はてなキーワード: 表現活動とは
読者も原作者のことは実はあんまり興味なくて、作品が好きだから「作品」に向けて創作してるだけだと思うんですよね。それは原作者へのファンアート・レターじゃない。
はっきり言ってしまえば、作者が好きじゃなくても(リスペクトしてなくても)二次創作はできますから。私も二次創作してたけど、作者の人間性は知らないようにしてた。
作品そのものにシミュレーション欲を掻きたてられて、キャラクターや設定であれこれしたいから二次創作に手を出す。これがすべて。
愛とか言ってますけど、大半は同じファン同士の交流か自分好みに改変した世界が見たいだけですよ。大体原作じゃ物足りないから創作してるわけで。
二次創作においては、原作>原作者なこともある。そこに作者の意思なんて介在してない。作者の発言は設定扱いです。
原作を生み出した作者がすごいと思うファン心と、設定を借りた表現活動を「ファン活動」で括るなという意見には賛同します。時間や手間を掛けても所詮は「他人のもの」にされている/してしまっているので。
本気で嫌ならガイドラインやら声明出せばいいと思います。何がなんでも二次創作したい人は鍵に籠もって、視界からは消えるんじゃないですか。
ツイッターやブログでなにかを書くことは新しい表現活動かのように思われたが、ここ数年で一気に「ファン活動」と「販促」に収束してしまったように見える。
つまり、インターネットは表現者と消費者の垣根をなくすと思われていたが、そうはならず、結局表現者の「販促」と消費者の「ファン活動」に分かれてしまったのだ。
それは「推し」という概念が広まったことでますます拍車がかかって、素人は好きなものでも推してろと言わんばかりの雰囲気が充満している。
はてなブログの特集を見ても、そこにあるのは何かを見た感想のまとめである。素人表現者はどんどん端に追いやられ、まるで最初から存在してなかったかのような扱いを受けている。
ネットは素人をエンパワーメントしたかもしれないが、同時にプロもエンパワーメントしてしまうので、その溝は一生埋まらないのである。哀しいことだ。
それは、ロリエロコンテンツやロリエロ同人活動などに費やしてきたこれまでの人生を全否定されているからだと思う。
「あくまで妄想の表現活動やコンテンツ消費しかしていない。現実の子供とは関わったことなどない。」という人が大多数だとは思うが、それと同時に自らの性的嗜癖に罪悪感を持つ人も多いだろう。
だからこそ、SNSという公共の場でロリエロが否定されることは、自らが社会的に抹殺される恐れを感じさせるには十分であろう。
個人的には、そういう人たちがロリやエロ以外の趣味を持つとか、当人と同世代の人間関係を持つとかして、「ロリエロ」に対する執着を自然な形で手放せるようになって欲しいと思う。
「人によってそれぞれ」
そんなもん当たり前だ。誰だって知ってる。問題はその一人ひとりの声をどこまで一般化して意見を通すか?ということがキモだ。
表現問題はこのままだと企業側が炎上を恐れて、自由な表現活動が阻害されるということが問題。
つかこの表現規制で、規制側が恐れるべきなのは、企業側が「炎上」を恐れなくなることだ。
いまは「女性の声」という弱者側の意見なので企業側も耳を傾けているが、毎度毎度同じように炎上すると企業側も馬鹿ではないのでだんだん理解してくる。
実際いままでの炎上案件に、明確な抗議というものは存在しなかったはずだし、せいぜい弁護士や議員の「いかがなものかしら?」程度の感想しかない。
炎上手法がただの虎の張り子だと気づかれたとき、規制側はどうするつもりなのか?
考えてみてほしい。
ずっとインターネットをばかりやっていた。それなのに一角の人物にもなれなかった。
自分がネットを始めた頃にネット活動を始めた人たちは、今や人気ブロガーやライター、小説家になったり
Vの物になって人気を得ている。
一方自分ときたら、多少ネット上で表現活動をやっていた時期もあったが、引っ込み思案であることや
持ち前の学習能力の無さや、どの才能も人並み以下だったこともあり何一つ成果はあがっていない。
それ以上にインターネット中毒をこじらせ、実生活にも影響を受け、30を手前にして最近社会復帰したフリーターという有様だ。
あの日、同じようにネットを楽しんでいたはずだったのに、どうしてこんなにも差がついてしまったんだろうか。
それを思うたび、悲しくて胸が張り裂けそうだ。
鉄オタが愛用する一眼レフというレンズ交換式タイプのカメラは、日本ではニコン1社しか製造していない型のカメラで、
>>安さんは「一方的な中止は契約の不履行である上、表現の自由を奪う不法行為だ」と主張。
>>一方、ニコン側は「開催すれば関係者に危険が及んだり、不買運動が起きたりするリスクがあり、中止は正当だった」などと主張していたが、
>>東京地裁は「一方的な中止決定を正当化できるほど現実的なリスクではなかった。ニコン側は契約を守り、表現活動の場を提供する義務があった」とした。
慰安婦写真展中止 ニコンに賠償命令 東京地裁 韓国人写真家勝訴 2015.12.25 15:08更新
https://www.sankei.com/affairs/news/151225/afr1512250017-n1.html
俺は表現の自由戦士なので
抗議するのも自由だと思うからこの投稿もそれはそれで良いと思う
そして擁護するのも自由なので「異種族レビュアーズ」を擁護させてもらう
俺は表現の自由戦士なので
表現活動とそれを見るのが大好きだ
俺の評価基準は政治的に正しいか、誰かを傷つけない表現であるかではない
表現として納得できるかどうかだ
まあ、納得できない表現もなくせとは思っていないが
具体的には
そして変節するならそれなりの理由があることだ
大した理由もないのに主人公を好きになり奉仕する女キャラが嫌いなのは、ポリティカルにコレクトでないからではなく、キャラクターとして人格が感じられないからだ
他にもあるが、今回関係するのはそのあたりだ
そのような意味で今回のことは「風俗通いが趣味のオッサンの視線として」納得できる表現だと俺は思う
現代の常識的な感覚で言えば嫌悪されるようなキャラであり、こいつらふざけんな、と思うのも正しいだろう
でも妙にゲイに理解があるほうが俺は違和感を覚えるだろうな。もちろん見せ方しだいだが
とはいえみな性に貪欲なので、お尻をほじられるのも悪くないな!となったり
クリムきゅんが可愛すぎてムラムラするので男も女も関係ないぜ!となる可能性もある
それでも同性「愛」、というよりは性欲や快楽の観点からいくのが「レビュアーズ」のテーマであり
それもまた人間の一面の真理であろうと俺は思う
今、ネット上には漫画を不正にコピーしたものがあふれています。これらの「不正コピー」とアップはすべて、漫画家たちの気持ちに反しておこなわれたものです。そして、「この作品はこう読んでほしい」という作者の意図をも大きくねじ曲げています。「不正コピー」を作りネットにアップする行為は、たとえそれが気軽な気持ちでおこなわれたとしても、漫画家が心血を注いだ表現活動を傷つけることであり、また法に触れる行為でもあります。 私たちは、こうした「不正コピー」を発見するつど、漫画家と話し合いながら、考えられるあらゆる策を講じてきました。しかし、心ない人たちはあまりに多く、残念ながらそのすべてには対応し切れてはいないのが現状です。 読者の皆様にお願いです。ネット上にある「不正コピー」は、漫画文化、漫画家の権利、そして何より、漫画家の魂を深く傷つけるものです。それらはすべて法に触れる行為でもあるということを、今一度、ご理解ください。また漫画家の方々と集英社は今後も、ネット上のあらゆる「不正コピー」に対しては厳正に対処していきます。読者の皆様の変わらぬご支援をお願いいたします。
これしか見つけられなかった
・基礎スキル
オタク男……コミュ力が低く、趣味で散財して経済力もない。ルックスもあまり良くない。
ヤリサー男…コミュ力や経済力によって女性にモテた結果、女性を弱者とみなしてモノ扱い。
オタク男……女性から疎まれ続けてきた経験から、女性のことを自分たちを抑圧する強者として敵視。
ヤリサー男…高いコミュ力から言葉巧みに女性を籠絡し、複数人との性交渉に何度も及ぶ。
オタク男……女性経験はほとんどない。あるいは性風俗を利用するのみ。
ヤリサー男…その高いコミュ力から、体面を保つのがうまい。見えるところでは性的な言動はしないし、する必要がない。
なのでフェミニストからも目をつけられず、経済力も相まって、社会からはむしろ信頼される存在であることも多い。
オタク男……コミュ力が低いので、他人を不快にさせる言動をしてしまい、悪印象を与えがち。
欲求不満を発散するため表現活動へ性的欲求が向かうが、それによってフェミニストに目をつけられてしまったりする。
オタク男に救いはないのか(泣)
建造物侵入、殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反(事件番号 平成30年(わ)1145号)第4回公判
9時20分
本日の傍聴定員25名、超過すれば抽選、以下であれば定時までに整理券配布に並んだ者がそのまま傍聴できるのだが、整理券配布締切直前に1名超過となる。しかし1名辞退者が出たため抽選なし。
9時50分
905法廷。傍聴席に座席指定はなく、最前列に記者席、向かって右手側に関係者席、その他を自由選択できる。
両脇に被告人入廷。紺色スーツ、ネイビーのネクタイ、黒っぽいセルフレームの眼鏡、ただし足元はサンダル。逮捕直後に報道された姿より体重が落ち、坊主頭がそのまま伸びたような短髪。姿勢が良く、痩せているというより締まっているため、休日にジムでトレーニングしているエンジニア、と言われても違和感がない。
そして目立たなかったが手錠と腰縄、それらを外した後、裁判官と裁判員入場。右手側に検察、左手側に弁護人と被告という配置。
10時
「低能先生と言われるネット上のモンスター」「死んで償ってほしい」
被害者妹の証言。証言席は衝立で囲まれ、被告人からは見えない状態。
終始涙声、「誠意などまるでない」
検察官。
鑑定人に自閉スペクトラムと鑑定されているが、自閉スペクトラムは攻撃性を特徴とせず
被害者参加人。
我が国初の事件であり、ネット上の表現活動に影響を与えることになる
極刑を。
弁護人。
自閉スペクトラムが影響している
汲むべき情状で量刑判断してほしい。私利私欲や快楽目的ではない。再犯可能性なし。真摯に反省している。今後家族の支援監督あり。
被告人。
すべての方々にお詫びしたい、すいませんでした
人生を前に進めてほしい
父に連帯責任は問わないで
以上。筆記メモ難しい。
効果あるかないかもわからん無益な署名集めやってる暇あるなら、クラウドファウンディングでもすればいい
そもそも政府にお金を貰わないと表現活動ができないアーティスト、
そしてそんなアート界隈の経済状況を許しているアート関係者とその客が不健全に決まってるだろう
政府が金出さないなら俺たちがアーティストを食わせて表現の自由を守る!ぐらいの気概は見せてもいいはずだが、
一向にそういう姿勢にはならず、補助金くれくれと集ってまるで乞食ではないか
俺は政府が文化の発展のために、アートに金を出すことに吝かではない
元増田にグダグダ書いたけど、俺が一番違和感を持つのは例えばこういう運動のこと。
「少女像」展示再開求めデモ集会に200人「表現の自由の弾圧だ」名古屋 - 毎日新聞
デモに来た埼玉県の女性会社員(25)は「作品を見たかった。主催者側へのひどい脅しなどがあったので続けられない状態になったのだろうか。悔しい」。上滝浩子弁護士(京都弁護士会)は「公権力を持つ立場にある人が干渉的なことを言えば、表現活動が萎縮する。そうさせないために憲法は表現の自由を保障している。許せない」と話していた。
繰り返しになるけど、表現活動が委縮したのは、ガソリン持ってくると脅されたからでしょう。
で、それに対して通常、対処しうる危機管理以上のことが現場で可能だったの? 例えばガソリン怖いのをみんなで耐えるの?主催者だけではなく客も巻き込むんだよ?
できないものを無理じいして、できなかったら検閲だなんだって騒いで無理な注文をして困らせるのが表現の自由を守るってことなの?
そういう理由で起きる表現活動の委縮って誰かのどんな努力でどうにかできるものなの?というのが俺の最大の疑問。
委縮しないようには何をすれば?という観点でいうと、例えば、テロを抑止する、という話とよく似ていて、
社会にあふれる憎悪を鎮静化させる、みたいなフワっとした話にしかならない。
****
行政が危機管理対応としたという話と、行政が言論を弾圧した、という話を混ぜるなよ。ナイーブすぎるだろ。
****
もう少し思想的な背景に突っ込ませてもらうとさ、
そもそも、脅迫含めて暴力的な言論というのは、表現の自由の副産物として、
そういう過激な行為が起こりうることは覚悟しておかないといけないかもしれないんだよ。
アメリカを例にとる。意見が異なる者同士が過激な形でぶつかり合う、というのは、17世紀のヨーロッパがプロテスタントの宗派争いで経験済み。
たとえ激しくいがみ合っていても、政府はどちらか一方が正しいとは言わない、と。
その経験があって、アメリカに渡った巡礼始祖が社会の約束事として決めたのが、合衆国憲法修正条項に引き継がれ、表現の自由の原型となっていく。
1970年代の連邦最高裁の言葉を借りれば、社会が不協和音に満ちていることこそ強さの証である、みたいな覚悟をもって、
ヘイトなど多少の過激な言動を認容していく、というのがアメリカ的な背景としてはある。
つまり、もし仮にアメリカ的な感受性で対処するとすれば、脅迫があったが、ま、今回は引きますが、へこたれずまたやりましょうね!ということなんだよ。
ところが日本の場合、そういう歴史もなければ、不協和音のなかで生きる覚悟もない。
むしろ日本の空気として強いのは行政による言論弾圧の記憶なんだよね。
それならそれでいい。表現の自由を基礎づける歴史的な記憶というのは、その国の歩んできた歴史文化によって異なるのは当然だからだ。
でもその背景について、客観的な整理と自覚がないと、ただ無意識にオブセッシブな態度を表明しているようにしかみえないわけよ。
だいたい横から出てきた名古屋市長なんてそもそも中止となんの関係もないじゃん。
そこはちゃんと危機管理対応と弾圧を冷静に切り分けてもらわないと。
展示が表現の不自由がテーマということで、ついでにひとつ言及しておきたいんだけど、
ムハマンド風刺画問題というのがあるよね、フランスで大きな騒ぎになったりもした。
これは、暴力行為が表現の自由の副産物だという文脈では読み解けない。
アメリカとはかなり異なる歴史的な背景があって表現の自由の価値が基礎づけられているからだ。
簡単にいうと、カトリックの絶対正義が猛威を振るっていた時代に、
こんなんじゃ、まともな社会設計ができん!という問題意識からスタートしている。
まずはカトリックを批判する権利が必要だということで「神を冒涜する権利」として始まったのがフランスの表現の自由であり、例の過激な政教分離なんだよね。
だからムハマンド風刺画事件でも、フランスのメディアは「涜伸の権利はいずこに」という形で問題提起をしたりしたわけだよ。
ただ、おれは別にそんな話を今回の展示に期待しているわけじゃ全然ないんだけどさ、でもなぁ。
そんなたいそうなタイトルを銘打っておきながら、さまざまな国の作品を展示しているのに、他人の作品をコピペみたいに持ってきてパッチワークかよ。
ネットでみつけた一般客のコピペした解説文や評価をみても、テーマである”不自由”の背景がよくわかるものではなかったね。
そのうえ雲行きが怪しくなったら中止と。芸術監督は残念がってメソメソと泣いて、みっともないってちょっと思ったりした。
行政もだよ。リスクを想定したうえで、あらかじめ退避の基準を明示しておくんだよ。この場合、判断と行動のスイッチとなりうる事象をリストアップしておくんだよ。
そのうえでリスクシナリオと判断基準について主催者と合意しておく。
そうしないと、あ、ヤバいと思ったんで引き揚げました、みたいに、行き当たりばったりな説明しか主催者にできないだろが!
そりゃ、突然中止に追い込まれたと思うわな。
まとめると、
表現の自由という観点でも主催者の問題意識は感覚的なものでしかないし、
表現の自由についての問題整理とリスク管理、この二つをしっかり持っておかないと
なんだだ危なっかしいだけだ。
という感想をもった。
追記:
大村知事「河村市長の主張は憲法違反の疑いが極めて濃厚」…県には”京アニ放火”に言及した脅迫メールも | AbemaTIMES
まさに公権力を行使される方が、"この内容は良い、悪い"と言うのは、憲法21条のいう検閲と取られてもしかたがない。そのことは自覚されたほうが良かったのではないか。裁判されたら直ちに負けると思う」と厳しく批判。
おおむね間違ってはいないんだけど、このあたりに、日本人が感覚的に扱う、表現の自由の手つきの危うさがある。
検閲というのは、基本的には”発表前の事前抑制”を指す。特に最高裁の定義はそうだ。憲法違反だとか裁判で負けるとまでは言い切れないのだよ。
国や県の補助金が入っているから政府が展示内容にいくらでも口を出してもいい、って本気で思っている人がいまだにいるみたいだけど、そんなことはないんだよ。
何故かというと、表現の自由を保障するということは、政府が国民の間で交わされる表現活動について中立的であるべきことも含意するから。
これはちょうど、信教の自由の保障と政教分離原則が密接な関係にあるのと同じことだと思えば理解しやすいだろうか。
国によっては、国教を定めつつもその他の宗教も一応認めます、ってところもあるけど、それではやはり国教徒以外は二級市民ということになってしまう。だから、日本では、政教分離原則を定めて国家は宗教に関わらないことにしたんだよ。
同じように、政府が、この表現は正しいから補助金を出します、この表現は正しくないから補助金は出しません、とやりだしたら、表現の自由の保障はすぐに形骸化してしまうんだよ。
国や県の補助金が入っているから政府が展示内容にいくらでも口を出してもいい、って本気で思っている人がいまだにいるみたいだけど、そんなことはないんだよ。
何故かというと、表現の自由を保障するということは、政府が国民の間で交わされる表現活動について中立的であるべきことも含意するから。
これはちょうど、信教の自由の保障と政教分離原則が密接な関係にあるのと同じことだと思えば理解しやすいだろうか。
国によっては、国教を定めつつもその他の宗教も一応認めます、ってところもあるけど、それではやはり国教徒以外は二級市民ということになってしまう。だから、日本では、政教分離原則を定めて国家は宗教に関わらないことにしたんだよ。
同じように、政府が、この表現は正しいから補助金を出します、この表現は正しくないから補助金は出しません、とやりだしたら、表現の自由の保障はすぐに形骸化してしまうんだよ。
しばしば、表現の自由が脅迫に屈した、とか表現の自由に対する挑戦みたいなことが言われるんだけど、よく考えてみると、ん?まてよと思うところがある。
つまり、屈するってどういうことだろうと。
じゃあ、屈しないとした場合、具体的には現場でどういう判断になるわけ?
ガソリン持ってくるのに怯えながら耐えるわけ?主催者が?客も?
それは判断としてないわけで、ありうる判断は、現場のリスク管理の基準に基づくものだけだよね、実際上は。
主催者側の根性や気合いで屈しないように頑張ろうって話にはならず、ある意味では差し迫った危害を前にしては屈せざるを得ないわけだよね。
という時点で表現する側にできることは危険を回避する判断以外にあり得ないわけで。それなのに屈したと、当初から選択肢にあった判断をあきらめたかのように装って、わざわざいうのは変で、当然の危険回避行動をとったと言えばいいんじゃなかろうか。
じゃあ、今度は逆に、脅迫は卑怯なり!って方向から考えてみる。
確かに実態として、脅迫行為によって表現活動は萎縮する。自由を萎縮させないために脅迫行為を厳しく追及すべきだと。
なるほど表現の自由を守るためにそういった犯罪行為は少なくなっていったほうがいい。
ただちょっと疑問なのは、脅迫によってビビって萎縮するって表現の自由に限った話じゃなく、業務妨害でもいえることで、他者危害のひとつの類型だよね?
しかも加害者の認識としては、別に表現の自由に対する挑戦などという壮大な動機はなくて、具体的な何かを
妨害したいってだけだろうと思う。
であれば、勝手に加害者の動機を壮大にとらえるのはおかしいんじゃないか。
こういう事態に対して表現する側ができることは何かって視点で考えてみる。
犯罪を非難したり、不当な拘束をやめるよう要求したり、個別の危機管理をするしかない。いつ何時、似たようなことが起こらないとも限らないし、そのための対策なんてないよね?つまり、表現の自由の価値を守るための行動って具体的になんなの?
極端な話、今後、ガソリン持ってくるぞ予告電話が流行るかもしれない。
そのときにできることはなんなの?
できないものを無理じいして、できなかったら検閲だなんだって騒いで無理な注文をして困らせるのが表現の自由を守るってことなの?
そんなふうに考えてみると
表現の自由に対する挑戦には屈しないとか、よく聞くフレーズには具体的なアクションとしての実体がないんじゃないかと思える。できもしないことを叫んでるだけなんじゃないかと。
「京アニは麻薬の売人」という発言は、たくさんの人の心に刺さったかもしれないが、理屈は通っているところもあるし、何よりどこかに実害がある話では全くない。同意しなくても「私はそう思わない」で済む話。
「かんぽがノルマかけまくって詐欺同然の大量契約」というのは、何十億という莫大な損害と、大量の被害者を全国で生んだ社会悪。被害者が高齢者である組織的構造的である点でも悪質で素早い対応が必要。「そんなこと今の世の中によくある」としても、それは「よくある悪」であるに過ぎず、看過できる問題ではない。組織的構造的な悪。
「事業仕分け」は、当時として必要なことであり、そもそも今も毎年「秋のレビュー」などの形で実施されている。にもかかわらず、「二位じゃだめなんですか」というセリフと共に(この発言も元の文脈を無視したキリトリ方をされているが)民主党の悪事のように扱われている。
「統計不正」は、国の政策の根幹に関わる不正であり、国家の根幹を揺るがす悪事である。官僚の一存で行ったのならば明らかに危険な行為だし、内閣の指示が入っているなら、明らかに総辞職し関係大臣が逮捕されてもおかしくない案件。内乱罪や外患誘致罪と同じく国家転覆に関わる犯罪だ。だが、メディアの追究も人々の関心もそこまででない。「今回の統計のごまかしは大したレベルのことではないから」と言う人は、物事の「質」というものを見失っているのではないか。国家の根幹を揺るがす行為は、未然防がれたとしても、その質それ自体が許されるものではない。
「ハムスターの虐待」について、5chの動物苦手板の廃止を訴えた署名活動をしている人がいるそうだ。確かに、例に挙げられているのは動物虐待動画だし、それが社会的によいものではないのは言う通りだろう。だが、問題はそこだろうか? 政治家を動かし、一民間掲示板の板を封鎖する、という事例を作るようなことをしたところで、こんな虐待をする人々の数は一人でも減るのだろうか? せいぜい、より見えにくい所に活動の場を移すだけで、こんな活動ただの自己満足に過ぎないのでは? と誰も指摘はしないのか。更に言えば、これが通れば同様の手法を用いて政治的な表現活動の弾圧などもたやすくできるような気がするのだが、そのことへの危惧はないのだろうか。
「外国人技能実習生の待遇問題」は、生きている人間に対する現在進行形の、しかも、この社会の根幹に関わる問題で誰にとっても無視できない問題であるわけだけど、ハムスターの運命に同情する多くの人々は、30万人にのぼる技能実習生の現状と運命にどのくらいの同情を寄せているのだろうか。
これが誰かの陰謀だ、とか言うつもりはない。前三つは「分かりやすい」悪であり、後三つは「少しむつかしい」悪だから、それが原因かもしれない。別に政権批判をしたいわけでもないし、現代社会論を唱えたいわけでもない。ただ「怒るポイントがおかしいんじゃないかなあ」と思うだけだ。そんなことにイライラする自分も「おかしい」部類に入るのかもしれないね。
ポリティカルコレクトネスだって「それを理解しない人」からすればただただ自分の意見や言動、はては表現活動までも規制しかねないモノでしかないけど、
それを推進する人にとって「それは個人の嗜好ではなく善悪の問題だから」社会全体に普及させようとするのと同じように
ヴィーガンもまた(彼らの信ずる)「個人の嗜好ではなく善悪の問題」としてるだけでしょ
多分ここでアホなはてなーは「他人の権利を侵害するからー」とか思うんだろうけど
その理屈だと「これまでやってきたことを規制したり禁止しよう」って運動は何もかもどこかの誰かの利権の侵害だぞ
大好きなフェミニズムだとか労働運動も「俺たち私たちはそれで今までやってきたんだから余計な口出しはやめろよ」って言われて「はいそうですね止めます」ってならないだろ