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2019-09-07

行動主義心理学10分で理解する

はじめに

行動主義はJ.B.Watsonが最初提唱した心理学哲学だ。この哲学は、現代では下火のように見なされてたり、あるいは棄却すべき対立仮説のように扱われることが多い。

しかし、実際には認知心理学者、あるいは認知科学者が槍玉にあげる行動主義は、誤解に基づくものか、そうでなくても「その行動主義自称している行動主義者は現代はいないよ」と言わざるをえないような藁人形論法であることが少なくない。

そこで、行動主義誕生から現代的な展開までの歴史について、ごくごく簡単にまとめてみようと思う。

Watson の行動主義

行動主義は、Watson が 1913 年に提唱した。

Watson の基本的な主張は、ご存知の通り「心理学対象客観的に観察可能な行動に限る」というものだ。

当時の心理学は Wundt の提唱した「内観法」を用いて人間の持つ「観念連合」を記述する、というものであった (余談だが、内観法は単なる主観報告ではない。これもよくある誤解である。Wundt の提案した心理学は、繰り返しの刺激に対し、同じように報告するよう徹底的に訓練することにより、人間の持つ感覚の組み合わせについて首尾一貫とした反応を得ようという研究方針である)。

Watson が反対したのは、Wundt の方法である人間自己報告」を科学データとすることである。それに代わって、刺激と反応という共に客観的に観察可能事象関係研究対象とすべきであると主張した。Watson は Pavlov の条件反射概念を用いれば刺激–反応の連関を分析可能であるし、人間の持つ複雑で知的な行動も刺激–反応の連鎖に分解できると考えた。

また、情動や愛のような内的出来事は、身体の抹消 (内臓筋肉) の微細運動から考察された。Watson の心理学が「筋肉ピクピク心理学」と揶揄される所以であるが、現代身体性を重視する心理学認知科学を考えると、(そのまま受け入れることはできないにせよ) あながちバカにできない部分もあるような気がする。

さて、認知心理学者、認知科学者が批判するのは多くの場合 Watson の行動主義である場合によっては、次に登場する Skinner と Watson を混同して批判する。

注意しなければいけないのは、Watson の行動主義立場を取っている行動主義者は、この地球上にはもはや存在しないという点である。従って、Watson 批判歴史的な批判以上の何物でもなく、現代科学議論ではない。

では、行動主義を自認する現代研究者が寄って立つ立脚点は何なのか? その鍵になるのが、Skinner の徹底的行動主義である

Skinner の徹底的行動主義

Skinnerは、Pavlov の条件反射を「レスポンデント条件づけ (いわゆる古典的条件づけ)」、Thorndike の試行錯誤学習を「オペラント条件づけ」として区別し、概念、および実験上の手続きを整備した。そのためあってか、Skinner は20世紀で最も影響力のある心理学者 1 位の座についている。

Skinner は、科学目的を「予測 (prediction)」と「制御 (control)」とした。ここでは説明しないが、そのためにの強力な武器として概念としては「随伴性 (contingency)」、方法論として「単一事例研究」などを導入した。 彼の心理学は他の心理学とは大きく異なる用語法、研究方法を持つため、「行動分析学」と呼ばれる。

徹底的行動主義では、Watson が扱ったような客観的に観察可能な「公的事象」に対し、「私的事象 (ようは「意識」のこと)」もまた、同様の行動原理によって説明できると主張した。つまり、内的出来事も「行動」として捉えられる、ということだ。文字通り「徹底的」に行動主義なのである。実際に、Skinner の著書の中には「知覚」「感じること」「思考すること」といった、内的な事象についての考察も多く、それらは行動分析学重要対象であるとはっきりと述べている。

逆に Skinner が反対したのは、「心理主義的な説明である。心的な活動実在するし、それ自体研究対象ではあるが、「心的な活動によって行動が駆動される」という因果的な心理主義に対しては、Skinner は反対であった。つまり、「原因としての心的概念」の導入に反対したのだ。この点を間違えると、Skinner を完全に誤解してしまう。

ただし個人見解としては、行動分析学ほとんど顕在的な行動以外実際には扱っていないし、扱うための具体的な方法論を発展させてもいない。そこに関しては批判を免れないとは思う。

行動分析学の他に重要な特徴として以下の 3 つが挙げられる。

(1) 「反応」を運動パターンとして定義するのではなく、「どんな結果事象を引き起こすのか」から定義する機能主義
(2) 人間の営みを超えた真理探究ではなく、行動の予測制御という現実的有効性の上昇を目指すプラグマティズム
(3) 仮説構成体・仮説群から研究演繹するのではなく、実験結果から法則抽出する帰納主義

なお、帰納主義については「え?でも科学って演繹帰納の両輪で回ってるんじゃないの?」と考える人いるかもしれない。

Skinner は「行動について我々は知っているようでまるで知らない。そのような若い科学にはまず、具体的なデータ必要なのだ」と考えた。そのため、Skinner は環境 (刺激) と反応の間の関数関係データの蓄積を重視した。

まりあくまで当時の知的状況を鑑みての方針だったということは重要な点だ。

ちなみに、Skinner は自身の徹底的行動主義区別するため、Watson の行動主義を「方法論的行動主義 (methodological behaviorism)」と呼んでいる。

また、次に述べる Skinner の同時代の行動主義も、同様に方法論的行動主義とまとめられることが多い。

Skinner と同時代の行動主義 (新行動主義)

Watson のアイデアを発展的に継承したのは Skinner だけではない。

ただし、Skinner 以外の新行動主義に与している研究者は、現代には皆無なので、あくま歴史的な展開として捉えるべきである

Guthrie

Guthrie は刺激と反応の間にできる連合は「時間的接近」によって生じることを述べた。また、Hull や Tolman と異なり、心理学研究対象客観的に観察できる行動に限定すべきであるという姿勢は堅持した。

Hull

Skinner と大きく異なる点として、Hull は「仮説構成体による演繹」を重視した。「習慣強度」という潜在変数を導入したモデルを考案し、その潜在変数挙動の変化により行動の予測に挑戦した。

Hull の研究問題点は、いたずらに潜在変数いくらでも増やせてしまい、理論肥大化する危険はらんでいるためである特に Hull や Skinner の時代は、行動に関するデータがまだまだ少なく、行動研究には強固な地盤がなかったのである。Skinner は「理論必要か?」という論文理論研究批判していているのだが、Skinner が批判たかったのは Hull の心理学だったのである

Tolman

Tolman は刺激と反応の間に「仲介変数」を導入した心理学者だ。いわゆる S-O-R の枠組みである。彼は「潜在学習」の研究によって、「学習」と「成績」は必ずしも一致しないことを見出した。そのことから、刺激と反応の間には、それを仲介する隠れた変数がある、と考えた。

Tolman からすると、「感情」「期待」といった内的な出来事も、刺激と反応の間に存在する仲介変数である

現代視点で見ると、認知心理学下地になるアイデアを提出したのが Tolmanだ。

ところで、Tolmanと地続きである認知心理学もまた、徹底的行動主義立場からすると方法論的行動主義立脚した心理学である。そう、私たち現代心理学徒のほとんどは、意識せずとも方法論的行動主義なのだ

なぜか?認知心理学でも、公的事象と内的事象を分ける。内的事象には直接アクセスできないので、公的事象の「操作」と計測を通じて内的事象研究をする。公的事象操作 (実験条件) を通じて、内的事象定義を行う。これは、Stevens-Boringの「操作主義」と呼ばれる。操作主義では、操作と計測の対象公的事象であり、内的事象については「研究者間での合意」に基づいて議論される。つまり、例えば「この条件によって反応時間に変化があったら、作業記憶に影響があったということにしようね」というのが、研究集団によって暗に共有されている、ということだ。これが、認知心理学が「方法論的行動主義」と呼ばれる所以である

Skinner 以降の展開

1980年代以降、Skinner の弟子筋の研究者たちの間で、Skinner 以降の行動主義を巡って、研究方針多様化しつつある。その中でも最も影響力のある 3 つについて、簡単に紹介したい。

Heyes の機能文脈主義

Skinner の行動分析学プラグマティック科学であると言われているが、実は Skinner 自身は表立ってプラグマティズムに述べていたわけではない。例えば、近い時代を生きたパースジェームズデューイを直接引用して主張を行なっていたわけではない。一方、Heyes の機能文脈主義の特徴は、Skinner の徹底的行動主義の持つプラグマティズムをより明示的に推し進めた点にある。

Skinner は心的概念を導入することを否定した。私的出来事 (内的過程) は外的な行動の原因ではなく、それ自体独立した行動として捉えるべきだと考えたためだ。また、心的概念による説明は、行動分析学目的である予測制御寄与しないと考えたことも一因である

Heyes の場合、そのような概念でも、予測と変容 (influence) に寄与する場合は、十分に有用であると考える。

具体的には、「態度」を測る質問研究が好例だ。質問紙で測る「態度」は Skinner であれば「質問紙に回答行動」として見なされる。しかし、Heyes の場合「そのような研究問題点は、測ったところで、実際の行動を変容させるための操作変数が同定できないことだが、最終的に行動の予測と変容を目指すという目的がぶれない限り、足がかりとしては有用である」と主張する。

このような、伝統的な行動主義比較してある意味で軟化した態度を、Heyes は「行動主義心理学自由主義化」であると述べている。

少し脇道に逸れるが、Heyes は行動の「制御 (control)」とは言わず、「変容 (influence)」と表現する。これは、「制御」だと決定論的に操作できる印象を受けるが、実際の行動には確率的な変動性が必ずついてまわるため、表現を柔らかくする意図である

また、機能文脈主義では、研究の真偽の真理基準にも明示的にプラグマティズムを導入している。

行動主義科学には必ず目的がある (多くの場合、それは現実問題解決と結びついているが、そうでないものもある)。Heyes の標榜するプラグマティズムは、目的にかなうかどうかが、研究の真偽を決める、ということだ。

これは、「うまくいけばなんでもok」という主観主義ではない。問題解決としての科学として、発見というよりは創造プロセスで知見が生まれるということだ。ただし、解決されるべき「目的」の方はどうしても恣意的にはなってしまう、と Heyes は述べている。

Baum、Rachlin の巨視的行動主義

巨視的行動主義の特徴は以下の 2 つにまとめられる。

(1) 分析単位として「随伴性」ではなく「相関性 (correlation)」

Skinner はレスポンデント条件づけは刺激−反応という 2 項随伴性、オペラント条件づけは刺激–反応–刺激という 3 項随伴性によって定式化し、随伴性こそが考察されるべき基本単位であると考えた。

巨視的行動主義は、そうは考えず、よりマクロな「強化子–反応率」の相関性行動主義心理学分析単位であると主張している。

まりミクロな刺激と反応の関係を捉えるよりも、マクロ環境と行動の関係を捉えることを重視しているのが、巨視的行動主義である

行動主義心理学目的予測制御に置くならば、結局はマクロ記述で十分であり、その方が有用であるというのが彼らの主張だ。

(2) 内的出来事の導入の拒否

Skinner は外的な行動とは別に内的な出来事もまた行動として捉えられると考えた。巨視的行動主義ではそうは考えない。

彼らは、内的な出来事を「潜在的な行動 (covert behavior)」と呼んでいるが、心理学はそれを直接対象とする必要がないと論じている。なぜなら、潜在的な行動が実際に効力を持つならば、最終的には顕在的な行動 (overt behavior) として表出されるためである

このことを彼らは「時間スケールを長くとる (temporally extended)」と表現している。瞬間瞬間に我々には豊かな精神活動 (mental life) があるが、それを相手取らなくても、長い時間観察すれば、観察可能な行動として現れる、ということである

Staddon の理論的行動主義

Staddon の主張は、他の行動主義と大きく異なる。彼の場合は、心的概念の導入を許容する。そして、それを用いた「理論」こそが心理学必要であると考えた。その点は、実験結果から法則抽出する帰納を重視した Skinner の立場とは異なる。また、「心的概念による説明」は Skinner の反対した「原因としての内的過程」でもあり、それを採用する点も Staddon の特徴である

行動主義心理学目的は、予測制御だけではなく「説明」にもあると彼は主張した。Staddon の言う「説明」とは、概念同士の関係によって、現象記述することである。わかる人にとっては、David Marr の「アルゴリズム表現」の位置心理学位置づけている、と考えればすっきり理解できるように思う。

Staddon はやや言葉遣いが独特で、概念連関による記述を「メカニズム」と呼んでいる。そのメカニズムは必ずしも生理学的基盤を前提しないで、あくま心理学レベルでの記述である

ようは、行動のアルゴリズム的な理解なのであるが、事実 Staddon は「私の言うメカニズムとは、アルゴリズムのことである」とも述べている。

Skinner は反応率 (時間あたりの反応数) を分析の基本単位としたが、Staddon はより多元的である。ただし、なにを分析単位とするかは、それ自体研究立脚点を示しているものである。それを Staddon は「The model is the behavior」という言葉表現している。

それでは認知心理学となにが違うのか?と思われるかもしれない。Staddon いわく、行動主義心理学伝統的に堅持してきた「強化履歴」は理論的行動主義でも重要であるというのが大きな違いらしい。つまり、行動や内的状態は、それまでの環境との相互作用に基づいている歴史性を有しているとういうのだ。当たり前といえば当たり前なのだが、その点を強調するか否かである

また、Staddon は「動的過程 (dynamics)」を重視した点も特徴である。他の行動主義は、基本的には刻一刻と変化するような過程というよりは、安定した反応の推移を対象としてきた。ややテクニカル議論ではあるが、現代では複雑な時系列データを扱う方法もたくさん用意されているので、動的な過程を取り上げるのは科学として自然な展開であると思う。

一方、認知心理学では「コンピュータアナロジー」のように、入力–出力関係を固定して考えることが多い。動的に内的状態は推移していることを重視した点も、Staddon の理論的行動主義認知心理学を分ける特徴の 1 つであるしかし、個人的にはこの差異は徐々に埋まっていくのではないかという期待もある。

おわりに

以上、行動主義 100 年の歴史簡単に振り返ってみた。

色々なアイデアはあるものの、基本的現在「行動主義」を標榜している人がいれば、Skinner の徹底的行動主義である。Watson、Hull、Guthrie、Tolman に依拠している者はいない。従って、歴史批判ではなく、科学議論として行動主義批判したければ、Skinner を相手にするべきである

行動主義はとにかく誤解されがちである。それは行動主義心理学者サイドにも問題があるにはあるのだが、科学において、無理解責任基本的には不勉強側に帰せられるべきだろう。

個人的には、アンチ信者より詳しくあってほしい。認知心理学者も、自分たちが寄って立つフレームワーク出自はどこにあって、なにに対するアンチテーゼだったのかをきちんと理解してみたら、何か発見があるかもしれない。

2019-09-06

どんなクレーム対応にも共通する謝るときのたった一つのルール

・誰?

長年サービス業クレーム対応担当してきた。アルバイトスタッフ対応できないと回ってくる感じ。

担当キャリア

15年。

・今までの戦歴

無敗。

職種

底辺サービス業

・なんでこんなこと書いてんの?

「激しく怒鳴るクレーム客には「怒鳴り返すように謝る」と最高に効く!」って記事を読んで最高に危険!って思ったから。

危険理由

クレーム対応は何に謝るかを間違えると解決できないどころか事態悪化するだけ

相手トーンに合わせる謝り方はテクニックの一つとしては有効だけど、絶対的解決手段ではないです。

・謝るときのたった一つのルール

事実認定できていないことには絶対に謝ったらダメ

実例

例えばスマホ電池持ちが悪いというクレームを言われた場合はどちらが正しい対応でしょうか。(自分業界とは関係のないお話です)

1.「弊社製品バッテリー持ちが悪くて申し訳ございません」

2.「弊社の製品が原因でお客様の気分を害して申し訳ございません」

どちらも謝ってますが、謝っている内容が異なります

この2つ、何が違うかというと、事実に対して謝罪ができているかどうかということ。

ということで正解は2。

バッテリーが悪いと謝る→確定していない事実を謝ってしまう→お客様の中でバッテリーが悪いという事実が決定してしまい、要求が次に移る

お客様の気分を害してしまったと謝る→製品に原因があるかは別として、怒っていることは事実→まずは怒りを鎮めることで次の対応ステップに移ることができる

クレーマー一言で言っても、その人その時によって状態が全く異なります

本当に問題解決して欲しい人、自分の怒りに共感して欲しい人、被害を被ったか補償して欲しい人、金品目当て、話し相手欲しさ、パワハラ、その他

もともと決めつけて来る人もいれば、こちらの対応次第で状態を行き来する人もいます

製品に原因があると認めさせたい人は、とにかくそのことを執拗に求めます

そこで不用意に製品の不備を謝ってしまうと、相手にしてみれば製品の不備を認めたこととイコールになってしまうわけです。

どんな口調やトーンで謝ろうとも、謝る対象を間違ってしまえば解決は遠ざかってしまます

かといってそれを恐れるあまりに「謝らない」ということが最も危険です。

相手絶対に間違いを認めさせようとあの手この手を使ってきます

その結果、恫喝SNSから炎上など、対応コストばかりが跳ね上がってしまう最悪の結果に至ってしまうことさえあります

とある大手企業クレーム担当に話しを回された際、わざとこちらを激昂させてクレーマー扱いすることで問題に取り合わなくなるといったことをされたことがあります

うおおおー!そんなクレーム解決方法もあるのか!と驚いたものですが、そんなくそ企業製品は二度と使わないと心に決めました。

クレーム対応は無敗でしたが、クレーマーとして挑んだ唯一の敗退でした。

・じゃあどうすんの?

事実だけ謝っていれば物事解決するのか?と言われればもちろんNOです。

多くの場合相手クレームはまず要求からまります

例えば、「バッテリー持ちが悪いかバッテリーを交換してほしい」などです。

これに素直に従うことが問題解決にならないことは皆さんもご理解頂けていると思います

ではどのように対応するのが正解と言えるのでしょうか。

ここで、相手クレームに至るまでの3つのステップに目を向けてみましょう。

例えば先程の例ですと、相手はまずバッテリーのもちが悪いという事象に遭遇します。

そこで相手自分なりに考えてバッテリーに原因があるのだろうという原因Aを想定します。

その結果、バッテリーを変えてほしい、製品を返品したいなどの要求Aが発生します。

まりクレーマー要求は、原因A→事象要求Aというステップを経て発生していることがわかります

しかし、お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、バッテリー持ちが悪い原因というのは何もバッテリーのものに原因があるとは限りません。

中で特定プログラムが悪さをしているかもしれないし、電力消費モードがなにかの拍子で変わってしまたかもしれません。

ここでまずクレーム対応に求められることは、相手要求観測した事象をもとに相手が想定している原因Aに辿り着くことにあります

「私はあなたが考えている原因Aを共感できました」と相手にしっかりと伝えることです。

もし本当に原因Aがトラブルの原因だとしたら、規定に従って要求Aに対応すれば終わります

規定以上のものを求められているのであれば、それはまた別の対応必要になります

しかし、相手と原因Aが共感できていないままに要求Aだけを拒否していれば解決できるもの解決できなくなってしまます

なぜなら、「相手要求の可否だけしか耳を傾けず、製品問題に目を向けようとしない!」という新しいクレームを生んでしまうからです。

みずから対応コストを増加させてしまったと言わざるを得ません。

もし原因Aが本当に問題の原因ではない場合はどうするのがよいでしょうか。

相手からできる限りの事象を聞き出すことで、本来の原因である原因Bに辿り着く必要があります

このあたりは当然業界や内容によってノウハウツールも変わってきますのでここで言及することはできません。

そうして次に必要なことは原因Bを相手共感できることです。

こちらだけ原因Bにたどり着いていても、相手がまだ原因Aが原因だと信じている以上は要求Aが変わることはありません。

一つ一つの事象説明を加えていくことで、相手にも原因が原因Bなのだ理解させます

そうすれば自ずと相手要求Bへと誘導することができます

そうなればあとは規定にそって対応をすれば完了です。

原因A→事象相手が思っているのなら要求Bには絶対誘導できないということです。

原因Bが相手共感できてはじめて原因B→事象要求Bから解決へと導くことができるわけです。

こうした正しいステップを踏まずして、闇雲に謝っていたところで問題解決するはずはありません。

クレーム対応もっと大切なこと

それは、できることとできないことを明確にして、それを相手にはっきりと伝えることです。

それが曖昧であればあるほど、相手要求エスカレートさせ、それを得られないことを自らの被害だと考えるようになります

それをもとに要求が加害に変化してしまうことだって想像に難くありません。

もしそこでできること以上に相手から要求があるなら、それこそ「申し訳ございませんができない決まりになっています!」と謝ってしまうことで、相手要求が過剰なんだよとやんわりと教えることができます

その時はじめて、「激しく怒鳴るクレーム客には「怒鳴り返すように謝る」と最高に効く!」と言えることができます

全てに対応できる万能な対応策ではないことをご理解頂けたのではないかと思います

わたしから言えることは以上です。

編集せずに一気に書き上げたので読みづらくて申し訳ないですが誰かのお役に立てれば幸い。

2019-09-05

日本人個性を受け入れるべき

日本人欧米人はかなり性質が異なる

内向的で、ネガティブで、神経質で、丁寧で、大人しく、ルールを守る

から欧米人と比べて得手不得手が出てくるんだが

どうにも特に悪い評価に対して「彼らと我々は同じ」というところからスタートして、「ちゃんとやってない日本人が悪い」と結論づける人を見かける

 

こういうのは子供の頃に似た事象が発生する

自分と皆は同じなのに、なぜ僕だけ体育が苦手なんだろう?」みたいなやつだ

全部不得手ならともかく、得手不得手があるなら、それは何らかの原因で発生した個性

個性から努力を諦めるべきというわけではないが

自分と皆は同じ」というところをスタートにすると心理的キツイ

こういう個性を認める動きは平成に入ってから徐々に強まってきたが

集団日本人となると、まだその個性を認めたがらない人は多いように感じる

 

例えば日本殺人発生率は、現在0.24人/10万人で、戦後の最も高かった時期で1.8人/10万人だった

1.8人/10万人というのは、現代世界で110位のカナダと同じ位置

今は168位である

戦後の一番苦しかった時期でさえこ位置だというのを考えると

日本犯罪率の低さは先進国からと言う理由以外のところにあるのがわかる

何も「日本が頑張ったから」という話ではない

算数が得意な子が算数で高い点を出すのと同じように、犯罪率の低さは日本の得意ジャンルというだけだ

ちなみに、韓国中国は155位156位でこちらも低い

これだけではなく色んな統計日本人韓国人(たまに中国人)が非常に近い性質を持っていると示している

 

スタートラインを見誤ると、「他と同じようにやってるのに何故か上手く行かない」ということで悩む

もしスタートラインが他より後ろにあるなら他以上に努力と工夫が必要だし

他より劣っているからと言って努力していないわけではない

国際比較統計を用いて「努力してない」と糾弾するのは一旦冷静になって分析したほうが良い

結果が出たら、まずスタートラインの確認と、努力や工夫が他と同じ程度されているか確認必要

スタートラインがもし他より後ろにあるなら、他と同じようにやってるだけではダメだと覚悟しなければならない

2019-09-04

専守防衛戦争だけにしとけ

日本外交専守防衛である他所の国からおまえらコレはどうなんだ?」と詰め寄られて初めて動き出す。いい加減それ、やめませんか?

例えば捕鯨、例えば死刑制度、例えば児童ポルノ。「海外からかかる圧力」はあっても、「日本海外にかける圧力」はまるで聞かない。自称愛国者はそんな日本を「謙虚だ」と褒め称えるんだろうが、国民を守り国を支える上で表面的な謙虚さなんて要らないんだよ。

死刑制度銃殺治外法権

私は死刑反対派なので、海外から圧力なんてあろうがなかろうが死刑はなくすべきだと思っている。一方で、死刑とき海外から「野蛮な国」呼ばわりされる筋合いもないと思っている。日本にも「銃の管理世界一厳しい」っていういい所もあるんだよ。気軽に発砲、容疑者銃殺する国とは違うんだよ。

そういった論点は、ネットではよく聞く割に海外には届かない。私が死刑反対派であるとか以前に、国として死刑にこだわる必要なんてぶっちゃけないのにね。ただ、「無条件で日本が屈した」という前例にしてはいけないとは私も思う。国と国は常に「合法的内政干渉治外法権」を求め合っている。それが外交なわけ。

海外だって日本人は住んでるし、旅行だって行く。人ごとじゃないんだよ。えっ、「犯罪者処遇なんて一般市民には関係ない」って? あるんだよ。直接的には麻薬の運び屋云々とかもあるけど、ここで話題にしたいのは間接的なこと。国際社会の中で日本存在感を高めていくには、日本価値観世界に浸透することが必要不可欠。もちろん日本にも海外にもいい所もあれば悪い所もある。悪い所は変えていけばいい。その代わり、いい所は広めていこう。

捕鯨動物愛護と公正な競争

また予め言っておくと、私は鯨肉が嫌いだ。一度食べたことがあるが、この世の地獄かと思うほど生臭くて吐きそうになった。二度と食べない。ネットを見るとやはり鯨肉は人気がないようだ。

しかし、「食べるために殺す」ことを悪とする理屈危険である批判者はなぜか牛や豚は例外とするのだが、もちろん命に例外はない。人間社会の内部である限り、取り扱いに関する例外人間自身と、その"所有物"だけである

しかし、「平等に慈しむ」という観点から(多くの人が)許容できない行為があることも事実だろう。「食物として命をいただく」ことは許容されても、劣悪な環境飼育することはやはり許容できない、"ということになっている"はずだ。しかしこうしたルールはしばしば守られない。

これは、単なる動物愛護視点のみから問題視しているのではない。ルールルールである以上、それは守られなければならない。公正な競争から外れた違法ルートを用いて儲けている業者があるなら、それは批判されなければならない。これは市場経済問題でもある。

例えばフォアグラ生産方法残酷さは有名であるフォアグラは確かに美味しいのだが、美味しいからこそ問題なのである。つまり日本フォアグラを輸入するという立場にあり、フォアグラは「日本製の食品と競合する」立場にあるからだ。その生産方法に「公正であること」を求めるのは、貿易において日本が主導権を握るために必要なことだ。

児童ポルノセクシャルマイノリティクールジャパン

例によって予め言っておくと、私は児童労働観点から児童ポルノ」にも「子役」にも反対だ。性的であるかどうかに関わらず、児童を用いて商売することは全て搾取であるとする立場である。何なら私は人間性的に見ないセクシャリティを持つので、「年齢に関わらず人間人間性交渉することに反対だ」と言ってもいい。それらの是非はあなた方が勝手議論してくれればいい。私は興味がないので。

最も大きなねじれが観測されるのは、やはり「架空児童」を対象とするポルノに関する議論だろう。LGBT議論は「クィア」なる言葉が出てきた頃から現代社会の遥か先を行くようになった。「クィア」とは日本語では「変態」とも訳すべき言葉で、あらゆるペドフィリアも含む性的嗜好を内包し、「セクシャルマイノリティ」を理解するための新しい視点提供した。

とかまあそういうことはどうでもいいのだが、そうした文脈を通ってみれば、「架空存在性的に見るセクシャリティ」もまたここに発見されるわけである。時々「フィクトセクシャル」という言葉も使われるようだが、私は昔ながらの二次専」という言葉を使う。私自身が二次である

実在人物性的に見る」ことに何の疑いもない人々は、性的創作を見て「それが現実事件トリガーとなる」と主張する。それ自体一定説得力があるのだろう。この世の現象にはあらゆる事象が影響するのだから、「影響がない」ものを探す方が難しい。しかし彼らは、「我々がセックスをすることが、レイプ事件を引き起こす。セックスをやめるべきだ」とは言わない。なぜなら、彼ら自身が困るからである。彼らはセックスをやめられないかである。ではなぜ創作表現は気軽に批判してしまえるのか? 彼ら自身が困らないかである。ここにセクシャリティ非対称性があり、差別意識発見されるのである

と、長々と書いたのは前提で、ここからが本題。今まで日本がやってきたことは、海外から「(架空児童対象にしたものであっても)児童ポルノをなくせ」と圧力をかけられ、その度に応戦するという形でしか行動してこなかった。日本アニメ産業に目をつけ「クールジャパン」などと言っているが、本当に日本二次文化世界に広めたいなら、各国で「児童ポルノ」と認定されるような作品をこそ売り込まなければいけないんだよ。そのためには、「日本国内の文化を守る」だけじゃなくて、各国の理不尽規制に対する批判日本から積極的に発信していかなきゃいけない。「それは人権侵害だ」と。「セクシャリティ尊重しろ」と。

anond:20190903200809

違う。

違います

死が開放であり救いという認識宗教です。

あなたはその教えに疑問を持ったからまだ生きています

 

あなたが生まれる前、一体どこにいましたか

あなたはここにいますが、あなたが生まれる前にどこにいたのですか?

そしてもし命を絶った後、その状態と生まれる前に一体何が違うのですか?

これは輪廻転生という仏教の教えではなく、現実的観測しうる範囲事象に基づいて話をしています

あなたが生まれる前、物質的な自己はおろかクオリアさえ持っていなかった。

ですが今現在あなたはここにいる。

あなたがいない世界からあなたは産まれしまった。

死ぬことでいなくなる、消える、未来永劫いなくなる、それは事実なのでしょうか?

からあなたが生まれてきたという事実が既にあるのに、都合がよすぎる考え方ではないでしょうか?

 

我々が死んだ後に、私というクオリアがどうなるのか皆目見当が尽きません。

それは知能が変わり姿形を変えて別の生物に変化していくのか、それとも未来永劫二度と再生されないのか。

それこそにあなたは疑問を感じたため、死が終わりであることを疑った結果、今生きているのです。

 

死が終わりであることを疑う。

それが生きることの一歩目に繋がります

あなたがいない世界より、あなたが生まれてきたように。

2019-09-03

韓国に都合が悪い事象が起きるとなぜか韓国大使館に銃弾が届く件について

2019-08-28

anond:20190828071318

言ってること全く逆だよ!DVは男女問わず悪いし、共働き家事しない男も悪いし、専業主婦家事しない女も悪いの!

多くの人は属性じゃなくて事象判断するんだよ、だからどっちを肯定するなんて言い切るのは難しいんだよ、って言いたかったんだよ

てか、わかってて見当違いなこと言ってるでしょ!んもー…

2019-08-24

金融政策はこれからマクロ経済の安定化ツールであり続けることができるのか サマーズとクルーグマンツイートより

https://twitter.com/LHSummers/status/1164490326549118976

"ここジャクソンホールにやってきて、経済学者重要問題に取り組んでいます中央銀行は、これから10年も、これまで私たちが考えてきたように、産業社会マクロ経済の安定化ツールであり続けることができるでしょうか?アンナ・スタンブリーと執筆中の論文で、私たちはそれは疑わしいと論証しています。"

"今や利下げの余地ほとんど残されていません。1970年代以来、アメリカ合衆国リセッションが発生するとFedは常に500ベーシスポイント以上の利下げを実行してきました。そして多くの場合、実質金利中立金利よりも400ベーシスポイント以上低かったのです。今や最大限可能な利下げ幅は200から300ベーシスポイント、実質金利中立金利より150から250ベーシス下でしかありません。"

"わずかこれだけしか利下げの余地がない、これがアメリカ合衆国現実です。だがこれでも先進国の中では最も金利が高いのです。ヨーロッパ日本においては状況はより深刻です。"

"これまで大規模な量的緩和としっかりしたフォワードガイダンスが試みられてきました。今、私たちポスト量的緩和フォワードガイダンス世界に生きています。ある政策説明をあれこれ言い換えてみたり、記者会見タイミングを変えてみたり、見通しに関するプレゼンテーション方法を変更してみたり、もはやそんなことでなんとかなるとは考えられません。"

"私たちジャネット・イエレン意見にはたいていは賛成しています。でも彼女2016年ジャクソンホールで講演をしたとき金融政策にはまだツールキットが残っているという彼女の楽観主義はまちがっていると思っていました。10年債の利回りが150ベーシスに落ち込んでいる現在ならなおさらのこと。"

"金融経済ブラックホール、私はゼロ近辺で固まってしまった利子率、そこから抜け出す見込みもない状態をこう呼ぶのですが、10年債の実質利回りがゼロないしマイナスヨーロッパ日本マーケットでは、それはもはや将来にわたって確信となっていますアメリカ合衆国不況ひとつで彼らの仲間入りです。"

"先進国ではどこでも、失業率の急上昇のリスクインフレ率の急上昇のリスクよりもはるかに大きい。マーケット期待インフレ率が2%にはるかに足りないというのに、です。"

"金融当局は、金融政策を通じて、長期にわたり、望むだけのインフレを創り出すことができる、世界中の経済学部の学生は、それが公理だと教えられてきました。だがもはやその命題は大いに疑わしい。"

"多くの人は、その後におきた出来事で、アルヴィン・ハンセンの長期停滞論はまちがいであることが証明されたと信じています。でも事実は逆で、大恐慌から復活するのに第二次世界大戦必要だったという事実は、彼が正しかたことの証明なのです。膨大な軍事支出がなければ「流動性の罠」がもたらすデフレシナリオは、しつこく続いたことでしょう。"

"「ブラックホール問題」、「長期停滞」、「日本化」、なんと呼ぼうといいのですが、この一連の事象世界中央銀行を悩ませているのです。"

"私たちポストケインジアンがずっと強調していたこと、最近ではトーマスパリーが唱えていたことに賛成しなければならないようです。経済変動において、ある特定の要素の摩擦、不適合が果たす役割は、根本的な総需要不足に比べれば、あまり強調される問題ではない、ということです。"

"今度発表する論文で、私たちは、最近コンセンサスのように、現在の状況を、単に中立金利の下落、低いインフレ率、名目金利実効的な下限という観点から捉えることは、苦境を過小評価してしまうと主張しています。長期停滞はより深刻な問題なのです。"

"超低金利環境における限られた名目GDPの成長は中立金利が大幅に低下した証拠だと解釈されてきました。だがそれだけではありません。"

"総需要に対する金利の影響が急激に低下し、金利が低下するにつれて限界影響、すなわち低下した金利毎の総需要に対する影響が減少することも、同じぐらい確かなのだと思います、"

"ある局面では利子率の低下が総需要を減少させることさえあり得るのです。その原因は、例えば貯蓄行動の目標への影響であったり、金融機関の利ざや縮小からくる仲介機能の低下現象、いわゆるリバーサル・レート効果だったり、リアルオプション効果考慮して埋没的、不可逆的投資は止めておこうとなることだったり、低金利財政赤字に及ぼす勘定効果であったりします。"

"この点は、マクロ経済学のダイアグラムを使って示すことができますISカーブは急勾配になり、非線形になり、後ろに向けて曲がることすらあるのです。"

https://twitter.com/LHSummers/status/1164490361881931777/photo/1

"もしマクロ経済安定化の中心的な問題中立金利の低下にあるなら、その立場は、たぶん"オールド・ニュー・ケインジアン"と呼ぶべきなのでしょうが、利子率をじゅうぶんに下げることができるのであれば、金融政策によって完全雇用は達成可能です。"

"対照的に長期停滞の視点からは、この立場をニュー・オールド・ケインジアンと呼びましょう、仮に可能場合であっても、総需要に少々刺激を与えるのがせいぜいで、最悪の場合は、総需要を減らすことすらあるのです。"

"さらに利下げは将来の経済パフォーマンスを阻害することもあるのです。以下その理由を述べます。"

"第1に、金融システムの不安定化です。金融危機の原因はバブルと過剰なレバレッジにありましたが、それは2001年景気後退に対する需要下支えのための政策対応の結果として生み出されたのです。日本1980年代末のバブル1987年ブラックマンデー後の緊縮財政環境における低金利に原因がありました。"

"第2に、企業ゾンビ化リスクです。利払いの問題に直面していない企業は、テストを受ける必要がない学生のようなものです。彼らは勝手気ままにどうみても収益性がみこめない事業にもフラフラと乗り出してしまう。さらに低金利は寡占企業の強大化とダイナミズムの低下を生み出すでしょう。"

"第3に、銀行破綻リスクです。低金利銀行収益を圧迫し、顧客基盤のようなフランチャイズバリューを低下させ、自己資本規制レベルいかなるものであれ、銀行をショックに対して脆弱にするでしょう。"

"第4に、金融政策有効性のさらなる減少リスク現在の利下げが将来の需要の先食い、つまり企業が将来の投資を、消費者が持続的に必要な消費今するというレベルにまで至ると、現在の低金利は、将来の金融政策効果の減少を含意することになります。"

"マクロ経済学者が注目すべき重要問題は、適切な総需要管理することです。私たちは、中央銀行管理できるのだ、あるいは現在金融政策の各種ツールでそれができるだろう、と提案することは、危険だと思っています。"

"もっとも注目されるべきが財政政策であることはあきらかです。とりわけ低金利ゼロ以下の金利財政赤字の持続可能性を示している現在の状況下ではなおさらのこと。"

"しかしながら需要の水準は政治構造の影響も受けます。例えば、社会保障の給付を当期の租税保険料で賄うべきとするpay-as-you-go方式、定年の延長、社会保険の改善民間インフラ投資への援助、高貯蓄の富裕層から流動性が制約されている、要するにお金がない貧困層への再分配などです。"

"1970年代の高インフレ、高い利子率はマクロ経済学の政治思想政策制度革命をもたらしました。低インフレ、低い利子率とこの10年の長期停滞は現在も深刻な形で進行中であり、マクロ経済学の世界に同じぐらい大きな改革が求められています。"

"ジャクソンホールの「金融政策への挑戦」で、この点に焦点があてられることを願っています。まああんまり期待していませんが。"

https://twitter.com/paulkrugman/status/1164604703424090112

"ラリーサマーズのスレッドおもしろい。まあ僕はいくらか疑問点ももっているけどね。あのあらぬ方向に曲がったISカーブには納得していない。でも全体の方向性としてははっきり正しい。次の不況中央銀行に何かできる力が残っていると信じる理由ほとんどない。"

"中央銀行はそうは言わないけどね。でも彼らの立場も考えてやれよ。ドラギやパウエルが「うちらもうお手上げですわ」って言ってみ?マーケットパニックなっちゃうよ。何もできなくても自信があるふりしなきゃならないのさ。"

"さらに2点。僕には中央銀行はまだこれが一時的ポスト金融危機時代の姿で、将来「正常化」できるかのように語り、振る舞っているように見える。でもね、もうリーマンショックから11年だよ!"

"言い換えれば、これが21世紀ノーマルなんだよ。グレート・モデレーションマクロエコノミクス中央銀行景気循環コントロールし、財政政策緊急措置、そんな時代は戻ってこない。"

"ラリー1970年代インフレマクロ経済思想刷新につながったことにも触れ、僕らも同じことをしなきゃならないと言った。僕も、なぜ今までそれがおきていないのか、僕らは厳しく問い詰められなければならないと思う。"

"結局のところ、現時点まで超低金利と持続的な需要不足は、スタグフレーション時代よりも長く続いている。1970年代の7~8年の不調がすべてを変えたのに、2008年以来の11年でなんでこんなに変っていないの?"

"僕の考えでは、社会学と政治学のミックスに答えがある。しつこくつきまとう長期停滞の害悪は、保守的アジェンダを産み、経済学者古典派に回帰させた。だがまだ対照的方法が残っている。"

"ジャクソンホールラリーサマーズ以外にも持続的な財政刺激策を主張する人がいて、オリヴィエブランシャールを呼んで財政赤字を騒ぎ立てることが見当違いだって言わせればおもしろいと思う。レポート求む。"

(訳は適当です。マクロ経済学の知識がない人も分かるようにことばの意味を補っている箇所もあります。)

追記

参考文献を紹介しておきます

Robert J Gordon "Macroeconomics 12th Edition"

https://www.amazon.com/Macroeconomics-12th-Pearson-Economics-Hardcover/dp/0138014914

ロバート・J・ゴードンアメリカ経済 成長の終焉

https://www.amazon.co.jp/dp/B07KWMYP13/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1

ローレンス・サマーズ、ベン・バーナンキポール・クルーグマンwithアルヴィン・ハンセン「景気の回復が感じられないのはなぜか-長期停滞論争」

https://www.amazon.co.jp/%E6%99%AF%E6%B0%97%E3%81%AE%E5%9B%9E%E5%BE%A9%E3%81%8C%E6%84%9F%E3%81%98%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%81%8B%E3%83%BC%E9%95%B7%E6%9C%9F%E5%81%9C%E6%BB%9E%E8%AB%96%E4%BA%89-%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%BA/dp/4790717313

2019-08-22

京アニ寄付税金課税文句言ってる奴、相当やべーよ

まあこれぞネット世論って感じもするけど、何でも反対するネラーみたいだな、しか頭が悪い

 

これだけを特例にするべきではないっていうのはまあ分かるんだけど

法整備されていないことを攻めるのは「前例がなかったから」で全部棄却できるし

法整備対応するべき」は京アニに対しては遡及になるから無効になる、何より時間がかかる

今回の特別対応法治国家としては怪しいが、新たな論点として注目されたことに価値はあるし、むしろ前進とも言える

 

あと法整備と言っても確率的に似た事象は起こらないと思うけどな

多くの不特定の人が殺害され、かつ国内外からその人達に多額の寄付が集まるなんて

京アニくらいよっぽどじゃないと起こらないし、起こるべきでもない

 

ギャーギャー騒ぐ人はむしろ犯罪被害者給付制度についてもっと論じてほしい

参考:https://www.npa.go.jp/higaisya/kyuhu/index.html

2019-08-21

加減を知らない者たちの末路

ここ数年、Twitterを見ると気が落ちることがある。些細な事象をすぐさま自分のことのように怒ったり悲しんだり、そこから喧嘩が発生したり、晒し合いになったり、いわゆるクソリプが多発していたりと、一方通行すぎる現場を多々目にして勝手に気が落ちる。

こんな社会になったのはなぜだろうと考える。そうすると「そういう人たちは加減を知らないのだ」という答えに辿り着く。令和、それは加減を知らない喜怒哀楽が当たり前になる時代なんだろうか。

半年ROMれ言葉でもわかるように、一昔前のインターネットは『ローカルルール理解しない者は問答無用で叩かれる文化』があったと思う。それが良いかいかはわからないが、実際にローカルルールも読めない・守れない人間は9割がどうしようもなく、1割だけが天才だ。きっと9割の人間は、私生活でも他人を平気で傷つけているのだろう。ローカルルールがあることで、昔の2ちゃんねるはどうしようもない者を選別していたと感じる。

今のTwitterにはそういった文化がない。もちろんTwitter存在する10選手たちは概ねそれを理解している。しか世間ビッグウェーブにより有能な選手は追いやられ、今Twitterの主導権は『加減を知らない者』が握っている。実際に10選手たちは嘆く。そして諦めてこう話す、「世の中は加減を知らない者ばかりになった」。

加減を知らない者たちは、とかくバズる共感者を増やすフォロワーを増やすことを目的としている。だからどんどん過激になり、言葉は軽く、そして安くなっていく。

140字という限られた文字数のなかで、どれだけわかりやすく人々の感情を煽れるか。Twitterの手軽さは良い側面も多分に持っているものの、『大衆に』『ウケたい』という気の引き方が見えたとき一気に輝きをなくす。そしてそれを受け入れる者が大半になってしまたから、料理は140字のなかで【バズレシピ】などと紹介されるし、2ちゃんでも使い古された【悲報】などというワードが今でもはびこる。おそらくなんJで使われる猛虎弁もそうだろう。彼らは猛虎弁Twitterに持ち込まれることを大変に嫌っており、猛虎弁なんJだけで使うものというルールがあった。それがなくなり、今ではTVでも当たり前に取り上げられるほどメジャーになった。「まとめ民乙」と言うメンバーが圧倒的に減った、なぜならほとんどが当たり前にまとめ民で、自身まとめ民であることに気づいていないからだ。

加減を知らない者たちは、わかりやすトラブル事件に食いつく。自分感情を手軽に煽ってくれるからだろう。本質などもう関係なく、安い刺激で心を満たそうとする。たとえば年始に起こったNGT事件は、まさに加減を知らない者たちの棲息地になっている。山口真帆を守りたいという気概は立派だが、見る限り大半の人間山口の主張ばかりを信じ、山口を傷つける者を工作員と扱い攻撃している。完全なる一方通行だ。真相は出てきていないはずなのに、メンバーを『黒』扱いし問答無用で叩く。

先日犯人扱いされているメンバーが涙ながらに無実を訴えていたが、加減を知らない者たちにそれが届くはずもなく、さらフルボッコにされるという地獄絵図を見た。この事件に関しては山口を持ち上げたTVネットメディアも大いに責任があると感じるが、それでも受け手リテラシーもあまりに欠落している。繰り返すが「真相は出てきていない」のだ。やすやすと騒がずに見守れないものか。検察事件に関わったメンバーはいないと判断している。司法判断すらも無視し、世論は「加減を知らない者」によって作られていく。それに怒り狂う少数の人間が同じ土俵に上がり、餌にされていく。煽り運転などのデマも止まらない。

こんな者たちに自分ターゲットにされたら終わりだ。だからほとんどの人間が関わらないようにする。しかし関わらないままでは加減を知らないモンスターはつけあがり、悪魔の証明をねだり、増殖していく。そんな人間たちを受け入れ、なあなあでやって行くのが正解だとは思わない。こんな哀しいモンスターを大量に生み出した社会問題がないわけがない。それも抱えたまま、誰も指摘しないまま行き進んで、諸行無常などと言い、それでどんな末路が待っているのか。

誰か止めてくれ。私も止めるから、一緒に止めてくれませんか。こんな令和でいいですか?私は令和という元号は嫌いだけれど、生きるならなるべく良い時代にしていきたい。細かいことじゃなくていい、もう一度『加減を持つ者』を生きやすく。そして、『加減を知らない者』を救う社会を求めている。私もやるからあなたもやって欲しい。お願いします。

2019-08-20

れい新選組 舩後靖彦 参議院議員 TBSラジオインタビューの釈明

舩後靖彦さんの facebook

また、「重度障害者には生産性がない」という考えが生まれた原因について、GHQが導入した戦後教育を要因としていると取られるような発言したことについて、まず戦前から戦後まで行われてきた優生思想問題やその名残を第一に要因としてあげるべきであったのに、自分理解していない、「戦後教育の影響」について発言する事になってしまたことで、私の本意ではない印象を与えてしまうことになってことについて心苦しく思っています

インタビューの公式書き起こしから該当部分

荻上最後にこの6年間の議員生活に向けての抱負課題について教えてください。
舩後:全ては教育にありと考えています日本の30年前を考えれば、時代も変容し、国際障害者年や障害者自立支援法が生まれ、そして重度障害者国会議員になった。その時代背景によって変化する事象や慣例もあると思います。全ては教育にあり。私は、1020年後未来創造して、代わる障害者に対する偏見教育で変えたいと思いますさら子供の頃から潜在意識領域さらに深く無意識領域にまで存在する「差別意識」を除外する倫理道徳教育必要と考えています。重度訪問介護の不備も喪失した人々の潜在意識領域ならびに無意識領域に重度障害者には生産性がないという確定した思いがあるからです。かと言ってその方々を責めているわけでは全くありません。大東亜戦争日本が弱体化するために GHQ が導入した教育文化が要因と考えていますが、具体的には掴みきれていません。ところで明らかに研究不足の感があることは否めませんが、今現在インクルーシブ教育を礎土台とするモンテッソーリ教育の2段階以上の教育を、小学校中学校高校そして大学に導入すれば良いのではと考えていますモンテッソーリ教育知的発達障害治療教育弱者とも言える貧困家庭の子供達への教育から発展させてきた教育であることから、土台とするインクルーシブ教育に好影響をもたらすものと考えています。この事を6年間でやり遂げたいと思っています。(終)

議員説明では次の通り。

言い訳になってしまますが、取材の具体的な内容を当日の朝に頂いてから、急いで読み上げ用の文章を作ってしまったために、文章的にも意味が通らない内容になってしまい、それを読み上げて頂いてしまったというのが実際のところです。

取材質問は「この6年間の議員生活に向けての抱負課題について教えてください。」というテンプレートであり、この取材のために特別な準備は不要です。

布教と呼んでいいもの

職場男性好意を持たれている。穏やかで優しい人だ。SNSアカウントキモオタ丸出しなのお互い様だろう。

彼は私のことを色々と知りたがる。特に趣味のことをよく聞かれる。

私の趣味の筆頭はゲームで、ちょっと種類は偏っているが、色々プレイしている。音ゲーrpgsteamで有名なゲームなどなど。好きなゲームのことを話すと、彼は驚くほどのスピードでそれを履修してくる。

特に同じゲームセンターの音ゲーを始めた、と報告してきた時は正直舌を巻いた。音ゲーの中にも始めやすもの、始めにくいものとあるが、私がプレイしているのは後者である。それを音ゲー初心者が手を出す、というのはかなり度胸のいることだろう。ただ触ってみるだけではなく、情報収集もしているのが強い。

この事象布教と言っていいのかどうかはわからないが、彼が好きなものを教える甲斐のある人物であることは確かだ。正直、趣味を熱心になぞろうとしてくるところに絆されかけている。

 






でもツイッターでチラッとしか話してない(しか略語で呟いてた)乙女ゲー話題に着いてくるのは怖いのでやめてください。

2019-08-19

anond:20190819131726

事象的には、性行為の際は必ずそうなる。

穴はキツイ(締まりが良い)と言われることが多い。

旦那と付き合う前、旦那以外としたとき比較すると、旦那場合以下3点が気になる。

亀頭が濡れてない気がする(そもそも愛液?の出が悪い

亀頭の刺激に弱い

・きんたまが小さい

anond:20190819130711

痛みを感じているとしたら、それは炎症を起こしている可能性大。

敏感だから痛いのではなく、傷や炎症があるから痛いのだ。

冷静に事象を観察しよう。

そういう傷や炎症を引き起こす原因となっているのはあなた自身の穴にある。

2019-08-17

誰が「Vtuberスキャンダルを起こさない」と思っていたのか?

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1390765

上記記事の人気ブコメid:syo_bkm のコメントが興味深かったので書く。内容は以下の通り。

黎明期に「VtuberYoutuberと違ってスキャンダルを起こさないのがメリット!」と鼻息荒く解説していた奴らの阿呆さよ…

2019/08/17現在130を超えるスターがついている。

(ちなみにスターが大量にもらえてよほどうれしかったのか別のまとめサイトにおいても全く同じ内容のコメントを残している。そちらでもそこそこスターをもらえているようだ)


で、このブコメについて一つだけ指摘しておきたいことがあってそれはずばり「それはV界隈の一般的認識ではない」ということだ。

まぁもちろん広大なインターネットでそういう風に発言していた人間が一人もいなかったとは言わないが、確実にV界隈で一般的認識ではなかった。

しろVtuberに対する理解の浅さを露呈する言説である。ということは指摘しておきたい。

(ところでid:syo_bkm のいう「黎明期」とはいつのこと指しているのだろうか。キズナアイデビューVtuberブームには2年ほどのブランクがあり、キズナアイ以前にもVtuber然とした活動散見されていることも含めると、氏の指摘する黎明期がいつの時期を指すのかは正直分からないが、発言の内容からしてVtuberブームの始まった2017年から2018年初頭ごろと推定して以下の文章を書く)


さて、ではなぜ「VtuberYoutuberと違ってスキャンダルを起こさないのがメリット!」というのがV界隈で一般的認識ではない。と断言できるのか。

その根拠となるのは悲しいかな。V界隈での「スキャンダル」の多さである

スキャンダルを「」で記したのは、いわゆる身バレや顔ばれなど本来であればスキャンダルと呼ばれないような事象でないことに対しても、V界隈ではスキャンダルとして扱われていたからだ。

ブーム初期に起きた事例を簡単に列挙するだけでも

個人VtuberによるいわゆるDiscord騒動

のらきゃっとの放送中に中の人が顔が映し出されてしまうというハプニング放送事故

ぜったい天使くるみちゃん引退騒動

などが挙げられる。

また、ブーム初期から活動するキズナアイ電脳少女シロ、ミライアカリ輝夜月に関しては担当している声優探しの記事が出回っており、今でも人気Vtuberについて検索すると「中の人は誰?」という記事は必ず出てくる。(ブーム初期からは時期はずれるが月ノ美兎中の人が出演しているとされる動画ニコニコ動画ランキングに乗るといった現象も起こった。)

また決定的なスキャンダルというわけではないがのじゃおじとこねこますtwitterでしばしば炎上騒動を起こしていた。

Vtuber放送中に失言をしてニコニコ動画に切り抜きが上がり炎上する。というのも今ではすっかり日常茶飯事になってしまっている。

こういったブーム初期の段階から、今に至るまで「.LIVE告発漫画騒動」「バーチャル蟲毒」「ゲームプロジェクト騒動」などなど様々な「スキャンダル」はV界隈に付き物だった。

最もこれらの騒動を「この程度はスキャンダルではない」という人もいるかもしれない。特にVtuberに興味のない人からすれば「なんだそれ」といったレベルの話もあるかと思う。がこれらは間違いなくV界隈では「スキャンダラス話題」として扱われていた。(こういう内容を列挙するとまたぞろしたり顔で「これだからV界隈は」などという声が聞こえてきそうだが、そういったマウンティング相手にしていては話が本題からずれるので今は無視する。)



そもそも論になるが、それこそ「中の人がいないかスキャンダルを起こさない」と評された存在である初音ミクという存在を知っている人間からすれば、

中に人がいるVtuberという界隈で「スキャンダルを起こさない」などと認識するはずもない。


初音ミクが「絶対スキャンダルを起こさない」と評された根拠は「中の人がいない」からだ。

二次元キャラクターと音声ソフト構成されたその存在は生きている人間アイドルが起こしうる「恋愛」「暴言」「共演トラブル」などなどのスキャンダルを起こさない。起こしようもない。

音楽ソフトのもの意識感情もないのだから

それこそ昭和アイドル価値観である「○○ちゃんうんこしない」も初音ミクに対しては真実である音楽ソフトには生理現象もない。

げっぷもおならもしないし、病気もケガもしない。するはずがない。だって彼女人間ではないのだから

そんな初音ミクという存在を我々はすでに知っているのである


翻ってVtuberというコンテンツを見てみよう。

いくら二次元キャラクター仮面かぶりキャラクターの設定を纏おうとも、そこには「中の人」がいる。

Vtuber意識感情生理現象もある人間が行うコンテンツである

当然の話だ。バーチャルを冠しようがYoutuberYoutuber、どこまでいっても人間が主役のコンテンツである


そのことを考えれば、そもそも「Yotuber」と比較して「Vtuber」がスキャンダルを起こさない。という理屈自体意味不明なのだ

二次元キャラクター仮面かぶっていることはスキャンダルを起こさないことは何一つ担保しない。

いくら二次元仮面を被っていようとも「中の人がいる」Vtuberには常にスキャンダル可能性があったし、視聴者側もそのことに意識的であった。


バ美肉勢といういわれる。いわゆる男性美少女キャラクターアバター使用して活動する形態Vtuberに対して

「中身おっさんから安心してガチ恋できる」

という言葉が生まれたこともその一つの証左であろう。

ここで視聴者は感じている「安心」とは、「恋愛スキャンダルが起こりえないこと」に対する安心であることは明白である


このようにVtuber界隈はスキャンダルを起こさないどころかむしろ、常に大小さまざまな「スキャンダル」と共に歩んできた界隈である

そしてそのことはVtuberブームの初期から自明のことであった。


では「VtuberYoutuberと違ってスキャンダルを起こさないのがメリット!」と「鼻息荒く」解説していたのは誰なのか。

全く同じ文言検索してみた。()内は記事掲載された日付。


若者アイドルヴァーチャルを好む理由(2019/6/6)

https://president.jp/articles/-/28847

近年、ほぼまったく「スキャンダル知らず」で、かつ人気絶頂理想的プロモーションキャラクターが、次々と誕生しています。その名も「VTuber


バーチャルYouTuberとは?バーチャルYouTuberの基本を解説(2018/12/19)

https://appli-world.jp/posts/1984

バーチャルYouTuber(VTuber)は芸能人とは違い、スキャンダル心配がありません。


Vtuberとは?動画映像収入を得る仕組みとビジネスとしての今後(2019/02/08)

https://gjc.me/vtuber/

企業広報としても活躍できるVtuberですが、企業に注目されている理由はいくつか挙げられます

1つ目は、生身の芸能人Youtuberを使うよりもスキャンダルにつながるリスクが低いという点です。


最近耳にするVtuberとは一体何?特徴から実際の企業事例まで徹底解説!(2018/10/02)

https://video-academy.jp/blog/platform/youtube/5759/

人よりもスキャンダルリスクが低い


さら聞けないVTuberとは?!マーケティング担当から見たVTuberの現状と展望(2018/07/10)

https://90seconds.jp/videotechonline/marketing/what-is-vtuber/

タレントよりもスキャンダルリスクが低く、企業採用やすい。


黎明期」でもなければYoutuberとの比較でもなくて恐縮だが、主にマーケティング関連の記事言及されていることが多いようだ。

Vtuberブームにいっちょ噛みしたかった人たちが企業に耳障りのいい記事を書いた結果なのか、あるいはV界隈の運営側が吹聴している可能性もあるが推測の域を出ないことは言わないほうがいいだろう。


と、思っていたら、このような記事を見つけた


スキャンダルと無縁のVTuber企業の新たな“広告塔”になる(2018/06/14)

https://tech.nikkeibp.co.jp/atcl/nxt/column/18/00134/061200056/


この記事はエクシヴィ 代表取締役社長近藤“GOROman”義仁氏に対するインタビュー記事。有料記事なので何を根拠に「スキャンダルと無縁」と言っているのかは分からない。(さすがにこの記事を読むためだけに日経クロステックに会員登録する気にはならない)

ただ日付も一番新しく(今ならブーム初期と言えなくもない時期か)、タイトルに「スキャンダルと無縁」と明記していることからVtuberスキャンダルを起こさない」という言説の出元の可能性は高い。(内容を読んでいないのでこれもまた推測だが)

この近藤“GOROman”義仁氏はVtuber運営サイドの人のようだ。


であるとすれば「Vtuberスキャンダルを起こさない」というの「鼻息荒い解説」は

実際にはVtuberを売り込みたいサイドから宣伝文句として喧伝されていたというオチになるのであろうか。

もちろんこんな雑な考察結論を出すことはできない。


ただ、今回の騒動とは何の関係もないとはいえ

これからVtuberを売りこんでいこうとする人の「Vtuberスキャンダルと無縁」という無邪気な発言は今改めて聞くと少し哀しいものがある。




ところで真に情けない話なのだid:syo_bkm のいうような比較対象を「Youtuber」に限定して「スキャンダルを起こしにくい」と解説してるような言説は結局見つけられなかった。

twitterか何かで言っている人がいたのであろうか。

もしid:syo_bkm にご教示いただければ幸いである。

2019-08-16

原爆犠牲者無駄

特攻にあるのはどこまでも、人体実験捕虜虐殺などと同じく倫理的問題だろう

例えばプリンスオブウェールズ攻撃撃墜された一式陸攻の乗組員や、原爆の開発製造で死んだ研究員必要犠牲だとでもいうのだろうか

ガダルカナル餓死者、はまあ無駄死にと言われるかもしれないが、はたしてインパールガダルカナル中国戦線と硫黄島との間に、どこか線を引けると思うのだろうか

さすがにヒトラー空襲の死者の間には線を引けるだろうが、特攻隊は間違いなく社会強要された犠牲者の側だろう

どこか一事象にだけ無駄死だと言い出すのは、無駄ではない死があるかのようだ

それを言葉遊びだというのならば、遊んでるのはあんたらだろうよ

言葉遣い配慮がねえっつってんの

戦争はみんな無駄死にだ

からといって誰かのお墓に向かってそんなこと口に出せるわけなかろうよ

それがたっかだかネトウヨレスバするためなら許されると思ってるのなら、同類だよあんたらも

東京オリンピック水泳テスト大会

水が便所臭い選手から苦情が出ていたが、

なんと本当に未処理の下水使用していたらしい

もはやジャップランド土人には、まともに下水を処理するインフラ能力もないらしい

これでは茶色泥水をバケツから啜ってるアフリカ人と大して変わらんが、

この20年間、世界で唯一デフレを根絶できず、ずるずると衰退していっているバカ王国には象徴事象である

前回の東京オリンピックは、戦後焼け野原から立ち直り、

目を見張る勢いで世界トップクラス経済大国へと成長していった日本国象徴する大会であった

今回の東京オリンピックは、ジャップランドが既に落ちぶれた転落途上国であることを象徴するオリンピックとなるだろう

2019-08-13

若さと不可逆性について

今持っている若さというものは、何にも変えがたいかけがえのないものだと常々思うのだが、私はこれの有効活用法を知らない

きっとあと10年経てば、シワやシミのない肌、徹夜ができる体力、選びとれる人生選択肢、どれも心底羨ましいものになるのだろう。

しかし、友人の1人も作ろうともしなかった中学時代を今の自分が悔いているかと言われると、それほどでもなく

あの時の自分にはあれが限界で、人生を繰り返すことになってもやはりぼっちになるのではないかと思う。

今の私には今の私なりの辛さがあり、中学生の私には中学生の私なりの辛さがあった筈だ。

小学生の私の気持ちは中3に、中学生の私の気持ちは高3の頃に、思い出せなくなってしまった。まだ大学生の私は残っているけれど、3年も経てばわからなくなるだろう。

自己同一性とは記憶の貫きだと言うが、事象の表面的な記憶はあっても、その当時の気持ち記憶がないという点では、中学生の私と今の私と10年後の私は別人なのではないかと思う。今私が私だと思っているものは、数年で失われ、新しい自分が新しい別人を育てていくのだ。私というものは、時間によって分断され、不可逆に更新され続ける。

今の私が無駄にしている若さというものは、私だけのものであり、未来の私という別人にははなから所持していたことのないものである

ときに、女の子でいられてよかったと思う。スカートを履けて、髪を伸ばせて、可愛いものを好きでいられてよかったと思う。鏡に映る自分が腰のくびれ女の子であってよかったと思う。いくらお金と名声があっても、鏡にホリエモンが映る人生は嫌だ。そういうとき並行世界で男をやっている私に、少し同情する。おっさんになるのは可哀想だ。でもときに、男だったらと思うこともある。女という属性はでかいリボンを常につけているように鬱陶しく、私には似合わない気がする。だから、そういう時は並行世界の男の私が羨ましい。

これぐらいの距離感並行世界の私とぐらいや距離感過去の私とも未来の私とも付き合いたいと思う。

縦横に重なる糸の、別の一本の上にいる私同士として。不可逆な別人として。

2019-08-10

インターネット世論の流れ(ネトウヨと呼ばれて)

自分観測範囲であったことを雑にまとめる

 

小泉内閣 ~2006年

この頃正直覚えていない

ネットユーザーは一部を除いてほとんど政治に興味がなかったと思う

 

第一安倍内閣 ~2007年

この頃も実は大して盛り上がっていないが

大体の論調

マスコミがどうやらひどい

・菅・鳩山小沢ギャグ要員

韓国ギャグ要員

中国怖い

みたいな感じだったと思う

 

福田内閣 ~2008年

この頃から非常にインターネット世論政治に興味を持ち始めた

確か「危険法案リンク」みたいなのがきっかけだったと思う

 

https://dic.nicovideo.jp/a/%E5%8D%B1%E9%99%BA%E6%B3%95%E6%A1%88%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AF

時期は前後するが、こういうのだ

 

児童ポルノ法

ダガーナイフ規制(可決済み)

外国人参政権

国籍法改正案(可決済み)

人権擁護法案

青少年ネット規制

・1000万人移民政策

裁判員制度(可決済み)

ダウンロード違法化(法案成立済み)

ACTA(偽造品の取引の防止に関する協定)

 

改めて分析すると、これらは

・何らかの規制

・国の問題中韓問題

になっている

いわゆる「憂国」ってやつで、この思想は今でも続いていると思う

例えばブロッキングに対するはてな界隈の強い反発は「何らかの規制」に対する反発に非常に似ている

表現の自由に関わる話もそれに該当する

 

この危険法案関係は非常に盛り上がって

mixiなどのSNSブームだったことも有り、結構な規模のデモにまで発展した

しか右翼左翼みたいな勢力ほとんどなかったし

そもそもその頃ネット全体は反自民だった

とは言っても、それでも民主を持ち上げる声はなかった(ギャグ要員と思われていた)

 

自民以上にやり玉に挙がっていたのがメディアマスゴミと言われ始めた頃)で

簡単に言えば「俺らがこんなに気にしてる危険法案を報じないのは意図してやってるに違いない!」みたいな雰囲気があって

インターネットがなんとかするしか無い」と言う風潮があった

 

この時代に色んなもの醸造されたと思う

 

麻生内閣 ~2009年

「国の問題中韓問題)」に対して、中韓に対して強い姿勢を取った麻生内閣は非常にありがたがられた。

プラスして、漫画文化に明るいということでそういう層も取り込んだ。

ここで勢力が分断したのかもしれない。

 

麻生内閣を持ち上げる一群がある一方で

麻生内閣こき下ろすマスコミという事象が起き

反マスコミ麻生支持、アニメ好き」という勢力が生まれ

これが後にネトウヨと呼ばれたと思う

 

鳩山内閣 ~2010年

ネトウヨ」と言う単語が盛り上がったのは、政権交代があったからだ

これは悪口として使われた

当時のネトウヨは非常に若く、暴走する者も多かったため

結局互いの勢力の悪い部分を論って「これだからネトウヨは」「お前ネトウヨだろ」という風に使われた

奇しくもそれは少し前に韓国人のことを「チョン」と言って笑っていた状態に似ていたが

もちろんどの層にもまともな者からおかしな者まで居たので、どこでも起きていた現象しかなかった

 

反マスコミ麻生支持、アニメ好き」という勢力が、「自民支持」ということになったのは

対抗する勢力民主党だったからだと思う

しろ当時民主支持だった人が「自民支持」と呼んだのが発端な気もするが

その後色々あって、民主党への反発として自民支持の色を強めていったと思う

 

ちなみに鳩山内閣が誕生したときは、アレだけ煽ってた人も「マジかよこいつかよ」みたいな反応をしてたので

煽ってた人が本当に民主支持だったのかは未だに不明

 

菅内閣野田内閣 ~2012年

ここらへんは非常に落ち着いていたというか

地震リーマンショックでそれどころじゃなかったと思う

 

どの勢力も、急速に政治への興味を失っていったように視えるのは私だけだろうか?

 

第二次安倍内閣 ~今

そしていよいよこの時代になってインターネット世論は落ち着いてしま

ほとんどリアルと差が無くなってくる

 

元々ネトウヨと呼ばれていた層は、安倍麻生支持者が大半だったので声を荒げる必要はなくなり

民主解体してしまったので、一部の層は拠り所を無くし

最近は「反安倍」という勢力としてまとまりつつあるが、はてな等極一部で盛り上がってるだけに見える

 

まとめ

振り返ってみると、インターネット世論イデオロギーというのはどうも稚拙だと思う

 

危険法案反中韓として一致団結

反マスコミ反中韓としてネトウヨが生まれ

・反ネトウヨ反自民としての勢力が生まれ

・反安倍として勢力が生まれ

 

といったように、我々インターネット世論の拠り所は「何に対して腹が立つか」「何のアンチなのか」が非常に大きいウェイトを占める

それを言ったら、一個上の世代論調右翼に反対して左に寄ってるし

更に上の世代はその上の世代の反対で右翼によったみたいな話も聞く

非常に減点主義的な民族

別々の勢力にいる人でも、敵が同じなら味方になるような、そんな人種なのかもしれない

 

次は何のアンチになるんだろうか

 

おまけ(追記

反応ありがとうございます

 

そう言えばまとめブログについて触れるのを忘れていた

麻生政権~政権交代付近で、たまたままとめブログが盛んになったおかげで、情報の偏りが生まれ右翼左翼両方の濃度が増したんじゃないかと思う

まとめブログが縮小しSNSが台頭すると、言論統一が難しくなり、自分考える人と、昔の感覚(例えば嫌韓)を引きずってる人に別れたのではないか

 

嫌韓問題は、とにかく切れ目なく韓国が色んな事をするので、しょうがない面も大きいと思う(拉致問題も含む)

一方で韓国良いよって言う人の意見も耳に入ってきたことで、良い面の知識も増えた

韓流文化韓流アイドルは、最初ゴリ押しな感じが強かったが、徐々に成長し身内でも「韓流ドラマ良いよ」みたいな声が上がってきたお陰か

嫌韓の人でも「ドラマ映画ダンスは良いよね」って言う人が増えていて少し面白いと感じた

 

中国もすっかり経済的に成長してしまったので、中韓とは仲良くする流れになるとだろうと思っていたら

何か昨今の状況はよくわからいね(興味も薄い)

 

あと、たかじんのそこまで言って委員会が一時期結構ソースになっていたと思うんだけど、時期がうろ覚え

小林よしのり時代はぼーっと生きていたので何もわかりません)

2019-08-09

有耶無耶なこと

吉本反社の件とか見てて

有耶無耶のままに風化されていくような事象を再燃させたり、追求させるするために

個人個人でできることってあるのだろうか。もどかしい

有耶無耶になってることって他になにがあるかな

2019-08-08

anond:20190808110055

政治的中立での問題提起だと言うなら、左右満遍なくどちらの事象も広く網羅して、問いかけるべきだった

思想が偏ってしまったあの催しには意義はない

もう片方から否定されることが目に見えているからだ

そして、その否定材料にして、自陣営被害者にするための催しだから

相手加害者にして嗤い、自身意識高い被害者にして慰撫するのは、無意味を通り越して害悪

思想対立を煽っているからな

私が感じる公金投入してはいけない理由は、左派の主張が展示されているからではない

思想対立を煽る意図を持った展示だから

2019-08-07

人間意識や魂なんてものはない

例えばあなたには感情があるとする。

でもその感情は単なる脳の電気信号の出力結果に過ぎない。

全ての事象理由証明されたら、魂や自由意志存在肯定出来るのだろうか?

例えば、見かけや行動、思考に至るまで人間そっくりな人工物を作った場合

そこに意識的もの存在し得るのか。

そもそも私たち意識などなくただの脳の反応を

行動や思考に変えているだけのロボットなのか。

やばい人類史に残る発見たかもしれんw

2019-08-05

anond:20190804160822

元増田グダグダ書いたけど、俺が一番違和感を持つのは例えばこういう運動のこと。

「少女像」展示再開求めデモ集会に200人「表現の自由の弾圧だ」名古屋 - 毎日新聞

デモに来た埼玉県女性会社員(25)は「作品を見たかった。主催者側へのひどい脅しなどがあったので続けられない状態になったのだろうか。悔しい」。上滝浩子弁護士京都弁護士会)は「公権力を持つ立場にある人が干渉的なことを言えば、表現活動が萎縮する。そうさせないために憲法表現の自由保障している。許せない」と話していた。

繰り返しになるけど、表現活動が委縮したのは、ガソリン持ってくると脅されたからでしょう。

で、それに対して通常、対処しうる危機管理以上のことが現場可能だったの? 例えばガソリン怖いのをみんなで耐えるの?主催者だけではなく客も巻き込むんだよ?

できないものを無理じいして、できなかったら検閲だなんだって騒いで無理な注文をして困らせるのが表現の自由を守るってことなの?

そういう理由で起きる表現活動の委縮って誰かのどんな努力でどうにかできるものなの?というのが俺の最大の疑問。

委縮しないようには何をすれば?という観点でいうと、例えば、テロを抑止する、という話とよく似ていて、

社会にあふれる憎悪を鎮静化させる、みたいなフワっとした話にしかならない。

****

行政危機管理対応としたという話と、行政言論弾圧した、という話を混ぜるなよ。ナイーブすぎるだろ。

****

もう少し思想的な背景に突っ込ませてもらうとさ、

そもそも脅迫含めて暴力的言論というのは、表現の自由副産物として、

そういう過激行為が起こりうることは覚悟しておかないといけないかもしれないんだよ。

アメリカを例にとる。意見が異なる者同士が過激な形でぶつかり合う、というのは、17世紀ヨーロッパプロテスタント宗派争いで経験済み。

たとえ激しくいがみ合っていても、政府はどちらか一方が正しいとは言わない、と。

その経験があって、アメリカに渡った巡礼始祖が社会約束事として決めたのが、合衆国憲法修正条項に引き継がれ、表現の自由の原型となっていく。

1970年代連邦最高裁言葉を借りれば、社会不協和音に満ちていることこそ強さの証である、みたいな覚悟をもって、

ヘイトなど多少の過激言動を認容していく、というのがアメリカ的な背景としてはある。

まり、もし仮にアメリカ的な感受性対処するとすれば、脅迫があったが、ま、今回は引きますが、へこたれずまたやりましょうね!ということなんだよ。

ところが日本場合、そういう歴史もなければ、不協和音のなかで生きる覚悟もない。

しろ日本空気として強いのは行政による言論弾圧記憶なんだよね。

それならそれでいい。表現の自由を基礎づける歴史的な記憶というのは、その国の歩んできた歴史文化によって異なるのは当然だからだ。

なんでもアメリカ式ってわけにはいかないだろう。それはいい。

でもその背景について、客観的な整理と自覚がないと、ただ無意識にオブセッシブな態度を表明しているようにしかみえないわけよ。

だいたい横から出てきた名古屋市長なんてそもそも中止となんの関係もないじゃん。

こはちゃんと危機管理対応弾圧を冷静に切り分けてもらわないと。

展示が表現不自由テーマということで、ついでにひとつ言及しておきたいんだけど、

表現の自由ということでヨーロッパの事例で有名なのは、例えば

ハマン風刺画問題というのがあるよね、フランスで大きな騒ぎになったりもした。

これは、暴力行為表現の自由副産物だという文脈では読み解けない。

アメリカとはかなり異なる歴史的な背景があって表現の自由価値が基礎づけられているからだ。

簡単にいうと、カトリック絶対正義が猛威を振るっていた時代に、

こんなんじゃ、まともな社会設計ができん!という問題意識からスタートしている。

まずはカトリック批判する権利必要だということで「神を冒涜する権利」として始まったのがフランス表現の自由であり、例の過激政教分離なんだよね。

からハマン風刺画事件でも、フランスメディアは「涜伸の権利はいずこに」という形で問題提起をしたりしたわけだよ。

ただ、おれは別にそんな話を今回の展示に期待しているわけじゃ全然ないんだけどさ、でもなぁ。

表現不自由展?

そんなたいそうなタイトルを銘打っておきながら、さまざまな国の作品を展示しているのに、他人作品コピペみたいに持ってきてパッチワークかよ。

ネットでみつけた一般客のコピペした解説文や評価をみても、テーマである不自由”の背景がよくわかるものではなかったね。

そのうえ雲行きが怪しくなったら中止と。芸術監督は残念がってメソメソと泣いて、みっともないってちょっと思ったりした。

そんなことくらいリスク管理問題として想定しとけ。

行政もだよ。リスクを想定したうえで、あらかじめ退避の基準を明示しておくんだよ。この場合判断と行動のスイッチとなりうる事象リストアップしておくんだよ。

そのうえでリスクシナリオ判断基準について主催者合意しておく。

そうしないと、あ、ヤバいと思ったんで引き揚げました、みたいに、行き当たりばったりな説明しか主催者にできないだろが!

そりゃ、突然中止に追い込まれたと思うわな。

まとめると、

表現の自由という観点でも主催者問題意識は感覚的なものしかないし、

リスク管理という観点でも不作為がはなはだしい。

表現の自由についての問題整理とリスク管理、この二つをしっかり持っておかないと

なんだだ危なっかしいだけだ。

という感想をもった。

追記

大村知事名古屋市長憲法違反と批判している。

大村知事「河村市長の主張は憲法違反の疑いが極めて濃厚」…県には”京アニ放火”に言及した脅迫メールも | AbemaTIMES

まさに公権力行使される方が、"この内容は良い、悪い"と言うのは、憲法21条のいう検閲と取られてもしかたがない。そのことは自覚されたほうが良かったのではないか裁判されたら直ちに負けると思う」と厳しく批判

おおむね間違ってはいないんだけど、このあたりに、日本人が感覚的に扱う、表現の自由の手つきの危うさがある。

検閲というのは、基本的には”発表前の事前抑制”を指す。特に最高裁定義はそうだ。憲法違反だとか裁判で負けるとまでは言い切れないのだよ。

特にこの場合市長意思決定者でもなんでもないんだしね。

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