はてなキーワード: 運営されるとは
いじめが何故起き、そして何故黙認されるのか、それは学校という空間が異常だからだ。
個人的背景も経済的背景も違えば勉学に対する意欲も成長の度合いも違う人間を集めて管理するなどそもそも無理がある。
その無理をどうにかするために行われているのが学校の治外法権化である。
治外法権となれば当然「外の世界」の法律は適用されなくなり、中の都合によって法は定められていく。
多くの教師が考えているのは生徒を管理下に置くことであり、分かりやすいヒエラルキー構造が教室に広がるのは管理するのには都合がいいのだ。
端的に言えば教師にとってはいじめは程度さえ大きくなければ歓迎してもいい状況である。
個人が個人の感情で暴力を奮っても、力関係が強いものがやったのであれば黙認されるべきであるという風潮は、教師が体罰をするにあたっても都合がいい。
クラスのリーダー的な存在が生まれれば、教師が機嫌を取るべきはそのリーダーと取り巻きであり、下位層にいる生徒は卒業までの間に壊れないかだけを注意しておけば良くなる。
社会が教職者に押し付けた無理を、教職者は学校という空間の法とモラルを歪めることで解決しているのだ。
もし、その歪んだ法を正そうとすれば何が起きるか?
「いじめ問題だけを隠蔽することを辞めさせれば良い」なんて簡単に考えているのだろうか?
そんなことを生徒や親が許すはずがない。
生徒が法によって裁かれるなら教師も同じでなければならない。
逆を言えば、生徒が法で裁かれることを免れているという後ろめたさが学校の治外法権化を支えているのである。
鎖はどれか一つの輪が断ち切られれば全体が意味を為さなくなるという話である。
学校とはそもそも教育施設を兼ねた監獄であり、現代の社会が抱える無理難題を無理矢理に押し込めた地獄の釜である。
この状況を生み出しているのは教育の現場であり、そこに子供を預ける両親たちであり、子供というものを無知な獣としか思っていないこの社会全体である。
そもそもをして全く違う背景を40人の人間に対して1人の人間が監視を行って管理するということ自体が容易ではないのだ。
これはなにも相手が子供だからではなく、大人であっても同じだ。
免許の更新、職場における集合教育、失業保険目当てで通う職業訓練センター、そういった所で後ろ側に席をとって周りを見渡せば話を聞いているフリをして寝ている大人やバレないようにスマホを弄っている大人が如何に多いかを目にできるだろう。
大人か子供かではなく、意欲もないのに教育の場に参加させれば自然とそうなるのである。
だが多くの大人たちはそういった場面で見かけ上はマジメに聞いている。
彼らには、免許を更新したいとか、教育を受け直しになりたくないとか、失業保険が欲しいとか、そういった極めて直接的な理由がある。
だが、小学校や中学校においてはこういった要素が薄く、それこそ出席をしなくても卒業をして次のステージに進むことが出来てしまう。
学校という空間は如何にして1人につき40人を真っ当な報酬系統も存在しない状況で監視するという異形をなしているのだろうか?
答えはシンプルだ。
教師と生徒という関係に超巨大な傾斜を設けて、教師が白を黒といえば生徒はそれに従うほどの力関係を用意するのだ。
これにより教師が与える体罰、精神的苦痛、各種のハラスメントは教育という概念として昇華され、一生傷が残る行為と物理的な接触を伴うセクハラ以外はあらゆる行為が黙認されることになる。
そもそもをして、強制的に集められた40人を1人が管理するなど、こういった異常な環境下でなければ容易には実現し得ないのだ。
もちろんキチンと環境を構築するという容易でない道を選ぶことも出来るが、それを実行しようとしたものもゆくゆくは燃え尽きていく。
25歳で教職についたとして定年までは40年、個々人の意欲のみを報酬とするには長すぎる時間なのである。
かくして学校という空間は独自の法によって運営される出島、監獄となる。
ではこの監獄島に外の世界をルールを真っ当に適用したらどうなるだろうか?
教師と生徒が平等になれば、暴走する生徒を止める手段は通報のみとなる。
教室において教師が出来るのはハラスメントにならない範囲までの注意、いわば善良な管理者の注意義務までである。
その範囲は決して広くはなく、今までであれば先立って体罰によって躾けることで無理やり予防できた数多くの人災に対処が及ばなくなるだろう。
教師は超人ではないので、人間としての限界を超えることは出来ないが、法の縛りを逸脱することを許可することで擬似的に半超人化していたものがなくなるのである。
授業や生徒の管理を妨害された時、今まであれば超法規的措置によって体罰をして解決していた。
だがそれが不可能になったらどうなるか?
証拠を集め、公務執行妨害を適用し、少年院に送られてもらうことを選ぶしかない。
他の生徒のことを考えればそうならざるを得ない。
生まれついての犯罪者として真っ当な職業に付く機会は、少なくともテレビで名前を聞くような企業に入る機会は場末のアルバイト以外では望めないだろう。
今までであれば鉄拳制裁を受け、顔の腫れが3日後に引けば終わったものが、これからは一生消えること無い履歴書の傷を引きずって生きることになるのだ。
そしてこれは何も極めて救いがたい悪童に対してのみ行われるのではなく、多動性を持つ生徒、注意力散漫な生徒、偶然虫の居所が悪かった生徒、いわばほぼ全ての生徒がそう言ったリスクを背負って通学するようになるのである。
元からそうだったと言いたい人にはこう言おう、もし治外法権がなくなれば通報されるリスクが10000000倍になった学校に通うことになる、と。
我々が声高に「いじめをなくせ。隠蔽を辞めさせろ」というのは簡単だ。
だがそれは「学校への治外法権の適用をやめろ。これからは学校で起きたありとあらゆる犯罪行為が法的措置の対象となるべきだ」ということなのだ。
さて、貴方の家の子供は悪戯の一つもしないで今日まで生きてきただろうか?
悪戯とは、相手が許さなければ犯罪になる行為であり、犯罪歴がつけば人生の可能性が半分以上消えるということを理解できているだろうか?
そんな自信は自分にはないなあ
散々叩きまくった上でいざ改善されたら「いや、俺は単に嫌いだと言ってただけなんだけど?ほな、さいなら」って消えてくタイプでしょ。
ちびくろサンボに「こんな絵本は許されないザマス!」と叫びまわったあとで、「まあそもそも絵本なんて低俗なものウチじゃ買わないザマスわよホホ」とか抜かすような人種。
広告業界からの収入が途絶えたインターネットは本物の虚無と悪徳が蔓延る魔境になる。
ダイレクトマーケするだけのHPが残って平和になりましためでたしめでたしとは絶対ならない。
匿名の暇人に噛みつかれる心配が減ったダイマスペースは間違いなく誇大広告の実験場となる。
増え続ける誇大広告に対してJAROの対処は追いつかず、ゆくゆくは完全放置の無法地帯に。
同時に、広告以外の手法によってネットで十二分な収入を得られるもの、違法カジノ、ポルノコンテンツ、薬物売買などが跳梁跋扈するだろう。
しかもそれらは宣伝の手法として広告が封じられた結果として闇の共有リンクによって強烈な巨大暗黒シンジゲートとなる。
巨大ダークウェッブシンジゲートは数多くの犯罪行為によって人々を誘い込み、結果として警察や軍隊の上位層に対してすら弱みを握るだろう。
今の時代、児童ポルノを楽しんだ過去がバレて生き残れるのは漫画家ぐらいしかいない。
それは世界の清廉潔白ではなく、多くの人間が清廉潔白のフリをすることに対して多大なコストを払うことを意味する。
結果として他社に犯罪行為の片棒を担がせにかかる犯罪組織が強い力を持つ社会を形成するのだ。
その力がインターネット全体に及び事を妨げているものが、広告文化と、それによって運営される無数の匿名系便所落書きサイトに住まう暇人共による相互監視なのである。
今の地獄を抜けた先にはより強烈な地獄が産まれ、その地獄はより強力にリアルに影響を及ぼし世界をダークパワーで呑み込むだろう。
広告に恨み辛みをあげるだけの者たちに耳を貸してはならない。
消えるべきは酸素水を平気で売り込むたぐいの業者であり、そういった業者がいなくなればそもそも広告業界が異常な広告を乱発することもなくなるのだ。
倒そう、酸素水。
まず、自分は「児相・弁護士会ルートでの一時保護専用施設や児童養護施設の受入対象ではなく(あるいは馴染めず)、DVシェルターに親と一緒に入所できる対象でもないが、家庭内で虐待を受け、孤立している子」については、性別を問わず広く受け皿が整備され、より多くの対象者が保護・救済されたらいいなと思っています。
その受け皿のひとつである子どもシェルターは、まいと@虐待どっとネットさんのおっしゃる通り、女性用子どもシェルターが主で(といっても絶対数自体が非常に少ないですが)、男性が入れる子どもシェルター(両性用・男性用)は非常に少ない状況だと思います。
一方で、そうした男性対象者の受け皿としては、歴史的には自立援助ホームが中心的な役割を果たしてきたと思います。主な対象者は20歳未満と子どもシェルターの中心的保護対象とほぼ同じで、都市部にも地方にも多数存在し(子どもシェルターの約10倍)、男性・女性の定員は全国で450人程度でほぼ同数です。http://zenjienkyou.jp/%E8%87%AA%E7%AB%8B%E6%8F%B4%E5%8A%A9%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0%E4%B8%80%E8%A6%A7/ (法的には、子どもシェルターも自立援助ホームの一種として公費支給されているそうです)
ご指摘の「カリヨン子どもセンター」では、「カリヨン子どもの家ボーイズ」と男性用自立援助ホームの「とびらの家」が併設されていますが、他の子どもシェルター運営団体では、シェルターは女性のみ受け入れつつ、自立援助ホームでは男性または両性をケアしているところもあります。例えば「ピピオ子どもセンター」は、子どもシェルターは女性用で、自立援助ホームは男性用です。「子どもシェルターモモ」は、子どもシェルターは女性用で、自立援助ホームは男性・女性それぞれの施設があります。
こうした性別によるケア体制の差は、ひとつには「女性より男性のほうが、20歳以下でもそこそこの収入を得て自立できる仕事があった」という歴史的事情もあるのかもしれません。男性は未成年でも「自分で働いて稼いで暮らしていく」というルートに早期から乗せやすいから、(入所中に一定の費用負担がある)自立援助ホームを中心に「孤立や虐待で家庭にいられなくなった子」を救済してきたように思います。一方で女性の場合は、この年齢で自立生活できるだけの収入のある仕事が相対的に少なく(あってもいわゆる夜職が中心)、最初から自費負担しながら自立援助ホームに入るというコースが取りにくいことから、先行する配偶者DVシェルターの枠組を一部援用する形で、自費負担のない「女性用子どもシェルター」という救済枠組が整備されていったように思います。カリヨン運営の方もこのような認識は持たれているようです。
社会福祉法人カリヨン子どもセンター事務局長の石井花梨氏は,「男の子の場合は,いわゆる『ガテン系』(肉体労働)の仕事があるので,特に若いうちは日給で働いても,割と安定的な収入を得られます。しかし女の子は,どうしても飲食系の仕事が多く,特に今はほんとうにアルバイトしかないので,よほど頑張らないと,アパートで独り暮らしするところまで,なかなかいけません。そこで頑張れなくなったときには,性産業に走ってしまう。そのことも含めて私たちは性被害だと思っています」
もうひとつ、これは個人的印象によるところが大ですけど、DV加害者である親側の「子に対する執着」の傾向には子の性別による違いがあり、親の家を出た18〜20歳の子は、男性の場合は親側には子を奪還しようとする意思がより弱く、女性の場合は親側の奪還意思がより強いため、現場では配偶者DVシェルターと同じように保護対象のセキュリティを重視し、運営場所を秘匿して運営される「女性用子どもシェルター」のニーズが強く認識され、提供されるようになったのではないかと思います。
最後に、物理的事情もあると思います。子どもシェルターも自立援助ホームも一軒家を借り上げて定員6人前後で運営するパターンが多いため、団体のキャパシティが小さければ男性は自立援助ホームでケアし、大きければ男性向けもシェルターと自立援助ホームを分けて、入所者のステージと課題の変化に対応したケアを提供しているように感じます。東京拠点でキャパシティも大きいカリヨンは、男性対象者の支援を2ステップに分け、緊急・短期支援段階は「ボーイズ」で、生活構築段階では「とびらの家」でと切り分けているように思いました。
(なお、まいとさんの場合、児相ルートの児童養護施設と自立援助ホームどちらにも入所を検討されたものの、精神的不調がある、精神科への受診歴があるという理由で入所できず、不幸にもこれらの受け皿の両方にアクセスできなかったとのことでした。https://readyfor.jp/projects/gyakutaiN_first これは確かに制度の欠陥であり、改善されるべきだと思います)
こういう事情もあって、「虐待に遭う男児・女児は同数なのだから、子どもシェルターも同数あるべきだ」という一部の論旨には、自分は首肯しかねます。一方で自分が「それと別に男性専用シェルターが必要かと言われると、自分はその当事者ニーズをあまり認知してない」と書いたのは、多くが女性スタッフで運営されている女性用子どもシェルターの対照物として「男性スタッフによって運営され、男性のみが入所することで『セキュアな空間』を提供できるシェルター」が当事者に求められている、という感覚があまりなかったからなのですが、ここについては、振り返ってみると、自分も勝手に「対照的存在としての」という(元の文脈にはない)読み込みをしており、反省しています。「児童福祉法の保護対象から外れた未成年のDV被害」という要素に対して、多くの自立援助ホームの枠組では最重視されていない種類のケアを男性向けにも提供できるなら、それが当事者にとって「よりよい」ことなのは間違いないです。そういう観点にもとづいて既存の男性用自立援助ホームの機能強化・支援強化を図ること、あるいは自立援助ホームとは別に男性が入所可能な子どもシェルターを作ることは、どちらも賛成します。
一方で、男性用子どもシェルターが希少なことで、あたかも家庭で虐待を受けている男性当事者を保護する仕組みが全く存在しないかのような印象を持たれている方々が批判者・擁護者の両方に見受けられるのは、それはそれで実態と乖離しているとも思います(nero氏のまとめだけを読んだら、そう思う方は多い気がしますが)。児相の一時保護所・子どもシェルター・自立援助ホーム・DVシェルターの随伴入所など、相互に補完しあう分散的な児童福祉セーフティネットが現にあることを前提に、どうやってこのセーフティネットを「より漏れや隙間がなく、きめ細やかな仕組み」に整えていけばいいか、という観点で話をしていくのが良いように思いました。
個人的に、その参考になるのが更正保護関連の仕組みだと思っています。保護司制度、更生保護施設、自立準備ホーム(自立援助ホームとは別)など法的根拠を持った救済基盤が整備されていて、就労支援事業者機構という組織を中心に官民連携も密になされており、企業会員の寄付や協力雇用主会員をベースにした生態系を作っています(地方の大手企業の役員などが機構メンバーになって、中小企業相手にこまめに案内・勧誘したりしています)。制度化によって硬直化してる面も感じなくはないですが、こういう、金の出処も確保した官民連携が更正保護以外の分野にも拡大されていったらいいなと思います。
ここまで書いて思ったんですが、もしかしたら、2022年4月からの成年年齢の引き下げによって、「制度の狭間」(民法上の親権下にあるが、児童福祉法の保護対象ではない)となる18〜20歳の救済を中心に構築されてきた子どもシェルターの性格は、今後は大きく変わって行くのかもしれないなと思いました。児童福祉法の定める保護年齢と成年年齢が一致したことで、結果的に制度の隙間が解消され、「個別入所者にコタン弁護士がついて、親権者との調整を図る」という子どもシェルター独特の法的支援要素が不要になるわけです。今後は子どもシェルターは自立援助ホームと再融合していくのかもしれませんし、よりDV被害のケアを焦点化した支援組織になっていくのかもしれません。そのあたりは両方を運営している団体の方々がどう考えているのか知りたいなと思いました。
コロナ下においては、実質的な意義が判然としない緊急事態宣言によって、様々な業種が営業自粛を迫られる。
これには大きく分けると二つの効果があって、個人が営む飲食店などの小規模な自営業者の弱体化と、対する巨大資本によって成立する大規模な業種(特に、顧客との接触を伴う業種)の相対的な弱体化である。
小規模な自営業者の受けるダメージは甚だしく、中には撤退を余儀なくされたり、悪くすれば自殺に追い込まれたり、あるいは債務が嵩み資本を取り上げられたりする経営者もいる。
このような小規模の自営業者がダメージを受けることによって起こる帰結とは、これまで自営業者に流れていた顧客の、より経営の体力がある大規模な業者への流入である。つまり、これまで小規模の自営業者に流れていた顧客が、コロナ下における自営業者の撤退などによって消費の矛先を変え、より経営の体力のある大規模な業者へと向かうのである。
ここではまた、金銭の流れが統一化される。小規模な自営業者は甚大な打撃を受け、産業から撤退し、大規模な業者が、これまで小規模な自営業者が取っていたパイを掠め取ることによって、相対的に伸長することになる。
一方で、大規模資本によって運営される業種においても、接触型の産業は相対的に弱体化する。例えばUSJの運営が正にその事実に直面している。GW期間中に一切の商売を停止しなければならないという政府の要請のために起こる機会損失は、非常に甚だしい。
このような機会損失によって、大資本に基づいて運営される大規模な業種も、今後の競争力において大きな影を落とし、他企業による買収への抵抗力を失うことになる。接触型の企業に限っては、大資本を伴う企業にせよ、非接触型の企業に対する脆弱性を(少なくとも可能性の上では)抱えることになる。
この場合非接触型の企業とは例えばappleなどがそうで、勿論店頭における端末販売は接触型の業種なのだけれど、インターネットを介した売買やあるいはアプリ販売におけるロイヤリティなどの商業行為は非接触的である。このような業種はダメージを受けにくい。接触型の企業との、非常に鮮明な対照がここにはある。
仮に大企業による買収などが今後行われるとすれば、そこにはコロナの影が落ちているといって過言ではない。
また、このような買収によって、やはり金銭の流れが統一されることになる。コロナ下において相対的に競争力の低い企業が、買収などによって相対的に競争力の高い企業に呑み込まれる可能性が、生じるのである。
ここまで、あくまで起こり得る可能性についてのみ限定して話を行ってきたため、厳密にはこの話は陰謀論に該当しないとは考えている。とは言え、これから述べる結論は極めて陰謀論的であり、全く裏が取れていない。以降の文が陰謀論の真骨頂である。
恐らくコロナの陰には、アップルコンピュータやグーグルといった非接触型の企業と、そしてそのようなコングロマリットとの間に大きなパイプを持つ米政府の存在がある。米政府は日本の官僚にコロナ下における対応を指示することによって、日本国内の特定の産業を弱体化させ、そして、最終的にその金銭の流れが、アップルやグーグルといった非接触型の企業へと統合されるように仕向けているのである。
ちょっと前まではこんなこと言うやつはよほど知能の発達に支障をきたしているか分かっててネタで言ってるんだろうと思ってたんだけど、去年くらいからいわゆる「普通の人達」の話を聞く機会が多くあって「あれ?ひょっとして日本ではそっちの考えがデフォなの?」とちょっと困惑というか落胆してるんだけど。まあそれはそれで知能の発達に支障をきたしてると言えるんだけど。それでもあまりにも「そっち側」の人が多すぎるんで、ちょっとね。
簡単に言うとな、個人というのはただ個人が存在するから存在しているのであって、社会のために社会の役に立つために社会をよくするために個人が存在するわけじゃねーんだわ。話が逆。社会というのは個人に奉仕するために個人の集団の合意の上に形成されるもんだから「社会をよくするために」個人を虐げてたら意味がねーんだわ。だったら初めから社会はいらねーわけ。もちろん個人は自ら合意した上で社会に参加してるわけだから社会(自分たち)のきまりは守らなくちゃいけねーよ? 守りたくなければ参加しなければいいだけの話だから。自分で選んだことはちゃんとしようや。人間として。
だけどな、それと「能力が上だから」とか「上位互換下位互換」とかは関係ねーんだわ。個人は全部違うってのは単なる事実で良い悪いじゃねえの。個体の発生の仕組みとして個人は全部違うようになるようにできてる。だがそれを横に並べて「上だ下だ」とか果ては「上は良くて下は悪い」とかってのは人間がいろいろ作った価値観の中のひとつに過ぎねーんだわ。絶対じゃないの。そして近代民主主義社会ってのはこの「人の間には上下があります」っていうアイディアを明確に否定するところからスタートしたわけ。わかる? 俺たちは自分で選んで「人間は平等です」ってルールを作って、そのルールのもとに運営される社会に参加することを自分で毎日選んで生活してるわけ。自分で選んだことはちゃんとしようや。人間として。それが嫌なら参加しなければいいだけの話なんだから。
で、優生思想だろ? 明らかに間違ってるよな? 社会より前にまず個人がいる。個人の中にはいろんなやつがいる。たまたま社会に役立つ能力に秀でてるやつもいればそうでないやつもいる。または特に理由もなく何となくエエなとされている形質(目が青いとか)を持ってるやつがいる。ここまでは単なる事実だ。優生論というのはこの事実の上に「人間の作った価値観の尺度(頭いいだとか背が高いだとか)に沿って人間に上下をつけて異なった扱いをすることを正当化しましょう」という思想だな? それは「人間は平等だ」というルールがある社会の外でやってください、という話になるわな。優生論は「その方が社会の為だ」とかいう詭弁を「自分の価値観」を正当化するために使うわな。それは俺たちが自分で選んできまりに同意して参加してる「平等な社会」とは別の社会だわな。どうぞ他所でおやりください、となるわな、当然。「そんな社会は虐げられる個人の為にならない」んだから。
わかるか? 世の中に絶対の悪なんてねえ。能力の低い自分が恥ずかしくてしょうがなくて「生まれてきたくなかった」と思うのはおまえの勝手だ。おまえがそう思うならおまえの価値観に賛同するやつを集めてダメ人間は最初から生まれてこない社会を作ればいい。そのことに構成員全員が同意してればおまえを止める奴は内にも外にも誰もいないだろう。そんなもん相手にしてられっか、馬鹿馬鹿しい。
世の中にはな、他人よりできなくても人生楽しんでるやつはたくさんいるんだ。そして俺たちは個人一人一人の幸福を実現するために一生懸命この社会を維持してるんだ。たとえそれが「完璧な社会」でないとしてもな。社会より人間の方が大事だからな。おまえはおまえの惨めったらしい自己憐憫をカワイーカワイーしてればいいだろう。そんなおまえにも社会の中で生きる権利は保証されてるし、嫌なら自分の足で歩いて出てくことさえ自由なんだからな。
ということだ。「自分の価値観」を「社会正義」とはき違えるな。自分のつまらん劣等感を社会のためとか言って正当化するな。
本当の社会というのはな、そこに暮らす人達は、おまえの程度のよくない妄想なんかよりもずっとずっと良いもので幸福なんだ。
そしておまえでさえそこに参加することが許されているんだ。おまえがそうしたければな。全て自分次第なんだよ。他人のせいにして逃げるのはガキだけだ。
簡単に言うとP2PのWebサイトを立ち上げる、あるいは利用する際に関わるプロトコルらしい。
中央サーバが存在しないことが利点だが、その代わりにコンテンツの保証というか担保がない。
このためIPFSの解説にはインセンティブを発生させるためにFilecoinが用意されているとしている。
が、普通に考えても不要になったコンテンツは分散型ファイルシステムから消える運命で、
個人的にはこれだけで世界中のインターネットが運営されることに懐疑的。
例えばWikipediaがあるい需要を終えてほとんどの人がアクセスしなくなったとして
いわゆるシードに当たる存在がいなくなった時点でWikipediaは消え去ってしまう。
これ、解釈としては間違ってるんだろうか?
実家では箸置きというものを使う習慣がなかった。確か4,5歳くらいの時だったと思うのだけれども、夕食の時間に箸の置き場所に困った自分は、茶碗に盛られたご飯に箸を突き立てた。ごはんの粘性は相当なもので箸はぴたりと静止してくれた。これならテーブルを汚すこともない、何て自分は冴えているんだと当時思ってたかは記憶にないが、それを見た母親は「箸を刺したご飯は死者への食事という意味を持つのでやめるべきだ」と言って俺のことを注意した。その言葉に強い反感を抱いて、「母さんは死者が食事をすると信じているのか」「死者への食事という意味を持つからといって、自分がそれをやめなければいけない理由はあるのか」といったような反論、というか質問を投げかけたように記憶している。それに対しての母の回答は「私は信じていないが信じている人はたくさんいる。そういった人が見ると不快になる」「宗教的な意図に関係なくとも、単純にみっともない」といった内容だった。幼少期の自分は親にとても従順であったため、釈然としないながらも引き下がった。
年を重ねるにつれて「宗教的な儀礼を除いて箸をご飯に突き立てるべきでない」という規範は自分自身にも深く根付いていった。思春期に差し掛かかるころには「日常の中でご飯に箸が突き立てられている光景」を見て直感的に不快感を抱く程度には。
さらに長じて倫理とか規範とかに興味を抱き始めてから、幼少期のこの出来事に対して強い反発を覚えた。幼少期の自分に対して母親が示したルールは、要するに以下2つのような意味合いとなると考える。
「私は信じていないが信じている人はたくさんいる。そういった人が見ると不快になる」より
①自分が尊重していなくとも、他社が尊重している信仰や規範(平時にご飯に箸を突き立てるべきでない)は、自分の便益(机を汚さない)を害しても配慮すべきである
「宗教的な意図に関係なくとも、単純にみっともない」→箸を突き立てられたご飯に対して「みっともない」と感じるのは明らかに生得的ではないと考える。実際のところ後天的に植え付けられた規範からの逸脱に対して不快になっていると考えると、
②すでに共有されている規範・マナーから逸脱すると人は不快に思うため、規範・マナーから逸脱すべきでない
ちょっと露悪的に書きすぎたきらいはあるけれど、この2つのルールって本当に正しいか。
①「自分が尊重していなくとも、他社が尊重している信仰や規範は、自分の便益を害しても配慮すべきである」について
当たり前であるが、個々人によって尊重している信仰や規範は違う。ただ、共通してる部分もかなり多く、例えば現代日本人の多くは自由や平等だったり人権思想に基づく価値観(以下、世俗倫理と表記)について、強く尊重すべきものであると考えている。信仰していると言い換えてもよい。一方で特定宗教の人格神みたいなものは信じていないし、その教義の基づく規範(以下、宗教倫理と表記)に価値を見出さない。見出さないは言い過ぎにしても、少なくとも自由や平等などの世俗倫理がより優越すると考えている。自分は平均よりかなりラディカルだと思うけれど、同様に世俗倫理を支持し、宗教倫理より優越すると考える立場にある。
具体的な例を考えてみる。例えば原理主義的なキリスト教徒が聖書を引用して「同性愛者は倫理的に悪であるため社会から排除すべきである」と主張しても自分はそれを尊重しないしその思想に基づく実力行使を許容しない。なぜなら「同性愛者は倫理的に悪であるとする聖書の記載」に自分は価値を見出さない。「原理主義的なキリスト教徒が同性愛に対して抱く不快感情」については価値を見出すが、「同性愛者の幸福追求権や自由権」がそれに優越すると考える。なぜなら自分は世俗道徳を尊重し支持しているからである。宗教倫理と世俗倫理が背反するときには世俗倫理が優越されるべきで、それは世論だったり、それに実行力を与える法律や暴力装置によって施行されるべきと考える。これは宗教倫理の優越を主張することを制限すべきでないという意味ではない。あくまで思想・信条の自由は最大限尊重されるべきであり、言論によるパワーゲームは続けられるべきだと考える。
ここまでの整理については大多数の人に同意してもらえると思う。「宗教規範」と「世俗規範」が対立して共存できない問題については、他社の尊重する「宗教規範」を踏みにじってでも自分が尊重する「世俗規範」の基づいて社会が運営されるべきと考える。どれだけ他者の価値観を尊重するとは言っても、共存できないものはある。そうなったら、その社会で尊重される規範は身も蓋もないパワーゲーム(必ずしも直接的な暴力ではない)で決定されるしかない。これについてはISISの騒ぎで個人的に痛感したのだけれど、実際問題として世俗倫理に反する宗教倫理を現代で志向しようとすると暴力に頼るほかないし、それに対するカウンターだって経済的・暴力的なパワーゲームで押しつぶすしかない。人権思想よりコーランの字義通りの解釈を尊重している相手に「お前は人権思想に反している!」と言っても対立者に対してはまるで効力がない。
さて、話を戻してこの理屈が「ご飯に箸を突き立てること」にどのように適用されるかを考える。ここで対立するのは「ご飯に箸を突きたてることで便益を得る」自分の自由権・幸福追求権と、「ご飯に箸を突き立てるべきでない」という宗教倫理である。これは共存し得ないので、世俗倫理を尊重する立場からすると「ご飯に箸を突きたてることで便益を得る」ことが優越すべきであると考える。不快になる人間に配慮して箸をご飯に突き立てないことは賞賛すべきかもしれないが、配慮をしないことについて非難されるいわれはないと考える。私はシャルリーを引き合いに出してもいいけれど、他者の規範の尊重は、私の尊重する規範を害さない範囲でないともちろん認められない。人権思想や表現の自由は自分にとって宗教倫理より優越する。宗教倫理を害す表現に対しての批判、「ムハンマドの顔を書くべきでないし、揶揄すべきでない」という主張は許容できても、ムハンマドの顔を書き揶揄することは制限すべきでないし、それに対する実力行使は許容できない。なぜなら自分は「ムハンマドの表象を書くべきでない」という宗教倫理より表現の自由という世俗倫理をより尊重する立場にあるからである。
まあ、そもそもこの「ご飯に箸を突き立てる」ことに対して特別な意味合いを見出してる教義って明確にはないみたいで、「仏教・神道の教えっぽいとみんなが認知してる慣習」以上のものでは無いっぽいので、宗教倫理とするよりも単純なマナーの問題と考えたほうが筋は良いと思ってます。ということで次の話につながります。
②「すでに共有されている規範・マナーから逸脱すると人は不快に思うため、既存の規範・マナーから逸脱すべきでない」について
これを言い換えると
・上記より、マナーを破る行為は人を不快にするため好ましくない
いやー完璧な3段論法が完成してしまった。ただよく考えると「マナーはそれがマナーであるから守るべきである」と言っているのと何ら変わりない発言である。そしてこの「マナーはそれがマナーであるから守るべきである」という考えについて自分はそれはそれはもう憎悪を抱いている。
まず、ここでいう「マナー」という言葉について自分は「緩い規範」くらいに定義している。例えば「人を殺すべきでない」みたいな基本的に絶対に逸脱すべきでないし、逸脱したら重大なペナルティと非難が避けられない「重い規範」とは対照的に、「逸脱するのはなるべくやめたほうが良い」くらいの「緩い規範」=マナーということで話を進める。
何かのマナーに価値があるとすると、そのマナーを守ることによってメリットがある場合であると考える。なぜならマナーとは往々にして「○○をすべきである」「○○をすべきでない」とい行動の強制を伴う規範であり、選択肢を狭めるものであるからである。基本的に選択肢は多いほうがいいと自分は考える。
さて、例えば「電車の乗り降りは降りる人を優先すべき」というマナー。このマナーが広く共有されていることにより、電車の乗り降りをスムーズに行うできる。確かにこのマナーを守ることによってメリットが存在するため、「電車の乗り降りは降りる人を優先すべき」というマナーには存在価値があるだろう。
ひるがえって「ご飯に箸を突き立ててはいけない」というマナーに価値があるだろうか。真っ先に思いつくのが「ご飯に箸を突き立てている光景を見ることによる不快感」を回避できるというメリットだ。たださらに思考をすすめてなぜ不快に思うのか?を考えると「ご飯に箸を突き立てるのがマナー違反であるから」に行きつくだろう。「ご飯に箸を突き立てること」に対して特別な意味を見出しているのは日本だけのようだし、ご飯に箸を突き刺して悦に浸っていた幼少期の自分を例にとってみても、この不快感は生得的なものとは思えない。(このあたり、まじめな研究があったらめちゃくちゃ見てみたいので情報大募集です)多くの人は後天的に「ご飯に箸を突き立てることはマナー違反である」と学習し、そのマナーが逸脱されたことに不快感を抱いていると考えられる。つまり、「ご飯に箸を突き立ててはいけない」からこそそれに不快感を抱く人がいるのであり、そもそもこんなマナーが存在しなければ多くの人は箸にご飯を突き立てられている光景をみてもおそらく何とも思わない。
マナーが増えるということはもちろんマナー違反が増えるということでもある。つまり、マナーが増えるとマナー違反による不快を感じる機会が増えるとも言える。これは本当に声を大にして言いたいことで、「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーは不快を感じる機会を増やしているだけである。不快を感じる機会は減らしたほうがもちろん良いので、メリットのないマナーなんて無いほうがいい。ご飯に箸を突き立てて机を汚さないメリットを自由に享受できる社会のほうが絶対にいい。自分がマナー業界を蛇蝎のごとく嫌っているのはこの辺が理由で、メリットのないマナーを創作して稼いでるあいつらマジで不幸の商人だよ・・・・・と思っている。
と、ここまで書いたけれども、実際のところ「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーにもメリットはある。マナーに合理的な意味があろうがなかろうが、「その場において支配的な規範=マナーに従順でない」人間、長いものに巻かれない・巻かれることのできない人間を排除する上では非常に有効に機能する。良く言えば自立した人間であり、悪く言えば協調性のない人間だ。こういう用途で使うならむしろ合理的なメリットなんて存在しないマナーの方が有用かもしれない。とはいえ、自分の信仰としてこういった排除のロジックは気に食わないのでやっぱり「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーなんて無いほうが良いと思う。マナー業界はいち早く滅びてほしい。
ここまで読んでくれた方なら、我々はご飯に箸を突き立てるべきであると十分に理解していただけたと思う。実際問題として「平時にご飯に箸を立ててはいけない」というマナーは多くの日本人に強烈に内面化されており、箸が突き刺されたご飯を見ると理屈に関わらず一定の不快感を生じてしまう。これは自分だってそうである。ご飯に箸を突き立てる人は、間違いなく突き立てなかった時より嫌われる。それでも、嫌われるから、すでに定着してるからなんて理由で有害なマナーを継承していいのか。それがなんであり、どのような影響を与えるかについて何の疑問も抱かず、ただ「私はマナーを守っているから道徳的である」と悦に浸っているだけでよいのか。それは将来の不幸を増やしているだけじゃないか、そんなものに迎合していいのか。他人に自我を預けていいのか、自分を誇れるのか。
「ご飯に箸を突き立てるなんてマナー違反だ」という前に少し考えてほしい。なぜ?と聞かれたときに十分な説明ができるだろうか。誇りをもった説明ができるだろうか。実際、子供にそれを言わないのは難しいだろう。ご飯に箸を突き立てる子供は間違いなく悪意にさらされるし、それをはねのけろというのはあまりにも酷だ。でも、それがただの処世術だと伝えることはできるはずだ。幼児には無理でも、中学生、高校生ともなればこの理屈は理解できる人が多いはずだ。せめて、突き立てられたご飯を許容することはできるはずだ。社会は時に非合理で残酷になるが、あなた自身までそうなる必要はない。非道を止められなくとも、一緒になって非道をやる理由はないはずだ。ベストを選択できないことはベターを選択しない理由にはならないはずだ。
将来のことを考えてほしい。より良い世界のことを考えてほしい。私たちはご飯に刺さった箸を見たら不快になる。箸置きがなければ直接箸を置くしかないし、机の上はご飯粒でぐちゃぐちゃだ。まかり間違ってもご飯に箸を突き刺さないように気を付ける食卓はピリピリして緊張感に溢れている。それでも私たちがここで勇気を出してご飯に箸を突き立てれば、他人から嫌われることを厭わず「そんなマナーは無いほうが良い」と言い続ければ、そんな人が増えていけば、次の世代ではどうだろうか。「ご飯に箸を突き立てるべきでない」なんてマナーの存在を知らない世代の食卓はどんな光景だろうか。
彼ら、彼女らは箸置きがなければご飯に箸を突き立てることができる。箸置きが無くったって机は清潔に保たれるし、それを見て不快に思う人なんかいない。ご飯に箸が突き刺さっていたからそれが何だというのだ?机にへばりついた米粒なんて誰だって片付けたくはないではないか。ご飯に箸が突き立つ、そんな清潔でリラックスした食卓は朗らかな幸福に包まれている。それはささやかながら、今よりももっと良い世界であるはずだ。
これからの世界がそんな素晴らしいものであってほしいなら、これからの世界をより良いものにするため、私たちはご飯に箸を突き立てなければならない。
コロナ下の日本におけるトップダウン型の政策は、不明瞭な感染対策と歩みの遅い経済対策を生み出した。
この不安定な情勢で出てきた「検察官定年延長問題への抗議」は、ついに現代政治の限界を露わにしたように思える。
政権とそれに寄り添う人々は「定年延長決議自体は何も問題ない」というが、
国民が怒りを露わにしているのはそうした局地的な法律問題ではなく、今まで少しずつ溜まっていた「政治への不信感」によるものだ。
今の国民は、「与党vs野党」「保守vs革新」「自由主義vs社会主義」なんて図式には一切興味がない。
求めているのは、その政党が取る行動が強権的なのか協働的なのか、透明性が高いのか低いのかという「安全・安心感」という目線でしかない。
強権主義に陥らず、国民に説明責任を果たし、反対勢力に敬意を持って接しさえすれば国民は納得すると私は思う。
様々な政治形態がある世の中で、ポピュリズムが一定数の支持を集める理由はまさにこれであり、
現在のローテクで時代遅れな政治形態では、倍々で膨らむ経済と加速するグローバル化に対処できないことが分かっており、
目の前の魅力的で人々に寄り添う(ように見える)リーダーに、どん詰まりの状況を解決してもらいたいからである。
だが「強い」の意味が昔と違う。
現代の「強さ」は相手を言い負かす能力ではなく、相手と手を取り合う能力だ。
現在の日本の政治は、与党であれ野党であれ、それが出来ているだろうか。
何がなんでも安倍を倒すという一点では、意見の相違がないと思われる野党各党(維新は除く)。しかし、ここ最近、野党共闘に暗雲が立ち込めている。その理由のいくつかを、自分の観測範囲内でまとめてみた。
立憲民主は、希望の党が立ち上げられた時小池百合子に「排除」された立場なので、国民民主には恨み骨髄。また、国民民主が比較的保守的なのに対し、立憲はリベラルという違いもある。
立憲は国民民主の資金が欲しい(民主時代の政治資金を引き継いでいるのは国民民主)、国民民主は立憲の票が欲しい、という事情があり合流を模索しているが、政治スタンスの違いや主導権争いのため落とし所が見つからない。
数年前から、野党共闘でいつも問題になるのが共産党の存在。共産以外の野党の中には保守的な政治家もおり、こういった政治家の支持者は共産党との連携を嫌う。安倍もそれを分かっているので、野党共闘を崩す狙いで、しばしば共産を腐す発言をする。実際、幾人かの保守的な政治家は野党を離れて、自民に合流ないし無所属になっており、自民による切り崩し工作が成功している形。
国民民主の玉木は、昨年の参院選の結果を反省し「反対ばかりでなく、是々非々で行く。改憲の議論もする」と自民に譲歩するような発言をした。これがきっかけとなり、立憲支持者らは「馬脚を現したな、安倍の犬め」といった攻撃を開始。党内でも異論が噴出したため、玉木はトーンダウン。玉木はYoutubeで各党の政治家と対談をしているが、相手に合わせて調子のいいことを言う人間なので政治スタンスは不明。野党共闘にとってノイズになっている。
れいわの山本太郎が、消費減税に賛成しないなら立憲に対決候補をぶつけると言ったことで、双方の関係が悪化。以来れいわと立憲の支持者は、互いに互いを「野党共闘を邪魔しやがって。お前、安倍の犬だろ!」と罵り合っている。
昨年の消費増税による景気の冷え込みは、野党にとって、与党を攻める格好の材料と思われる。実際、共産・れいわ・国民は消費減税ないし廃止を言っている。しかし、立憲がこれに慎重。なぜなら、立憲には消費増税を決めた当時の閣僚が数多くいるため、増税が失敗だと言うと批判が自分たちに返ってきてしまうからである。
先日の京都市長選で、自民公明国民立憲社民推薦の現職と、共産れいわ推薦の新人が激突。これ自体はよくある構図だが、相乗り候補側が「共産党の市長はNO」という広告を出したことで、両党支持者の間で争いが勃発。また、これについて質問された枝野が「承知してないので答えかねる」と無責任な反応をしたことが、火に油を注ぐことに。
上述の通り、この一年ほどで立憲と共産・れいわの関係は冷え込んでいる。更なる関係悪化の火種となっているのが新型インフル特措法の改正。今回新型コロナ対策のために、同法が改正されるわけだが、安倍の協力要請に応じ国民や立憲は改正案に賛成。しかし、同改正案に緊急事態宣言を可能とする条項が盛り込まれているため、共産・れいわは反対。兼ねてからのいざこざもあって、立憲支持者、共産・れいわの支持者の間で、またも「安倍の犬め」と言い合う事態が起きている。
このように、野党間でまとまれない状況が続くと、漁夫の利を得るのは自民党だ。
景気の冷え込みや新型コロナで安倍自民は大きく支持を落とすだろうが、今の野党では自民支持を離れた国民の受け皿にはなれない。もし今年のどこかで解散総選挙が行われても、投票率が下落するだけだろう。そうなると、団体票・党員票を多く持っている自民が有利になる。実際、安倍政権が国政選挙で勝利し続けてきたのはこのためだ。
このままでは、国民の大半が安倍自民を支持せず投票もしていないのに、安倍自民が選挙で勝つという状況が起こることになる。それを避けるためには、野党が一枚岩になり統一的な政策を打ち出すことが急務…なのだが、それが無理なのも分かる。自分が勤めているゴミみたいな中小企業でさえ、派閥争いやいざこざはあって、それを止めることは難しい。様々な利権の絡む政治の世界となれば、なおさらだろう。
https://www.buzzfeed.com/jp/yutochiba/kensatsu
ここらへんの玉木議員の流れのどこか。
2020年2月26日 衆議院予算委員会 集中審議 - YouTube
https://youtu.be/ZwKh1Olb6vo?t=20638
入れなくていいって規定もない。
安倍:そうなの?
茂木:うん。
確かに「日」とか「時」で引いてもそれっぽいのは見つからない。
「保存期間及び保存期間の満了する日を設定しなければならない」みたいなのはポツポツある。
でも
公文書等の管理に関する法律 データベースに未反映の改正がある場合があります。
最終更新日以降の改正有無については、上記「日本法令索引」のリンクから改正履歴をご確認ください。
最終更新: 平成二十八年十一月二十八日公布(平成二十八年法律第八十九号)改正
https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=421AC0000000066#2
(目的)
第一条 この法律は、国及び独立行政法人等の諸活動や歴史的事実の記録である公文書等が、健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源として、主権者である国民が主体的に利用し得るものであることにかんがみ、国民主権の理念にのっとり、公文書等の管理に関する基本的事項を定めること等により、行政文書等の適正な管理、歴史公文書等の適切な保存及び利用等を図り、もって行政が適正かつ効率的に運営されるようにするとともに、国及び独立行政法人等の有するその諸活動を現在及び将来の国民に説明する責務が全うされるようにすることを目的とする。
人事院が法務省に出した文書「勤務延長に関する規定(国公法第81条の3)の検察官への適用について」は
https://blog-imgs-134.fc2.com/n/o/r/noranekookayama0424/1582698272166.jpg(http://noranekookayama0424.blog.fc2.com/blog-entry-1775.html)
(決裁もだが)今回は日付が争点のひとつであり、日付がないと「説明する責務が全うされ」得ない(あとから設定追加しても信頼度低下)。
みんなは連続ドラマ「おっさんずラブ」のことを覚えているだろうか。
恋愛単発ドラマから始まり、「おっさんずラブ」としてシーズン1が放映されたのは2018年の4月だった。
私はテレビの前にはりついているのが苦手で、ツイッターで流れてくる友人たちのツイートを眺めているだけだったが、放送時間になると度々トレンドに上がる「おっさんずラブ」は「今アツい流行りジャンル」といっても過言ではなかった。
ドラマの内容は、不動産会社に務めるモテない営業マン・春田が上司のパソコンに、自分の隠し撮り写真があることに気づいたところで日常が一変し、後輩の牧からも突然告白され、春田と春田をとりまく人々がおっさんたちの恋愛に巻き込まれるラブコメディだ。個人的に、ギャグ調でコミカルなところもありながらも絞めるところは絞める、気持ちのいい恋愛ドラマだと感じた。
ラストはいろんな困難を乗り越え、春田と牧が結ばれる形で感動的に幕を閉じた。
同年の6月にドラマの放送が終了し、その後、今年2019年8月に「劇場版おっさんずラブ 〜LOVE or DEAD〜」が公開され、公開13日目にして観客動員数100万人を突破。映画の感想も好評なものばかりで、応援上映も10月中旬まで開催されていた。友人も何度も劇場に足を運び、舞台挨拶のレポートを嬉しそうにツイートしていたのが印象的だった。
やさしい運営とオタクもニッコリの手厚い待遇に、羨ましささえ感じていた。
9月27日を迎えるまでは。
9月27日に公式アカウントがツイートした内容は、「不動産編は劇場版で完結したので、冬から新しい世界へ向かいます。ということで、メインキャスト2人はそのままで、他のキャスト一新、舞台は航空会社で、また“おっさんずラブ”をはじめます」というものだった。な〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜んやそれ。「新シリーズは11月2日からスタートします」ええ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。
続投のメインキャストの2人は、春田とその上司の黒澤だった。テレビシリーズの「おっさんずラブ」〜劇場版「おっさんずラブ」に生きていた、牧くんを始めとする天空不動産を取り巻く人々の姿はどこにもなかった。
春田と黒澤は名前も性格もそのままで、また一から別の人たちと恋愛をやり直すというのだ。春田はCA、黒澤は機長に!いったいどんなラブトリップするのかなo(^▽^)oワ〜〜〜ッッ!ってなるかい!!!!!!!!!!
まあ確かに????恋愛ゲームだと????今攻略しているキャラクターが終わったら???
次のキャラクターを攻略しよっかな???みたいな???気持ちにはなるけど?????私は春田ではないし????
春田と愛をかわした牧くんはいないし????どゆこと?????私が応援していた2人は?
つまんない意地や見栄、色々な障害を乗り越えて結ばれたピュアなラブは????
ネット配信で遅れてドラマを完走した私でさえめちゃくちゃに混乱していた、その脇で友人は地獄で溺れていた。かける言葉がなかった。だってメインジャンルが「おっさんずラブ」の人間だよ?
仕事で胃を壊し、腰を痛め、不眠症になり、食事もろくにとれなくなった友人を、見事に回復させたのが「春田と牧がいるおっさんずラブ」だった。
え〜と、え〜と・・・「結婚できない男」も続編でたよね、あべちゃんと相手役のひとの恋愛は破綻してたけど…とも言えるはずがない。
「結婚できない男」は2006年に放送され、13年たってから続編をつくられた。ドラマの世界も、第1シリーズの13年後が舞台になっていた。
おっさんずラブの猶予はわずか1ヵ月あまりだった。成人して馬車馬のように働き出して数年がたち、日々時間が過ぎ去っていくスピードを感じている中の「1ヵ月」なんて、体感1週間ぐらいじゃん。置き引きじゃん。ちょっと目を離した隙にってやつじゃん。
前日に、2人がペアリングしている写真を掲載して「2人の幸せがずっと続きますように」とかいうフォーエバーラブポエムのせておいて、次の日こんなことする????クソの2コマ落ちか。
次に公式が起こした行動は、ツイッターアカウントの改装だった。アイコンと名前も、新シリーズ仕様になった。牧くんがいた天空不動産編の映画は公開中なのに。
普通は新作用のアカウントをつくり、そこで新しいファンや今までのファンへ情報を届けるべきではないのか。
ふと公式を覗くと、公式のツイートに対して「アカウントを分けてください」といった要望のリプライが多数つき、ツイッターでは「#牧凌太」がトレンドに上がった。
その影響を受けてか、公式アカウントはアイコンをタイトルロゴだけのものに変更した。でも名前に入れられた「✈️」はそのままだった。
ひどい仕打ちにショックを受けた友人は公式のツイッターをブロックした。
それと入れ替わるように、私は公式をフォローして過去の情報を遡り、ツイートを逐一チェックするようになった。
友人が楽しみにしていた劇場版のオフショットの情報が流れているのをみて、「あれ、牧くんの写真が全然投稿されないな」と気づいた。
私と同じようなことを考えている人もおり、「朝ドラの契約の関係で」「無断転載対策で」と様々な憶測が飛び交うなか、劇場版のオフショをツイートするたびにくっつく「牧くんは?」に声に懲りたのか、牧くんのちっさい後ろ姿の写真が掲載された。エッ・・・。
後ろ姿であろうが小さかろうが契約は契約で、ここで「朝ドラの契約で写真を掲載できない」という憶測が潰され、性格が悪い私は「新作をゴリ押すためにわざと牧くんを出さないようにしているのでは」と考え始めた・・・。
世界線が違うとはいえ、元カレの存在は危険すぎる、牧くんの存在をチラつかせればうるさいファンたちがキレはじめる・・・。だから牧君を消し・・・?いいや、オタクの悪い癖だよ、自分の都合のいいことばかり考えるのは・・・。そう思っていた。
おっさんずラブのシーズン1で存在した上司・黒澤のインスタグラムが消えた。
正確には、投稿していたシーズン1の記事だけが消えた。そのインスタグラムは、作中と同じく黒澤が「春田を隠し撮りした写真を公開している」程で運営されている、公式のオフショットアカウントだった。
こちらもシーズン2が発表されるや否や、機長・黒澤の投稿がされた。Twitterと同じく、前と同じアカウントで運営されるのかとフォローを外し項垂れていた友人の姿を覚えていた。それが一ヶ月後に突然シーズン1の記事だけ削除されたのだ。
非表示にされているだけなので、あとでアーカイブされるかもみたいな希望的観測はもうない。その空になったインスタグラムに、つぎつぎに投稿が行われ、新シリーズの登場人物たちの写真が並んでいる。埋めるように。今までを。誰かを。何かを。
それではまるで、フォロワー数だけ引き継ぎたい、シーズン1はもういらないと言われているかのようだ。
どうしてこんなことをするんだろうと心から思う。
友人の身に起こったショッキングな出来事をどうにか説明しようと思ったのに、途中から私だけが先行してブチギレている文章になってしまった・・・・。
アカウントの運営には仕事上の様々な理由があるかもしれないが、なんの説明もなく、こんなことをされた側はたまったもんじゃない。
公式は発表できない事情があって…契約のタイミングがあって…をいったところで、公式がなにも言わない限りは憶測の域をでないし、
好きなものに関わっている人間が「自分にとって嫌な人間であってほしくない」という希望的観測が働いているのではとも思う。
真実はどうであれ、「アカウントを塗りつぶして、過去の記事を消した」のは変わらない事実だ。
写真や記事が消えても、春田と牧、天空不動産のみんなの物語はなかったことにはならないけれど、もっと他の終わり方を用意してほしかった。
楽しかった、嬉しかった、最高だった、大好き!・・・そして次訪れるかもしれない「おっさんずラブ」の存在を心待ちにしていたかった。
昨日はドラマシーズン1に登場する武川さんの誕生日だった。お祝いの言葉はなかった。
そして今日は牧くんの誕生日。公式は明日から始まる私と友人のしらない「おっさんずラブ」の新しいビジュアルを宣伝していた。
知らないドラマ、知らない登場人物たち、知らない黒澤、そして知らない春田・・・。
お昼にトレンドにあがった「#牧凌太誕生祭2019 」を見て、牧くんを好きな人がこんなにもいるんだと、それがわかっただけでも良かった。
「春田と牧くんじゃなきゃ嫌だ!」好きなものをずっと好きでいたかったのは、私のわがままでしかない。公式はそんなこと、知ったことではない。
友人が、そして私が春田と牧くんを愛したと同じように、明日から始まる新しいおっさんずラブを、空で生まれるピュアなラブストーリーを愛する人が生まれるだろう。
だが、これだけは覚えていて欲しい。
次は、
あなたの番です。
今話題になっているあいちトリエンナーレについて個人的に思うことが色々あったので書こうと思う。細かいことを話して特定されると普通に死ぬのでぼかすが、一応運営ボランティアとして展示に参加している。
クソ長い。
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最初に断っておくと、今話題になっている「表現の不自由展・その後」についてだが、私はぶっちゃけ見ていない。今となっては炎上が勃発した時点で見に行っておくべきだったと後悔しているのだが、いやだってまさか3日で終わるとは思わねえもん。
と、いうのも事前のボランティア研修とかで「表現の不自由展・その後」に注目している人は私の知る限りほぼ皆無だったからだ。一応警備対応とかの事情で説明は受けたがそれについて「楽しみだ」とか「心配だ」とか言っている人は居なかった。別に目を逸らしていたとか重大性を認識していなかったとかではなく、ちゃんと理由もある。
他の人は知らないが、個人的には「表現の不自由展・その後」については「色んな理由で各地の展示会から撤去された作品を集めてみました」くらいの認識だった。面白そうな企画だ、地獄のデスマッチ感がある。しかし確かに面白そうだが、言ってしまえばそれだけなのだ。
話が変わるが我々ボランティアが研修で何をやっているかと言うと、作品の知識を蓄えるのではなく、自身の感性に従って自由に鑑賞する、所謂対話型鑑賞とかVTS(定義は微妙に違うのだが)と呼ばれているものを実践している。具体的にどんな感じかというと、背景知識はほぼなしで作品を見て
「画面は綺麗だけど、人物の顔が悲しそう、破局を予兆しているのでは?」
などとそれぞれの感性や経験に基づいて解釈を語りあうのだ。これが結構楽しい。例えるなら深夜のファミレスでオタクが集まってエヴァ最終回について語り合っている状態に近い。割と何分でもやっていられる。
だがそういった観点から見ると、「表現の不自由展・その後」があまり魅力的でないことは分かってもらえると思う。「近代化」、「ジェンダー」、「作家自身の半生」、トリエンナーレには複雑なテーマを持った鑑賞しがいのある作品が沢山出品されている。「表現の不自由展・その後」は企画としては面白いがある意味「企画落ち」なのだ。事前に具体的な作品内容が分からなかったというのもあるが、それ以上掘り下げようがない。寧ろ中止になった今の方が色々語れる。
そんなわけで「表現の不自由展・その後」がここまでの話題になったのはかなり意外だったし、多くの人にとってあいちトリエンナーレの第一印象がそれになってしまったのは少し残念でもある。
さて「表現の不自由展・その後」の中でも特によく燃えていたのが慰安婦と昭和天皇絡みの展示だと思う。政治的にインパクト抜群だからだ。だがここまで千字くらい駄文を読まされて大分心と頭が冷え切っているところだと思うので、少し冷静に展示のコンテクストについても考えて欲しい。
「表現の不自由展・その後」は「あちこちの展示会で撤去されたやつを集めて展示する」というコンセプトで行われている。よってこの企画で展示されているのは慰安婦像それ自体ではなく、あくまで「どっかから撤去された慰安婦像」なのだ。
ソウルの日本大使館前に慰安婦像が設置されたとき、メディアはこぞって大使館と慰安婦像が一緒に映った映像を放送したと思うが、あの報道に対して「不快だから映すな」と怒った人は居ただろうか。まあ居なくはなかったかもしれないが、多分映さない方がもっと怒られるだろう。怒らないのはそれが「大使館の前に慰安婦像が設置されたという報道」だとコンテクストも含めて理解しているからだ(勿論どちらの場合も制作サイドの意図は別にあるのだが)。
今回の展示ではそこのコンテクストがおざなりにされたまま、日本に実物の慰安婦像が展示されているというインパクトと、SNS上の断片的な情報で事態が拡大してしまった感がある。
また若干話が大きくなるが、余裕があったら歴史的なコンテクストについても一度考えてみて欲しい。慰安婦像というと直ぐに反日というイメージに結びつけがちだが、何故そう思うのか。
そもそも慰安婦なんて居なかったと考えている人からすれば一応理屈は通っている、悪意のある捏造ということになるからだ。
しかし、詳細については諸説あるが、そういうものが存在したということだけについては歴史的資料も揃っているし、両国の見解も一致している。つまるところ歴史に認められているのだ。
負の歴史を展示し続けることは未来に生きるだれかにとっての悪意になるのか、日本を始め第二次世界大戦に関わった各国には慰霊碑やモニュメントがある、ドイツやカンボジアには国内の虐殺を記憶するモニュメントがある、それを見て不快になる人はいるだろうし、寧ろ不快になるべきなのかもしれないが、ならそれらは排除されるべき悪意なのか、そもそも悪意は無条件に「悪」なのか。
場所によって反応も変わる、オバマは広島の原爆資料館に行ったが、アメリカでスミソニアンがエノラ・ゲイ展示をやろうとしたときは退役軍人たちから大バッシングが来た。そういった反応の違いは展示の意味、ひいては歴史の意味に影響を与え得るのか、得ないのか。
そして誰の、誰に対する悪意なのか、人の属性は一つでないし必ずしもはっきり分類出来る訳でもない、あなたが引いた「味方」と「敵」の線など気にも留めず他人は好き勝手踏み越えて生きる。例えば、韓国人男性と日本人女性が慰安婦について議論しているとして、彼らは一体どの立場にいるのか、そこに存在する先入観は何か。
話が大分概念的になってしまったが、何が言いたかったかというと、コンテクストというのはそれだけ膨大で複雑なのだ。
勿論コンテクストには政治性だって含まれる。慰安婦像が純粋に歴史的なモニュメントというより政治的に使われているのは明らかだし、恐らくそれは大半の日本人のせいではないので、あんな一触即発なもの見たくも聞きたくもない、というのは分かるし別に普段はそれで構わないと思う。
ただ死ぬほど暇なときにでも少し考えてみて欲しい。メディアの報道を見ていると日韓で政治的な同意が得られれば慰安婦像は撤去されていると考えている人もいるようだが、その必然性はない、だって歴史に認められているから。というかそれで撤去されたらマジで純粋なプロパガンダだったって言っているようなものだからやめろ。
像はコンテクストの中で存在し続けるし、今回の展示もそのコンテクストの一部である。
批判するにせよ擁護するにせよそこに対する考察がなければそれはインパクトに押された感情任せでしかないだろう。
それでも慰安婦像許せないし完全に撤去したいんだけどっていう人はどうすればいいかって?そこも歴史に学ぼう。
アメリカでコロンブスとかリー将軍の像が次々撤去されているのはニュースで聞いた人もいるだろう。時代の変化とともに歴史観は書き換わる。虐殺や奴隷制擁護者としての側面が評価され、彼らは英雄ではなくなった。もはや歴史に認められていないから像だって撤去される。
個人的には英雄として評価されていた歴史も含め展示するのも面白いんじゃないかとも思うが、少なくとも公共の場のモニュメントとしてはふさわしくないと判断されているのだ。
つまり慰安婦像を撤去したいのなら何らかの方法で歴史観を書き換えれば良い。そして歴史学の徒は全力で戦って阻止すれば良い。
トリエンナーレ運営が「表現の不自由展・その後」の公開を取りやめたことについて、ネット上では様々な意見が飛び交っている。これについては「脅迫に屈した」とか「作家に許可をとっていなかった」とか確かに色々と問題がある気はするのだが、津田総監督や大村知事が会見で言っていた「安全管理上の問題」という観点からは正直仕方がないと思っている。
第一に展示施設自体の問題だ。あいちトリエンナーレには複数の会場があり、「表現の不自由展・その後」が展示されていたのは愛知県文化センターの8階、所謂「県美」だ。関係者の名誉のために言っておくが、日本は災害が多いだけあって美術館や博物館といった文化施設の安全管理にはそれなりに注意が払われている。耐震設備に水害対策、防火設備、さらには盗難や破壊防止のための監視員や監視カメラが多くの施設で導入されている。
しかしテロや大人数による襲撃までは対応出来ないというのが現実だろう。海外の博物館ではそういった事態も想定して手荷物検査などを実施しているところもあるが、日本でそれをやるのは割に合わないと言わざるを得ない。
第二に運営側の問題。最初に言っておくがあいちトリエンナーレのような文化事業というのは基本的にクソクソ&クソ金がない。
確かに税金から拠出の予算10億は大金だ、これだけあれば50回くらい安心して老後を過ごせる。しかしそれでアーティストを100人くらい呼んで75日間展示会をやれと言われたら難易度はルナティックだ(他に寄付金とかもあるので実際の予算規模はもっと大きいはずだが)。
よって私も含めた運営スタッフの多くはクオカード1枚で半日働くボランティアである。加えて事前に結構勉強もしないといけないし、当然交通費とかも出ない。
これだけ聞くと何が悲しくてそんな苦行をとか思われるかも知れないが、最初に言った通り美術館とか博物館とかも含めて文化事業は取り敢えず金がないので、もうそういう人たちがいないとほぼ成り立たないのだ。そこで講習会とかバックヤード体験を餌にこじらせ教養オタクたちをボランティアとして釣っている、というか釣られている(※個人の感想です)。言っていて悲しくなるし話が逸れるのでそこら辺は省くが、つまるところ何が言いたいかというと、テロとか起きると我々はタダ働きの挙句何も出来ずやられる。勘弁して欲しい。
最後に若干抽象的な話になるのだが、良くも悪くもあいちトリエンナーレは寄せ集めというのがある。
運営側の細かい事情は知らないが、直前までどんな作品が出るか分からなかったりしたので、少なくとも運営と作家が一体となって特定のテーマに沿った展示を作るという感じではないと思う。恐らく「情の時代」とかいうぼんやりしたコンセプトに基づいて作家を招待して展示スペースを用意している感じだ。
「表現の不自由展・その後」だって別に運営が企画した訳ではなく、かつて行われた「表現の不自由展」を招待しただけだ。
展示施設の職員に至ってはそれを公務員の業務として受け入れているだけである。
よって、運営の中心スタッフ、末端のボランティアスタッフ、施設や関連団体のスタッフ、さらに作家間で一人一人が一つ一つの作品に全て賛同しているとかそんなことはあり得ない。まあそれはある程度の規模の組織では当然のことだと思うし、そうでなければ大規模で多様性のある展示会なんて開けないだろう。なので断っておきたいが、会場とかSNSで関係者に絡んで「トリエンナーレの見解」とやらを聞き出そうとしてもそんなものはない、せめて総監督に聞いてくれ。
そんな緩い結束でつながっている人々を「脅迫に屈しない覚悟」に巻き込むのは正直言って無理がある。
それらを踏まえてトリエンナーレ運営の対応はある程度仕方なかったとは思うのだが、しかしそうせざるを得ない状況には大きな問題がある。
先述の通り、施設や組織の問題でテロや脅迫に対応することは出来ないし、安全上の問題を考えると「表現の不自由展・その後」の展示中止は仕方ない側面もあると思う。
しかし考えてもみて欲しい、そもそも武器とかガソリン持った奴相手に対抗できる団体・個人がこの国にどれだけいるのだ、極真空手の総本山とかか?結構な大企業だって本気で襲撃されたら対応出来ないことの方が多いだろう、必然的にそれを仄めかす脅迫の時点で相手側の要求を飲まざるを得なくなる。
暴力による権利への挑戦に対しては個人レベルでなく、社会全体として対抗しなければならないし、行政側には憲法に基づいてその義務がある。
最初に特定されたら困るから匿名で意見すると書いたが、そもそも身の危険を感じて発現を躊躇しなければならない状況自体がおかしいのだ(勿論それとは別に自衛はするが)。
また、津田総監督が会見によると脅迫と並んでまずかったのが「電話」らしい。
抗議の電話でまず事務局の回線がパンク、結果つながらなかった人たちが県美や文化センターに掛け、何の対策もしていない職員が罵声を浴びせられる、しかも公共施設なので切らずに対応しないといけないという事態になったらしい。所謂「電突」と呼ばれるものだ。
ネット炎上とともに話題になることの多い電突は、市民による集団的抗議の形態とも見做せるが、一方でインターネットという新興メディアによるメディアスクラムともとれる、特にやられる方からすればそうだろう。
確かに組織には説明責任がある、取材と報道の自由もある。けどそれが対象となる人々の生活を過度に制限するようになればそれは権利が守られている状態とは言えないし、何かしらの法にも触れそうなのだが、恐らく相手が不特定多数ということで対策が難しいのだろう。スクラムを仕掛けた側を罰しろとかではなく、対象となった側を守る為の社会整備は必要だと思う(と、ずっと前から言われている気はするのだが…)。
誤解しないで欲しいが、ここでいいたいのは抗議をするなということではない。
表現の自由というのは反論されない権利などではない、ただやり方の問題だ。
話がまた大きくなるが、個人的にはどれだけ平和主義を語っても「戦い」なんてものはなくならないと思っている。政治も、経済も、受験も、スポーツも、婚活も、創作も、結局は「戦い」なのだ、ただそれをいかに物理的な暴力を伴わず決められたルールの範囲内でやるかが、人類が積み上げてきた理性とか法治とか文明の指標なのだと思う。
抗議は存分にやればいい、カウンターとなるアートを作成しても良いし、ネットに長文を書き込んでも良い、署名やデモでも良い。そして表現の自由と言っても万能ではない、脅迫罪、威力業務妨害罪、侮辱罪、名誉毀損罪、プライバシー権、著作権…憲法に定められた公共の福祉の概念に基づいてそれを規制する法律なんてごまんとある。そのうちの何かに抵触してそうなら訴訟という手もある。ただやるからには全て合法的にやれというだけの話だ。
pixivで気に食わねえ解釈を見つけたら自分の解釈を倍の質と量で投稿して相手の筆を折るのが仁義というものだろう。すまない今のは完全に個人の意見だから忘れてくれ。
じゃあこの場合どうしたらいいのか。
少し話が飛ぶが比較のため「コンビニエロ本問題」について話させて欲しい。「コンビニエロ本問題」とは女性客などからの抗議を受けてコンビニから18禁の本が撤去されている事態のことだ。あれを表現の自由と結び付けて語る人もいるが、私はそうではないと思っている。
何故ならあくまでコンビニは民間の営利団体だからだ。コンビニ業界に詳しい訳ではないので話半分に聞いて欲しいのだが、もしコンビニ側が「エロ本を撤去しないとタピオカを積んだトラックで突っ込む」とか脅迫を受けているならば、それは許すべからざる犯罪だ、しかし多分そうではないだろう。
抗議が原因と言われているが、恐らくより正確には「エロ本絡みの抗議や客足減退に対してエロ本の売り上げが割に合わない」が原因なのだと思う。
コンビニで18禁本を最後に買ったのはいつだろう、正直質はともかく量と利便性はネットの方が格段に上だと思う。正確な売り上げは知らないが、エロ本だけで月々1兆円くらい純利益が出ているなら、あの容赦のないコンビニ業界が Permalink | 記事への反応(15) | 22:16
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1906/18/news053.html
ブコメで安楽死を応援してるやつら、だいたい人生終わってるやつらばっかりなんだよね。
追い込まれて安楽死の可能性に希望を感じて正常な判断ができないんだろうけどさ
よくまぁ、今まで自分の人生思う通りにいかないことばっかりだったのに
この制度が自分に都合のいいように運営されるって信じられるな。