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はてなキーワード: プラグマティズムとは

2020-03-02

anond:20200302150609

それは「足し算のおいしさは?」と聞かれてるようなもんなんやでって言って理解できるか理解できないかやな。

そも、クイックソートすると計算量如何よりもメモリをどれだけ食うようになるのか、を分かっているのならばプラグマティズム的にそういう話題に達しないってわかると思うんだが。

2019-11-04

フェミニズム男性にとって実存的な意味がない

プラグマティズム一言で言えば行動を伴わない思想意味はないというリアリズム一種だけれど、フェミニストになって現実的に得をすることがない。

事務的コミュニケーションを取る時にフェミニズム的にふるまい、男女差別をしないで対応することにより良い印象なるものを与えることができるかもしれないがフェミニズムなど意識しなくても単にロールプレイとして仕事すればフェミニズムのような思想を持つ必要そもそもない。

フェミニズムを信奉する女性にとってはフェミ的な対応をとる男性有用な印象を与えるかもしれないがそれで終わりである。それ以上の関係になることはない。

現実問題として男性女性口説いて恋愛が始まるモデル支配的な以上、完全にフェミニズム的なふるまいを取る男性無意味人間になるしかない。無害な印象を与えてそれで終わりであるフェミニスト個人主義を叫んで男性女性侵入してくるなと言っているがそういうふるまいを取る男性の終着点を想像していない。あの人は良い人だった、それで終わりである

フェミニズム理想とする無害な男性は極端に恋愛の機会から遠ざかる。女性から口説かれる男性ほとんどいない。それが現実である以上、フェミニズム男性生き方として採用する社会構造がない。男性にとってフェミニズム理想論として語ることはあっても永遠に現実論にはならない。男性能動的、女性受動的な世界において男性が無害な存在として振る舞うことは関係性の終わりを意味する。女性男性的に男性欲望し、男性受動的になれれば僕もフェミニストになっていい。しかしそんな世界永遠に訪れない。実存を伴わない思想意味はない。男性フェミニストになる意味がない。

フェミニズムは正しい。それは論理であり理想であっても決して現実にはならない。だから僕はフェミニストを支持し、同時に採用しない。現実的に考えて利益がないからだ。僕は女性口説かれる男性ではないし、女性関係を持ちたい普通欲望を持ちたい男性から僕は女性意図無視して口説くこともあるだろう。その結果、ハラスメントと言われるかもしれない。その結果後悔するかもしれない。

その罪を負ってでもフェミニズムが言う男性にとって無害で無意味世界に生きるよりもはるかにましである

2019-09-07

行動主義心理学10分で理解する

はじめに

行動主義はJ.B.Watsonが最初提唱した心理学哲学だ。この哲学は、現代では下火のように見なされてたり、あるいは棄却すべき対立仮説のように扱われることが多い。

しかし、実際には認知心理学者、あるいは認知科学者が槍玉にあげる行動主義は、誤解に基づくものか、そうでなくても「その行動主義自称している行動主義者は現代はいないよ」と言わざるをえないような藁人形論法であることが少なくない。

そこで、行動主義誕生から現代的な展開までの歴史について、ごくごく簡単にまとめてみようと思う。

Watson の行動主義

行動主義は、Watson が 1913 年に提唱した。

Watson の基本的な主張は、ご存知の通り「心理学対象客観的に観察可能な行動に限る」というものだ。

当時の心理学は Wundt の提唱した「内観法」を用いて人間の持つ「観念連合」を記述する、というものであった (余談だが、内観法は単なる主観報告ではない。これもよくある誤解である。Wundt の提案した心理学は、繰り返しの刺激に対し、同じように報告するよう徹底的に訓練することにより、人間の持つ感覚の組み合わせについて首尾一貫とした反応を得ようという研究方針である)。

Watson が反対したのは、Wundt の方法である人間自己報告」を科学データとすることである。それに代わって、刺激と反応という共に客観的に観察可能事象関係研究対象とすべきであると主張した。Watson は Pavlov の条件反射概念を用いれば刺激–反応の連関を分析可能であるし、人間の持つ複雑で知的な行動も刺激–反応の連鎖に分解できると考えた。

また、情動や愛のような内的出来事は、身体の抹消 (内臓筋肉) の微細運動から考察された。Watson の心理学が「筋肉ピクピク心理学」と揶揄される所以であるが、現代身体性を重視する心理学認知科学を考えると、(そのまま受け入れることはできないにせよ) あながちバカにできない部分もあるような気がする。

さて、認知心理学者、認知科学者が批判するのは多くの場合 Watson の行動主義である場合によっては、次に登場する Skinner と Watson を混同して批判する。

注意しなければいけないのは、Watson の行動主義立場を取っている行動主義者は、この地球上にはもはや存在しないという点である。従って、Watson 批判歴史的な批判以上の何物でもなく、現代科学議論ではない。

では、行動主義を自認する現代研究者が寄って立つ立脚点は何なのか? その鍵になるのが、Skinner の徹底的行動主義である

Skinner の徹底的行動主義

Skinnerは、Pavlov の条件反射を「レスポンデント条件づけ (いわゆる古典的条件づけ)」、Thorndike の試行錯誤学習を「オペラント条件づけ」として区別し、概念、および実験上の手続きを整備した。そのためあってか、Skinner は20世紀で最も影響力のある心理学者 1 位の座についている。

Skinner は、科学目的を「予測 (prediction)」と「制御 (control)」とした。ここでは説明しないが、そのためにの強力な武器として概念としては「随伴性 (contingency)」、方法論として「単一事例研究」などを導入した。 彼の心理学は他の心理学とは大きく異なる用語法、研究方法を持つため、「行動分析学」と呼ばれる。

徹底的行動主義では、Watson が扱ったような客観的に観察可能な「公的事象」に対し、「私的事象 (ようは「意識」のこと)」もまた、同様の行動原理によって説明できると主張した。つまり、内的出来事も「行動」として捉えられる、ということだ。文字通り「徹底的」に行動主義なのである。実際に、Skinner の著書の中には「知覚」「感じること」「思考すること」といった、内的な事象についての考察も多く、それらは行動分析学重要対象であるとはっきりと述べている。

逆に Skinner が反対したのは、「心理主義的な説明である。心的な活動実在するし、それ自体研究対象ではあるが、「心的な活動によって行動が駆動される」という因果的な心理主義に対しては、Skinner は反対であった。つまり、「原因としての心的概念」の導入に反対したのだ。この点を間違えると、Skinner を完全に誤解してしまう。

ただし個人見解としては、行動分析学ほとんど顕在的な行動以外実際には扱っていないし、扱うための具体的な方法論を発展させてもいない。そこに関しては批判を免れないとは思う。

行動分析学の他に重要な特徴として以下の 3 つが挙げられる。

(1) 「反応」を運動パターンとして定義するのではなく、「どんな結果事象を引き起こすのか」から定義する機能主義
(2) 人間の営みを超えた真理探究ではなく、行動の予測制御という現実的有効性の上昇を目指すプラグマティズム
(3) 仮説構成体・仮説群から研究演繹するのではなく、実験結果から法則抽出する帰納主義

なお、帰納主義については「え?でも科学って演繹帰納の両輪で回ってるんじゃないの?」と考える人いるかもしれない。

Skinner は「行動について我々は知っているようでまるで知らない。そのような若い科学にはまず、具体的なデータ必要なのだ」と考えた。そのため、Skinner は環境 (刺激) と反応の間の関数関係データの蓄積を重視した。

まりあくまで当時の知的状況を鑑みての方針だったということは重要な点だ。

ちなみに、Skinner は自身の徹底的行動主義区別するため、Watson の行動主義を「方法論的行動主義 (methodological behaviorism)」と呼んでいる。

また、次に述べる Skinner の同時代の行動主義も、同様に方法論的行動主義とまとめられることが多い。

Skinner と同時代の行動主義 (新行動主義)

Watson のアイデアを発展的に継承したのは Skinner だけではない。

ただし、Skinner 以外の新行動主義に与している研究者は、現代には皆無なので、あくま歴史的な展開として捉えるべきである

Guthrie

Guthrie は刺激と反応の間にできる連合は「時間的接近」によって生じることを述べた。また、Hull や Tolman と異なり、心理学研究対象客観的に観察できる行動に限定すべきであるという姿勢は堅持した。

Hull

Skinner と大きく異なる点として、Hull は「仮説構成体による演繹」を重視した。「習慣強度」という潜在変数を導入したモデルを考案し、その潜在変数挙動の変化により行動の予測に挑戦した。

Hull の研究問題点は、いたずらに潜在変数いくらでも増やせてしまい、理論肥大化する危険はらんでいるためである特に Hull や Skinner の時代は、行動に関するデータがまだまだ少なく、行動研究には強固な地盤がなかったのである。Skinner は「理論必要か?」という論文理論研究批判していているのだが、Skinner が批判たかったのは Hull の心理学だったのである

Tolman

Tolman は刺激と反応の間に「仲介変数」を導入した心理学者だ。いわゆる S-O-R の枠組みである。彼は「潜在学習」の研究によって、「学習」と「成績」は必ずしも一致しないことを見出した。そのことから、刺激と反応の間には、それを仲介する隠れた変数がある、と考えた。

Tolman からすると、「感情」「期待」といった内的な出来事も、刺激と反応の間に存在する仲介変数である

現代視点で見ると、認知心理学下地になるアイデアを提出したのが Tolmanだ。

ところで、Tolmanと地続きである認知心理学もまた、徹底的行動主義立場からすると方法論的行動主義立脚した心理学である。そう、私たち現代心理学徒のほとんどは、意識せずとも方法論的行動主義なのだ

なぜか?認知心理学でも、公的事象と内的事象を分ける。内的事象には直接アクセスできないので、公的事象の「操作」と計測を通じて内的事象研究をする。公的事象操作 (実験条件) を通じて、内的事象定義を行う。これは、Stevens-Boringの「操作主義」と呼ばれる。操作主義では、操作と計測の対象公的事象であり、内的事象については「研究者間での合意」に基づいて議論される。つまり、例えば「この条件によって反応時間に変化があったら、作業記憶に影響があったということにしようね」というのが、研究集団によって暗に共有されている、ということだ。これが、認知心理学が「方法論的行動主義」と呼ばれる所以である

Skinner 以降の展開

1980年代以降、Skinner の弟子筋の研究者たちの間で、Skinner 以降の行動主義を巡って、研究方針多様化しつつある。その中でも最も影響力のある 3 つについて、簡単に紹介したい。

Heyes の機能文脈主義

Skinner の行動分析学プラグマティック科学であると言われているが、実は Skinner 自身は表立ってプラグマティズムに述べていたわけではない。例えば、近い時代を生きたパースジェームズデューイを直接引用して主張を行なっていたわけではない。一方、Heyes の機能文脈主義の特徴は、Skinner の徹底的行動主義の持つプラグマティズムをより明示的に推し進めた点にある。

Skinner は心的概念を導入することを否定した。私的出来事 (内的過程) は外的な行動の原因ではなく、それ自体独立した行動として捉えるべきだと考えたためだ。また、心的概念による説明は、行動分析学目的である予測制御寄与しないと考えたことも一因である

Heyes の場合、そのような概念でも、予測と変容 (influence) に寄与する場合は、十分に有用であると考える。

具体的には、「態度」を測る質問研究が好例だ。質問紙で測る「態度」は Skinner であれば「質問紙に回答行動」として見なされる。しかし、Heyes の場合「そのような研究問題点は、測ったところで、実際の行動を変容させるための操作変数が同定できないことだが、最終的に行動の予測と変容を目指すという目的がぶれない限り、足がかりとしては有用である」と主張する。

このような、伝統的な行動主義比較してある意味で軟化した態度を、Heyes は「行動主義心理学自由主義化」であると述べている。

少し脇道に逸れるが、Heyes は行動の「制御 (control)」とは言わず、「変容 (influence)」と表現する。これは、「制御」だと決定論的に操作できる印象を受けるが、実際の行動には確率的な変動性が必ずついてまわるため、表現を柔らかくする意図である

また、機能文脈主義では、研究の真偽の真理基準にも明示的にプラグマティズムを導入している。

行動主義科学には必ず目的がある (多くの場合、それは現実問題解決と結びついているが、そうでないものもある)。Heyes の標榜するプラグマティズムは、目的にかなうかどうかが、研究の真偽を決める、ということだ。

これは、「うまくいけばなんでもok」という主観主義ではない。問題解決としての科学として、発見というよりは創造プロセスで知見が生まれるということだ。ただし、解決されるべき「目的」の方はどうしても恣意的にはなってしまう、と Heyes は述べている。

Baum、Rachlin の巨視的行動主義

巨視的行動主義の特徴は以下の 2 つにまとめられる。

(1) 分析単位として「随伴性」ではなく「相関性 (correlation)」

Skinner はレスポンデント条件づけは刺激−反応という 2 項随伴性、オペラント条件づけは刺激–反応–刺激という 3 項随伴性によって定式化し、随伴性こそが考察されるべき基本単位であると考えた。

巨視的行動主義は、そうは考えず、よりマクロな「強化子–反応率」の相関性行動主義心理学分析単位であると主張している。

まりミクロな刺激と反応の関係を捉えるよりも、マクロ環境と行動の関係を捉えることを重視しているのが、巨視的行動主義である

行動主義心理学目的予測制御に置くならば、結局はマクロ記述で十分であり、その方が有用であるというのが彼らの主張だ。

(2) 内的出来事の導入の拒否

Skinner は外的な行動とは別に内的な出来事もまた行動として捉えられると考えた。巨視的行動主義ではそうは考えない。

彼らは、内的な出来事を「潜在的な行動 (covert behavior)」と呼んでいるが、心理学はそれを直接対象とする必要がないと論じている。なぜなら、潜在的な行動が実際に効力を持つならば、最終的には顕在的な行動 (overt behavior) として表出されるためである

このことを彼らは「時間スケールを長くとる (temporally extended)」と表現している。瞬間瞬間に我々には豊かな精神活動 (mental life) があるが、それを相手取らなくても、長い時間観察すれば、観察可能な行動として現れる、ということである

Staddon の理論的行動主義

Staddon の主張は、他の行動主義と大きく異なる。彼の場合は、心的概念の導入を許容する。そして、それを用いた「理論」こそが心理学必要であると考えた。その点は、実験結果から法則抽出する帰納を重視した Skinner の立場とは異なる。また、「心的概念による説明」は Skinner の反対した「原因としての内的過程」でもあり、それを採用する点も Staddon の特徴である

行動主義心理学目的は、予測制御だけではなく「説明」にもあると彼は主張した。Staddon の言う「説明」とは、概念同士の関係によって、現象記述することである。わかる人にとっては、David Marr の「アルゴリズム表現」の位置心理学位置づけている、と考えればすっきり理解できるように思う。

Staddon はやや言葉遣いが独特で、概念連関による記述を「メカニズム」と呼んでいる。そのメカニズムは必ずしも生理学的基盤を前提しないで、あくま心理学レベルでの記述である

ようは、行動のアルゴリズム的な理解なのであるが、事実 Staddon は「私の言うメカニズムとは、アルゴリズムのことである」とも述べている。

Skinner は反応率 (時間あたりの反応数) を分析の基本単位としたが、Staddon はより多元的である。ただし、なにを分析単位とするかは、それ自体研究立脚点を示しているものである。それを Staddon は「The model is the behavior」という言葉表現している。

それでは認知心理学となにが違うのか?と思われるかもしれない。Staddon いわく、行動主義心理学伝統的に堅持してきた「強化履歴」は理論的行動主義でも重要であるというのが大きな違いらしい。つまり、行動や内的状態は、それまでの環境との相互作用に基づいている歴史性を有しているとういうのだ。当たり前といえば当たり前なのだが、その点を強調するか否かである

また、Staddon は「動的過程 (dynamics)」を重視した点も特徴である。他の行動主義は、基本的には刻一刻と変化するような過程というよりは、安定した反応の推移を対象としてきた。ややテクニカル議論ではあるが、現代では複雑な時系列データを扱う方法もたくさん用意されているので、動的な過程を取り上げるのは科学として自然な展開であると思う。

一方、認知心理学では「コンピュータアナロジー」のように、入力–出力関係を固定して考えることが多い。動的に内的状態は推移していることを重視した点も、Staddon の理論的行動主義認知心理学を分ける特徴の 1 つであるしかし、個人的にはこの差異は徐々に埋まっていくのではないかという期待もある。

おわりに

以上、行動主義 100 年の歴史簡単に振り返ってみた。

色々なアイデアはあるものの、基本的現在「行動主義」を標榜している人がいれば、Skinner の徹底的行動主義である。Watson、Hull、Guthrie、Tolman に依拠している者はいない。従って、歴史批判ではなく、科学議論として行動主義批判したければ、Skinner を相手にするべきである

行動主義はとにかく誤解されがちである。それは行動主義心理学者サイドにも問題があるにはあるのだが、科学において、無理解責任基本的には不勉強側に帰せられるべきだろう。

個人的には、アンチ信者より詳しくあってほしい。認知心理学者も、自分たちが寄って立つフレームワーク出自はどこにあって、なにに対するアンチテーゼだったのかをきちんと理解してみたら、何か発見があるかもしれない。

2019-09-03

内田樹氏 日本人の「病」について語る

ある種の「病」に罹患することによって、生体メカニズム好調になるということがある。

だったらそれでいいじゃないか、というのが私のプラグマティズムである

属国」であり、「辺境であることを受け容れ、それがもたらす「利得」と「損失」についてクールかつリアルに計量すること。

病識をもった上で、疾病利得について計算すること。

それが私たちにとりあえず必要知的態度であろうと思う。

健康であろうとしたせいで早死にした人間をたくさん見て来たせいでそう思うのである

http://blog.tatsuru.com/2007/05/31_1136.html

2019-04-21

ところで取り返しのつかないことをしてしまった、と思うことはよくある。

思い出せばそういう体験は今まで幾度となく体験してきたように思える。

学生の頃も就職の時も転職の時もそうだったと思う。

でもそれが過ぎてしまえばそこで何があってもどうにかなる、正確にはそれらがその後の人生に対して何ら影響しないということを感じてしまう。

なんだか最近自分の考えていることが大そうに幼稚になってしまったような気がしている。

しかし幼稚とは何だろう。そう言えるのだろうか?

感じるそのままを受け取るのか、そうではなく一定以上(どのぐらい?)複雑な概念を通して「理解」をするのか。

人間があらゆる概念に縛られてしまうことを承知の上で戦略的な「理解」を形成していくのがプラグマティズムだと思っている。ところでこの考え方の延長上には芸術言語世界から派生したポストモダニズムがあったりするが、これは時代遅れすぎるという話がある。

とはいえ最近、得た面白い考え方がここ数年の悩みを解決しそうである。それは循環参照や循環論理をその内部で分類するというやり方である。この考え方は思いつかなかった。ある概念事象群の諸関係総体として「循環」しているという状態を外部から解決することばかり考えていたが、そのあらゆる「循環」をひとつ一般化せずに個別循環同士を比較していくつかの共通項(ひとつではだめ!)を探ってみる。そうしたときにAとBという「循環」では共通していたものがCでは共通しないという項目があればこれは「循環」内部で分類可能だ。そうなると「循環」を解決するひとつの緒になるかもしれない。

日記というものは久しぶりに書いた。このキーボードなら書くことと考えることが分化されるいるようで便利だ。

よろしくお願いします。

2018-07-08

哲学なんて学ばないほうがいい

いくら知識を身につけても一つの整合した理論に基づいて生きるなんてできない。

あるときプラグマティズムを持ち出し、別のときプラトニズムを振りかざすだけだ。

ソクラテスにはならず思想を食い散らかす豚になる。

ただただ醜い姿である

2018-06-07

anond:20180607114057

ああ、全然理解してないのね。

正義なんて基本道具なんだから、それ自体を追求しても意味ないでしょ。

大事なのは「どう使うか」だけ。

そういうプラグマティズム的な話。

食べ物の例で言うのなら「食べ物とは何ぞや」「満腹とは何ぞや」を問うても意味ないでしょ、ってこと。

2017-11-11

https://anond.hatelabo.jp/20171110182155

御成敗式目は「道理」と「先例」に基づいているというのは中学校とかで習うことだが、これに典型的に表れているのだが、日本では「思想を持たない」というのが思想であるわけだ。武士社会通底する何等かの思想があってその思想法律として表現したものではなかったわけで。

例えば過去中国ではあらゆる法律制度天命思想に基づいていることは当然のこととされていた。この為天命思想確立に力添えをしてきた時代ごとの思想家たちが偉大な思想家として記憶されている。現代中国では天命思想否定されている。しかし、思想に基づき国家統治されるというのは今でも常識であり、だからこそこの前の党大会習近平思想の扱いがどうなるかが注目されたわけだ。

では遠くヨーロッパを眺めてみればどうかと言えば、メルケル発言を見てみればよい。

ヨーロッパキリスト教クラブでないというのは正しい。しかヨーロッパ人権市民権を基本とするというのもまた事実です。そしてここドイツでは、人権市民権キリスト教人間像に重ねているのです

ここでは明確にキリスト教という思想(思想宗教区別する人たちも世の中にはいるがあえて区別する必要はないと俺は思う)に基づいて統治が行われることが宣言されている。だいたいメルケル政党名前からして「キリスト教民主同盟」なわけで。

このような考え方があるため、ヨーロッパにおいても偉大な思想家というのが度々現れる。

思想とはもちろん政治思想だけを指すのではない。だが、個人生き方という面でも日本では思想は明確に否定される。状況に応じて態度を切り替えられる人間が通常日本社会ではまともな人間として扱われるのであって、強固な信仰思想に基づいて一貫性のある立場を取ろうとする人間はあまり高く評価されない。究極のプラグマティズムであり、究極の事大主義だ。

こうした社会においては「偉大な思想家」は存在し得ない。このような社会の状況を言論表現する学者過去様々に存在していたが、当然ながらそのような人たちは記憶されることもない。

一向宗創価学会など政治的に大きな影響を振るった新興宗教いくらかあったが、結局のところ日本社会伝統に破れていった。石山合戦織田信長勝利に終わったし、公明党池田思想を捨てて自民党改憲軍拡追従する勢力となった。その自民党にしたところで明確な戦前回帰のような思想があるわけでもなく(故に日本会議イデオローグたちは安倍政権批判である)たんに「アメリカに言われたから」とか「北朝鮮が」「中国が」などという状況に反射的に対応しているにすぎない。

2017-06-24

底辺のガキとか関係いからね

https://anond.hatelabo.jp/20170624022831

この“若者気持ちがわかる増田”の言ってる事は極めて的外れ

あんものは「対案を出せ」「批判の為の批判」と同じ流れのプラグマティズムであって

連綿と続く自民戦略でしょうよと。


例えば今井絵理子ツイートとほぼ時を同じくしてYahooトップにはこんなニュースが出ていた。

政策課題後回し 都民冷ややか | 2017/6/23(金) 13:57 - Yahoo!ニュース

このニュース、当初は「他党批判ばかり 都民冷ややか」なるタイトルが付けられていたが

なぜか1時間ほどで現在の「政策課題後回し 都民冷ややか」に変更されている。

google:他党批判ばかり 都民冷ややか


記事を見ればわかる通り「底辺」も「ガキ」も関係なく大人文脈で使われている「批判」だ。

勿論、今井絵理子の生い立ちなどなんの関係もない。

そもそも「○○なき××」をなぜ彼女が考えた自身の語彙だと思えるのか。


ちなみにバイヴスあげるのが好きな底辺若者はサウンドクラッシュMCバトルなどディスを楽しんでるし

つの時代も何かにつけて文句言いたい叫びたいのは若者習性です。

2016-08-02

「数式アレルギー文系なので」

novtanがずいぶん好意的解釈をしてたけど、知的向上心のなさが問題ならそう言えばいいだけで、

文章術の本で一意に捉えられるようにしろとか熱弁してたくせにやらかしてんじゃねぇかとツッコまれてもそりゃあ仕方ないよね。

数式アレルギーというだけで他の学問コミットしてる可能性は排除できない以上、知的向上心を欠く大人なっちゃダメだぞは指摘として間違いだ。

この発言問題点って、ただ単純にアレルギーというワードチョイスがどうなのかってくらいで、結城氏の批判的外れすぎる。

文系バカにするな、というのもこの文に対してはおかしい。

文系から数式アレルギーなので」に対してならば成立するが、「数式アレルギー文系なので」は数式アレルギーでない文系存在否定するものではないので成立しない。

論理解説する本を出してる人がこれでは若者に悪影響ではないだろうか?

これから時代、数式は必要からやらなければならないというプラグマティズム観点から発言をしているが、

これは逆説的に数式が必要ない人はやらなくていい、ということにもなってしまう。

さて、これから時代を生きていく人のどれくらいが数式を必要とするだろうか。

また、数式という叡智の積み重ねに~という発言に関しても疑問が浮かぶ。

なぜリスペクトする必要性があるのだろうか。したからなんだというのか。ただの自己満足ではないか

ではブコメを見てみよう。

http://b.hatena.ne.jp/entry/rentwi.textfile.org/?759297917043609600s

tockri 僕も自分不勉強で苦手なことをヘラヘラ笑いながら「よくある多数派」にラベリングしてその対象を貶める人が嫌いです。ブコメ中の的外れ率がものすごい高くてびっくりした。

上記のとおり文系を貶めてるわけではないので的外れ

hate_flag 数式がわからないなら「わたくし不勉強でこの式の意味がわからないのです」と正直に言おうよ。不勉強なのをありもしないアレルギーのせいにするのは不誠実だし数学に対して失礼だ。

しろわかりませんの後に出てくるフレーズだと思うが。むしろこれは「苦手なので費用対効果が悪くやる必要性がない」というメタメッセージにも受け取れる。

それから数学に対して失礼」などという謎フレーズ。お水にありがとう

watchcat そもそも人は日本語もきちんと読めない。ここのブコメ達が良いサンプル。大半は的外れ批判しかしてないしね。そして日本語不自由なのに数式なんて読もうとするわけがない。だから敬意なんて持たない。

okureiman スター集めてるブコメ反論レベル低すぎてわろた

典型的な匂わせ文。抽象的な言い回しだけでマウンティングを取ったコメントしか放れない人間が語る誠意とは。

後者は2ブクマしかなくて顔真っ赤にした誰かのサブ垢かと疑うレベル

gcyn えっ、なんでこれこんなにも否定的コメントつくの?って思った。悪いけど、ご自分の卑屈を他人の汚点に転化してるからではなかろかしら。

touch_my_tralala 数式が苦手でかつ怒りっぽい人ってこんなにいるのかって、ブコメみて驚いた。なんかコンプレックスでもあるのかな。結城さんの言ってることは結構まともだと思うんだけど。

ophites 「俺も昔はワルだった」「自分不器用でして」が実際は「ガリ勉より俺の方が人として上」「要領だけ良いズルい奴と俺は違う」を意味するように、卑下のふりした自慢なんだよな。できないのは仕方ないがそれを誇るなよ

で、出た~他人脳内空想決めつけ発言くりかえすやつ~

他人投影防衛機制指摘したところでおまえがそう決めつけていい世界にお住まいならおまえの意見こそが投影防衛にすぎないと決めつけていいよねと返されて負けるタイプ、許されるのは20歳までだぞ☆

t-tanaka これに限らず,知らない・できないということを特権のようにふりかざして,相手に譲歩を求める行動が世の中で通用してしまっているのか腹立たしい。

実際にしらないできない他人コストをかけさせてやらせようとするのを拒否される=俺に譲歩を求めてくるなら所詮レベルじゃないっすか~

yu173 誰にでも得意分野がーは反論にならない。不得意だろうが数式を蔑ろにするなという話でしょ。この手の話題になると理系文系区別することの害をブコメから見て取れる

なるよ。ひとつめに数式アレルギーイコール知的向上心否定にはならない、ふたつめにすべての人が必要ではない以上、コストパフォーマンスを考えて得意分野にコミットして数式を蔑ろにする選択は十分にありうる、ということで十分な反論になっている。

matarillo 《あなたがわからないのはいいよ。あなた理解したくないのはいいよ。若者にそれを推奨するなといいたい。》《大人真剣勉強しよう。》ってあるのに★ブコメは何を読み取ったんだろう。

推奨という論理飛躍や勉強していないという決めつけ、わからないのはいいと言っておきながら歴史ある知である数学リスペクトしろというテメーの価値観の押しつけを読み取ったのではないでしょうか。

unagi_dayo 「数式アレルギーなんで」「文系でして」「自分馬鹿なので」等と言って何かを理解すること・考えることを放棄する行為は不遜だし周囲の若者に悪影響を及ぼす。分からないこと、苦手なことが悪いのではなく態度の問題

数式アレルギーでも他の分野の学問理解する方にコミットしていれば何の問題もない。コストパフォーマンス問題英会話教室の入会アプローチのような強迫圧力をかけて数式を理解する必要のない若者にまで数式は理解しなければならないと押しつける方が悪影響。日頃から文系はムダと明言している理系はたくさんいるが、数式がムダは一切みとめようとしない態度はなんの問題もないのだろうか。

watapoco 数字を扱う仕事をしてる人間として無茶苦茶同意。いや、わからんはいいのよ。こういう台詞はく人できる人へのリスペクトがないの。

どこをどう飛躍させるとリスペクト云々になるのだろうか。あと誤字脱字のまま書いてもいい推敲しないで書いてもいいと思わせると若者に悪影響だぞ。みんなもっと叱れよ。

kaputte 同意しまくり。言葉をいい加減に扱う奴は信用できない。この文章は数式や漢字が読めない奴を叱るとかそんな話じゃないんだが、これを理解しない層=怒りの矛先だと思われるので、勝手に誤解するしいろいろ不毛

アレルギーというワードチョイスにはたしか問題あると思うが、これも匂わせ文。言語化せず逃げに走るのは若者にとって悪影響。「勉強不足を恥じろよ。若者自分レベルまで落とそうとするなよ。」えっ?どんな話だって

marmot1123 想像以上に批判的なブコメが多くて驚いた。自分は完全同意自分勉強しなくてわからないのはいいけど、他の奴らが勉強しない方に巻き込むなって話。難しいから逃げるんじゃなくて丁寧に読もうよって話。

巻き込まれるようなバカを殴る方向にシフトすべきだろ。そもそも勉強する必要性がない人だっているんだから

okachan_man 文系だけど、自虐じゃなく本気でそんなセリフを言う人はただのバカだと思うよ

上述のとおり、お世辞とかコスパ考えて投資する必要性がないの言い換えにすぎないとも考えられるからなぁ

おはように早くねーよ!とかお疲れ様ですに疲れてねーよ!みたいなアスペ臭が漂う。

アレルギーというワードチョイス一点突破ならここまで批判されなかったろう

satomi_hanten 結城センセっぽくないけど「大人には」って明記してあんのすら読まなかったり理解する意思を見せない人間にはなりたくないのは1000%同意

書いてあるとなんなのかまったくもって意味不明

araignet2内容以前に結城氏のこれまでの著作活動に対する全くの無知しか思えないコメントにげっそりする。

しろ今までの著作活動台無ししか思えないけど。自分文章術の本をもう一度読み返したらと思う。数学尊敬しない人に対して尊敬しろ尊敬しろ尊敬しろ尊敬しろと思っているというイメージ数学ガールたちにさよなら絶望先生久米田康治登場人物並の闇を感じさせてしまうだろう。

2016-08-01

初めて知ったが、面白い試みかも。

しか書きかけの本を公開できて、完成度が上がるにつれ最初ただで読めてもだんだん値段あげていくサービス、金を払い続ける人がいたらこの本完成しますよみたいなのがあったが、この試みとは相性いいかも。コメントgitが挙がってるけど、ブランチ分けたりとかを見越してそういうの利用するのもいいかも。

僕は全然哲学とか専門じゃないので、細かくは語れないだろうけど、インターネット上のプラグマティズム(でいいのかよく分からんが)みたいなのがあるといいかなと。

最近よく目にするのが、自由すぎると人間かえって損をしてしま場合が多いという主張。これについて語れないだろうか。以前よりサイバーカスケードデイリーミー、デリートユーなどの言葉があったが、ユートピア幻想が、そこで描かれている世界が実現に近づいてくると、かえって良くないディストピアだ!となったように、自由すぎて目の前の事をコツコツやっていればそれなりに幸せだったみたいな人が、変な選択肢に手を出してしまい、失敗して落伍者なるみたいな。

…て書いてるうちにこれは社会学とかの範疇?と言う気がしてきた

http://anond.hatelabo.jp/20160731214314

2015-12-26

しか人間の貪婪(どんらん)さは、地方領主はるかに上回る。
地方領主は、王の代理人に地方管理させないだけだ。
ところが人間は、自分の生み出した宇宙存在すら忘れてしまう
―寄生虫が宿主のことを忘れているように。
それどころか人間は、大地は安定しているという幻想を、第一の原則とすることで、
自分の周囲の世界さらに閉じようとするのである人間はすべてをみずからの弱さに還元したがるのだ

ジョルジュ・バタイユ

抽象化した自己に対する誤解のある批判

プラグマティズム

2014-11-09

奥ヒダ

現実を見ることは大切なものですよほんとに。夢見る少女じゃいられないわけです。

いま求められているのは、物事総合的に判断できる人材です。分かりますか?


学問の学際化も進んでいます。これから生物物理化学なのです。

生物物理化学 - Wikipedia

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E7%89%A9%E7%89%A9%E7%90%86%E5%8C%96%E5%AD%A6


世の中正しさよりも目先の利益が優先されてきたわけです。その場逃れの手っ取り早い方法ばかり重宝される。

でもそれは付け焼き刃にすぎないですから、その限界が出てきた時代と言えましょう。


人間のあらゆる価値判断がそうなのです。例えば人物評価を考えてもごらんなさい。

あの人はすごい人だ。あの人は優秀だ。あの人は人格者だ。そんな評価があてになりますか?

「お賃金」とタイピングしたらGをTと押し間違えて「おちんちん」になった。修正するでしょう?

でも人物評価には正解がありませんからおかしいと言われても「常に」修正しないわけです。これがいけない。


物事には両面性があるでしょう。賛成と反対に分かれて議論しても建設的な答えは見つかりにくい。

なぜなら、賛成派は賛成派に都合の良い事実論理だけを用いようとし、反対派もまた同様だからです。

両面を見て判断する人間がどこにもいない。これが社会システムセキュリティホールなのです。


冒頭に述べたように人は生きていく上で現実を見ないといけません。そうですよね?

同様に、社会システムも存続する上で現実を見る必要がございます

そして、現実理解があってこそスムースシステムは成長するのです。


私は物質文明否定的なので経済成長を善しとはしません。

しかし、それはあくま個人的見方です。よく考えてもみてください。

システムが未知の解決すべき問題に直面するのは経済問題に限りません。

ありとあらゆるシーンで、成長は必要とされるということです。視野を広く持たねばなりません。


ですから、成長のために「あらゆる」現実理解必要なわけです。

狭い範囲ばかり観測しても仕方ない。少ない変数ばかり観測しても仕方ない。

目先の利益だけを追っている人に足りない視座はこれなのです。


さらに言えば、「夢」の扱いにも若干の語弊があるように思えます

曰く、「夢は叶わないから夢なんだ」「夢より目標を持て」「でもないよりはあったほうがいい」。

じつに巧みな言葉遊びです。結局、「夢」が何を指しているのか、それは有耶無耶なままです。


言葉の上で明晰判明だからといって、あくまでそれはモデルです。理論です。

現実理論通りにいけば苦労しません。どんなに美しく正しそうな理論でも現実とのズレがあるものです。

実験物理学人間ならば痛感していることです。

まだまだプラグマティズムが浸透していないなあと思います


dankogaiはさまざまな事態にそなえ仕掛品を作ることを推奨しています

当然仕掛品有効性はテストします。じつにプラグマティックです。さすがは私たちヒーローです。

加えて言えば、さまざまな事態にそなえたtipsも見つけておくべきでしょう。


こういった芸当をやってのけるには、夢ばかり見ていては駄目。現実ばかり見ていても駄目なのです。

もちろん夢や最終目標の設定は大切かもしれません。現実を見ることは間違いなく大切です。

ですが、それのみでは根本的な成長は見込めないことでしょう。


現実を見た上で、その一歩先を見つめ続ける必要があります。それも、目先の利益にとらわれずに、です。

それが、さまざまな事態にそなえた仕掛品tips作成という1つの思想なのです。

株式投資をやり始めた人が、勝ち組へと成長していくかどうか分かつターニングポイントがそこなのです。


理想主義現実主義の人にはこう言っておあげなさい。「現実的成長は見えているのですか?」と。

自分言葉で成長を語れない人間にはやはり、現実的成長が見えていません。

それでは、現実的成長の広い可能性から、独創的に現地味ある「夢」を見いだしていくことも叶わないわけです。


夢がない、やりたい仕事が見つからないと嘆いている人が沢山いますね。

彼女らに足りないのは精神論ではありません。もちろんカウンセリングでもありません。

プラグマティック思考なのです。

2011-03-17

http://anond.hatelabo.jp/20110316235051

自分天皇制擁護なのはプラグマティズムの観点からです

現状では例えば廃止を強行した際、それで起きる混乱が現状のデメリットを遥かに上回ると思うので廃止反対というだけです

(ちょっと考え難いですが)10年後には天皇制廃止論者になっているかもしれません。状況次第ということです

政治学ではあらゆる政治思想に優劣を認めませんので、自分のような政治学専攻者にはこういう考え方の人間が多いと思います。

2011-01-19

http://anond.hatelabo.jp/20110119230528

そこで取り扱う「文法的な正しさ」というのは、矛盾なく日本語を構築できる体系を目指そうというものであって、「正しい文法と間違った文法」を振り分けるものではないでしょ?

いや、だとしたらそれは構造―構築主義者たちの学問で、「国語学」ではな構造主義以降の範疇に入りますよ。

それは普通に言語学」にも通じる、ネオ~系の学問。まぁ、その考え方は構造主義以後にプラグマティズム的な発想をした

研究者達のものでしょう。エスペラント語と発想は同じ。ごく普通言語研究でしょ。

でも、「国語学」と敢えて名乗るならそれは当然そういうものではなく。

敢えて、『正しい国語』を追い求める学派なんですよ。だから国語学(≠日本語学)で扱う文法には「正誤」がある。

あれは自国言語におけるキャノンを問題にする学問から。何度も言うけど、神学なんですよ一種の。

これは文学研究にも言えて、「国文学研究」って言うのは未だに「作品に込められた意味」を探る意味論的批評をやるんですよ。

もちろん、彼ら自身もそれが時代遅れ学問であることはわかっている。しかし、「国家」というイデオロギーが有効に機能している

以上、それは必要とされている。だから存在するジャンルが、国語学であり国文学研究なんですよ。

文学研究」や「言語学研究」と名乗れば済むところをさらに細分化しているのはそういう理由からです

別に、研究者自身の思想が「保守であるとは限りませんが、存在完璧に「保守ですよ。

だって国家イデオロギーなくしては存在しない研究ジャンルなんですから。これを保守と呼ばず何を保守というか、みたいな。

橋本文法が「正しい」わけじゃないんだけど、それを「正しい」と定義する学問が必要なんですよ、国家のために。

2009-09-02

脳科学(笑)批判 【スキナープラグマティズムの再検討】

脳科学に対するスキナー心理学の優位】

スキナー心理学の特徴は結果さえでれば内的な処理を問題にしない点にある。

■「林檎を食べれば、空腹が治る」重要なのはこのことであって

■「どうして林檎を食べると空腹が治るのか? 内部でどのような処理が行なわれているのか?」

そんなことを知ってどうなるのだろうか?

脳科学などに取り組むよりも、林檎が有益であることがわかればそれで十分で、林檎を植えたほうが良いというのがプラグマティックな判断ではないのか。

脳科学は「どうして○○を善だと我々は思うのか?」「なぜ林檎を美味しいのか」といった常識生理現象から詳しく説明するだけであって

倫理的生き方を促すものではない、とプラグマティストは批判する。

この空虚脳科学ブームを切り上げ、スキナーに立ち返り「行動・実践」を重要視すべきではないだろうか?

2008-12-09

[]匿名ダイアリー、字小さくて書きにくい

http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20081208/1228726052

普通に、知らんやつに、「お前」とか命令形で言われるのは儀礼的におかしいと思うのだが、それでも「無限の応答責任」が生じるのが「知識人」というやつか。それこそもう一度問うが「そもそも、なんでネット馬鹿どもとコミュニケーションなんかしなきゃいけないんだ。 」

http://twitter.com/naoya_fujita/status/1042662107

 なるほど、なぜだろうか。言葉遣いの悪い「言論的な野蛮人」をコミュニケーションの外に排除してはいけないのは。では、どっちもどっちで片付ける「論理的な野蛮人」をコミュニケーションの外に排除してはいけない理由はなんだろうか。

そもそも「ツイッター」というつぶやきサービスミクシィは公共的なのか。私的/公的という範疇が融解しているから、なんでもかんでも「公的」にすんなよ、別けろよ、という僕の思想というか主張があるのだが、君たちは「藤田直哉」の思想について不勉強無知馬鹿だ。

http://twitter.com/naoya_fujita/status/1042663811

 たぶんこれはメディア論(かっこわらい)の人たちが「じゃあなんで『私的』なことなら大学ノートに書かず『知らんやつ』が読めるところに書いてんだよ」っていうのにうまく答えられなかった程度の話でしょう。無論そんなこと、君の思想を逐一知ってる義務はないということ程度に、知ってる必要ないことだけどね。

 逐一、発言を拾っていくつもりだったけど、めんどくさいから止める。

 まずあの、

基本的な立場として僕は「南京はあったし数は30万は行き過ぎだけどそこそこはあっただろう」ということをまぁ認めるよ、という立場です。

 「30万は行きすぎだけど」ってところだけれども、君にそれを判断できるほどの情報があるわけ?((ぼくにはないよ))南京事件以前の南京城内外の人口がどれくらいで、南京事件以後の非難区、非難区以外の城内外がどれくらい、とかそういうことを踏まえたうえで言っているわけ?『南京戦史』であるとか、南京事件資料集((その手のはわりと多いので、どれと具体名を挙げるのは遠慮させていただく))であるとかを熟読してそういっているわけ?

 無論、そんなわけないでしょう。この人がそう言っているのは、『バランス感覚』、(別に誰が見るというわけではないだろうけど)誰もが納得してくれる『おとしどころ』としていっているわけでしょう(その『おとしどころ』で不興をかっているわけだけれども)。だいたい、君はその正当性の担保をどこに求めるつもりだろうか。言説に「善」(つまり道理)はないのに「正」(つまり公正さ)があるとでも言うつもりなんだろうか。であるならば、言説の公正さとは何で、誰がそれを決めるんだろうか。それとも、君に対して礼儀正しいか、そうでないかが、公正さの基準なの?

 ある程度の確からしさがあると認めるのであれば、そこにも強度があると考えれないだろうか。つまり、この確からしさは、あの確からしさよりも正しい、と。その『確からしさ』とあの『確からしさ』はどちらも確かではないから、一緒だ、排除してしまえる、とするのは実に非科学的で暴力的な態度でしょう。

 そもそも、こんな風に「公正さや正義を無視するものはコミュニケーションから排除してしまって良い」という風なアメリカ的なポストモダンプラグマティズム((想定するのはローティフィッシュだ))をマルクス主義者を自称するぼくが振りかざして、あらゆるものにコミュニケーションは開かれるべきだ、というような(野蛮なコミュニケーション的理性を基にする)原則論理念ポストモダニストを自称する人たちが振りかざすというのは矛盾した話だと思うけど。

 『デリダ的に言うならば』、こんなふうにテーゼがあってアンチテーゼがあってジンテーゼあるというような弁証法的なものの考え方自体がどうなんだろうか。飲み会(ある種の『問答』だな、無論皮肉で言ってるんだけど)なんかでクダを巻いてそれで『思想』((ゼロアカの、でも、ロストジュネレーションの、でも、好きな接頭句を入れてくれよ))を作り上げてしまう、そんな馬鹿みたいな真似がどうかということだ。

 
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