はてなキーワード: とらドラ!とは
気になったので「アニメDVD・BD売り上げ一覧表まとめWiki」のクール別から同じように表にまとめた。
放送クール | 売上1位 | 2位 | 3位 | 4位 | 京アニ作品 |
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2003年夏 | おねがい☆ツインズ | D.C.~ダ・カーポ~ | フルメタル・パニック?ふもっふ | ぽぽたん | フルメタル・パニック?ふもっふ(3位) |
2005年冬 | The world of GOLDEN EGGS | 魔法先生ネギま! | AIR | まほらば ~Heartful days~ | AIR(3位) |
2005年夏 | BLEACH 尸魂界救出篇 | SHUFFLE! | D.C.S.S. ~ダ・カーポ セカンドシーズン~ | ガン×ソード | フルメタル・パニック! The Second Raid(7位) |
2006年春 | 銀魂 | 涼宮ハルヒの憂鬱 | ONE PIECE 9THシーズン エニエス・ロビー編 | しばわんこの和のこころ | 涼宮ハルヒの憂鬱(2位) |
2006年秋 | Kanon | コードギアス 反逆のルルーシュ | ウサビッチ シーズン1 | DEATH NOTE | Kanon(1位) |
2007年春 | 銀魂 シーズン其ノ弐 | 天元突破グレンラガン | らき☆すた | 魔法少女リリカルなのはStrikerS | らき☆すた(3位) |
2007年秋 | ウサビッチ シーズン2 | みなみけ | 機動戦士ガンダム00 | CLANNAD | CLANNAD(4位) |
2008年秋 | とらドラ! | かんなぎ | ウサビッチ シーズン3 | 機動戦士ガンダム00 セカンドシーズン | CLANNAD AFTER STORY(7位) |
2009年冬 | 続 夏目友人帳 | BLEACH 過去篇 | スレイヤーズEVOLUTION-R | 宇宙をかける少女 | 空を見上げる少女の瞳に映る世界(売上データなし) |
2009年春 | けいおん! | 涼宮ハルヒの憂鬱(新アニメーション) | 銀魂 シーズン其ノ四 | 鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST | けいおん!(1位)/ハルヒ2期(2位) |
2010年春 | けいおん!! | Angel Beats! | WORKING!! | 薄桜鬼 | けいおん!!(1位) |
「空を見上げる少女の瞳に映る世界」を除いた京アニ作品の平均順位は3.09位で、印象どおりの結果だった。
アニメDVD・BD売り上げ一覧表まとめWiki:https://www38.atwiki.jp/uri-archive/pages/57.html
この前、とらドラを見返した。
面白かった。
なんだかんだ言って、私はこの作品が好きなんだと思う。
みのりんはスポーツ少女で、当時片思いしていた相手に少し似ていた。
だからなのか。
大河も亜美ちゃんも可愛いし、好きだったけれど、なぜかみのりんに惹かれた。
大河のように人形のような美少女でも、亜美ちゃんのようにスタイル抜群のモデルでもない。
きっと、そんなところに惹かれた。
いや、好きになるわ。って思ってた。
でもこの前とらドラ見返して思った。
セーラー服姿でロッカーから出てくるとこめちゃくちゃ可愛いじゃん!
やっぱり歳を重ねると見方も変わるね。
亜美ちゃんとみのりんの、これから親友になれそうな所にほっこりしたりね。
オレンジ良い曲すぎる。
10年が経って、あの頃中学生だった自分は歳だけは大人になった。去年はエロマンガ先生で紗霧ちゃんに萌えていたことが記憶に新しい。
スペちゃん可愛すぎて辛い。
あーゆー女の子、率直に言って好き。
・桐崎千棘(ニセコイ)
・澤村英梨々(冴えない彼女の育て方)
・牧瀬紅莉栖(STEINS;GATE)
・アスカ(新世紀エヴァンゲリオン・設定上は金髪らしい)
taspo導入
iPhone3G販売開始
飯島愛が急死
Yes!プリキュア5GoGo!
劇場版天元突破グレンラガン・紅蓮篇
GENTE
光の海
インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国
レッドクリフ Part I
劇場版ポケットモンスター ダイヤモンド&パール ギラティナと氷空の花束シェイミ
相棒-劇場版- 絶体絶命!42.195km東京ビッグシティマラソン
アイ・アム・レジェンド
『キセキ』GReeeeN
『海雪』ジェロ
『ハリー・ポッターと死の秘宝』J.K.ローリング
金賞: あなたとは違うんです
銀賞: ~ですね、わかります
銅賞: ゆっくりしていってね!!!
・グ~!(エドはるみ)
・アキバ系
・メークレジェンド
・婚活
・これでいいのだ
・毒入りギョーザ
・暫定税率
エロゲの超かわいい女の子見てると、この世の女はみんな猿に見えてた
俺にとってこの世は猿の惑星なんだよ
なんかクラスで長澤まさみが可愛いとか、新垣結衣と付き合いたいとか聞いててもピンと来なかった
俺はシャルロット・デュノアちゃん可愛いとか乃木坂春香と付き合いたいとかそんな事ばっかり考えてた
でも逆に考えれば、二次オタじゃない人ってクラスのマドンナが「とらドラ!」の亜美ちゃんに見えてたり、
通学バスの隣に座った子が冴えカノの加藤ちゃんに見えてたり、部活のマネージャーがデレマスの日野茜ちゃんに見えてたりするのかな・・・
俺にとっては猿みたいな女ばかりでも、俺以外の人間はみんな「エロゲなみの女の子がちゃんと存在する世界」なのかな。
一生誰も愛せないまま、この猿だらけの世界で1人孤独に死んでいく。
俺が喉から手が出るほど欲したエロゲ―の世界を、俺以外の人間は普通に味わい、人生を謳歌していく。
猿は、俺の方だった・・・
まずは、外の世界から隔離した場所を造り、そこへ人間達を住まわせます。
飲むだけで空腹が満たされ、若さを保ち、健康でいられる”湖”をつくりました。
その水は、人間だけでなく、植物を潤し、空気もきれいにします。
身体にかけるだけで、汚れが取れ、傷が治り、とても良い香りに包まれます。
しかし、何ヶ月か過ぎると、人間達は不満を持つようになりました。
神様は、人間から男女の種別を無くし、その原因を取り除きます。
そして子孫を残せない代わりに、永遠の命を与えました。
調べてみると、綺麗な者が醜い者を虐げていました。
https://anond.hatelabo.jp/20171022210553
少し追記する
人間の英知とは、自身で出来ることの増加ではなく、環境を変えることへの志向から生まれた
例はいくらでもある
利便性と効率の追求によって、職人は消え、仕事は消え、人は人と仕事をしなくなる
人は欲求阻止体験を抱え込むことから解放されつつある。しかし苦悩場面を体験しないで済むということは当然その時発動される自我の防衛・工夫などの鍛錬をしないことに通じる。
人は言葉を使って考えることで世界を内的に再構成すると言われるが、欲求満足や快感が保証される社会では、個人はそうした作業負担を免れる。人格はその構成を拡散させたままでも生存できる方向に向かっており、人は欲求とその満足というパターンを得ているうちは良いが、そうでない時には著しく脆弱な反応を見せる、「考えない」存在になっていくことが懸念されるのである。
事実、対人関係だけはこうした欲求一満足という即物性を欠いている(人をモノ化した際には成立するが)。
現代人に残された難物がコフートの言うように周囲の人間との関係性に悩むことであるかもしれず、またそれも情報機器の助けによって容易に自己完結的な引きこもりへの道が用意されていると言えよう。
この「人をモノ化した際には成立する」というのが、今の日本で行われつつあるのではないだろうか
「現代のオタクは少女をどこまで「破壊」すれば安心するのだろうか」で書いたように
キャラクターとはそもそも、人間性を破壊しモノ化した対象を指す
また、現代における現実の人間関係がそもそも、葛藤回避的である印象もある
お互いに不快な思いをさせないよう、生ぬるい表面的な関係とやり取りに終始する傾向にあるのではないだろうか
その反動としての「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」や「とらドラ!」の存在が持て囃される一方で
彼らの世界には葛藤はなく、それを表現した作品への希求はなく、ただただ苦痛な体験をアニメ媒体を通して追体験させられているように感じられるのではないだろうか
そこにきて「Re:ゼロから始める異世界生活」において主人公が陥るような自己肥大と自己嫌悪といった葛藤に直面化させられると
「主人公が気持ち悪い」「かっこ悪い、見てて苦痛」という感想しか持ちにくく、自分と相対化してみることができなくなる
ネットにおいて「自分がその段階を通過していないから、スバルに対して"ああ、自分もこういう時期あったな"とみることができない」という指摘がしばしばみられるが
いわゆる「朝チュン」は多数含まれる。伝聞で筆者が確認していないのもある。
【少年漫画】
・BoysBe…(知っての通り1話完結で、セックスまでいかないことがほとんどだが友人によると3,4回あるらしい。俺も初期に1回あるのは確認した)
・涼風(最終回付近、そして出来婚。余談だがそのことを絶望先生にいじられていた)
【ラノベ】
・初恋マジカルブリッツ(行為シーン明確にあり)
・Room No.1301(開始100ページ行かずに主人公が童貞喪失する&後に実姉とセックスする)
根本的に、男にとっての恋愛は性欲&承認欲求のための手段でしかないから(女にとって違うのか、は知らぬ)、セックスしたら話が終わってしまうという事情のほうが大きいと思われる。
こんばんは。
そんなアニメ好きの端くれである私が好きな作品をつらつら書きたいと思う。
今なお乃絵派である。比呂美は強かさがある珍しいヒロインだと思った。
乃絵の真っ直ぐさとか、純粋さが画面からひしひしと伝わってくる。
学園ラブコメ、だけどひるドラ!
好きなキャラはみのりんだけど、見た目だけなら大河に惹かれる。
快活な面も、後半の情緒不安定さもまとめて好き。亜美ちゃんと仲良くね。
あと竜児いい人すぎる。
・青い花
とても丁寧で好きな作品だけど、とある事情で続編は望めそうにない。
「釣れますか?」という話と、ずっと苦労していたずかちゃんがアフレコするシーンはぐっときた。
それぞれのヒロインを4話で攻略するオムニバス形式のアニメ。今、放送されているセイレンと同じ高校が舞台。
結婚したいのは梨穂子、恋人にしたいのは七咲と薫、怒られたいのが絢辻さん。友達になりたいのが紗江ちゃんと森島先輩。
飯能市を舞台にしたアニメ。女の子たちが山に登るよ。癒されるアニメ、OP EDの作り方がとても好き。
オススメです。
この前ドラマ化された女子高生麻雀アニメ。未だに長野県大会編が一番好き。
麻雀のルールは全く知らないが、楽しめた。パンツがない世界なのだと思っている。
田舎町に引っ越してきた双子の兄妹を中心とした性春ラブストーリー。
瑛みたいな子、すごく好きです。
纏流子ちゃんかっこいい。
3話と7話がオススメ。
・アイドルマスター(765版)
キャラクターが可愛く、魅力的。
・花物語
物語シリーズの話。アララギさんの後輩の神原駿河が主人公。以前バスケで宿敵だった沼地蝋花と出会うが…。
沼地と神原のバスケシーン、ラストシーンのアララギさんの言葉が印象深い話。
ハルヒが少女漫画のヒロインにしてはクールで、そこがまたいい。
2期もあるが、個人的に1期の方が面白かった。男版セーラームーンで、何も考えずに見れる。
愛ってすごい
好きなキャラクターはピチットくん。
【今期見てるもの】
サターニャちゃん不憫かわいい。
・セイレン
常木さんんん!!もうね、絶対桃乃今日子ちゃん好きになる。奥華子さんが歌う爽やかなOPに映る彼女を見るだけで確信が持てる。幼馴染…!!!
長くなったし、これくらいで終わろう。
【追記】
思ったより反応があってびっくりしてます。オススメのアニメを挙げてくださった皆様ありがとうございます!
お察しの通り、マリー脚本やPAの作品は好きでついつい見てしまいます。
TARI TARI観てました!爽やかな作品ですね。ウォークマンに楽曲いれて聞いてます笑
凪あすのOP2の冬の冷たさや切ない感じ、とても好きです。美海ちゃん。
響け!ユーフォ二アムは観てて、丁寧だなと思いました。あの絵の綺麗さが驚異的。優子先輩についていきたい。
ここでいうリア充とは、具体的にはうちの弟を指す。うちの弟は兄とのテレビ権争いやゲーム権争いに負け続け、理不尽にも兄から漫画を読むことを禁止され、普通の子供が触れる程度のサブカルにすら触れられずに育った。結果、超リア充に育った。弟の部屋には学校のみんなからの書き寄せTシャツが2枚も飾られているくらいだ。思いっきりオタクに育った姉(私)からは眩しすぎて見てらんない。
で、この性格まっすぐでリア充で優しい弟(姉バカです)にアニメを今から勧めるとしたら、何がいいんだろう?そんな妄想をしてみた。
ガチのリア充はあのリア充たちの世界を見て何を思うのか、どうしても気になる。
この作品は冷静に考えるとありえないシーンの連発なわけだけれど、アニメーションという虚構の力で繋ぎきっている超力技アニメだと思ってる。その力技に免疫がないであろうリア充はどう思うのか気になる。
しんちゃん映画全部見てるわけじゃないけど、リア充の心にはオトナ帝国よりもこっちのほうが響きそうな気がする。
古いやつの方ね。ラスト近くの戦車との戦闘シーンが超かっこいいと姉的には思うわけですが、そういうかっこよさを感じる心は共有できるのだろうかと。
世界観がいい意味で馬鹿馬鹿しいこの作品。でも最終話とかすごく燃えるし、そういう男の子の燃えポイントはしっかり突いてると思うのですよ。その燃えポイントに乗っかってくるかどうか。
スポ根もの。舞台はサーカスだけど、やってることは超スポ根。弟はスポーツやってたリア充なので、これもきっとグッとくるのでは?
いや、私は大好きだけどさ。でも、この作品の凄みって普通の洋画っぽい話をアニメでやってしまったところにあるわけで、アニメに慣れた人間には衝撃だけど慣れてない人にはなんとなくありきたりっぽいなぁ、で終わってしまわないだろうかという懸念が。というか、リア充向きだと思うけど滑ったら悲しすぎる作品第1位。
なんていうか、好きな人には申し訳ないけれどもいきなりなんの説明もなくロボットに乗って戦う、というフォーマットの嘘くささがどうしてもリア充向きには思えない作品。これだけじゃないけどさ、そういうフォーマット。
多分オクタヴィア戦ぐらいまではグッときてくれると思うんだけど、クライマックスのほむら編でついてこれなくなりそうな印象。さやかとか杏子の心情って想像に難くないんだけど、ほむらの心情については空想慣れしてないと追いつけないと思う。
そもそも私があまりアニメ見てないじゃん!プラネテスとかハチクロとかのだめとかリア充向きっぽい作品は他にもあったけどそもそも私が見てないから勧められないってのがちらほら。
ラノベとエロゲの歴史的関係 - Togetterまとめを受けて、富士見ファンタジア文庫のテレビアニメ化作品をベースに、マイルストーン的にラノベ、エロゲ(ギャルゲ)、ラブコメ漫画を並べたものです。あくまでラノベが軸です。太字は富士見Fから刊行されている作品。
追記:あとからいろいろ追加したり変更したりしています。スマホの人はページの最下部にある「PC版」というリンクをクリックしてください。発売月まではちょっと面倒なので。すみません。
単純に「有名なラノベ」「有名なエロゲ」を知りたいなら他のリストを見てください。
統計表 ゲーム中央値/平均値順 ErogameScape-エロゲー批評空間-
エロゲが原作のアニメ作品の一覧とは (エロゲガゲンサクノアニメサクヒンノイチランとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
人の話しきかねー奴だな
そう言ってるだろ
こんなんおいしいおいしい言ってる奴がいるとしたら馬鹿舌なだけ
一生わかんないのかもしれないが
無理して見ることないだろ
自分は割と合うほうだ
まー外れも多いがな
あのな、俺だって無理して見たくなんかないの
「つまんないのに仕事が早くていろんなとこに顔出す・大きな仕事に顔出すクソ脚本家がたまらん」って
俺が避けようにも向こうが世に憚っててたくさんのごはんにウンコをかけてるんだよ
仕事が早くてちょっと絵が下手な奴に作画数カット回すのは妥協の作だけど
仕事が速いからってつまんない奴に「脚本」まわしたらそれは作品全部ウンコアジになるから本末転倒だろ?
お前は俺の意見に賛成しないとしても、このあたりのことは最初から言ってるだろ
話聞けよ
春の日差しには程遠い、寒さに震える増田の民は、暖を取ろうと灼炎鳥(ホッテントリ)の確保に勤しんだ。
しかし灼炎鳥を手に入れることのできるのは、ごく少数の選ばれし増田のみ。ここ最近では増田11人衆を名乗る一部のエリート集団が灼炎鳥を独占しており、多数の貧しい増田民は身の凍る思いで湖に釣り糸を垂らしていた。灼炎鳥は湖のなかを泳ぐ鳥であり、釣るものだからだ。
「はぁ……やはり釣れんか……」
老人は深い溜息をつく。幾数年を生きながらえた経験と勘こそが老人の武器であったが、如何せん彼の紡ぐ文体は堅苦しすぎて、ブクマカ鳥たちは喰いつかないのだった。
「おじいちゃん、おじいちゃん」
今年で五歳になる孫娘が、老人の外套を引っ張った。
「エサの主語が小さすぎるんじゃないかな。主語を大きくすれば、ぜったい釣れるよ」
老人は目を細めて微笑んだ。嗚呼なんとこの子は聡明なことだろう。
さっそく釣り針に特大の主語を括りつけて、湖面へと釣り竿を降ろした。
《人類はどうして分かり合えないのだろう》
老人の取り付けたエサにはそう書かれていたが、あまりの辛気臭さにブクマカ鳥たちは皆逃げ出してしまった。主語が大きい警察バードさえも逃げ出す始末だった。
繰り返すが、増田の世界では鳥が水のなかを泳ぎ、魚が空を飛び回るのである。
「やはりワシにはもう駄目なようじゃ」
老人はまたひとつ溜息をついた。
「おじいちゃん、こんなエサはどうかな?」
孫娘が小さな手で差し出したソレは、淡いピンク色でハートの形をしていた。
老人はかぶりを振る。
「いやこれはワシには扱えぬ。それは《ジェンダー論》の釣り餌じゃよ。ワシは30歳を過ぎた童貞じゃから、その手の話はさっぱりなんじゃ」
孫娘は首を傾げて、それじゃあ私はいったい誰から生まれたのだろうと疑問に思った。
「じゃあこのエサは?」
孫娘が次に持ってきたエサは、本の形をしていた。けれど老人はやはり首を横に振った。
「これは《ライトノベル論》の釣り餌じゃな。ワシが最近に読んだライトノベルは、スレイヤーズ・ブギーポップは笑わない・涼宮ハルヒの憂鬱・とらドラ!・灼眼のシャナ・キノの旅・扉の外・断章のグリム・人類は衰退しました・ミミズクと夜の王・とある魔術の禁書目録・僕の妹は漢字が読める・僕は友達が少ない・俺の妹がこんなに可愛いわけがない、くらいじゃ」
「良かった! じゃあおじいちゃんでもライトノベルは語れるんだね!」
「いやいや、昔はライトノベルを語るにはこのくらい読んでおけば十分だったんじゃが、今ではそれでも駄目なんじゃ。ラノベ警察に捕まるか、ラノベ天狗に仕留められるのが相場じゃのう……」
「ふぅん、つまんないの」
少女は岸に転がっていたバケツを蹴っ飛ばした。今日も一匹たりとも釣れはしなかった。
少女は湖の底へ向かって大声で叫ぶ。
「雑なラノベ語りだと他者のブログを批判する暇があるんだったら、自分の好きなライトノベルの一冊でも全力でおすすめしやがれ! バーカバーカ! あっかんべーだ!」
「ああ!! いかん!!」
老人は咄嗟に立ち上がった。だがすべては手遅れだった。
燃えさかる一匹の鳥が、孫娘の足を掴み、湖の底へと引きずり込む。
某アニメがEテレで再放送されるってんで話題ですが、まあ他にもこれいけるんじゃね?ってのはありますよね。
まああの局昔からいろいろアニメ放映してるんで、そもそもNHK向きってのが何なんだよって話ではありますけど。
んでまあ子供が見てもよさそう、健全そう、っていう作品をいくつかピックアップしてみました。(健全ってなんだ)
これはもう有名すぎるほど有名な競技かるた漫画ですね。NHK的にはCCさくらで有名な浅香守生監督作品でもあります。
いわゆる「スポ根」ものであり、老若男女に自信を持って薦められる傑作です。
マンガのアニメ化としては文句なしといえる出来で、素晴らしいです。
ていうかなんで日テレはこれを全日帯で再放送しないんですかね。金田一の枠にちはやふる放送してくださいよって前から思ってます。
これまた有名すぎるほど有名な少女漫画。そしてこの作品、ものすごいピュアというか、めちゃくちゃ「健全なお付き合い」してる恋愛漫画です。
最近は子供が見れる時間帯での少女漫画アニメが減りましたね。少女向けアニメ自体は元気なんですけどね。基本的に玩具販促モノがメインです。
たぶん商売にならないんでしょうね。そういうときにNHKには頑張ってほしいものです。
他にも「神様はじめました」「暁のヨナ」などの花とゆめ作品とか、少女漫画のアニメ化も最近深夜が多くて、なんだかもったいないなあと思うところ。
一言で表しづらいなんとも難しい作品なんですけど、まあ「心温まる」系の作品といっていいんでしょうかね。
映画の「たまこラブストーリー」はわかりやすいお話なんですけど、こちらはちょっと面白さを説明しづらいですね。
こういう独特の雰囲気を楽しむ感じの作品ってどうにも魅力を伝えづらいところがあるんですが、NHKにも「おじゃる丸」「カスミン」のような独特な雰囲気を持った作品というのがあって、
京アニ作品だったら「日常」よりもこっちの方がNHK向きかなあと思ったりはします。
NHKというか学校の教材として使っても良いレベルの作品です。ただ、重たい話なので、中高生以上向きですかね。
航空自衛隊小松基地を舞台に、航空救難団小松救難隊の活躍を描いた作品で、航空自衛隊が制作協力をしています。
最近某アニメやらなんやらでいろいろと言われがちな題材ではあるんですが、綿密な取材によるリアリティを追求した描写は本当に素晴らしいの一言。
自衛隊アピールするんならこっちをもっと推した方がいいんじゃないかとも思うんですが、まあそれは置いておきまして。
「月姫」「神様のメモ帳」などで悪評が目立つ桜美かつし監督作品なんですが、これを見ているか見ていないかで評価はかなり変わってくるのではないかと思っています。
魔法少女もののようであり、ジュブナイルのようであり、SFのようであり、ガールミーツボーイな作品です。
視聴者の予想を裏切る展開が予測されがちになってしまった「魔法少女モノ」の中で、少女の成長をメインに最後まで真っ直ぐ綺麗に突っ切った作品です。
子供向けというか、子供に見てほしいって思えるような作品ですね。SF的な要素が少々小難しいですが感覚でなんとなく見れるようになっていますし。
ただまあ、大人が子供に見せたいって思うものほど、子供は見たがらないんですよね。
コミュニケーションが苦手な主人公・真田ユキが宇宙人のハルに釣りに誘われたのをきっかけに成長していく作品です。ボーイミーツボーイですね。
主人公のユキ君の成長の描写がとても良いです。釣りに楽しみを見出し、少しずつ仲間を見つけていく過程がとても丁寧。
夏休みとかに放送されたらとてもいいなあ、と思う次第であります。
P.A.WORKSが手掛ける、青春オリジナルものの第3作。少年少女の青春を描いた気持ちの良い群像劇。
「true tears」「花咲くいろは」と比べると爽やかさでは頭ひとつ抜けてます。合唱が題材というのもNHK向きなところ。
京都を舞台に、下鴨家という狸の一家とそれを取り巻く人間やら天狗やらを描いた森見登美彦原作アニメ。
なんとなくスタジオジブリを思い浮かべる人もいるかもしれませんけど、まあ当たらずも遠からずって感じではあります。
「家族もの」なのでアニメオタクというよりファミリー向けの作品なんですよね。
すごい面白いんですけど、深夜アニメビジネスには向かないよなあって作品こそNHKが取り上げるべきものなんじゃないのかとも思うところであります。
これまたニッチなところのチョイスではあるんですが、面白いんですよ。
「女性の社会進出」という観点から見ても面白いんじゃないかと。NHKって朝ドラとかでそういうの好きですしね。
この作品、けっこう時代考証がしっかりしておりまして、大正時代の描写が非常に丁寧です、NHK的にそれ重要。
NHK向きとかそういうんじゃなくて、普通にいずれ放送しそうっていう話。Eテレとかは無理としてもBSとかでね。
とらドラ!とかもあり得そうな感じです。現在セーラームーンとかベルばらとか放送してるんでいつかは深夜アニメもそうなるんだろうなという希望的観測。
三巻くらいまで読んで、投げ出してしまった。
いや、テーマの重厚さとかは分かるんだよ。厨二テイストのバトルの中に「大人になるってなんだろう」みたいな、そういうテーマ性を持たせたいっていう意図は分かるし、それに関してはよく出来てると思う。
でも人物の心理描写がダメだった。全体的に、ファンタジーな側面と現実的な側面がごっちゃになってて読んでて納得がいかない。
主人公は突然殺気めいたりするし。なんだあれ。普通の大学生は人の殺気を感じたり殺気を出したりしねえよ。
別にファンタジーを現実的に描くのがダメだとは思わないというか、そこは大好きなんだけど。例えば「とらドラ!」だと、前半はテンプレ萌えアニメなキャラクターが話が進むにつれてすごいリアルになってくるところが良かった。
でも「惑星のさみだれ」だと、そこのリアリティーがごっちゃになってて、カッコつけた発言がギャグなのか本心なのかがよくわからん。
これを書いた増田だが、ただ殴り書いただけなのにちょっと反響があってしまって責任を感じている。
http://anond.hatelabo.jp/20150513013343
だから今回はちゃんと俺の言いたいことが伝わるようにまとめてみたよ!
あ、タイトルは注目を集めるためにつけただけで、本気でそう思っているわけではなので悪しからず。
本気ではないが、半ばそう思っているけれど。
俺はナルシストだ。
そして品がない。
育ちも悪いしコミュ障だし、人の気持ちもわからんしデリカシーも無い。
見る度に、チックが別れた女房と息子に会いに行くシーンと、インデペンデンス号が墜落するシーンと、ハリーの自爆間際の走馬灯とで3回泣く。
俺の読書体験を要約すると、『スレイヤーズ』にハマって呪文詠唱覚えたり『星の王子さま』に感動したり『それから』を読んで代助のガキっぽさに読んでるこっちが真っ赤になったり『キノの旅』を読んで1巻目のプロローグとエピローグ暗記したり『猫の地球儀』に号泣したり『世界の中心で愛を叫ぶ』に号泣した後で本屋に平積みされてる『ジョン・レノンにだまさされるな』をワクワクしながら手にとって20ページほど読んでそっと棚に戻したり『いちご同盟』に号泣したり『バトルロワイヤル』に号泣したり『殺×愛-きるらぶ-』に号泣したり『天使の卵』に号泣したり『アルジャーノンに花束を』に号泣したり『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んでわけもわからず激怒したり『ゼロの使い魔』読んでルイズに恋に落ちたり『フルメタル・パニック!』に号泣したり『とらドラ!』に号泣したり『永遠の0』に号泣したり『生贄のジレンマ』に号泣したり、まあだいたい号泣している。
こうして振り返ってみると読んでる本に脈絡ないなと思う。
ふらっと本屋で20ページぐらい立ち読みして、面白いなと思った本を買って読むからだろう。
あとは気分で話題になってるのを読んだりする。
テレビで『風立ちぬ』やったらしいから原作読んでみようか、とか。
夏目漱石とか太宰治とか川端康成とか谷崎潤一郎とか、国語の教科書に載ってるような文豪の作品も気が向いたら読んでみたりする。
ゲーテとかシェイクスピアとかカフカとかも、読んでみたことはある。
その中で、この人の書いたものは全部読まなきゃダメだ!って思わせてくれたのは秋山瑞人だけなんだよな。
『イリヤの空、UFOの夏』を読むと、
「ぼくは笑わない」
榎本の瞳の中に、どこか臆病な光が滲む。
「なぜそう言い切れる」
何度読んでもここで泣く。
これこそが文学だと思う。
さて、自己紹介もすんだところで俺の陳腐なブンガクロンの話でもしようか。
俺がむかっ腹が立って仕方がないのは「読書を教養を蓄えるための苦行と考えている人間」これに尽きる。
読書は面白いからするのであって、苦しむためにするわけじゃない。
ミステリが好きな奴は犯人探しにうんうん頭を悩ませるのが好きなんだろ?
重厚な哲学書みたいなのが好きな奴は、難しい話を読むのが好きだから読んでるんだろ?
読書が好きな奴にとっちゃ、当たり前だよな。
まさか、スタバでMac広げるノリで、ファッション感覚で分かりもしない純文学読んでる奴なんていないよな?
世の中には少しはそんな奴いるんだろうけど、こんな所でまで文学にあーだこーだ言う物好きの中には居ないだろう。
だからこの文章を読んでる人は、俺の嫌いな人間じゃないはずなんだ。
で、なんで読書が苦行と結びつくかと言うと、いわゆる「タメになる名作」って奴が歴史の洗礼を受けて生き残った、古い小説になることが多いからだ。
古い小説には、現代に生きてる人間にとって見慣れない表現が多く使われている。
当時の人にとって「ぐいぐい読ませる美しい名文」の集まりが、読書経験の少ない人には、まるでお経かなんかみたいに見えてしまっているわけだ。
だから「教養の無い人間にとっての、教養のための読書」は苦行になる。
そして、少し本を読んでるってくらいの俺にとっても、やっぱり明治の文豪の書いた文章は、血の通ったものには見えないんだ。
俺の思考、心、俺自身を構成する言葉の一部とは思えないんだよね。
なぜならライトノベルは、俺の心を作っている言葉、そのもので書かれた物語だからだ。
俺の体の中にある思考や心を、本という形で取り出した物だからだ。
文学かじってるような奴らは、『不朽の名作』なんて小っ恥ずかしい妄想を本気で信じてやがる。
断言してやるが、そんなもんはこの世に1作品足りとも存在していない。
全て名作は朽ちていくんだよ。
それは、作品に込められたメッセージが古くなるのではなくて、俺達が読めなくなるんだよ。
俺達には手が届かない。
だからどんな名作だって、その名作の本当の味を味わうことはできないんだ。
ショパンがその手で響かせていたピアノの音色を、俺達が耳にすることはできないように。
失われてもはや取り戻せない。
だけど、俺達はその片鱗だけでも、味わうことができる。
きっと完全ではないが、味わえる。
だって、人の心には百年でも千年でも、最も深い所に変化はないからだ。
そう信じるに足る何かがある。
眩いだろう。
なんか胸がときめくだろう。
ナルシスティックな気分になるだろう。
何十年かしたら、今読まれているラノベは苦労なしに読めない物語になっていくのだろう。
教養のための本になっていくのだろう。
それでいいんだよ。
そしたらまた別の何かが読まれるさ。
そうして俺達は滅びていく。
俺達の感動は、俺達の号泣は、俺達のナルシスティックな情動は、受験生を一喜一憂させる国語の試験の点数に押しつぶされて消える。
俺達が滅びた後で、意識高い系のインテリ気取りが20世紀末から21世紀初頭にかけての文学として、読み解くのに苦労するものとして、ラノベを語るのだろう。
それがちっとむかつくってだけだ。
以上のような行為類型を相互に重ねるためには多くの場合、主人公とヒロインの両者が同じ空間を共有する必要がある。その上で、これらの行為類型が場面ごとに重ねられていくことで両者の関係は変化していくことになる。本項はその組み合わせ方についてのものである。
空間の共有は大抵の場合共同作業を伴う。そうした共同作業の例として『はがない』における部活でゲームをする例と、『俺ガイル』における部活でクッキーを作る例を比較してみたい。
結論から述べると、筆者は『はがない』における部活は『俺ガイル』と比較してあまり出来がよくない印象を受けた。理由は単純で、『はがない』におけるゲームにおいて主人公とヒロインは相互に信頼や敬意といった点でなんら変化は無い。これに対して『俺ガイル』のクッキー作りにおいては、主人公はヒロインの姿勢に敬意を抱き、ヒロインもまた主人公の洞察に敬意を抱き、認識を改めるという点で両者の関係の変化が描かれている。
その場面の前後で両者の関係に変化がないのであれば、それを伏線として機能させる予定がない限り、そんな場面は不要と言っていいだろう。
あってもなくても話の筋に影響しない様な単調なイベントを大量に重ねることはギャルゲーでは認められるのかもしれないが、小説でやったら飽きられる、とは榊一郎も指摘するところであるが、「ボーイミーツガール」における「話の筋」とは主人公とヒロインの関係構築に他ならない。もちろん、「ボーイミーツガール」であり、同時にバトルであったりミステリであるならば、そうした類型の「話の筋」での必要性が示される必要があるだろう。
「ボーイミーツガール」において主人公からヒロインへ、もしくはその逆に対してなされる行為をこのように類型化し物語に沿って順に並べていくと、それが主人公とヒロインで反転もしくは反復、すなわち「構図の繰り返し」が散見され、さらにそうしたものほど筆者は「よく出来ている」という認識を持つ傾向が強いという認識に至った。
くどいと思われるかもしれませんが、これでも実際の画面になると印象度は思いのほか薄いもので、構図の繰り返しによる主題の強調という手法は、これでもかというぐらいにしつこく繰り返さなければ効果は期待できないものです。
押井が指摘するこの「構図の繰り返し」について、ボーイミーツガールとして認知されていると思われるアニメ『エウレカセブン』で言えば、周知の通り2話と26話は主人公とヒロインの位置、台詞回しを反転させた構図であり、そして26話が(低俗な表現ながら)「神回」と言われていることには、この演出が大きく影響していると言っていいだろう。
そしてラノベである「ボーイミーツガール」におけるこうした「構図の繰り返し」において重要なのは、「同じ構図で同じ行為が明白に異なる意思によってなされること」ではないかと筆者は考えている。
いずれも結果として同じ行為が反復、反転しているが、それぞれの理由は明白に異なったものである。最初の依頼ではヒロインは自分が直面した困難から逃亡するために主人公を利用しようとしてスールになることを依頼するが、主人公は場に流されることをよしとせず拒否する。二番目の依頼では主人公はヒロインの困難の重さを理解しており、彼女を助けるために自分をスールにするよう依頼するが、それが主人公へ自分の困難を押し付けることでもあることの認識から、ヒロインはこれを拒否する。そして三度目はヒロインが自分の困難を解決した物語の最後であり、困難から逃げ出すためではなく、純粋な好意からスールになることを主人公に依頼し、主人公はこれに応じる。
同様に『イリヤ』も見事な「構図の繰り返し」を用いている。1巻において教室におけるヒロインの助けを求める目に対し、主人公は「トイレ」と言って教室から逃げ出して一人トイレにこもるヘタレぶりを見せつける。そして3巻のクライマックスにおいてヒロインの助けを求める目に対し、主人公は1巻と全く同様に「トイレ」と言って、今度はヒロインを連れて逃げ出すための覚悟を決めて一人トイレにこもる。そこから続くトイレ内の描写の凄みについては本稿では割愛するが、この一連のシーンの評価は秋山瑞人のファンの間でも極めて高いと思われる(余談ながら例えば『E.G.コンバット 2nd』においても冒頭、クライマックス直後、そして物語の最後で「格納庫のGARPの前でルノアが泣いている」という同じ構図が繰り返されており、秋山瑞人はこの「構図の繰り返し」を意識的に多用している節が見受けられる)。
また、遭遇と物語最後のシーンで「構図の繰り返し」を用いている例もよく見受けられる。例えば『星海の紋章』においては主人公とヒロインの遭遇、そして物語の最後は「ラフィールと呼ぶがよい!」という、全く同じ台詞が用意されている。『ALL YOU NEED IS KILL』では「日本では食後のグリーンティーはタダだというのは本当か?」というヒロインの台詞で遭遇は始まり、最後は主人公が青緑色をしたカビのコロニーが浮かんだコーヒーを飲み干すことで終わる(こちらはちょっと捻りすぎた感が否めないが)。『俺ガイル』は不愉快そうにヒロインが主人公に毒を吐く場面で遭遇が始まり、ラストは楽しそうにヒロインが主人公に毒を吐く場面で終わるという点で構図が繰り返されているが、それ以上に物語最後の一文がタイトルである点の指摘で十分だろう。
『乃木坂春香の秘密』はヒロインの秘密が主人公に漏洩したのち、ヒロインは物理的、精神的に最後まで守られる存在であり、そして主人公は最後まで守る存在である。両者は精神的に対等な立場とは言いがたい。こうした一方的な依存関係の存在する関係はあまり筆者の好むところではなく、おそらくそれは筆者に限ったものでもないだろう。
『エスケヱプ・スピヰド』や『禁書』も同様に片方が他方を保護し続けるが、これらはヒロインの自己犠牲により保護者は非保護者に救助される場面が組み込まれている点で違いがあり、これによってその立場は対等なものに寄っていると言っていいだろう。
このように直接的な行為類型で均衡を取る方法もあるが、「構図の繰り返し」における主人公とヒロインの「反転」によっても主人公とヒロインの対等性は暗黙に読者に伝達する効果があるように思われる。
例えば『ゼロの使い魔』においては冒頭でヒロインから主人公に対し、主人公が使い魔であることが一方的に宣告され、主人公はこれに成り行き上しぶしぶ従うことになる。しかし物語の最後においては主人公はヒロインに対し、自分はヒロインの使い魔だ、と誇りをもってこれを肯定する。その台詞内容が示す立場の差と異なり、両者が(少なくとも精神的に)対等な関係であることを強く意識させる効果を生んでいる。
いい加減例に使うことにも飽きてきたが『とらドラ!』においても対等さは徹底して反転構造の反復によって強調されている。
ヒロインの好きな人が主人公にバレる、という出来事に対して主人公はヒロインに自分の好きな人を明かす。ヒロインに主人公は故意にボールをぶつけられ、ヒロインに主人公は手違いでボールをぶつける。階段で落ちかけたヒロインを主人公は反射的に庇い、ヒロインは反射的に主人公の無事を確認する。ヒロインの作ったマズいクッキーを主人公が食べて美味いと微笑み、ヒロインは主人公の作った美味しいクッキーを食べて美味いと微笑む。このように『とらドラ!』は徹底して反転構造を反復している。
さらに「呼称の変化」という形でもこの「反転」と「反復」が巧妙に使われている。ヒロインは自身の恋路への助力を一方的に主人公へ要求し、主人公の承諾をもって名前で呼び捨てにするようになる。その後ヒロインは二人が対等な関係であることを告げて協力体制の解消が宣言され、ヒロインは主人公の呼び捨てをやめる。そして物語最後において主人公はヒロインに一方的にヒロインの恋路への助力を宣言し、ヒロインを名前で呼び捨てし、ヒロインが返事代わりに主人公の名前を呼び捨てにすることで物語は幕を閉じる。
対等さの無い「ボーイミーツガール」は少なからず存在し、それを気にしない読者も一定程度いることは事実であろうが、より幅広い読者の支持を期待するのであればこうした主人公とヒロインの対等さへの意識がされて損は無いだろう。
ストーリーや設定が凡庸であれとにかく「キャラが立っている」ことが重要なのだ、と述べた上で林は次のように主張する。
主人公の個性さえ確立できれば、それが魅力的かどうか、感情移入できるかどうかなんて全部後からついてくるから大丈夫。魅力的な主人公が活躍していれば話は自然と盛り上がる
林トモアキ『現役プロ美少女ライトノベル作家が教える! ライトノベルを読むのは楽しいけど、書いてみるともっと楽しいかもよ! ? 』
なるほど。ところで人気アニメや漫画の二次創作小説に出てくる「キャラ」は(オリジナルキャラを除けば)おおむね人気キャラであり、おそらくは「キャラが立っている」ものだと言っていいだろう。もし林が言うように「キャラが立っている」だけでいいのであればこうした二次創作はどれも魅力的で感情移入できるものとなる。
二次創作小説の、特に好きなキャラのそれをひたすら読みふける人がいることは事実であり、ゆえに林の主張は間違いでは無いだろう。しかしそれが幅広い読者に通用するものかといえば筆者には肯定しかねるものである。
キャラ萌え特化の商業ラノベはもちろんある。しかしそれだけしかウリが無いのであれば、それはキャラ萌えが理解できない筆者のような(もしくはそのようなキャラクターは好みではない)読者に対しては全く面白みのないものと言っていいだろう。
キャラ萌えに依存せず面白いと思わせることが出来ることは、そうしたキャラ萌えにのみ依存したラノベと比較して強みになることは間違いない。そしてそうした強みとして、本稿で指摘したような演出法についての言及はもう少しされてもいいのではないか、と考えている。
才能やセンスはそれだけで価値のあるものだが、その多くは知識と思考によって技術化することが出来るものだと筆者は信じている。空を飛ぶ鳥に憧れて手をバタバタさせたところで一生空は飛べないが、航空力学を構築することで人類は空を飛ぶことを可能にしたのである。
本稿は筆者の嗜好に強く依存しており無批判に一般化できるものではないが、これまで感覚によってなされてきた演出技術を言語化することの可能性について、諸兄諸姉の検討の際の参考になれば幸いである。
さらにこの遭遇の多段階化は、それが単なる素朴な設定の開示であっても十分な効果をもたらしうる。『小説の秘密をめぐる十二章』において河野は谷崎の「少年」を例にあげ、少年が穏健な家庭の子であることがほのめかされることによってこそ、のちの異常性愛への没入のインパクトが強化されるのだ、と指摘しているが、ラノベはこれをより極端かつわかりやすく行っていると言ってもいいだろう。
例えば『マリみて』における第一の遭遇が「印象的な絵面」であるとは述べた通りだが、そこで一度教室の場面を挟んで理想の素敵な女性像として有名なヒロインの評判が語られ、お礼を言いに行ったところで第二の遭遇が生じる。そこで描き出されるヒロインは、自分の嫌なことから逃げ出すためになりふり構わず主人公を利用し、スールになるよう強要するというものであり、主人公(ならびに読者)のヒロインに対する見方は大きく変わることになる。設定だけを見ればこれは新規性のあるヒロイン設定とは言い難い。が、筆者はこの遭遇から十分な意外性を受けており、それは河野が指摘した例と同じ効果によるものと考えている。
同じく例えば『イリヤの空、UFOの夏(以下イリヤ)』の深夜の学校のプールにおける第一の遭遇は単純なものであるが、ヒロインの手首に埋まったものに気づいたところで物理的異質さが、そして「なめてみる?」「電気の味がするよ?」において精神的異質さが明かされる。なぜそれがインパクトをもたらすかと言えば、それはヒロインの設定の奇抜さではなく、それまでの描写は彼女の異質さを感じさせるものではなかった、という一点に尽きると筆者は理解している。
溺れて必死で主人公にしがみつき、ビート板を使って恐る恐る水泳を教わり、やっと少し泳げるようになる、という一連の「普通の女の子」であることの描写こそがこの急転直下を強力無比なものにしているのであり、だからこそ「なめてみる?」の異様さが際立つのである。もしここで気まずそうに手首を隠してヒロインがうつむき押し黙るといった、つまり「普通の女の子」がしそうな行動がなされていたとすると、全くつまらない遭遇と化すことはすぐにわかることと思う。
多段階化していつつも見方が変わらない遭遇だとどうなるかの例としては『IS』が挙げられる。教室でのヒロインとの再会という第一の遭遇ののち、寮が相部屋であることが発覚するという二度目の遭遇が発生するが、出会う前後で主人公ならびに読者によるヒロインへの見方に全く変化がない。『マリみて』や『イリヤ』と比較して意外性が無く、筆者にとってはひどく印象の薄い遭遇である。
最後に見方は変わるものの一拍置いていない(つまり段階化されていない)例について触れておきたい。冒頭で触れた『俺ガイル』は最初の遭遇から間髪入れずにその「意外性のある性格」が開示されるものであり、多段階化されていない。なるほど『俺ガイル』におけるヒロインの毒舌はそれだけで魅力のあるものであり、それは単独で読者の興味を引くことができるものだとは言えるだろう(筆者も決して嫌いではない)。しかしそれは「レイアウトの仕方」ではなく「描写の仕方」による効果であり、ヒロインの毒舌がそれ単独で魅力を得られるほどのものではなかった場合、実に陳腐でつまらないものだと筆者は考える(逆に言えば描写力が優れていればなんとかなる、ということの証左でもあるだろうが)。
念のため補足しておくと、陳腐な遭遇しか用意できない作品は全て駄作である、と述べたいわけではない。例えば『狼と香辛料』は荷台にもぐりこんだ裸の美少女が狼の化身だと明かすという意外性に乏しい遭遇であるが、ではこの作品が駄作かといえば筆者はそれほど悪くない作品だと思っている。ただし、その遭遇にインパクトを受け、興味を抱くことは無かったことも確かである。ここで張った伏線をクライマックスで回収しているため最後まで読んでみればなるほどと思えるが、もし立ち読みで眺めたのであればその場で本を置いていたと思う。
「ボーイミーツガール」の関係構築では、主人公とヒロインの恋愛感情が醸成されることは必須ではない(例えば『トリニティ・ブラッド』では恋愛感情は仄めかしすら無い)。一方で両者間の信頼関係の構築は必須と言っていいと筆者は考える。また信頼と似た効果を持つものとして敬意も有効に機能する。
さて、関係構築とは主人公とヒロインの一方が他方に何かをすることによって培われるものと言っていいだろう。その内容は小説それぞれによって様々であるが、一段階抽象化してみると次のような行為に類型化が可能であると思われる。下記で全ての行為が類型化されているわけではないが、いくつかまとめた上で、それらをどう組み合わせることが効果的な演出になりうるのかを述べたい。
遭遇の類型として「秘密の漏洩」を上げたが、あれが当人の意に沿わざるものであるのに対し、「秘密の共有」は意図的に自らの秘密を相手に共有するものを指す。
「秘密の共有」は信頼の表明がなされたという暗黙の読者の認識が得られる点で効果的であり、そして「秘密」は多くの場合、プライバシーと同義である。軽度な秘密から徐々に重大な秘密の吐露へと段階を踏まえて内容は変化する。軽度な秘密の典型例は電話番号を教える、住所を教える、そこから一歩進んで自室に入れる、といったものが挙げられるが、最も多用される「秘密」は「過去」であり、昔の笑い話といった軽いものから過去のトラウマまで「過去」は幅広く使える便利な「秘密」であり、重さを任意にコントロールできるという点で優れている。
こうした秘密の共有は信頼の表明であると述べた通り、一定の信頼があった上でなされることで読者に違和感なく受け入れられるものと考える。十分な信頼がなされたと読者に理解がされていない状態でいきなり重い過去の吐露を始めるヒロインなどは、自己陶酔中のメンヘラ設定を明らかにしたいのでもない限り慎むべきだろう。
『涼宮ハルヒの憂鬱』における曜日と髪型の関連の指摘や、『俺ガイル』における主人公がヒロインに友達がいないだろうという指摘など、観察によりヒロインのなにかに主人公が「気づく」ことを指している(ヒロインが主人公のなにかに気づくことも含む)。これはヒロインが主人公の評価を改め敬意を抱くきっかけとして、また主人公がヒロインに対する評価を改め、敬意を抱くきっかけとしても効果的に機能する。
余談ながら観察力のある主人公であることを印象づけることは、特にバトルものにおいても有効に機能するように思われる。例えば『禁書』や『バカとテストと召喚獣』、『エスケヱプ・スピヰド』はいずれも勝利をつかむきっかけとして敵に対する観察と気付きを用意しており、そこから作戦を練っている。最終的に単なる力比べになり、最強能力者である主人公が必然的に勝利するという陳腐さは、しかしそうした観察と気付き、そこからの作戦の演出が事前になされていることで読者に対する一定の納得感を与えるように思われる。もちろんそうしたものがなくとも最強主人公が敵を圧倒する物語に興奮できる読者がいることは事実だが、それにウンザリする読者も相当数いることも事実である。より幅広い読者を意識するのであれば、そうした演出一つを入れておく価値は十分にあると考える。
秘密の漏洩、共有や観察による発見など、なんらかの情報が得られる行為類型の結果として、共通点、すなわち似た者同士であることが発覚することは相手に対する親近感を惹起する。これは読者にとっての共通点でも同様であり、感情移入や共感を誘う要素と言っていいだろう。
素朴な行為であるがゆえに、信頼と好意を「少しだけ」喚起する点で高い効果を持つ。例えば大きな好意が得られる「救助」は大仰なものであり、特に好意や信頼を寄せてもいない赤の他人に対してそうした行為をする人物は、十分な理由づけが無い限り胡散臭いヤツという認識を与えるだけだろう。
これに対して「親切」はそれが当人にとって大した手間でない場合に実行されるものであり、人間関係が破綻していない限りは合理的な行動として読者に受け入れられ、その結果ほんの少し信頼と好意が得られることが自然に読者に認識されることになる。『シャナ』において主人公がヒロインにコーヒーを持って行ったこと、『とらドラ!』において主人公が朝食をヒロインにも分けてやったことなどはこの好例と言えるだろう。
相手を名字で呼ぶのか、名前で呼ぶのか、といった呼称の変化は古典的ながら現在も極めて強力にその認識の変化を読者に理解させる。『僕は友達が少ない(以下はがない)』におけるあだ名であったり、また『デート・ア・ライブ』のようなヒロインの名前を付ける、という行為も同じ効果を持つと言えるだろう。
なお、呼称の変化は一度しか使えないものではない。ある呼称を用いたのち、それを使わなくなる、という演出はその呼称を用いるようになること以上にその変化を強調する。遭遇時においてではあるが、こうした「呼ばなくなる」ことを用いた好例としては『星界の紋章』があげられよう。
一方から他方へなんらかの依頼(命令を含む)がされ、受け入れられることを指す。このとき、その依頼は明示的なものであるとは限らない。「ボーイミーツガール」における両者間のほとんどはこれに該当するが、物語を先に進める意味合いが強く、関係構築に向けて目立った効果をもたらすものではない。
一方でこの行為類型が「期待に応える」を伴って実行された場合はまた異なった効果をもたらす。最初からヒロインが主人公に対して好意を表明していたり、信頼を寄せていることが暗黙に前提となっているような「ボーイミーツガール」は珍しいものではなく(『イリヤ』『ベン・トー サバの味噌煮290円(以下ベン・トー)』など)、また物語の途中でヒロインが全幅の信頼を主人公に対して寄せるようになるものも多い(『SAO』『ココロコネクト ヒトランダム(以下ココロコネクト)』など)。
こうした例においてヒロインから主人公へ強い信頼に基いて依頼がなされている場合、依頼の達成に失敗することが強力な効果を持つ。ヒロインから主人公へ依頼した仕事の達成に主人公が失敗し、しかしヒロインがもう一度仕事を依頼することは主人公に対する深い信頼の表明として機能する上、主人公が次こそヒロインの信頼に応えようと努力する様は概ね読者の共感と応援を得られると考えられる。
例えば『ソードアート・オンライン(以下SAO)』ではヒロインが主人公に仕事を依頼し、主人公は成功し続け、それをもってヒロインが主人公に惚れこむという構造を取る。一方で『とらドラ!』においてはヒロインが主人公に対して依頼した仕事は失敗し続けるが、ヒロインが主人公に失望することは一度としてなく、最後にヒロインから主人公に同じ仕事を改めて依頼するという構造を取る(定義を読んでいれば誤解は無いと思うが、本稿ではいずれも1巻の内容のみを対象としており、シリーズを通してどうかは検討の範囲外である)。両者を比較してみると、筆者は『とらドラ!』の方がよく出来ているという認識を持つ。
『AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜(以下AURA)』で繰り返されるような単なる拒否は効果を持たないが、相手に対する尊重を以て拒否することは(一時的にはともかく)相手の不快を買うものではなく、むしろ信頼と敬意を勝ち得る効果を持つ。『マリみて』において主人公がヒロインからのスールの依頼を拒否したことは典型例と言ってよく、『のうりん』におけるデビークの手助けを(これまで助力を惜しまなかった)主人公がしない、ということもこの一形態と言っていいだろう。
この時、主人公にとってはその依頼を受けた方がメリットがあることが望ましく、そうした自分の利益を捨て、相手に嫌われる覚悟の上で拒否することはヒロインのみならず読者からの信頼も勝ち得る効果があると思われる。
単純な愛の告白のような直接的な好意の表明に限らず、嬉しそうに何かをする、微笑むといった行動によっても十分に好意の表明として読者に認識される。物語最後の場面においてヒロインないし主人公がこの行為類型を取ることが多く、ハッピーエンドとしての印象を読者に意識づけることで効果的と言えるだろう(『イリヤ』や『ALL YOU NEED IS KILL』がハッピーエンドか否かは意見の分かれるところであろうが)。
相手に伝わる形で行われるそれと、相手に伝わらない形で行われるものがあり、特に本人のいないところで信頼や好意を表明することは読者の理解と共感が得られやすいように思われる。好意の表明は繰り返し使うとむしろ好意の薄っぺらさを強調することになりかねないが、『ココロコネクト』のように相手に伝わらないところでそれがなされる段階を踏まえてから、相手に伝わる形でこれを行うことは効果を増すと思われる。
窮地に陥ったヒロインを主人公が助け出す、という行為類型は『禁書』『AURA』など非常に古典的ながら多くで用いられるものである。救助された側から救助した側に対する好意を含む感謝が読者に理解されやすい点で効果的だが、あまりにもわかりやすく、またありがちなものであるがゆえに陳腐な展開という印象を読者に与える危険性がある。
例えば『僕は友達が少ない(以下はがない)』におけるプールで絡まれたヒロイン2を主人公が助け、それによってヒロイン2が主人公に好意を抱く、という展開は筆者にとってひどく陳腐なものであった。
他方で『俺の彼女と幼なじみが修羅場過ぎる』におけるチンピラに侮辱されたヒロイン2を主人公が助ける展開や、『さくら荘のペットな彼女』におけるラブホに連れ込まれかけるヒロインを主人公が助ける展開はそれほど嫌いではない。
その違いはなにかといえば、おそらく単純にその救助行為が主人公にとってリスクの低いものか高いものか、という点と、救助の際に主人公が負傷している、すなわち自己犠牲を伴う点にあるように思われる。救助は主人公にとってリスクのあるもので、かつ、怪我を追ってまで勝ち得たものであるとき、救助された女性から主人公に対して寄せられた好意の大きさは「それだけの価値のあるもの」として裏付けられると考えられる。
その意味で、無傷でほとんどリスク無く救助したことで得られた好意はほとんど無いに等しいはずであり、にも関わらずヒロインが大きな好意を寄せる状態となり、そこにちぐはぐさと薄っぺらさを感じるように筆者には思われる。
『禁書』では記憶を喪失し、『AURA』では中二病を世間に露出し、『俺妹』では自分は変態だと言って父親へ立ち向かい、『タイムリープ』では自分の過去(未来)が変わろうが知ったことかと手紙を書く。自己犠牲は主人公がこれまで大事にしてきた何かを失ってでもヒロインを守ろうとする意思の明示としても機能し、ゆえにその対価として大きな好意と信頼が得られることに読者は納得がいくものであろう。
『映像ミザンセーヌの黄金則 ヒットする映画の作り方』において金子は次のように指摘している。
シナリオは筋書き(プロット)と描写(レンダリング)から成り立っていますが、シナリオからの分析局面では、プロットそのものはあとに残る印象要素ではないということです。複雑なプロットであればあるほど、観る人をひきつけはしますが、覚えることは難しい。したがって他の人にも伝えにくいのです。したがってプロットに関しては「面白い」「いい」だけ。覚えている印象のほとんどは、描写です。つまり、シナリオライティングのミザンセーヌに関していえば、レンダリングが重要だということになります。
ラノベにおいても抽象度の高い「筋書き」を具体的に「描写」していくという作業は多くの作家が認めるところである。映画は「筋書き」である台本と「描写」である映像に明確に分離可能であり、それと比較すればその境界は曖昧でありつつも、基本的な考え方としてラノベにおいても両者を区分することは可能であろう。
様々な作家による小説、ラノベの創作技法において、そこに書かれた技術がどちら寄りかを意識してみると、人物設定はどうあるべきか、世界と主題の関係についてといった「筋書き」寄りの内容に対し、「描写」寄りの内容はその紙幅のほとんどが正しい日本語講座に費やされていたりする。
正しい日本語で書けるようになりました、とは読者に苦痛を与えずに「筋書き」を伝えられるようになりました、というに過ぎず、そして苦痛なく読める文章であることは読者にとっては当然であり、その意味でこうした日本語講座は「マイナスをゼロにする」ものでしかない。実際、ラノベワナビを数年続けているような人であれば読めない文章であることは少ない。しかしそれがなぜつまらないのか、といえば、まさしくそれがゼロでしかないからではないのか。
一方で「ゼロではなくプラス」のラノベは確かに存在する。とすると「ゼロをプラスにする」、すなわち「筋書き」を単に読者に苦痛を与えずに伝える方法ではなく、魅力的に伝えるための方法はあるはずである。
ラノベを含む多くの創作論では「とにかく色々読め」という指摘がなされている。それは直接的な知識の吸収のみならず、そうした多読から無意識に「魅力的に伝えるための方法」を抽出し、そしてそれを自作においても無意識に利用するようになることを期待してのものであると筆者は考えている。
であるならばそれは、システマチックに再利用可能な一定の演出法――いわば「テンプレート」として抽出可能なのではないか。
仮にそうだとすれば、筆者はこの演出法には大きく二段階あると考えている。一つは筋書きを主たる場面に分解したとき、そのそれぞれの場面をより魅力的に見せるための場面展開の組み方、いわば「レイアウトの仕方」であり、もう一つは場面それ自体の品質を直接的に上げるための「描写の仕方」である。
金子が映像に関して指摘するように、ラノベにおいても「描写の仕方」の影響は非常に大きいだろう。しかし一方で「よく出来た話だ」という感覚を覚えるラノベがあるとき、それはこうした「レイアウトの良さ」によって得られる感触であり、それは文体が合わないとか、パロディが不快だといった個人の直接的な好みとは一つ別の次元での評価――「自分の好みではないけれど、でもよく出来た話だと思う」といった、評価の底上げに繋がる効果があるのではないか、と筆者は考えている。
「描写の仕方」については稿を改めるとして、本稿ではまずこの「レイアウトの仕方」についてのいくつかの私見を述べることとしたい。
本稿で抽出したいのはラノベの「筋書き」を魅力的に見せるための展開の仕方であって、あらゆる物語に普遍的に存在する何かではない。ロシアの昔話とギリシャ神話とキャラ萌え特化の現代ラノベに普遍的に存在する要素を抽出したところで、物語構造論的にはさておき「よく出来たラノベ」を書くためという点で言えば糞の役にも立たないと筆者は考える。
と大塚と新城をDisった上で、つまりある特定の様式における「テンプレート」の抽出が必要なのであり、本稿ではボーイミーツガールの様式をもつラノベに限定することとした。
ボーイミーツガールの定義として、例えば伊藤ヒロは「涼宮ハルヒやゼロの使い魔など、メインヒロインとの「出会い」がきっかけで平凡な主人公が非日常に入る、という構造」を持つと述べる。裕時悠示もまた「ヒロインが非日常をつれてくる」としており、まとめると主人公とヒロインの出会いとそれによる非日常の始まり、といったところだろう。
まず本稿では「主人公」は単に語り手もしくは視点人物とする。『涼宮ハルヒの憂鬱(以下ハルヒ)』においてはキョンが主人公であり、涼宮ハルヒはヒロインである。加えて主人公とヒロインの性別は問わない。『マリア様がみてる(以下マリみて)』においては主人公もヒロインも女性であり、『エスケヱプ・スピヰド』においては主人公は女性でヒロインは男性である。表現上の混乱を避けるため、本稿では男性ないし無性であっても「ヒロイン」と呼称する。
次に、では「非日常」とは何か。
例えば『灼眼のシャナ(以下シャナ)』では主人公はヒロインと遭遇する前に外敵に襲われ、これは明らかに「非日常」として描かれる。もっとも襲撃直後にヒロインとの遭遇がある以上、広義にはヒロインが「非日常」を連れてきたと言っていいだろう。ところが例えば『化物語』では主人公はヒロインと出会う随分前から怪異に接する生活に入っており、ヒロインがそれをもたらしたとすることには広義といえどいささか無理がある。
そこで「非日常」とは主人公を取り巻く環境の変化ではなく、主人公のとる「意識と行動の変化」であると筆者は定義した。『ハルヒ』も『シャナ』も『化物語』も、いずれもヒロインと遭遇後、主人公の行動はヒロインを意識したものへと変化し、その意識した行動を軸に物語が展開していくことになる。この点から本稿ではヒロインを「主人公が意識している相手」と定義する。
以上をもとに、本稿では下記の条件を満たすラノベをボーイミーツガールと考える。
なお、本稿におけるボーイミーツガールは排他的なものではない。ゆえに例えばハーレムラノベの代表格と言えるであろう『IS〈インフィニット・ストラトス〉(以下IS)』も、本稿ではボーイミーツガールとして扱う対象である。
これを基本条件として、さらに人気作の方が魅力的な展開が内在する確率が高いだろうという推測から、映像化された作品を中心に絞り込むこととした。
シリーズ化している場合、本稿での調査は原則としてその第一巻のみを調査対象とした。最初の一巻はそれだけである程度のまとまりを見せる構造を持っているだろうと思われ、またその出来がいいからこそ続刊が決定したと言うことができるだろう、という推測によるものである(細かく言えばボーイミーツガールとしてのひとまずのオチが付いたと筆者が判断したところで区切ったため、『化物語』はひたぎクラブのみ、『星海の紋章』は全三巻と対象範囲に差はある)。
以上からWikipediaのアニメ化されたラノベ一覧からランダムに選び出し、上記の条件に該当する作品50冊を調査した(一部個別判断からアニメ化されていない作品も含めた。また本稿では「ラノベ」の定義については特に踏み込まない)。これらを以下本稿では「ボーイミーツガール」と表記する。
長くなったが、以下やっと本題に入る。
本稿では「ボーイミーツガール」を遭遇と関係構築で成り立つものと考え、それぞれについて「テンプレート」を抽出することを試みた。いずれも個々のラノベからその要素の類型化をまず行い、次にそれらが実際にどう扱われているか、またどのような扱い方がされるとより「よく出来ている」と筆者が思ったか、という恣意的な判断によってまとめたものである。学術的な検討がされたものではないし、類型化の際の用語も筆者が勝手に命名したものでしかない点は注意されたい。
「主人公がヒロインとの出会いののち意識するようになる」とは、主人公のヒロインに対する見方が変わる、と換言してもいいだろう。その意味でヒロインとの物理的な出会いのみならず、「ヒロインに対する主人公の見方が変わる」ことも含めて本稿では「遭遇」と定義する。
さて、「よく出来た遭遇」は印象に残るものであり、そして意外性は印象を残す一つの要素たりえる。実際多くの「ボーイミーツガール」は遭遇時にヒロインの「意外性のある設定」を明らかにする。
問題は、その「意外性のある設定」は凄まじい勢いで陳腐化する、という点である。
突然同じ部活に所属することになったヒロインが毒舌家であることが明かされる『やはり俺の青春ラブコメは間違っている(以下俺ガイル)』、突然同じ寮に入ることになったヒロインが天才画家であることが明かされる『さくら荘のペットな彼女』、突然同居することになったヒロインがサキュバスであることが明かされる『ご愁傷さま二ノ宮くん』などいずれも「意外性のある設定」が明かされるが、それが筆者に十分なインパクトを与える意外性であったかといえば否定せざるをえない。ヒロインが魔王だろうが神様だろうがそれがどうかしたのかと微塵も関心を示せない読者は特に筆者に限ったものではないだろう。
筆者が考えるに、これに対するアプローチは大きく2つに分けられる。ひとつは「設定の極端化」、もう一つが「演出の工夫」である。
「設定」の新規開拓はもはやほとんど絶望的だが、既存の陳腐化した設定を極端化することによって意外性を勝ち得ているものは確かに存在する。例えばヒロインが挨拶代わりに主人公を撲殺する『撲殺天使ドクロちゃん』はその典型例と言える。問題は極端化が進めば進むほど馬鹿げた内容になりがちであること、さらに所詮は既存の内容の延長上にあることから読者の十分な意外性を得ることができず、陳腐で馬鹿げたものとしか認識されないリスクを内包する、という点である。
既存の陳腐化した設定を使い回しつつも、その演出によって読者の興味を喚起することは可能である。そこでまずいくつかの代表的な遭遇における演出の類型を整理したい(以下で全ての類型を網羅しているといった主張ではない。為念)。
クーンツは『ベストセラー小説の書き方』において、物語冒頭で主人公が困難に直面することが読者の興味を喚起する重要な要素である、としている。ヒロインの設定に意外性が乏しく魅力が無くとも、遭遇の場面の魅力はこの「困難さ」で補填することが可能である。ヒロインの奴隷だと告げられる『ゼロの使い魔』、異星人に狙われる立場だと判明する『這いよれ! ニャル子さん』、突如男性主人公が美少女に変わる『俺、ツインテールになります』などが具体例としてあげられる。
とはいえこれらの例において実質的に主人公が困難を自覚しているものは少なく、その解決へ向けて真剣に行動することはほとんどない。いわば形式的な困難さでしかなく、そうした困難さは筆者の興味を喚起するものではなかった。
一方で『シャナ』は主人公が強く困難な状況を自覚し、絶望するところで始まる。トーチ云々の中二病はともかく、ヒロインに命を救われたと思いきや「いやもう死んでるから」と否定され、残りわずかな自分の人生に悩む流れは使い古されたそれでありながら、筆者は悪くない印象を持っている。形式的困難に全く効果が無いわけではないだろうが、より効果的にしたいのであれば実質的困難とした方が無難とは言えるだろう。
偶然からヒロインの秘密を主人公が知ってしまい、ヒロインもまたその漏洩を把握する、という遭遇の類型もまた古典的展開と言っていいだろう。『乃木坂春香の秘密』などはこの典型例と言える。
知ってしまった秘密を主人公はどうするのか、秘密を知られてしまったヒロインはどうするのか、という次に当然起こるであろう緊迫した事態への興味を効果的に喚起させることができる上、それまで互いに無関心であった主人公とヒロインが相互に強烈に意識し始めることが読者に必然的に伝わる、という強力な副次効果を持つ。また秘密の漏洩はヒロインにとってみれば「困難の直面」に他ならず、そこで極限状態に置かれたヒロインがどのような行動をするか、とはそのヒロインの人格であったり本性を端的に表すものと読者に暗黙に理解させる点でも効果的に機能する。
その状況が主人公にとって予期せぬ事態であり、なぜそんなことになったのかという困惑と疑問が生じる遭遇は読者の興味を喚起するという点で効果的である。
例えば『タイム・リープ あしたはきのう(以下タイムリープ)』においては記憶の混乱という謎がまず読者につきつけられ、その解決が物語の主たる軸となる。『のうりん』においては主人公の崇拝するアイドルが電撃引退の上突如転校してくるが、彼女がなぜ転校してきたのかが物語の中心に据えられている。
しかし『タイムリープ』と『のうりん』を比較すると遭遇の出来の良さは(筆者にとっては)圧倒的に前者である。その違いは、おそらく単純に「読者の興味を引く謎か」という一点に尽きると思われる。この類型はヒロインの設定の意外性ではなく謎の意外性で勝負していると言ってよく、ゆえにどれだけ読者の興味を惹起することのできる「謎」を思いつくかがこの類型の要点と言っていいだろう。
例えば『マリみて』における「タイが曲がっていてよ」のように、これまでに見たことが無いような強いインパクトを与える絵面を描くことで読者の興味を喚起することに成功しているものがある。
筆者は全く百合趣味が理解できないが、そうであっても「美人が美少女のネクタイを締めてあげる絵」というのはなるほど悪くない絵だという実感が得られ、印象に強く残っている。
『マリみて』ほどの強力さは筆者には感じられなかったが、例えば『とある魔術の禁書目録(以下禁書)』における「帰宅したらヒロインがベランダにひっかかっていた」という絵もこの類と言っていいだろう。
以上、いくつかの類型を述べたが、より効果的に演出する方法としてこれらを多段階構成にする、という手法があると筆者は考えている。
例えば『俺の妹がこんなに可愛いわけがない(以下俺妹)』ではまずヒロインのエロゲ趣味が主人公に漏洩する第一の遭遇(秘密の漏洩)があり、それについての一段落が描かれたのち、夜中ヒロインが主人公の自室に侵入する第二の遭遇が発生する(謎の提示)。
『化物語』の第一の遭遇は階段から落ちたヒロインを抱き留めるという古典的なそれであるが、これは同時に「ヒロインに体重が無い」という「謎の提示」と「秘密の漏洩」として機能する。次にヒロインの病弱さがひとしきり語られたあとで、ヒロインがカッターナイフとホッチキスを主人公の口に突っ込み脅迫するという第二の遭遇が描かれる。攻撃的性格のヒロインに特段の目新しさはないが、文房具を凶器として使うこの絵面は筆者にとって十分インパクトがあった(印象的な絵面)。
『とらドラ!』の第一の遭遇はヒロインが主人公を睨みつけるだけの地味極まりないものである。ところが第二の遭遇はヒロインが机を吹き飛ばし掃除道具入れに隠れるところを目撃するという奇妙なものであり(謎の提示)、ラブレターの入れ間違えの発覚を踏まえ、その「秘密の漏洩」への対抗策として主人公宅へ夜襲をかける第三の遭遇と畳みかける。
興味深いことに、このときいずれも各段階の間に一拍が置かれている。それぞれの遭遇は矢継ぎ早に連続して矢を刺すというより、一本矢が刺さってちょっと痛みに慣れてきたところで二本目を刺す、というテンポと言ってもいい。
例えば『俺妹』ではエロゲをヒロインに返した際、その場でヒロインが主人公へ自室でそのゲームをプレイすることを要求しても物語上何ら影響はない。しかし一旦そこで一区切りさせ、主人公に「これで今まで通り、互いに無視しあう兄妹関係に戻るのだ」と吐露させ、その上でヒロインに夜這いさせることで、単にその場で依頼をするより読者に強いインパクトを与える効果を生んでいると考える。