はてなキーワード: イムズとは
解消したいと願うときに、その本人はじゃあ自分の好みとは違う人をパートナーとして選ぶべきなんだろうか?
「男性至上主義は許せません。それとは別に私この年収三千万強権社長ムキムキ男根マンが好きです」とか
「人は見た目じゃない。美醜で人生が決まるとかあってはいけない。それはそれとしてこの人めちゃめちゃ美人で
周りにも自慢できるから好き」というのは、ありなのかな、なしなのかな。
実際こういう風に口には出さないけど、多かれ少なかれこういう傾向はどうしても多くの人に出てきちゃうよね。
でも、差別とか社会の傾向って、個々人のちょっとした性向とか嗜好とかと相関してるもんだと思うから、
「個人の気持ちはそういうもんだから仕方ない」だけで済ませちゃっていいものなのかなとか。
こないだマッチングアプリであった人、とてもかわいそうだしパートナー的な人がいないと生活もきついんだろうな、
という感じだったんだけど、どうしても性愛につながるものが自分的に見出せなくてお断りして、なんか、
つらい。
労働生産性によって賃金や採用を決めるのに正当性があるとか笑うしかない。そういう資本主義的マッチョイムズでアメリカがどうなってるか知らないのかよ。ウォールストリートでデモが連日起きてアメリカの人口の1%が90%の富を持っているってそれでいいのか労働生産性を正義だと思ってるリバタリアンどもは。
完全に自由に資本主義が流れたら格差が莫大に広がって社会不安がつのり貧困者が増えて最大少数の最大幸福になるけどそれでいいの?喫煙者の生産性wwwて言ってるリバタリアンは。
しかもいま社会で流通してる生産性って人間の生産性じゃなくてプログラムの生産性のほう。Googleやfacebook、yahooが生産性が高いって言われてるのは人間じゃなくて機械を働かせてるから生産性が高いわけで人間の生産性を論じている時点でもう、笑うしかないでしょ。現実に起きているのは職種別の生産性であってそこに抗するのが社会や公的理念のある企業、政府のあるべき姿だろ。
先端的な取り組みだとか言って昭和的労働観(人間の生産性)を持ち出して正当性があるとか考えてる現実が見えていない無能経営者はもう笑うしかないwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
単純にこれは、男性女性の問題でなく作品の解釈の取違いというだけでないだろうかというのが私の主張である。
いやアナ雪見てないんだけどさ。
というかヤバミ漂う3人を「男」としてとらえた記事を書いておきながら、女性専用車両等のジェンダー問題において述べられる男性性が「男」のすべてを述べているわけでない、というのはちょっとどうなのか。つーか、規範化だとかそういうの、ちょっと男性に適用されないのかなとか思っちゃう。被害性がそうであるように加害性も規範化されうるものだと思うけど。
ちなみに、男性には加害性が含まれるという前提で書かれた記事やブコメは存在する。ググれば出てくるでしょ?実は嫌われ者のはてこがそれに反駁する記事を書いていたりするのを私は知っているんだ、ググったから。
さてまあ、記事中の重箱の隅をつつくのはマナー違反として、そこにさらに他人の解釈にケチをつけるという逸脱を重ねるのもあれだが、私なりのアナ雪の解釈を述べたいと思う。いや、見ていないんだけど。
アナ雪の特徴として、前半で提示された聞こえのいいことが、どんどんと覆され、結局、前提とされていたコアな部分。つまり、例えば女性が女性を肯定し、女性性を肯定する関係性についてや、好きなものに従事するということが肯定されるという仕組みを持っている。
例えば、えーっとハンスだっけ?あれは悪者なんでしょ、あいつが。それで、アナだよね?茶髪のほう。あれと共通点を歌う曲があるわけだけど、あれは、恋愛工学者だったりナンパ野郎だったりが使う手法だよね。聞こえはいいんだ。歌詞を考えると、うわー胡散臭いってなるけど、それを補う程度に曲が明るくていいんだ。そして同時に、でも、やっぱり胡散臭いよねってわかるような塩梅になっている。
この曲は構成上、ありのままの奴よりも先に流れるんだと思うんだけど、なぜかっていうと、ありのままのの曲も同じように『聞こえがいい曲』だからだ。
ありのままのをうたったエルザは、その時点において問題役を引き受けている。それは、エルザが最初に引きこもっていたときと同じ。問題役というのが自分の本質ならば、ありのままでいようというのがあの歌の内容であり、これは作品世界で常に否定され続ける考え方である。
しかしながら、なぜかこの映画は、その“ありのまま”という部分だけが評価され続けていて、それってつまり、ディズニーが用意した聞こえの良い胡散臭い歌に対して共鳴し、その先について考えないという態度に思えてくるのだが、これに文句を言い続けてもしかたがない。
そして、くだんの問題である。この映画は何を悪とし、何を問題とし、何を解決法とするか。
よくある、というか件の3人と元増田はそうと解釈しているのだが、悪はハンスのような態度であり、問題はエルザを閉じ込める機構であり、解決法はそのドアを開けることである、というものである。これは間違っている。
また、ハンスのような人物が否定されるのを今更議論するのもどうなのよ、と思ってしまう。それって美女と野獣で語られたことじゃない?というかディズニーには定期的にそういった悪役が登場する。つまりマッチョイムズ全開の男で悪役で、しかし、根っからの悪役とは言えない奴のこと。それは男女に依存しない。実のところ、そうやって物語を重層的にするのは、一般的な脚本の手法であるのだが、この映画はどうも“ディズニー映画の中でも特にフェミニズム”を意識した映画なので、彼は悪役である、という、まあそうだろうな、というところばかりに着目される。
そうなると、この映画の問題点とされている部分が浮かび上がってくる。それはつまり、否定されたハンスに対してクリストフは肯定されていないんじゃないか。これが、くだんの3人の胡散臭いゴミが語った内容と思われる。読んでないけど。で、元増田もそういった役割は終わりと書いている。前半しか読んでないけど。
ここにすれ違いがある。そもそも、この映画はフェミニズム的な要素があるものの、それは経済的な事情により付随したものであり、この映画が語ったのは別の問題なのではないだろうか。
加害性といわれるような力を持つ存在が、その力の使い方が下手だったりわからなかったり、あるいは、そういう加害性こそが素晴らしいという世界に育った人間の力の使い方についてこそが問題というのが私の解釈だ。ハンスもエルザも悪役や、問題にとらわれた存在でなく、彼らの力の使い道が問題なのだ。問題の持ち主が、悪役、というわけでないのに死ぬ映画は、割とよくある。純粋悪であることがすがすがしいといわれるほどありふれたテーマだ。にも拘わらず、この映画については特別にハンスのような態度が悪であると曲解される。それは結局のところ男性性は悪である。性に奔放であったり、あるいは、性を利用して利益を得ようとすることは悪であるという聞こえの良い言葉に騙されているからにすぎない。この映画でハンスが死んだのは紛れもない、私たちは女性をエンカレッジするという意思表明でしかなく。実際の映画の内容としては、女性と男性、問題と解決、というマトリクスに適用された結果なのだ。ちなみにハンスが死んでなかった場合は劇中にて改心して去ったか、あるいは改心することなく物語を終えるの2パターン考えることができるが、結局のところ死んだも同じなので議論しない。
さて、問題なのはクリストフである。この映画の最大の欠点であり、もっともセクシーなキャラクターである。ちょっと想像してほしい。例えば、あなたの知り合いが、仮に自分に興味のないことだとしても、目を輝かせて熱く語ったら、それはキュンとするだろう。私はする。しかしながら、彼は劇中で、どうも評価されないようである。それは元増田や、例のno.1、no.2に続く子供言葉として使われていくであろうno.3の三人組の共通の解釈だ。これはとても、大きく間違っているし、製作者もそれくらい誤解されることを意識しとけよな、という感じ。彼は、そのままでいいという態度が終盤で評価されているわけでない。彼は作中で延々と評価され続けている。ただ勇気ある行動の称賛として―おそらく、彼の価値観のなかでうれしい出来事が起こるのだろうが―彼にうれしいことが起こるのだ。
この延々と評価され続けることこそが、何が正しいのかを不明慮にさせるという点で、あってはならないことなのだが、アナ雪では、女性をエンカレッジするために、男性がないがしろにされてしまったのだ。その点では、解釈は違えども、あのくそ雑魚3人に同意する。
つまり、女性と女性の問題解決は成立したにもかかわらず、男性と男性の問題解決は提示こそされたものの成立しなかった。こんなもん当然誤解を生むだろうに、ディズニーは気づけなかった。愚かさ若しくは経済的な理由でだ。
クリストフはとても魅力的なキャラクターで、彼にその気があればお付き合いしたいくらいだ。抱き心地もよさそうだし、なによりあったかそうだ。彼の目は車について語る硬派なヤンキー張りにキラキラしていて魅力的だ。いやーときめいちゃうよね。
だけれども、そういった輝きを作中で表現できていただろうか。おそらくできていない。彼はこの物語で元増田にさえ“脇役”としか見られていない。それは、彼がハンスを救えなかったということにつきるのではないだろうか。
この物語では、問題点こそあるものの悪そのものは存在しない。救えるという物語であるのに、彼はハンスを救えなかった。この物語の文脈上、彼は悪役か脇役にしかなれないのだ。彼の輝きは、彼を悪役でなく脇役として持ち上げる程度にしか役立たず、決して主役に持ち上げることはなかった。決定的な欠陥である。
ただし、それはクリストフを悪役に貶めようとしたわけではない、ということを最後に語りたい。例えば、パトレイバーの重さんや、ノアはオタクでそれぞれ男女であるが魅力的なキャラクターに仕上がっているし、重さんを脇役と思いこそすれ、クリストフと同じような悪役にならずに済んだ脇役と解釈するものはいないだろう。それはパトレイバーがお仕事物で、お仕事に熱中するものを肯定する前提があるからだ。なんにしてもオタクは素晴らしい。熱中は熱とともに光を発する。だから、クリストフはそう描かれ続けたことによって、制作者は“肯定した”と思い込んだし、実際、否定されているわけではないので、客観的に見ればそう解釈することは可能なのだ。
とはいえ、男目線からみれば、当然、男らしい提示された男は死に、男らしさのない自分もその陰となる男らしい自分を救えないという絶望的な内容で、アナ雪は男女に切り分けると当然残酷な物語になる。
ちなみにスコットピルグリムの漫画ではこれをかなり直接的な内容で描いていてとてもよい。
さて、まとめるとディズニーの失敗は3点で、
1.男女それぞれに、問題役と解決薬を用意した(安直な解決法による分断をしてしまった)
3.男女それぞれの問題役、解決役の最後をゆがませてしまった。
というあたりだろう。もろちん、ちゃんと観てみれば問題点をより精査できるのであろうが、観ると胃袋がもたれそうなのでこれが限界である。
ともかく、女性が女性を救うだとか、男性が男性を救う、というのは、ある程度の不都合を棚に上げ団結しやすいから、でそれ以上の意味はない。当然、女性が女性らしさを捨てるだとか、男性が男性をすてるだとかも同じようで、都合がいいだけなのだ。どうも元増田はTEDのあれのリンクをはっているが、あれだって、利益があるという、不都合を棚に上げた、聞こえの良い話だ。仕事を休みたいときに休んだり、ちょっと将来に心配な貯金額で仕事をやめ畑にいそしむものを落伍者というように、われわれは、本来の望み通りに動いているものを評価することができない。むしろ否定したりする。男性被害者のことを考えず痴漢をしない男性をも犯罪者として疑う機構の女性専用車両だってそうだ。痴漢でなくとも、例えば、優先席に座らない健常者をどう思うだろうか。普通?当たり前?当然?別に評価する必要はない?
我々はわかりやすさに支配されている。優先席に座らず立つ人間より、優先席に座っていたが譲る人間を評価する。そうであるより、そうなるほうを評価しがちだ。
ただし、私としてはそういった都合の良い傾向を否定したい、というわけではない。
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高校教育のアイデンティティー―総合制と学校づくりの課題 (「教育」別冊 (9)) 小島 昌夫
☆名作はこのように始まる〈1〉 (ミネルヴァ評論叢書・文学の在り処) 千葉 一幹
グラミンフォンという奇跡 「つながり」から始まるグローバル経済の大転換 [DIPシリーズ] ニコラス サリバン
☆天涯の武士―幕臣小栗上野介 (1之巻) (SPコミックス―時代劇画) 木村 直巳
ぐいぐいジョーはもういない (講談社BOX) 樺 薫
LEAN IN(リーン・イン) 女性、仕事、リーダーへの意欲 シェリル・サンドバーグ
鬼畜のススメ―世の中を下品のどん底に叩き堕とせ!! 村崎 百郎
男性論 ECCE HOMO (文春新書 934) ヤマザキ マリ
なんか見かけたので自分用も兼ねて訳してみた。良作映画と同時に良作小説も摂取できるすばらしいリストです。
ちなみに意訳多いので「許す」と「赦す」を正しく使い分けたい向きは原文にあたってください。あと個人的には『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』も結構楽しみにしてます。
元記事:
http://litreactor.com/columns/5-most-anticipated-book-adaptations-of-2015
毎年この時期になると、「今年期待できそうな新作映画のリスト」が各所でアップされますよね。そういうリストに載せられた作品のうち何本かは、小説本から脚色作品です。ところが、彼らが取り上げるのはなぜか『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』ばかり。アホか。誰がンなもん楽しみにしとるねん。というわけで、ここにあなたが本気で楽しみにできる小説原作作品のリストを用意してみました。
去年『アイ、フランケンシュタイン』観た人はわかると思いますが、まあフランケンシュタインものってどうしても現代の視聴者のお口にはバッド・テイストすぎますよね。しかしですよ、『クロニクル』の脚本家であるマックス・ランディスが脚色を担当した本作は、いい意味で予想を裏切ってくれるんではないのでしょうか。本作はフランケンシュタイン博士の助手であるイゴールの視点から、彼とまだ若き医学生だったころのヴィクター・フォン・フランケンシュタイン博士との馴れ初めを描いた、メアリー・シェリーの原作の前日譚的ストーリーです。
フランケンシュタイン博士を演じるのは『shameless/シェイムレス』、『X-Men:ファースト・ジェネレーション』のジェイムズ・マカヴォイ。イゴール役には『ハリー・ポッター』のダニエル・ラドクリフ。映画の公開は十月二日予定となっております。
訳者の雑感: せむしの助手イゴールは原作には登場しない人物で、出典はボリス・カーロフ主演の『フランケンシュタインの復活』(1939)です。この時点で「本が原作」と言い張るのはどうなのかな。そもそも学生時代のフランケンシュタイン博士が題材ってどこに需要あるんだって思われそうですけど、なにせ『キル・ユア・ダーリン』のラドクリフと『X-MEN: FC』のマカヴォイですからね、濃厚なBLが期待できそうです。脚本家も『クロニクル』の人だし、なおさら……ねえ?
ちなみに、監督のマクギガンは『PUSH 光と闇の冒険』などいくつか映画も監督していますが、日本で有名なのはなんといってもドラマ『SHERLOCK』の「ベルグレービアの醜聞」と「バスカヴィルの犬」でしょう。
日本ではなぜかDVDスル―になりがちなマカヴォイ&ラドクリフコンビですが、今作はどーなるでしょうか。やっても単館系かな。
去年は『ゴーン・ガール』がやってくれました。いいことに本作の原作はですね、その『ゴーン・ガール』より面白いんですよ。良い映画にならないはずがない。原作者のギリアン・フリンはいまや犯罪小説界のトップランナー、映画化にもひっぱりだこです。『ゴーン・ガール』のファンは『冥闇』もきっと大好きになることでしょう。なぜなら、『ゴーン・ガール』よりイカれたお話だから。
これは子供のころに両親を殺されたある女性のお話です。彼女は自らの証言で実の兄を監獄送りにした過去を持っているんですね。で、それから二十五年が経って、「キルクラブ」と名乗る殺人狂同好会の助けを借りて、事件の真相を探ろうとします。
公開時期は未定ですが、二〇一五年のどこかにはなるはず。出演はシャーリーズ・セロン、クリスティーナ・ヘンドリクス、ニコラス・ホルト、クロエ・グレース・モレッツです。
訳者の雑感:原作の『冥闇』(小学館文庫)は、個人的には『ゴーン・ガール』には及ばないものの、上に書かれているとおり傑作ミステリです。いわゆるイヤミスです。捕捉しておくと、主人公がなんで「キルクラブ」の連中と絡むようになるかといえば、過去の事件によって人生を破壊された彼女が日々の生活費を得るために家族の遺品や体験談なんかを好事家に「切り売り」しているからです。そうです、クズ野郎です。『ヤング=アダルト』でいかんなくクズ女っぷりを発揮したシャーリーズ・セロンにはまさに適役なんじゃないでしょうか。
フランス資本で規模的は大作と言いづらいでしょうが、出演陣がかなり豪華なのでフツーに日本でも公開されそうです。
実質去年公開作なんですけど、ズルしてもぐりこませてみました。だって、映画祭でしか上映されてなくて、筆者はまだ観てないんだもん。っていうか、ほとんど誰も観てないし。原作は記憶喪失の化学者を題材にしたクレイグ・クレヴェンジャーのカルト小説です。
出演は『ヴァンパイア・ダイアリーズ』のジョセフ・モーガン、『Justified 俺の正義』のウォルトン・ゴギンズ、『ヘルボーイ』や『パシフィック・リム』のロン・パールマン。
まだ公開時期は公式にアナウンスされていませんが、推測するに、今年中には拝めるんじゃないでしょうか。っていうか、そうじゃなかったらキレる。
訳者の雑感: 未訳作品な上に原作者自体が数年前に一作ちょこっと訳されてそのままなカルト作家なんで、どうにも前情報がない。ある朝、記憶喪失の化学者が麻薬密造に関わった容疑で監獄にぶちこまれたと思ったらこれまた唐突に解放され、失われた記憶と失踪したガールフレンドを求めて彷徨う話らしいです。元記事に引用されてる画像がいかにもいつものロン・パールマンってふてぶてしさで好印象ですね。http://litreactor.com/sites/default/files/imagecache/header/images/column/headers/487195087_640.jpg
ロス・クラーク監督はドキュメンタリー中心に撮ってきた人で、本作が劇映画初監督。トレイラーをみるかぎり、なかなかシャープな画作りしてます。日本では公開されるかなあ……ロン・パールマン効果でDVDスルはギリギリ保証されそうではありますが。
J.G. バラードは難儀な小説家だ。『ハイ-ライズ』はおそらく彼の最高傑作でしょう。ちょっと前にこの小説が映画化されるって聞いて、マジビビりましたね。原作を読んだことのない人たちに説明しておくとですね、タイトルにもなってるハイ-ライズとは超豪華高層マンションの名前で、その内部では文字通り階層によって分断された住民たちによる血で血を洗う階級闘争が勃発しています。高層マンション版『蝿の王』みたいなもんです。とってもバイオレントでとってもクレイジーで、とってもワンダフル。映画もおんなじくらいクレイジーであってほしいですね。
主演は『アベンジャーズ』、『マイティ・ソー』でお馴染みトム・ヒドルストンと、『バットマン vs スーパーマン』でバットマンの執事役が決まっているジェレミー・アイアンズ。公開日の九月十七日をお楽しみに。
編集者のコメント: !!!!! ベン・ウィートリー監督作じゃん!!!! よっしゃあああああああああ!!!!!!
訳者雑感: ベン・ウィートリーは第二のデヴィッド・クローネンバーグの座を狙っているんでしょうか。せいぜいブランドン・クローネンバーグと争ってほしいものです。他に誰もそんなポジション欲しがらないでしょうけど、がんばれ、応援してるぞ。
ともかく、『キルリスト』や『サイトシアーズ』で日本でも熱狂的なファンを生み出した「奇妙系スリラー界の風雲児」ベン・ウィートリーが、あのバラードの、あの『ハイ-ライズ』を映画化する、これは期待しないわけにはいきませんよね。原作はおなじみハヤカワ文庫SFからですが、当然のごとく絶版なので、なんとか日本でも映画を劇場公開までもってって復刊の一助となっていただきたいものです。DVDスルー(『キルリスト』)→アートシアター系公開(『サイトシアーズ』)と順調? にステップアップしているので芽はありそう。
アンディ・ウィアーの『火星の人』は、二〇一四年に筆者が読んだ本のなかでもマイベストな一冊です。クソみてえな『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』の記事を山ほど読んで損した時間の埋め合わせに、ちょっとこの映画化作品について調べてみましょう。ちなみに私は先月作った「今年のマイベストリスト」にも『火星の人』を選出しております。
概要はこうです。ある宇宙飛行士が火星で一人、遭難します。もしかすると、そこから永久に脱出できそうにないかもしれない。彼は生き延びるために「科学」と呼ばれるふしぎな力を行使することを強いられます。自らの命をかけて惑星に戦いを挑む男と、全力で彼をぶち殺しにくる惑星との、知的で、ユーモアに溢れたアツいバトルがはじまる!!!
映画はリドリー・スコットが監督予定で、主人公のマークを演じるのはマット・デイモン。十一月二十五日公開予定です。
訳者の雑感: 原作の『火星の人』はハヤカワ文庫SFから絶賛発売中。「ライトなハードSF」と称される軽妙な作風も相まってか、最近のSFにしてはめずらしく幅広い層から広範な支持を集めています。今年の「SFが読みたい!」のランキングでも票を集めるんじゃないんでしょうか。いっぽうで監督のリドスコは『悪の法則』、『エクソダス:神と王』と近作がこのところ立て続けに興行・批評両面で失敗してやや低調。『ブレードランナー』の続編を作ると宣言して即監督を降りたりと何かとケチがついてますが、『プロメテウス』以来のSF回帰作は吉と出るか凶と出るか。日本ではおそらく二〇一六年公開でしょうね。
さて、以上が私が最も期待している今年の小説原作映画作品です。ほんとは他にももっとあることはあるんでしょうが……でもまあぶっちゃけゴミばっかなんで語ったところで意味ないでしょう。上にあげた五作品は「すくなく見積もっても傑作になりそうなチャンスはある」作品です。とりわけ『ダーマフォリア』は僕達を導く希望の光なんで、今年公開してくれないと困る。
ところで、リストにあげた五作品の原作小説もぜひ読んでみてください。どれも一読の価値がある逸品ばかりです、たぶん映画もね。
恐怖心の喚起
恐怖心を喚起する思想も極めて有害です。オウムにおいては、信徒の思考や行動が教義に沿うものに著しく制限されました。
ただし、その思想に触れて間もないうちは、恐怖心を喚起する部分が含まれていても、それに気付かないかもしれません。私自身も、クンダリニーの覚醒前は、麻原の著書の地獄・餓鬼・動物などの記述はまったく気になりませんでした。
その経験を振り返りますと、私の話がどれだけ伝わったか心もとなくなります。信徒の心理において、苦界へ転生する恐怖からの回避は無視できない要素なので、その恐怖が実感できないと、信徒特有の思考や行動は理解が困難だろうからです。実感は難しいかもしれませんが、その恐怖のために、たとえ自身の生命や健康が損なわれる事態に直面しても悪業となる行為はまったくできません。私の経験としては、次のことがありました。
地下鉄サリン事件のとき、私がサリン中毒になったので(本文三十六頁)、あらかじめ指示があったとおりに、送迎後の信徒が車で教団の付属病院に連れて行ってくれました。ところが病院関係者に話が伝わっておらず、事情がわからないようでした。しかし、私はサリン中毒を伝えられませんでした。「ヴァジラヤーナ救済」の任務に関することを関係者意外に話すと悪業になったからです。結局、私は病院での治療を断念し、医師の林郁夫のいる集合場所に行き、治療を受けました。
また、地下鉄サリン事件で逮捕された後、教団の指示どおりに当番弁護士を一回お願いして、拘留場所を教団に伝えましたが、右と同じ理由で事件に関する相談はできませんでした。常識的には、弁護士に相談しながら取り調べを受けます。また、それをしないことは連日十時間の取り調べが続くなか、自らを孤立させることになるとされています。
これらのことは、重大事件で逮捕された状況において、極めて不利です。しかし、悪業となる行為はできませんでした。
さらに、事件の動機である「ヴァジラヤーナの救済」の教義と麻原の地下鉄サリン事件への関与については、供述すると無間地獄(宇宙の創造から破壊までより長い期間苦しむ地獄)に転生しかねないので―また、この教義を聞く資格のない人に話すと誤解され、その人が将来にわたって救済されなくなるともいわれていました―、この事件の捜査期間内には供述できませんでした。
取り調べの最終日、事件の核心部分を追求する検察官を、悪業を犯すまいとする私との間に必死の攻防がありました。
問)麻原尊師のことや事件の動機、目的も話さなければ、反省したとはいえないのではないか。
答)……
問)話せない理由は何か。
答)お話できません。
問)今回の事件はヴァジラヤーナの教義に基づいたものではないか。
答)答えられません。
問)ヴァジラヤーナでは、「ポア」のために他人の命を絶つことも許されるのではないか。
答)答えられません。
答)答えられません。
問)麻原尊師の指示は、いかなるものでも絶対に従わなければならなかったのではないか。
答)必ずしもそうではありません。
問)では、どういう場合に従わなくていいのか。
答)何ともいえません。
―ほら、やはり従わなければならないじゃないか。
問)村井正大師は、サリンを撒くと切り出したとき、それが麻原尊師の意向であることを話さなかったか。
問)今回の事件の後で、君は麻原尊師に事件の報告をしていないか。
―(ある信徒が描いた図を見せながら)〇〇が図まで描いて、君たちが報告したことを話しているのに、話さないのか。
問)君は、今回の事件に関与した仲間については話しているのに、なぜ事件の目的や動機、報告については話さないのか。
答)答えられません。
当時は、なるべく悪業にならないように、教団とは無関係なこととして、地下鉄サリン事件における自身の行為はすべて供述していました。しかし、自身のことを供述しても、事件の動機や麻原の関与を供述しなければ反省していないとみなされ、身を滅ぼしかねない状況でした。加えて、質問の内容から検察官がそれらのことを既に知っていることは分かり、一般的見地からは、私が供述しても誰にも影響しないことは十分に理解できる状況でした。それでも、金縛りにでもあったかのように、供述できなかったのです。
以上のように悪業とされる行為ができなくなる傾向は、クンダリニーの覚醒直後に現れました。オウムに入信する段になって、気に掛かったのは、「複数のグル(修行の指導者)の指導を受けると、その異なるエネルギーの影響で精神が分解する」との麻原の著書の記述でした。当時、私はある瞑想団体に入会していたからです。私は不安になり、クンダリニーが覚醒したその日に、団体に脱会届を郵送しました。
また、私は釣りが好きだったのですが、それは悪業になるので、クンダリニーの覚醒以来一度も行いませんでした。そのほか虫も殺せなくなるなど、恐怖のために教義で悪業とされる行為はできなくなったのです。
このような状態は、次のように、宗教的回心において現れるといわれています。
私たちはある思想を繰り返し繰り返しいだき、ある行為を繰り返し繰り返しおこなっている。しかし、その思想の真の意味が、ある日はじめて、私たちのなかに響き渡るのである。あるいは、その行為が突然、道徳的に不可能なことに一変しているのである。
(前出 ジェイムズ)
オウムの信徒には、同様に悪業を為すことに強い抵抗を感じる者が多数いました。このような宗教的悪業の教義に関して、文献では次のことがいわれています。
さらに、宗教が単独で精神的問題を引き起こす場合がある。フロイトが主張するのは、「イド」と「スーパーエゴ」とのせめぎ合いにおいて、宗教はスーパーエゴの側に立つということである。宗教の戒律や禁制は、性的衝動や攻撃的衝動を抑制する目的がある。さらにまた、宗教は完全な道徳を目指しているので、これらの掟に対する違反は罪悪感を引き起こす。極端な場合、罪悪感が生活を支配し、麻痺させることがある。また、しばしば、過度の後悔に至ることもあり、中世鞭打苦行派の罪の意識による鞭打ちから現代テレビ時代における罪の公然の告白にまで及ぶ。
オランダにおいて、罪への自責心の問題をアライト・シルダーが研究した。彼女の研究『罪の意識に苦しむ以外なすすべがない』は、厳格な一部のオランダプロテスタントに関するもので、罪悪感がもたらしうる、人の仕事、思考および行動を麻痺させる影響への洞察を与えた。
友好関係を生じることに加えて、カリスマグループは個人的および社会的行動を規制する行為の基準を確立する。絶縁したセクトの状況では、このような外的規制によって、集団は心理学的に困難な支配の操作がしやすくなる。多数のセクトの行動規範は、現在の性的に寛大な態度に対する反動形成を反映するように見える。これらの規範は、しばしば多くの儀礼化された集団防衛を採用するだけで維持される。たとえば、ハーダー、リチャードソン、およびシモンズは、ジーザス運動の一つの分派における求愛、結婚、および家庭の形態を研究した。彼らは、全員が性的にとがめられかねない状況を明確に回避することを述べ、そして求愛と肉体的快楽に関するセクト特有の規制の大要を説明した。たとえば、デートをすることは不適切と考えられたが、それに誘惑や罪に至りかねないからだった。セクトに入会中の人の態度の同様な変化は、前に述べた統一教会の会員に関する研究に現れた。その七十六パーセントが性について考えることを“非常に”避けたと述べたが、入会の前には十一パーセントしかそのように感じなかったと報告した。したがって、集団心理は本能の要求の表出の統制やそのほかの葛藤の統制に重要な役割を果たす。
以上のように、宗教的悪業を規定する教義には、人の思考や行動を強く統制する作用があるとされています。そして、オウムの教義にもまた、ある思考や行動を宗教的悪業として規定するものがありました。たとえば、私が出家した直後の平成元年四月二日、麻原は次の内容の説法をしています。
「わたしたちの修行を妨げる眠気、貪り、怒り、真理(オウムの教義と考えていただいて差しつかえありません)を否定したくなる気持ちは悪魔であり、取り返しのつかない迷いの生を繰り返す」
また、クンダリニーが覚醒すると、「魔境」に入りやすくなるとされていました。これは、「これ以上ない人生の挫折」、「生まれ変わっても続いてしまう恐ろしい修行の挫折」とされる状態です。そして、「魔境」に落ちないためには、「正しいグル(解脱した指導者)を持つ」、「功徳(神とグルに対する布施と奉仕)を積む」、「強い信を持つ(グルと真理を強く信じる)」、「真理を実践する」ことが必要と説かれていました。(麻原彰晃著 『超能力秘密の開発法』 『生死を超える』 『マハーヤーナ・スートラ』 )
この類の教義はほかにも多数ありましたが、これらは信徒にとって、麻原、教団、あるいは教義からの離脱を困難にし、そして、麻原や教義に従うよう思考や行動を統制すつものでした。このような作用は、信徒が違法行為の指示に従わなかったリ、事件が明らかになった後でも脱会しなかったりする原因の一つと思います。
私が教義に疑問を抱き、脱会に至るまでには、次のように、悪業とされる行為をすることへの慣れが必要でした。
逮捕された後、供述すると悪業になる内容について、私は取調官の追求を受けるようになりました。しかし、それでも、はじめはまったく供述できない状態であり、身を引きちぎられるように感じました。そのような状況において、私は軽度の悪業となる内容から少しずつ供述せざるを得ませんでした。
私が最初に話したのは、地下鉄内で自身がサリンを発散させた単独行動の部分でした。事件に関してかなりのことが既に明らかになっていた状況であり、個人的な行為として供述するならそれほど悪業にならないと思ったのです。
その後、黙秘と供述を何度も繰り返して、長時間かけて動機の「ヴァジラヤーナの救済」の教義のことや麻原の事件への関与について供述できるようになりました。
以上のように、自覚してないうちに恐怖を喚起する教義の影響を受ける場合があります。また、宗教的悪業を規定する教義そのものに興味を抱いてオウムに係わることは考え難いですが、多くの信徒がそのような関心外の教義を受容し、思考や行動が制限されていました。ですから、そのときは実感がわかなくても、「地獄」など恐怖の喚起が予測される概念を強調する思想には、近づくべきではないでしょう。
オウムの信徒制度には、在家のほかに出家がありました。オウムの出家とは、世俗的な関を一切絶ち、麻原に全生涯を捧げ、人類の救済―最終的には解脱させること―と自己の解脱に専念することでした。
出家者は教団施設内で共同生活をすることになります。家族とも絶縁の形になり、解脱するまでは、会うことも、連絡することも禁止でした。財産はすべて教団に布施し、私物として所有できるのは、許可されたもののみでした。飲食は禁止でした。本、新聞、テレビ、ラジオなど、教団外の一切の情報に接することも禁止でした。これらの戒は、苦界に転生する原因となる執着を切るためのものでした。
入信時、私は出家をまったく考えていませんでした。長男という立場上、親の老後を見たいと思っていたからであり、また私が出家すると家庭が崩壊しかねないとも思っていたからです。そもそも、入信前に読んだ麻原の著書によると、在家でも解脱可能だったので、そのような無理をしてまで出家する必要を感じませんでした。
自分が培ってきたものを崩すのは真に恐いことです。入信間もないころ、私はある在家信徒と話をしました。彼は出家の準備のために定職を捨て、アルバイトをして暮らしていました。その話を聞き、私は恐怖心を抱いたのです。実際、昭和六三年十月の私について、母は「就職の内定を喜び、安心している様子だった」旨法廷証言しており、その時点で出家の意志は皆無でした。
ところが、私は出家することになりました。私の入信後、勢力拡大のために、オウムが出家者の増員を図ったのです。私の入信前の一年半の間に約六十人が出家したのに対し、入信後の一年間には約二百人が出家しました。
「現代人は悪業を為しているために来世は苦界に転生する。世紀末に核戦争が起こる。(本文二十一頁)」
―麻原は人類の危機を叫びました。そして、その救済のためとして、信徒に布教活動をさせたり、さらに、出家の必要性を訴え、多くの信徒を出家させたりしました。
このように、一般社会は苦界への転生に至らせる世界として説かれていましたが、それを聞いているうちに、そのとおりの体験が私に起こりました。
私の公判において、友人が次の証言をしました。昭和六十三年晩秋か初冬に私が話した内容です。
町中を歩くとバイブレーションを感じること、電車内のいかがわしい広告を見ると頭が痛くなること、繁華街の近くにいると体調がおかしくなるという話がありました。
当時、私は街中を歩いたり、会話をするなどして非信徒の方と接したりすると、苦界に転生するカルマが移ってくるのを感じました。この感覚の後には、気味悪い暗い世界のヴィジョン(非常に鮮明な、記憶に残る夢)や自分が奇妙な生物になったヴィジョン―カンガルーのような頭部で、鼻の先に目がある―などを見ました。この経験は、カルマが移り、自身が苦界に転生する状態になったことを示すとされていました。さらに、体調も悪くなるので、麻原がエネルギーを込めた石を握りながら、カルマを浄化するための修行をしなければなりませんでした。
また、一般社会の情報は煩悩を増大させて、人々を苦界に転生させると説かれていました。そのために、情報によっては、接すると頭痛などの心身の変調が起きたのです。
他方、当時、日常的に麻原からの心地よいエネルギーが頭頂から入って心が清澄になり、自身のカルマが浄化されるのを感じました。
これらの経験によって、一般社会が人々のカルマを増大させて苦界に転生させるのに対して、麻原だけがカルマを浄化できることをリアルに感じました。そのために私は、麻原の説くとおりに一般社会で通用する価値観は苦界に至らせると思うようになり、解脱・悟りを目指すことにしか意味を見い出せなくなりました。
この状況に関連することとして、検察官の「広瀬から出家の原因、理由を聞いたことがあるか」との確認に対して、私の指導教授は「結局、神秘体験だと言っていた」と法廷証言しています。(当時、私は教授にも入信勧誘していたのです。)また、出家することが、苦界に転生する可能性の高い親を救うことになるとも思うようになりました。子供が出家すると、親の善業になるとされていたからです。出家にあたり一番の障害は親子の情ですが、それを除くために、オウムではそのように説かれていたのです。
こうして、私は出家願望を抱くようになりました。世紀末の人類の破滅というタイム・リミットをにらみながら、家族の説得に要する期間や就職が決まっていた事情なども考慮して、二、三年後の出家になると思っていました。
このような昭和六三年の年末、私は麻原から呼び出されました。麻原は救済が間に合わない、もう自分の都合を言っていられる場合ではないと、出家を強く迫りました。私は麻原に従い、大学院修了後に出家する約束をしました。そして、平成元年三月末に出家しました。
私の出家後、平成元年の四月から、麻原は「ヴァジラヤーナ」の教義に基づく救済を説きはじめました。現代人は悪業を積んでおり、苦界に転生するから、「ポア」して救済すると説いたのです。「ポア」とは、対象の命を絶つことで悪業を消滅させ、高い世界に転生させる意味です。この「ポア」は、前述(二十一頁)のように、麻原に「カルマを背負う―解脱者の情報を与え、悪業を引き受ける―」能力があることを前提としています。
その初めての説法において、麻原は仏典を引用して、「数百人の貿易商を殺して財宝を奪おうとしている悪党がいたが、釈迦牟尼の前生はどうしたのか」と出家者に問いました。私は指名されたので、「だまして捕える」と答えました。ところが、釈迦牟尼の前生は悪党を殺したのです。これは殺されるよりも、悪業を犯して苦界に転生するほうがより苦しむので、殺してそれを防いだという意味です。それまでは、虫を殺すことさえ固く禁じられていたので、私にはこの解答は思いつきませんでした。しかし、ここで麻原は、仏典を引用して「殺人」を肯定したのです。
ただし、このときは、直ちに「ポア」の実践を説いたわけではありませんでした。最後は「まあ、今日君たちに話したかったことは心が弱いほど成就は遅いよということだ」などと結んでいます。私も、実行に移すこととは到底思えませんでした。
ところが、麻原は説法の内容を次第にエスカレートさせていきました。その後の説法では、「末法の世(仏法が廃れ、人々が悪業を為して苦界に転生する時代)の救済を考えるならば、少なくとも一部の人間はヴァジラヤーナの道を歩かなければ、真理の流布はできないと思わないか」などと訴えています。それに対し、出家者一同は「はい!」と応じており、「ポア」に疑問を呈する者は皆無でした。(『ヴァジラヤーナコース教学システム教本』―教団発行の説法集より)
前述(二七~二八頁)のように、私にとっては、現代人が苦界に転生することと、麻原がそれを救済できることは、宗教的経験に基づく現実でした。ですから、私は「ヴァジラヤーナの救済」に疑問を抱くことなく、これを受容しました。なお、麻原は、私が述べたような宗教的経験を根拠として、この教えを説いていました。
さらに、私はいわゆる幽体離脱体験(肉体とは別の身体が肉体から離脱するように知覚する体験などもあったので、私たちの本質は肉体ではなく、肉体が滅んでも魂は輪廻を続けるとの教義を現実として感じていました。そのために、この世における生命よりも、よりよい転生を重視するオウムの価値観に同化していました。このことも「ヴァジラヤーナの救済」を受容した背景だと思います。
このような説法が展開されていたとき、私は解脱・悟りのための集中修行に入りました。第一日目は、立住の姿勢から体を床に投げ出しての礼拝を丸一日、食事も摂らずに不眠不休で繰り返しました。このときは、熱い気体のような麻原の「エネルギー」が頭頂から入るのを感じ、まったく疲れないで集中して修行できたので驚きました。
この集中修業において、最終的に、私は赤、白、青の三色の光をそれぞれ見て、ヨガの第一段階目の解脱・悟りを麻原から認められました。特に青い光はみごとで、自分が宇宙空間に投げ出され、一面に広がる星を見ているようでした。これらの光は、それに対する執着が生じたために、私たちが輪廻を始めたとされるものでした。その輪廻の原因を見極めることは、輪廻から脱した経験(=解脱)を意味しました。
解脱・悟りを認められた後は、以前は身体が固くてまったく組めなかった蓮華座(両足首をももの上に載せる座法)が組めるようになりました。教義によると、これはカルマが浄化された結果と考えられました。また、食事が味気なく、砂でも噛んでいるように感じ、食事に対する執着が消えたように思えました。さらに、小さなことにこだわらなくなり、精神的に楽になりました。
以上は麻原の「エネルギー」を受けた結果のように思われたので、彼が人のカルマを浄化して解脱・悟りに導くことの実体験になりました。
平成二年四月、麻原は古参幹部と理系の出家者計二十人に対して、極秘説法をしました。冒頭、「今つくっているもので、何をするか分かるか」と私に問いました。しばらく前から、何らかの菌の培養を指示されていたのです。目的は聞かされませんでしたが、指示の雰囲気から危険な菌らしいことは分かりました。私は、「ヴァジラヤーナの救済」とする旨を答えました。一年間説法されて、その実行が当然のことのようになっていたのです。
麻原は、「そうか、分かっていたのか」と言い、「ヴァジラヤーナの救済」の開始を宣言しました。
「衆院選の結果―平成二年二月の衆院選に、麻原ら教団関係者二十五人が出馬し、全員が落選―、現代人は通常の布教方法では救済できないことが分かったから、これからはヴァジラヤーナでいく」
そして、麻原が指示したのは、猛毒のボツリヌストキシンを大量生産し、気球に載せて世界中に散布することでした。私たちは、その場で各人の任務も指示され、直ちに作業に取りかかったのです。私はボツリヌス菌の大量培養―容量十立方メートルの水槽四基―の責任者でした。
作業は過酷でした。ヴァジラヤーナの救済になると麻原は血道を上げるので、指示を受ける私は寝る暇もないことがありました。私は約三か月間教団の敷地に缶詰めにされ、風呂にも二度しか入れませんでした。それも関連部品の購入のために業者を訪問するときなどに、指示されての入浴でした。そして、安全対策も杜撰で、非常に危険な状況での作業でした。結局、種菌さえできていなかったことが後で判明したのですが、できていたら私たちが真先に死んでいたと思います。
私たちは、一般社会では無差別大量殺人とみなされる行為を指示され、しかも厳しい作業が続きましたが、誰も疑問を口にすることなく、淡々と行動していました。外部の人が見たら、殺人の準備をしているとは思えなかったでしょう。
それは、私たちにとって、「ヴァジラヤーナの救済」が宗教的経験に基づく現実だったからです。(本文三十一頁)そして出家後も、次のように、そのリアリティは深まるばかりでした。
一般社会が苦界への転生に至らせることに関しては、出家後初めて外出したときに、以前に経験のないほど厳しくカルマが移ってくるのを感じて(本文二十七、二十八頁参照)、危機感を覚えました。出家者に対して外部との接触を厳しく制限するなど、教団が外部の悪影響を警戒していたことが暗示になったのだと思います。また、テレビ・コマーシャルを視聴したところ、その音楽のイメージが頭の中でぐるぐると繰り返されるようになり、集中力が削がれる経験がありました。それは、選挙運動中に、麻原の指示でオウムに関する報道を録画したときのことでした。私の変調に気づいた麻原が、「現世の情報が悪影響を与えている」と作業の中止を指示したので、一般社会の発する情報への警戒心が強まりました。
一方、麻原の救済能力に関しては、その「エネルギー」によって解脱・悟りに導かれたと感じる経験をしたために、さらに奥深さを知った思いでした。
ボツリヌストキシン散布計画が中止された後、私は集中修行に入りました。そして、自分の意識が肉体から離れ、上方のオレンジ色の光に向かう経験などをして、ヨガの第二段階目の解脱・悟りを麻原から認められました。また、認められたその場で、毒ガスホスゲンの生産プラントの製造計画(平成二年十月から三年八月、中止ーオウムでは、次の計画の指示が入り、前の計画が中止されることが多かった)に加わるよう指示されました。その後も、プラズマ兵器、レーザー兵器の開発(同四年十一月から五年十二月、中止)、ロシアにおける武器調査(同五年二月と五月)、炭疽菌の散布計画(同五年五月から六月、失敗)、オーストラリアにおけるウラン調査(同五年九月)、自動小銃AK七四千丁の製造(同六年二月から七年三月、一丁完成、逮捕のため中止)などを麻原から指示されました。
このように、オウムにおいては、「ヴァジラヤーナの救済」の実践は日常的なことでした。
そして、平成七年三月、私たちは地下鉄にサリンと散布する指示を村井秀夫から受けました。麻原の意志とのことでした。その指示は、当時の私には、苦界に転生する人々の救済としか思えませんでした。一般人が抱くであろう「殺人」というイメージがわかなかったのです。
地下鉄サリン事件に関するある共犯者の調書を読むと、私たちが事も無げに行動している様子が散見されます。そのような記述を読むと、残酷な事件を平然と起こしたことについて、自らのことですが戦慄さえ覚え、被害関係者の皆様に対しては心から申し訳なく思います。誠に愚かなことでしたが、オウムの宗教的経験に没入している状態でした。
[ただし、私は決して軽い気持ちで事件に関与したわけではありませんでした。救済とはいえ、「ポア」の行為そのものは、通常の殺人と同様に悪業になるとされていたからです。それまではカルマの浄化に努めてきたのですが、救済のためにカルマを増大させる行為をすることが「ヴァジラヤーナの救済」と意味付けられていたのです。そのカルマは、修行によって再び浄化する必要がありました。さもないと、「カルマの法則(本文二十一頁)によって、自身にも返ってくるとされていたからです。実際、地下鉄から下車した後、私は突然ろれつが回らなくなく、サリン中毒になったことに気付いたのですが、そのときは「カルマが返ってきた」と思いました。]
以上のように、オウムにおいては、非現実な教義が宗教的経験によって受容されました。そして、その教義が社会通念と相容れないものだったために、逸脱した行動がなされました。
他方、「禅」も宗教的経験を起こす技法を用いますが、「悟了同未悟―悟り終われば凡夫に立ち返る―」という教えがあります。これは「禅」の瞑想技法によって起こる日常生活への不適応(本文二十五頁)を防ぐ安全装置ではないでしょうか。何代にもわたって存続している宗教には、問題が起こるのを回避する知恵の蓄積があるのだと思います。
宗教的経験を起こす技法やその経験に基づく思想に係わる場合は、その弊害の予測が困難なので、このように経験的に安全性が保障されていることを確認する必要があるでしょう。
また、私は宗教的経験によって教義の検証が可能と思いオウムに関心を持ったのですが、それは大きな誤りでした。人間の感覚は決して常に真実を反映しているわけではありませんでした。神秘的体験の心理状態は次のようにいわれており、幻覚を真実と認識してしまうこともあるのです。
神秘的な状態は比量的な知性では量り知ることのできない真理の深みを洞察する状態である。それは照明であり、啓示であり、どこまでも明瞭に言い表されえないながらも、意義と重要さとに満ちている。そして普通、それ以後は、一種奇妙な権威の感じを伴うのである。(前出ジェイムズ)
幻覚的な宗教経験によっては、決して“客観的”な真実は検証できません。できるのは“主観的”に教義を追体験することだけです。それ以上のものではありません。
ですから、宗教的経験はあくまでも“個人的”な真実として内界にとどめ、決して外界に適用すべきではありません。オウムはそれを外界に適用して過ちを犯したのです。
【vol.4「恐怖心の喚起」】へ続く。
宗教的経験
カルトの「超越的世界観」によって、現実世界においては解決の困難な問題が解決することと述べました。他方、この類の世界観は非現実的であるために、受容が困難なのも事実です。ところが、「神秘体験」、「超越体験」などと呼ばれる幻想的な宗教経験は、その受容を著しく促進します。
オウムにおいても、教義の妥当性の根拠は、その種の宗教的経験でした。つまり、多くの信徒は教義の世界を幻覚的に経験しており、その世界を現実として認識していたのです。地下鉄サリン事件への関与は誠に愚かであり、心から後悔しておりますが、この事件についても、宗教的経験から、私は教義上の「救済」と認識して行いました。
このように、宗教的経験は、「殺人」を肯定する非現実的な教義さえ受容させる原因となります。したがって、宗教的経験を根拠とする思想やこれを起こす技術の使用には注意すべきです。
以下、宗教的経験の検討のために、私の経験を述べさせていただきたく思います。
前述のように、高校三年生のときに、私は、「生きる意味」の問題を意識するようになりました。しかし、その後、私は目を引いた本を読んだり、簡単な瞑想を指導する団体に入会したものの、その問題は棚上げ状態でした。大学で学ぶことが将来の職業に直結するので、学業や学費のためにアルバイトに忙殺されていたのです。
そのようなとき、偶然、私は書店で麻原の著書を見かけたのです。昭和六十三年二月ごろ、大学院一年のときでした。その後、関連書を何冊か読みましたが、彼の説く解脱。悟りが気になりました。
最終的な解脱・悟りは、絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜の境地であり、本来、私たちはその状態に安住していたにもかかわらず、煩悩にとらわれたために、輪廻して苦界をさまよい続けているとされていました。ここで、絶対自由とは、カルマ(業。転生する原因)から解放され、どの世界に転生するのも、最終解脱の状態に安住するのも自由という意味でした。絶対幸福とは、金、名誉など自分以外の外的存在を必要としない幸福という意味でした。絶対歓喜とは、自己が存在しているだけで歓喜状態にあるという意味でした。
不明な点が多いものの、何らかの絶対的に幸福な境地の存在が事実であれば、その追求は「生きる意味」に値するのではないかと思いました。
また、麻原は修行を完成させて最終解脱の境地にあり、弟子を指導して彼らをも解脱させているとのことでした。麻原や弟子たちの体験談を読むと、解脱への確かな道が存在しているように思えました。彼らの体験には普遍性が感じられたからです。さらに、麻原は自身の体験の妥当性を、ダライ・ラマ十四世をはじめとするチベット仏教やインドの聖者たちと交流して確認したとのことでした。
前述の解脱のような教義の話だけならフィクションを読んでいるようなものでしたが、このような実証的な姿勢は理解できることでした。この点は、私がそれまでに接した斯界のものとは違っていると思いました。
しかし、事はそう簡単に運びませんでした。麻原が主宰するのは、宗教団体「オウム真理教」だったのです。(なお、当時、オウムはほとんど無名の団体でした。)
私は新宗教に対して拒絶反応が起こるのを禁じ得ませんでした。「輸血拒否事件」、「霊感商法」…新宗教に関するマスコミ報道は、決まって言いようのない不快感を催すものでした。とりわけ、「輸血拒否事件」は、高校三年生のときに話を聞いた団体のことだったので、新宗教に対する問題意識が高まりました。
この事件の報道では、事故に遭った子供が「生きたい」と言っていたのにかかわらず、両親が教義に従い、輸血を拒否したとされていました。この団体の聖書の解釈が正しいという保証はないのだから―私にはほかの解釈も可能に思えました―、そのような不確実なことに基づいて命を犠牲にすることが信じられませんでした。ですから、この事件で、私の新宗教に対する不信は決定的なものになっていました。
このようなわけで、私は本を読む以上にオウムに近づけなかったのです。
ところが、本を読み始めた一週間後くらいから、不可解なことが起こりました。修行もしていないのに、本に書かれていた、修行の過程で起こる体験が、私の身体に現れたのです。そして、約一ヶ月後の、昭和六十三年三月八日深夜のことでした。
眠りの静寂を破り、突然、私の内部で爆発音が鳴り響きました。それは、幼いころに山奥で聞いたことのある、発破のような音でした。音は体の内部で生じた感覚があったものの、はるか遠くで鳴ったような、奇妙な立体感がありました。
意識を戻した私は、直ちに事態を理解しました。爆発音と共にクンダリニーが覚醒した―読んでいたオウムの本の記述が脳裏に閃いたからです。クンダリニーとは、ヨガで「生命エネルギー」などとも呼ばれるもので、解脱するためにはこれを覚醒させる、つまり活動する状態にさせることが不可欠とされていました。
続いて、粘性のある温かい液体のようなものが尾底骨から溶け出してきました。本によると、クンダリニーは尾底骨から生じる熱いエネルギーのことでした。そして、それはゆっくりと背骨に沿って体を上昇してきました。腰の位置までくると、体の前面の腹部にパッと広がりました。経験したことのない、この世のものとは思えない感覚でした。
「クンダリニーの動きが正しくないと、くも膜下出血を起こす」、「指導者なしの覚醒は危険だ」―オウムの本の記述は別世界の話でしたが、今や、我が身に起こりつつある現実でした。私はクンダリニーの動きを止めようと試みました。しかし、意志に反して、クンダリニーは上昇を続けました。
クンダリニーは、胸まで上昇すると、胸いっぱいに広がりました。ヨガでいうチャクラ(体内の霊的器官とされる)の位置にくると広がるようでした。クンダリニーが喉の下まで達すると、熱の上昇を感じなくなりました。代わりに、熱くない気体のようなものが上昇しました。これが頭頂まで達すると圧迫感が生じ、頭蓋がククッときしむ音がしました。それでも、私は身体を硬くして耐えるしかなす術がありませんでした。
突然の出来事に、どうなることかと思いましたが、それをピークに一連の現象は収束しました。どうやら、無事に済んだようでした。
オウムの宗教的世界観が、一挙にリアリティを帯びて感じられました。麻原をグル(修行と指導する師)として、解脱・悟りを目指すことが私の「生きる意味」であると確信しました。麻原の著書を読み始めて以来相次いだ体験に、彼に強い「縁」を感じていたからです。クンダリニーが自然に覚醒したのは、前世のグルの著書を読んだために、修行者だった私の前世の記憶が甦ったからだと思いました。
このように、急激に宗教観念を受容して、思考体系が一変する心理現象は、「突然の宗教的回心」と呼ばれています。これと漸進的な宗教観念の受容との違いについて、研究論文には次のように述べられています。
突然の回心は、被験者そのものが全く変えられるように思われる経験として定義した。つまり、その変化は、被験者が生じさせるのではなく、彼にもたらされるように思われた。また、その変化は、被験者の生活様式、道徳的特性を形成する態度におけるものだった。
漸進的な宗教的発達は、上で説明したような回心経験がないという特徴のもので、そして被験者が自身を無信仰と識別したことがないものである。
すべての回心者は、疑いの余地なく、無信仰の状態から信仰深い状態になった。
二つの集団の特色をかなりよく示す、二つの自伝を下に引用する。一人の突然の回心者は、彼の経験を次のように記述した。
この経験は、私が一四歳の秋に起きた。私は畑を耕して働いていた。突然、嵐が近づいたように思われ、そしてあたかも私の周りの全てが止まったようだった―私は神の存在を感じた。馬たちは完全に止まった状態になった。真っ黒な空がとどろいたので、私は祈った。嵐はすぐに通り過ぎたが、この瞬間だった、―私は祈りながら―主が望むならば、クリスチャンになり、主に仕える決心をしたのは。
漸進的な宗教的発達をした集団の一員は、彼の経験を次のように記述した。
私が信仰深いと自覚したときを説明するのは難しい。それに対し、何年か前に私は十ポンドで生まれ、そして現在はそれよりかなり重いという事実を説明するのは、全く簡単だろう。この成長には、出来事の印象がないわけではない。しかし、少なくとも回想では、そのプロセスはあまりに完全に連続したように霞んでいる。だから、私が自身の認識に現れた時点を思い出せる以上に、私は“信心深く”なった時点を分離できない。私はその二つの出来事はほとんど同時に違いないと思う。
このような宗教的回心は、人が葛藤状態にあるときに、幻覚的な超越体験と共に起こることがあり、このとき葛藤が解決するとされています。また、突然の宗教的回心においては、常識から非常に逸脱したビリーフ・システム(思考体系)が受容される場合があるとされています。そして、「カリスマグループの一つの注目せざるを得ない特徴は、入会の特徴がしばしば劇的な回心の経験であることだ」といわれています。
私の場合、「生きる意味」に係わる葛藤のために、回心が起き、オウムの教義体系が受容されました。このように、非現実的な世界観が突然現実として感じられ、それが受容されることがあるので、超越体験に基づく世界観には要注意でしょう。後述のように、それが日常生活との間に摩擦を生じる場合は問題が起こるからです。
オウムの宗教的世界観が現実となった私に、入信以外の選択はありませんでした。また、新宗教うんぬんといっていられる状況ではありませんでした。クンダリニーが覚醒した以上、指導者は不可欠だったからです。私はクンダリニーをコントロールできず、頭蓋がきしんでも、なす術がなかったのです。この状況について、ある共犯者は「広瀬君は、本を読んだだけでクンダリニーが覚醒して、困って教団に相談に行ったと言っていた。ある種の困惑を広瀬君から感じた。」と法廷証言しています。
こうして、オウム真理教の在家信徒としての生活が始まりました。在家信徒は、社会生活しながら、教義の学習、守戒など教義の実践、ヨガの行法、奉仕などの修行をすることが基本でした。
オウムの教義と修行の目的について、あとの話の理解のために必要な部分のみ説明致します。
教義において、修行の究極の目的は前述の最終解脱をすること、つまり、輪廻から解放されることでした。なぜ解脱しなければならなのか―それは、輪廻から解放されない限り苦が生じるからだ、と説かれていました。これは、今は幸福でも、幸福でいられる善業が尽きてしまえば、これまでに為してきた悪業が優住になり、苦しみの世界に転生するということでした。特に、地獄・餓鬼・動物の三つの世界は三悪趣と呼ばれ、信徒の最も恐れる苦界でした。
それに対して、解脱はすべての束縛から解放された崇高な境地でした。解脱に至るには、次のように、私たちが本来の最終解脱の状態から落下していった原因を除去していくことが必要と説かれていました。
私たちは自己が存在するためだけで完全な状態にあったにもかかわらず、他の存在に対する執着が生じたために輪廻転生を始めたとされていました。それ以来、私たちは煩悩(私たちを苦しみの世界に結びつける執着)と悪業を増大させ、それに応じた世界に転生して肉体を持ち、苦しみ続けているとのことでした。たとえば、殺生や嫌悪の念は地獄、盗みや貧りの心は餓鬼、快楽を求めることや真理(精神を高める教え=オウムの教義)を知らないことは動物に、それぞれ転生する原因になるとされていました。
これらの煩悩と行為は過去世のものも含め、情報として私たちの内部に蓄積しているとのことでした。この蓄積された情報が「カルマ(業)」でした。そして、「悪業に応じた世界に転生する」というように、自己のカルマが身の上に返ってくることを「カルマの法則」といい、これも重要な教義でした。
カルマの法則から考えると、解脱、つまり輪廻からの開放に必要なのは、転生の原因となるカルマを消滅(浄化)することになります。ですから、オウムにおいては、カルマの浄化が重視され、修行はそのためのものでした。
[なお、前述の「殺生」は、虫を殺すことも含みます。ですから、そのほかに挙げた行為もそうですが、一般人の日常的な行為はほとんどが悪業となります。したがって、信徒についても、入信前は悪業を為してきたことになり、それらを浄化しない限り苦界に転生することになります。だから信徒たちは必死に修行していました。また、家族など周囲の非信徒たちは苦界への転生が避けられないことになり、それを信徒たちは案じていました。後述しますが、日常生活と相容れないこの教義のために、一般社会は苦界への転生に至らせる世界とみなされました。そのために、信徒は一般社会を離れて出家していきました。さらに、苦界へ転生する現代人を救済する目的で、殺人まで犯すことになりました。]
また、オウムの教義において、麻原は「神」といえる存在でした。それは、最終解脱者であり、様ざまな「神通力」を有するとされていたからです。特に麻原は、人を解脱させたり、高い世界(幸福な世界)に転生させたりする力があると主張していました。私たちに「エネルギー」を移入して最終解脱の状態の情報を与え、代わりに、苦界に転生する原因となる悪業を引き受ける―「カルマを背負う」といっていました―と説いていたのです。カルマを浄化していないと苦界に転生するのですから、カルマを背負ってくれる麻原は、まさに「救済者=神」でした。
麻原の指示が絶対だったのも、そのような「救済」の能力を有するためでした。オウムの世界観においては、苦界への転生の防止が最優先であるところ、麻原の指示の目的は、苦界へ転生する人類の救済とされていたのです。
回心による教義の受容の後、入信後は、私の身の上に個々の教義の体験が現われ、教義の世界観に対するリアリティがますます深まりました。たとえば、入信の一週間後に、麻原の「エネルギー」を込めたとされる石に触れたところ、気体のようなものが私の身体に入ってきました。そして、胸いっぱいに広がり、倒れそうになったのです。そのときは、ハッカを吸ったような感覚がして、私は自身の悪業が浄化されたと思いました。
その後も様ざまな形でこのような体験を重ねたので、私にとって、麻原が「カルマを背負う」能力を有することは現実でした。そのために、麻原は「神」であり、その指示は絶対だったのです。
なお、現在は、この種の経験は暗示の機制による幻覚と理解しています。つまり、以前に接していた「エネルギーを移入してカルマを浄化する」という教義(二十一頁)が暗示になり、「エネルギーを込めた」とされる石に触れたところ、教義どおりの幻覚が現れたものと思います。(このように、回心後は幻覚的経験が極めて起きやすい状態になっていました。)
なぜあの男が―麻原の地位が教団内で絶対だったことに対する疑問の声をよく聞きます。その理由の一つは、私と同様に、信徒にとっては麻原を「神」とする教義の世界観が現実だったことでしょう。ヨガの行法によって、多くの信徒が教義どおりの宗教的経験をしていたのです。
現役の信徒は、今も、麻原の力でカルマが浄化されると感じる経験をしているようです。だから、麻原が法廷でどんなに見るに堪えない振る舞いをしても、彼は「神」であり続けているのです。私もそうでしたが、信徒が帰依しているのは生身の麻原ではなく、宗教的経験によって知覚した麻原です。「現実」よりも「宗教的経験」のほうがリアリティがあるのです。
このような宗教的経験の作用について、文献には次のように述べられています。
アメリカで(そしてしばしば国際的に)現在見られる多くのカルト様のビリーフ・システムを概観することは、臨床医が特定のセクトを正しく評価するにあたり役に立つ。ビリーフ・システムは、一般に部外者を困惑させるもので、多くは超越体験や神秘体験に基づいている。あるものは、なじみのない東洋の伝統から得ている。あるものは、教義を再構築する程度にまで、既存の宗教を粉飾する。
超越体験あるいは神秘体験は、回心のプロセスにおいてしばしば重要だが、このことはジェイムズとフロイトが注目した。葛藤の解決における超越体験は、非精神病者と精神病者の両方に急性の幻覚的エピソードが起こる程だが、この重要性も強調されてきた。これらの経験はまた、カリスマセクトの多くの全員にとって、グループの全員をを続けされる総体である。これらの出来事は、類似した現象を経験したことのある他の人たちとの友好関係を、最高潮に高める強力な感情的経験になる。
宗教的経験のコンテクストにおける精神病様超越現象が生じることを説明できるモデルは、まだ開発されていない。しかし、注目すべきなのは、かなり注意を引く知覚現象を、これらのセクトの全員が普通に報告することである。たとえば、一つのグループの百十九人の全員のうちの三十パーセントが、瞑想中に幻覚様経験を報告した。明らかに、このような現象は、心理学者が正常な精神的プロセスのみならず病的プロセスを理解するのにもかなりの影響があるはずだ。それらはたぶん、精神病といわれる人に幻覚状態を起こすあるコンテクストの性質を、心理学的に理解する助けになるだろう。
(A教団は)夢さえも「お父様(教祖)の夢を見ますよ」などと暗示を与えて教祖の夢を見やすいように誘導したりする。それらのプライミングの結果、信者は身辺でおきる現象がすべて神やサタンといった心霊現象ととらえることになっていると思われる。さらに、こうした経験が西田のいう個人的現実性を高める。つまり体験や推論が教義と整合しているという認知を与え、ビリーフは強化される。
(西田公昭 一九九五年 ビリーフの形成と変化の機制についての研究(4) 社会心理学研究、一一、一八-二九)
(プライミング―特定の情報に接触させることによって、人間の情報処理を一定の方向に誘導すること)
瞑想のより高い段階は多くの経験を含む。これは、伝統的な文献によく載っており、明るい光のヴィジョン、身心の喜びに満ちた陶酔感、静けさ、明晰な知覚、および愛や献身の感情を様ざまに含む。“超意識”、“超越体験”、“神秘体験”、あるいは“クンダリニーの覚醒”と名付けられており、これらの状態は、人を引き込む影響を及ぼす。この影響は、瞑想の伝統によれば、非常に深刻になるものだ。
※「輸血拒否事件」1985年6月に神奈川県川崎市高津区で起こった事件。ダンプカーにひかれた当時小学5年生の男の子が、両親の輸血拒否にあい、約5時間後に死亡。「大ちゃん事件」とも。
オウム元信者であり、地下鉄サリン事件実行犯の広瀬健一氏が、平成20年に大学生へ向けて書いた手紙(忠告)をまとめました。
Q&Aオウム真理教 ―曹洞宗の立場から― | 曹洞宗 曹洞禅ネット SOTOZEN-NET
上記事は1995年に書かれたそうですが、非常に面白かったです。特に、この宗教界からオウム真理教へのAnswerの一つとして
が挙げられていましたね。同様に
若者の宗教的志向性は今後どのように展開するのか、それにたいして教義・教学はどう対応するのか。こうしたけっして容易でない問題への組織的取り組みこそが、いま教団内で強く求められているのではないでしょうか。
と前述のエントリで書かれていますが、一般人である私たちこそ(まさに自分も学ぶべきだと)理解すべき項目は全く逆で、特定の宗教を比較した“教義や教化法の差”ではなく、それを信じてしまう人間側の“信仰生成過程の不可思議さ”でしょう。何故なら人は何かを“信じる”ことなしに、決して生きられず、常にオウムのような組織や教化法と隣合わせに生活しているからです。一度信仰を持った人にとって、その世界観は絶対であり、いくら一般的な通念に反した教義だとしても、自分の方が正しい生き方を貫いていると固辞してしまいます。
では頑な信仰は、一体どのように形成されていくのでしょうか?そして今の時代を生きる若者の宗教的志向性は、時代によって変化しているのでしょうか?
この問いの核心に迫り、私が最近読んで非常に共感した文章があります。それがオウム元信者であり、地下鉄サリン事件実行犯、広瀬健一氏の獄中手記です。
ところで、この文章を執筆している私ですが、昭和~平成のちょうど狭間くらいに生まれました。“地下鉄サリン事件”は、平成7年(1995年)に起こり、当時から今でも語り継がれている重大な事件です。ただ、私が育って物心がちょうど付いた頃くらいから“オウム真理教”や“松本智津夫被告”という言葉がTVから流れており、事件の顛末は当事者としてあまり覚えておらず、どちらかと言うと阪神淡路大震災のTVニュースの方が記憶に残っています。しかし、私と宗教との関わりは、大学生活が始まってから急速に近づきました。端的に言えば、一般的に「カルト」と呼ばれる宗教団体と出会い(当初は、そんな様子を見せずに近づいてきた)、教えを受け、それを忠実に守る人生を送るところだったからです。途中で教えている内容に懐疑を持ち、ネットで検索して団体の性質を知り、自ら関わりを絶って忠実な信徒になることを避けられました。ただ、まさか自分がカルトにハマるとは思っておらず、今考えるとかなり勉強不足、世間知らずの人間でした。それから自分でも宗教や人間の信仰・思考に関する本を読み漁っており、つい半年程前に広瀬氏の文章に出会いました。
『オウム元信者広瀬健一氏の手記「学生の皆様へ」』(2008年公開)
※綺麗な字ですね。ちなみにvol.6の最後に、関係するリンク先を全て記載しています。
この文章は獄中に居る広瀬氏が平成20年に執筆した文章で、総量はA4で59枚、約3万文字もあります。この手記自体はフェリス女学院大学の学生に向けてカルト予防のための講義を行うに当たり、藤田庄市という方がその資料として広瀬氏に執筆をお願いし実現したそうです。昭和63年頃、まだオウムが無名の団体だった頃。自らが、“オウム真理教のナウい教化法”にハマり、染まり、ついには地下鉄サリン事件の実行犯になってしまった広瀬氏。オウムと係わる中で、どんな心理状況に陥ったのか。広瀬氏は本や研究論文も参考にしながら自身の宗教的経験に言及しています。(実際に読みたい方のために、各項目できる限りAmazonや記事のリンクも記載しました。)オウムと禅の比較や、カルト組織の特徴、スピリチュアルにも言及されており、非常に貴重で興味深い内容です。最近、オセロの中島氏と占い師との共依存関係が話題になり、洗脳やマインドコントロールの話も耳にするようになりましたね。この文章は長いので、時間がある際にじっくり読んでもらい、もう一度カルトの存在、洗脳や信仰に対する認知を深めてもらいたいです。
そしてできるなら、FacebookやTwitterでこの記事をシェアしてもらえないでしょうか?大学に入ったばかりの新入生は、カルトの存在にリアリティを感じられないはず。サークルの勧誘期間中は、カルト教団の一番活動し易い時期だからこそ、この警告を全国の大学生にも読んでもらいたいのです。本当に、私の二の舞になって欲しくありません。また、原文を忠実にテキスト化していますが、他人の文章のため間違っている箇所があればぜひ指摘して下さい。(何箇所か英文もテキスト化できていません。どなたかテキストにしてもらえませんか?追記致します。)
最後に、地下鉄サリン事件を通じて亡くなった方のご冥福をお祈りすると共に、オウム真理教、並びに全国のカルト教団を通じて被害を被った方々の苦痛が、一刻も早く和らぐよう祈っています。
学生の皆様へ
「生きる意味は何か」―皆様は、この問いが心に浮かんだことはありますか。
この質問から私が始めた理由は、それが皆様の年ごろの人たちが抱きがちな問題であり、また、若者が「カルト」に係わる契機ともなるからです。
オウム真理教による事件以降も、「カルト」に対する警戒の呼びかけにもかかわらず、その被害が跡を絶たないようです。そのために、「カルト」に関する講座が貴公に開設されたのでしょう。そして、講師の方から「カルトへの入会を防止するための手紙」を皆さま宛に書くようお話がありましたので、引き受けさせていただきました。それが私の責務と思われたからです。
私は地下鉄サリン事件の実行犯として、被害関係者の皆さまを筆舌に尽くし難い惨苦にあわせてしまいました。そのことは心から申し訳なく思い、謝罪の言葉も見つかりません。また、社会の皆さまにも多大なご迷惑をおかけ致しました。その贖罪は、私がいかなる刑に服そうとかなわないと存じております。せめて、このような悲惨な事件の再発を防止するための一助になることを願い、私の経験を述べさせていただきたく思います。
カルトに係わる契機
前述のように、「カルトへの入会を防止するための手紙」を依頼されたのですが、いわゆるカルトのメンバーとしては、私はオウム真理教の信徒の経験しかありませんので、主にオウム真理教(以下、オウムまた教団)の話になります。
カルトは多様なことがらを提示して入会の勧誘をするそうです。オウムもその唯一の目的である解脱、悟りだけでなく、ヨガによる健康法や能力開発の方向からも勧誘するよう私どもに指示していました。そのため、信徒の入信理由は様ざまでした。
しかし、信徒の入信理由の特徴は、たとえば「生きる意味」に対する問いのような、解決が極めて困難な問題に関係があったことではないでしょうか。ただし、この「生きる意味」は、仕事に対する生きがいなどの日常的なことではありません。たとえば、「生まれてきた目的」に係わるような、形而上的ともいえることです。それゆえ、この問題はこの世における解決が困難です。仕事に対して生きがいが感じられないならば、適当な仕事を探せばよいのですが、「生まれてきた目的」などはその存在自体問題になることでしょう。
ところが、オウムは「超越的世界観」を有し、この類の問題を解決する機能がありました。これは、日常を超えたオウムの世界観においては、「生きる意味」や「生まれてきた目的」の解答が与えられており、信徒がその世界観を受容すると問題が解決するということです。他方、この世界観は非現実的であるために、それを受容した信徒は一般的社会における生活に適応しにくくなり、家族や学校、会社から離れて出家していきました。さらに、教団で集団生活をしているうちに、規範意識まで非現実的な教義に沿うものになり、ついに違法行為をするまでに至りました。
このように、「生きる意味」に対する問いはカルトに係わる契機にもなるので、その心理状態への適切な対処を考える受容があると思います。そのためにまず、その具体例をお話します。
私自身は、高校三年生のとき、「生きる意味」の問題を明確に意識するようになりました。そのきっかけは、家電商店で値引処分された商品を見たことでした。商品価値がたちまち失われる光景を観て、むなしさを感じたのです。ところが、それ以来、私はこの「むなしさの風情」を通して世界を見るようになってしまったのです。事あるごとに、物事の価値が気にかかりました。結局は、宇宙論のいうように、すべては無に帰してしまうだけではないのか…との思いが浮かぶこともありました。そして私は「生きる意味」―絶対的な価値に関心を持つようになったのです。そのときは、それまでは大仰に思えた、「朝に道を聞けば夕べに死すとも可なり」と述べた孔子の気持ちがわかるような気がしました。
このような心情に関しては、文献を調べますと、古今東西、類似の経験をした人が多数存在するようです。
スピノザは著書『知性改善論』の冒頭で次のように述べています。
一般生活において通常見られるもののすべてが空虚で無価値であることを経験によって教えられ、また私にとって恐れの原因であり対象であったもののすべてが、それ自体では善でも悪でもなく、ただ心がそれによって動かされた限りにおいてのみ善あるいは悪を含むことを知った時、私はついに決心した。我々のあずかり得る真の善で、他のすべてを捨ててただそれによってのみ心が動かされるような或るものが存在しないかどうか、いやむしろ、一たびそれを発見し獲得した上は、不断最高の喜びを永遠に享受できるような或るものが存在しないかどうかを探求してみようと。
トルストイもその一人です。当時五十歳だった彼は、外面的には申し分なく幸福な状況でしたが、価値観の崩壊から「生きる意味」の模索を始めています。そのときの心情を、彼は著書『懺悔』に記しています。
何やらひどく、奇妙な状態が、時おり私の内部に起こるようになってきた。いかに生くべきか、何をなすべきか、まるで見当がつかないような懐疑の瞬間、生活の運行が停止してしまうような瞬間が、私の上にやってくるようになったのである。そこで私は度を失い、憂苦の底に沈むのであった。が、こうした状態はまもなくすぎさり、私はふたたび従前のような生活を続けていた。と、やがて、こういう懐疑の瞬間が、一層頻繁に、いつも同一の形をとって、反復されるようになって来た。生活の運行が停止してしまったようなこの状態においては、いつも「何のために?」「で、それから先は?」という同一の疑問が湧き起るのであった。
この時分に最も私の心をとらえていた農事に関する考察の間に、突然、つぎのような疑問が起こってくるのだった。
「よろしい、お前はサマーラ県に六千デシャチーナの土地と、三百頭の馬を持っている。が、それでどうしたというんだ?……」そして私はしどろもどろになってしまって、それからさき何を考えてよいのか、わからなくなるのだ。またある時は、子供を自分はどういう具合に教育しているかということを考えているうちに、「何のために?」こう自分に言うのであった。それからさらに、どんなにしたら民衆に幸福を獲得させることができるだろうということを考察しているうちに、「だが俺にそれが何のかかわりがある?」突然こう自問せざるを得なくなった。また、私の著作が私にもたらす名声について考える時には、こう自分に向って反問せざるを得なくなった。「よろしい、お前は、ゴーゴリや、プーシキンや、シェークスピアや、モリエールや、その他、世界中のあらゆる作家よりも素晴らしい名声を得るかもしれない。が、それがどうしたというんだ?……」これに対して私は何一つ答えることができなかった。この疑問は悠々と答えを待ってなどいない。すぐに解答しなければならぬ。答えがなければ、生きて行くことができないのだ。しかも答えはないのだった。
自分の立っている地盤がめちゃめちゃになったような気持ちがした。そして立つべき何物もないような気持ちがした。今まで生きてきた生活の根底が、もはやなくなってしまったような気持ちがした。今や自分には、生きていくべき何物もないような気持ちがした。
以上の記述は、当時の私の心情に共通する点が多々あり、この種の心理状態の特徴をよく表現していると思います。特に「自分の立っている地盤がめちゃめちゃになったような気持ちがした。そして、立つべき何者もないような気持ちがした。」という表現には共感を覚えます。それゆえに、絶対的な価値を求める心理になるのではないでしょうか。
その後、私は哲学書や宗教書を渉猟したり、宗教の実践者の話を聞いたりしました。高校三年生ですと、大学受験の時期ですが、私は大学の付属高校に通っており、いわゆるエスカレーター式に学部に進学する予定でしたから、時間はふんだんに使えたのです。
哲学については、話は論理的に進行しているのですが、その根本の部分―数学でいえば公理―は哲学者個人の感性によって「真理」とみなしているように思えたので、私にはなじめませんでした。宗教についても、私に反射的に生じる反応は、「真偽をどのように確かめるのか」という抵抗でした。教義の核心が非現実的に思われ、根拠なしにはそれを受容できませんでした。
こうして、私の「生きる意味」の探求は行き詰まってしまったのです。そもそも、絶対的な価値を求めることが、ないものねだりであることは半ばわかっていました。しかし、宗教界をはじめとして、それを体得したという人が存在する限りは、自分で確かめざるを得ない心境だったのです。
結局私は、むなしさを感じなくして済む、実行可能な「生きる意味」を定めることによって、心のバランスをとるようにしました。私は理系の分野に関心があったので、将来の職業はその方面以外考えられませんでした。ですから私は、物理法則を応用して、基礎的な技術を開発する研究を目指すことにしました。理想的なのは、半導体素子の発明のような研究だと思いました。このような仕事ならすぐに価値がなくなることはなく、また、それなりに世の中の役にも立つとの考えでした。それより先のことについては、これを考えると何もできなくなるので、目をつむるしかありませんでした。
このように、何年かの間、私は「生きる意味」の問いを棚上げして過ごしていました。しかし、のちに、その問いの影響によって宗教的経験が起き、オウムに入信することになりました。その契機については後述致します。
次に、「生きる意味」の問いが起こる原因についてですが、以下のように、この種の問いは生理的不安定に起因することもあるようです。
思春期から十代後半(ときには二十代始めに入る)まで、成長しつつある人は重大な生理的不安定(すなわちストレス)を示す。ストレスホルモンは、後の成人時代の安定期に比較して有意に増加する。青年期に典型的な大きな気分の揺れは、この不安定さに結びついている。若者は取るに足らない欲求不満があると、多幸福のある熱狂から自暴自棄的に落ち込むかもしれない
人生のこの期間に問われる典型的な問いは次のものである。“それが一体何になるのか”“人生より何か重要なことがあるのではないか”このもどかしい衝動は自己認識の危機の問いで極まる。“私は一体何か”“何が現実か”
また、心理学者のウイリアム・ジェイムズも、人生のあらゆる価値に対する欲望が失われていく「憂うつ」状態から、心休まることのない問いに駆り立てられ、人が宗教や哲学に向かうことを指摘しています(ウイリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相上』桝田啓三郎 訳 岩波文庫)
「生きる意味」に対する問いが純粋に知的なものならば、それは当人に健全な精神の成長をもたらすかもしれません。しかし、以上のような要因のものならば、無意味なことなので、自覚してそれに巻き込まれない必要があると思います。そのような心理に関する知識があるだけでも、ある程度の予防になるかもしれません。場合によっては、専門家に相談する必要もあるでしょう。特に、その問いにこだわりや煩わしさを感じるならば、注意すべきです。性急な解決を図りがちになり、それだけカルトに接近する危険があるからです。
それでも、「生きる意味」の問い―あるいは、ほかの問題―の解決を、宗教をはじめとするある思想に求めるならば、その選択には細心の注意を払うべきです。前述のように、その解決は「超絶的世界観」に訴えざるを得ないので、その現実生活への影響が懸念されるからです。
ある伝統宗教などはそうだと思いますが、その安全性、有益性が歴史によって検証されている場合は問題ないでしょう。しかし、以下の要素を含むものについては避けるべきと思います。
討議デモクラシーの挑戦 ―― ミニ・パブリックスが拓く新しい政治 ――
Amazon.co.jp: 多数決を疑う―社会的選択理論とは何か (岩波新書): 坂井 豊貴: 本
「多数決」以上に民意を反映できる選挙方法とはどのようなものなのか?
みんなの心は絶対に一つにできない(アローの不可能性定理) - YouTube
小選挙区の死票半端ない 自民2500万票222議席 民主1100万票38議席 共産700万票1議席©2ch.net
小選挙区制の魅力 有権者2割の投票で8割が自民党議席に©2ch.net
今回総選挙の自民党の絶対得票率は、比例代表選挙で16・99%、 小選挙区で24・49%に過ぎない!
一選挙区から一人しか当選しない小選挙区制を採用している場合には、特定の政党に投票する傾向の強い地区を分割し、相対的に多数が別の政党に投票する傾向のある選挙区に吸収させることで、特定の投票を無効化することができる。
共和党のジョージ・W・ブッシュが、民主党の現職副大統領アル・ゴアを破って当選した。
獲得選挙人 271
得票数 5045万人
得票率 47.9%
獲得選挙人 266
得票数 5099万人
得票率 48.4%
Amazon.co.jp: 選挙のパラドクス―なぜあの人が選ばれるのか?: ウィリアム パウンドストーン, 篠儀直子: 本
「合理的無知=コストパフォーマンス的に、政治の勉強に膨大な時間を費やすより、適当に暮らしてた方が合理的。」
みんなの心は絶対に一つにできない(アローの不可能性定理) - YouTube
151 :名無しさん@12周年 : 2012/03/18(日) 21:15:38.52 ID:q4JH9ZwT0
>>127
どちらも同じ芸能人になったりするように
全く合理的ではない
多数論証
88% の人々が UFO を信じているのだから、UFO は実在する。
最も賢いクマと最も愚かな観光客の知能レベルは、ほぼ一致する。
理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書) | 高橋 昌一郎 | 本 | Amazon.co.jp
Amazon.co.jp: 不可能、不確定、不完全―「できない」を証明する数学の力: ジェイムズ D.スタイン, 熊谷 玲美, 田沢 恭子, 松井 信彦: 本
アローの不可能性定理とコーポレート・ガバナンス: 官庁エコノミストのブログ
[最大多数の最大幸福][ジェレミ・ベンサム][全体主義][ファシズム][ナチズム]
シンプソンのパラドックス: 集団を2つに分けた場合にある仮説が成り立っても、集団全体では正反対の仮説が成立することがある。
書評 「選挙のパラドクス」 - shorebird 進化心理学中心の書評など