。まるで正義ヒーローではないか。だから悪いと思わないし、むしろ気分が良くなる。だから表面だけを見て叩く人や、オオゴトにしてなにか大きな力に圧制されるのを望む人も多く居る。

 

批判する投稿内容には「日本の恥だ」「こんなことが海外に広まったら…」なんて、世界誰にでも見れるSNSで書く輩が居た。

日本人日本人恥部晒しあげて日本の印象を悪くする様子は滑稽でならなかった。

 

 

 

だんだん文章収集がつかなくなってきたので結論へ移るとしよう。

私が何を言いたいのか。他人の揚げ足をとるのはやめにしないか

悪いことを悪いというのはとても大切なことであるしかし、大人数がそれを行うのは大きな危険が伴うということは今までのあなた達の人生ネットで起きた事件などで十分に分かっているはずなのだ表現の自由はあるし、何を思うかは個人自由だ。しかし、その思想が、そして思想に乗った言葉がどのような影響を与えるかは考えるべきなのだ

今回のことでネットSNS世間に物凄い影響を与えることを私たちは学んだ。その上で上手く付き合っていくべきである

 

 

 

 

蛇足だが、彼は過去を悔い改め徐々に笑いの形態を変えて行った。過去は変えられないけれど彼は未来を変える努力をしていたように見える。それがこのような形になってしまったのは残念な限りである

2020-05-05

anond:20200503031555

社会から否定されてるんじゃなくて「社会から否定されている」と「思い込んで」いるだけなんじゃないかな。

否定肯定も、演劇に興味ない人は東京芸術劇場アゴラ劇場、シアタートラム本多劇場の最寄り駅がどこなのかも知らないと思うしね。

私は一時期、社会劇団制作に携わっていたことがあるから、それなりに演劇には理解があるほうだと思ってる

平田オリザ野田秀樹と酒飲んだこともあるよ。自慢めいていてごめんね。

からさ、元増田の言う

演劇業界で生きる人たちは、演劇がないと生きていけない人が少なくない。

それは「演劇がないと仕事がないから食い扶持がない」というだけじゃなく、

演劇でだけ他人に認めてもらえた」「演劇が唯一社会とつながれる手段」という意味で、だ。

演劇がなかったらとっくに人間社会の中で生きていけなくなっていた人や、

とある演劇作品に出会わなければもう死んでいたかもしれないという人だっている。

そんな生きることに不器用な人たちがたくさんいる。

そして自分と同じように演劇出会わないと死んでしまうかもしれない人になんとか演劇を届けようと、

演劇を創り続けていた。

そんな唯一社会とつながれる手段だった演劇が、社会から否定されて社会と繋がる道が絶たれたら、

そういう私たちは、社会で生きていけなくなってしまう。』

同意出来るけれど出来ないな。

今は演劇から遠のいたし、平田野田も俺と酒飲んでくれないけれど、今もしアイツらに話ができるなら、お前らのやることは芝居を作ることだろうと言ってやりたい。

こういう書き方をすると炎上するかもしれないけれど、今起きている事を脚本にするのが、せざるを得ないのが演劇に携わる人間のやることなんじゃないのか?

『劇的』という言葉を私は好きだ。

日常に潜む『劇』をみつけ、光を、あるいは闇を与えることで観客に提示するのが演劇ではないのか。

苦悩や葛藤、認めて欲しい、認められないという自己矛盾ルサンチマン、そうしたものどもを見つめ、あるいは突き放し、時に笑い飛ばし、時に泣き、酒を飲み、溺れ、汚物にまみれながらも本に、脚本にし、芝居を作るのが演劇人ではないのか。

おまえらがやることは、アーカイブにすがることなんかじゃない

今目の前で起きている、おまえが感じていることを本にして、役者をどう集めてどう稽古し、どう発表するかを考える事なんじゃないのか

野田平田も俺にとってみれば雲上人神様みたいな存在だよ。

でもさ「ZOOM劇団」とか「ZOOM東京物語」とか、今だから出来る、今しか出来ない、そうしたひりつくような最先端の、そして自分しか出来ないことを発信しろよ、しつづけろよ

世間が振り向いてくれないとか泣き言いうな、安倍晋三マスク二枚と10しか寄越さない。緊急事態宣言はいつ解除されるかわからない。

河原で沢山の仲間とバーベキューする奴が容認され、山梨帰省してバーベキューしたおねえちゃんがぶっ叩かれるこの「劇的」な今のこの状況を本に、脚本にしないのはなぜだ。

おまえらが「ぬるい」のはそういうとこだから

アーカイブで良いなら「夢の遊眠社」でも見ておくよ。そんでもって「長崎は今日も雨だった」を歌っておくさ。

2020-05-03

野田秀樹平田オリザが許せない人へ

舞台業界の隅っこで生きる者として叫ばせてください。

野田秀樹平田オリザ失言だったと思う。

演劇業界をなんとか社会に認めてもらおうと、

声が大きいものとしてなんとかしようとした結果の発言だったのだろうけど、

からといって別業界貶める必要はなかった。

だけど、いち演劇人の発言の一部によって、演劇業界すべてを否定しないでほしい。

演劇業界で生きる人たちは、演劇がないと生きていけない人が少なくない。

それは「演劇がないと仕事がないから食い扶持がない」というだけじゃなく、

演劇でだけ他人に認めてもらえた」「演劇が唯一社会とつながれる手段」という意味で、だ。

演劇がなかったらとっくに人間社会の中で生きていけなくなっていた人や、

とある演劇作品出会わなければもう死んでいたかもしれないという人だっている。

そんな生きることに不器用な人たちがたくさんいる。

そして自分と同じように演劇出会わないと死んでしまうかもしれない人になんとか演劇を届けようと、

演劇を創り続けていた。

そんな唯一社会とつながれる手段だった演劇が、社会から否定されて社会と繋がる道が絶たれたら、

そういう私たちは、社会で生きていけなくなってしまう。

他のエンタメにも製造業にも飲食業にもパチンコ業界にも、きっとそういう人はいる。

絶対そのことは忘れちゃならない。

野田秀樹平田オリザは「演劇特別扱いしろ」どころか、演劇が認めてもらえてないとわかってる卑屈な気持ちが、

業界と比べる発言に繋がったんじゃないかと思う。

今、いろんな舞台人たちが、劇場に集まれない中でもなんとか社会と繋がれないか、たくさんの人の今のつらさに力になれないか

いろんな手段を試している。

から、どうか、演劇業界社会とつながる道を、断絶しないでください。

そして気が向いたら、いま大量に公開されている舞台映像オンライン配信作品を、のぞいてみてください。

2019-07-21

2013年、「子ども食堂ブーム前夜のある日の出来事

2013年前半のある日。

少しだけ、困難をかかえた子どもに関わっていた私は、豊島区とある一軒家で行われたイベントに招かれた。今の日本で最も有名な「子ども食堂」の会場として、数えきれないほどテレビ新聞で紹介され、エピソード演劇作品となったりもしている一軒家だ。

そのイベントには、後に「子ども食堂」の立役者として知られることになる元内閣府参与がいた。今や「子ども食堂」を代表する存在となった、Kさんという女性もいた。その後、日本一有名な「子ども食堂」の店主として名を知られることとなった男性Yさんもいた。そして台所からは、主婦たちの楽しそうな話し声が聞こえてきた。その地域マクロビ活動で知り合ったという主婦たちだった。Kさんも、その一員だということだった。

食卓には、野菜を中心とした料理の数々が並べられていた。有機無農薬栽培という野菜は、確かに美味しかった。主婦たちが代わる代わる、有機農業ではない農業農薬問題を力説するのは、「はいはい、ご説ごもっとも」と拝聴するしかなかった。日本農業者の平均年齢は何歳なのか。有機無農薬栽培は全国の農業者の現実的選択肢になれるのか。農薬の害を直接受ける農業者たちが、どれほど注意深く農薬を取り扱っているか。そんなことを聞く耳があるとは思えない。相手マクロビだ。

なぜ、茶碗蒸しが卵であってはならないのか。肉に似せてまで肉ではない何かをトンカツ風にしなくてはならないのか。私にはわからない。とはいえマクロビ野菜料理は、確かに美味しい。それは認める。「65℃で2晩寝かせて酵素たっぷり出た」という玄米ご飯も、その説を調味料としていただくのなら、そして毒ではないのなら、異国でネタとして食べる料理の楽しみと同じだ。しかし「65℃で活性を発揮する酵素とは?」という謎が、未だに残っている。

そこにいた主婦たちは、マクロビプライドの元であるようだった。精進料理で肉代わりに車麩使用する場合があることくらい、料理に少し関心がある日本人にとっては常識だと思うのだが、そんなことが「あなた知らないでしょ?」とトクトクと語られるのだった。ご説を拝聴して差し上げようではないか。そこで出会ってそれっきりの相手だろう。

Kさんは、既に試行を始めていた「子ども食堂」計画について語りはじめた。

Kさんによれば、もともと地域マクロビを普及させたい地域主婦たちのサークルがあり、活動を続けているという。もともと中心となっていたのは、現在日本一有名な「子ども食堂」店主として知られるYさんの、亡くなったお連れ合いだった。がん闘病の末に亡くなったお連れ合いは、最後まで一般的ながん治療を受けず、マクロビでの闘病を続け、幸せに亡くなったという。ご本人もご遺族もそれで満足なのなら、それはそれで結構ではないか。それしか言えない。相手マクロビだ。

Kさんによれば、マクロビサークルの誰かがマクロビ普及活動の一環として、地域貧困の子どもに食べさせることを思いついたという。しかし、子どもたちはマクロビを歓迎しない。だから肉も魚も出すことにした。そうしないと、子どもたちは来てくれないから。その時、Kさんは確かにそう語った。

時間が過ぎていった。食卓の上の食べ物は、概ね誰かのお腹に収まったけれども、ウドンサラダけが大量に残っていた。近所の専門のお店(マクロビ専門店か)に数日前に頼んで手打ちしてもらったというウドンは、太さも硬さも均一ではなく、手でひねりながら延ばした感じだった。手でひねって延ばす麺は、世界の各地にある。美味しくて衛生上の問題がないのなら、問題ないだろう。そのウドン問題は、美味しくなかったことだ。ウドンを作った「専門のお店」は、店舗食品を加工して販売する以上、最低限の衛生基準は満たしていたと信じたい。

Kさんは、まだ残っていた来客たちに、そのウドンサラダを持ち帰ってもらうことにしたようだ。スーパー店舗での使用済みのレジ袋が何枚か持って来られた。そしてKさんは、手で、ドレッシングがまみれて下の方は水っぽくなっていたウドン野菜をつかみ、レジ袋に入れて配った。私も、その「お福分け」に与った一人だ。持ち帰り、自宅の冷蔵庫に入れる前に、野菜を除去してウドンだけにし、水で洗い、酢で洗い、焼酎をまぶしておいた。翌日、1食だけ食べてみた。食中毒は起こさなかった。でも、それ以上食べる気になれず、申し訳ないけれども捨てた。あまりにも、美味しくなかったからだ。Kさんの手についていたであろう雑菌が、水や酢や焼酎で殺されずに冷蔵庫の中で繁殖していたら、美味しかったのかもしれない。けれども、マクロビの味見に自分の命をかけたくなかった。

まもなく、「子ども食堂」ブームに火が着いた。

子どもの欠食が改善されることも、地域の子どもたちに大人たちが関心を向けることも、決して悪いことではないだろう。

継続して食事提供するのなら、衛生面での問題はない食材食品の取扱いがされていると期待したい。

あの「子ども食堂」、そしてKさん一派の「子ども食堂」で食中毒が発生したという話は、今のところ耳にしていない。

けれども、日本一有名なあの「子ども食堂」の名を見るたびに、Kさんの名を見るたびに、2013年あの日の会話と、酵素たっぷりという謎の玄米ご飯と、洗いも消毒もしていない使用済みのレジ袋に手づかみでウドンサラダを入れるKさんの手を、どうしても思い出してしまう私がいる。

2019-04-19

2.5次元とそうでない舞台の違い

今日推しは相変わらず2.5次元舞台に出ている。

なんなら、あれから決まった仕事ほとんどが2.5次元作品

結局彼は今や立派な2.5次元俳優だ。

新しく過去を知らない人たちがファンになっていく。

からファンだった仲間たちはどんどん離れていく。

新規を煙たがるわけでもなく、古参だとマウントを取りたいわけでもない。

ただの事実だ。

かくいう私も今はもう本当に彼が好きなのか正直わからない。

でも去年久しぶりに間近で見た推しゲームキャラクターを演じる姿は以前と同じように輝いて見えた。

結局来月もまた懲りもせず、諦められずに劇場へ足を運ぶ。

彼を推してない人生なんて考えられないけど、彼が今目指す先と私が彼に求めているものが大きくすれ違っているのは確か。

それなのに未だに板の上に立つ彼が見たいと思うのは、推し役者としての心はいつまでも変わらないから。

如何なる役も推しにとっては宝だそうだ。

それが本心なのか建前なのかなんてわからないが、そんなことは問題じゃない。

文字で伝える言葉なんていくらでも繕える。

しかデビューから随分経ったが未だスキャンダルの一つも出さず、ここ何年も途切れることな仕事が続いているという事実こそが推し役者としての生き方物語っているのだ。

そういう姿勢と何より彼の芝居が大好きだった。

それならなぜ2.5次元舞台だけをそんなに毛嫌いするのか、というのは元記事に戻る。

https://anond.hatelabo.jp/20180529123607

はいかなるジャンルにおいても二次創作をあまり好まず、一次創作が好きだ。

原作者でない人が脚本を書き演出をする、2.5次元も私の中では二次創作扱いなのだと思う。

そして2.5次元とそうでない舞台には決定的な違いがある。

それはキャラクターだ。

2.5次元には決められたキャラクター像がある。

たとえば”いつも元気でポジティブ笑顔主人公気質”、”曲がったことが許せない性格”、"中流家庭で不自由なく育った"など細かく設定されている場合が多いだろう。

役者はそのキャラクター像に沿って演技をしなければならない。

もちろんそれでも演じる人によって様々な違いが出るのは当たり前なのだし、その違いこそが本当の個性だとも思う。

でも、ドラえもん声優が変わったって同じドラえもん、そういうことだ。

一方一般演劇作品役者に与えられるのは台詞のみ。

台詞を読み掛け合い稽古をして脚本演出意思も混ぜながら一人のキャラクターを作っていく。

推しは以前、同じ台詞同じ役でも初演では大人びていてキザなキャラ、再演では純真無垢な幼さを残したキャラ、という見事に正反対アプローチを見せてくれたことがある。

それこそ真の役者としての見せ所だと思うのだ。

同じ台詞で同じ役でも、いかようにも捉え方があり表現の仕方がある。

それはいつ誰がどこで演じるかによって些細ないから大きな違いまで出てくるのだ。

役者一人ひとりが自分の中に役を取り込み、数ある選択肢の中から自分がその時に思う最善の行動で役を作り上げていく。

相手アプローチが変われば自分アプローチも変わるのか、もしくは変わらないのかもしれない。

そうやって一つの作品になるのが舞台の良さなのではないのか?

推し

私はあなた自身が作り上げた役で生きて輝いてる姿が見たいです。

2017-04-24

岡村俊一騒動から見える人力飛行機ソロモン

2.5次元演劇作品の出来に不満を持つファンが不満の声を上げているようだけど、構図としてはニチアサ特撮番組古参新規ファンとの間で起こっていた諍いと同じ構図に見える。

元々から作品を楽しんでいたファンからすれば不出来に感じたものでも、それを楽しんでいる層が一定数おり、製作サイドからすればそちらを優遇したい。

その判断製作側がしたのだから、仕方がないのだ――

自分観測する範囲だと、当時の新規ファンはそう主張していた。

渦中にいる演出家は、故つかこうへい系譜にある人なんだそうだ。

「元来役者なんて河原者」なんて言い回しを好んだのは唐十郎だったが、つかも同様だった。

お客が望むパフォーマンス第一で、役者人権なんて豚に食わせろ、という狂った部分が見えた。

そのために阿部寛は客席の男性(仕込み俳優)とキスさせられたし、女優は頭で大根をかち割った。

それに別の理屈をつける人もおろうが、自分は「客に受けるためなら何でもやる」だと解釈している。

その意味において、客が喜ばなかったのならば、素直に失敗を認めるべきだ。

演出家自分で言うように、俳優のことを第一に考えているのなら、彼がすべきことは俳優のためにおのれの失敗を認めて、土下座をすることだ。

客に文句を付けるなんてのは、スベった芸人言い訳と何も変わらない。

ただこのような場合、スベったかどうかを判断するのは、いつも製作サイドだ。

演出家は、不満を持っているファンたちが主張するように、問題のある人なのかもしれない。

でもそのうえで製作サイドは彼を必要としたのはなぜか。

それは既存ファンたちの支える力だけでは不足があったからでないのだろうか。

既存ファンを満足させていけば、このまま安泰だ」と製作サイドは思えなかったんだと考えられる。

その判断は間違っていないと、個人的には思う。

顧客を絞って先細りしていったコンテンツは、いちいち例に挙げる必要のないほどたくさんある。

から客層を広げる努力が行われ、そこに不満を持つ人が出てくるのも仕方のないことだと思う。

作品世界観を壊す改変が、失礼な行為だという主張もある。

ただその考え方は諸刃の剣だ。

原作至上主義の人たちからすれば、2.5次元舞台のもの世界観破壊にほかならない。

ドラマ映画化が手放しで喜ばれないのと同様に、メディアミックスは誰もが喜ぶ展開というわけではない。

それらはすべて「推しを人質に取られた」と感じるファンが出る危険性を持っている。

また演出家が「話題性のために世界観を壊してもいいと考えている」と信じるのなら、批判はいっそう注意が必要だと自分は思う。

なぜなら、TLで不満が飛び交っているこの現状が彼が望んだものだとしても不思議はないからだ。

現在言葉でいえば『炎上商法』と呼ぶこの状況だけれど、他の表現も出来る。

かつてそれは街頭劇と呼ばれていたが、それの変化系とも言い換えられそうだ。

つかこうへい以前だが、日本演劇界現実虚構のカベを取ってしまおうと考えた人たちがいた。

例えば街角喧嘩しているカップルがいれば、誰もがそれをちらりと見てしまう。

それを俳優が演じていれば、それは立派に演劇だと言えるんじゃないか、という具合だ。

そう考えた作家名前は、寺山修司という。

街中で堂々と行われたショウは喝采を集め、当時のメインストリームですらあった。

エントリにも入れた人力飛行機ソロモンというのは、彼の街頭演劇代表作の題名だ。

一般人生活狭間で上演された街頭演劇の周囲では、何も知らない一般客に迷惑がかかることもしばしばあった。

突然あらわれた奇天烈な隣人にギョッとさせられれば、それを不快に思うのは当然で、それが問題になるのも仕方のない話だ。

からその芝居をそのままの形で再演することは、どの演劇祭でも不可能になっている。(今では参加者が寺山のお面をかぶるまりになることが多い)

ただその混乱そのもの価値を見出すアングラ感、それに酔いしれる観客の気持ちもとてもよく分かる。


そして電脳世界において、今回の炎上パフォーマンスでない保証はない。

演出家自身が言うように「少人数で炎上が起こせる」のだすれば、騒動自演であると言い切ることも出来なくなる。

演出家はどのタイミングだって釣り宣言をして、「ショウアートでしたプギャー」というカードを切ることが出来る。

本来であれば最終的に客に受けなければ成立しない言い訳ではあるが、アンチがいう通りの身勝手演出家ならばそう主張したっておかしくないだろうし、また「そういう役を演じたんだ」と言うことだって出来る。

演劇的な逃げ道が残されている上に、騒動によって新たに興味を持つ人も出てくるかもしれない。

おそらくそこで入ってくる人は、古参の嫌う『マナーの悪いファン』なんじゃないか想像する。

そしてそういうご新規さんを排除しようとする既存ファンの有り様こそなんとかしたいと、製作側は願っている可能性もある。

もはや古参がどんなにお金を落としていようと、製作サイドからすると客としての旨味はないのかもしれない。製作が観客の新陳代謝を求めているんじゃないか

逆に「どんなことをしても集客に繋げる演出家」の価値が上がったとしても不思議はない。

そういった意味で、ファンとして批判するならもう少し慎重になった方が良いと思う。少なくとも目的地を見据えて行動すべきだ。


と書いておきつつも、自分ファンでないので自由に書かせてもらう。

まず演出家が客に文句を付けるなんてのは論外だと思う。

俳優のことを第一に考えているならなおのこと、客に責任をなすりつけるべきではない。

それは自分自尊心という殻を破れずに消えていった俳優をこれからも増やすことに繋がりかねない、危険思想だ。

つかの舞台自分面白いと思ったのは、いつだってその殻を破った俳優たちがいる作品だった。

逆に変に大物が出演してたりすると、弾けた感じにならず、面白い作品とは思えなかった。

つかこうへい自身演出を行わない「つか作品」が面白く感じられた試しもない。それはつかこうへい劇団においてすらそうだった。

円盤などでつかこうへい演出作品を鑑賞すれば分かるように、彼の作品俳優個性と密着している。そのため文字通り「その俳優しか演じられない役」なのだ

しかも苦労してせっかく作り上げたキャラクターは、演出家の思いつきで日々全く違う形になっていく。

たぶんこの過程俳優自尊心という殻も破られるんだろうと、自分勝手想像している。

だが2.5次元作品の役はそうではない。

元々のキャラクターに近づこうと真摯努力すればするほど、演じる自分自身と離れていく。

それを『かぶりもの』と表現するのは(ことば選びが適切かどうかはさておき)なるほどなぁと思う。

おそらくこの辺のバランスもっとも巧く取ってる演出家の一人が西田シャトナーだ。

つの舞台の中で俳優モブなど別の人格が与えられ、ある程度自由にそれを演じさせる。

演じたキャラ以外の部分も観客に見せられるため、俳優個性担保されて、俳優と観客にそれが共有される。

24時間ぶりっこし続けられる女子がいないように、俳優にも自由になる時間必要なのだ


さて話題がそれたが、本題に戻そう。

演出家がああも自信たっぷりに「自分役者たちの将来のことまで考えている」といっている以上、製作サイドも「観客はそうじゃないだろうな」と思っていると認識してもいいんじゃないかと思う。

自分制作者たちがどれほど努力しても興味を失えば去る観客はゲスだと思うし、でもそれで構わないんじゃないかと思う。

たとえそうじゃないとファンが主張しても、その声を真摯に受け止めてもらえる状況ではないだろう。

騒動がその状況をふまえた上で演出家自覚的燃え上がっている可能性は捨てられず、問題が大きくなればなるほど、彼の求心力は高くなる可能性もある。



じゃぁいったいどうすればいいのか?

それは一人一人が「製作者たちにとって『良いお客』ってどんなだろう?」と考えて、それに近づいていくよう努力する以外にないと思う。

本来であれば、製作者たちが客の望むもの提供するのが道理だ。

だけど真のファンであれば、その力関係あべこべになることに不思議がることもないだろう。

どうしても受け入れられないなら観に行かないという選択をすべきだし、それも出来ないのなら自分たち上演権を手に入れるほかない。

同人誌を描きはじめる動機の一つとして「自分の望むものを書いてくれる人が、誰もいなかったから」というのもある。

それもまた一つの『良いお客』の形だと思う。

それぞれのファンが持つ原作への愛情の深さを疑うつもりは全くない。そしてその愛情に応えて貰えなかった落胆の大きさも、想像するにあまりある。

しかしその不満を演出家炎上させるかたちで表すことが、真のファンがすべきことなのかどうか。そこについてはもう少し考える余地があると思う。









などつらつら書いてきたが、もちろんこの文章演出家本人によって書かれたものでないという保証もない。

炎上を含めた一連のやりとりの中で、プロレスが行われているだけと考える人もいるだろう。


隣にいる人はその役を演じている俳優に過ぎず、自分が生きている世界は誰かが用意した箱庭なのかもしれない。

そうした疑念の風を受けて、SNS飛行機ソロモンゆっくりと空に舞い上がっていく。

2017-02-11

江戸川乱歩 原作 舞台「孤島の鬼」をめぐる120時間

先週日曜、舞台を観てきた。江戸川乱歩原作の「孤島の鬼」。

感想増田投稿済みだし、最終考察投稿バリバリ編集なのだけど、

先ほど、ずっと一緒に推理に付き合ってくれていた友人が、《原作真相》に1つの答えを出してくれた。

「孤島の鬼」原作に対する現在の私の解釈について

※閲覧にはTwitter連携必要ですが、誰でも読めます

私はこの解釈を読んで、江戸川乱歩まじすげぇ人なんだな、と思ったし、

舞台感想を聞いて原作を読み返した」という超間接的な位置に居る友人にまで影響を与えたこの舞台まじやべぇな、と思った。

この話は、やれBLホモだと騒がれているが、こんなにも『人と人との愛の深い部分について書かれている』ことに萌えている感想は、まだ一度も見たことがない。

腐女子の皆さま、乱歩パイセンの名作は、想像を絶する至高のBL小説だったよ……(震え声)

次の新刊ネタにできるよ……

観劇してから120時間神経衰弱するほど友人と推理を重ねてきて、友人が辿り着いたこの結末に私は本当に感動したので、記念に最後にもう一度観劇しようと決めたのだけど、観劇前に今までのことを日記として残したいと思う。

(友人との推理使用した部分以外は原作未読をまだ貫いているし、私の主観での希望的観測は友人とは少し違うのだけど、それは最終考察とあわせて観劇後にまとめたい。)

どうせ同じ高いお金を支払って観劇するのなら、楽しめた方が絶対にいい。

私はもう「視点を変えれば、世界が変わる」=「つまんなかったものが最高に面白くなる」という瞬間を短くない観劇人生で知っていたので、本作初見では何か視点を歪められてるような印象にすごくもやもやした。

今思い返すと、色々なテクニック…いや、ヒントが散りばめられていた。

作中の探偵二人が言う「常識ではトリックを見落としてしまう、視点を変えるんだ」というようなセリフが印象に残っていたり(大事なことだから2回言いましたの法則。一度だけならスルーしていた)。

ストーリーテラーがやけに観客の目をガン見してくる→目を見るというのは語りかけてくるということで。しかしその眼差しに乗るメッセージは無く、視点誘導にも思えるのに最終的にストーリーテラー非難するような印象で終わる。この矛盾

原作では『簑浦』という名前主人公が『箕浦』であったり。同一人物に別の名前が与えられ『一人二役』であったり。

いかにも裏がある風で、どうしてもひっかけられてるような感覚があった。

「結局胸糞悪いだけだった」作品結構観てきたけど、それらは完全に私との解釈違い…美意識というよりもっと恣意的な『美学』の違いで、どうにも受け入れがたいという点からくる胸糞悪さだった。

でも本作では諸戸に感情移入できてしまったし、そもそも異形とは何かみたいな問題提起の要素もあり、そんな乱歩原作が『美学押し付け』には絶対にならないという妙な確信があって。私は謎解きに踏み出していた。

推理小説は読まないけど、リアル脱出ゲームとかは好きなんです。

(一晩明けて昨日、一緒に脱出できた経験のある頼れる別の友人が、私の沼りっぷりを気にかけて舞台を観に行ってくれた。そして私が完全に見落としていた最重要ヒントを見つけてきてくれた。優しすぎるし天才すぎる。)

(そう言えば原作解釈の友人も、私にとっては自明の理すぎて結構雑に扱っていたヒントが友人にとっては盲点で、そのヒントがあったからこの解釈に至ったと言ってくれた。嬉しかった。)

(そして、盲点とは必ず存在するし、それは本当に自分には見えないだけで、他人からたらこうも軽々と見えるものなのだなと、また一つ得難い経験をすることができた。人生って楽しい。)

終演後からすぐ調べ出して、最初のヒントには帰りの電車内でもう出会えていた。検索上位だった。有り難い。

からそのまま寝ずに感想を書き上げて翌昼増田投稿したのが初見感想

なんで増田に上げたかと言うと、これが《私》の感想であると、他の友人知人に知られるのが恥ずかしかたから。お陰で普段以上に壁打ち感ぱなくて孤独だった。それを全部友人との推理にぶつけていた。この五日間付き合ってくれて原作真相にまで辿り着いてくれた友人マジで有り難う。

自分感想の反応はサッパリだけど、各所に皆さまがどんどん感想を投下されるのでひたすら読み漁っていたのですが、どうにも自分の知りたい解がそこにはないように思えてきて。(感想拝読させていただいた皆さま、失礼な物言いになってしますみません。今回が異例だったのです。通常の演劇作品感想としてはとても楽しく面白拝読させていただきました。公開してくださったことを心から感謝しています。これからも是非よろしくお願いいたします。鍵、イクナイ。)

先述の私の盲点にあったヒントを見つけてきてくれた友人との会話でも判明したのですが、私が求めていたのはどうやら『感想』ではなく『印象』だったのです。

感想とは『事象対峙した発言者の想い』である。対して印象とは『事象対峙して発言者が捕捉できた部分』である

私は自分では見えなかった作品ありのままの姿を知りたかったみたいです。

その点では、原作を読んだけど舞台は見ていない友人と、舞台は観たけど原作を読んでいない私の探偵コンビはなかなか良いバランスだったのかも。

お互い違う表現を見ているか感想だけでは語れないけど、小説舞台作品本質が同じなら、印象と事実も一緒に突き合わせることで対話が成立する。

書いていた続きが寝落ちたら消えていたので、ちょいちょい追記していく。

2016-02-02

おすすめ時代劇アニメ

刀語

物語シリーズで有名な西尾維新原作を、シュタインズゲートなどで知られるWHITE FOXアニメ化

刀を使わない剣術、「虚刀流」の七代目当主である鑢七花が、幕府の命を受けた奇策士とがめと共に12本の「変体刀」を集める旅に出るというストーリー

最初の放映された時は月に一回というアニメ史上でも珍しい放送形態だった。

それだけ時間をかけていることもあってか激しいアクションハードシナリオも丁寧な作り。

個性豊かな変体刀とその所有者や、愛すべき噛ませ役の真庭忍軍などのキャラクターも魅力的。

和柄のような画面も鮮やかで美しい。

個人的西尾維新ライトノベルはあまり好きではないが、これは楽しく見れたので、そういう人にもおすすめしたい。

大江戸ロケット

原作劇団☆新感線による日本演劇作品。作はアニメではグレンラガンシリーズ構成などで知られる中島かずき

アニメ制作マッドハウスで、監督ハガレン一期やガンダム00水島清二。

タイトル下町ロケットに似ているが全く関係はない。

しか圧政の中でも大きな夢を見る力強い庶民人情物語であり、そういう意味では通ずるところもあるかも。

江戸時代天保の改革によって質素倹約を強いられる中、もう一度でっかい花火をあげることを夢見る花火職人玉屋清吉が、

宇宙からやってきた謎の少女ソラに依頼され長屋の仲間と協力して月まで届くロケットを作る……という物語

基本的コメディなノリで、江戸時代にはあり得ないような物や、パロディメタネタも多々登場するが、江戸生活の細かいところは妙に忠実な描写がでてきたりする。

みなもと太郎椎名高志竹田団吾などが手がけた、大分絵柄の違うキャラクターが一同に画面に登場するのも面白い

サムライチャンプルー

昨年倒産したマングローブ制作オリジナルアニメ監督カウボーイビバップなどの渡辺信一郎

向日葵匂いのする侍を探すフウが、粗暴な琉球出身剣士ムゲンと、クールで謎多き流浪剣士ジンと共に、その侍を探す旅に出る話。

舞台江戸時代だが若者言葉ヒップホップカルチャーが「チャンプルー(混ぜこぜ)」になった独特の世界観

基本的に一話完結で、余韻の残るほろ苦いストーリーが魅力。一方大麻回や野球回などのバカバカしい話も面白い

刀語もそうだが、時代劇であると共にロードムービー的な面白さもある。

劇場版アニメ 忍たま乱太郎 忍術学園 全員出動!の段

言わずと知れた忍たま劇場版監督は「おまえうまそうだな」や「トライブクルクル」の監督であり、アニメーターとしても有名な藤森雅也

おなじみ忍術学園の面々が、戦に挟まれ危機に瀕する村を助けると言うあらすじ。

おなじみと書いたが自分忍たまを見ていた頃より大分キャラが増えており、大半は知らない連中だったが、関係なく楽しく見れた。

子供向けアニメ時代劇映画の名作と言えばクレヨンしんちゃんのアッパレ! 戦国合戦があるが、戦の描写はあれに迫るリアリティがある。

特に戦の背後にある政治情報戦描写忍者の名に恥じないガチっぷりである

ふわっとした正義や愛でなく、生活権利を守る為の戦であったり、乱太郎集団の中で自分役割を見つける物語であったり、お子の情操教育にもよろしいのではなかろうか。

アニメーションもキマったレイアウトに滑らかな作画で見応え充分。森の中での戦闘シーンは必見。

 
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