今持っている若さというものは、何にも変えがたいかけがえのないものだと常々思うのだが、私はこれの有効活用法を知らない
きっとあと10年経てば、シワやシミのない肌、徹夜ができる体力、選びとれる人生の選択肢、どれも心底羨ましいものになるのだろう。
しかし、友人の1人も作ろうともしなかった中学時代を今の自分が悔いているかと言われると、それほどでもなく
あの時の自分にはあれが限界で、人生を繰り返すことになってもやはりぼっちになるのではないかと思う。
今の私には今の私なりの辛さがあり、中学生の私には中学生の私なりの辛さがあった筈だ。
小学生の私の気持ちは中3に、中学生の私の気持ちは高3の頃に、思い出せなくなってしまった。まだ大学生の私は残っているけれど、3年も経てばわからなくなるだろう。
自己同一性とは記憶の貫きだと言うが、事象の表面的な記憶はあっても、その当時の気持ちの記憶がないという点では、中学生の私と今の私と10年後の私は別人なのではないかと思う。今私が私だと思っているものは、数年で失われ、新しい自分が新しい別人を育てていくのだ。私というものは、時間によって分断され、不可逆に更新され続ける。
今の私が無駄にしている若さというものは、私だけのものであり、未来の私という別人にははなから所持していたことのないものである。
ときに、女の子でいられてよかったと思う。スカートを履けて、髪を伸ばせて、可愛いものを好きでいられてよかったと思う。鏡に映る自分が腰のくびれた女の子であってよかったと思う。いくらお金と名声があっても、鏡にホリエモンが映る人生は嫌だ。そういうとき、並行世界で男をやっている私に、少し同情する。おっさんになるのは可哀想だ。でもときに、男だったらと思うこともある。女という属性はでかいリボンを常につけているように鬱陶しく、私には似合わない気がする。だから、そういう時は並行世界の男の私が羨ましい。
これぐらいの距離感、並行世界の私とぐらいや距離感で過去の私とも未来の私とも付き合いたいと思う。
縦横に重なる糸の、別の一本の上にいる私同士として。不可逆な別人として。